第八十六話 心臓の音
##第八十六話 心臓の音
ジンは、子ども用の椅子に座ったまま動かなくなった。
眠っているわけではなかった。
起きているとも言えなかった。
靴棚の名前を見たまま、目だけが開いている。
小さな靴。
内側に書かれた名前。
ひらがな。
少し歪んだ文字。
帰ってくるための印。
ジンの手は、胸の内側にある写真の上に置かれていた。
防水袋の中の、楠の絵。
その紙を折らないように、しかし離せないように、手のひらで押さえている。
めぐみは、玄関の段差に座ったまま、その手を見ていた。
握らない。
取り上げない。
写真を見せてとも言わない。
ただ、そばにいる。
えりは玄関の横に立っていた。
外を見ている。
人の気配。
車の音。
角を曲がる影。
全部を拾いながら、ジンの呼吸も聞いている。
「落ちるね」
えりが言った。
めぐみは、ジンを見る。
「……気絶?」
「違うと思う」
「……眠るの?」
「たぶん。身体が勝手に切るやつ」
えりは近くの職員に目だけで合図した。
職員が奥から薄いマットと毛布を持ってくる。
足音は小さい。
誰も声を出さない。
玄関の奥に置くのではなく、段差のすぐそばに広げる。
中ではない。
外でもない。
名前がある場所の入口。
ジンがまだ越えられない線の近く。
めぐみは小さく頷いた。
「……ここでいい」
「中じゃなくて?」
「……うん」
「起きた時に怒るかもね」
「……ここなら、まだ選べるから」
えりは鼻で息を抜いた。
「相変わらず面倒な優しさ」
「……そうかな」
「褒めてない」
「知ってる」
ジンの身体が、少し傾いた。
えりが支える。
めぐみも手を添える。
強くない。
導く程度。
倒れないように。
壊さないように。
彼の身体は重かった。
戦った男の重さ。
眠っていなかった男の重さ。
名前を持ちすぎて、どれも持てなくなった男の重さ。
マットの上へ横たえるまで、ジンは一度も抵抗しなかった。
抵抗できなかったのではない。
たぶん、抵抗する場所が見つからなかった。
めぐみは、彼の頭の下に畳んだタオルを入れた。
首が苦しくならないように。
えりは靴を見た。
「脱がせる?」
めぐみは少し考えた。
ジンは、靴を脱げば入ったことになると言った。
その線は、まだ彼の中で生きている。
「……今日は、そのままで」
「床、汚れるよ」
「……あとで洗う」
「はいはい」
えりは、ジンの足元に新聞紙を敷いた。
泥が床に落ちる。
黒い泥。
岡山の山道の泥。
施設の玄関には似合わない。
それでも、そこにあった。
めぐみは、泥を見ても何も言わなかった。
泥は、ここまで来た証拠だった。
ジンの呼吸が、少し荒くなった。
眠りに落ちる直前、身体がまだ抵抗している。
完全に力を抜くことを拒んでいる。
めぐみは、ジンの指先に触れた。
ほんの少し。
爪の横。
硬くなった皮膚。
冷たい。
思っていたよりずっと冷たい。
「……ここにいるよ」
めぐみは言った。
名前は呼ばない。
戻れとも言わない。
眠れとも言わない。
ただ、いることだけを置く。
ジンのまぶたが、少し下がった。
まだ閉じない。
めぐみは、指先を離そうとした。
その瞬間、ジンの指がわずかに動いた。
掴んではいない。
止めてもいない。
ただ、離れることに気づいたような動きだった。
めぐみは、指をそのまま置いた。
「……うん」
低く、やわらかく。
「……離さないよ。今は」
えりは外を見たまま、何も言わなかった。
今の言葉は、黒崎に聞かせたくなかった。
紙にも残したくなかった。
ここだけの音でいい。
ジンの目が閉じた。
ゆっくり。
警戒しながら閉じる目ではなかった。
負けて閉じる目でもなかった。
身体が、もう限界だと決めた閉じ方だった。
めぐみの指先が、ジンの指に触れている。
玄関の奥では、職員が水を置いた。
音を立てないように。
子どもたちは奥にいる。
誰も見に来ない。
靴棚には名前が並んでいる。
その前で、ジンは眠りに落ちた。
初夏だった。
空は高く、まだ夏になりきっていない青さをしていた。
美術室の裏に、大きな楠があった。
学校を守るように立っている木だった。
幹は太い。
根は地面を押し上げるように広がっている。
根元の一部は、座れるほど丸くなっていた。
誰かが作った椅子ではない。
長い時間が、偶然そこに作った場所だった。
葉が風に揺れる。
さわさわ、と鳴る。
光が葉の間を通って、制服の上に落ちる。
白いシャツに、緑の影が斑に揺れる。
なおは、そこに一人で座っていた。
膝を抱えている。
土の匂いがする。
少し湿った根の匂い。
楠の葉の、少しだけ鼻に抜ける青い匂い。
遠くから、部活の声が聞こえる。
ボールを蹴る音。
誰かが笑う音。
