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第十三話 浅瀬を渡る 改正版

## 第十三話 浅瀬を渡る


 土手の下は、思ったより暗かった。


 夕方の光はまだ残っている。


 だが、川沿いの草が高く、足元までは届かない。伸びた草が膝に当たり、濡れた葉が靴に絡む。踏んだ場所が土なのか、泥なのか、石なのか、見ただけでは分からなかった。


 右側には川。

 左側には土手。

 その上を、車の音が遠く走っていく。


 水の音だけが近かった。


 さっきまで地下で聞いていた水の音とは違う。

 今は、隣にある。

 すぐ横にある。


 逃げ道であり、障害でもある音だった。


 健二は先頭を歩いた。


 水防倉庫を出る時、入口に転がっていた折れたスコップの柄を拾っていた。木の柄だけが残っている。先は欠けているが、足元を探るには使えた。


 健二は草を分けながら、その柄で地面を叩いた。


 柔らかい場所。

 沈む場所。

 石がある場所。


 何度も確認しながら進む。


「悠斗、俺の足跡を踏め」


「分かった」


「足元が見えないところは、先に棒で突く。真似するな。俺が言ってから踏め」


「分かった」


 悠斗はすぐ後ろにいた。


 その後ろに、美月と千紘。

 花音と颯太。

 陸と蓮。

 悠太。

 瀬田ハル。


 直樹は最後尾ではなかった。


 健二がそうさせなかった。


 水防倉庫を出る前、直樹は当然のように最後尾へ行こうとした。健二はその腕をつかんだ。


「兄ちゃんは真ん中」


 直樹は眉を動かした。


「最後は俺だ」


「違う。今の兄ちゃんが倒れたら、全員止まる」


「倒れない」


「その言い方を信用できないって、さっきから何回言わせるんだよ」


 直樹は黙った。


 健二は続けた。


「後ろは俺が見る。兄ちゃんは瀬田さんの前。子どもたちの真ん中にいてくれ」


「お前が後ろを見るのか」


「見る」


「見えるのか」


「全部は無理だ。でも、足音と車の音くらいは分かる」


 直樹は少しだけ健二を見た。


「命令か」


「報告です」


 健二はそう言った。


 直樹は短く息を吐いた。


「分かった」


 それだけだった。


 健二は、それ以上何も言わなかった。


 兄が真ん中に入った。


 それだけで、列の形が変わった。


 直樹が先頭でも最後尾でもない。


 八人の中にいる。


 それは不思議な光景だった。


 でも、今はそれが必要だった。


 誰か一人が強い列ではなく、誰か一人が倒れても崩れない列にしなければならなかった。


     *


 川沿いをしばらく進むと、旧南橋が見えた。


 橋の上に車の灯りがある。


 一台ではない。


 橋の手前に二台。

 橋の向こうにも一台。


 保安局の車だ。


 白い光が橋の欄干をなぞっている。光はゆっくり動き、時々、川面に落ちた。水が白く光って、すぐに黒く戻る。


 瀬田ハルが小さく言った。


「やっぱり橋は押さえられています」


 直樹は橋を見た。


「渡らない」


 健二も同じものを見ていた。


 橋の下は広い。

 隠れる場所も少ない。

 車から見下ろされる。

 橋脚の影に入れても、八人が続けばすぐに見つかる。


 子ども八人を連れて渡る場所ではなかった。


 橋を渡る。


 その選択肢は消えた。


「浅瀬はどこですか」


 健二が聞いた。


 瀬田ハルは川下を指した。


「あの大きな柳の木のあたりです。昔は夏になると、子どもたちが川に入っていました。水が少ない時は、膝くらいで渡れたはずです」


「今の水量は」


「分かりません」


 直樹が言った。


「見て決める」


 また、その言葉だった。


 だが、今はそれしかない。


 歩く前に決められることは、もう少なかった。


 健二は土手の影を進んだ。


 草が足に絡む。

 泥が靴に吸いつく。

 水を吸った靴が重い。


 美月の足が遅れた。


 千紘がすぐに支える。


「大丈夫?」


「痛い」


 美月は今度、隠さなかった。


 直樹が振り返る。


「痛みが強くなったか」


