第九話 名前の棚
## 第九話 名前の棚
林道は、町の裏側へ続いていた。
舗装は割れ、ところどころに草が生えている。
木の枝が道に張り出し、車が通った形跡はなかった。
それでも、道だった。
人が何かを運ぶために作った道だった。
健二は最後尾を歩きながら、何度も人数を数えた。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
七人。
八人。
八人いる。
まだ、八人いる。
名前は四人。
中原悠斗。
宮原美月。
笹原蓮。
浅野悠太。
残り四人は、まだ番号のままだった。
三二二。
三一六。
三二四。
三三〇。
健二はその四つの番号を、頭の中で何度も繰り返していた。
番号として覚えたいわけではない。
あとで、名前と入れ替えるためだった。
前を歩く三二二は、まだ少し震えていた。
沢で濡れた服は、完全には乾いていない。
取水管理室で巻いた麻袋とウエスで、少しは冷えを防いでいる。
だが、体力は削られている。
直樹もそれを見ていた。
足の運び。
肩の高さ。
呼吸の浅さ。
何も言わないが、見ている。
「止まるか」
健二が聞いた。
「止まらない」
「三二二、冷えてるぞ」
「だから止まらない」
「また意味が分からん」
「止まれば冷える。動けば戻る」
「どれくらいなら危ない」
「震えが止まったら危ない」
健二は三二二を見た。
彼女はまだ震えている。
震えている方がいい。
それが分かること自体、嫌な知識だった。
直樹は短く言った。
「旧図書館まで、あと少しだ」
瀬田ハルが前方を見た。
「この林道を下り切れば、裏手に出ます」
「正面は使わない」
「はい。正面玄関は通りに面しています」
「裏は」
「配本車用の搬入口がありました。今も残っていれば」
健二が顔を上げた。
「図書館なら、返却ポストと搬入口がある。あと、地下書庫があるなら換気口もあるはずです」
直樹が振り返らずに言った。
「見ろ」
「はいはい」
「はいは一回でいい」
「兄ちゃんが先生みたいなこと言うな」
悠斗が小さく笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
遠くで、犬の声がまた響いたからだ。
今度は山の上ではない。
背後の林道の方だった。
追手は、水路からこちらへ戻ってきている。
直樹は足を止めなかった。
「急ぐ。走らない」
その言葉だけで、子どもたちは歩幅を少し上げた。
もう、誰も大きく走り出そうとはしなかった。
追われている時ほど、足を乱さない。
その感覚が、少しだけ列の中に入ってきていた。
*
旧図書館は、林道の終わりにあった。
町の端に建つ、低いレンガ色の建物だった。
正面から見れば、古い市立図書館にしか見えない。
だが今は、入り口に板が打ちつけられ、窓には白い紙が貼られていた。
閉鎖施設。
資料選別中。
無断立入禁止。
その下に、小さな文字でこう書かれていた。
思想汚染資料保管対象。
健二は看板を見て、口を曲げた。
「本まで汚染扱いかよ」
瀬田ハルは答えなかった。
子どもたちは、図書館を見上げている。
本がたくさんある場所。
そう聞いていたからだろう。
浅野悠太が小さく聞いた。
「ここに、名前があるの」
「あるかもしれない」
瀬田ハルが答えた。
直樹がすぐに言った。
「約束じゃない」
健二が顔をしかめる。
「また言い方」
「期待で足が止まる」
悠太は少しだけうつむいた。
だが、瀬田ハルが続けた。
「でも、探します」
悠太はうなずいた。
直樹は建物を見ていた。
正面玄関。
左右の窓。
裏手へ回る細い通路。
屋上の端。
隣の空き地。
「人は」
健二が聞いた。
「見える範囲にはいない」
「いないなら」
「見えない所にいるかもしれない」
「嫌な言い方だな」
「生き残る言い方だ」
健二は何も返せなかった。
直樹は裏手へ向かう。
全員がそれに続いた。
裏側には、古い搬入口があった。
配本車が横づけできる高さの、鉄の扉。
その横に、小さな返却ポスト。
地面には、昔の車止めが残っている。