美術室の窓から、絵の具と水の匂いが流れてくる。
なおは、自分の手を見ていた。
大きくなりかけの手。
まだ大人の手ではない。
力はある。
でも、何を支えられるのか分からない。
何を守れるのかも分からない。
強くなりたいと思っている。
でも、何のために強くなりたいのか、まだ言葉にならない。
その時、足音がした。
軽い足音。
急がない足音。
なおは顔を上げなかった。
誰かは分かっていた。
分かっているのに、顔を上げるのが少し怖かった。
スケッチブックを抱えた少女が、楠の根元まで来た。
一つ上の先輩。
少しだけ背が低い。
でも、なおよりずっと静かに立っている。
彼女は「どうしたの」とは聞かなかった。
「元気ないね」とも言わなかった。
ただ、スカートが汚れるのも気にせず、なおの隣に座った。
肩が触れそうな距離。
触れてはいない。
でも、離れてもいない。
彼女の髪から、石鹸の匂いがした。
少し甘い。
清潔で、やわらかい匂い。
楠の青い匂いと混ざって、なおの胸の中に残った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
葉の音だけがあった。
さわさわ。
遠くの部活の声。
美術室の水道の音。
彼女がスケッチブックを膝に置く音。
それだけ。
沈黙は、責めるものではなかった。
隣に置いてもらうものだった。
彼女は、なおの横顔を少しだけ見た。
それから、自分の膝をぽんぽんと叩いた。
「……ん」
なおは、ようやく顔を上げた。
彼女は少し困ったように笑っている。
「……ここ、空いてるよ」
なおは目をそらした。
「いや、いいです」
「……うん。いいんだね」
彼女は怒らない。
からかわない。
それが余計に困る。
「……でも、空いてるよ」
「先輩」
「……なあに?」
「そういうの、普通しません」
「……そうかな」
「そうです」
「……じゃあ、普通じゃなくていいかな」
彼女は、また膝をぽんぽんと叩いた。
なおの耳が熱くなった。
逃げようとした。
けれど、逃げるほど嫌ではなかった。
嫌ではないことが、もっと恥ずかしかった。
彼女は、なおの頭にそっと手を置いた。
力はほとんど入っていない。
押さえつける手ではない。
こっちへおいで、と聞いている手だった。
「……男の子はね」
彼女の声は少し低かった。
いつもより近い。
「……たまには、目をつむって、お休みしなきゃだめだよ」
「俺、子どもじゃないです」
「……うん」
彼女は頷いた。
「……子どもじゃないね」
なおは、その返事に言葉を失った。
否定されると思っていた。
からかわれると思っていた。
でも、彼女はそうしない。
「……でも、休んでいいよ」
その言葉が、なおの中の硬いところに触れた。
なおは、少しだけ身体を傾けた。
彼女は急がない。
引っ張らない。
ただ、手を添えている。
なおの頭が、彼女の膝の上に乗った。
太ももの柔らかさ。
制服越しの温かさ。
陽だまりの匂い。
石鹸の匂い。
楠の葉の音。
なおは、息を止めた。
彼女の手が、前髪をそっと分ける。
指先が額に触れる。
冷たくない。
熱すぎもしない。
その温度だけで、胸の中のざわつきが少し遠くなる。
「……うん」
彼女は、なおを見下ろしていた。
「……いい子にしなくていいよ」
「してません」
「……うん。してないね」
「強くなります」
なおは、目を閉じたまま言った。
急に言葉が出た。
「もっと強くなって、いつか先輩を支えられるようになります」
葉の音が、一瞬だけ大きく聞こえた。
彼女の指が止まる。
なおは目を開けた。
上から見下ろす彼女の目が、光を受けていた。
木漏れ日が、瞳の中に揺れている。
彼女は少し驚いていた。
それから、頬をほんの少し赤くした。
「……うん」
小さく。
でも、ちゃんと聞こえる声で。
「……ありがとう。……嬉しいな」
なおの胸が、痛くなった。
嬉しいのに痛い。
痛いのに逃げたくない。
彼女は、なおの手首に触れた。
細い指。
でも、逃げない指。
「……でもね」
彼女は、少しだけ言葉を探した。
「……今のあなたも、ちゃんと、かっこいいよ」
なおは何も言えなかった。
「……強くなる前のあなたも」
彼女の声が、少しだけつっかえる。
「……私は、ちゃんと見てるよ」
木漏れ日が揺れる。
葉の影が、彼女の頬を通り過ぎる。
なおは、彼女の手首をそっと掴んだ。
強くない。
離さない程度。
彼女は逃げなかった。
掴まれた手を、ゆっくり握り返した。
その手の温度が、なおの手のひらに残る。
手。
重なった手。
離してはいけない手。
彼女は片手でスケッチブックを開いた。
なおの頭を膝に乗せたまま、もう片方の手で鉛筆を持つ。
さ、さ。
さ、さ。
鉛筆が紙の上を走る音。
