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第十一話 錆びた屋根の上 改正版

## 第十一話 錆びた屋根の上


 屋根の上は、道ではなかった。


 下から見上げた時は、古い商店街のアーケードが一本の逃げ道に見えた。雨風を避けるために作られた屋根が、ずっと先まで続いているように見えた。


 だが、上がってみると違った。


 錆びた鉄板。

 割れた波板。

 抜け落ちた場所。

 骨組みだけになった部分。

 靴底の下で、薄い板が小さく鳴る音。


 ここは道ではない。


 道だったものの残骸だった。


 健二は一瞬だけ、下を見た。


 二階分ほどの高さ。

 商店街の通路。

 割れた看板。

 放置された自転車。

 その奥から、犬の吠え声が上がってくる。


 保安局の声も聞こえた。


 近い。


 近すぎる。


 健二はすぐに視線を戻した。


 下を見る時間はなかった。


 八人を向こう側へ渡さなければならない。


 ここで止まれば、全員が止まる。

 ここで一人が落ちれば、全員が戻される。

 戻されれば、さっき取り戻した名前は、また番号に押し込められる。


 中原悠斗。

 宮原美月。

 笹原蓮。

 浅野悠太。

 佐伯千紘。

 高瀬陸。

 村瀬花音。

 小野寺颯太。


 八人。


 今は、八人を落とさず、止めず、渡す。


 それだけだった。


「待て。そこは踏むな」


 健二が言うと、先頭の悠斗の足が止まった。


 悠斗は自分が先に行こうとしていた。

 八人の中で一番年上で、自分が前に出なければと思っている。


 だが、ここでは違う。


 先頭に立つことと、道を読むことは別だった。


「どこ」


「右の太い梁。板じゃない。骨を踏め」


「骨?」


「下に線があるだろ。そこだけ重さを受ける。錆びた板は信用するな」


 悠斗は足元を見た。


 鉄板の下に、太い骨組みが走っている。

 そこだけ錆び方が少し違う。


「骨を踏む」


 悠斗が言った。


 その声が後ろへ回る。


「骨を踏む」


 美月が千紘に伝える。


 千紘が花音に伝える。


 蓮が陸を見る。


 陸は足元を見て、小さくうなずいた。


「梁の上だけ」


 陸が言い直した。


「言い方、難しくすんな」


 蓮が小さく言う。


「でも、梁です」


「骨でいいんだよ」


 二人のやり取りは短かった。


 その短さが、逆にありがたかった。


 まだ、言い返せる。

 まだ、八人はただ逃げているだけではない。


 颯太は真ん中にいた。


 花音が袖をつかんでいる。

 颯太はまだ、自分の名前に慣れていない。


 三三〇。


 さっきまで、そう呼ばれていた子だ。


 今は小野寺颯太。


 でも、名前を呼ばれてから振り向くまでに、少しだけ時間がかかる。


「颯太、ここ」


 千紘が言った。


 颯太は遅れて顔を上げた。


「うん」


 小さく返事をして、足を置いた。


 健二はそれを見た。


 名前が戻るというのは、紙に書けば終わることではなかった。


 誰かが呼ぶ。

 本人が、その声を自分のものとして受け取る。

 振り向く。

 足を置く。


 その短い間に、人はこの世界へ戻ってくる。


 だが、今は立ち止まれない。


 下から犬の吠え声が強くなった。


 金属を叩く音。

 誰かが走る足音。

 保安局員の怒鳴り声。


 そして、直樹の声は聞こえなかった。


 健二は振り返りそうになった。


 兄が下にいる。

 鉄階段の下に残っている。

 自分たちが屋根へ上がる時間を稼いでいる。


 見たい。


 無事か確かめたい。


 だが、振り返れば足が止まる。


 足が止まれば、子どもたちが止まる。


 健二は歯を食いしばった。


 今、自分が向かう先は直樹ではない。


 八人を渡す先だ。


「健二さん」


 瀬田ハルが後ろから呼んだ。


「この先、屋根が切れています」


 健二は前を見た。


 アーケードの屋根が途切れていた。


 台風か、火災か、砲撃の破片か。

 理由は分からない。


 三メートルほど先に、隣の店舗の屋上がある。


 大人なら、飛べない距離ではない。


 だが、子ども八人には無理だ。

 美月は足をかばっている。

