第十二話 川の音 改正版
## 第十二話 川の音
地下備蓄庫の奥は、思ったより低かった。
健二は少し首を前に倒さなければ歩けなかった。天井に張り出した配管が、何度も頭の上をかすめる。
壁は湿っている。
古いコンクリートの表面に、水の跡が何本も残っていた。
昔の雨か。
川が増えた時の水か。
それとも、誰にも使われなくなってから染み出してきた水か。
分からない。
ただ、足元には薄く水が流れていた。
靴底が濡れる。
床がぬめる。
ライトの光が水に反射して、壁をゆらゆらと照らす。
奥から、水の音がしていた。
遠いようで、近い。
地下に閉じ込められた音ではない。
どこかで川につながっている音だった。
そこへ行けば外に出られる。
そう思いたかった。
だが、直樹は言っていた。
まだ帰れるとは言うな。
希望で足を乱すな。
健二は瀬田ハルから受け取った小さなライトを前へ向けた。
光は弱い。
けれど、足元を見るには足りる。
「悠斗、先に行きすぎるな」
健二が言った。
先頭を歩いていた悠斗が、すぐに止まった。
「分かった」
「足元、濡れてる。滑るぞ」
悠斗はうなずき、後ろへ伝えた。
「滑る。ゆっくり」
美月が千紘に伝える。
「ゆっくり」
千紘が花音に言う。
「足元、見て」
花音が颯太を見る。
「颯太、ここ滑る」
颯太は少し遅れてうなずいた。
「うん」
返事はまだ小さい。
けれど、誰かに急かされて出した返事ではなかった。
濡れた床に足を置きながら、自分の名前に、自分で振り向いている。
健二はそれだけを確認して、すぐ前へ光を戻した。
今は止まれない。
上では、保安局が公民館の中へ入っている。
地下備蓄庫の蓋を見つけられるまで、そう時間はかからない。
直樹は最後尾にいた。
左腕の包帯には血がにじんでいる。
さっきより赤い。
歩くたびに、指先がわずかに固くなるのが見えた。
健二は何度も振り返りそうになった。
だが、直樹が先に言った。
「前を見ろ」
「まだ何も言ってねえよ」
「顔がうるさい」
「顔に文句言うな」
「足元を見ろ。ここで転んだら、全員止まる」
健二は舌打ちしかけて、飲み込んだ。
その通りだった。
子どもたちの足は、もう限界に近い。
美月は右足をかばっている。
千紘は沢で冷えた体がまだ戻りきっていない。
颯太も足の痛みを隠そうとしていた。
花音は怖くなると、誰かの袖をつかむ。
悠太は大きな音で固まる。
悠斗は自分が前に出ようとする。
蓮は怖さを怒りに変える。
陸は数字と構造を見て、気持ちを保っている。
全員に名前は戻った。
でも、体力が戻ったわけではない。
健二は声を落とした。
「瀬田さん、真ん中をお願いします」
「はい」
「痛い子、冷えてる子を真ん中に」
瀬田ハルはすぐに動いた。
「美月さん、千紘さん、颯太さん。こちらへ」
子どもたちが少しだけ驚いた。
さん付け。
施設では、番号だった。
さっきまでは、名前を呼ばれるだけでも驚いていた。
それが今、さん付けで呼ばれている。
美月が小さく言った。
「さん、いらない」
瀬田ハルは一瞬だけ迷い、それからうなずいた。
「分かりました。美月、こっちへ」
美月は少しだけ笑った。
「はい」
その「はい」は、もう施設の返事ではなかった。
小さくても、自分で選んだ返事だった。
*
通路は途中で二つに分かれていた。
右は狭い排水路。
左は少し広い管理通路。
水の音は右から聞こえる。
だが、右は暗かった。
天井が低い。
壁が近い。
大人は体を横にしなければ進めないかもしれない。
健二は右の排水路にライトを向けた。
膝下ほどの水。
壁に古い鉄の手すり。
奥は曲がっていて、その先が見えない。
水の音は強い。
近い。
