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第八十二話 楠

##第八十二話 楠


 黒崎は、写真を見ていた。


 白い机の上に、一枚の印刷紙が置かれている。


 画質は悪い。


 誰かが、古い映像記録から切り出したものだった。


 背景には、ロシア語の紙片が貼られた壁。


 古い棚。


 窓。


 中央には、アレクセイ・イリイチ・サボリンがいた。


 今より少し若い。


 だが、目は同じだった。


 紙が人を戻すことも、紙が人を殺すことも知っている男の目だった。


 その斜め後ろに、一人の男が立っている。


 顔は半分しか写っていない。


 窓の反射で、頬から下が白く飛んでいる。


 普通なら、判別不能。


 普通なら、参考外。


 普通なら、破棄。


 黒崎はそうしなかった。


 顔を見る必要はなかった。


 肩。


 足の置き方。


 出口との距離。


 誰からも遠く、誰にでも届く位置。


 部屋の中にいながら、部屋の外へ半分だけ残している立ち方。


 その男は、写真の中で笑っていなかった。


 怒ってもいなかった。


 ただ、そこにいた。


 いるのに、残らない。


 残らないように立っている。


 黒崎は、横に別の紙を置いた。


 真柴直樹。


 もう一枚。


 Jin FUKUOKA。


 さらに一枚。


 エレーナ・グレイ。


 アメリカ系ロシア人。


 米側登録名。


 ロシア系移民ネットワーク。


 民間支援記録。


 サボリン周辺接触者。


 白羽の外部照会班が掘り出した線は、細かった。


 細すぎる線だった。


 だが、細い線ほど、長く切れずに残ることがある。


 黒崎は、写真の男の肩の部分を指で押さえた。


 こいつは、直樹だ。


 そう口にはしなかった。


 声にすれば、部屋の中に温度が生まれる。


 黒崎は温度を嫌った。


 代わりに、黒いペンを持つ。


 赤ではない。


 まだ消す段階ではない。


 余白に書いた。


 同一候補。


 その下に、もう一行。


 名称運用分離の疑い。


 黒崎はペンを置いた。


 真柴直樹。


 Jin FUKUOKA。


 同じ人物として結ぶには、反応がずれる。


 別人として処理するには、痕跡が近すぎる。


 逃走名。


 偽名。


 国外活動名。


 どれも違う。


 もっと実用的で、もっと危険な分け方。


 黒崎は、そこで思考を止めた。


 確定していないものは、確定として扱わない。


 確定していないからこそ、実験する。


 扉が開いた。


 三号が入ってきた。


 白い作業服。


 黒い手袋。


 胸元の数字。


 三。


 その後ろに、同じ服の人間が二人立っていた。


 四号。


 六号。


 どちらも若い。


 どちらも静かだった。


 静かすぎた。


 白羽には、番号だけで動く部隊がある。


 表向きは生活環境調整班。


 水を運ぶ。


 衣類を運ぶ。


 移送を補助する。


 現場を整える。


 そういう顔をしている。


 だが、内部では別の扱いをされていた。


 白班。


 本名を使わない。


 私物を持ち込まない。


 記録に感情を書かない。


 命令に疑問を挟まない。


 汚れを残さない。


 失敗した者を長く置かない。


 忠誠ではなく、純度。


 勇気ではなく、機能。


 白羽の人間であるか。


 そうでないか。


 それだけで、扱いが決まる。


 黒崎は三人を見た。


 人を見る目ではない。


 記録の配置を見る目だった。


「黒瀬了は、山口線を追います」


 三号が答えた。


「はい」


「彼はラグを嫌う。余計な遅れを嫌う。山口線が動けば、そちらを優先する可能性が高い」


「はい」


「福岡仁は、分断します」


 三号の指が、黒い手袋の中で止まった。


 黒崎は見た。


「反応しましたね」


「していません」


「嘘は不要です」


 三号は黙った。


 黒崎は、岡山周辺の道路図を机に広げた。


 山林を抜ける細い県道。


 工事中の迂回路。