 颯太はまだ名前に遅れる。

 悠太は音で固まる。

 花音は下を見れば止まる。


 ここで飛ばせるわけがなかった。


 簡単な選択肢が一つ消えた。


 飛び越える。


 それは使えない。


 健二は周囲を見た。


 屋根。

 骨組み。

 折れたアンテナ。

 古い物干し台。

 隣のクリーニング店の大型看板。


 看板は鉄枠で組まれていた。


 片側が外れ、斜めに倒れかけている。


 古い文字が残っていた。


 スピード仕上げ。

 学生服受付。

 しみ抜き相談。


 もう誰も来ない店の看板だった。


 だが、鉄枠はまだ生きている。


 健二は息を吸った。


「使えるかもしれない」


 瀬田ハルが聞いた。


「橋にするんですか」


「橋ってほど立派じゃないです。でも、渡すだけなら」


 下から声がした。


「上だ!」


 見つかった。


 犬の吠え声が近づく。


 健二は、時間が削られていくのを感じた。


 看板を外す。

 倒す。

 渡す。

 八人を一人ずつ通す。


 その間、直樹が下でどれだけ持たせられるか。


 健二は看板の根元を見た。


 ボルトは錆びている。

 片側は抜けかけている。

 力任せに引けば、大きな音を立てて落ちる。

 角度を間違えれば、反対側に届かず、下へ落ちる。


 父親の会社で、古い鉄骨を何度も見てきた。


 古い物を動かす時は、力ではない。

 順番だ。


 どこを支点にするか。

 どこで重さが逃げるか。

 どこなら落ちる前に引っかかるか。


 健二は低く言った。


「瀬田さん、麻袋を一度置いてください。子どもたちは壁側へ」


「はい」


「悠斗、蓮、危ないから手伝うな。触るな」


 悠斗が前に出かけて止まる。


「手伝わないの?」


「お前らが触ると落ちる」


「でも」


「手伝うなら、みんなを下がらせろ。そっちの方が大事だ」


 悠斗はすぐにうなずいた。


「下がって。壁側」


 声が後ろへ回る。


 千紘が颯太の肩に手を置く。

 美月が足を少し引く。

 花音は千紘の袖を握る。

 悠太は耳を少し押さえた。


 健二は看板に手をかけた。


 重い。


 だが、動く。


 錆びた鉄が、低く嫌な音を立てた。


 悠太の肩が跳ねた。


 健二は看板を動かしながら言った。


「悠太、音が出る。次も出る。でも、俺が出してる音だ」


 悠太は耳を押さえたまま、健二を見た。


「落ちる音じゃない?」


「落とさない音だ」


 自分で言って、無茶な言い方だと思った。


 でも、悠太は少しだけうなずいた。


 健二はもう一度力を入れた。


 鉄枠が動く。


 下から怒鳴り声。


「上にいる! 屋根だ!」


 隠れる選択肢が消えた。


 もう静かに逃げる段階ではない。


 健二は看板を倒した。


 鉄枠が屋根の切れ目へ向かって落ちる。


 反対側の屋上の縁に、ぎりぎり届いた。


 ガシャン、と音が響いた。


 子どもたちが一斉に肩をすくめる。


 健二はすぐ看板に足を乗せた。


 揺れる。


 落ちない。


 だが、強くはない。


「一人ずつだ。走るな。真ん中踏むな。端の鉄を踏め」


 悠斗がうなずく。


「端の鉄」


「手すりはない。手は広げろ。下を見るな」


 悠斗が看板に足を乗せた。


 鉄枠が鳴る。


 健二は手前側を押さえた。


「行け」


 悠斗は渡った。


 向こう側へ着くと、すぐ振り返った。


「来い」


 その声は、さっきより少し強かった。


 先頭に立つのではなく、向こう側で受ける役に変わった。


 次は美月だった。


 右足をかばっている。


 健二は看板を押さえたまま、ゆっくり言った。


「美月、止まっていい。まず、痛くない方の足を前に出せ」


「こっち?」


「そう。その足を置いたら、右足を少しだけ寄せる。大きくまたぐな」


「一歩ずつ?」


「ああ。一歩ずつでいい。下を見るな。俺の手を見ろ」


 健二は看板の端を指で叩いた。


「ここに置け。次も俺が言う」


 美月は小さくうなずいた。


「うん」


 千紘が後ろで言う。


「一歩ずつ」


 美月は痛くない足から進んだ。


 看板が小さく沈む。


 健二の手に、鉄枠の振動が伝わった。


 古い鉄の冷たさ。

 錆びた粉が掌につく感触。

