第十一話 錆びた屋根の上 改正版
## 第十一話 錆びた屋根の上
屋根の上は、道ではなかった。
下から見上げた時は、古い商店街のアーケードが一本の逃げ道に見えた。雨風を避けるために作られた屋根が、ずっと先まで続いているように見えた。
だが、上がってみると違った。
錆びた鉄板。
割れた波板。
抜け落ちた場所。
骨組みだけになった部分。
靴底の下で、薄い板が小さく鳴る音。
ここは道ではない。
道だったものの残骸だった。
健二は一瞬だけ、下を見た。
二階分ほどの高さ。
商店街の通路。
割れた看板。
放置された自転車。
その奥から、犬の吠え声が上がってくる。
保安局の声も聞こえた。
近い。
近すぎる。
健二はすぐに視線を戻した。
下を見る時間はなかった。
八人を向こう側へ渡さなければならない。
ここで止まれば、全員が止まる。
ここで一人が落ちれば、全員が戻される。
戻されれば、さっき取り戻した名前は、また番号に押し込められる。
中原悠斗。
宮原美月。
笹原蓮。
浅野悠太。
佐伯千紘。
高瀬陸。
村瀬花音。
小野寺颯太。
八人。
今は、八人を落とさず、止めず、渡す。
それだけだった。
「待て。そこは踏むな」
健二が言うと、先頭の悠斗の足が止まった。
悠斗は自分が先に行こうとしていた。
八人の中で一番年上で、自分が前に出なければと思っている。
だが、ここでは違う。
先頭に立つことと、道を読むことは別だった。
「どこ」
「右の太い梁。板じゃない。骨を踏め」
「骨?」
「下に線があるだろ。そこだけ重さを受ける。錆びた板は信用するな」
悠斗は足元を見た。
鉄板の下に、太い骨組みが走っている。
そこだけ錆び方が少し違う。
「骨を踏む」
悠斗が言った。
その声が後ろへ回る。
「骨を踏む」
美月が千紘に伝える。
千紘が花音に伝える。
蓮が陸を見る。
陸は足元を見て、小さくうなずいた。
「梁の上だけ」
陸が言い直した。
「言い方、難しくすんな」
蓮が小さく言う。
「でも、梁です」
「骨でいいんだよ」
二人のやり取りは短かった。
その短さが、逆にありがたかった。
まだ、言い返せる。
まだ、八人はただ逃げているだけではない。
颯太は真ん中にいた。
花音が袖をつかんでいる。
颯太はまだ、自分の名前に慣れていない。
三三〇。
さっきまで、そう呼ばれていた子だ。
今は小野寺颯太。
でも、名前を呼ばれてから振り向くまでに、少しだけ時間がかかる。
「颯太、ここ」
千紘が言った。
颯太は遅れて顔を上げた。
「うん」
小さく返事をして、足を置いた。
健二はそれを見た。
名前が戻るというのは、紙に書けば終わることではなかった。
誰かが呼ぶ。
本人が、その声を自分のものとして受け取る。
振り向く。
足を置く。
その短い間に、人はこの世界へ戻ってくる。
だが、今は立ち止まれない。
下から犬の吠え声が強くなった。
金属を叩く音。
誰かが走る足音。
保安局員の怒鳴り声。
そして、直樹の声は聞こえなかった。
健二は振り返りそうになった。
兄が下にいる。
鉄階段の下に残っている。
自分たちが屋根へ上がる時間を稼いでいる。
見たい。
無事か確かめたい。
だが、振り返れば足が止まる。
足が止まれば、子どもたちが止まる。
健二は歯を食いしばった。
今、自分が向かう先は直樹ではない。
八人を渡す先だ。
「健二さん」
瀬田ハルが後ろから呼んだ。
「この先、屋根が切れています」
健二は前を見た。
アーケードの屋根が途切れていた。
台風か、火災か、砲撃の破片か。
理由は分からない。
三メートルほど先に、隣の店舗の屋上がある。
大人なら、飛べない距離ではない。
だが、子ども八人には無理だ。
美月は足をかばっている。
