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第八十四話 呼ばないで、隣にいる

##第八十四話 呼ばないで、隣にいる


 京都へ入る手前で、ジンは一度、車を止めた。


 軽トラックのエンジンは、止めてもまだ震えていた。


 古い車体。


 古い座席。


 油と泥と煙草の匂い。


 雨は降っていない。


 だが、フロントガラスの端に、水の跡が残っている。


 山の中を走ってきたせいだった。


 ジンは、ハンドルに手を置いたまま動かなかった。


 京都。


 その標識は、少し前に通り過ぎた。


 ここは京都のはずだった。


 だが、目の前の道は、京都ではなかった。


 一瞬、岡山の山道に見える。


 次の瞬間、もっと遠い場所に見える。


 湿った土。


 崩れた斜面。


 白い作業服。


 黒い手袋。


 落ちた通信機。


 倒れた人間の呼吸。


 それらが、車の中にまだ残っていた。


 ジンは息を吸った。


 浅い。


 胸まで入らない。


 呼吸の仕方は知っている。


 戦闘中の呼吸。


 射撃前の呼吸。


 走った後に乱れを戻す呼吸。


 痛みを切り離す呼吸。


 だが、今の呼吸は戻らなかった。


 胸の内側に、写真がある。


 大きな楠。


 木陰。


 眠る二人。


 重なった手。


 ジンは、そこに触れなかった。


 触れないのに、触れているようだった。


 写真の紙の薄さが、服の内側から皮膚に伝わってくる。


 ありえない。


 そんなはずはない。


 防水袋に入れている。


 布の内側にある。


 肌には触れていない。


 それでも、そこだけ熱い。


 ジンはミラーを見た。


 誰もいない。


 後続車もない。


 追跡もない。


 なら、動ける。


 黒瀬と合流する。


 山口線へ戻る。


 資料を渡す。


 それが正しい。


 ジンはギアに手を伸ばした。


 手が止まった。


 京都の方へ戻る道から、目が離せない。


 説明できない。


 命令ではない。


 作戦でもない。


 逃走でもない。


 それなのに、身体はその道を選んでいる。


 ジンは、かすれた声で言った。


「何をしている」


 答えはなかった。


 福岡仁は答えない。


 真柴直樹も答えない。


 兵士なら答えを持っている。


 戻れ。


 報告しろ。


 再合流しろ。


 遅れを消せ。


 なのに、その下で、答えを持たない何かが暴れている。


 なお。


 声にはならない。


 まだ、誰にも呼ばれていない。


 だが、胸の奥で、その音だけが動いている。


 ジンは、再びエンジンをかけた。


 軽トラックは、京都の道へ入っていった。


 拠点の近くは、午後の光が薄かった。


 住宅の壁。


 細い路地。


 電柱。


 自転車。


 干された洗濯物。


 遠くで、子どもの声がした。


 その声に、ジンの肩がわずかに跳ねた。


 敵ではない。


 敵ではない。


 そう判断するより早く、身体が反応する。


 足音。


 自転車のブレーキ音。


 車のドアが閉まる音。


 誰かが笑う声。


 それぞれが別々の方向から刺さってくる。


 街の音は、平和すぎた。


 平和な音ほど、ジンには距離がつかめなかった。


 銃声なら、方向が分かる。


 爆発なら、距離が分かる。


 足音なら、人数が分かる。


 だが、子どもの笑い声は、どこから来て、どこへ消えるのか分からない。


 だから怖い。


 ジンは軽トラックを拠点の手前で止めた。


 門までは、まだ少し距離がある。


 近すぎない。


 遠すぎない。


 逃げられる。


 見える。


 入れる。


 入らない。


 ジンは車を降りた。


 足が、地面についた。


 京都の舗装路。


 しかし、一瞬だけ、足の裏に山の泥の感触が戻った。


 次に、別の感触。


 乾いた土。


 木の根。


 楠の下。


 ジンは、立ち止まった。


 身体が動かない。


 戦うことも、逃げることもできない時の止まり方だった。


 目は開いている。


 意識もある。


 だが、自分が自分の身体の中にいない。


 少し離れた場所から、自分が立っているのを見ているようだった。


 道の向こうに、人がいる。


 職員。


 子ども。


 知らない顔。


 知っているはずのない顔。


 見てはいけない。


 動くな。


 触るな。


 来るな。


 頭の中で、誰かの声がする。