健二は扉を見る。
「こっちは無理だな」
「開かないか」
直樹が聞く。
「開けられるかもしれない。でも音が出る。鉄扉が歪んでる」
「他は」
健二は返却ポストを見た。
投入口は狭い。
子どもでも通れない。
それから壁の下を見る。
雨水の跡。
換気口。
低いコンクリートの段差。
「地下書庫があるなら、下に空間がある。換気の逃げがあるはず」
健二は壁沿いに歩いた。
手でレンガの継ぎ目を触る。
直樹が周囲を見張る。
瀬田ハルは子どもたちを壁際に寄せた。
「ここ」
健二が止まった。
建物の角に、古い格子があった。
草に隠れている。
格子の奥は暗い。
「換気口か」
直樹が聞いた。
「たぶん地下書庫の換気。大人は無理。でも、ここから中の鍵に触れるわけじゃない」
「なら使えない」
「いや」
健二は格子の上を見た。
その横に、点検用の小さな鉄扉がある。
大人が通るには狭い。
だが、体を横にすれば入れるかもしれない。
「点検口がある」
「開くか」
「錆びてる。でも、ここは人が開けるための扉だ。こっちの方が音は少ない」
健二は扉の縁を触った。
蝶番は古い。
だが、完全には死んでいない。
「時間くれ」
「一分」
「短い」
「犬が来る」
「分かってるよ」
健二は鉄扉を力任せに引かなかった。
扉の上を軽く押す。
下を少し持ち上げる。
歪んでいる方向を見る。
これは建物の癖だ。
壊すのではなく、逃がす。
父親が昔、何度も言っていた。
古い建物は、怒らせるな。
健二は小さく息を吐き、扉を持ち上げるように引いた。
金属が擦れる。
だが、鳴りすぎない。
少し開いた。
「いける」
直樹が先に中を覗いた。
暗い。
下へ降りる短い梯子がある。
地下へ続いている。
「俺が先に入る」
「腕」
「動く」
「狭いぞ」
「お前よりは通る」
「それ言うと思った」
直樹は体を横にして点検口を抜けた。
音もなく中へ消える。
数秒後、下から小さく声がした。
「入れ」
子どもたちが一人ずつ入る。
美月は少し怖がったが、悠斗と蓮が先に下りると続いた。
三二二は点検口の前で一瞬止まった。
健二は何も言わなかった。
急かさない。
三二二は自分で格子に手をかけた。
「行きます」
そう言って、下りた。
健二は最後に入ろうとして、点検口を見た。
狭い。
またか。
「絶対、俺向きじゃない」
下から直樹の声がした。
「痩せろ」
「聞こえてるからな」
「だから言った」
健二は腹を引っ込め、肩をねじ込んだ。
作業服がまた擦れる。
どうにか中へ入り、梯子を下りた。
*
地下は、紙の匂いがした。
湿気。
埃。
古いインク。
木の棚。
取水管理室とも、給食センターとも違う匂いだった。
声を出すと、書棚の間で吸い込まれるような感じがした。
地下書庫だった。
低い天井。
長く並ぶ棚。
段ボール箱。
古い新聞。
郷土資料。
学校史。
町内会記録。
瀬田ハルが息を呑んだ。
「残ってる……」
健二は周囲を見た。
「全部?」
「分かりません。でも、選別される前の資料が残っているかもしれません」
悠斗が棚に近づいた。
「触っていいの」
瀬田ハルは少し迷った。
昔なら、きっと「丁寧にね」と言ったのだろう。
今は違う。
彼女は小さくうなずいた。
「破らないように。静かに」
悠斗はそっと本の背を撫でた。
美月もそれを真似した。
浅野悠太は本を見上げている。
「こんなに名前があるの」
健二は棚のラベルを見た。
人名録。
卒業記念誌。
地域広報。
避難所記録。
学校だより。
「名前、ありそうだな」
その言葉で、まだ名前のない四人が顔を上げた。
三二二。
三一六。
三二四。
三三〇。
直樹が言った。
「焦るな。声を上げるな。探す順番を決める」
瀬田ハルがすぐに動いた。
「旧第七小学校関連の資料を探します。学校史、卒業文集、学級通信、図書貸出カード。番号と照合できるものがあれば」
健二は棚を見る。
「図書館なら、子どもの利用者カードが残ってるかもしれない」
瀬田ハルが振り返る。
「利用者カード」
「昔はバーコード管理でも、紙の控え残すところありましたよね。名前、住所、学校名、学年」
