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第八十三話 非合理帰還

##第八十三話 非合理帰還


 黒崎は、報告の中で一行だけを見ていた。


 福岡仁、京都方面へ移動。


 白い机の上には、岡山山林道路の報告書が広げられている。


 白班四号、呼吸障害を伴う打撃。骨折なし。


 白班六号、右肩打撲。意識あり。


 通信担当、短時間失神。端末破損。


 三号、頸部圧迫による短時間意識喪失。後遺症なし。


 車両破壊、未遂。


 福岡仁、回収失敗。


 黒瀬了、山口線追跡継続。


 そこまでは、処理できる。


 失敗ではある。


 だが、理解できる失敗だった。


 黒瀬了が山口線を選んだこと。


 福岡仁が残って白班を無力化したこと。


 黒瀬を進ませるために遅れを消したこと。


 どれも合理的だった。


 問題は、その後だった。


 福岡仁は、白班を無力化した。


 通信を潰した。


 車両鍵を得た。


 地図と資料を回収した。


 ここまでは、作業として正しい。


 ならば次に取る行動は限られる。


 黒瀬了と再合流。


 山口線への復帰。


 回収資料の共有。


 追跡継続。


 あるいは、負傷しているなら山林内で一時潜伏。


 敵の再接触を避けるなら、岡山側へ離脱。


 どれでもよかった。


 だが、京都方面へ移動。


 黒崎は、その一行に黒いペンを置いた。


 赤ではない。


 まだ消す段階ではない。


 分析する段階だった。


 逃走。


 違う。


 逃げるなら、京都方面は悪い。


 黒瀬了からも、白羽からも、京都は注視されている。


 追跡回避。


 違う。


 回避なら山道を使い、車両を捨てる。


 軽トラックで生活道路を下るのは目立つ。


 別任務。


 違う。


 黒瀬了との通信は途絶していた。


 命令ログもない。


 京都拠点攻撃。


 違う。


 単独。


 装備不足。


 準備不足。


 感情による暴走。


 それも違う。


 福岡仁の戦闘は冷えていた。


 四号も六号も通信担当も死んでいない。


 殺せなかったのではない。


 殺す必要がなかったから殺していない。


 それは、暴走ではない。


 黒崎は、ペンを少しだけ動かした。


 非合理帰還。


 そう書いた。


 文字は細い。


 揺れていない。


 だが、書いたあと、黒崎はしばらくその五文字を見ていた。


 非合理。


 福岡仁に似合わない。


 真柴直樹にも、まだ結びつかない。


 黒崎は、別の紙を引いた。


 回収物一覧。


 破損端末。


 予備メモリ。


 岡山道路図。


 車両番号。


 外箱記号。


 白班配置。


 回収不能時処理手順。


 欠落。


 非文字記録写真、一点。


 黒崎は、そこでもう一度止まった。


 写真。


 内容不明。


 出所不明。


 三号の防水袋に混入。


 現場回収時、確認できず。


 福岡仁が持ち去った可能性。


 黒崎は、紙を伏せなかった。


 非文字記録。


 名簿ではない。


 照会票でもない。


 だが、福岡仁は持ち去った。


 他の資料は一部残している。


 山口線の情報は、黒瀬了が追える形で残っている。


 だが、その写真だけがない。


 黒崎は、机の端に置いていた真柴直樹の資料を開いた。


 次に、Jin FUKUOKAの資料を開く。


 二つの名前。


 二つの用途。


 その下に、新しい空欄を作った。


 まだ名前は書かない。


 書けない。


 だが、そこに何かがある。


 福岡仁でも、真柴直樹でもないもの。


 岡山から京都へ帰ったもの。


 黒崎は、その空欄の横に小さく書いた。


 第三名称欄。


 その下に、さらに一行。


 非文字記録に反応の可能性。


 可能性。


 まだ可能性だった。


 しかし、可能性は点になる。


 点は、いずれ線になる。


 扉が開いた。


 三号が入ってきた。


 白い作業服は替えられていた。


 黒い手袋も新しい。


 首の横には、薄い赤みが残っている。


 黒崎はそこを見た。


「痛みは」