 自分の声だった。


 ジンは、胸の内側の写真を押さえようとして、やめた。


 手が上がらない。


 指だけが、少し曲がった。


 そのまま固まった。


 施設の二階の窓から、末安えりはそれを見ていた。


 最初に見えたのは、軽トラックだった。


 次に、運転席から降りる男。


 姿勢。


 周囲を見る角度。


 立ち止まった位置。


 えりはすぐに、窓から離れた。


 走らない。


 走れば、廊下の子どもが顔を出す。


 大声を出さない。


 声を出せば、外の男が反応する。


 えりは低く言った。


「全員、下がって」


 近くにいた若い職員が振り返る。


「え?」


「声を落として。子どもを奥へ。窓に寄らせない」


「何か」


「見ない。カメラ出さない。走らない」


 職員の顔がこわばった。


 えりは、それ以上説明しなかった。


 説明は遅い。


 遅いものは、今は邪魔になる。


「奥。今すぐ。静かに」


 職員は頷き、子どもたちを廊下の奥へ誘導した。


 えりは階段を下りる。


 途中で、灰皿の横に置いていた煙草に目が行った。


 吸わない。


 ミントを噛む。


 噛む音が大きくならないように、ゆっくり噛んだ。


 玄関へ向かう前に、えりは裏口側の小窓を見た。


 道路の向こうに、配送車が一台停まっている。


 見慣れない。


 白い車体。


 側面のロゴは、剥がれかけたシールで隠されている。


 運転席に人影。


 スマホを持つ角度ではない。


 カメラ。


 えりは舌打ちしそうになった。


 しなかった。


 代わりに、近くの職員に言う。


「洗濯物、出して」


「え?」


「大きい布。シーツ。支援物資のやつ。今」


「干すんですか」


「そう。盛大に」


 職員が戸惑う。


 えりは少しだけ笑った。


「生活感は最強の遮蔽物。スピードが足りない、行って」


 職員が動く。


 えりは玄関を開けた。


 外へ出る。


 ジンは、まだ門の手前に立っていた。


 侵入者ではない。


 だが、来訪者でもない。


 帰ってきた人間の形をした、まだ戦場にいる男だった。


 えりは、すぐ近づかなかった。


 真正面には立たない。


 逃げ道を塞がない。


 両手を見える位置に置く。


 声は低く。


「聞こえる?」


 ジンの目が、えりの方を向いた。


 焦点が合っていない。


 見ている。


 だが、ここを見ていない。


 えりは一歩だけ進んだ。


「止まってていい。入らなくていい。出ていかなくてもいい」


 ジンは答えない。


 えりは、彼の手を見た。


 右手。


 指が固まっている。


 左手。


 胸の内側を押さえかけて、止まっている。


 武器を持っていない。


 だが、武器を持っていないことが安全を意味しない人間がいる。


 ジンは、その側だ。


 えりは、後ろを見ないまま言った。


「めぐみ」


 玄関の奥に、めぐみがいた。


 いつ来たのか分からなかった。


 足音がなかった。


 えりは、目だけで止めた。


「呼ばないで」


 めぐみは頷いた。


「……うん」


「近づきすぎない」


「……うん」


「手を出すなら、見えるところから」


「……うん」


「子どもは奥」


「……ありがとう」


「まだ褒める場面じゃない」


「知ってる」


 えりは、道路の向こうの配送車をもう一度見た。


 職員が大きなシーツを二枚、物干しにかけ始めている。


 布が風で揺れる。


 視線が遮られる。


 完全ではない。


 だが、十分ではある。


 えりは門の横に立った。


 ジンとめぐみの間に、少しだけ斜めの位置を取る。


 止めるための位置。


 守るための位置。


 壊させないための位置。


 めぐみは、ゆっくり外へ出た。


 走らない。


 泣きながら駆け寄らない。


 名前を呼ばない。


 胸の奥で、何度も言葉が来る。


 なお。


 なお。


 なお。


 でも、声にはしない。


 呼べば戻るかもしれない。


 でも、戻る場所を間違えれば壊れる。


 彼が今、どこに立っているのか分からない。


 京都か。


 岡山か。


 もっと遠い場所か。


 楠の下か。


 戦場か。


 名前のない場所か。


 だから、めぐみは呼ばない。


 彼の名前を使って、こちらへ引っ張らない。


 彼がいる場所まで、自分が行く。


 一歩。


 ジンの視線が動いた。


 二歩。


 ジンの喉が動いた。


 三歩。