「あります。児童登録台帳」
「どこ」
瀬田ハルは書庫の奥を見た。
「事務資料の棚。たぶん奥です」
直樹が言った。
「健二、瀬田と行け。俺は入口を見る」
「兄ちゃんは」
「ここにいる」
「一人で残るなよ」
「入口は一つじゃない」
「答えになってない」
「だから見る」
健二は言い返しかけたが、やめた。
ここで口論している時間はない。
健二は瀬田ハルと書庫の奥へ向かった。
子どもたちは中央の広い場所に座らせる。
直樹は点検口側に立った。
足音を聞く位置。
外の気配を拾う位置。
子どもたちと入口の間。
いつもの場所だった。
*
奥の棚には、古い箱がいくつも並んでいた。
資料名は手書きだった。
児童読書記録。
図書館利用者台帳。
地域児童カード。
学校連携資料。
瀬田ハルの手が震えた。
「これです」
健二は箱を下ろす。
埃が舞う。
「番号と名前、つながるか」
「直接は難しいかもしれません。でも、旧住所や学校名、学年が合えば」
「やろう」
瀬田ハルは台帳を開いた。
紙は黄ばんでいた。
だが、文字は読める。
子どもたちは遠くから見ている。
全員が息を詰めているのが分かった。
健二は最初に三二二を呼ぼうとして、止まった。
番号で呼ぶのが嫌だった。
でも、名前はまだない。
直樹が遠くから言った。
「お前」
三二二が顔を上げた。
「年を覚えてるか」
三二二は首を振った。
「何年生だったか」
また首を振る。
瀬田ハルが優しく聞いた。
「好きだった本はありますか」
三二二はしばらく考えた。
「雨の日の、猫」
「雨の日の猫?」
「猫が、傘に入る」
瀬田ハルがはっとした。
「『あめのひのねこ』」
棚の奥から、健二が絵本の箱を引き出した。
古い読み聞かせ記録が挟まっている。
瀬田ハルは台帳をめくった。
「雨の日の猫……低学年向け。貸出記録」
紙を追う指が止まる。
「第七小学校、一年。佐伯千紘」
三二二は瞬きした。
「さえき」
「千紘」
「ちひろ」
その名前を口にした瞬間、彼女の顔が少し崩れた。
「ちー」
小さな声。
健二は息を止めた。
三二二は、胸の前で軍手を握ったまま言った。
「ちーちゃん、雨だから走らないって」
美月がそっと近づいた。
「千紘」
三二二。
いや、千紘は、美月を見た。
美月はもう一度言った。
「佐伯千紘」
千紘の目から、涙が落ちた。
さっき沢に落ちた時は謝った。
寒くて震えても泣かなかった。
でも、名前を呼ばれると、泣いた。
瀬田ハルは静かに言った。
「あなたの名前は、佐伯千紘です」
千紘は何度もうなずいた。
「はい」
それは、施設で返事をする時の「はい」ではなかった。
自分の名前を受け取る返事だった。
五人目。
健二は胸の奥で数えた。
名前は五人になった。
*
次は三一六だった。
三一六は、痩せた男の子だった。
髪が少し長く、いつも視線を下げている。
ここまで大きな声を出したことがほとんどない。
瀬田ハルが聞いた。
「覚えていることはありますか」
三一六は首を振る。
健二が聞いた。
「好きなものでもいい。食べ物でも、場所でも」
三一六は黙っていた。
蓮が横から言った。
「こいつ、ずっと数字見てた」
「数字?」
「施設でも、壁の数字とか、時計とか」
三一六は蓮を見た。
怒った顔ではなかった。
驚いた顔だった。
見られていたことに気づいた顔。
瀬田ハルは台帳ではなく、別の箱を開けた。
「算数教室……地域学習会……」
健二が棚のラベルを見る。
「学童の記録か」
「はい。図書館で放課後学習会をしていた時期があります」
三一六の指が、机の上を小さく叩いていた。
一、二、三、五、八。
健二は気づいた。
「それ、数えてるのか」
三一六は手を止めた。
「分からない」
瀬田ハルが資料をめくる。
「計算カード貸出記録……第七小学校二年……」
指が止まった。
「高瀬、陸」
三一六は何も言わなかった。
瀬田ハルがもう一度言う。
「高瀬陸」
男の子は、反応しない。
健二は焦りかけた。
違うのか。
そう思った時、三一六は小さく言った。
「りく」
「そう。陸」