 指先に、ざらつきが残る。


 美月は渡りきった。


 悠斗が受ける。


「着いた」


 次は千紘。


 彼女は颯太を振り返りたそうにした。


 健二が言う。


「千紘、今は自分の足」


 千紘は小さく息を吸った。


「はい」


 渡る。


 花音の番で、時間が止まりかけた。


 花音は看板の上で下を見た。


 目が動かなくなる。

 足が止まる。

 指が、自分の服の裾をつかむ。


 下から犬の吠え声が上がる。


 花音の体がさらに固まった。


 蓮が後ろから言った。


「見るな」


 花音は動かない。


 蓮の顔に焦りが出た。


 言葉を間違えれば、花音はもっと固まる。


 蓮は口を開けて、一度閉じた。


 それから、言い直した。


「花音、こっち向け」


 花音が、ほんの少し振り返る。


 蓮は顔をしかめながらも、はっきり言った。


「下見ると足が止まる。俺の顔を見ろ」


 花音は蓮を見た。


「そう。そのまま一歩。足元は俺が言う」


 蓮は看板の端を見た。


「次、右。小さく」


 花音は蓮を見たまま、一歩進んだ。


「もう一歩。大丈夫」


 もう一歩。


 渡り切った。


 蓮は目をそらした。


「早く行けよ」


 健二は笑いそうになった。


 だが、下から鉄階段を踏む音がした。


 笑っている時間は消えた。


 陸が渡る。


 陸は足元をよく見ていた。


 どこが沈むか。

 どこが鳴るか。

 どこに重さを置けば揺れが少ないか。


 怖がっていないわけではない。


 数字と構造を見て、怖さを固定している。


「高瀬陸、早く」


 悠斗が向こうから言う。


「揺れるから」


 陸はそう答え、最後の一歩を置いた。


 次は颯太だった。


 颯太は看板の前で止まった。


 顔が白い。


 犬の声。

 鉄の音。

 下の高さ。

 自分の名前。

 全部が一度に来ている。


 健二は声を低くした。


「颯太」


 颯太は反応しない。


 少し遅れる。


 健二はもう一度、急がずに呼んだ。


「小野寺颯太」


 颯太が顔を上げた。


「怖いか」


 颯太は首を振ろうとした。


 でも、振り切れなかった。


 健二は言った。


「怖いなら、怖いって言え」


 颯太は唇を噛んだ。


「怖い」


「よし」


 颯太が驚いた顔をする。


「いいの?」


「いい。怖いって言えたら、次の指示が出せる」


 健二は看板を押さえたまま続けた。


「向こうの悠斗を見ろ。下は見ない」


 向こう側で悠斗が手を上げる。


「颯太、こっち」


 千紘も呼ぶ。


「颯太、こっち」


 花音が小さく言った。


「颯太」


 颯太の足が動いた。


 一歩。


 看板が揺れる。


 健二は押さえる。


「止まるな。小さく進め」


 颯太は渡った。


 向こう側で、悠斗が腕をつかむ。


「来た」


 颯太は小さく息を吐いた。


「来た」


 蓮が渡る。


 瀬田ハルが麻袋を抱えて続く。


 最後に健二が渡ろうとして、下を見た。


 直樹はまだ来ていない。


 裏通路で、何かがぶつかる音がした。

 犬の吠え声。

 男の低い声。

 そして、短く息を吐くような直樹の声。


 健二の胸が締めつけられた。


「兄ちゃん、何してんだよ」


     *


 直樹は、鉄階段の下にいた。


 階段の上では、健二たちが屋根へ上がっている。


 下には、灰色の男。

 その後ろに保安局員が二人。

 さらに犬が一頭。


 全員が一度に入れる場所ではない。


 狭い裏通路。


 用水路。

 文具店の裏壁。

 橋の手前。

 鉄階段の下。


 直樹はそこに立っていた。


 倒すためではない。


 通さないためでも、完全に止めるためでもない。


 相手の時間を削るためだった。


 八人が屋根へ上がるまで。

 健二が渡る道を見つけるまで。

 子どもたちが一人ずつ、落ちずに進むまで。


 直樹が向かっているのは勝利ではない。


 時間だった。


 灰色の男が言った。


「どけ」


「無理だな」


「撃たせたいのか」


「撃てば上に当たる」


 男の銃口は、わずかに下がっていた。


 撃てないわけではない。


 撃てば直樹に当たるかもしれない。

