↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
85/291

第八十五話 名前がある場所

## 第八十五話 名前がある場所


 門の前で、ジンの身体は半分だけ倒れていた。


 地面には倒れていない。


 完全には立ってもいない。


 めぐみの手に、ほんの少しだけ触れている。


 えりが横から支えている。


 三人の重さが、門の影の中で止まっていた。


 施設の中から、子どもの声はしなかった。


 えりが止めたからだ。


 職員たちも見に来ない。


 シーツが風に揺れている。


 道路の向こうの配送車は、角を曲がって見えなくなっていた。


 けれど、えりはまだ油断しなかった。


 見えなくなったから、安全になったわけではない。


 見えなくなったものほど、次にどこから出てくるか分からない。


 ジンの手は、めぐみの手に触れたままだった。


 握ってはいない。


 指先が、手のひらに乗っているだけ。


 それだけなのに、ジンの呼吸はまだ浅い。


 めぐみは、その手を握り返さなかった。


 握れば、戻ってきたと決めてしまう気がした。


 握れば、彼の選択を奪う気がした。


 だから、ただ手のひらをそこに置いた。


 触れていたいだけ、触れていられるように。


「中に入れる?」


 えりが低く聞いた。


 めぐみは、すぐには答えなかった。


 ジンの目を見た。


 半分閉じている。


 意識はある。


 だが、まだここに全部はいない。


 彼の中の一部は、岡山の山道に残っている。


 一部は、もっと遠い場所に残っている。


 一部だけが、めぐみの手のひらに触れている。


「……急がないで」


 めぐみは言った。


「今は、立ってるだけでいいよ」


「立ってないけどね」


 えりが小さく言った。


「ほぼ担いでる。私が」


「……ありがとう」


「あんたが謝るな、ありがとうも今は後でいい」


 えりは、ジンの体重を支え直した。


 重い。


 筋肉の重さ。


 骨の重さ。


 眠っていない人間の重さ。


 そして、まだ戦場に半分残っている人間の重さだった。


 ジンの膝が、わずかに沈んだ。


 めぐみは、手を離さない。


 握らないまま、離さない。


「……座ろうか」


 ジンの唇が動いた。


「座るな」


 誰に言っているのか分からない声だった。


 めぐみは頷いた。


「……うん。座りたくないんだね」


「座るな」


「……じゃあ、立ったままでいいよ」


「止まるな」


「……うん。止まりたくないんだね」


 えりは、横目でめぐみを見た。


 否定しない。


 押さえつけない。


 でも流されてもいない。


 めぐみは、ジンの言葉をそのまま受け取って、角を少し丸くして返している。


 暴れている手を掴むのではなく、暴れている言葉の横に座っているようだった。


 えりは心の中で思った。


 これは戦闘ではない。


 でも、失敗したら誰かが壊れる。


 ジンが壊れる。


 めぐみが壊れる。


 子どもたちが壊れる。


 施設そのものが、黒崎に見つかる。


 だから、これは戦闘と同じくらい危ない。


 ただ、武器がないだけだ。


「玄関まで」


 えりが言った。


「そこまで行けたら、中か外か選べる」


 めぐみは頷いた。


「……うん」


 ジンの手が、めぐみの手から少し離れそうになった。


 めぐみは追わない。


 追えば、逃げ場を奪う。


 だが、完全に離れる前に、ジンの指が自分から止まった。


 触れていたいのか。


 離れたいのか。


 本人にも分かっていない。


 めぐみは、その曖昧さを急がせなかった。


「……一歩だけ」


 ジンの目が、めぐみを見る。


「命令か」


「……お願いかな」


「誰の」


 めぐみは少しだけ考えた。


 私の、と言えば重すぎる。


 あなたのため、と言えば押しつけになる。


 だから、こう言った。


「……今の足の」


 ジンの眉がかすかに動いた。


「足」


「……うん。ずっと立ってるから。少しだけ、場所を変えよう」


 ジンは答えない。


 だが、足がほんの少し動いた。


 一歩。


 舗装路の上から、門の内側へ。


 それだけだった。


 しかし、ジンにとっては線を越えることだった。


 門の内側に入った瞬間、音が変わった。


 道路の音が少し遠くなる。