颯太はまだ名前に遅れる。
悠太は音で固まる。
花音は下を見れば止まる。
ここで飛ばせるわけがなかった。
簡単な選択肢が一つ消えた。
飛び越える。
それは使えない。
健二は周囲を見た。
屋根。
骨組み。
折れたアンテナ。
古い物干し台。
隣のクリーニング店の大型看板。
看板は鉄枠で組まれていた。
片側が外れ、斜めに倒れかけている。
古い文字が残っていた。
スピード仕上げ。
学生服受付。
しみ抜き相談。
もう誰も来ない店の看板だった。
だが、鉄枠はまだ生きている。
健二は息を吸った。
「使えるかもしれない」
瀬田ハルが聞いた。
「橋にするんですか」
「橋ってほど立派じゃないです。でも、渡すだけなら」
下から声がした。
「上だ!」
見つかった。
犬の吠え声が近づく。
健二は、時間が削られていくのを感じた。
看板を外す。
倒す。
渡す。
八人を一人ずつ通す。
その間、直樹が下でどれだけ持たせられるか。
健二は看板の根元を見た。
ボルトは錆びている。
片側は抜けかけている。
力任せに引けば、大きな音を立てて落ちる。
角度を間違えれば、反対側に届かず、下へ落ちる。
父親の会社で、古い鉄骨を何度も見てきた。
古い物を動かす時は、力ではない。
順番だ。
どこを支点にするか。
どこで重さが逃げるか。
どこなら落ちる前に引っかかるか。
健二は低く言った。
「瀬田さん、麻袋を一度置いてください。子どもたちは壁側へ」
「はい」
「悠斗、蓮、危ないから手伝うな。触るな」
悠斗が前に出かけて止まる。
「手伝わないの?」
「お前らが触ると落ちる」
「でも」
「手伝うなら、みんなを下がらせろ。そっちの方が大事だ」
悠斗はすぐにうなずいた。
「下がって。壁側」
声が後ろへ回る。
千紘が颯太の肩に手を置く。
美月が足を少し引く。
花音は千紘の袖を握る。
悠太は耳を少し押さえた。
健二は看板に手をかけた。
重い。
だが、動く。
錆びた鉄が、低く嫌な音を立てた。
悠太の肩が跳ねた。
健二は看板を動かしながら言った。
「悠太、音が出る。次も出る。でも、俺が出してる音だ」
悠太は耳を押さえたまま、健二を見た。
「落ちる音じゃない?」
「落とさない音だ」
自分で言って、無茶な言い方だと思った。
でも、悠太は少しだけうなずいた。
健二はもう一度力を入れた。
鉄枠が動く。
下から怒鳴り声。
「上にいる! 屋根だ!」
隠れる選択肢が消えた。
もう静かに逃げる段階ではない。
健二は看板を倒した。
鉄枠が屋根の切れ目へ向かって落ちる。
反対側の屋上の縁に、ぎりぎり届いた。
ガシャン、と音が響いた。
子どもたちが一斉に肩をすくめる。
健二はすぐ看板に足を乗せた。
揺れる。
落ちない。
だが、強くはない。
「一人ずつだ。走るな。真ん中踏むな。端の鉄を踏め」
悠斗がうなずく。
「端の鉄」
「手すりはない。手は広げろ。下を見るな」
悠斗が看板に足を乗せた。
鉄枠が鳴る。
健二は手前側を押さえた。
「行け」
悠斗は渡った。
向こう側へ着くと、すぐ振り返った。
「来い」
その声は、さっきより少し強かった。
先頭に立つのではなく、向こう側で受ける役に変わった。
次は美月だった。
右足をかばっている。
健二は看板を押さえたまま、ゆっくり言った。
「美月、止まっていい。まず、痛くない方の足を前に出せ」
「こっち?」
「そう。その足を置いたら、右足を少しだけ寄せる。大きくまたぐな」
「一歩ずつ?」
「ああ。一歩ずつでいい。下を見るな。俺の手を見ろ」
健二は看板の端を指で叩いた。
「ここに置け。次も俺が言う」
美月は小さくうなずいた。
「うん」
千紘が後ろで言う。
「一歩ずつ」
美月は痛くない足から進んだ。
看板が小さく沈む。