 片側だけ崩れた法面。


 雨のあとに水が残りやすい谷筋。


 携帯の電波が弱い区間。


 山口方面へ抜ける物流線。


 京都方面へ戻る生活道路。


 二つの線が、岡山の手前で一度だけ近づく場所がある。


 黒崎は、そこに黒い点を打った。


「ここで車両を止めます」


「事故に見せますか」


「停戦中です。事故でなければ困ります」


「回収対象は」


「福岡仁」


「黒瀬了は」


「山口線へ流します」


「失敗した場合は」


「車両ごと処理」


 三号は答えた。


「はい」


「白班を二名つけます。四号、六号」


「はい」


「あなたは、福岡仁を誘導してください」


「殺害ですか」


「回収です」


 黒崎は一拍置いた。


「ただし、回収不能なら、記録に残らない形で終わらせます」


「はい」


「山林であれば、道路状況の不良にできます。停戦中の事故として処理できます。通信障害も自然です。車両火災も、谷側への転落も、不自然ではない」


「はい」


「黒瀬了には、選択肢を残します」


 三号は顔を上げなかった。


「選択肢ですか」


「人は、選択肢が完全に消えると強くなります」


 黒崎は、地図の山口方面の線を指でなぞった。


「山口線を追える可能性を残す。福岡仁を追える可能性も残す。両方は選べない。その状態を作ります」


「はい」


「黒瀬了は、山口線を選ぶ」


「はい」


「福岡仁は残る」


 三号は答えた。


「はい」


 黒崎は、三号を見た。


「あなたは、名前に反応しないこと」


「はい」


「犬塚央は使いません」


「はい」


「宮崎めぐみの未確認も、消さないも、忘れてください」


 三号の指が、動きそうになった。


 動かなかった。


 黒崎は、それも見た。


「よろしい」


 岡山の空は、低かった。


 雨はやんでいる。


 だが、山の空気には水が残っていた。


 黒瀬の車は、県道を上がっていた。


 道幅は広くない。


 左は山肌。


 右は谷。


 ガードレールは古い。


 錆びている。


 カーブミラーには、白く曇った空と黒瀬の車が小さく映っている。


 ジンは助手席で、窓の外を見ていた。


 膝の上には、薄い封筒がある。


 まだ開けていない。


 封筒の端には、指の跡がついていた。


 黒瀬は前を見たまま言った。


「山口まで行く」


「分かってる」


「岡山は中継だ。止まる場所じゃない」


「分かってる」


「ラグを作るな」


「お前が一番嫌うやつだろ」


「だから言っている」


 ジンは返事をしなかった。


 車のタイヤが、水を踏んだ。


 泥が跳ねる。


 山の匂いが車内に入る。


 濡れた土。


 錆びた鉄。


 古い落ち葉。


 遠くで、重い車両の音がした。


 黒瀬が少しだけ速度を落とす。


「前方、白いトラック」


 ジンが言った。


「見えている」


「外箱記号は」


「近づけば分かる」


「近づく前に止められる」


「その可能性がある」


 黒瀬は、ハンドルを握る手を緩めなかった。


「止められたら」


「俺が降りる」


「降りるな」


「お前が追うなら、誰かが残る」


「まだ残る場面じゃない」


「場面は向こうが決める」


 黒瀬は一瞬だけ黙った。


 その通りだった。


 襲撃は、受ける側が望む場所では起きない。


 望まない場所で起きるから襲撃になる。


 前方のカーブを曲がったところで、道が塞がれていた。


 倒木。


 太くはない。


 だが、車一台を止めるには十分だった。


 自然に倒れたように見える。


 見えるだけだった。


 切り口が新しい。


 切り口に雨水が染みていない。


 黒瀬はブレーキを踏んだ。


 同時に、後方から別の車の音。


 軽トラック。


 古いエンジン。


 速度を落とさない。


 黒瀬はバックミラーを見る。


「挟む気だ」


 ジンは封筒をダッシュボードに置いた。


 動作は静かだった。


「降りるな」


 黒瀬が言った。


 ジンはシートベルトを外した。


「山口線を追え」


「命令していない」


「必要ない」


