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第十話 最後の空欄

## 第十話 最後の空欄


 旧図書館の裏路地は、細かった。


 両側に古い民家の塀が迫っている。

 割れたブロック。

 錆びた雨樋。

 倒れかけた物干し台。


 昔なら、子どもが走って怒られるような路地だったのだろう。


 今は、人の声がない。


 八人の足音だけが、乾いた地面を踏んでいた。


 健二は最後尾で振り返った。


 旧図書館の方から、金属の扉を蹴る音が聞こえる。


 追手が出てくる。


 その前に、住宅地へ入る。


 直樹は先頭で、路地の角ごとに止まった。


 顔を出さない。

 身体を出さない。

 壁の影で音を聞く。


 それから短く手を出す。


 行け。


 子どもたちは、その合図に従って進む。


 もう、施設の列ではなかった。


 前の背中を見る。

 後ろへ伝える。

 小さく合図する。


 悠斗が最初に角を曲がる。

 美月が千紘の手を引く。

 蓮が花音を見ている。

 陸が足元の段差を指で示す。

 浅野悠太が三三〇の隣にいる。


 三三〇。


 まだ名前のない男の子。


 七人に名前が戻った後も、彼だけは番号のままだった。


 それでも、誰も彼を後ろに置いていない。


 健二はそれを見て、胸の奥が少し熱くなった。


「こっちで合ってるのか」


 健二が小声で聞いた。


 瀬田ハルは麻袋を抱えながら答えた。


「旧児童相談分室は、この住宅地の奥です。昔は子育て支援センターと併設されていました」


「子どもが来る場所だったんですか」


「はい」


 瀬田ハルは少しだけ息を整えた。


「相談に来る親。保護される子。学校から連絡が入った子。いろんな記録が残っていたはずです」


「残っていれば」


「はい」


 直樹が前から言った。


「期待で走るな」


 健二は少し顔をしかめる。


「誰も走ってねえよ」


「顔が走ってる」


「顔まで見るな」


「見える」


 軽口にしては、直樹の声が硬かった。


 健二はそれに気づく。


 兄は、後ろを気にしている。


 犬ではない。


 もっと別のもの。


 図書館で気づいた、あの男。


 足跡を見る保安局員。


 直樹と同じように、道を読む相手。


「兄ちゃん」


「何だ」


「あいつ、来てるのか」


「来る」


「もう分かるのか」


「分かる奴は、迷う時間が短い」


 健二は背筋が冷たくなった。


 敵が多いのは怖い。


 だが、敵の中に一人だけ分かる奴がいる方が、もっと嫌だった。


 こちらが何をしたか。

 どこを通ったか。

 何を避けたか。


 見える人間がいる。


「じゃあ、どうする」


「見せるものを選ぶ」


「また分かりにくいことを」


 直樹は路地の先を見た。


「全部は隠せない。だから、どれを見せるか決める」


 健二は黙った。


 直樹は足元の砂を少し見た。


 それから、瀬田ハルを見た。


「分室まで、あと何分」


「普通に歩けば五分です」


「三分で行く」


「走るのか」


 健二が聞いた。


「走らない。止まらない」


 直樹はそう言って、進み始めた。


     *


 住宅地の中は、思ったより複雑だった。


 表の道は広い。

 だが、そこを行けば見つかる。


 直樹は細い道を選ぶ。


 民家の裏。

 小さな駐車場。

 空き地の端。

 ブロック塀と塀の間。


 健二は途中で気づいた。


 直樹が道を見ているのは、足跡だけではない。


 人が通れる幅。

 犬が抜けにくい場所。

 子どもが引っかからない高さ。

 追手が一列になる狭さ。


 全部を見ている。


 ただ逃げているのではない。


 追う側の形を、狭めている。


 だが、それだけでは足りない。


 向こうにも見える奴がいる。


 直樹が立ち止まった。


 行き止まりに見える路地だった。


 正面は古い板塀。

 右は民家の裏口。

 左はブロック塀。


 健二はすぐに言った。


「行き止まりだぞ」