健二の手に、鉄枠の振動が伝わった。
古い鉄の冷たさ。
錆びた粉が掌につく感触。
指先に、ざらつきが残る。
美月は渡りきった。
悠斗が受ける。
「着いた」
次は千紘。
彼女は颯太を振り返りたそうにした。
健二が言う。
「千紘、今は自分の足」
千紘は小さく息を吸った。
「はい」
渡る。
花音の番で、時間が止まりかけた。
花音は看板の上で下を見た。
目が動かなくなる。
足が止まる。
指が、自分の服の裾をつかむ。
下から犬の吠え声が上がる。
花音の体がさらに固まった。
蓮が後ろから言った。
「見るな」
花音は動かない。
蓮の顔に焦りが出た。
言葉を間違えれば、花音はもっと固まる。
蓮は口を開けて、一度閉じた。
それから、言い直した。
「花音、こっち向け」
花音が、ほんの少し振り返る。
蓮は顔をしかめながらも、はっきり言った。
「下見ると足が止まる。俺の顔を見ろ」
花音は蓮を見た。
「そう。そのまま一歩。足元は俺が言う」
蓮は看板の端を見た。
「次、右。小さく」
花音は蓮を見たまま、一歩進んだ。
「もう一歩。大丈夫」
もう一歩。
渡り切った。
蓮は目をそらした。
「早く行けよ」
健二は笑いそうになった。
だが、下から鉄階段を踏む音がした。
笑っている時間は消えた。
陸が渡る。
陸は足元をよく見ていた。
どこが沈むか。
どこが鳴るか。
どこに重さを置けば揺れが少ないか。
怖がっていないわけではない。
数字と構造を見て、怖さを固定している。
「高瀬陸、早く」
悠斗が向こうから言う。
「揺れるから」
陸はそう答え、最後の一歩を置いた。
次は颯太だった。
颯太は看板の前で止まった。
顔が白い。
犬の声。
鉄の音。
下の高さ。
自分の名前。
全部が一度に来ている。
健二は声を低くした。
「颯太」
颯太は反応しない。
少し遅れる。
健二はもう一度、急がずに呼んだ。
「小野寺颯太」
颯太が顔を上げた。
「怖いか」
颯太は首を振ろうとした。
でも、振り切れなかった。
健二は言った。
「怖いなら、怖いって言え」
颯太は唇を噛んだ。
「怖い」
「よし」
颯太が驚いた顔をする。
「いいの?」
「いい。怖いって言えたら、次の指示が出せる」
健二は看板を押さえたまま続けた。
「向こうの悠斗を見ろ。下は見ない」
向こう側で悠斗が手を上げる。
「颯太、こっち」
千紘も呼ぶ。
「颯太、こっち」
花音が小さく言った。
「颯太」
颯太の足が動いた。
一歩。
看板が揺れる。
健二は押さえる。
「止まるな。小さく進め」
颯太は渡った。
向こう側で、悠斗が腕をつかむ。
「来た」
颯太は小さく息を吐いた。
「来た」
蓮が渡る。
瀬田ハルが麻袋を抱えて続く。
最後に健二が渡ろうとして、下を見た。
直樹はまだ来ていない。
裏通路で、何かがぶつかる音がした。
犬の吠え声。
男の低い声。
そして、短く息を吐くような直樹の声。
健二の胸が締めつけられた。
「兄ちゃん、何してんだよ」
*
直樹は、鉄階段の下にいた。
階段の上では、健二たちが屋根へ上がっている。
下には、灰色の男。
その後ろに保安局員が二人。
さらに犬が一頭。
全員が一度に入れる場所ではない。
狭い裏通路。
用水路。
文具店の裏壁。
橋の手前。
鉄階段の下。
直樹はそこに立っていた。
倒すためではない。
通さないためでも、完全に止めるためでもない。
相手の時間を削るためだった。
八人が屋根へ上がるまで。
健二が渡る道を見つけるまで。
子どもたちが一人ずつ、落ちずに進むまで。
直樹が向かっているのは勝利ではない。
時間だった。
灰色の男が言った。
「どけ」
「無理だな」
「撃たせたいのか」
「撃てば上に当たる」
男の銃口は、わずかに下がっていた。