「支障ありません」


「痛みを聞いています」


 三号は一拍置いた。


「あります」


「よろしい」


 黒崎は、岡山の報告書を三号の前に置いた。


「説明してください」


「岡山山林道路で黒瀬了と福岡仁の車両を停止。倒木、後続車両、通信妨害は作動しました」


「黒瀬了は」


「山口線へ抜けました」


「予定通りです」


「はい」


「福岡仁は」


「車外へ出ました」


「なぜ」


「黒瀬了を進ませるためです」


「あなたの判断ですか」


「観測です」


 黒崎は頷いた。


「続けてください」


「四号、六号、通信担当が無力化されました。殺害はされていません」


「できなかったのではなく」


「必要がなかったように見えました」


「ように」


「はい」


 三号の声は平らだった。


 だが、完全には平らではない。


 首の赤み。


 呼吸の浅さ。


 見たものが、身体のどこかに残っている。


「福岡仁は、どのように動きましたか」


 三号は少しだけ黙った。


 言葉を選んでいる沈黙ではない。


 観測したものを、命令語に変換するための沈黙だった。


「最初に、黒瀬了の進路を空けました」


「次に」


「通信を落としました」


「次に」


「武器を外しました」


「次に」


「回収行動を妨害しました」


「あなたは」


「落とされました」


「殺されなかった」


「はい」


「なぜ」


 三号は答えなかった。


 黒崎は言った。


「分からない場合は、分からないと言いなさい」


「分かりません」


「慈悲に見えましたか」


「いいえ」


「迷いに見えましたか」


「いいえ」


「では何ですか」


 三号は、そこで初めてわずかに目を伏せた。


「必要がなかっただけに見えました」


 黒崎はペンを取った。


 必要な場合のみ殺害。


 そう書いた。


「その後、福岡仁は資料を回収しましたね」


「はい」


「どの資料を」


「道路図。車両情報。配置図。処理手順」


「写真は」


 三号の指が、黒い手袋の中で動いた。


「見えませんでした」


「見えなかった」


「はい」


「だが、なくなっている」


「はい」


「福岡仁が持ち去った可能性が高い」


「はい」


「その写真を見た後、福岡仁はどうしましたか」


 三号は少しだけ息を吸った。


「停止しました」


「どの程度」


「短時間です」


「戦術的停止ですか」


「違います」


「では」


「分かりません」


 黒崎は、三号を見た。


「分からない、が増えましたね」


「はい」


「それで構いません。分からないものを、分かったことにしないでください」


「はい」


「その後」


「軽トラックを使用し、京都方面へ移動しました」


「黒瀬了とは合流しなかった」


「はい」


「山口線も追わなかった」


「はい」


「負傷は」


「確認できません」


「錯乱は」


「ありません」


「速度は」


「通常でした」


「逃走に見えましたか」


「いいえ」


「追跡に見えましたか」


「いいえ」


「では、何に見えましたか」


 三号は答えなかった。


 答えられないのではなかった。


 答えるための分類を持っていなかった。


 黒崎は待った。


 三号は、やがて言った。


「命令ではない動きに見えました」


 黒崎のペンが止まった。


 命令ではない動き。


 それは、白班の人間が言うには重い言葉だった。


 白班は命令で動く。


 命令で止まる。


 命令で痛みを消す。


 命令で名前を使わない。


 その白班の三号が、命令ではない、と見た。


 黒崎は、細く書いた。


 命令体系外反応。


 その下に、


 第三名称欄と関連の疑い。


 三号は立っていた。


 黒崎は尋ねた。


「三号」


「はい」


「あなたは、福岡仁が写真を見た後、何か声を聞きましたか」


「いいえ」


「名前は」


「聞いていません」


「言葉は」


 三号は一拍遅れた。


「手を離した、と」


 黒崎は目を細めた。


「誰が」


「福岡仁が」


「誰の手を」


「分かりません」


「その前後に、誰かの名前は」