「違う」


「どこが」


 直樹は左のブロック塀を見た。


 健二も見る。


 塀の一部が、新しい。


 他の部分より、少しだけ色が違う。


 健二は近づいた。


「ここ、後から塞いでる」


「抜けられるか」


「大人は無理。でも子どもなら」


 塀の下、古い排水溝の横に、人一人が這って抜けられそうな隙間があった。


 以前は小さな勝手口か、犬走りだったのだろう。


 コンクリートで塞いだが、下が少し崩れている。


 健二はしゃがんだ。


「子どもはいける。大人は厳しい」


 直樹が健二を見る。


「お前は」


「聞くな」


「聞いてない」


「今見たろ」


「見た」


「腹立つな」


 健二は隙間を広げられる場所を探す。


 力任せに崩せば音が出る。

 だが、下の土が柔らかい。


 古い雨水で削れている。


「土を少しどかせば通れる」


「音は」


「出さない」


 健二は手で土を掘った。


 爪の間に泥が入る。


 悠斗が近づいた。


「手伝う」


「手を切るなよ」


 蓮も来た。


「俺も」


 陸が足元を見た。


「ここ、石ある」


「石は横へ」


 健二が言うと、陸は小さな石を静かにどけた。


 千紘は軍手を片方、健二に差し出した。


「これ」


「お前が使え」


「片方なら」


 健二は一瞬迷った。


 それから受け取った。


「借りる」


 千紘はうなずいた。


 健二は軍手をはめ、土をかいた。


 子ども一人分の隙間ができる。


「行ける」


 直樹が順番を決めた。


「悠斗、先。向こうを見ろ。安全なら小さく二回叩け」


 悠斗がうなずく。


「美月、千紘、花音。次。蓮、陸、三三〇。瀬田。健二。俺」


「兄ちゃんが最後?」


「俺が最後だ」


「腕」


「通る」


「そういう意味じゃねえ」


「早くしろ」


 悠斗が隙間を抜けた。


 少しして、向こう側から壁を二回叩く音がした。


 安全。


 子どもたちが続く。


 美月。

 千紘。

 花音。


 花音は途中で少し引っかかった。


 蓮が後ろから言う。


「息吐け」


 それは、いつか直樹が健二に言った言葉だった。


 花音は息を吐き、するりと抜けた。


 蓮。

 陸。


 三三〇の番になった。


 彼は隙間の前で止まった。


 健二は声を低くした。


「怖いか」


 三三〇は首を振る。


「じゃあ何だ」


「向こうに行ったら、番号で呼ばれない?」


 健二は一瞬、言葉を失った。


 直樹が答えた。


「呼ぶ」


 三三〇は直樹を見る。


「呼ぶの」


「名前が分かるまで、今は三三〇だ」


 三三〇の目が少し落ちた。


 直樹は続けた。


「でも、戻すために呼ぶ。管理するためじゃない」


 三三〇は黙った。


「嫌なら、お前で呼ぶ」


 三三〇は少し考えた。


「三三〇でいい」


「分かった」


「でも、見つけて」


 直樹は短く言った。


「探す」


 三三〇は隙間を抜けた。


 健二はその後ろ姿を見た。


 番号は嫌なものだ。


 でも今は、彼を置いていかないための印でもあった。


 それが悔しかった。


     *


 塀の向こうは、古い保育園の裏庭だった。


 砂場があり、小さな滑り台が倒れている。


 園舎の窓には、白い紙が貼られていた。


 子育て支援センター。


 かすれた文字が残っている。


 その隣に、小さな平屋があった。


 看板は半分外れている。


 旧児童相談分室。


 健二は息を吐いた。


「ここか」


 瀬田ハルがうなずく。


「はい」


 直樹は周囲を見る。


「正面からは入らない」


「裏口があります」


 瀬田ハルが言う。


「職員用の通用口です」


「鍵は」


「分かりません」


 健二は平屋の裏へ回った。


 通用口は古いアルミ扉だった。


 鍵は壊れていない。


 だが、扉の上の小窓が少し開いている。


「小窓」


 健二が言った。


「入れるか」


 直樹が聞く。


「子どもなら」