撃てないわけではない。
撃てば直樹に当たるかもしれない。
だが、この角度では弾が階段の上へ抜ける。
子どもたちがいる。
保安局にとって、八人は回収対象だ。
壊していい荷物ではない。
壊れたら報告が面倒になる。
回収ではなく、失態になる。
灰色の男も、それを分かっている。
直樹はその分だけ生きていた。
「お前、昔はどこにいた」
男が聞いた。
直樹は答えない。
「自衛隊か」
直樹は動かない。
「違うな。それだけじゃない」
犬が唸った。
直樹は犬の目を見ない。
肩を見る。
前足の置き方を見る。
リードを見る。
リードを持つ男の手を見る。
犬は行きたがっている。
だが、通路は狭い。
ここで犬を出せば、直樹に飛びつく。
直樹が避ければ、犬は階段下へ突っ込む。
人も犬も詰まる。
だから男は、まだ犬を放たない。
直樹は半歩だけ位置を変えた。
犬の正面ではない。
リードを持つ男の動線を狭める位置。
灰色の男がそれを見た。
「嫌な立ち方をする」
直樹は答えない。
上で、看板が倒れる音がした。
がしゃん、と大きく響く。
保安局員の一人が顔を上げた。
「上です!」
灰色の男の目が、一瞬だけ階段の上へ動いた。
直樹は、その一瞬で周囲を見直した。
鉄階段の下は、三人が並べるほど広くない。
右は文具店の裏壁。
左はふたのない用水路。
背後には、錆びた自転車と割れたプラスチック箱。
正面には灰色の男。
その半歩後ろに、犬を押さえている保安局員。
さらに後ろに、もう一人。
犬は前へ出たがっている。
だが、階段の幅は狭い。
犬を出すには、リードを持つ男が一歩前へ詰める必要がある。
その一歩分だけ、男たちはまだ渋滞していた。
直樹は殴らなかった。
飛び込まなかった。
右足の踵で、背後のプラスチック箱を引っかけた。
箱は軽い。
割れていて、音も大きくない。
蹴り飛ばせば犬の前へ転がる。
だが、それでは犬が吠えるだけで終わる。
直樹は箱を横へ押した。
犬ではなく、リードを持つ男の足元へ。
箱は、用水路の縁に当たって向きを変え、男の左足の前に滑り込んだ。
保安局員が、犬に引かれて一歩出る。
その足が箱を踏んだ。
ぐしゃ、と薄いプラスチックが潰れる。
男の膝が落ちる。
犬が前へ出る。
リードが斜めに張る。
犬は進みたい。
男は踏ん張れない。
後ろの保安局員は前へ出られない。
一瞬、通路の奥が詰まった。
灰色の男が舌打ちした。
「落ち着かせろ」
犬を持つ男がリードを引き戻す。
その間に、直樹は鉄階段の一段目へ足をかけた。
灰色の男が反応する。
直樹は上がらなかった。
一段目に乗った足を、すぐに下ろす。
上がると思った灰色の男の重心が前へ流れ、そこで止まる。
直樹はまだ階段下にいる。
男は前へ出たい。
だが、足元では犬と保安局員が詰まっている。
さらに数秒。
直樹は、その数秒だけを見ていた。
何秒あれば、八人が屋根へ上がるか。
何秒あれば、健二が屋根の先を見るか。
何秒あれば、子ども一人が怖いと言って、それでも一歩出せるか。
勝つ必要はない。
遅らせればいい。
灰色の男が低く言った。
「お前一人で止められる数じゃない」
「止めるんじゃない」
「なら何だ」
「遅らせるだけだ」
男の目が冷える。
「それで十分だと思っているのか」
「上にいる奴が道を見つける」
「弟か」
直樹は答えない。
男はわずかに笑った。
「運送屋に任せるのか」
直樹の目が少しだけ変わった。
「運ぶ奴を馬鹿にするな」
声は静かだった。
だが、健二が聞いていたら、たぶん驚いた。
直樹は続けた。
「あいつは、道があれば運ぶ」
「道がなければ?」
「作る」
上で、健二の声がかすかに聞こえた。
「行ける!」
直樹はそれを聞いた。
十分だ。