「ありません」


「宮崎めぐみの名は」


「ありません」


「犬塚央は」


 三号は答えた。


「ありません」


 今度は遅れなかった。


 黒崎は頷いた。


「よろしい」


 三号は立ったままだった。


 黒崎は、資料を閉じた。


「下がってください」


「はい」


 三号は部屋を出た。


 廊下に出る。


 白い壁。


 白い床。


 足音は小さい。


 首の横が痛む。


 痛みは支障ではない。


 支障ではないものは報告しなくていい。


 そう教えられている。


 だが、痛みとは別に、耳の奥に残っている言葉があった。


 手を離した。


 三号には、その意味が分からない。


 分からない。


 だが、消えない。


 京都方面へ下る軽トラックの中で、ジンは何度も正しい手順を考えていた。


 黒瀬と合流する。


 山口線へ戻る。


 回収資料を渡す。


 白班の配置を報告する。


 三号がいたことを伝える。


 通信遮断の方式を伝える。


 黒崎が岡山を使ったことを伝える。


 正しい。


 全部、正しい。


 それなのに、ハンドルは京都方面へ向いている。


 ジンは、何度も戻ろうとした。


 次の分岐で反転する。


 そう決める。


 分岐が来る。


 手は動かない。


 次の退避所で止まる。


 そう決める。


 退避所が来る。


 アクセルは緩まない。


 理由はない。


 命令もない。


 黒瀬の指示もない。


 合理もない。


 あるのは、胸の内側に入れた一枚の写真だけだった。


 大きな楠。


 木陰。


 眠る二人。


 重なった手。


 写真は、服の内側で折れずに残っている。


 ジンは、そこに手を入れなかった。


 触れば、また何かが起きる。


 何が起きるのか分からない。


 分からないものに触れることを、ジンは嫌った。


 戦場では、分からないものには近づかない。


 触るなら、先に危険を潰す。


 爆発物。


 罠。


 通信機。


 人間。


 分からないものは、分かる形にしてから扱う。


 なのに、その写真だけは分かる形にならない。


 地図ではない。


 命令書ではない。


 脅迫材料でもない。


 証拠でもない。


 それなのに、捨てられない。


 ジンはミラーを見た。


 後続車はない。


 追跡もない。


 今なら止まれる。


 止まらない。


 京都方面の標識が見えた。


 緑の板に白い文字。


 距離表示。


 普通の道路標識。


 ジンの手が、そこで少しだけ震えた。


 また涙が落ちた。


 今度は頬から顎へ、ゆっくり落ちた。


 ジンはそれを拭かなかった。


 涙の扱い方が分からない。


 血なら拭ける。


 泥なら落とせる。


 汗なら無視できる。


 涙は、分類できない。


 なぜ泣いているのか。


 まだ考えられない。


 考えようとすると、写真の中の手が浮かぶ。


 重なった手。


 眠っている手。


 離れていない手。


 手を離した。


 自分が言った言葉を、ジンは少し遅れて思い出した。


 誰に言ったのか。


 何を指していたのか。


 分からない。


 だが、その言葉だけは正しかった。


 手を離した。


 いつ。


 どこで。


 誰の。


 分からない。


 分からないまま、身体だけが戻ろうとしている。


 兵士としてのジンは、黒瀬と合流すべきだと知っている。


 福岡仁としてのジンは、山口線を追うべきだと知っている。


 真柴直樹としての紙は、まだ沈黙している。


 その下で、なおだけが騒いでいた。


 声にはならない。


 記憶にもならない。


 ただ、ハンドルを京都へ向けている。


 黒瀬は、山口方面へ走り続けていた。


 白いトラックは前方にいる。


 距離は少し開いた。


 だが、まだ見える。


 黒瀬は無線を入れた。


「エレーナ」


「はい」


「ジンは京都へ向かった」


 エレーナの返事は、すぐには来なかった。


「確認できたんですか」


「黒崎側の動きが変わった。岡山から京都側へ監視が寄っている」


「黒崎も気づいた」


「ああ」


「ジン本人は」