 全員が子どもたちを見る。


 悠斗が前に出た。


「俺が行く」


 健二は首を振った。


「中が分からない。危ない」


 直樹が言った。


「俺が見る」


「どうやって」


 直樹は通用口の横にあった古い室外機を見た。


 その上に、庇がある。


 そこから小窓に手が届く。


 健二は顔をしかめた。


「腕」


「右手で行く」


「落ちるなよ」


「落ちたら受けろ」


「重いだろ」


「お前より軽い」


「こういう時だけ軽口返すな」


 直樹は室外機に足をかけ、庇に手を伸ばした。


 左腕は使わない。


 右手と足だけで身体を上げる。


 動きは早くない。


 だが、静かだった。


 小窓から中を覗く。


「人はいない」


「鍵」


「内側にサムターン」


 直樹は細い金属片を探した。


 健二がポケットを探る。


 古い鉛筆が一本あった。


 図書館で資料を見た時、瀬田ハルが使っていたものだ。


「これ」


 健二が渡す。


 直樹は鉛筆を受け取った。


 小窓の隙間から差し込み、内側のつまみに触れる。


 何度か失敗する。


 犬の声が、遠くで響いた。


 近づいている。


「急げよ」


「黙れ」


「応援だよ」


「邪魔だ」


 かちり、と音がした。


 扉の鍵が外れた。


 直樹が下りる。


 健二が扉を開けた。


 中は暗かった。


 古い事務室の匂いがした。


 紙。

 埃。

 湿った畳。

 長い間、閉め切られていた空気。


「入れ」


 全員が中へ入る。


 健二は最後に扉を閉めた。


 完全には閉めない。


 直樹がそれを見て、何も言わなかった。


 少しずつ、やり方が分かってきている。


     *


 旧児童相談分室の中は、思ったより狭かった。


 受付カウンター。

 小さな相談室。

 職員机が三つ。

 奥に書庫。

 壁には、はがれかけたポスターが残っている。


 ひとりで抱えこまないで。

 困った時は相談してください。

 子どもの声を聞きます。


 健二はその文字を見て、しばらく黙った。


 子どもの声を聞きます。


 その声を聞かれなかった子どもたちが、今ここにいる。


 直樹はポスターを見なかった。


 入口と窓と奥の扉を見ている。


「時間は少ない」


 瀬田ハルはすぐに奥の書庫へ向かった。


「別地区移送記録。再配置前照合表。保護児童引継票。写しがあるならこの辺りです」


 健二も手伝う。


 書庫は小さかった。


 図書館の地下書庫のような広さはない。


 棚が三つ。

 鍵付きのキャビネットが二つ。

 段ボール箱が床に積まれている。


 瀬田ハルは棚のラベルを読む。


「一時保護。家庭訪問。学校連携。地区外移送……」


「地区外移送」


 健二が反応した。


「それだ」


 棚の中に、薄いファイルがいくつも並んでいた。


 年ごと。

 地区ごと。

 移送番号ごと。


 瀬田ハルの手が動く。


「三三〇……三三〇……」


 三三〇は入口近くで立っていた。


 座らない。


 近づかない。


 ただ、見ている。


 千紘が彼のそばにいた。


 美月も。

 花音も。


 悠斗と蓮と陸と悠太は、窓の近くで外を見ている。


 直樹が指示したわけではない。


 自然にそうなっていた。


 見張る子。

 支える子。

 探す大人を待つ子。


 小さな役割が生まれている。


 瀬田ハルが一冊のファイルを引き出した。


「ありました。第三区からの移送者」


 健二が隣に立つ。


 紙は薄い。


 ところどころ黒塗りがある。


 旧住所。

 保護理由。

 家族構成。

 移送日。

 仮番号。


 仮番号三三〇。


 瀬田ハルの指が止まった。


 健二は息を詰める。


「名前は」


 瀬田ハルはページをめくった。


 名前の欄が黒く塗られている。


 健二は思わず声を出した。


「消されてる」


 三三〇の肩が、ほんの少し下がった。


 瀬田ハルは諦めなかった。


「黒塗りは原本からではありません。写しの時に消されています」