「陸って、地面?」
健二はうなずいた。
「ああ。海じゃない方」
三一六は床を見た。
それから、自分の足元を見た。
「じゃあ、俺、落ちない?」
その言葉の意味を、健二はすぐには理解できなかった。
でも直樹が答えた。
「足がついてるなら、落ちてない」
三一六は直樹を見た。
「高瀬陸」
直樹が言った。
男の子は、自分の名前を確かめるように、床を一度だけ踏んだ。
「高瀬陸」
六人目。
健二は数えた。
悠斗。
美月。
蓮。
悠太。
千紘。
陸。
あと二人。
*
三二四は、小さな女の子だった。
千紘よりもさらに小さい。
ここまで、誰かの後ろに隠れることが多かった。
瀬田ハルが近づくと、三二四は蓮の後ろに隠れた。
蓮が困った顔をする。
「俺、壁じゃない」
健二が小さく笑いそうになった。
だが、三二四は本気で怖がっている。
瀬田ハルは距離を取った。
「近づきません。そこからでいいです」
三二四は蓮の袖を掴んだまま、瀬田ハルを見た。
「覚えていることはありますか」
三二四は首を振る。
「絵本は」
首を振る。
「食べ物は」
少しだけ考える。
「白い、丸い」
「白い丸い?」
「甘い」
健二が言った。
「団子?」
三二四は首を傾げる。
美月が言った。
「おもち?」
三二四は少しだけ反応した。
「おもち」
瀬田ハルが別の資料を探す。
「地域行事……餅つき……冬の交流会」
健二も箱を開ける。
古い写真が出てきた。
図書館前の広場で、子どもたちが餅つきをしている写真。
その裏に、参加児童の名前が貼られている。
瀬田ハルが一枚ずつ見る。
そして、手を止めた。
写真の端に、小さな女の子が写っていた。
大人の後ろに隠れている。
でも、手には白い餅を持っている。
瀬田ハルが写真を見せた。
「これ、あなたですか」
三二四は写真を見た。
蓮の袖を掴む手に力が入る。
「これ」
「覚えていますか」
「熱かった」
「お餅が?」
三二四はうなずいた。
「でも、おいしかった」
瀬田ハルは裏の名前を読んだ。
「村瀬、花音」
三二四は、写真から目を離さなかった。
「かのん」
「村瀬花音」
「かのん」
その音は、他の子たちよりもゆっくり戻ってきた。
怖がりながら、少しずつ手を伸ばすように。
花音は蓮の袖を離さなかった。
でも、小さく言った。
「私、かのん?」
蓮が答えた。
「そうなんじゃねえの」
言い方は雑だった。
だが、蓮は少し照れているようだった。
花音は蓮を見た。
「もう一回」
蓮は困った顔をした。
「俺が?」
花音はうなずく。
蓮は視線を外したまま言った。
「村瀬花音」
花音は、ほんの少し笑った。
七人目。
あと一人。
その瞬間、書庫の空気が少し変わった。
全員が、最後の一人を見た。
三三〇。
小柄な男の子だった。
ここまで、ほとんど話していない。
誰かの後ろに隠れるわけでもない。
泣くわけでもない。
ただ、黙っている。
黙り方が、他の子と違った。
我慢しているというより、最初から声を置いてきたような静けさだった。
*
瀬田ハルは、三三〇の番号を確認した。
「三三〇」
男の子はうなずく。
「覚えていることは」
首を振る。
「本は」
首を振る。
「食べ物は」
首を振る。
「誰かに呼ばれていた音は」
三三〇は少しだけ考えた。
そして、首を振った。
健二は胸が締めつけられるようだった。
何もない。
そんなことはないはずなのに。
何も出てこない。
瀬田ハルは台帳を探した。
図書館利用者台帳。
地域児童カード。
学校連携資料。
避難所記録。
三三〇。
該当なし。
別の箱。
三三〇。
該当なし。
旧第七小学校の資料。
三三〇。
該当なし。
瀬田ハルの顔が青ざめていく。
健二は聞いた。
「どういうことですか」
「旧第七の番号ではありません」
「え?」
「この子だけ、旧第七小学校の児童番号ではない」
健二は三三〇を見た。
男の子は、何も言わない。
直樹が入口側から言った。
「外から入れられた子か」
瀬田ハルは苦しそうにうなずいた。
「おそらく。別の地区から再配置された保護児童です。ここには記録がない」