 シーツの影が近くなる。


 施設の中の匂いがする。


 洗剤。


 木の床。


 古い紙。


 子ども用の靴。


 昼に作った味噌汁の残り香。


 ジンの呼吸が止まりかけた。


 敵の匂いではない。


 火薬でもない。


 血でもない。


 だが、知らない安心の匂いは、ジンには危険に近かった。


 安心していい場所が、いちばん分からない。


 ジンは立ち止まった。


 玄関の手前。


 そこから先へ、足が出ない。


 えりは無理に押さなかった。


 めぐみも、引かなかった。


 玄関の中には、靴棚があった。


 小さな靴が並んでいる。


 運動靴。


 上履き。


 少し泥のついた長靴。


 靴の内側には、名前が書かれている。


 ひらがな。


 カタカナ。


 少し曲がった文字。


 職員が書いたもの。


 子どもが自分で書いたもの。


 途中で薄くなって、上から書き直されたもの。


 消えていない名前。


 ジンは、それを見た。


 目が止まった。


 手が、めぐみの手から離れた。


 今度は完全に。


 めぐみは追わない。


 ジンの視線は、靴棚に固定されている。


 名前。


 靴の内側の名前。


 ここには、名前がある。


 消されていない。


 番号ではない。


 三号でも、四号でも、六号でもない。


 小さな足に、それぞれの名前がある。


 帰ってくるための名前。


 間違えないための名前。


 呼ぶための名前。


 ジンの口が動いた。


「入れない」


 めぐみは、静かに聞いた。


「……どうして?」


 ジンは、靴棚を見たまま言った。


「ここは」


 声がかすれる。


「名前がある」


 えりは何も言わなかった。


 めぐみも、すぐには返さなかった。


 その言葉を、急いで慰めに変えたくなかった。


 ジンは続けた。


「ここに、処理する人間は入れない」


 めぐみの胸が痛んだ。


 だが、その痛みを顔に出さない。


 彼がいま言ったのは、自分を責める言葉ではない。


 彼の中で成立している、ひとつの規則だった。


 名前がある場所。


 帰る場所。


 子どもたちの場所。


 そこへ、名前を消す側に近い手を持った自分は入ってはいけない。


 ジンはそう思っている。


 その規則を、めぐみは踏みにじらない。


「……うん」


 めぐみは頷いた。


「……名前があるね」


 ジンの目が、わずかに揺れた。


 否定されなかった。


 それだけで、彼の身体は次の反応を探し損ねた。


「……だから」


 めぐみは、靴棚を見た。


 小さな靴。


 名前。


 まだ帰ってくる場所がある子どもたち。


 そして、玄関の手前で止まっている男。


 彼には、名前がいくつもある。


 ありすぎて、どれも手に取れない。


「……だから、入っていいんだよ」


 ジンの顔が、めぐみの方へ動いた。


「違う」


「……うん。違うって思うんだね」


「汚れる」


「……汚れても、あとで洗えばいいよ」


「違う」


 ジンの声が少し強くなった。


 えりの身体が反応する。


 めぐみは、片手をほんの少し横へ出した。


 大丈夫。


 まだ。


 ジンは、靴棚を見たまま言った。


「ここは、戻る場所だ」


「……うん」


「俺は」


 言葉が止まる。


 俺は、何だ。


 福岡仁。


 真柴直樹。


 兵士。


 処理する人間。


 狩る側。


 遅れを消す手。


 どれも、この靴棚の前では重すぎた。


 めぐみは、その続きを急がなかった。


「……今は、言わなくていいよ」


「言わないと」


「……ううん」


 めぐみは、低く言った。


「……言えないままでも、そこにいていいよ」


 ジンの肩が、ほんの少し落ちた。


 えりはその変化を見た。


 今のは大きい。


 名前を言わないまま存在していい。


 ジンにとって、それは命令ではなく、許可でもなく、もっと分からないものだった。


 施設の奥で、小さな物音がした。


 子どもが椅子を引いた音。


 すぐに職員が止めた。


 音は小さかった。


 それでもジンの身体は跳ねた。


 右手が動く。


 反射。


 えりが半歩入る。


 めぐみが言う。


「……子どもだよ」


 ジンの手が止まる。


 めぐみは続けた。


「……奥にいる」


「出すな」


「……うん。出さない」