「じゃあ原本は」


「ここにはない可能性が高いです」


 健二はファイルを掴みそうになり、手を止めた。


 紙を破るわけにはいかない。


「他に手がかりは」


 瀬田ハルはページを追った。


「所持品記録があります」


「所持品?」


「保護された時に持っていた物です」


 健二は三三〇を見た。


 三三〇は動かない。


 瀬田ハルが読み上げる。


「青い上履き袋。右靴。ミニカー。折り紙。名前シール一部剥離」


 健二は聞いた。


「名前シール」


「一部だけ残っています」


 瀬田ハルは別紙を探した。


 所持品写真。


 小さな白黒コピーだった。


 ぼやけている。


 だが、上履き袋の端に、ひらがなが少しだけ残っていた。


 ――そう。


 健二は声を落とした。


「そう?」


 瀬田ハルは別の資料を開く。


「第三区、児童照会索引。名前の一部、そう……」


 ページをめくる音だけがする。


 外で犬が吠えた。


 近い。


 直樹が入口から言った。


「急げ」


「分かっています」


 瀬田ハルの声が震えた。


 焦りではない。


 必死に抑えている声だった。


 健二も別の箱を開ける。


 地区外移送。

 一時保護。

 所持品。

 家族連絡不能。


 似たような言葉ばかりが並ぶ。


 どれも、人が人を失った記録だった。


 健二は歯を食いしばる。


「そう、で始まる男の子。第三区。仮番号三三〇。保護時期は」


「分裂直後です。年齢は当時六歳前後」


「今は」


「八歳か九歳」


 三三〇は自分の手を見ていた。


 健二には、その手が少し震えているように見えた。


 瀬田ハルの指が止まった。


「小野寺」


 小さな声だった。


 三三〇が顔を上げる。


 瀬田ハルは息を吸った。


「小野寺……颯太」


 部屋の中が止まった。


 三三〇は瞬きした。


「おの……」


 言葉が途中で止まる。


 瀬田ハルはもう一度、ゆっくり言った。


「小野寺颯太」


 三三〇は口を開いた。


 でも、声が出ない。


 健二は何も言わなかった。


 急かしたくなかった。


 千紘が小さく言った。


「そうた」


 美月も言った。


「颯太」


 花音は不安そうに、でも真似した。


「そうた」


 蓮が頭をかいた。


「小野寺颯太」


 陸は床を見てから、静かに言った。


「颯太」


 悠斗が三三〇の前に立った。


「お前、颯太なのか」


 三三〇は、胸元を握った。


 何かを探すように。


 自分の中に、その音が残っているかを確かめるように。


「そう」


 小さな声。


 それから、もう一度。


「そうた」


 彼の目が揺れた。


「そうちゃん」


 その言葉が出た瞬間、三三〇の顔が崩れた。



 それから、もう一度。


「そうた」


 彼の目が揺れた。


「そうちゃん」


 その言葉が出た瞬間、三三〇の顔が崩れた。


 泣き声は大きくなかった。


 喉の奥で止まるような泣き方だった。


 施設で、声を出して泣かないように覚えた泣き方だった。


 健二は拳を握った。


 瀬田ハルが膝をつく。


「あなたの名前は、小野寺颯太です」


 三三〇。


 いや、颯太は、何度も口の中で繰り返した。


「そうた」


 八人目。


 健二は数えた。


 中原悠斗。

 宮原美月。

 笹原蓮。

 浅野悠太。

 佐伯千紘。

 高瀬陸。

 村瀬花音。

 小野寺颯太。


 八人に、名前が戻った。


 その瞬間だった。


 外で、ガラスが割れる音がした。


     *


 直樹がすぐに動いた。


「伏せるな。奥へ」


 子どもたちが動く。


 もう固まらない。


 瀬田ハルがファイルを閉じる。


 健二が聞いた。


「持つか」


「持ちます」


 瀬田ハルは小野寺颯太のファイルを麻袋に入れた。


 直樹が鋭く言った。


「全部は持つな」


「これだけです」


「それならいい」


 外で男の声がした。