 だが、この角度では弾が階段の上へ抜ける。


 子どもたちがいる。


 保安局にとって、八人は回収対象だ。


 壊していい荷物ではない。

 壊れたら報告が面倒になる。

 回収ではなく、失態になる。


 灰色の男も、それを分かっている。


 直樹はその分だけ生きていた。


「お前、昔はどこにいた」


 男が聞いた。


 直樹は答えない。


「自衛隊か」


 直樹は動かない。


「違うな。それだけじゃない」


 犬が唸った。


 直樹は犬の目を見ない。


 肩を見る。

 前足の置き方を見る。

 リードを見る。

 リードを持つ男の手を見る。


 犬は行きたがっている。


 だが、通路は狭い。


 ここで犬を出せば、直樹に飛びつく。

 直樹が避ければ、犬は階段下へ突っ込む。

 人も犬も詰まる。


 だから男は、まだ犬を放たない。


 直樹は半歩だけ位置を変えた。


 犬の正面ではない。

 リードを持つ男の動線を狭める位置。


 灰色の男がそれを見た。


「嫌な立ち方をする」


 直樹は答えない。


 上で、看板が倒れる音がした。


 がしゃん、と大きく響く。


 保安局員の一人が顔を上げた。


「上です!」


 灰色の男の目が、一瞬だけ階段の上へ動いた。


 直樹は、その一瞬で周囲を見直した。


 鉄階段の下は、三人が並べるほど広くない。


 右は文具店の裏壁。

 左はふたのない用水路。

 背後には、錆びた自転車と割れたプラスチック箱。

 正面には灰色の男。

 その半歩後ろに、犬を押さえている保安局員。

 さらに後ろに、もう一人。


 犬は前へ出たがっている。


 だが、階段の幅は狭い。

 犬を出すには、リードを持つ男が一歩前へ詰める必要がある。

 その一歩分だけ、男たちはまだ渋滞していた。


 直樹は殴らなかった。


 飛び込まなかった。


 右足の踵で、背後のプラスチック箱を引っかけた。


 箱は軽い。

 割れていて、音も大きくない。

 蹴り飛ばせば犬の前へ転がる。

 だが、それでは犬が吠えるだけで終わる。


 直樹は箱を横へ押した。


 犬ではなく、リードを持つ男の足元へ。


 箱は、用水路の縁に当たって向きを変え、男の左足の前に滑り込んだ。


 保安局員が、犬に引かれて一歩出る。


 その足が箱を踏んだ。


 ぐしゃ、と薄いプラスチックが潰れる。


 男の膝が落ちる。


 犬が前へ出る。


 リードが斜めに張る。


 犬は進みたい。

 男は踏ん張れない。

 後ろの保安局員は前へ出られない。


 一瞬、通路の奥が詰まった。


 灰色の男が舌打ちした。


「落ち着かせろ」


 犬を持つ男がリードを引き戻す。


 その間に、直樹は鉄階段の一段目へ足をかけた。


 灰色の男が反応する。


 直樹は上がらなかった。


 一段目に乗った足を、すぐに下ろす。


 上がると思った灰色の男の重心が前へ流れ、そこで止まる。


 直樹はまだ階段下にいる。

 男は前へ出たい。

 だが、足元では犬と保安局員が詰まっている。


 さらに数秒。


 直樹は、その数秒だけを見ていた。


 何秒あれば、八人が屋根へ上がるか。

 何秒あれば、健二が屋根の先を見るか。

 何秒あれば、子ども一人が怖いと言って、それでも一歩出せるか。


 勝つ必要はない。


 遅らせればいい。


 灰色の男が低く言った。


「お前一人で止められる数じゃない」


「止めるんじゃない」


「なら何だ」


「遅らせるだけだ」


 男の目が冷える。


「それで十分だと思っているのか」


「上にいる奴が道を見つける」


「弟か」


 直樹は答えない。


 男はわずかに笑った。


「運送屋に任せるのか」


 直樹の目が少しだけ変わった。


「運ぶ奴を馬鹿にするな」


 声は静かだった。


 だが、健二が聞いていたら、たぶん驚いた。


 直樹は続けた。


「あいつは、道があれば運ぶ」


「道がなければ?」


「作る」


 上で、健二の声がかすかに聞こえた。


「行ける!」


 直樹はそれを聞いた。


 十分だ。


 直樹は今度こそ階段に足をかけた。


 灰色の男が前に出る。

 犬が吠える。

 保安局員が詰める。


 直樹は一段上がり、身体を横へずらした。