「見るな」


「……うん。見せない」


「俺を」


 声が割れた。


「俺を、見せるな」


 めぐみは、そこで初めて少しだけ目を伏せた。


 資料にあったような、子どもを守るためだけではない。


 この人が、自分の壊れた姿を子どもに見せたことでさらに自分を責める。


 それが分かった。


 だから、めぐみは頷いた。


「……うん」


 短く。


 深く。


「……見せないよ」


 ジンの喉が動いた。


「なぜ」


「……あなたが、今、それを怖がってるから」


 ジンは黙った。


 怖い。


 その言葉を、自分に向けられても否定できなかった。


 敵が怖いのではない。


 死が怖いのでもない。


 自分の壊れた姿を、小さな靴の持ち主たちに見られることが怖い。


 その恐怖は、戦場の恐怖より処理しにくかった。


 めぐみは、玄関の横に置かれていた小さな椅子を見た。


 子どもが靴を履く時に使う椅子。


 低い。


 木製。


 角が少し丸くなっている。


「……座らなくていいよ」


 ジンは椅子を見た。


「でも、そこにあるよ」


 めぐみは言った。


「……使っても、使わなくてもいいよ」


 選択肢。


 小さな選択肢。


 ジンに残す。


 命令ではなく、選ばせる。


 えりは、奥の職員へ目配せした。


 水。


 タオル。


 救急箱。


 ただし、持ってくるな。


 見えるところに置いて、下がれ。


 職員は理解した。


 えりは心の中で少し驚いた。


 この施設の人間は、めぐみの近くでだいぶ鍛えられている。


 騒がない。


 押しつけない。


 でも準備する。


 ジンは、靴棚から目を離せない。


 名前がある。


 名前が並んでいる。


 小さい文字。


 消えていない文字。


 ジンの中に、岡山の白い作業服が浮かぶ。


 三。


 四。


 六。


 番号。


 黒い手袋。


 命令。


 回収。


 処理。


 その真逆に、靴の中の名前がある。


 その差が、胸を押し潰す。


 ジンは言った。


「番号じゃない」


 めぐみは頷いた。


「……うん」


「消してない」


「……うん」


「なぜ」


 めぐみは、靴棚を見たまま言った。


「……帰ってくる時に、間違えないように」


 ジンの目が揺れた。


 帰ってくる。


 間違えない。


 その二つの言葉が、写真の中の重なった手とつながる。


「……名前はね」


 めぐみは、ゆっくり言った。


「……急がせるためじゃなくて、戻れるようにするためにある時もあるよ」


 ジンは、めぐみを見た。


 その目には、理解はなかった。


 だが、拒絶も少し薄れていた。


 めぐみは、それ以上言わない。


 名前の話をしすぎれば、彼の中の何かに触れすぎる。


 まだ、なおとは呼ばない。


 まだ、直樹とも呼ばない。


 福岡仁とも呼ばない。


 彼が自分で、自分の足をどこに置くかを見る。


 ジンの手が、胸の内側に伸びた。


 写真がある場所。


 めぐみは、止めなかった。


 ジンは写真を出さなかった。


 ただ、その上から押さえた。


 楠。


 手。


 眠る二人。


 名前のある靴。


 帰る場所。


 全部が重なって、言葉にならない。


 ジンの目から、また涙が落ちた。


 今度は、靴棚の前の床に落ちた。


 一滴。


 古い木の床に、小さな丸い跡ができた。


 ジンは、それを見た。


「汚した」


 めぐみは、すぐには返さなかった。


 その一滴を見た。


 血ではない。


 泥でもない。


 涙だった。


「……うん」


 めぐみは言った。


「……あとで、拭くね」


「俺が」


「……今は、いいよ」


「汚した」


「……うん」


 めぐみは、少しだけ困ったように笑った。


「……涙は、汚れじゃないかな」


 ジンは、理解できない顔をした。


 涙。


 汚れではない。


 処理対象ではない。


 証拠でもない。


 弱さとも、まだ言えない。


 ジンには分からない。


 分からないから、床の一滴から目を離せない。


 めぐみは、ハンカチを出さなかった。


 涙を拭かない。


 彼の涙を、自分の優しさの証明にしない。


 ただ、そこに落ちたものとして、見ている。


 えりは、玄関の外を確認した。


 配送車はいない。


 だが、遠くの角に人影がある。