「さっきより、ちょっと」


「歩けるか」


 美月は少し考えた。


「歩ける。でも、早くは無理」


「それでいい」


 直樹は健二を見た。


「速度を落とす」


「分かった」


 健二は先頭から声を下げた。


「急がない。でも止まらない。小さく歩く」


 悠斗が後ろへ伝える。


「小さく歩く」


 蓮が少し小声で言った。


「全部小さいな」


 陸が答えた。


「大きくすると滑る」


「分かってるよ」


 蓮はぶっきらぼうに返した。


 だが、その声には少しだけ余裕があった。


 番号で黙って歩いていた時とは違う。


 文句を言える。

 返事が返る。

 誰かが聞いている。


 それだけで、列は少し人間に戻っていた。


     *


 柳の木が見えてきた。


 太い幹が川へ向かって傾いている。枝は水面の方へ長く垂れ、夕方の風でゆっくり揺れていた。


 根元のあたりに、古い石段があった。


 昔、川へ下りるために作られたものだろう。草に隠れているが、形は残っている。


 瀬田ハルが小さく言った。


「ここです」


 健二は下へ降りた。


 川面が近くなる。


 水は思ったより速かった。


 浅い場所もある。

 だが、中央は黒い。

 水面の色が違う。

 流れの音も、岸の近くとは違っていた。


 健二はスコップの柄を水に入れた。


 岸の近くは足首。

 少し先はすね。

 さらに先は膝。


 その向こうは、柄が深く沈んだ。


「昔より深いな」


 瀬田ハルが不安そうに言った。


「雨が降ったので」


「昨日か」


「はい」


 健二は川を見た。


 ただの浅瀬ではない。


 だが、よく見ると、水の流れが少し違う場所があった。


 川の中央から斜めに、細い筋がある。

 水面が小さく盛り上がっている。

 流れがそこで一度割れ、またすぐ合わさっている。


 石か。

 古い堰か。

 沈んだコンクリートか。


 健二はしゃがんで、川の底を見ようとした。


 暗くて見えない。


 でも、流れの癖は見える。


「ここ、ただの浅瀬じゃない」


 直樹が聞いた。


「何がある」


「多分、古い取水の土台。川底に低いコンクリートが残ってる」


「渡れるか」


「真っ直ぐは無理。斜めに行けば、足場が続いてるかもしれない」


「かもしれない、か」


「それ以上は入らないと分からない」


 直樹は川を見る。


 それから橋の方を見た。


 車の灯りが増えている。


 時間はない。


「俺が先に入る」


 直樹が言った。


 健二はすぐに返した。


「駄目だ」


「足場を見る」


「それは俺が見る」


「お前が流されたら困る」


「兄ちゃんが流された方が困る」


 直樹は黙った。


 健二はスコップの柄を握り直した。


「建物じゃないけど、足場を見るのは俺がやる。兄ちゃんは子どもたちを見る。足が痛い子、怖がってる子、息が上がってる子を見てくれ」


 直樹は川を見たまま言った。


「川の流れは俺が見る」


「見てくれ。でも、最初に足を入れるのは俺だ」


「なぜだ」


「兄ちゃんは腕も足も悪い。ここで流されたら、子どもたちまで止まる」


 健二は川を見た。


「俺が先に入って、足場があるか確かめる。兄ちゃんは岸から、流れと子どもたちを見てくれ」


 直樹は少しだけ健二を見た。


「また報告か」


「今度は提案です」


「強い提案だな」


「兄ちゃんほどじゃない」


 直樹は短く息を吐いた。


「分かった。腰より深くなったら戻れ」


「子どもなら?」


「お前の腰まである水は、子どもには胸の高さになる。そこまで深ければ渡らせない。すぐ戻る」


「分かった」


 健二は川へ足を入れた。


 冷たい。


 思ったより冷たい。


 靴の中に水が入る。足首を締めつけるような冷たさが上がってくる。


 足元の泥が動く。


 健二はスコップの柄で先を探った。


 石ではない。


 硬い。

 平たい。


 やはり、何かが沈んでいる。


 健二は一歩進んだ。


 水は膝下。


 もう一歩。


 膝。


 その先で、急に落ちる。