直樹は今度こそ階段に足をかけた。
灰色の男が前に出る。
犬が吠える。
保安局員が詰める。
直樹は一段上がり、身体を横へずらした。
男が掴みに来る腕を、階段の手すりで切る。
攻撃ではない。
相手の腕と自分の体の間に、鉄の手すりを入れる。
男の手が空を切る。
直樹はさらに二段上がる。
左腕が痛む。
包帯の下で、傷が開きかけている。
熱い。
血が滲む感覚がある。
だが、指は動く。
感覚もある。
骨ではない。
まだ使える。
負傷は恐怖ではない。
今は、使えるか使えないかだ。
下から犬が跳びかける。
直樹は止まらなかった。
止まれば足を取られる。
犬が跳ぶ瞬間、さらに一段上がり、身体を手すりの内側へ寄せた。
犬の前足が、階段の端を叩く。
リードが張った。
犬が詰まる。
保安局員が詰まる。
直樹は、その間にもう一段上がった。
灰色の男が叫んだ。
「上へ回れ!」
保安局員が動く。
別の道から回られる。
鉄階段だけで止める選択肢が消えた。
直樹は屋根の上へ出た。
*
健二は看板を渡り終えたところで、直樹が上がってくるのを見た。
思わず声が出た。
「兄ちゃん!」
「前見ろ」
「来たなら来たって言えよ!」
「来た」
「今じゃねえよ!」
直樹は息を少し乱していた。
左腕の包帯に血がにじんでいる。
健二はそれを見た。
「腕」
「後だ」
「後ばっかりだな」
「今は前を見ろ」
直樹は屋根の先を見た。
アーケードの骨組みが、別の建物の屋上へ続いている。
健二が言った。
「渡れる。ただし、一人ずつ。錆びてるところは駄目だ」
「出口は」
「旧公民館側に出るはずです」
瀬田ハルが言った。
「アーケードの先に、昔の集会所があります。そこから公民館の裏へ」
「表へ出れば、すぐ押さえられる。裏から抜ける」
直樹が言った。
健二はうなずく。
「だろうな」
下から足音が上がってくる。
保安局が鉄階段を使い始めた。
もう時間は少ない。
健二は子どもたちを見る。
全員、屋根の上にいる。
怖いはずだった。
だが、誰も泣き出していない。
泣かないことが強いのではない。
怖いまま、次の足場を見ている。
それが強かった。
「行くぞ」
健二は先頭に立った。
今度は直樹ではない。
屋根を見るのは健二の役目だった。
どの骨が生きているか。
どの板が死んでいるか。
どこが人の重さに耐えるか。
建物は嘘をつかない。
壊れる前に、必ず何かを出す。
沈み方。
音。
錆びの色。
歪み。
健二はそれを見た。
「ここは一列。間を空けるな。でも同じ板に二人乗るな」
悠斗が聞く。
「どっちだよ」
「近いけど、同じ場所に乗るな」
「難しい」
「だから俺の足を見る」
健二は一歩進む。
屋根が小さく鳴る。
大丈夫。
次。
鳴り方が違う。
そこは避ける。
「ここ踏むな」
悠斗が後ろへ伝える。
「ここ踏まない」
美月。
千紘。
花音。
颯太。
陸。
蓮。
悠太。
瀬田ハル。
声が続く。
直樹は最後尾に回った。
下を見ている。
追手の位置。
犬の動き。
鉄階段の音。
灰色の男はまだ見えない。
だが、来る。
健二にも分かっていた。
あの男は諦めない。
*
屋根の先に、小さな段差があった。
アーケードの骨組みから、隣の集会所の屋上へ移る場所だ。
高さが少し違う。
子どもなら下りられる。
大人は体重で屋根を抜くかもしれない。
健二は先に下り、屋上の床を踏んだ。
コンクリート。
ここは大丈夫だ。
「一人ずつ下りろ。飛ぶな」
悠斗が下りる。
美月。
千紘。
花音。
颯太が下りようとした時、下から犬の声が近づいた。
颯太の足が止まる。
健二はすぐに言った。
「颯太」
颯太が健二を見る。
「犬を見るな。俺を見ろ」
颯太はうなずく。
「下りろ。受ける」