きっと川に出るなら、右だ。
だが、近い道ほど危ないことがある。
健二は壁に手を当てた。
湿り方を見る。
床の傾きを見る。
水の流れを見る。
「右は水が強い」
直樹が聞いた。
「行けるか」
「子どもは行ける。でも大人はきつい。途中で詰まるかもしれない」
「左は」
「広い。でも、川へ出るとは限らない。管理用の点検道かもしれない」
瀬田ハルが、避難路図を思い出すように言った。
「公民館の避難路は、地下備蓄庫から川沿いへ抜けると書かれていました。図では、水路に沿っていました」
健二はもう一度、右を照らした。
低い天井。
黒い水。
狭い曲がり角。
右へ行けば近い。
でも、途中で詰まれば戻れない。
後ろから保安局が来る。
前で子どもが止まれば、全員が水路の中で詰まる。
近道という選択肢が、ここで消えた。
直樹は後ろを見た。
上の方で、かすかに音がした。
蓋の近くを歩く足音。
見つかったかもしれない。
健二もそれを聞いた。
「時間ないな」
「ああ」
直樹は左の管理通路を見た。
「左へ行く」
「川の音は右だぞ」
「右は詰まる。詰まったら戻れない」
「左が行き止まりだったら」
「戻る余地がある」
健二は少し黙った。
直樹の判断は、いつも一番近い道ではなかった。
戻れる道。
やり直せる道。
誰かが止まった時、押し潰されない道。
勝つ道ではなく、死なない道。
「左だ」
健二は言った。
「悠斗、左へ。壁に手をつけ。走るな」
悠斗がうなずく。
「左。壁に手」
声が列を流れる。
八人が左へ入った。
管理通路は、右より少し広かった。
大人が横を向かずに歩ける。
ただし、床はぬめっている。
壁の途中には古い配管が走り、ところどころ赤い錆が浮いていた。
陸が立ち止まりかけた。
「ここ、数字」
壁に白いペンキで文字が残っていた。
排水系統三号。
川側排出口。
健二がすぐに近づいた。
「川側」
直樹も見る。
「当たりか」
「多分」
「多分でいい。進め」
陸は壁の文字を見たまま、小さく言った。
「数字、役に立った?」
健二は振り返った。
「めちゃくちゃ役に立った」
陸は少しだけ目を伏せた。
嬉しいのを隠すような顔だった。
直樹が言った。
「高瀬陸。次も見つけたら言え」
陸はうなずいた。
「言う」
*
通路の奥で、水の音が強くなった。
空気も変わった。
湿った地下の匂いに、外の匂いが混じる。
川の匂いだった。
泥。
草。
冷たい風。
颯太が顔を上げた。
「外?」
健二はライトを前に向けた。
「近いかもしれない」
直樹がすぐに言った。
「都合良く言うな。足が乱れる」
健二はうなずいた。
「分かってる」
「今のは分かってる顔だ」
「顔の採点やめろ」
その時、後ろで金属音がした。
遠く、だがはっきり。
蓋が開いた音。
上の保安局が地下へ入った。
子どもたちが一斉に振り返りそうになる。
直樹の声が低く飛んだ。
「振り返るな」
全員が止まりかける。
「後ろを見ると足が止まる。前の背中を見ろ」
悠斗がすぐに前を向いた。
「前の背中」
美月が千紘に言う。
「前を見る」
千紘が花音に言う。
「前」
花音が颯太の袖を握った。
「前」
颯太はうなずく。
八人は進んだ。
だが、後ろの足音は増えている。
大人の足音。
犬の爪音。
無線の小さな声。
灰色の男も来ているのか。
健二は聞きたくなかった。
直樹は最後尾で足を止めた。
健二が振り返る。
「兄ちゃん」
「十秒だけ先に行け」
「またか」
「ここは通路が狭い。足音を遅らせる」
「一人でやるな」
「一人で残るとは言ってない」
「同じこと言ってるぞ」
「違う」
直樹は足元の古い防災箱を見た。
中には、錆びた金属の棚板が数枚入っている。
「倒すだけだ」