 健二は足を止めた。


「真っ直ぐは駄目だ!」


 岸に向かって言う。


「右にずれる。そこから斜めに入る」


 悠斗が真剣な顔で聞いている。


 直樹も川を見ている。


 健二は右へ二歩ずれた。


 水の流れが弱くなる。


 スコップの柄が硬いものに当たった。


 足場がある。


「ここだ」


 健二はゆっくり戻った。


 岸に上がると、子どもたちが一斉に見た。


 みんな、顔が硬い。


 健二は言った。


「渡れるかもしれない。でも、楽じゃない」


 蓮が小さく言った。


「楽なこと、最近あった?」


 悠斗が蓮を見る。


「ない」


 陸が言った。


「かき氷の話くらい」


 花音が小さく笑った。


 その笑いはすぐ消えた。


 でも、確かにあった。


 健二は八人を見る。


「怖い奴」


 全員が手を上げた。


 今度は迷わなかった。


 健二はうなずいた。


「よし。怖いまま行く」


 直樹が続けた。


「怖いと言えた奴は、止まりにくい」


 美月が聞いた。


「どうして?」


「自分の状態が分かってるからだ」


 美月は少し考えた。


「痛いも?」


「痛いも」


「寒いも?」


「寒いも」


 千紘が小さく言った。


「帰りたいも?」


 直樹は千紘を見た。


「ああ。それも言っていい」


 千紘はうつむいた。


「帰りたい」


 誰も笑わなかった。


 誰も否定しなかった。


 花音が小さく言った。


「私も」


 颯太も言った。


「僕も」


 悠斗が川を見ながら言った。


「じゃあ、渡る」


 蓮が言う。


「単純だな」


「帰りたいなら、渡るしかない」


 蓮は少し黙って、それから言った。


「まあ、そうだけど」


     *


 渡る順番は、直樹が決めた。


 健二が先頭で足場を見る。


 そのすぐ後ろに悠斗。

 次に美月。

 千紘。

 花音。

 颯太。

 陸。

 蓮。

 悠太。

 瀬田ハル。

 直樹。


 直樹は最後に残ろうとしたが、健二がまた止めた。


「兄ちゃんは瀬田さんの前」


「最後は誰が見る」


「俺が見る」


「先頭にいるだろ」


「渡り切ったら、向こうから見る。兄ちゃんは途中で止まるな」


「命令が増えたな」


「兄ちゃんが減らないからだよ」


 直樹は少しだけ口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


「分かった」


 健二は川に入った。


 冷たい水が膝まで来る。


 スコップの柄で足場を探る。


「悠斗、俺の置いた足の場所を見る。水面じゃない。俺の膝の向きを見ろ」


「膝?」


「足元は見えないだろ。膝が向いてる方に足がある」


「分かった」


 悠斗が水へ入る。


 息を吸った。


「冷たい」


「声は小さくな」


「冷たい」


 今度は小さく言った。


 美月が入る。


 右足が水に触れた瞬間、顔をしかめた。


「痛い」


 直樹が岸から言った。


「止まっていい。痛い足を先に出すな。健二の足が止まるまで待て」


 美月はうなずいた。


「待つ」


 千紘が入る。


 体が少し震えた。


 沢で滑った記憶が戻ったのだろう。


 健二は前から言った。


「千紘、今は川。さっきの沢じゃない」


 千紘は顔を上げる。


「違う?」


「違う。ここは俺が先に足場を見てる」


「落ちない?」


「落ちそうになったら言え。黙るな」


 千紘はうなずいた。


「怖い」


「よし。怖いって言えた。次、一歩」


 千紘は一歩進んだ。


 花音は颯太の袖をつかもうとして、手を止めた。


 颯太の方が怖そうだったからだ。


「颯太、私の袖、持つ?」


 颯太は少し驚いた。


「いいの?」


「うん」


 颯太は花音の袖をつかんだ。


 花音も少し安心した顔をした。


 二人で水へ入る。


 陸は水面をじっと見ていた。


「ここ、泡がある」


 健二が振り返る。


「泡のところは流れが当たってる。そこを踏むな」


「分かった」


 蓮が言った。