「抱える?」
「受けるだけだ。お前が下りる」
颯太は少しだけ考えた。
そして、自分で足を下ろした。
健二は両手で支えたが、持ち上げなかった。
颯太が自分の足で屋上に立つ。
「立てたな」
颯太はうなずいた。
「立てた」
その後ろで、蓮が言った。
「早くしろ、颯太」
言い方は乱暴だった。
でも、颯太は少し笑った。
「うん」
陸。
蓮。
悠太。
瀬田ハル。
最後に直樹が下りる。
着地の瞬間、少しだけ左腕をかばった。
健二は見逃さなかった。
「やっぱ痛いんだろ」
「痛くない傷はない」
「開いてる」
「少しだ」
「少しで済ませるな」
「血が吹いてない。指は動く。感覚もある。後で巻き直す」
「また診断始まった」
「報告だ」
健二は言い返せなかった。
直樹のそれは強がりだけではない。
自分の状態を把握している。
だから余計に腹が立つ。
屋上の端に、古い非常階段があった。
下は集会所の裏庭。
その先に、公民館らしき建物が見える。
瀬田ハルが言った。
「あれです。旧公民館」
健二は公民館を見た。
二階建て。
古い瓦屋根。
外壁にはひび。
だが、建物はまだ残っている。
その向こうに、川の土手が見えた。
「川」
「南側の避難路は、川沿いです」
瀬田ハルが答える。
「そこまで行けば」
直樹が遮った。
「まだ帰れるとは言うな」
瀬田ハルは口を閉じる。
健二は、少しだけその言い方に慣れてきた。
直樹は希望を潰しているわけではない。
希望で足を止めるなと言っている。
希望は、着いてからでいい。
「下りるぞ」
直樹が言った。
*
非常階段は錆びていた。
だが、屋根よりはましだった。
健二が先に下り、踊り場ごとに足場を確認する。
悠斗たちが続く。
下では、誰も待っていなかった。
集会所の裏庭は、草が伸び放題だった。
古いベンチ。
割れた植木鉢。
倒れた掲示板。
掲示板には、色あせた紙が一枚残っていた。
夏祭りのお知らせ。
七月二十日。
盆踊り。
子ども抽選会。
かき氷。
千紘がそれを見た。
「かき氷」
美月が振り返る。
「知ってる?」
「たぶん」
颯太が小さく言った。
「青いの」
悠斗が言う。
「俺、赤」
蓮が少しだけ口を曲げた。
「俺は何でもいい」
花音が言った。
「白いのある?」
陸が首を傾げる。
「氷だから白い」
その会話は、ほんの数秒だった。
だが、健二には、胸を刺すように響いた。
この子たちは、かき氷の味を話せる。
番号ではなく、名前で。
それだけのことが、ここまで遠かった。
直樹は掲示板から視線を外した。
「長居はできない。行くぞ」
子どもたちはすぐに口を閉じた。
だが、さっきとは違う。
恐怖で黙ったのではない。
次へ行くために黙った。
集会所の裏口は開いていた。
中を通れば、公民館の裏へ出られる。
健二が扉を見る。
「古いけど、使えます」
直樹が中を確認する。
「中を抜ける。床が傷んでるかもしれない。足元を見て入れ」
中は小さな集会室だった。
畳が剥がれ、机が積まれている。
壁には、子ども会の写真が貼られていた。
餅つき。
夏祭り。
避難訓練。
地域清掃。
花音が足を止めた。
写真の中に、餅を持った子どもたちが写っていたからだ。
さっき図書館で見た写真と似ている。
瀬田ハルが優しく言った。
「見るのは後で」
花音はうなずいた。
「後で」
その言葉には、約束のような響きがあった。
後で。
今ではなく、後で見られる。
そのために生きて出る。
直樹は窓から外を見た。
公民館の裏まで、二十メートルほど。
間に細い庭と、古い物置がある。
左手には川の土手。
右手には住宅地。
背後から、犬の声がまた近づいている。
灰色の男たちは、屋根ルートを完全には見失っていない。
時間はない。