「裏口が開いてる!」


 犬が吠える。


 通用口の方だ。


 直樹は入口を見た。


「裏は使えない」


「正面は?」


 健二が聞く。


「表に出る」


「正面突破かよ」


「突破じゃない。すぐ横へ切る」


「横?」


 健二は建物の配置を思い出す。


 旧児童相談分室。

 隣は子育て支援センター。

 さらに向こうに保育園の裏庭。


 正面に出れば通り。


 だが、通りの向かいには古い商店のアーケードがあった。


「アーケード」


 健二が言った。


「正面を出て右、古い商店街のアーケードがあります。屋根が残ってれば、雨樋伝いに裏へ抜けられるかも」


「行けるか」


「分からない」


「見ろ」


「今からかよ」


「今しかない」


 直樹は子どもたちを見る。


「名前が戻ったから終わりじゃない。今から運ぶ」


 八人は、直樹を見た。


 颯太も、涙を拭かずに見ていた。


 直樹は短く言った。


「自分の名前で返事しろ。声は小さく」


 悠斗がうなずく。


「中原悠斗」


 美月。


「宮原美月」


 蓮。


「笹原蓮」


 悠太。


「浅野悠太」


 千紘。


「佐伯千紘」


 陸。


「高瀬陸」


 花音。


「村瀬花音」


 最後に、颯太が息を吸った。


「小野寺颯太」


 声は震えていた。


 でも、確かに自分の名前だった。


 直樹はうなずいた。


「八人。行くぞ」


     *


 正面へ向かう廊下は短かった。


 だが、長く感じた。


 裏口側から、保安局員の足音が入ってくる。


 犬の爪が床を叩く音も聞こえる。


 直樹は受付カウンターの横を通る時、床に落ちていた古いパンフレットの束を見た。


 足で少しずらす。


 犬が走ってきた時、床で滑る。


 大きな罠ではない。


 ほんの一瞬、足が乱れるだけ。


 それでいいのだろう。


 健二には、少しずつ分かってきた。


 直樹は勝つ準備をしていない。


 通るための一瞬を作っている。


 正面扉は内側から開いた。


 外の光が入る。


 通りには、まだ誰もいない。


 だが、遠くで車の音がする。


「右!」


 健二が指さす。


 古い商店街のアーケードが見えた。


 屋根はところどころ落ちている。

 だが、柱は残っている。


 直樹が先に出た。


 健二が子どもたちを続ける。


 一人。

 二人。

 三人。

 四人。

 五人。

 六人。

 七人。

 八人。


 瀬田ハルが麻袋を抱えて出る。


 最後に健二。


 直樹は通りの端で振り返った。


 分室の裏から、犬が飛び出してきた。


 床で滑ったのか、一瞬だけ体勢が崩れる。


 だが、すぐに立て直した。


 速い。


 保安局員も続く。


 その中に、あの男がいた。


 灰色の服。

 他の局員より、少しだけ動きが静かだった。


 銃を前に出していない。

 犬だけを見ていない。


 地面を見ている。


 人の流れを見ている。


 直樹が小さく言った。


「来たな」


 健二が聞く。


「見える奴か」


「ああ」


 男がこちらを見た。


 距離はある。


 だが、迷っていない。


 他の局員が犬に引かれるように走る中、その男だけは少し斜めに進路を取った。


 アーケードの出口を押さえに来る。


「兄ちゃん」


「分かってる」


 直樹はアーケードへ入った。


     *


 商店街は、ほとんど崩れていた。


 肉屋。

 文具店。

 クリーニング店。

 小さな薬局。

 シャッターは閉まり、看板は色あせている。


 足元には割れたガラスと、乾いた落ち葉が溜まっていた。


 走れば音が出る。


 だが、ゆっくり歩いている時間はない。


「足を上げすぎるな。ガラスを踏むな。柱の内側を行け」


 直樹の声が飛ぶ。


 健二は後ろへ伝える。


「柱の内側。ガラス踏むな」


 悠斗が繰り返す。


「内側、ガラス踏まない」


 声が小さく列を流れる。


 颯太は真ん中にいた。


 千紘と花音が左右にいる。


