第十四話 境界の灯り 改正版
## 第十四話 境界の灯り
「この子たちを、帰したいんです!」
健二の声は、農道の上に響いた。
自分でも、少し震えているのが分かった。
濡れた服が肌に張りついている。
靴の中には、まだ川の水が残っている。
膝には泥がつき、手のひらは錆と水でざらついていた。
それでも、両手は上げたままだった。
下ろせない。
前には白い灯りがある。
まぶしすぎて、相手の顔は見えない。
ただ、灯りの下に黒い影がいくつも並んでいる。
その影の先が、こちらへ向いている。
銃口だった。
後ろでは、橋を渡る車の音が近づいている。
北側の保安局。
前には、西日本暫定政府の境界警備隊。
川を渡った。
浅瀬を越えた。
やっと向こう岸へ出た。
それなのに、道はまた塞がれた。
前にも後ろにも進めない。
農道は細い。
右には田んぼの跡。
左には低い雑木と用水路。
逃げ込める建物はない。
伏せれば子どもたちが濡れた地面に倒れる。
走れば撃たれるかもしれない。
戻れば北側が来る。
簡単な道は、もう残っていなかった。
健二は両手を上げたまま、動かなかった。
すぐ後ろで、子どもたちの息遣いが聞こえる。
誰も声を出さない。
でも、全員が立っている。
中原悠斗。
宮原美月。
笹原蓮。
浅野悠太。
佐伯千紘。
高瀬陸。
村瀬花音。
小野寺颯太。
八人いる。
それだけを、健二は頭の中で何度も数えた。
白い灯りの向こうから、拡声器の声が響いた。
「全員その場で止まれ。大人は両手を上げたまま、膝をつけ」
健二は膝をつこうとした。
だが、横から直樹の低い声が飛んだ。
「ゆっくりだ。急に落ちるな」
「分かってる」
「手は見える位置」
「分かってるって」
「分かってる動きでやれ」
健二は歯を食いしばった。
ゆっくり膝をつく。
濡れたズボンに泥がついた。
冷たい。
膝が地面についた瞬間、白い灯りが少し動いた。
向こうがこちらの動きを見ている。
少しでも早ければ、撃たれていたかもしれない。
瀬田ハルも膝をつこうとした。
だが、麻袋を抱えたままだった。
袋の中には、旧第七小学校の台帳、図書館記録、児童相談分室の写し、所持品の控えが入っている。
番号ではなく、名前があった証拠。
子どもたちが、ただの回収対象ではなかった証拠。
その袋を抱えたまま、瀬田ハルは膝をつけなかった。
警備隊の声が飛んだ。
「その袋を地面に置け」
瀬田ハルの手に力が入る。
健二は横目で見た。
置けと言われても、置けない。
その袋は、ただの荷物ではない。
けれど、置かなければ撃たれるかもしれない。
白い灯りの向こうで、銃口が少し動いた。
直樹が小さく言った。
「置け。手を離すな」
瀬田ハルが直樹を見る。
「でも」
「地面に置いて、手を添えたままにしろ。奪われない位置だ」
瀬田ハルは一瞬だけ迷った。
それから、ゆっくり麻袋を地面に置いた。
だが、手は離さない。
袋の上に、両手をそっと添える。
まるで、子どもの肩に手を置くように。
拡声器の声が続いた。
「子どもを前に出すな。大人だけ返答しろ。所属を言え」
健二は息を吸った。
「所属はありません。個人の運送業です」
「名前」
「真柴健二」
「隣の男は」
直樹が答えた。
「真柴直樹」
「武器は」
「持っていない」
直樹の声は落ち着いていた。
だが、健二には分かった。
直樹は前だけを見ていない。
西側の銃口を見ながら、後ろの音も聞いている。
橋を渡った車。
砂利を踏むタイヤ。
遠くで吠える犬。
北側がどこまで近づいているか。
その全部を聞いている。
警備隊の声がまた飛ぶ。
「その女性は」
瀬田ハルが答えた。
「瀬田ハルです」
「北日本再建評議会の職員か」
一瞬、空気が固まった。
瀬田ハルは黙った。
その沈黙だけで、答えは伝わってしまう。
健二はすぐに言った。
「職員でした。でも、この子たちを逃がすために――」