健二は言葉を失った。
あと一人。
そう思っていた。
ここまで来れば、全員の名前が戻ると思っていた。
でも、最後の一人だけ、棚の中にいなかった。
三三〇は静かに言った。
「ないなら、いいです」
その声は、あまりに平らだった。
健二は反射的に言いかけた。
よくない。
だが、言葉が出なかった。
直樹が三三〇の前に歩いてきた。
しゃがむ。
「よくない」
三三〇は直樹を見る。
「でも、ない」
「ここにはない」
「同じ」
「違う」
直樹は言った。
「ここにないだけだ」
三三〇は黙る。
直樹は続けた。
「お前がないわけじゃない」
男の子の目が、少しだけ揺れた。
「名前が分からないだけで、お前が空っぽになるわけじゃない」
それは、健二が以前言った言葉に似ていた。
だが、直樹の声で言うと、少し違って聞こえた。
慰めではない。
確認だった。
「探す場所を変える」
三三〇は小さく聞いた。
「どこに」
直樹は答えなかった。
代わりに、瀬田ハルを見た。
「別地区の記録はどこだ」
「中央保管です。教育管理施設か、保安局の資料庫に」
「施設に戻るのはなしだ」
健二がすぐに言った。
「あそこには戻らない」
直樹はうなずいた。
「戻らない。別の道を探す」
三三〇はまだ直樹を見ていた。
「名前、なくても行っていいの」
直樹は言った。
「名前が分からないから置いていく、なんてことはしない」
三三〇の表情は大きく変わらなかった。
でも、少しだけ息を吐いた。
健二は胸の奥が熱くなった。
七人に名前が戻った。
でも、一人はまだ番号のまま。
それが、逆にこの先の道を決めた気がした。
*
その時、上の方で物音がした。
全員が止まる。
直樹が手を上げた。
書庫の天井の向こう。
図書館の一階で、何かが軋んだ。
足音。
一人ではない。
健二は息を止めた。
保安局が来た。
正面玄関からか。
裏口からか。
どちらにせよ、建物に入られた。
直樹は低く言った。
「声を出すな」
子どもたちは動かない。
今度は、恐怖で固まっているだけではなかった。
指示を待っていた。
瀬田ハルが台帳を閉じようとした。
健二が手を出す。
「持てる分だけ持つ」
「重いです」
「名前が入ってる」
健二は箱から必要そうな資料を抜いた。
児童台帳。
貸出記録。
地域児童カード。
餅つきの写真。
三三〇に関係しそうな別地区避難記録の索引。
全部は持てない。
でも、捨てるには重すぎた。
直樹が健二を見た。
「荷物を増やすな」
「これを捨てたら、ここに来た意味がなくなる」
「人命と荷物なら」
「人命を取る」
健二は答えた。
「でも、まだ持てる」
直樹は一瞬だけ黙った。
「走れなくなったら捨てろ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「今は見えてるだろ」
「だから言ってる」
健二は資料を麻袋に入れた。
瀬田ハルがそれを抱える。
「私が持ちます」
「重いですよ」
「名前です」
その一言で、健二は手を離した。
直樹は書庫の奥を見た。
「出口は」
瀬田ハルが言った。
「地下書庫には、非常階段があります。昔の防火設備なら、外の中庭に出るはずです」
「場所」
「奥です」
「行く」
上の足音が近づいてきた。
誰かが一階で声を出す。
「地下だ。埃が動いてる」
健二は直樹を見た。
「さっきの見える奴か」
「たぶんな」
「早いな」
「見えてる奴は早い」
直樹は子どもたちを並べた。
「名前が分かる奴は、後ろへ伝えろ。まだ分からない奴は真ん中」
三三〇が顔を上げた。
「真ん中?」
「そうだ」
「何で」
「まだ探すからだ」
三三〇は何も言わなかった。
だが、千紘が彼の手を取った。
「こっち」
美月も言った。
「真ん中」
悠斗が前に立つ。
蓮が後ろを見る。
陸は足元を見て、段差を指さす。
「ここ、危ない」
花音は小さく言った。
「三三〇、こっち」
三三〇は、初めて少し戸惑った顔をした。
番号で呼ばれたのに、不思議と嫌な感じがしなかった。
急かす番号ではなかったからだ。
置いていかないための呼び方だった。