 彼の右手がわずかに上がりかけた。


 えりの身体が、いつでも入れる位置へずれる。


 めぐみは止まった。


 ジンとの距離は、まだある。


 手を伸ばしても届かない。


 でも、声なら届く。


 めぐみは、少し低い声で言った。


「……うん」


 ジンの目が、ほんの少しだけめぐみを見た。


「……ここだよ」


 それだけだった。


 おかえり、とは言わない。


 なお、とも言わない。


 生きてたんだね、とも言わない。


 そんな言葉は、今の彼には重すぎる。


 ジンは口を開いた。


 声が出ない。


 喉が詰まっている。


 息が浅い。


 目の前の女が誰なのか、分からない。


 分からないのに、身体が知っている。


 それが一番怖かった。


 知っているはずがない。


 見たことがない。


 いや、ある。


 ない。


 違う。


 木陰。


 手。


 眠る前の声。


 風。


 髪。


 誰かが隣にいた。


 誰かの手が重なっていた。


 離してはいけなかった。


 離した。


 ジンの口から、かすれた音が出た。


「手を」


 めぐみは動かなかった。


 急がない。


 答えを先に置かない。


 彼の言葉が出る場所を空ける。


 ジンは、もう一度言った。


「手を、離した」


 えりの目が細くなった。


 めぐみは、ゆっくり頷いた。


「……うん」


 否定しない。


 まだ、「離れてないよ」とは言わない。


 それは、彼の中にある事実を奪う言葉になる。


 彼は、離したと思っている。


 その痛みごと、まず受け取る。


「……そう思ってるんだね」


 ジンの眉が、わずかに動いた。


 理解したからではない。


 反論が来なかったことに、身体が戸惑ったようだった。


 めぐみは、両手を見える位置に出した。


 手のひらを上にする。


 何も持っていない。


 触れない。


 届かない距離に置く。


「……触らないよ」


 ジンの肩が、ほんの少し下がった。


「……あなたが、決めていいよ」


 風が吹く。


 シーツが揺れる。


 道路の向こうの配送車から、拠点の玄関は見えにくくなっている。


 えりは、それを横目で確認した。


 配送車の人影が、角度を変えた。


 えりは小さく笑った。


「見えないでしょ。残念でした」


 声にはしない。


 心の中だけで言う。


 ジンは、めぐみの手を見ていた。


 顔ではない。


 目でもない。


 手。


 写真の中の手と、目の前の手が重なる。


 重ならない。


 違う。


 同じ。


 分からない。


 胸の内側の写真が熱い。


 ジンは、服の中に手を入れかけた。


 えりの身体が動く。


 めぐみは、小さく言った。


「……ゆっくりで、いいよ」


 ジンの手が止まる。


 写真を出したい。


 でも出せない。


 出したら、何かが現実になる。


 現実になれば、壊れる。


 何が壊れるのか分からない。


 ジンの呼吸が浅くなる。


 音が遠くなる。


 道路が揺れる。


 京都の住宅の壁が、山肌に見える。


 電柱が、折れた木に見える。


 白いシーツが、白い作業服に見える。


 ジンの目が変わった。


 えりが一歩踏み出しかける。


 めぐみは首を振った。


 まだ。


 まだ、入らないで。


 めぐみは、声を少しだけ低くした。


「……ここ」


 ジンの視線が戻る。


「……ここだよ」


 短く。


 同じ言葉。


 繰り返す。


 説明ではない。


 現在に釘を打つように。


「……車の音がするね」


 ジンの目がわずかに動く。


「……風があるね」


 シーツが揺れる。


「……私の声、聞こえる?」


 ジンは答えない。


 でも、視線がめぐみの口元へ落ちた。


「……うん。聞こえてるね」


 勝手に決めつけない。


 でも、置いていく。


 少しずつ、現在を置いていく。


 ジンの喉が動いた。


「誰だ」


 えりの指が、わずかに動いた。


 めぐみの表情は変わらない。


 その質問を待っていたわけではない。


 それでも、驚かない。


 傷ついた顔もしない。


 知らないなら、それでいい。


 忘れているなら、それでいい。


 今は、名前を返す時間ではない。


「……今は、知らなくていいよ」


 ジンの目が、めぐみを見た。


「敵か」


「……ううん」


「味方か」


 めぐみは少しだけ考えた。


 敵でも味方でも、今の彼には戦場の言葉になる。