「聞かれた者だけ答えろ」
警備隊の声が鋭くなった。
健二は口を閉じた。
言葉を間違えれば、ここで終わる。
健二が庇えば、瀬田ハルは「北側職員に協力した大人」になる。
瀬田ハルが黙れば、「北側職員が子どもを連れて越境した」ように見える。
どちらにしても、相手の紙に書かれる言葉は悪くなる。
瀬田ハルは顔を上げた。
「第七教育管理施設の職員でした」
白い灯りの向こうで、人影が動いた。
「北側施設の職員が、保護児童を連れて境界へ来た。そういう理解でいいか」
「違います」
瀬田ハルの声は小さかった。
でも、逃げなかった。
「私は、あの子たちを施設へ戻したくありません」
「理由は」
瀬田ハルは、麻袋の上に置いた手を握った。
「名前を消されるからです」
警備隊は黙った。
その沈黙の間に、後ろの車の音がさらに近づいた。
直樹が低く言った。
「健二、後ろ」
健二は振り返りたくなった。
だが、振り返らなかった。
今、勝手に動けば撃たれる。
直樹は続けた。
「三台。橋を渡った」
「近いか」
「近い」
健二は白い灯りへ向かって声を出した。
「後ろから追手が来ています! 北側の保安局です!」
「確認している」
警備隊の声が返った。
「全員、その場を動くな」
「でも、子どもが」
「動くな」
その声は冷たかった。
西側だから助けてくれる。
そんな単純な場所ではなかった。
健二は奥歯を噛んだ。
*
後ろから、別の拡声器の音が聞こえた。
北側だ。
「西日本暫定政府の警備隊に告げる。対象は北日本再建評議会管轄下の保護児童八名。外部協力者により拉致された。身柄の即時引き渡しを求める」
子どもたちの体が揺れた。
拉致。
その言葉が、農道の上に落ちた。
健二の中で、何かが熱くなる。
だが、怒鳴るより先に、直樹が言った。
「乗るな」
「分かってる」
「怒ると相手の言葉になる」
「分かってる」
分かっている。
それでも、腹が立った。
八人は逃げてきた。
名前を取り戻して、自分の足で川を渡った。
怖いと言った。
痛いと言った。
帰りたいと言った。
それを、拉致と言われた。
健二は両手を上げたまま、声を張った。
「違います! 子どもたちは自分で来ました!」
西側の警備隊がすぐに言う。
「大人は黙れ」
「黙れません!」
直樹が小さく言った。
「健二」
「ここで黙ったら、連れ戻される」
「言葉を選べ」
健二は一度、息を吸った。
胸が痛いほど冷たい空気が入った。
それから、言った。
「この子たちは、番号で管理されていました。でも、名前があります。全部、ここで言えます」
白い灯りの向こうが、少しざわついた。
北側の拡声器が重ねてくる。
「旧名への反応は精神汚染の症状である。児童への呼名行為を停止せよ」
健二はその声を聞いた。
そして、ゆっくり立ち上がろうとした。
すぐに西側から怒号が飛ぶ。
「立つな!」
直樹が言った。
「膝のまま話せ」
健二は膝をついたまま、背筋だけを伸ばした。
「じゃあ、このまま言います」
白い灯りの向こうへ向かって、声を出す。
「中原悠斗」
後ろで、悠斗が返事をした。
「はい」
声は小さい。
だが、聞こえた。
「宮原美月」
「はい」
美月の声は少し震えていた。
「笹原蓮」
「いるよ」
蓮はいつものように、少し不機嫌そうに返した。
「浅野悠太」
「はい」
「佐伯千紘」
「はい」
「高瀬陸」
「ここ」
「村瀬花音」
「……はい」
「小野寺颯太」
少しだけ間があった。
颯太は、その名前が自分に届くまで待つようにしてから答えた。
「はい。います」
健二は前を向いた。
「聞こえましたか」
白い灯りの向こうから、すぐに返事はなかった。
北側の拡声器がまた鳴る。
「呼名行為を停止せよ。児童を刺激するな。対象児童は再配置前の不安定状態にある」
今度は、悠斗が顔を上げた。
健二の後ろで、声がした。
「違う」
健二は振り返りかけた。