 男が掴みに来る腕を、階段の手すりで切る。


 攻撃ではない。


 相手の腕と自分の体の間に、鉄の手すりを入れる。


 男の手が空を切る。


 直樹はさらに二段上がる。


 左腕が痛む。


 包帯の下で、傷が開きかけている。


 熱い。


 血が滲む感覚がある。


 だが、指は動く。

 感覚もある。

 骨ではない。

 まだ使える。


 負傷は恐怖ではない。


 今は、使えるか使えないかだ。


 下から犬が跳びかける。


 直樹は止まらなかった。


 止まれば足を取られる。


 犬が跳ぶ瞬間、さらに一段上がり、身体を手すりの内側へ寄せた。


 犬の前足が、階段の端を叩く。


 リードが張った。


 犬が詰まる。


 保安局員が詰まる。


 直樹は、その間にもう一段上がった。


 灰色の男が叫んだ。


「上へ回れ!」


 保安局員が動く。


 別の道から回られる。


 鉄階段だけで止める選択肢が消えた。


 直樹は屋根の上へ出た。


     *


 健二は看板を渡り終えたところで、直樹が上がってくるのを見た。


 思わず声が出た。


「兄ちゃん!」


「前見ろ」


「来たなら来たって言えよ!」


「来た」


「今じゃねえよ!」


 直樹は息を少し乱していた。


 左腕の包帯に血がにじんでいる。


 健二はそれを見た。


「腕」


「後だ」


「後ばっかりだな」


「今は前を見ろ」


 直樹は屋根の先を見た。


 アーケードの骨組みが、別の建物の屋上へ続いている。


 健二が言った。


「渡れる。ただし、一人ずつ。錆びてるところは駄目だ」


「出口は」


「旧公民館側に出るはずです」


 瀬田ハルが言った。


「アーケードの先に、昔の集会所があります。そこから公民館の裏へ」


「表へ出れば、すぐ押さえられる。裏から抜ける」


 直樹が言った。


 健二はうなずく。


「だろうな」


 下から足音が上がってくる。


 保安局が鉄階段を使い始めた。


 もう時間は少ない。


 健二は子どもたちを見る。


 全員、屋根の上にいる。


 怖いはずだった。


 だが、誰も泣き出していない。


 泣かないことが強いのではない。


 怖いまま、次の足場を見ている。


 それが強かった。


「行くぞ」


 健二は先頭に立った。


 今度は直樹ではない。


 屋根を見るのは健二の役目だった。


 どの骨が生きているか。

 どの板が死んでいるか。

 どこが人の重さに耐えるか。


 建物は嘘をつかない。


 壊れる前に、必ず何かを出す。


 沈み方。

 音。

 錆びの色。

 歪み。


 健二はそれを見た。


「ここは一列。間を空けるな。でも同じ板に二人乗るな」


 悠斗が聞く。


「どっちだよ」


「近いけど、同じ場所に乗るな」


「難しい」


「だから俺の足を見る」


 健二は一歩進む。


 屋根が小さく鳴る。


 大丈夫。


 次。


 鳴り方が違う。


 そこは避ける。


「ここ踏むな」


 悠斗が後ろへ伝える。


「ここ踏まない」


 美月。

 千紘。

 花音。

 颯太。

 陸。

 蓮。

 悠太。

 瀬田ハル。


 声が続く。


 直樹は最後尾に回った。


 下を見ている。


 追手の位置。

 犬の動き。

 鉄階段の音。


 灰色の男はまだ見えない。


 だが、来る。


 健二にも分かっていた。


 あの男は諦めない。


     *


 屋根の先に、小さな段差があった。


 アーケードの骨組みから、隣の集会所の屋上へ移る場所だ。


 高さが少し違う。


 子どもなら下りられる。


 大人は体重で屋根を抜くかもしれない。


 健二は先に下り、屋上の床を踏んだ。


 コンクリート。


 ここは大丈夫だ。


「一人ずつ下りろ。飛ぶな」


 悠斗が下りる。


 美月。

 千紘。

 花音。


 颯太が下りようとした時、下から犬の声が近づいた。


 颯太の足が止まる。


 健二はすぐに言った。


「颯太」


 颯太が健二を見る。


「犬を見るな。俺を見ろ」


 颯太はうなずく。


「下りろ。受ける」


「抱える?」


「受けるだけだ。お前が下りる」


 颯太は少しだけ考えた。