「陸、先に言えよ」


「今言った」


「そうだけど」


 悠太は最後の方で、何度も橋を見た。


 車の灯りが気になるのだろう。


 直樹が言った。


「悠太」


「はい」


「橋を見るな。見ても近づかない」


「でも、光が」


「光は人を止めるためにある。止まるな」


 悠太はうなずいた。


「止まらない」


 全員が水に入った。


 川の音が大きくなる。


 橋の上の声は、少し遠い。


 だが、気づかれるのは時間の問題だった。


     *


 川の中央に近づくと、水が強くなった。


 健二の足元にある沈んだ土台は、まっすぐ続いていない。


 少し右へ曲がっている。


 その先は、一度途切れていた。


 健二はスコップの柄を伸ばした。


 硬いものに当たらない。


 水だけ。


 左へ探る。


 駄目だ。


 右へ。


 当たった。


 少し離れている。


 子どもには大きい一歩になる。


 健二は考えた。


「ここで一回止まる」


 悠斗が止まる。


 後ろも止まる。


 美月が震える。


「止まると寒い」


「分かってる。すぐ動く」


 健二は右の足場を確認した。


 自分なら届く。


 悠斗も届く。

 蓮も届く。


 でも、美月、千紘、花音、颯太には遠い。


 直樹が後ろから聞いた。


「切れてるか」


「少し」


「戻るか」


「戻らない。右に足場がある」


「子どもには」


「遠い」


 直樹はすぐに言った。


「一人ずつ渡せ」


「どうやって」


「健二が向こう側。俺がこっち側。間を渡す」


 健二は兄を見た。


 直樹は左腕をかばっている。


「兄ちゃん、腕」


「右で支える」


「流れの中でか」


「片腕でもできる」


「その言い方が信用できない」


「なら、お前が全部やるか」


 健二は黙った。


 全部は無理だ。


 美月も千紘も颯太もいる。


 ここは一人の力では越えられない。


「分かった」


 健二は右の足場へ大きく一歩出た。


 水が腰近くまで来る。


 冷たさで息が止まりかけた。


 だが、足場はある。


「悠斗、来い。大きく一歩。俺の腕をつかめ」


 悠斗が来る。


 健二の腕をつかむ。


 渡れた。


「次、美月」


 美月の顔がこわばる。


「無理」


 初めて、はっきり言った。


 健二はすぐに答えた。


「分かった。無理って言えたから、やり方を変える」


 美月は泣きそうな顔になる。


「怒らない?」


「怒らない」


 直樹が後ろから言った。


「美月、痛くない足を俺の足の横に置け。そこまででいい」


「そこまで?」


「ああ。次は健二の手を見る」


 美月は直樹の足元を見る。


 その横へ、痛くない足を置く。


「できた」


「次、健二の手」


 健二は手を伸ばした。


「美月、俺の手をつかめ。飛ばなくていい。足を滑らせるな。体を前に倒すだけでいい」


「倒す?」


「俺が受ける。足は水の中で動かせばいい」


 美月は息を吸った。


 それから、健二の手をつかんだ。


 健二は引っ張らなかった。


 美月が自分で足を動かすのを待った。


 一歩。


 水が跳ねる。


 美月の体が揺れる。


 直樹が後ろから右手で支えた。


 健二が前で受けた。


 美月は向こう側へ渡った。


「できた」


 美月が言った。


 健二はうなずいた。


「できた」


 千紘は震えていた。


「怖い」


「言えてる。次、一歩」


「水、速い」


「速い。でも、俺と兄ちゃんがいる」


 千紘は首を振る。


「また落ちる」


 健二は少しだけ声を柔らかくした。


「今度は落ちる前に言えるだろ」


 千紘は顔を上げた。


「言える」


「なら大丈夫に近づく」


「大丈夫じゃないの?」


「まだ大丈夫じゃない。だから一緒に渡る」


 千紘は小さくうなずいた。


 直樹が言った。


「佐伯千紘」


 千紘がびくっとする。


「はい」


「次の一歩だけでいい」


 千紘は一歩出た。


 健二の手に届く。


 渡れた。


 花音は颯太の袖を持ったままだった。