「説明できないはずだ」


「なぜそう思いますか」


「説明できるなら、戻らない」


 黒瀬は前を見たまま言った。


「本来なら、俺と合流する。資料を渡す。山口線へ戻る。それが正しい」


「それを捨てた」


「捨てたというより、握れなかった」


「名前ですか」


 黒瀬は少し黙った。


「名前の手前だ」


「手前」


「名前になる前のものだ。場所か、匂いか、手か。分からん」


「写真ですか」


「おそらく」


「内容は」


「まだ不明」


「めぐみさんには」


「言うな」


「末安さんには伝えています」


「十分だ」


「黒瀬さん」


「何だ」


「ジンは、危険ですか」


 黒瀬は、ほんの少しだけ速度を落とした。


 前のトラックとの距離が開く。


 すぐに戻す。


「危険だ」


「京都に入れますか」


「入れない方がいい」


「でも向かっている」


「ああ」


「止めるのは」


「末安になる」


 エレーナの声が低くなった。


「めぐみさんではなく」


「宮崎が止めたら、壊れる可能性がある」


「どちらが」


「両方だ」


 通信の向こうで、紙が動く音がした。


 エレーナは言った。


「黒崎は、これを観測します」


「もうしている」


「三つ目を探しますね」


「探すだろうな」


「先に名前を見つけられたら」


「終わる」


 黒瀬は短く答えた。


「だから、ジンより先に黒崎の線を切る」


「山口線ですね」


「ああ」


「ジンは」


 黒瀬は、白いトラックを見た。


「自分で戻るしかない」


 通信が切れた。


 黒瀬はアクセルを踏んだ。


 山口線は前にある。


 ジンは後ろにいる。


 京都は、さらに後ろだ。


 それでも、今は前へ行く。


 遅れを嫌うからではない。


 遅れれば、黒崎が先に名前へ届くからだ。


 京都の拠点では、末安えりがスケッチブックを移動させていた。


 布に包んだまま、胸に抱えている。


 軽そうに見える。


 だが、えりの腕には重く感じた。


 紙の重さではない。


 見てしまったものの重さだった。


 大きな楠。


 手をつないで眠るふたり。


 なお。


 めぐみが、まだ現在形で呼んだ名前。


 えりは、いつもの速度で歩こうとして、少し落とした。


 速すぎると、紙が揺れる。


 雑に扱えば、めぐみの中の何かまで傷つける気がした。


 それが腹立たしかった。


 自分らしくない。


 だが、雑にはできない。


 廊下の角で、めぐみが立っていた。


 いつからいたのか分からない。


 声をかけなかったのは、声をかけたら何かがほどけるからだろう。


 えりは立ち止まった。


「見張ってるの」


 めぐみは首を横に振った。


「……見送ってるだけ」


「大げさ」


「……うん。そうかも」


「隠すだけ。捨てない。燃やさない。破かない」


「……うん」


「消さない」


 めぐみの目が、少しだけ揺れた。


「……ありがとう」


「褒めてない」


「知ってる」


 えりは、スケッチブックを抱え直した。


「来るかもしれない」


「……うん」


「黒瀬じゃない。たぶん、あっち」


「なお」


 その名前を、めぐみは声にしなかった。


 唇が少しだけ動いた。


 でも、音にはしなかった。


 えりは頷いた。


「呼ばない」


「……うん」


「見る」


「うん」


「止める」


「うん」


「でも、もし」


 えりは言いかけて、やめた。


 めぐみが続きを待っている。


 待ち方が静かだった。


 急かさない。


 責めない。


 ただ、相手の言葉が来る場所を空ける。


 えりは、その待ち方が昔から少し苦手だった。


 速く言えと言いたくなる。


 でも、言えない。


「もし、あいつが何で戻ってきたか、自分でも分かってなかったら」


 めぐみの目が伏せられた。


「……そうだと思う」


「会ったことないんでしょ、今のあいつには」


「うん」


「なのに分かるの」


「……分かる、じゃないかな」


「じゃあ何」


「そうだったら、かわいそうだなって」


 えりは黙った。


 かわいそう。