 同じ人間かは分からない。


 えりは職員に小さく言う。


「裏導線、閉めて。鍵はかけない。閉めるだけ」


「鍵は」


「かけると、閉じ込める感じが出る。閉めるだけ」


「分かりました」


「あと、子どもには説明しない。怖がらせない。今日は洗濯物が多い日。それでいい」


 職員は頷いた。


 えりは玄関に戻る。


 ジンはまだ靴棚の前にいる。


 めぐみは、少し離れている。


 この距離が長い。


 手を伸ばせば届きそうで、届かない。


 恋愛なら近づけばいい。


 でも、今は近づくだけで壊れる。


 触れたいのに触れない。


 呼びたいのに呼ばない。


 知っているのに知らないふりをする。


 それが、めぐみにとっての障害だった。


 ジンにとっては、もっと単純で、もっと深い。


 入りたいのに、入れない。


 名前があるから。


 汚すから。


 自分が何者か分からないから。


 ジンの視線が、小さな靴に落ちた。


 青い靴。


 内側に、ひらがなで名前がある。


 少し曲がっている。


 本人が書いたのかもしれない。


 ジンは、その靴を見ていた。


 ふいに、言った。


「ここに」


 めぐみは待つ。


「帰るのか」


「……うん」


「この靴の子は」


「……うん。帰ってくるよ」


「間違えずに」


「……うん。間違えないように、名前がある」


「名前がない時は」


 めぐみの目が少しだけ揺れた。


 でも、声は変えない。


「……一緒に探す」


 ジンは、めぐみを見た。


「探す」


「……うん」


「なければ」


「……すぐには、決めない」


 めぐみは、夜間担当表のことを思い出した。


 未確認。


 消さない。


「……分からない時は、未確認って書くよ」


 ジンの指が動いた。


 その言葉を、どこかで聞いた気がした。


 自分ではない。


 三号。


 白い作業服。


 未確認。


 消さない。


 ジンの中で、線が少しだけつながる。


 だが、まだ言葉にならない。


 めぐみは静かに続けた。


「……空白にしない」


 ジンの呼吸が、少しだけ深くなった。


 一度だけ。


 胸まで入った。


 えりは、それを見逃さなかった。


 今の一呼吸は、さっきまでと違う。


 ジンは、玄関の床を見た。


 靴のまま入れば、汚れる。


 靴を脱げば、ここに入ることになる。


 座れば、弱くなる。


 立ち続ければ、倒れる。


 どれも選べない。


 めぐみは言った。


「……靴、脱がなくていいよ」


 ジンが顔を上げる。


「でも、ここにいるなら、靴のままでもいい」


「汚れる」


「……あとで洗う」


「違う」


「……うん。違うんだね」


「入ったことになる」


 めぐみは、少しだけ黙った。


 そして言った。


「……じゃあ、今日は、玄関まででいいよ」


 ジンは動かない。


「……中じゃなくていい」


 めぐみは、自分の立つ場所を少し変えた。


 玄関の内側ではなく、ジンと同じ段差の近く。


 施設の中でも、外でもないところ。


「……私も、ここにいる」


 えりが思わずめぐみを見た。


 そこに座る気か。


 そう思った。


 めぐみは本当に、玄関の段差に腰を下ろした。


 靴を履いたまま。


 施設の内側でも外側でもない場所に。


 ジンの近く。


 近すぎない場所に。


「めぐみ」


 えりが低く言う。


「……大丈夫」


「大丈夫じゃないから言ってる」


「……うん。でも、ここがいい」


 ジンは、座っためぐみを見た。


 彼女は、中へ入れとは言わない。


 外へ出ろとも言わない。


 自分が、その中間に来た。


 線を引くのではなく、線の上に座った。


 ジンの中で、何かが分からない形で揺れた。


 恋ではない。


 まだ、そういう言葉にはならない。


 懐かしさでもない。


 記憶でもない。


 ただ、この人は自分を動かそうとしていない。


 その事実だけが、ジンの胸の奥に残った。


 戦場では、動かす者と動かされる者しかいなかった。


 命令する者と命令される者。


 追う者と追われる者。


 殺す者と殺される者。


 でも、目の前の人は、動かさない。


 ただ、隣に来る。


 それは、ジンにとって初めて見る種類の強さだった。


 めぐみは、膝の上に手を置いた。


 手のひらは上に向けない。