 颯太も手を離さない。


 健二は言った。


「二人一緒は無理だ。一人ずつ」


 花音が颯太を見る。


「先に行く?」


 颯太は首を振った。


「花音、先」


「でも」


 蓮が後ろから言った。


「どっちでもいいから早くしろ。寒い」


 花音が少し笑った。


 颯太も、ほんの少しだけ笑った。


 花音が先に渡る。


 次に颯太。


 颯太は途中で止まりかけた。


 名前を呼ばれるまで、自分の番だと分からなかったような顔をした。


 健二は言った。


「小野寺颯太」


 颯太が顔を上げる。


「はい」


「こっちだ」


「はい」


 颯太は健二の手をつかんだ。


 水が腰に当たる。


 体が流されかける。


 直樹が右手で背中を支えた。


 颯太は足場を探した。


「足場、ない」


「右。少し右」


 陸が後ろから言った。


「泡のない方」


 颯太は右へ足を出した。


 足場に乗った。


「ある」


「来い」


 颯太は渡った。


 陸は自分で足場を見ながら来た。


 蓮は少し乱暴に来た。


 途中で水を蹴って、健二に注意される。


「蹴るな。美月に当たる」


「悪い」


 蓮は素直に言った。


 悠太は最後の方で、また橋の灯りを見た。


 その瞬間、橋の上から声が飛んだ。


「川だ!」


 見つかった。


     *


 橋の上の灯りが動いた。


 白い光が川面を走る。


 まだこちらには届いていない。


 だが、すぐに来る。


 直樹が言った。


「急ぐな。足場を外す方がまずい」


 健二は悠太に手を伸ばした。


「悠太、こっち」


 悠太は固まっている。


 橋の声に反応してしまった。


 浅野悠太。


 その名前を思い出したばかりの子ども。


 怖がるのは当然だった。


 健二は声を低くした。


「悠太、俺を見ろ」


 悠太は動かない。


 蓮が後ろから言った。


「浅野悠太」


 悠太が少し振り返る。


 蓮は言った。


「お前の番。早く来い」


「怖い」


「俺も怖いって言っただろ」


 悠太は小さくうなずいた。


 蓮は続けた。


「じゃあ同じだ。来い」


 悠太は一歩出た。


 健二の手に届く。


 渡れた。


 瀬田ハルが来る。


 麻袋を胸に抱えている。


 重いはずだ。


 健二が言った。


「袋、渡してください」


「持てます」


「違います。濡らしたら困るんでしょう」


 瀬田ハルは一瞬迷い、麻袋を健二に渡した。


 健二は袋を受け取った。


 重い。


 名前の重さだ。


 瀬田ハルが渡る。


 最後に直樹が残った。


 橋の上の光が、川の手前まで来た。


 声がする。


「撃つな! 水の中だ!」


「止めろ!」


「下流へ回れ!」


 犬の声もする。


 だが、車は川に入れない。


 人が下りてくるには、土手を回る必要がある。


 時間はある。


 ほんの少し。


 直樹が一歩出た。


 その時、膝が落ちた。


 水の中で、足場を外したのだ。


 健二の心臓が跳ねた。


「兄ちゃん!」


「叫ぶな」


 直樹はすぐに立て直そうとした。


 だが、左腕を使えない。


 水が腰に当たり、体が少し流れる。


 健二は麻袋を悠斗に押しつけた。


「持ってろ!」


 悠斗が受け取る。


「重っ」


「落とすな!」


 健二は水の中へ戻った。


 直樹が言う。


「戻るな」


「うるせえ!」


 健二は足場を探りながら進む。


 今度はスコップの柄を使わない。


 手がふさがっている。


 水が太ももを叩く。


 直樹は踏みとどまっている。


 だが、顔色が悪い。


 健二は兄の服をつかんだ。


「足場、右!」


 陸が岸から叫んだ。


「右、泡のない所!」


 健二は右を見た。


 確かに、水面が少し静かな場所がある。


「兄ちゃん、右!」


「分かってる」


「分かってるなら行けよ!」


「足が滑る」


「やっと本当のこと言ったな!」


 健二は直樹の体を引かなかった。


 引けば二人とも崩れる。