健二は直樹の動きを見た。
通路を完全に塞ぐほどではない。
ただ、棚板を斜めに倒せば、追手は足元を見る必要が出る。
犬もまっすぐ来られない。
ほんの数秒。
直樹がいつも作る、小さな遅れ。
「手伝う」
「いらない」
「いる」
健二は一枚、棚板を持った。
重い。
直樹は少しだけ健二を見た。
「音を出すな」
「分かってる」
二人で棚板を倒した。
通路の真ん中ではなく、少し斜めに。
完全には塞がない。
塞ぎすぎると、追手が力任せに壊す。
少しだけ邪魔な方が、足を止める。
健二にも、それが分かってきた。
「これで何秒」
「五秒」
「短いな」
「五秒あれば角を曲がれる」
「最近、秒単位で生きてるな」
「前からだ」
直樹はそう言って、歩き出した。
だが、その一歩が少しだけ遅れた。
健二は見た。
左腕ではない。
足元だ。
「兄ちゃん、足」
「滑っただけだ」
「嘘つけ」
「足は動く」
「痛いのか」
「少し」
「少しの基準が信用できねえ」
直樹は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
*
通路の先は、さらに低くなっていた。
大人は少しかがまないと進めない。
子どもたちは、そのまま歩ける。
川の音は、もうはっきり聞こえている。
しかし、出口はまだ見えない。
代わりに、鉄格子が見えた。
排水路の出口を塞ぐ格子。
その向こうに、夕方の光があった。
川だ。
水面がちらちら光っている。
子どもたちが息を呑む。
健二も息を呑んだ。
外だ。
やっと外が見えた。
だが、格子がある。
悠斗が言った。
「開く?」
健二は格子に近づいた。
鍵はない。
だが、下側が錆びている。
水に長く浸かった部分が弱っている。
「開くというより、外せるかもしれない」
直樹が後ろから言った。
「時間は」
後ろから追手の声が聞こえる。
さっき倒した棚板に当たった音。
犬が吠える声。
男の怒鳴り声。
灰色の男の声も聞こえた。
「棚板に構うな。足元だけ見て越えろ。相手は時間を稼いでいる」
直樹が小さく息を吐いた。
「読んでるな」
健二は格子をつかんだ。
「兄ちゃん、こっちも時間ない」
「外せるか」
「やる」
健二は格子の下を見た。
左右の固定金具。
錆びたボルト。
上側は生きている。
下側は死んでいる。
「下を外して、上を支点にして持ち上げる」
悠斗が近づいた。
「手伝う」
「手を出すな。錆で切る」
「でも」
「手伝うなら、みんなを後ろに下げろ。格子が倒れたら危ない」
悠斗はすぐに振り返った。
「下がって。壁側」
蓮も言う。
「壁側。足、濡れるぞ」
陸が足元を見て言った。
「ここ、少し深い」
美月が千紘を支える。
花音が颯太を見る。
「颯太、壁」
颯太が壁に手をつく。
子どもたちは動いた。
健二は格子を揺らした。
びくともしない。
もう一度。
金属が鳴る。
後ろから犬の吠え声が近づく。
「健二」
直樹が言った。
「分かってる!」
「力任せにするな。下の錆を殺せ」
「分かってる!」
「怒鳴るな。力が逃げる」
「うるせえな!」
そう言いながら、健二は直樹の言葉通りにした。
力任せに引くのではない。
下の錆びた部分を左右に揺らす。
少しずつ。
金具の根元を動かす。
古い建物は、怒らせるな。
古い金属も同じだ。
いきなり壊そうとすると、反対側が持っていかれる。
健二は息を整えた。
左へ。
右へ。
少し上へ。
下へ戻す。
ごき、と鈍い音がした。
下側の固定金具が一つ外れた。
「外れた!」
悠斗の声。
「まだ一つだ!」
健二はもう片方へ手をかけた。
指先が錆で痛い。
だが、止まれない。
後ろの曲がり角に、ライトの光が揺れた。
追手が来る。
直樹が最後尾へ下がった。