 そして、自分で足を下ろした。


 健二は両手で支えたが、持ち上げなかった。


 颯太が自分の足で屋上に立つ。


「立てたな」


 颯太はうなずいた。


「立てた」


 その後ろで、蓮が言った。


「早くしろ、颯太」


 言い方は乱暴だった。


 でも、颯太は少し笑った。


「うん」


 陸。

 蓮。

 悠太。

 瀬田ハル。


 最後に直樹が下りる。


 着地の瞬間、少しだけ左腕をかばった。


 健二は見逃さなかった。


「やっぱ痛いんだろ」


「痛くない傷はない」


「開いてる」


「少しだ」


「少しで済ませるな」


「血が吹いてない。指は動く。感覚もある。後で巻き直す」


「また診断始まった」


「報告だ」


 健二は言い返せなかった。


 直樹のそれは強がりだけではない。


 自分の状態を把握している。


 だから余計に腹が立つ。


 屋上の端に、古い非常階段があった。


 下は集会所の裏庭。

 その先に、公民館らしき建物が見える。


 瀬田ハルが言った。


「あれです。旧公民館」


 健二は公民館を見た。


 二階建て。

 古い瓦屋根。

 外壁にはひび。

 だが、建物はまだ残っている。


 その向こうに、川の土手が見えた。


「川」


「南側の避難路は、川沿いです」


 瀬田ハルが答える。


「そこまで行けば」


 直樹が遮った。


「まだ帰れるとは言うな」


 瀬田ハルは口を閉じる。


 健二は、少しだけその言い方に慣れてきた。


 直樹は希望を潰しているわけではない。


 希望で足を止めるなと言っている。


 希望は、着いてからでいい。


「下りるぞ」


 直樹が言った。


     *


 非常階段は錆びていた。


 だが、屋根よりはましだった。


 健二が先に下り、踊り場ごとに足場を確認する。


 悠斗たちが続く。


 下では、誰も待っていなかった。


 集会所の裏庭は、草が伸び放題だった。


 古いベンチ。

 割れた植木鉢。

 倒れた掲示板。


 掲示板には、色あせた紙が一枚残っていた。


 夏祭りのお知らせ。


 七月二十日。

 盆踊り。

 子ども抽選会。

 かき氷。


 千紘がそれを見た。


「かき氷」


 美月が振り返る。


「知ってる?」


「たぶん」


 颯太が小さく言った。


「青いの」


 悠斗が言う。


「俺、赤」


 蓮が少しだけ口を曲げた。


「俺は何でもいい」


 花音が言った。


「白いのある?」


 陸が首を傾げる。


「氷だから白い」


 その会話は、ほんの数秒だった。


 だが、健二には、胸を刺すように響いた。


 この子たちは、かき氷の味を話せる。


 番号ではなく、名前で。


 それだけのことが、ここまで遠かった。


 直樹は掲示板から視線を外した。


「長居はできない。行くぞ」


 子どもたちはすぐに口を閉じた。


 だが、さっきとは違う。


 恐怖で黙ったのではない。


 次へ行くために黙った。


 集会所の裏口は開いていた。


 中を通れば、公民館の裏へ出られる。


 健二が扉を見る。


「古いけど、使えます」


 直樹が中を確認する。


「中を抜ける。床が傷んでるかもしれない。足元を見て入れ」


 中は小さな集会室だった。


 畳が剥がれ、机が積まれている。

 壁には、子ども会の写真が貼られていた。


 餅つき。

 夏祭り。

 避難訓練。

 地域清掃。


 花音が足を止めた。


 写真の中に、餅を持った子どもたちが写っていたからだ。


 さっき図書館で見た写真と似ている。


 瀬田ハルが優しく言った。


「見るのは後で」


 花音はうなずいた。


「後で」


 その言葉には、約束のような響きがあった。


 後で。


 今ではなく、後で見られる。


 そのために生きて出る。


 直樹は窓から外を見た。


 公民館の裏まで、二十メートルほど。


 間に細い庭と、古い物置がある。


 左手には川の土手。

 右手には住宅地。

 背後から、犬の声がまた近づいている。


 灰色の男たちは、屋根ルートを完全には見失っていない。


 時間はない。


「公民館まで出る」


 直樹が言った。


「中を抜けて、川沿いへ回る」


 健二は子どもたちを見た。