 肩を押す。


 流れの横へずらす。


 直樹が右足を出した。


 足場に乗る。


 健二も続く。


 岸から子どもたちの声が聞こえた。


「こっち!」


「健二さん!」


「直樹さん!」


 橋の上から、別の声がした。


「照らせ!」


 白い光が川へ落ちた。


 健二たちのすぐ横を照らす。


 直樹が低く言った。


「光を見るな」


「見てねえよ」


「顔が見てる」


「こんな時まで顔を見るな!」


 健二は兄の服をつかんだまま、一歩進んだ。


 あと少し。


 岸まで、あと三歩。


 悠斗と蓮が手を伸ばしている。


 直樹が言った。


「子どもに引かせるな」


「黙れ」


 健二はそう言って、自分の足を岸にかけた。


 泥で滑る。


 蓮が健二の袖をつかんだ。


「重い!」


「言うな!」


 悠斗もつかむ。


 陸が足元を見て叫ぶ。


「左に石!」


 健二は左足を石にかけた。


 体が上がる。


 直樹も岸に手をついた。


 瀬田ハルが直樹の右腕を取る。


 子どもたちは服をつかんだ。


 引っ張るというより、離さないように。


 直樹の体が岸に上がった。


 健二も倒れ込む。


 泥と水の匂いがした。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 川の音だけがあった。


     *


 最初に声を出したのは、蓮だった。


「重すぎ」


 健二は地面に仰向けのまま答えた。


「兄ちゃんに言え」


 直樹も泥の上で息をしていた。


「お前も重い」


「助けてもらってそれかよ」


「事実だ」


 健二は笑いそうになった。


 だが、すぐに起き上がった。


 橋の上の灯りが動いている。


 追手は川を渡れない。

 だが、橋を使って回り込める。


 時間は少ない。


 健二は麻袋を確認した。


 悠斗がしっかり抱えている。


「落としてない」


「助かった」


 悠斗は少し得意そうな顔をした。


「重かった」


「名前だからな」


 悠斗は麻袋を見た。


 それから、黙って瀬田ハルに渡した。


 直樹は立ち上がろうとした。


 だが、今度はすぐには立てなかった。


 健二が支える。


 直樹はその手を振り払わなかった。


「足」


 健二が言う。


「ひねった」


「最初から言え」


「今ひねった」


「本当だな」


「本当だ」


 直樹は少しだけ顔をしかめた。


「歩ける」


「走れる?」


「無理だな」


 健二は息を止めた。


 直樹が「無理」と言った。


 それだけで、状況の悪さが分かった。


 瀬田ハルが対岸を見た。


「この先に、旧農道があります。そこを抜ければ境界の手前に出ます」


「距離は」


「一キロはありません」


 健二は直樹を見た。


 一キロ。


 子どもたちは濡れている。

 美月の足は痛い。

 千紘は震えている。

 颯太も疲れている。

 直樹は腕と足をやっている。


 でも、橋の向こうでは保安局が動いている。


 止まれない。


「兄ちゃん」


「何だ」


「俺が運ぶ」


 直樹が眉を寄せる。


「誰を」


「必要な奴を全部」


「全部は無理だ」


「じゃあ順番に」


 健二は立ち上がった。


 泥だらけだった。


 靴の中も水で重い。


 それでも、立った。


「子どもも、瀬田さんも、資料も、兄ちゃんも。必要なら順番に運ぶ」


 直樹は少し黙った。


「抱え込むな」


「抱え込まない。運ぶんだよ」


 健二は兄を見た。


「俺は運送屋だからな」


 直樹は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ目を細めた。


 それは、否定ではなかった。


     *


 対岸の草むらを抜けると、古い農道があった。


 舗装は割れている。

 草が中央から伸びている。

 だが、道だった。


 道がある。


 健二はその事実だけで、少しだけ息が入った。


 遠くに灯りが見える。


 橋の灯りではない。