「子どもを格子から離せ」
瀬田ハルがすぐに動く。
「みんな、壁側へ。健二さんの後ろに立たないで」
直樹は通路の中央に立った。
ただ立つのではない。
そこは、通路が一番狭くなる場所だった。
右は壁。
左は足首ほどの深さの水路。
天井には太い配管が下がっていて、大人は少しかがまなければ進めない。
曲がり角から格子までは、七歩ほどしかない。
だが、その七歩はまっすぐではなかった。床は濡れ、途中にさっき倒した棚板が斜めに残り、ライトを持ったまま駆け込めば足を取られる。
犬も同じだった。
犬は前へ出たがっている。
だが、曲がり角の内側でリードが引っかかり、保安局員が先に体を入れなければ進めない。
直樹はその細い場所に立った。
追手のライトが、子どもたちではなく自分に当たる位置。
灰色の男が曲がり角の手前で止まった。
「そこまでだ」
直樹は答えない。
ライトが直樹の胸を照らした。
男は一歩出ようとして、足元を見た。
水。
棚板。
狭い床。
その先に直樹。
無理に詰めれば、先に自分の足が乱れる。
「出口は格子だ。そこから先は川だ。子どもを連れて出ても、どこへ行く」
直樹は言った。
「外へ」
「外は安全だと思っているのか」
「ここよりはいい」
男は少し黙った。
健二は、その間も格子を揺らしていた。
左へ。
右へ。
少し上へ。
下へ戻す。
金属の根元が、ぎし、と鳴る。
「八人の名前を返したのか」
灰色の男が言った。
その言葉で、健二の手が一瞬止まりかけた。
直樹の声が飛ぶ。
「健二、手を止めるな」
健二は歯を食いしばる。
また格子を揺らす。
男は続けた。
「名前を返せば、子どもは強くなると思ったか」
直樹は答えない。
「名前は鎖にもなる。家族、過去、帰る場所。そんなものを思い出せば、苦しむだけだ」
瀬田ハルが小さく息を吸った。
直樹は静かに言った。
「苦しむかどうかは、お前が決めることじゃない」
「決めるのは管理者だ」
「違う」
直樹は一歩も下がらなかった。
「決めるのは本人だ」
男のライトが少し揺れた。
健二は二つ目の金具に力をかけた。
動かない。
もう一度。
駄目だ。
手が滑る。
血がにじむ。
その時、陸が小さく言った。
「健二さん」
「今無理」
「あっち」
「何」
「右の下、割れてる」
健二はライトを向けた。
格子の右下ではなく、壁側のコンクリートに細いひびがあった。
金具ではなく、壁が死んでいる。
「陸」
「そこ、押したら」
「いける」
健二はすぐに力のかけ方を変えた。
金具を外すのではない。
ひびのある壁ごと、少し押し込む。
格子を手前に引くのではなく、右下を外へ逃がす。
父親の声が、頭の中で聞こえた気がした。
壊す場所を間違えるな。
健二は格子の右下に足をかけた。
「みんな離れろ!」
直樹が叫ぶ。
「健二、外れたらすぐ下がれ! 格子の下に体を入れるな!」
「分かってる!」
健二は体重を乗せた。
コンクリートが割れた。
格子の下側が外れる。
上側だけでぶら下がる。
重い。
健二の腕に負担がかかる。
「悠斗、蓮! 触るな、でも下をくぐる準備!」
悠斗と蓮が子どもたちを集める。
「出られる!」
花音が言った。
「外?」
千紘が颯太の手を握る。
「外だよ」
格子の下に、人一人がくぐれる隙間ができた。
水が外へ流れていく。
川の風が入ってきた。
冷たい。
でも、外の風だった。
*
直樹の後ろで、健二が叫んだ。
「開いた!」
直樹は振り返らなかった。
「子どもから出せ!」
健二は悠斗を見る。
「悠斗、先に出ろ。外を見て、危なかったら戻るな。横に避けろ」
「分かった」
悠斗が格子の下をくぐる。
外へ出る。
一瞬、姿が消える。
健二の心臓が跳ねる。