「もう少しだ。足、痛い奴」


 美月が手を上げる。


 千紘も少し迷って手を上げた。


 颯太は上げなかった。


 直樹が見た。


「颯太」


 颯太がびくっとする。


「足、痛いか」


 颯太は小さく言った。


「痛い」


「なら手を上げろ」


 颯太はゆっくり手を上げた。


「それでいい」


 直樹はすぐに並びを変えた。


「足が痛い奴は真ん中。悠斗、蓮、陸は周りを見ろ。花音は千紘の隣。悠太は後ろを見るな。前だけ見て歩け」


 悠太がうなずく。


「前だけ」


 健二はそれを見ていた。


 全員に名前がある。


 だから、指示が具体的になる。


 誰に何を任せるかが、分かる。


 番号で管理するのではなく、名前で役割を渡す。


 その違いが、はっきり見えた。


     *


 集会所の裏口から出た瞬間、右手の住宅地側で声がした。


「いた!」


 保安局員だった。


 距離はある。


 だが、見つかった。


 公民館まで二十メートル。


 走れば数秒。

 でも、八人は同じ速さで走れない。

 美月が遅れる。

 颯太が固まる。

 悠太が音で止まる。

 列が割れる。


 走るという選択肢が消えた。


 直樹が叫ぶ。


「走るな。公民館まで早歩きで行け!」


 健二は思わず言い返した。


「この距離なら走った方が」


「走ると列が割れる。撃たれた時に全員が散るぞ」


 健二は黙った。


 子どもたちは早歩きで進む。


 健二が後ろを見る。


 保安局員が銃を構えかけた。


 だが、撃たない。


 子どもが密集している。

 後ろには公民館の窓。

 さらに奥には川沿いの住宅。


 撃てばどこへ飛ぶか分からない。


 向こうも撃つ場所を選んでいる。


 直樹はその間に、子どもたちと銃口の線の間へ入った。


 まただ。


 倒しに行かない。


 線を切る。


「公民館の裏へ!」


 健二が叫ぶ。


 子どもたちは進む。


 公民館の裏口に着く。


 健二が扉を引く。


 開かない。


「鍵だ!」


 簡単な道が、また消えた。


「壊せるか」


 直樹が聞く。


「古い木製扉。音は出るけど、いける」


「頼む」


 健二は扉を見る。


 蝶番。

 鍵。

 木の割れ。

 力をかける場所。


 肩で押すより、蹴った方が早い。


 だが、子どもが近い。


「下がれ!」


 健二は一度だけ蹴った。


 木が割れる。


 もう一度。


 鍵周りが外れた。


 足の裏に、鈍い痛みが返ってきた。


 だが、扉は開いた。


「中へ!」


 子どもたちが入る。


 一人。

 二人。

 三人。

 四人。

 五人。

 六人。

 七人。

 八人。


 瀬田ハル。


 直樹。


 最後に健二。


 扉を閉める。


 鍵は壊れている。


 閉めても意味は薄い。


 健二は近くの長机を引きずって扉に当てた。


 机の脚が床を擦り、大きな音を立てる。


 もう音を気にしている段階ではなかった。


 直樹が言った。


「その机で、十秒は稼げる」


「短いな」


「今は十秒あればいい」


「十分の基準が毎回おかしい」


 直樹は公民館の中を見た。


 広いホール。

 古い椅子。

 舞台。

 壁に避難経路図。


 瀬田ハルがそれを見つけた。


「避難路図!」


 健二も見る。


 公民館の裏から、川沿いの管理道へ抜ける非常口がある。


 だが、図にはもう一つ、細い線が描かれていた。


 地下備蓄庫。


 そこから川沿いの排水路へ。


 健二は指でなぞった。


「地下から川へ抜けられる」


 直樹が見る。


「使えそうか」


「分からない」


「確認してくれ」


 健二は思わず笑いそうになった。


 こんな時でも、それか。


「分かったよ」


 その時、外から机に何かがぶつかった。


 追手が扉を押している。


 机がずれる。


 直樹が扉の方へ行く。


 健二が言った。


「兄ちゃん」


「行け」


「また残る気か」


「残らない。入口を見ているだけだ」


「その言い方、信用できない」


「信用するな。手順で動け」


 その言葉を聞いて、瀬田ハルが一瞬だけ顔を上げた。


 前にも、資料室で聞いた言葉だった。