「何をする」


 ジンはドアに手をかけた。


「遅れを消す」


 黒瀬は、ジンの横顔を見た。


 感情はなかった。


 怒りもない。


 焦りもない。


 子どもを守る顔でもない。


 誰かを助けたい顔でもない。


 それは、仕事を始める顔だった。


 黒瀬は知っていた。


 この顔のジンは、強い。


 そして危ない。


「処理に戻るな」


「戻る必要がない」


「今のお前は、戻る前にそう言う」


「追え」


 後ろの軽トラックが止まった。


 扉が開く。


 白い作業服。


 黒い手袋。


 四号。


 六号。


 前方の倒木の向こうにも、人影がある。


 三号。


 通信機が雑音を出した。


 電波が落ちる。


 自然ではない。


 だが、自然に見える。


 山の中なら、それで十分だった。


 黒瀬は一瞬だけ、前方のトラックを見た。


 山口線。


 外箱記号。


 床下の箱。


 今ならまだ追える。


 ジンを見た。


 ジンはもう車外にいた。


 黒瀬の選択肢は、ひとつ消えた。


「三分」


 黒瀬が言った。


 ジンは答えた。


「二分でいい」


 黒瀬は、倒木の左端を見た。


 軽なら通れる。


 今の車ではぎりぎりだった。


 だが、ジンが後方を止めれば抜けられる。


 黒瀬はアクセルを踏んだ。


 車体が倒木の端を擦る。


 金属音。


 塗装が削れる。


 白い作業服の四号が、後方から走ってくる。


 ジンは振り返らなかった。


 振り返らず、半歩だけ位置を変えた。


 四号の足音が近づく。


 濡れた路面で、踏み込みが一瞬だけ遅れる。


 初心者ではない。


 だが、山の濡れた路面に慣れていない。


 ジンは肩の動きを見た。


 右手。


 袖の中。


 短い棒。


 殴るためではない。


 関節を押さえるためのもの。


 ジンは棒を見なかった。


 棒を見ると遅れる。


 肩を見る。


 呼吸を見る。


 足の重さを見る。


 四号が腕を出す前に、ジンは内側へ入った。


 近すぎる距離。


 棒が使えない距離。


 四号の息が止まる。


 ジンの肘が、脇腹に入った。


 骨は狙わない。


 呼吸だけを奪う。


 四号の膝が折れる。


 声は出ない。


 出させない位置だった。


 六号が横から回る。


 黒瀬の車へ向かおうとしている。


 ジンは四号を盾にしなかった。


 盾にすれば早い。


 早いが、残る。


 残るものを増やすな。


 ジンは四号を路肩へ押し倒し、六号の進路へ踏み込んだ。


 六号は止まれなかった。


 濡れた路面。


 下りの傾斜。


 自分の速度。


 止まれない理由は、三つあった。


 ジンは、その三つを利用した。


 手首を取る。


 体重を流す。


 谷側へは落とさない。


 山肌へぶつける。


 鈍い音。


 六号の肩が石に当たる。


 武器が落ちる。


 金属ではない。


 樹脂の短棒。


 音が小さい。


 音を小さくする道具。


 ジンはそれを拾わなかった。


 拾えば、自分の手数が増える。


 今必要なのは、黒瀬の道を空けることだけだった。


 前方で、黒瀬の車が倒木の端を抜けた。


 車体が揺れる。


 泥を跳ねる。


 その先の白いトラックが動き出す。


 黒瀬は追った。


 ジンはそれを見なかった。


 見なくても分かった。


 エンジン音が離れていく。


 ラグは消えた。


 なら、次は自分の周囲を消す。


 三号が倒木の向こうから歩いてきた。


 逃げない。


 急がない。


 指示通りの速度。


 白い作業服は、山の中で目立つ。


 目立つことを気にしていない。


 見せるための服だった。


 白羽の服。


 汚れないことを前提にした服。


 ジンは、その白さが嫌いだった。


 嫌いだと思った瞬間、その感情を消した。


 感情は必要ない。


 必要なのは、距離。


 時間。


 音。


 逃げ道。


 三号の後ろに、もう一人。


 運転手。


 軽トラックの陰にいる。


 通信役。


 先に落とす。