すぐに外から声がした。
「出られる!」
健二は息を吐く暇もなく、次を出す。
「美月」
美月がくぐる。
右足が引っかかりかける。
健二が支える。
「痛い足を急がせるな。ゆっくり抜け」
美月はうなずき、外へ出た。
「千紘」
「はい」
「花音」
「うん」
「颯太」
颯太は一瞬、直樹の方を見た。
直樹はまだ背中を向けている。
颯太は言った。
「直樹さんは」
健二は答えた。
「来る。先に出ろ」
「本当?」
「本当だ。兄ちゃんは、来るって言ったら来る」
颯太はうなずき、外へ出た。
「陸」
陸がくぐる前に、健二を見た。
「さっきの、役に立った?」
「立った。お前が見つけなかったら開いてない」
陸は小さくうなずき、外へ出た。
「蓮」
「分かってる」
「悠太」
「前見る」
「そうだ」
八人が外へ出た。
瀬田ハルが麻袋を抱えてくぐる。
最後に健二が残る。
直樹はまだ通路に立っていた。
灰色の男はライトを下げていない。
その後ろで犬が低く唸っている。
健二には、一瞬、直樹が逃げられないように見えた。
だが、灰色の男もすぐには詰められなかった。
格子の手前は、水で滑る。
床には外れかけた棚板が残っている。
直樹のすぐ後ろでは、健二たちが格子の下をくぐっている。
撃てば、誰に当たるか分からない。
犬を出せば、狭い床でリードが絡む。
無理に走れば、自分の足が先に滑る。
だから男は、ライトを当てたまま距離を詰められずにいた。
直樹は、その距離を見ていた。
床ではない。
壁を見ていた。
格子の手前、右側の壁に、小さな点検板があった。
古い水門の調整板だ。
錆びた取っ手。
外れかけた留め具。
そこから、細い水がずっと漏れている。
直樹は、さっきからそこを見ていた。
「兄ちゃん!」
「出ろ」
「お前が先だ!」
「健二」
直樹の声が低くなった。
「八人、外にいるか」
健二は外を見た。
川沿いの草むらに、子どもたちがいる。
悠斗。
美月。
蓮。
悠太。
千紘。
陸。
花音。
颯太。
瀬田ハルもいる。
「いる!」
「なら出ろ」
「お前は」
「すぐ行く」
「今行くって言え」
直樹は一瞬だけ沈黙した。
それから言った。
「今行く」
健二はそれを聞いて、格子の下をくぐった。
外の空気が肺に入る。
川の匂い。
草の匂い。
土手の向こうに、夕方の空が見える。
だが、喜ぶ時間はなかった。
健二はすぐに振り返った。
その時、灰色の男がようやく一歩出た。
靴底が水を踏む。
滑りはしない。
だが、速くは進めない。
直樹は壁の点検板に手をかけた。
「触るな」
灰色の男が言った。
直樹は答えなかった。
錆びた留め具を、右手で外す。
硬い音がした。
次の瞬間、点検板が半分外れた。
溜まっていた水が、低い位置から一気に噴き出した。
強い水ではない。
人を倒すほどではない。
だが、狭い通路の足元を一瞬で濡らすには十分だった。
泥と錆びた水が、床を走る。
犬が水を避けて足を止めた。
保安局員の靴が滑る。
灰色の男だけは踏みとどまった。
直樹は、その男を見ずに、外れかけた点検板を蹴った。
板は壁から外れ、通路の床を滑った。
金属音が低く響く。
犬がその音に反応して横へ跳ねた。
その瞬間、直樹は格子へ向かった。
走らない。
低く、短く。
水で濡れた床に片手をつき、身体を格子の下へ滑らせる。
左腕が引っかかる。
健二が外から手を伸ばした。
「腕!」
「引くな!」
「じゃあどうする!」
「服を持て!」
健二は直樹の背中の服をつかんだ。
直樹が右足で内側の床を蹴る。
健二が服を引く。
瀬田ハルも手を伸ばす。
直樹の体が外へ出た。
直後、内側から灰色の男の手が伸びた。
指先が、直樹の靴底をかすめる。