 だから、違う言葉を選ぶ。


「……隣にいる人、かな」


 ジンはその言葉を理解できなかった。


 だが、敵でも味方でもない言葉が、胸のどこかに落ちた。


 隣。


 楠の下。


 眠る前。


 手。


 ジンの指が震えた。


 めぐみは、まだ手を伸ばしたままにしている。


 届かない距離で。


 待っている。


 急かさない。


 誘導しない。


 救おうともしない。


 ただ、そこにある。


 ジンは、一歩だけ動いた。


 えりが息を止める。


 めぐみは止めない。


 ジンの足が、路面を踏む。


 京都の地面。


 今の地面。


 もう一歩。


 ジンの視界の端で、シーツが揺れる。


 それが白い作業服に見えた。


 ジンの右手が反射で上がる。


 えりが入ろうとした。


 その瞬間、めぐみが言った。


「……大丈夫」


 大きな声ではない。


 命令でもない。


 止める声でもない。


 でも、届いた。


 ジンの手が止まる。


 めぐみは続けた。


「……ここでは、誰も、あなたに撃たないよ」


 ジンの目が揺れた。


「撃つな」


「……うん。撃たない」


「近づくな」


「……うん。ここで止まる」


「触るな」


「……うん。触らない」


 全部、受け取る。


 否定しない。


 説得しない。


 彼の拒絶を、壁ではなく、距離として扱う。


 めぐみは、その距離の手前で止まったまま言った。


「……でも、私は、行かないよ」


 ジンの顔が、ほんの少し歪んだ。


 怒りではない。


 痛みでもない。


 何かが割れそうになる前の顔だった。


「行け」


「……うん。行ってほしいんだね」


「行け」


「……怖いね」


「違う」


「……うん。違うんだね」


「来るな」


「……ここで止まるよ」


「見るな」


 めぐみは、目を少しだけ伏せた。


「……じゃあ、少しだけ、下を見るね」


 そう言って、視線を落とした。


 ジンの顔を見続けない。


 彼の壊れた姿を見つめ続けない。


 でも、背を向けない。


 その中間にいる。


 えりは、そこで初めて小さく息を吐いた。


 めぐみは怖がっていない。


 怯えていない。


 でも、無防備でもない。


 彼を男として見ている。


 壊れたものとして扱っていない。


 同時に、今は壊れやすいものとして、雑に触れない。


 えりは思った。


 これは、自分にはできない。


 自分なら止める。


 押さえる。


 距離を取る。


 線を引く。


 めぐみは、線を引かない。


 線の手前に座る。


 その違いが、怖い。


 そして強い。


 道路の向こうで、配送車がゆっくり動き出した。


 えりは視線だけで追う。


 逃げるのか。


 位置を変えるのか。


 職員が三枚目のシーツを出した。


 視界がさらに切れる。


 えりは小さく言った。


「優秀。あとで褒める」


 声には出さない。


 今は、余計な音を増やさない。


 ジンは、まだ立っている。


 めぐみは、少し離れて立っている。


 その間には、何もない。


 名前もない。


 触れてもいない。


 ただ、距離だけがある。


 ジンは、胸の内側に手を入れた。


 今度は、えりも動かなかった。


 めぐみも止めなかった。


 ジンは、防水袋を取り出した。


 指が震えている。


 袋の端がうまく開かない。


 さっきまで敵の呼吸を止め、通信機を潰し、武器を外した指が、一枚の写真を取り出すだけで迷っている。


 ジンはようやく写真を出した。


 めぐみの目が、それを見た。


 楠。


 自分の絵。


 めぐみは、呼吸を止めかけた。


 止めなかった。


 それを見て、ジンの方が壊れるかもしれないと思ったからだ。


 めぐみは息を吐いた。


 ゆっくり。


 彼に聞こえるくらいの低さで。


「……持ってきてくれたんだね」


 ジンは、写真を見たまま言った。


「知らない」


「……うん」


「これは、何だ」


「……絵だよ」


「誰の」


 めぐみは答えなかった。


 今、私の、と言えば、線がつながる。


 線がつながれば、黒崎にもいつか届く。


 そして何より、ジンが耐えられるか分からない。


 だから、めぐみは少しだけ違う答えを選ぶ。


「……眠ってる絵」


 ジンの目が写真に落ちる。


「手が」


「……うん」


「離れてない」


「……うん」


「でも」


 声が詰まった。


 ジンの肩が震えた。