 ジンは三号へ向かわなかった。


 軽トラックの陰へ向かった。


 三号の指が動く。


 遅い。


 予想と違う相手の動きに対する遅れだった。


 ジンは軽トラックの前を横切る。


 通信役が慌てて下がる。


 手に小型無線。


 もう片方の手は腰へ伸びる。


 そこに何があるかを見る必要はなかった。


 出させなければ同じだ。


 ジンは無線を持つ手を掴み、親指の付け根を押した。


 無線が落ちる。


 落ちる前に、ジンの靴が踏んだ。


 割れる音。


 小さい。


 通信役の口が開く。


 叫ぶため。


 ジンは喉を叩かなかった。


 叩けば残る。


 顎を押す。


 口が閉じる。


 後頭部を軽トラックの側面へ当てる。


 強すぎない。


 意識だけを落とす。


 身体がずり落ちる。


 ジンは膝で支え、地面に置いた。


 死体ではない。


 まだ。


 三号が来る。


 黒い手袋。


 若い。


 迷いがある。


 迷いは隙ではない。


 人間の残りだ。


 ジンは一瞬だけ、三号の胸元の数字を見た。


 三。


 犬塚央。


 その名前が喉まで来た。


 使わない。


 今の声で呼べば、武器になる。


 名前を武器にするな。


 誰の声だったか分からない言葉が、頭の奥で止まった。


 三号が踏み込む。


 黒い手袋の指が、ジンの袖を狙う。


 掴む動き。


 拘束。


 回収。


 殺害ではない。


 回収命令。


 なら、生かす余裕がある。


 生かす余裕がある敵は、遅い。


 ジンは袖を掴ませた。


 三号の指が布を掴む。


 掴んだ瞬間、三号の選択肢が消える。


 ジンは布ごと腕を巻き、三号の肘を固定した。


 折れる角度。


 折らない。


 折らなくても止まる。


 三号の呼吸が一度だけ乱れる。


 ジンは言った。


「離せ」


 三号は離さない。


「命令です」


「誰の」


「生活環境調整班」


「黒崎か」


 三号は答えない。


 ジンは肘の角度を一度だけ深くした。


 三号の膝が落ちる。


 声は出さない。


 痛みを声にしてはいけないと教えられている人間の静けさだった。


 ジンはその静けさを知っていた。


 知っているから、余計に速く終わらせた。


 三号の首の横を押す。


 血の流れを短く止める。


 落ちる。


 殺さない。


 落とすだけ。


 三号の身体が傾いた。


 ジンは地面に叩きつけず、膝で受けた。


 その動作に意味はない。


 作業効率としては、投げた方が早い。


 だが、投げなかった。


 なぜかは考えない。


 考えると遅れる。


 山の中に、黒瀬の車の音はもうない。


 白いトラックの音も遠い。


 残っているのは、倒れた人間の呼吸と、雨水が排水溝に落ちる音だけだった。


 ジンは立ち上がった。


 自分の呼吸を確認する。


 乱れていない。


 左手。


 擦過傷。


 右膝。


 泥。


 口の中に、血の味はない。


 痛みはある。


 だが、戦術的コストとしては低い。


 処理完了。


 そう判断しかけて、ジンは止まった。


 処理。


 黒瀬が嫌う言葉。


 エレーナが止めた言葉。


 名前を戻す場所に、処理する人間を入れてはいけない。


 ジンは、倒れた白い作業服たちを見た。


 四号。


 六号。


 通信役。


 三号。


 全員、生きている。


 少なくとも今は。


 殺していない。


 壊してもいない。


 だが、それは慈悲ではなかった。


 必要がなかっただけだ。


 ジンは、それを理解していた。


 自分の手は、まだ人を助ける手ではない。


 必要があれば、殺す手だった。


 必要がなかったから、殺さなかった。


 それだけだった。


 だから怖い。


 そう思う人間は、今ここにはいなかった。


 ジン自身も、まだそうは思わなかった。


 仕事が残っている。


 資料回収。


 通信機。


 車両鍵。


 外箱記号。


 命令書。


 残されたものを見る。


 ジンは、まず通信役のポケットを探った。