直樹が短く言った。
「行くぞ」
*
地下書庫の奥には、非常階段があった。
扉は古かったが、まだ開いた。
ただし、音が出た。
金属の軋む音が、書庫に響いた。
上の足音が止まる。
「聞こえたぞ!」
直樹が舌打ちした。
「急げ」
階段は狭かった。
上へ向かう階段ではない。
半地下から中庭へ出るための、短い階段だった。
先頭の悠斗が扉を押す。
開かない。
「開かない!」
健二が前へ出た。
「代われ」
扉を見る。
外側に何かが引っかかっている。
鍵ではない。
建物の歪みでもない。
外に置かれた何かが、扉を塞いでいる。
「物が当たってる」
「開けられるか」
直樹が聞く。
「押すしかない。でも全員で押すと危ない」
健二は扉の下の隙間を見る。
光がある。
外だ。
あと少し。
「兄ちゃん、上」
階段の上、書庫側から足音が近づいている。
直樹は振り返った。
「健二、開けろ」
「そっちは」
「俺が塞ぐ」
「一人で残るな」
「残らない。ここを通さないだけだ」
「開いたら下がれよ」
「開けてから言え」
健二は歯を食いしばり、扉に肩を当てた。
「悠斗、蓮、陸。下がれ。美月、千紘、花音、三三〇は壁側」
子どもたちは動く。
もう、ただ震えて待つだけではない。
健二は扉の上の歪みを見る。
押す場所を間違えれば、力が逃げる。
ここだ。
右下ではない。
左上。
「いくぞ」
健二は肩で押した。
扉は動かない。
もう一度。
金属が鈍く鳴る。
外で何かが少しずれた。
直樹の後ろで、書庫の扉が開く音がした。
男の声。
「いたぞ!」
直樹が言った。
「伏せるな。壁へ寄れ」
その声は子どもたちへ向けたものだった。
直樹自身は、階段の入口に半身で立った。
狭い階段。
一度に入れるのは一人。
直樹はそこを塞いだ。
敵を倒しに行く場所ではない。
子どもたちの方へ通さない場所だった。
健二は三度目、扉を押した。
外の障害物がずれる。
光が広がる。
「開く!」
瀬田ハルが子どもたちを外へ出す。
一人。
二人。
三人。
四人。
健二は押し続ける。
五人。
六人。
七人。
三三〇が最後に残った。
彼は階段の途中で、直樹を見ていた。
直樹が叫ぶ。
「行け!」
三三〇は動かない。
健二が手を伸ばす。
「こっち!」
三三〇は小さく言った。
「名前、まだ」
健二の胸が詰まる。
直樹が振り返らずに言った。
「名前が分かるまで、生きてろ」
三三〇は目を見開いた。
「生きて探すぞ」
その声で、三三〇は走った。
健二が彼を外へ引っ張り出す。
直樹もすぐに下がった。
階段の奥から男が飛び込んでくる。
直樹は扉を押し返した。
健二も外から押す。
金属扉が閉まりかける。
内側から体当たりされる。
だが、外にあった障害物がまた扉に引っかかった。
古い植木鉢の棚だった。
健二がそれを蹴って倒す。
棚が扉の前に崩れ、即席のつっかえになる。
「今!」
直樹が叫んだ。
全員が中庭を抜ける。
図書館の裏には、細い路地があった。
その向こうに、町の古い住宅地が見える。
犬の声が近い。
保安局の声も近い。
それでも、八人は外に出た。
七人には名前があった。
一人には、まだなかった。
だが、もう誰も三三〇を後ろに置いていなかった。
健二は最後尾で数えた。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
七人。
八人。
八人いる。
まだ、八人いる。
直樹が前方を見た。
「住宅地へ入る。細い道を使う」
健二が聞いた。
「次はどこだ」
瀬田ハルが麻袋を抱えたまま答えた。
「旧児童相談分室があります。別地区から来た子の記録なら、そこに写しがあるかもしれません」
三三〇が顔を上げた。
直樹は短く言った。
「そこへ行く」
背後で、図書館の扉が内側から蹴られる音がした。
追手はすぐに出てくる。
だが、健二はもう迷わなかった。
名前の棚には、三三〇の名前はなかった。
なら、次の棚を探す。
それだけだ。
八人は、旧図書館の裏路地へ走り出した。
七つの名前と、ひとつの空欄を抱えて。