悠斗が一歩だけ前に出ていた。
直樹がすぐに手で止める。
「それ以上出るな」
悠斗は止まった。
でも、声は止めなかった。
「俺は中原悠斗です」
白い灯りの向こうが、また動いた。
悠斗は続けた。
「番号じゃないです」
健二は息を止めた。
悠斗の声は大きくない。
だが、はっきりしていた。
美月がその隣で小さく言った。
「私も、宮原美月」
蓮が照れたようにそっぽを向きながら言う。
「笹原蓮」
陸も言った。
「高瀬陸」
花音は少し遅れて、千紘の袖を握りながら言った。
「村瀬花音」
千紘が言った。
「佐伯千紘です」
悠太が言った。
「浅野悠太」
最後に颯太が、少しだけ前を見る。
「小野寺颯太です」
北側の拡声器が強くなる。
「児童を黙らせろ。これは誘導された発言である」
直樹が静かに言った。
「誘導じゃない」
西側の警備隊が問う。
「証明できるか」
健二は瀬田ハルの麻袋を見た。
瀬田ハルはすぐにうなずいた。
「資料があります」
「動くな」
警備隊が制止する。
瀬田ハルは両手を袋の上に置いたまま言った。
「こちらから投げません。取りに来てください。中には旧第七小学校の台帳、図書館の貸出記録、児童相談分室の移送記録、所持品の控えがあります」
北側から怒鳴り声が飛ぶ。
「その資料は不法持ち出し物である。回収対象だ」
瀬田ハルの声が震えた。
だが、今度は弱くならなかった。
「不法でも、名前です」
健二は瀬田ハルを見た。
瀬田ハルは袋を抱え込まなかった。
地面に置いたまま、手を添えている。
渡すためではない。
奪わせないためだけでもない。
誰かに見てもらうために、そこに置いていた。
*
白い灯りの向こうから、一人の男が出てきた。
ヘルメット。
防弾ベスト。
肩に西日本暫定政府の識別章。
年齢は四十代くらいだろうか。
片手を上げ、後ろの隊員に銃口を下げさせる。
完全には下げない。
だが、少しだけ角度が変わった。
その男が近づいてくる。
五メートルほど手前で止まった。
健二たちとの間には、まだ空白がある。
走れば届く距離。
撃てば外さない距離。
だが、手を伸ばしても触れない距離。
男はそこで止まった。
「境界警備隊、相原一尉だ」
相原は健二を見た。
直樹を見た。
瀬田ハルを見た。
そして、子どもたちを見た。
「袋を確認する。動くな」
瀬田ハルはうなずいた。
「はい」
相原は隊員を一人呼んだ。
「記録係。手袋」
若い隊員が走ってくる。
手袋をつけ、麻袋の口を開ける。
中身を一つずつ取り出す。
古い台帳。
濡れないように包まれた紙。
図書館の貸出記録。
児童相談分室の写し。
所持品写真。
黒塗りの移送記録。
相原は紙を見た。
すぐには表情を変えない。
だが、一枚めくるたびに、目つきが少し変わった。
「これは、どこで手に入れた」
瀬田ハルが答えた。
「旧第七小学校、旧図書館、旧児童相談分室です」
「盗んだのか」
「持ち出しました」
「同じことだ」
「はい」
瀬田ハルは否定しなかった。
「でも、置いてきたら、この子たちの名前は消えます」
相原は紙を見たまま、黙った。
北側の車が近づいてくる音が、さらに大きくなる。
直樹が後ろを見た。
「相原一尉」
相原が顔を上げる。
「発言を許可した覚えはない」
「北側が二百メートル以内に来ている」
相原はすぐに隊員へ目を向ける。
隊員が暗視器のようなものを覗く。
「確認。車両三。徒歩数名。犬一」
相原の顔が険しくなる。
北側の拡声器がまた鳴った。
「西日本側に告げる。対象の引き渡しを求める。これは児童拉致事案であり、越境犯罪である」
相原は拡声器を持たせた。
そして、前に出た。
「こちら西日本暫定政府、境界警備隊。現在、対象者を保護確認中である。北側車両は現在位置で停止せよ」
「保護ではない。違法な拘束を解除し、児童を返還せよ」
相原は一瞬、健二たちを見た。
そして、北側へ向かって言った。