 小型端末。


 破損。


 予備のメモリ。


 紙片。


 次に六号。


 樹脂短棒。


 薄い封筒。


 中には地図。


 岡山の山林道路。


 山口線。


 京都方面へ戻る生活道路。


 黒い点。


 襲撃地点。


 ジンはそれを折ってポケットへ入れた。


 次に四号。


 車両番号。


 外箱記号。


 搬入時間。


 白班配置。


 最後に三号。


 黒い手袋。


 胸元の数字。


 浅い呼吸。


 まだ意識は戻らない。


 ジンは三号の胸ポケットから、薄い防水袋を抜いた。


 中には、紙が数枚入っていた。


 山口線の車両情報。


 黒瀬了の車種。


 福岡仁の特徴。


 回収不能時の処理手順。


 そして、一枚の写真。


 ジンは、それを最初、作業として見た。


 写真。


 非文字記録。


 回収対象か、破棄対象か。


 そう分類しようとした。


 だが、分類は途中で止まった。


 大きな木が写っていた。


 絵の写真だった。


 木の根が太い。


 木陰が広い。


 その下で、二人が眠っている。


 子どもではない。


 大人でもない。


 手足だけが伸びて、心がまだそこに追いついていないような、大きな子どもふたり。


 顔は粗くて分からない。


 線も少し潰れている。


 だが、手だけが見えた。


 二人の手が、重なっていた。


 握りしめているのではない。


 絡めているのでもない。


 ただ、離れていない。


 眠る前に、離れないことだけを確かめたような手。


 ジンの指が止まった。


 止まっただけだった。


 風が吹いた。


 山の水の匂いがした。


 濡れた土。


 錆びた鉄。


 倒木の新しい切り口。


 それらの匂いが、遠くなった。


 代わりに、ありえない匂いがした。


 夏の葉。


 木陰。


 乾いた土。


 誰かの髪。


 眠る前の、体温の近さ。


 ジンは写真を見ていた。


 見ているのに、見えていなかった。


 紙の中の手。


 重なった手。


 それだけが、視界の中央に残った。


 手。


 離してはいけなかった手。


 誰の手かは分からない。


 なぜそう思うのかも分からない。


 ただ、身体が知っていた。


 その手を、どこかで離した。


 ジンの喉が動いた。


 息を吸おうとして、入らなかった。


 敵は倒れている。


 道は開いた。


 黒瀬は進んだ。


 山口線は追えている。


 仕事は終わった。


 終わっている。


 なのに、身体が止まった。


 紙に水滴が落ちた。


 一滴。


 雨ではない。


 雨は降っていない。


 血でもない。


 血の色ではない。


 ジンは、それが自分の顔から落ちたものだと、少し遅れて理解した。


 涙だった。


 その理解は、疑問より遅かった。


 いや、疑問は来なかった。


 なぜ泣いているのか。


 そう考える前に、もっと大きいものが来た。


 泣く場所が、自分の中にまだ残っていた。


 その事実の方が、ジンには衝撃だった。


 身体が震えた。


 寒さではない。


 恐怖ではない。


 負傷でもない。


 戦闘後の震えでもない。


 もっと古い震えだった。


 喉の奥で、音にならない名前が動く。


 真柴直樹ではない。


 福岡仁でもない。


 もっと短い。


 もっと近い。


 誰かが呼んだわけではない。


 誰にも呼ばれていない。


 それでも、奥で起きた。


 なお。


 ジンは声にしなかった。


 できなかった。


 声にすれば、何かが崩れる。


 何が崩れるのか分からない。


 分からないまま、写真を持つ手だけが震えている。


 その手は、さっきまで敵を終わらせるために動いていた。


 黒瀬の遅れを消すために、必要なものを順番に落としていった手だった。


 通信を潰し、武器を外し、呼吸を奪い、道を開けた手だった。


 その手が、紙の中の重なった手を見た瞬間、離してはいけないものを思い出したように震えていた。


 三号が、かすかに息をした。


 ジンは写真から目を離した。