 差し出し続けると、彼に選ばせ続けてしまう。


 今は休ませる。


 選ばない時間を置く。


「……今は、何もしなくていいよ」


 ジンは立ったままだ。


 えりは横にいる。


 職員は奥に下がっている。


 子どもたちは見ていない。


 靴棚には名前がある。


 玄関には、涙の跡が一滴ある。


 ジンは、ようやく低い椅子を見た。


 子ども用の椅子。


 座れば、低くなる。


 弱く見える。


 だが、もう膝が限界だった。


 めぐみは何も言わない。


 えりも言わない。


 ジンは、ゆっくり椅子に座った。


 椅子が小さく鳴った。


 壊れなかった。


 ジンの身体が、そこに収まるには大きすぎた。


 膝が曲がりすぎる。


 背中が丸くなる。


 強い男の姿ではない。


 兵士の姿でもない。


 けれど、めぐみはその姿を見て、少しも顔を曇らせなかった。


 格好悪いとは思わなかった。


 かわいそうとも、少し違った。


 ただ、帰り方を忘れた人が、やっと小さな場所に腰を下ろした。


 そう見えた。


「……座れたね」


 めぐみが言った。


 ジンは答えない。


 だが、逃げなかった。


 それで十分だった。


 えりは外を見た。


 遠くの角の人影は消えている。


 消えたから終わりではない。


 黒崎は見ている。


 どこかで。


 直接ではなくても。


 報告として。


 推測として。


 点として。


 えりは、玄関の脇に立ちながら、携帯を取り出した。


 短く打つ。


 中に入っていない。


 玄関で停止。


 名前に反応。


 呼称未使用。


 遮蔽継続。


 送信先はエレーナ。


 それ以上は書かない。


 文字は残る。


 残る文字は、奪われることがある。


 だから、最小限にする。


 黒崎は、白い机の前で報告を読んでいた。


 配送車からの映像は不完全だった。


 シーツ。


 布。


 人の動き。


 玄関の一部。


 末安えりが作った遮蔽は、雑に見えてよくできていた。


 生活感。


 洗濯物。


 職員の自然な動き。


 そこにカメラを向けると、ただの不審者になる。


 だから近づけない。


 黒崎は映像を止めた。


 見えたものは少ない。


 福岡仁、京都施設前に到着。


 宮崎めぐみと推定される女性、接触。


 名称呼称、確認できず。


 福岡仁、施設内へ完全侵入せず。


 玄関付近で停止。


 末安えり、遮蔽行動。


 黒崎は、ペンを取った。


 接触成立。


 名称反応未確認。


 玄関境界で停止。


 靴棚視認の可能性。


 名前への反応、要確認。


 そして最後に、


 末安えり、視線遮断能力あり。


 黒崎は、赤ペンを持たなかった。


 黒で書く。


 まだ壊す時ではない。


 観測する時だった。


 ただ、ひとつだけ赤い点を打った。


 宮崎めぐみ。


 その横ではない。


 福岡仁の横でもない。


 第三名称欄の横に。


 点。


 まだ線ではない。


 京都の玄関では、ジンが子ども用の椅子に座っていた。


 めぐみは段差に座っている。


 えりは立っている。


 誰も、名前を呼ばない。


 誰も、おかえりと言わない。


 誰も、急かさない。


 ただ、そこにいる。


 ジンは、靴棚の名前を見ていた。


 小さな文字。


 帰ってくるための文字。


 間違えないための文字。


 消されていない文字。


 ジンの手が、胸の内側の写真に触れた。


 楠の下で、二人の手が重なっている。


 玄関には、靴の内側に名前がある。


 まだ、彼の名前は呼ばれていない。


 でも、彼が入れない理由を、めぐみは否定しなかった。


 それだけで、ジンは少しだけそこに座っていられた。


 めぐみは、静かに言った。


「……ここ、名前がある場所だよ」


 ジンは答えない。


「……だから、急がなくていいよ」


 ジンは、靴棚を見たまま、かすかに息をした。


 その息は、さっきより深かった。


 ほんの少し。


 でも、確かに。


 めぐみは、それを見て、何も言わなかった。


 褒めない。


 励まさない。


 泣かない。


 ただ、隣にいた。


 名前がある場所の、入口で。


 まだ名前を呼ばないまま。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。