届かない。
男は格子の向こうで止まった。
点検板から漏れた水が、まだ通路の床を流れている。
足元を濡らし、犬の動きを鈍らせ、数秒だけ追手の足を乱した。
灰色の男は、床を見た。
それから、格子を見た。
下側が外れている。
大人が無理に通るには狭い。
犬もすぐには抜けられない。
追うには、別の出口へ回るしかない。
男が低く言った。
「まだ終わっていない」
直樹は答えなかった。
健二が直樹の肩をつかむ。
「立てるか」
「立てる」
「本当か」
「足は動く」
「足だけじゃねえだろ」
直樹は右手で地面を押し、立ち上がった。
左腕の包帯は赤い。
だが、まだ意識ははっきりしている。
直樹は子どもたちを見た。
「数えろ」
健二はすぐに振り返った。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
七人。
八人。
「八人いる」
「名前で数えろ」
健二は息を吸った。
「中原悠斗」
「はい」
悠斗がすぐに答えた。
「宮原美月」
「はい」
美月は右足をかばいながら手を上げた。
「笹原蓮」
「いるよ」
蓮は少し不機嫌そうに答える。
「浅野悠太」
「はい」
悠太は小さく手を上げた。
「佐伯千紘」
「はい」
千紘は濡れた袖を握ったまま答えた。
「高瀬陸」
「ここ」
陸は足元を見ながら返事をした。
「村瀬花音」
「……はい」
花音は蓮の袖の後ろから答えた。
「小野寺颯太」
颯太は少し遅れた。
まだ、その名前が自分に向けられていることを確かめるように、健二を見た。
それから、小さく手を上げた。
「はい。います」
「いるな」
直樹は言った。
「川沿いを下る。土手の影を使う。立って歩くな」
健二は顔をしかめた。
「その前に腕」
「土手の下まで行ってからだ」
「今だ」
「ここは出口だ。出口で止まるな」
健二は言葉を飲み込んだ。
また正しい。
だから腹が立つ。
瀬田ハルが言った。
「土手の下に、古い水防倉庫があります。そこなら少し隠れられます」
「距離は」
「百メートルほどです」
直樹はうなずいた。
「そこまで行く」
健二は子どもたちに言った。
「土手の下を歩く。草で足元が見えない。前の人が踏んだ所を踏め」
悠斗がうなずく。
「同じ所を踏む」
美月が千紘に言う。
「同じ所」
千紘が花音に言う。
花音が颯太に言う。
颯太が陸を見る。
陸が足元を見て、蓮に言う。
蓮が悠太に言う。
「遅れるなよ」
悠太が答える。
「遅れない」
八人は、川沿いの草むらを進み始めた。
水の音が横にある。
空が見える。
夕方の光が、川面に揺れている。
それはまだ安全ではなかった。
追手は必ず回り込む。
灰色の男も諦めていない。
それでも、地下ではない。
空の下だった。
*
水防倉庫は、土手の影にあった。
小さなコンクリートの建物。
扉は半分外れ、内側には古い土嚢袋と錆びたスコップが残っている。
健二が先に中を見た。
「入れます」
直樹が周囲を確認する。
「五分だけ」
「五分で何するんだよ」
「腕を巻き直す。足を見る。水を飲ませる」
「やっとか」
子どもたちが中へ入る。
狭い。
だが、外からは見えにくい。
直樹は壁に背を預けて座った。
初めて、自分から座った。
健二はそれを見て、胸がざわついた。
「兄ちゃん」
「包帯」
「分かってる」
瀬田ハルが麻袋から残っていた布を出す。
健二は直樹の包帯をほどいた。
血で張りついている。
直樹が顔をしかめる。
「痛いなら言えよ」
「痛い」
健二は手を止めた。
直樹がそんなふうに言うのは珍しかった。
「……言うんだな」
「言えと言ったのはお前だ」
「そうだけど」
「続けろ」
傷は開いていた。
ひどく裂けているわけではない。