「公民館まで出る」
直樹が言った。
「中を抜けて、川沿いへ回る」
健二は子どもたちを見た。
「もう少しだ。足、痛い奴」
美月が手を上げる。
千紘も少し迷って手を上げた。
颯太は上げなかった。
直樹が見た。
「颯太」
颯太がびくっとする。
「足、痛いか」
颯太は小さく言った。
「痛い」
「なら手を上げろ」
颯太はゆっくり手を上げた。
「それでいい」
直樹はすぐに並びを変えた。
「足が痛い奴は真ん中。悠斗、蓮、陸は周りを見ろ。花音は千紘の隣。悠太は後ろを見るな。前だけ見て歩け」
悠太がうなずく。
「前だけ」
健二はそれを見ていた。
全員に名前がある。
だから、指示が具体的になる。
誰に何を任せるかが、分かる。
番号で管理するのではなく、名前で役割を渡す。
その違いが、はっきり見えた。
*
集会所の裏口から出た瞬間、右手の住宅地側で声がした。
「いた!」
保安局員だった。
距離はある。
だが、見つかった。
公民館まで二十メートル。
走れば数秒。
でも、八人は同じ速さで走れない。
美月が遅れる。
颯太が固まる。
悠太が音で止まる。
列が割れる。
走るという選択肢が消えた。
直樹が叫ぶ。
「走るな。公民館まで早歩きで行け!」
健二は思わず言い返した。
「この距離なら走った方が」
「走ると列が割れる。撃たれた時に全員が散るぞ」
健二は黙った。
子どもたちは早歩きで進む。
健二が後ろを見る。
保安局員が銃を構えかけた。
だが、撃たない。
子どもが密集している。
後ろには公民館の窓。
さらに奥には川沿いの住宅。
撃てばどこへ飛ぶか分からない。
向こうも撃つ場所を選んでいる。
直樹はその間に、子どもたちと銃口の線の間へ入った。
まただ。
倒しに行かない。
線を切る。
「公民館の裏へ!」
健二が叫ぶ。
子どもたちは進む。
公民館の裏口に着く。
健二が扉を引く。
開かない。
「鍵だ!」
簡単な道が、また消えた。
「壊せるか」
直樹が聞く。
「古い木製扉。音は出るけど、いける」
「頼む」
健二は扉を見る。
蝶番。
鍵。
木の割れ。
力をかける場所。
肩で押すより、蹴った方が早い。
だが、子どもが近い。
「下がれ!」
健二は一度だけ蹴った。
木が割れる。
もう一度。
鍵周りが外れた。
足の裏に、鈍い痛みが返ってきた。
だが、扉は開いた。
「中へ!」
子どもたちが入る。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
七人。
八人。
瀬田ハル。
直樹。
最後に健二。
扉を閉める。
鍵は壊れている。
閉めても意味は薄い。
健二は近くの長机を引きずって扉に当てた。
机の脚が床を擦り、大きな音を立てる。
もう音を気にしている段階ではなかった。
直樹が言った。
「その机で、十秒は稼げる」
「短いな」
「今は十秒あればいい」
「十分の基準が毎回おかしい」
直樹は公民館の中を見た。
広いホール。
古い椅子。
舞台。
壁に避難経路図。
瀬田ハルがそれを見つけた。
「避難路図!」
健二も見る。
公民館の裏から、川沿いの管理道へ抜ける非常口がある。
だが、図にはもう一つ、細い線が描かれていた。
地下備蓄庫。
そこから川沿いの排水路へ。
健二は指でなぞった。
「地下から川へ抜けられる」
直樹が見る。
「使えそうか」
「分からない」
「確認してくれ」
健二は思わず笑いそうになった。
こんな時でも、それか。
「分かったよ」
その時、外から机に何かがぶつかった。
追手が扉を押している。
机がずれる。
直樹が扉の方へ行く。
健二が言った。
「兄ちゃん」
「行け」
「また残る気か」
「残らない。入口を見ているだけだ」
「その言い方、信用できない」