「こちらの管理線内で銃を向けるな。これ以上接近すれば、敵対行動と判断する」
その声で、空気が変わった。
西側の隊員たちが動く。
何人かが健二たちの横を抜け、北側へ向けて展開する。
だが、健二たちを完全に守る位置ではない。
まだ、警戒している。
当然だ。
健二たちは、正体不明の大人三人と子ども八人だ。
北側施設の元職員もいる。
麻袋には、持ち出された資料がある。
直樹は武器を持っていないと言ったが、そういう男に見えない。
すぐに信用されるはずがなかった。
相原が戻ってきた。
「子どもは保護する。大人は全員、拘束の上で事情聴取する」
健二はすぐに聞いた。
「子どもは連れ戻されませんか」
「今のところ、こちらで保護する」
「今のところ?」
「こちらにも手順がある」
その言葉に、健二の胸が冷えた。
手順。
直樹が大事にしてきた言葉。
だが、手順は人を守ることもあれば、引き渡す理由にもなる。
「北側に返す可能性があるんですか」
健二が聞いた。
相原はすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えの一部だった。
直樹が低く言った。
「健二、今は子どもを内側へ入れるのが先だ」
「でも」
「ここで揉めれば、北側が来る」
健二は奥歯を噛んだ。
分かっている。
分かっているが、納得はできない。
相原が言った。
「子どもたちを車両へ。医療班を呼べ。低体温と外傷を確認しろ」
その言葉に、直樹の目が少しだけ動いた。
医療班。
少なくとも、今すぐ撃つつもりはない。
今すぐ追い返すつもりもない。
健二は子どもたちを見た。
「行くぞ。西側の車に乗る」
颯太が聞いた。
「戻される?」
健二は答えに詰まった。
嘘はつけない。
だが、怖がらせたくもない。
直樹が代わりに言った。
「今は戻らない」
「あとで?」
「あとでの話は、あとで戦う」
颯太は少し考えた。
「また戦うの?」
「殴るとは限らない」
蓮が小さく言った。
「話すやつ?」
直樹はうなずいた。
「そうだ」
蓮は嫌そうな顔をした。
「面倒くさそう」
健二が言った。
「面倒くさいぞ」
悠斗が麻袋を見た。
「名前、持っていく?」
瀬田ハルがすぐに答えた。
「持っていきます」
相原が言った。
「資料は一時的にこちらで預かる」
瀬田ハルの手が強くなる。
健二が前に出そうになる。
直樹が止めた。
「預かり証を出せ」
相原が直樹を見る。
「何だと」
「資料を預かるなら、誰が、何を、何点、どの理由で預かったか書け」
相原の目が細くなる。
直樹は続けた。
「そうすれば、消えない」
瀬田ハルが直樹を見た。
その意味が分かった。
奪われるかどうかだけではない。
誰が持ったのか。
なぜ持ったのか。
何を渡したのか。
それを相手の手順の中に刻む。
相原はしばらく直樹を見ていた。
それから、隊員に言った。
「記録係。押収ではない。保護資料として一時預かり。点数を数えろ。受領記録を二部作れ」
瀬田ハルが息を吐いた。
「ありがとうございます」
「礼は要らない。まだ何も決まっていない」
相原はそう言った。
だが、その声は少しだけ柔らかくなっていた。
*
子どもたちは、西側の車両へ向かって歩いた。
装甲車というより、救護車両に近い形だった。
後部が開き、中には毛布と簡易担架が積まれている。
白いライトはまだ眩しい。
だが、さっきより目が慣れた。
隊員の一人が毛布を持ってきた。
「濡れている子から」
健二はすぐに言った。
「美月、千紘、颯太。先」
美月が首を振った。
「みんな濡れてる」
「お前らは足と体がきつい。先」
千紘は毛布を受け取る時、少しだけ手を引っ込めた。
隊員が驚かせないように、声を落とした。
「取っていい。巻くだけだ」
千紘は健二を見た。
健二がうなずく。
「大丈夫。嫌なら言え」
千紘は毛布を受け取った。