「離した」


 めぐみは、写真ではなく、ジンの手を見た。


 その手は、写真を潰さないように持っている。


 強すぎる力を持っているのに、紙を破らないようにしている。


 めぐみは、そっと自分の手を少しだけ前に出した。


 まだ触れない。


 まだ届かない。


「……今は、ここにあるよ」


 ジンが顔を上げた。


「何が」


「……手」


 めぐみは、手のひらを上に向けたまま、静かに続けた。


「……触らなくていいよ」


 ジンは写真と、めぐみの手を見比べた。


「……でも、ここにあるよ」


 風が止んだ。


 シーツの揺れが小さくなる。


 道路の音が遠くなる。


 ジンの呼吸だけが、浅く聞こえる。


 めぐみは、一歩も動かない。


 ジンが動くかどうかを、ジンに残す。


 それが今、彼に残せる一番小さな尊厳だった。


 ジンの手が、少しだけ動いた。


 写真を持っていない方の手。


 指先が前へ出る。


 えりは、身体に力を入れた。


 もしその手が掴む手に変われば、入る。


 もし壊す手に変われば、止める。


 もし、ただ触れる手なら、見ている。


 ジンの指先が、めぐみの手の少し手前で止まった。


 届かない。


 まだ届かない。


 めぐみは、そこから動かない。


 名前を呼ばない。


 迎えにも行かない。


 ただ、待つ。


 ジンの目から、涙が落ちた。


 写真に落ちそうになり、途中で頬を伝って、地面に落ちた。


 ジンはそれに気づいていない。


 めぐみは気づいている。


 でも、拭かない。


 彼の涙を、今すぐ自分のものにしない。


 ジンの指が、もう少しだけ伸びた。


 めぐみの手のひらに、触れるか触れないかの場所。


 そのわずかな空気が、震えた。


 ジンは、かすれた声で言った。


「ここは」


 めぐみは、低く答えた。


「……ここだよ」


「帰ってきたのか」


 その言葉に、めぐみの胸の奥が痛んだ。


 でも、おかえりとは言わない。


 まだ言わない。


 彼が帰ってきたかどうかを、こちらが決めてはいけない。


 めぐみは、ただ言った。


「……帰り道の、途中かな」


 ジンの指先が、めぐみの手のひらに触れた。


 ほんの少し。


 重さもない。


 握ってもいない。


 助けを求めてもいない。


 ただ、触れた。


 その瞬間、ジンの膝から力が抜けた。


 えりが動く。


 めぐみも動く。


 ジンの身体が前へ崩れる。


 めぐみは受け止めようとした。


 受け止めきれる体格ではない。


 えりが横から支えた。


 ジンは地面に倒れなかった。


 門の前で、三人の身体が一瞬だけ重なった。


 ジンの手は、まだめぐみの手に触れていた。


 握ってはいない。


 でも、離れていない。


 めぐみは、彼の耳元で言った。


「……うん」


 声は震えていなかった。


「……ここにいるよ」


 なお、とは呼ばない。


 まだ呼ばない。


 ただ、隣にいる。


 道路の向こうで、配送車が角を曲がった。


 見えなくなった。


 えりはそれを確認しながら、ジンの重さを支えた。


「重い」


 小さく言う。


 めぐみが、ほんの少しだけ笑った。


「……ごめんね」


「あんたが謝るな」


「……うん」


「中に入れる?」


 めぐみはジンを見た。


 ジンの目は半分閉じている。


 意識はある。


 でも、まだ遠い。


 めぐみは、彼の手を見た。


 触れている。


 離れていない。


「……急がないで」


 えりは息を吐いた。


「はいはい。スピード落とします。今日だけ」


 めぐみは、低く、静かに言った。


「……帰り道の途中だから」


 ジンは、その言葉に反応したのかどうか分からなかった。


 ただ、手の力がほんの少しだけ抜けた。


 離れたのではない。


 力を抜いただけだった。


 めぐみは、その手を握り返さなかった。


 握れば、彼の選択を奪う気がした。


 だから、ただ手のひらをそこに置いた。


 ジンの指が、触れていたいだけ触れられるように。


 京都の拠点の門は、まだ開いている。


 中には入っていない。


 外にも戻っていない。


 名前はまだ呼ばれていない。


 でも、ひとつだけ変わった。


 兵士は、まだ理由を持っていない。


 なおも、まだ声になっていない。


 それでも、ジンの手は、もう一度、誰かの手に触れていた。


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