「信用するな。手順で動け」
その言葉を聞いて、瀬田ハルが一瞬だけ顔を上げた。
前にも、資料室で聞いた言葉だった。
信用じゃなく、手順で動け。
ここまで来ても、直樹は同じことを言う。
健二は歯を食いしばった。
「俺が地下を見てくる。通れるなら、すぐ子どもを下ろす」
「俺を呼ぶな。行けるなら先に子どもを入れろ」
「兄ちゃんは」
「後で行く」
「その後で、何回目だよ」
「数える暇があるなら床を見ろ」
健二は言い返さず、避難路図の場所へ走った。
*
地下備蓄庫の入口は、舞台の横にあった。
床に四角い蓋。
上に古い防災用品の箱が積まれている。
健二は箱をどかした。
悠斗と蓮が手伝う。
「重いぞ」
「持てる」
「腰やるなよ」
「腰って何」
「後で教える」
蓋には取っ手がある。
錆びている。
健二は両手で引いた。
動かない。
「くそ」
もう一度。
動かない。
陸が横から言った。
「ここ、引くんじゃなくて、回す?」
健二は蓋を見る。
取っ手の横に、小さなロックがある。
確かに、回すタイプだった。
「陸、助かった。よく気づいたな」
陸は少しだけ目を見開いた。
褒められ慣れていない顔だった。
健二はロックを回した。
今度は蓋が開いた。
暗い階段が下へ続いている。
冷たい空気が上がってきた。
土と古い水の匂い。
狭い。
暗い。
だが、通れる。
「開いた!」
健二が叫ぶ。
直樹が入口から振り返る。
「子どもを下ろせ!」
健二は子どもたちを見る。
「悠斗、先。足元を見ろ。降りたら左へ寄れ」
悠斗が下りる。
美月。
千紘。
花音。
颯太。
陸。
蓮。
悠太。
瀬田ハルが麻袋を抱えて下りる。
健二は最後に下りようとして、直樹を見た。
公民館の入口では、机が押されている。
隙間から犬の鼻先が見えた。
直樹が机を押さえている。
左腕を使わず、肩と右手で。
「兄ちゃん!」
「下りろ!」
「お前も!」
「今行く!」
その時、扉の隙間から犬がさらに鼻先を入れた。
直樹は床に落ちていた古い防災毛布を掴み、犬の顔へ投げた。
犬が一瞬、視界を失う。
保安局員が引く。
机が押し戻される。
その一瞬で、直樹は走った。
健二は地下入口で待った。
直樹が飛び込むように階段へ来る。
「閉めろ!」
二人で蓋を引く。
重い蓋が閉まる。
直後、上で扉が破られる音がした。
足音。
怒号。
犬の吠え声。
だが、蓋の下は暗かった。
狭い階段に、八人と三人が押し込まれている。
健二は息を荒げながら、直樹を見た。
「今行くって言ったな」
「言った」
「初めて信用できた」
「信用するなと言った」
「うるせえよ」
直樹は少しだけ息を吐いた。
左腕から血が落ちている。
一滴。
階段の床に落ちた。
赤黒い点が、暗い床に広がった。
健二はそれを見た。
「巻き直すぞ」
「川に出てからだ」
「今だ」
「ここで止まると後ろが詰まる」
「でも」
直樹は健二を見た。
「八人が先だ」
健二は言葉を飲み込んだ。
分かっている。
分かっているから、余計に腹が立つ。
地下備蓄庫の奥から、水の音が聞こえた。
川へ続く排水路。
南側の避難路。
あと少し。
だが、上ではもう保安局が公民館に入っている。
蓋を見つけるのも時間の問題だ。
直樹が低く言った。
「行くぞ。水の音に沿って進む」
健二は前を見た。
暗い通路の中で、八人の子どもたちが待っている。
中原悠斗。
宮原美月。
笹原蓮。
浅野悠太。
佐伯千紘。
高瀬陸。
村瀬花音。
小野寺颯太。
全員に名前がある。
全員、まだここにいる。
健二は小さく言った。
「帰すぞ」
直樹が答えた。
「ああ」
暗い地下通路の奥で、水の音が強くなった。
その音は、初めて少しだけ、外の世界に続いているように聞こえた。