「嫌じゃない」
「なら巻け」
花音が颯太の毛布を手伝う。
蓮は自分の毛布を受け取りながら、小さく言った。
「これ、返すの?」
隊員が一瞬困った顔をした。
「返さなくていい」
「本当に?」
「ああ」
蓮は少し疑うように見て、それから毛布を肩にかけた。
「変なの」
悠斗は車両の中に乗る前に、振り返った。
「健二さんは?」
「後で行く」
悠斗の顔が少し曇る。
その言葉に、何度も置いていかれそうになった記憶があるのだろう。
健二はすぐに言い直した。
「違う。ここにいる。見える所にいる」
悠斗はうなずいた。
「見える所」
「ああ」
子どもたちが車両へ入っていく。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
七人。
八人。
健二は数えた。
車両の中から、小さな声がした。
「八人いるよ」
陸だった。
健二は少しだけ笑った。
「助かる」
直樹はその横で立っていた。
立っているのがやっとなのは分かる。
それでも、膝をつかない。
相原が直樹を見る。
「お前は医療班に見せろ」
「後で」
健二がすぐに言った。
「今です」
直樹が健二を見る。
「お前まで」
「今すぐ」
相原も言った。
「命令だ。座れ」
直樹は少しだけ相原を見た。
軍人同士のような間があった。
だが、直樹は逆らわなかった。
救護車両の横にある折りたたみ椅子に座る。
医療班の隊員が左腕を見ようとした。
直樹は自分で包帯を押さえた。
「動脈じゃない。指は動く。感覚もある。足は右をひねった。歩行は可能。走行は不可」
医療班の隊員が一瞬止まる。
健二が横から言った。
「この人、先に全部言うんです」
隊員は少しだけ笑いそうになった。
「助かります。でも、こちらでも見ます」
直樹は黙って腕を出した。
健二はその様子を見て、少しだけ息を吐いた。
やっと座った。
やっと誰かに見せた。
だが、その安心は長く続かなかった。
北側の車両が、農道の向こうに見えた。
灰色の男が降りてくる。
車の灯りを背にして、こちらへ歩いてくる。
西側の隊員たちが銃を構える。
相原が前に出た。
「停止しろ。これ以上接近するな」
灰色の男は止まった。
距離は三十メートルほど。
声が届く距離だった。
男は、こちらの救護車両を見た。
その中にいる子どもたちを見た。
健二は、反射的に車両の前へ出た。
相原の隊員が止めようとする。
直樹が椅子から言った。
「立つな、健二」
「でも」
「今は西側の線の中だ。勝手に出ると、あっちの理由になる」
健二は止まった。
灰色の男は、相原を見た。
「その児童は北日本再建評議会の保護対象だ」
相原が答える。
「現在、こちらで保護確認中だ」
「返還を要求する」
「正式な照会手続きを取れ」
「拉致犯を保護するのか」
相原の声が低くなる。
「ここは西日本暫定政府の管理区域内だ。拉致と断定するなら、正式な根拠を示せ」
灰色の男は、今度は直樹を見た。
「お前は、子どもを利用した」
健二の拳が握られる。
直樹は座ったまま、男を見返した。
「何を見てそう言っている」
「西側の銃口の前に子どもを連れてきた。撃てない場所へ逃げ込んだ。盾にしたのと同じだ」
健二が言い返そうとした。
だが、直樹が先に口を開いた。
「違う」
「何が違う」
「盾にするなら、子どもを前に立たせる」
直樹は救護車両の方を見た。
「俺たちは逆だ。子どもを先に車へ入れた。川でも、農道でも、最後に残ったのは大人だ」
灰色の男の目が細くなる。
直樹は続けた。
「撃たれるかもしれない場所に、子どもを置いたんじゃない。子どもをその場所から下げるために、俺たちが後ろに残った」
灰色の男は黙った。
直樹の声は変わらなかった。
「それを盾とは言わない」
灰色の男は少しだけ黙った。
「名前を戻しても、帰る場所がなければ苦しむだけだ」
その声は、さっきより低かった。