 戻る。


 どこへ。


 分からない。


 なぜ。


 分からない。


 誰に。


 分からない。


 だが、何かを離したままではいけない。


 それだけがあった。


 通信機が、割れた音の中で小さく鳴った。


 黒瀬の声は入らない。


 山の電波は戻っていない。


 ジンは、写真を防水袋に戻さなかった。


 折らなかった。


 ポケットにも入れなかった。


 しばらく持っていた。


 持ち方が分からなかった。


 資料としてなら、しまえばいい。


 証拠としてなら、保護すればいい。


 危険物としてなら、破棄すればいい。


 だが、それはどれでもなかった。


 ジンは、ようやく写真を胸の内側に入れた。


 濡れない場所。


 折れない場所。


 なぜそこに入れたのか、自分でも分からなかった。


 白い作業服たちは、まだ地面に倒れている。


 山の中の道は、静かだった。


 ジンは、軽トラックの鍵を拾った。


 通信役のベルトから外したものだった。


 古い軽トラック。


 後続封鎖に使われた車。


 燃料は半分。


 タイヤは生きている。


 京都方面へ戻る生活道路は、地図に残っている。


 罠かもしれない。


 誘導かもしれない。


 黒崎の作った線かもしれない。


 それでも、道だった。


 ジンは軽トラックへ向かった。


 途中で、三号の横を通る。


 三号の黒い手袋が、少しだけ動いた。


 意識が戻りかけている。


 ジンは足を止めた。


 犬塚央。


 呼ばない。


 今は呼べない。


 呼べば、また武器になる。


 ジンは、三号の手元に落ちていた樹脂短棒を遠くへ蹴った。


 それだけだった。


 軽トラックの扉を開ける。


 古い座席の匂い。


 煙草。


 泥。


 油。


 エンジンをかける。


 車体が震える。


 ジンの手も、まだ少し震えていた。


 戦闘のせいではない。


 写真のせいだった。


 楠。


 手。


 眠っているふたり。


 なお。


 その名前は、まだ声にはならない。


 声にならないまま、胸の奥で暴れている。


 黒瀬は、山口方面へ走っていた。


 白いトラックはまだ前にいる。


 距離は縮まっていない。


 だが、離れてもいない。


 通信が少しだけ戻った。


 黒瀬はすぐにジンへつなぐ。


 雑音。


 応答なし。


 もう一度。


 応答なし。


 黒瀬は舌打ちをしなかった。


 そういう癖を持たない。


 ただ、ハンドルを握る手に力が入った。


「エレーナ」


 通信を切り替える。


「はい」


「岡山で剥がされた」


「ジンですか」


「ああ」


「戻りますか」


「戻らない」


 黒瀬の声は硬かった。


「戻れば山口線が消える」


「ジンは」


「生きている」


「確認は」


「していない」


「では、なぜ」


「死んでいれば、もう山が燃えている」


 エレーナは沈黙した。


 黒瀬は続けた。


「黒崎の狙いは、福岡仁の回収だ。殺すだけならもっと早い」


「三号は」


「いた」


「犬塚央の反応は」


「分からん」


 黒瀬は前方の白いトラックを見る。


「ただ、ジンは残った」


「自分の意思で?」


「黒瀬了のラグを消すためだ」


「合理的ですね」


「最悪の意味でな」


 エレーナは、低く言った。


「処理に戻りましたか」


「戻った」


 黒瀬は短く答えた。


「たぶん、戻った」


「止めますか」


「今は止められない」


「京都へ向かう可能性は」


「ある」


「めぐみさんには」


「まだ言うな」


「末安さんには?」


「言え。アトリエ周辺の保全。非文字記録の移動。説明は最小限」


「分かりました」


 通信が切れた。


 黒瀬はアクセルを踏んだ。


 山口線は前にある。


 ジンは後ろにいる。


 どちらも捨てられない。


 だが、同時には拾えない。


 黒崎は、それを知って仕掛けた。


 黒瀬は前を見た。


 ラグを嫌う。


 遅れを嫌う。


 だからこそ、今は進むしかない。