 信用じゃなく、手順で動け。


 ここまで来ても、直樹は同じことを言う。


 健二は歯を食いしばった。


「俺が地下を見てくる。通れるなら、すぐ子どもを下ろす」


「俺を呼ぶな。行けるなら先に子どもを入れろ」


「兄ちゃんは」


「後で行く」


「その後で、何回目だよ」


「数える暇があるなら床を見ろ」


 健二は言い返さず、避難路図の場所へ走った。


     *


 地下備蓄庫の入口は、舞台の横にあった。


 床に四角い蓋。


 上に古い防災用品の箱が積まれている。


 健二は箱をどかした。


 悠斗と蓮が手伝う。


「重いぞ」


「持てる」


「腰やるなよ」


「腰って何」


「後で教える」


 蓋には取っ手がある。


 錆びている。


 健二は両手で引いた。


 動かない。


「くそ」


 もう一度。


 動かない。


 陸が横から言った。


「ここ、引くんじゃなくて、回す?」


 健二は蓋を見る。


 取っ手の横に、小さなロックがある。


 確かに、回すタイプだった。


「陸、助かった。よく気づいたな」


 陸は少しだけ目を見開いた。


 褒められ慣れていない顔だった。


 健二はロックを回した。


 今度は蓋が開いた。


 暗い階段が下へ続いている。


 冷たい空気が上がってきた。


 土と古い水の匂い。


 狭い。


 暗い。


 だが、通れる。


「開いた!」


 健二が叫ぶ。


 直樹が入口から振り返る。


「子どもを下ろせ!」


 健二は子どもたちを見る。


「悠斗、先。足元を見ろ。降りたら左へ寄れ」


 悠斗が下りる。


 美月。

 千紘。

 花音。

 颯太。

 陸。

 蓮。

 悠太。


 瀬田ハルが麻袋を抱えて下りる。


 健二は最後に下りようとして、直樹を見た。


 公民館の入口では、机が押されている。


 隙間から犬の鼻先が見えた。


 直樹が机を押さえている。


 左腕を使わず、肩と右手で。


「兄ちゃん!」


「下りろ!」


「お前も!」


「今行く!」


 その時、扉の隙間から犬がさらに鼻先を入れた。


 直樹は床に落ちていた古い防災毛布を掴み、犬の顔へ投げた。


 犬が一瞬、視界を失う。


 保安局員が引く。


 机が押し戻される。


 その一瞬で、直樹は走った。


 健二は地下入口で待った。


 直樹が飛び込むように階段へ来る。


「閉めろ!」


 二人で蓋を引く。


 重い蓋が閉まる。


 直後、上で扉が破られる音がした。


 足音。

 怒号。

 犬の吠え声。


 だが、蓋の下は暗かった。


 狭い階段に、八人と三人が押し込まれている。


 健二は息を荒げながら、直樹を見た。


「今行くって言ったな」


「言った」


「初めて信用できた」


「信用するなと言った」


「うるせえよ」


 直樹は少しだけ息を吐いた。


 左腕から血が落ちている。


 一滴。


 階段の床に落ちた。


 赤黒い点が、暗い床に広がった。


 健二はそれを見た。


「巻き直すぞ」


「川に出てからだ」


「今だ」


「ここで止まると後ろが詰まる」


「でも」


 直樹は健二を見た。


「八人が先だ」


 健二は言葉を飲み込んだ。


 分かっている。


 分かっているから、余計に腹が立つ。


 地下備蓄庫の奥から、水の音が聞こえた。


 川へ続く排水路。


 南側の避難路。


 あと少し。


 だが、上ではもう保安局が公民館に入っている。


 蓋を見つけるのも時間の問題だ。


 直樹が低く言った。


「行くぞ。水の音に沿って進む」


 健二は前を見た。


 暗い通路の中で、八人の子どもたちが待っている。


 中原悠斗。

 宮原美月。

 笹原蓮。

 浅野悠太。

 佐伯千紘。

 高瀬陸。

 村瀬花音。

 小野寺颯太。


 全員に名前がある。


 全員、まだここにいる。


 健二は小さく言った。


「帰すぞ」


 直樹が答えた。


「ああ」


 暗い地下通路の奥で、水の音が強くなった。


 その音は、初めて少しだけ、外の世界に続いているように聞こえた。


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