葉の音と混ざる。
遠くの部活の声と混ざる。
彼女の心臓の音が、なおの耳の近くにあった。
とくん。
とくん。
最初は、それが何の音か分からなかった。
でも、だんだん分かる。
生きている音。
隣にいる音。
どこにも行っていない音。
なおは目を閉じた。
「先輩」
「……うん?」
「寝たら、起こしてください」
「……起こさないかも」
「困ります」
「……うん。困るね」
「先輩」
「……なあに?」
「手」
彼女は少しだけ首をかしげた。
「……手?」
「離さないでください」
言ってから、なおは恥ずかしくなった。
目を開けられない。
彼女は笑わなかった。
からかわなかった。
ただ、鉛筆を置いて、なおの手に自分の手を重ねた。
「……うん」
低く、やわらかく。
「……今は、離さないよ」
楠の葉が揺れた。
光が落ちる。
彼女の手がある。
心臓の音がある。
鉛筆の音がまた始まる。
さ、さ。
さ、さ。
なおは、その音の中で眠った。
現実の玄関で、ジンの指が動いた。
めぐみの指先に、ほんの少しだけ触れ直す。
眠ったまま。
探すように。
めぐみは、そこで初めて少しだけ身を寄せた。
抱きしめるほどではない。
覆うほどでもない。
ただ、心臓の音が届く距離に。
ジンの耳の近くに、自分の身体の音が届くように。
とくん。
とくん。
玄関には、靴棚がある。
子どもたちの名前がある。
泥のついた靴がある。
落ちた涙の跡がある。
その中で、めぐみは静かに呼吸をした。
ジンの呼吸が、少しずつ深くなる。
最初は一度だけ。
次に、もう一度。
肩の力が、わずかに抜ける。
眉間のしわが薄くなる。
写真を押さえていた手の力も、少しだけゆるむ。
えりは玄関の外を見ていた。
それでも、その変化に気づいた。
「寝たね」
小さく言う。
めぐみは頷いた。
「……うん」
「深い?」
「……たぶん」
「起こしたらまずい?」
「……今は、起こしたくないかな」
「同感」
えりは、職員に小さく合図した。
廊下の明かりをひとつ落とす。
奥の扉を閉める。
玄関の風が直接当たらないように、薄い布をかける。
鍵はかけない。
閉じ込めない。
でも、外からは見えにくくする。
めぐみは、近くにあった小さなスケッチブックを手に取った。
今ここで描くつもりはなかった。
でも、指が自然に紙を開いた。
鉛筆を持つ。
ジンを見ない。
見張らない。
彼の寝顔を自分のものにしない。
ただ、隣で日常を続ける。
さ、さ。
鉛筆が紙をなでる。
えりが振り返った。
「描くの?」
「……うん」
「今?」
「……音、あった方がいい気がして」
えりは少しだけ黙った。
「目次だけじゃ分かんないやつだね」
「……えりさん?」
「なんでもない」
めぐみは、鉛筆を動かす。
さ、さ。
さ、さ。
大きな線ではない。
細い線。
玄関。
靴棚。
子ども用の椅子。
眠る男。
その近くに座る影。
楠は描かない。
まだ描かない。
ここは、楠の下ではない。
でも、少し似ている。
根元のように、人が休める場所。
木陰のように、急がなくていい場所。
名前がある場所の入口。
ジンは眠っている。
戦うための眠りではない。
次に動くための仮眠でもない。
警戒の隙間で盗む眠りでもない。
ただ、落ちている。
めぐみの指先が、彼の指に触れている。
近くで、心臓の音がしている。
鉛筆の音がしている。
とくん。
とくん。
さ、さ。
さ、さ。
夢の中で、なおは楠の下にいた。
先輩の膝の上で、目を閉じている。
手は重なっている。
離れていない。
彼女の声がした。
「……起きなくていいよ」
葉が揺れる。
「……今は、まだ、寝てていいよ」
なおは、返事をしなかった。
しなくてよかった。
返事をしなくても、そこにいられた。
現実のジンも、目を覚まさなかった。
名前も呼ばれていない。
帰ってきたとも言われていない。
まだ、何者なのかも分からない。
それでも、逃げなかった。
起き上がらなかった。
処理に戻らなかった。
黒瀬を追わなかった。
銃声を探さなかった。
ただ、眠っていた。
めぐみは、鉛筆を止めた。
ジンの指が、ほんの少しだけ温かくなっている。
それを感じて、目を伏せる。
泣かない。
呼ばない。
褒めない。
ただ、小さく言った。
「……うん」
えりには聞こえないくらいの声だった。
「……今は、それでいいよ」
玄関の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。
靴棚の名前は、まだそこにある。
泥も、涙の跡も、まだそこにある。
そして、名前を呼ばれないままの男が、名前のある場所の入口で眠っている。
なおは、まだ目を覚まさない。
けれど初めて、逃げずに眠っていた。