 さっきまで番号だった子が、今は名前で呼ばれている。


「颯太、こっち」


 千紘が言う。


 颯太は反応した。


 自分の名前に。


 それだけで、健二は少し泣きそうになった。


 だが、泣いている暇はない。


 後ろから犬の声。


 近い。


 直樹は文具店の前で止まった。


「健二」


「何」


「中」


 健二は文具店を見る。


 シャッターは半分壊れている。

 人一人なら潜れる隙間がある。


「ここ通るのか」


「奥に抜けられるか」


「文具店なら、裏に搬入口か倉庫がある」


「見ろ」


 またそれだ。


 健二はシャッターの下をくぐった。


 中は暗い。


 棚が倒れている。

 ノート。

 鉛筆。

 色あせたランドセルカバー。

 古い名札ケース。


 子どもたちが一瞬、足を止めた。


 学校の匂いがしたからだ。


 紙と鉛筆と、ビニールの匂い。


 颯太が棚を見た。


 小さな名札ケースが床に落ちている。


 透明のケース。


 中身はない。


 それでも、彼はそれを見つめた。


 直樹が言った。


「止まるな」


 颯太は顔を上げた。


「はい」


 今度の返事は、施設のものではなかった。


 奥に、勝手口があった。


 鍵は壊れている。


 健二が開ける。


 狭い裏通路に出た。


 商店街の裏側だ。


 アーケードの表を走る犬の声が、少し遠ざかる。


「抜けた」


 健二が言った。


「まだだ」


 直樹は裏通路の先を見る。


 そこには、古い橋があった。


 用水路にかかる小さな橋。


 その先は、住宅地の外れ。


 町の境目に近い。


 瀬田ハルが言った。


「あの橋を渡れば、旧公民館の方へ出ます。そこからなら、南側の避難路に」


 直樹がうなずく。


「橋を渡る」


 その時、橋の向こうに人影が出た。


 灰色の服。


 あの男だった。


 先回りされていた。


 健二の喉が鳴った。


「嘘だろ」


 男は銃を構えていない。


 ただ、橋の中央に立っている。


 こちらを見ている。


 直樹が一歩前に出た。


 健二が言う。


「兄ちゃん」


「下がるな」


「戦うのか」


「通る」


 橋の向こうの男が、初めて声を出した。


「その先は塞がれている」


 低い声だった。


 直樹は答えない。


 男は続けた。


「水路、図書館、分室。よく運んだな」


 健二は背筋が冷えた。


 全部読まれている。


 男の視線が、子どもたちに移る。


「八人か」


 直樹の声が少し低くなった。


「見るな」


 男は直樹を見た。


「お前も見てきた側だろう」


 直樹は答えない。


「足跡の消し方が古い。山で覚えたな」


 健二は兄を見る。


 直樹の表情は変わらない。


 だが、空気が変わった。


 この男は、ただの追手ではない。


 同じ種類の目を持っている。


 男が言った。


「子どもを置いていけ。大人二人は見逃す」


 健二の中で、何かが切れそうになった。


 だが、怒るより先に、直樹が言った。


「断る」


「なら、ここで確保する」


 直樹は男の後ろを見た。


 橋。

 用水路。

 狭い裏通路。

 近づいてくる犬の声。


「この幅でか」


 男の目が少し細くなる。


 直樹は続けた。


「犬を入れれば列が割れる。押し込めば何人か水路に落ちる。銃を向ければ、子どもは固まるか散る」


 直樹は一歩も引かなかった。


「八人まとめて回収したいなら、ここは狭すぎる」


 男は黙った。


 直樹の言葉は、子どもを傷つけるなという頼みではなかった。


 相手の都合を言っていた。


 保安局は、八人を取り戻したい。

 できれば生きたまま。

 番号で管理できる形のまま。


 ここで無理に押せば、誰かが落ちる。

 誰かが逃げる。

 誰かが壊れる。


 それは、向こうにとっても失敗になる。


 男は橋を見た。


「橋は一本だ。後ろからも来る。子どもを連れて抜けられると思うか」


 直樹は橋を見なかった。


 男の立つ位置。