 京都の拠点では、末安えりがアトリエの扉の前に立っていた。


 エレーナからの通信は短かった。


 岡山で分断。


 ジン単独行動。


 黒崎の仕掛け。


 非文字記録の保全。


 めぐみには、まだ詳しく言わない。


 えりは、煙草に手を伸ばしかけた。


 やめた。


 子どもの部屋が近い。


 ミントを噛む。


 噛む音が少し大きかった。


「トロトロしてたら、思い出まで持っていかれる」


 小さく言って、扉を開けた。


 アトリエの中は静かだった。


 棚。


 色鉛筆。


 描きかけの紙。


 支援物資の箱。


 そして、スケッチブック。


 えりは、それを手に取った。


 開かない。


 もう見た。


 これ以上見ると、自分のものにしてしまう。


 これは、めぐみのものだ。


 えりは、古い布でスケッチブックを包んだ。


 子ども用のタオル。


 名前のタグはついていない。


 えりは、内側に小さく書いた。


 未確認。


 それから、


 消さない。


 誰に教わったのかは、言うまでもない。


 廊下の向こうから、めぐみの足音がした。


 急がない足音。


 でも、いつもより少しだけ速い。


「……えりさん?」


 えりは振り返った。


「移動する」


「何を?」


「これ」


 めぐみの目が、包まれたスケッチブックに落ちた。


 呼吸が止まる。


 ほんの少し。


「……どうして」


「狙われる可能性がある」


「誰に」


「説明はあと。今は隠す。あんたは仕事に戻る」


「えりさん」


「ダメ」


「……それは」


「分かってる」


 えりの声が、少し低くなった。


「分かってるから、持つ」


 めぐみの指が震えそうになった。


 震えなかった。


 震えないように、折れた鉛筆を握った。


「……見たの?」


「前に、ちょっと」


「……そっか」


「怒っていいよ」


「あとでね」


「あとで怒られるの嫌い。スピード落ちる」


 めぐみは笑おうとした。


 笑えなかった。


 えりは言った。


「なおが来るかもしれない」


 その名前が、廊下に落ちた。


 小さく。


 でも、はっきりと。


 めぐみの顔から、色が抜けた。


「……えりさん」


「ごめん」


「呼ばないで」


「分かってる」


「まだ……呼ばないで」


 声が、少しつっかえた。


 いつものやわらかい声が、そこでだけ切れた。


 えりは頷いた。


「呼ばない。見るだけ」


「……壊れそうだったら」


「止める」


「壊しそうだったら」


「止める」


「……戻れそうだったら」


 えりは、そこで少しだけ迷った。


 めぐみは、低く言った。


「呼ばないで、隣にいて」


 えりは、スケッチブックを抱える腕に力を入れた。


「了解」


「……速くしないで」


「それは無理」


「えりさん」


「でも、雑にはしない」


 めぐみは、小さく頷いた。


「……うん」


 岡山の山林道路で、軽トラックが動き出した。


 ジンは一度だけバックミラーを見た。


 白い作業服が、路面に残っている。


 全員、生きている。


 少なくとも今は。


 道の向こうには、京都方面へ戻る細い生活道路がある。


 それが罠かどうかは分からない。


 だが、胸の内側には写真がある。


 大きな楠。


 木陰。


 眠るふたり。


 重なった手。


 ジンの目から、また一滴落ちた。


 今度は、ハンドルの上だった。


 ジンは拭かなかった。


 拭くという発想が遅れて来た。


 涙をどう扱えばいいのか、分からなかった。


 血なら拭ける。


 泥なら落とせる。


 汗なら無視できる。


 涙だけが、処理できなかった。


 ジンは前を見た。


 兵士は、まだそこにいる。


 機械も、まだ動く。


 だが、その奥で、なおが起きていた。


 誰にも呼ばれていないのに。


 呼ばれていないまま、暴れていた。


 軽トラックは、白く曇った岡山の山道を、京都の方へ下り始めた。


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