 その言葉を、めぐみは誰にでも使わない。


 軽く使わない。


 使ったあと、必ず少し傷ついた顔をする。


 まるで、相手を下に見たことを自分で嫌がっているように。


「……自分の帰る理由が分からないのは、怖いよ」


 めぐみは低く言った。


「名前を呼ばれないことより、怖い時がある」


 えりは、スケッチブックを抱えたまま息を吐いた。


「じゃあ、どうするの」


「呼ばない」


「それは聞いた」


「……でも、逃げない」


 えりは、めぐみを見た。


 めぐみの声はやわらかかった。


 だが、その奥に、動かないものがあった。


「隣にいる」


 えりは煙草を吸いたくなった。


 今すぐ。


 強く。


 でも吸わなかった。


「分かった」


「えりさん」


「なに」


「もし、私が呼びそうになったら」


「口ふさぐ」


「……うん」


「痛くしない程度に」


「ありがとう」


「褒めてない」


「知ってる」


 えりは、スケッチブックを持って奥へ進んだ。


 めぐみはその背中を見送った。


 走らない背中。


 でも、速い背中。


 大切なものを抱えているから、少しだけ速度を落としている背中。


 めぐみは、そこでようやく息を吐いた。


 なお。


 呼ばない。


 まだ呼ばない。


 でも、逃げない。


 黒崎は、白い机の前で三つの欄を見ていた。


 真柴直樹。


 Jin FUKUOKA。


 第三名称欄。


 空白。


 空白は、消えたように見える。


 それは宮崎めぐみの言葉だった。


 黒崎は、その言葉を知らない。


 だが、同じことを別の意味で理解していた。


 空白は、隠れる。


 隠れるものは、追いにくい。


 追いにくいものは、危険だ。


 黒崎は、空白のままにはしなかった。


 そこに小さく書く。


 不明。


 そして、すぐに線を引いた。


 違う。


 不明では足りない。


 不明は、分からないだけだ。


 これは違う。


 分からないものが、すでに動いている。


 黒崎は、別の言葉を書いた。


 未特定。


 その横に、黒い点。


 まだ名前ではない。


 まだ線でもない。


 ただの点。


 だが、点は増える。


 非合理帰還。


 命令体系外反応。


 非文字記録写真欠落。


 手を離した。


 京都方面へ移動。


 黒崎は、点と点を見た。


 まだ線にはしない。


 早く線にすると、間違える。


 間違えれば、壊し方を間違える。


 だから、待つ。


 黒崎は待てる。


 赤ペンを持ったまま、待てる。


 京都方面へ下る軽トラックの中で、ジンは理由を持っていなかった。


 理由がないまま、進んでいた。


 胸の内側に、写真がある。


 そこに大きな楠がある。


 二人が眠っている。


 手が重なっている。


 ジンは、その写真をもう見ていない。


 見ていないのに、見えている。


 目の前の道路より、はっきりと。


 山道が終わり、町の灯りが見え始めた。


 京都までは、まだ距離がある。


 戻るには遠い。


 引き返すには遅い。


 合流するには、もう遅れすぎている。


 ジンは、初めて小さく呟いた。


「何をしている」


 答えはなかった。


 福岡仁は答えない。


 真柴直樹も答えない。


 兵士は、答えを持っているはずだった。


 地図を見ろ。


 黒瀬へ戻れ。


 山口線を追え。


 資料を渡せ。


 それが正しい。


 それなのに、なおだけが答えを持たないまま、帰ろうとしていた。


 ジンはハンドルを握った。


 涙はもう出ていない。


 だが、泣いた場所がまだ熱い。


 その熱が、ジンには分からない。


 処理できない。


 消せない。


 京都方面の標識が、もう一度現れた。


 ジンは、それを通り過ぎた。


 説明できないまま。


 愚行だと分かっていながら。


 胸の内側で、写真だけが折れずに残っていた。


 楠の下で、二人の手が重なっている。


 兵士は、まだ理由を持っていない。


 なおだけが、帰ろうとしていた。


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