 その後ろの建物。

 用水路。

 文具店の裏。

 隣のクリーニング店。

 その脇にある鉄階段。


 健二も、それに気づいた。


「兄ちゃん」


「見えたか」


「屋根」


「行けるか」


「子どもなら。大人も、ギリ」


「なら行け」


 健二は子どもたちに振り返った。


「橋は渡らない。こっちだ」


 その瞬間、男の目が橋から外れた。


 鉄階段を見る。


 舌打ちが聞こえた。


 男が肩の無線に手を伸ばす。


「裏だ。上へ逃がすな」


 直樹は、その一歩前に出た。


 男と子どもたちの間に立つ。


 橋の手前。


 狭い裏通路。


 また、通さない場所だった。


 男の足が鉄階段の方へ向きかける。


 直樹も半歩ずれる。


 銃を奪いに行く距離ではない。


 けれど、男が進めば、必ず直樹とぶつかる位置だった。


 直樹は短く言った。


「道は橋だけじゃない」


 健二は子どもたちを鉄階段へ向かわせる。


 悠斗が先頭。

 蓮が後ろ。

 陸が足元を見る。

 美月が千紘を支える。

 花音が颯太の袖を掴む。


「颯太、上」


 颯太がうなずいた。


「うん」


 自分の名前に反応して、足を動かした。


 健二はそれを見てから、鉄階段に手をかけた。


 古い。


 錆びている。


 だが、まだ生きている。


「一人ずつ。跳ねるな。手すりを持て」


 子どもたちが上がる。


 背後で、直樹と男が向かい合っている。


 犬の声が近づく。


 保安局の足音も。


 健二は階段の途中で振り返った。


「兄ちゃん!」


 直樹は見ない。


「先に上げろ」


「お前も来い!」


「上げろ」


 健二は歯を食いしばり、子どもたちを屋根へ上げた。


 一人。

 二人。

 三人。

 四人。

 五人。

 六人。

 七人。

 八人。


 八人いる。


 八人に名前がある。


 最後に瀬田ハルが上がる。


 麻袋を抱えたまま。


 健二は屋根の上から下を見た。


 直樹がまだ下にいる。


 男が一歩動いた。


 直樹も半歩動く。


 橋ではなく、階段の下を塞ぐ位置。


 敵を倒すためではない。


 子どもたちが屋根へ移るまで、そこを通さないための位置。


 健二は叫びそうになるのを堪えた。


 その時、直樹が上を見た。


「健二」


「何だよ!」


「屋根の先を見ろ」


 健二は振り返る。


 屋根の向こうに、古いアーケードの残った骨組みが続いていた。


 その先に、別の建物の屋上。


 渡れる。


 危ないが、渡れる。


 健二は理解した。


 直樹は最初から、橋ではなく上を見ていた。


「行ける!」


「行け」


「兄ちゃんは!」


「あとで行く」


「またそれかよ!」


 直樹は答えなかった。


 下で犬が吠えた。


 保安局員たちが裏通路へ入ってくる。


 灰色の男が、低く言った。


「お前一人で止められる数じゃない」


 直樹は短く返した。


「止めるんじゃない」


 男が眉を動かす。


 直樹は階段の下に立ったまま言った。


「遅らせるだけだ」


 健二は屋根の上で拳を握った。


 まただ。


 直樹は勝とうとしていない。


 帰す時間を作っている。


 健二は子どもたちに振り返った。


「行くぞ!」


 八人は屋根の上を進み始めた。


 中原悠斗。

 宮原美月。

 笹原蓮。

 浅野悠太。

 佐伯千紘。

 高瀬陸。

 村瀬花音。

 小野寺颯太。


 名前を呼び合いながら。


 屋根の下で、直樹がまだ立っている。


 健二は振り返らなかった。


 振り返れば、足が止まる。


 足が止まれば、全員が止まる。


 だから、前を見た。


 八人の名前を、胸の中で数えながら。


 旧商店街の屋根は、夕方の光を受けて赤く錆びていた。


 その錆びた道の上を、八人の子どもたちは走っていった。


 初めて、自分の名前で呼ばれながら。


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