 もっと低く、白い光。


 車のヘッドライト。


 だが、保安局の車とは違う位置にある。


 川のこちら側。


 瀬田ハルが息を呑んだ。


「境界警備かもしれません」


「西側か」


 健二が聞く。


「分かりません。でも、この辺りは西日本暫定政府の警戒線に近いです」


 直樹はその灯りを見た。


「喜ぶな」


「分かってる」


 健二は答えた。


 北から逃げてきた。


 だからといって、南がすぐに迎えてくれるとは限らない。


 子ども八人。

 旧資料。

 瀬田ハル。

 検問を突破した兄弟。


 説明しなければ、止められる。


 最悪、引き渡しの材料にされるかもしれない。


 それでも、進むしかない。


 後ろから、橋を渡る車の音が聞こえた。


 保安局が回り込む。


 前には、白い灯り。

 後ろには、灰色の追手。


 健二は八人を振り返った。


「名前で返事しろ。小さくでいい」


 子どもたちは、今度は驚かなかった。


「中原悠斗」


「はい」


 悠斗はすぐに答えた。


「宮原美月」


「はい」


 美月は右足をかばいながら、手を上げた。


「笹原蓮」


「いるよ」


 蓮は少し不機嫌そうに答えた。


「浅野悠太」


「はい」


 悠太は小さく手を上げた。


「佐伯千紘」


「はい」


 千紘は濡れた袖を握ったまま答えた。


「高瀬陸」


「ここ」


 陸は足元を見ながら返事をした。


「村瀬花音」


「……はい」


 花音は蓮の後ろから答えた。


「小野寺颯太」


 颯太は少し遅れた。


 まだ、その名前が自分に向けられていることを確かめるように、健二を見た。


 それから、小さく手を上げた。


「はい。います」


 健二はうなずいた。


「八人いる」


 直樹が言った。


「行くぞ」


 今度は、ただ逃げるためではない。


 説明するために。

 止められても、引き返さないために。

 八人の名前を、もう一度誰かに聞かせるために。


 農道の先で、白い灯りが強くなった。


 拡声器の音が響いた。


「そこで止まれ。こちらは西日本暫定政府、境界警備隊」


 子どもたちの足が止まりかける。


 直樹が低く言った。


「止まるな。膝をつく準備だけしろ」


 健二は聞いた。


「撃たれるか」


「分からない」


「分からないのかよ」


「味方かどうかは、まだ決まってない」


 白い灯りの向こうから、再び声が響く。


「手を上げろ。子どもを前に出すな。荷物を地面に置け」


 瀬田ハルが麻袋を抱きしめた。


 健二はその手を見た。


 名前が入っている袋。


 置けと言われて、簡単に置けるものではない。


 だが、置かなければ撃たれるかもしれない。


 後ろでは、橋を渡る保安局の車の音が近づいている。


 前には西側の銃口。

 後ろには北側の追手。


 直樹が健二を見た。


「健二」


「何だ」


「ここからは、殴って抜ける場所じゃない」


「分かってる」


「話して通す」


「誰が」


 直樹は少しだけ息を吐いた。


「お前だ」


 健二は一瞬、言葉を失った。


「俺?」


「運んだ奴が説明しろ」


 健二は白い灯りを見た。


 まぶしい。


 何も見えない。


 ただ、八人の子どもたちの息遣いだけが後ろにある。


 中原悠斗。

 宮原美月。

 笹原蓮。

 浅野悠太。

 佐伯千紘。

 高瀬陸。

 村瀬花音。

 小野寺颯太。


 健二は一歩前に出た。


 両手をゆっくり上げる。


 声が震えそうになった。


 でも、出した。


「子どもが八人います!」


 白い灯りの向こうで、人影が動いた。


 健二は続けた。


「名前を取り戻した子どもたちです!」


 後ろで、車の音がさらに近づく。


 川の向こうでは、灰色の男がまだこちらへ来ている。


 健二は息を吸った。


 今度は、逃げるためではなく、通してもらうために。


 もう一度、声を出した。


「この子たちを、帰したいんです!」


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