健二は初めて、そこに怒りだけではないものを感じた。
この男は、名前を軽く見ているわけではない。
名前が戻った後の苦しみを、知っているのかもしれない。
だが、それでも。
健二は言った。
「苦しむからって、名前を消していい理由にはならない」
灰色の男の視線が、健二へ向いた。
「運送屋」
「はい」
「お前は、届けた後の責任を取れるのか」
健二はすぐには答えられなかった。
届けた後。
いつもそこが怖かった。
荷物を運ぶ。
渡す。
そこで終わり。
でも、この子たちは荷物ではない。
渡したら終わりにはならない。
健二は子どもたちを見た。
救護車両の中から、悠斗がこちらを見ている。
美月が毛布にくるまっている。
蓮がこちらを睨むように見ている。
颯太が花音の隣で小さく座っている。
健二は息を吸った。
「全部は取れません」
灰色の男が少し笑った。
「正直だな」
「でも、運んだところで終わりにはしません」
「どうやって」
「分かりません」
相原が健二を見る。
直樹も見る。
健二は続けた。
「でも、分からないから戻す、とは言いません」
灰色の男は黙った。
「ここまで来ました。名前も戻しました。川も渡りました。今さら、分からないから施設に戻れとは言えません」
健二は膝の泥を握った。
「俺は、この子たちの帰り道を探します」
それは、計画ではなかった。
保証でもなかった。
でも、嘘ではなかった。
灰色の男はしばらく健二を見ていた。
それから、相原に向き直った。
「こちらは正式に返還を要求する」
相原は答えた。
「要求は受け取った。回答は後日、所定の窓口を通せ」
「この場で渡さないということか」
「この場では渡さない」
その言葉で、健二の体から少し力が抜けた。
まだ終わりではない。
だが、今この場で連れ戻されることはない。
灰色の男は、子どもたちのいる車両をもう一度見た。
そして、直樹に言った。
「まだ終わらない」
直樹は答えた。
「分かってる」
男は背を向けた。
北側の車両へ戻っていく。
犬の声が遠ざかる。
完全に引いたわけではない。
ただ、この場では引いただけだ。
*
西側の車両が動き始めた。
子どもたちは救護車両の中。
瀬田ハルは別の車両で事情聴取のために乗せられる。
健二と直樹は、同じ車両の後部に座らされた。
手錠はかけられなかった。
だが、隊員が二人、向かいに座っている。
自由ではない。
保護と拘束の間。
そんな場所だった。
健二は車両の小さな窓から外を見た。
農道が後ろへ流れていく。
川が見えなくなる。
橋の灯りも遠ざかる。
直樹は隣で目を閉じていた。
眠っているのではない。
痛みを逃がしている顔だった。
「兄ちゃん」
「何だ」
「通れたな」
「まだだ」
「まだ?」
「門を一つ越えただけだ」
「厳しいな」
「事実だ」
健二は苦笑した。
その時、救護車両の方から、小さな声が聞こえた。
車両同士の無線か、開いたままの後部窓から漏れた声か分からない。
子どもたちの声だった。
「中原悠斗」
「はい」
「宮原美月」
「はい」
「笹原蓮」
「いるよ」
健二は顔を上げた。
中で、誰かが点呼をしている。
多分、悠斗だ。
「浅野悠太」
「はい」
「佐伯千紘」
「はい」
「高瀬陸」
「ここ」
「村瀬花音」
「はい」
「小野寺颯太」
少し間があって、声が返る。
「はい。います」
健二は目を閉じた。
八人いる。
まだ、八人いる。
直樹が隣で小さく言った。
「聞こえるか」
「ああ」
「なら寝るな」
「寝ねえよ」
「泣くな」
「泣いてねえよ」
「顔が泣いてる」
健二は鼻で笑った。
「顔ばっか見るな」
直樹は少しだけ口元を動かした。
車両は夜の農道を走っていく。
北でもない。
まだ南とも言い切れない。
境界の内側へ。
帰り道は、まだ途中だった。
それでも、八人の名前は車両の中に残っていた。
消されずに。
呼ばれながら。