だが、動き続けたせいで血がにじんでいる。
健二は息を吐いた。
「これは後回しにしすぎだ」
「動脈じゃない」
「それはもう聞いた」
「指は動く」
「それも聞いた」
「感覚もある」
「それもだ」
健二は布を当て、圧迫した。
直樹が短く言う。
「もう少し強く」
「こうか」
「強すぎる」
「注文が多いな」
「指が死ぬ」
「分かったよ」
瀬田ハルが静かに見ている。
子どもたちも見ていた。
美月が小さく聞いた。
「痛いの?」
直樹は答えた。
「痛い」
美月は少し驚いた顔をした。
「大人も?」
「ああ」
「痛いって言っていいの?」
直樹は美月を見た。
「言わないと、手順が変えられない」
美月は自分の右足を見た。
「じゃあ、私も痛い」
「知ってる」
「知ってたの?」
「歩き方で分かる」
美月は少しだけ口を尖らせた。
「なら聞いてよ」
健二が思わず笑った。
直樹は少しだけ困った顔をした。
「次から聞く」
美月はうなずいた。
「うん」
その場に、ほんの少しだけ空気が戻った。
逃げている途中なのに。
追われている途中なのに。
それでも、人間の会話だった。
*
外で、遠くの方から車の音が聞こえた。
直樹はすぐに顔を上げた。
休憩は終わりだった。
「車が近い。こっちへ回り込んでくる」
健二は包帯を結び終える。
「まだ三分も経ってない」
「十分だ」
「またそれか」
「十分じゃなくても動く」
直樹は立ち上がった。
少しふらつく。
健二が支えようとした。
直樹はその手を避けなかった。
ほんの一瞬だけ、健二の腕に体重を預けた。
健二は何も言わなかった。
言えば、直樹が離れる気がした。
瀬田ハルが外を覗く。
「川沿いを下れば、旧南橋に出ます。その先が境界近くです」
「橋は押さえられる」
直樹が言う。
「橋を渡らない」
健二は川を見る。
「じゃあ、どこを渡る」
瀬田ハルは少し迷った。
「昔、子どもたちが川遊びをしていた浅瀬があります。今も残っていれば」
「浅瀬か」
直樹が言った。
「犬も来るな」
「でも、車は来られない」
健二が言う。
「子どもは渡れるか」
瀬田ハルは子どもたちを見る。
「水量次第です」
直樹は短く息を吐いた。
「見て決める」
健二は子どもたちを見た。
「また水だ」
千紘が少しだけ顔をこわばらせた。
沢で落ちかけた記憶がある。
健二はすぐに言った。
「今度は一人ずつ見る。怖いなら怖いって言え。黙って我慢するな」
千紘はうなずいた。
「怖い」
「よし」
颯太も小さく言った。
「僕も」
「よし」
花音が言う。
「私も」
蓮が少しだけため息をついた。
「俺も怖いよ」
悠斗が蓮を見る。
「お前も?」
「怖いに決まってんだろ」
陸が静かに言った。
「僕も」
美月も手を上げる。
「怖い」
悠太が最後に言った。
「俺も、少し」
健二は全員を見た。
「全員怖い。じゃあ、全員で行く」
直樹がうなずいた。
「それでいい」
水防倉庫を出る。
川の音が近い。
夕方の空は、少しずつ暗くなり始めていた。
対岸には、低い林が見える。
その向こうに、南側へ続く道があるはずだった。
だが、後ろからは車の音。
犬の声。
そして、灰色の男がまだどこかで道を読んでいる。
健二は八人を数えた。
中原悠斗。
宮原美月。
笹原蓮。
浅野悠太。
佐伯千紘。
高瀬陸。
村瀬花音。
小野寺颯太。
全員いる。
全員、怖いと言えた。
それでいい。
直樹が川下を見た。
「浅瀬へ行く」
健二はうなずいた。
「ああ」
八人と三人は、土手の影を進み始めた。
川の向こうに、帰り道があるかどうかはまだ分からない。
でも、ここまで来た。
名前を取り戻して。
怖いと言えるようになって。
まだ、八人で歩いている。




