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第十五話 保護番号

## 第十五話 保護番号


 西側の車両は、夜の農道を抜けていった。


 窓の外は暗い。


 ところどころ、畑の跡のような平たい土地が見える。

 壊れたビニールハウス。

 使われなくなった用水路。

 草に埋もれた軽トラック。


 北側と違って、標語の看板は少なかった。


 だが、静かすぎた。


 人の気配が薄い。


 健二は小さな窓から外を見ていた。


 境界を越えた。


 それは確かだった。


 だが、帰ってきた感じはしなかった。


 隣で直樹が目を閉じている。


 左腕には応急処置がされている。

 右足首にも簡単な固定が入った。


 医療班の隊員は「ちゃんと診療所で見せる」と言った。


 直樹は「歩ける」と答えた。


 そのたびに、健二は言った。


「歩けるかどうかじゃなくて、治すかどうかだろ」


 直樹は目を閉じたまま言った。


「うるさい」


「うるさくしてるんだよ」


「知ってる」


 向かいに座っていた隊員が、少しだけ目を上げた。


 笑いそうになったのか、呆れたのかは分からない。


 健二は外へ目を戻した。


 救護車両は前を走っている。


 子どもたちはその中だ。


 見えない。


 それが落ち着かなかった。


 八人はいる。


 さっき、声は聞こえた。


 でも、見えない。


 見えないだけで、健二の胸の奥がざわつく。


 直樹が目を閉じたまま言った。


「数えるな」


「数えてねえよ」


「顔が数えてる」


「また顔か」


「お前、八人って顔してる」


 健二は言い返しかけて、やめた。


 確かにそうだった。


 今も頭の中では、名前が回っている。


 中原悠斗。

 宮原美月。

 笹原蓮。

 浅野悠太。

 佐伯千紘。

 高瀬陸。

 村瀬花音。

 小野寺颯太。


 八人いる。


 八人で、境界を越えた。


 でも、まだ終わっていない。


     *


 車両が止まったのは、古い中学校のような建物の前だった。


 校門は残っている。


 だが、校名板は外されていた。


 代わりに、仮設の看板が立っている。


 西日本暫定政府

 境界一時保護所

 第三区受入班


 校舎の窓には、内側から遮光シートが貼られている。


 運動場には、白いテントがいくつも並んでいた。


 医療用。

 受付用。

 事情聴取用。

 物資配布用。


 学校の形をしているのに、学校ではなかった。


 健二は車両を降りた。


 すぐに隊員が言った。


「大人はこちらです」


 健二は救護車両の方を見る。


 後部扉が開く。


 子どもたちが毛布をかぶったまま降りてくる。


 悠斗が最初に降りた。


 次に美月。

 千紘。

 蓮。

 悠太。

 陸。

 花音。

 颯太。


 八人いる。


 健二は息を吐いた。


 だが、安心する前に、別の職員が子どもたちを校舎側へ誘導し始めた。


「児童はこちら。医療確認後、保護区画に入ります」


 健二は一歩出た。


「俺も一緒に」


 隊員が止める。


「大人は別です」


「この子たちは」


「こちらで保護します」


「見える所にいるって言いました」


 隊員は少し困った顔をした。


 その時、相原一尉が後ろから来た。


「五分だけ見える位置に置け」


 隊員が振り返る。


「しかし」


「子どもが落ち着く。先に医療班の待機場所へ入れろ。真柴兄弟と瀬田ハルは外の線まで。中には入れない」


 相原は瀬田ハルを見た。


「資料の確認も後で行う。今は子どもを落ち着かせるのが先だ」


 瀬田ハルはうなずいた。


「はい」


 健二は相原を見た。


「ありがとうございます」


「礼はいらない。約束を増やすな。五分だ」


「はい」


 健二は子どもたちの方へ歩いた。


 線が引かれていた。


 黄色いテープ。


 そこから先には行けない。


 子どもたちは校舎入口の前で立っていた。


 毛布にくるまれている。


 濡れた靴から、水が落ちていた。


 悠斗が健二を見つけた。


「健二さん」


「ここにいる」


 健二はすぐに言った。


「中には入れない。でも、ここにいる」


 悠斗はうなずいた。


「見える所?」


「ああ。見える所」


 美月が聞いた。


「直樹さんは?」


 健二は振り返った。


 直樹は少し離れた所で、医療班に足を見られている。


 顔は不機嫌だ。


「いる。怒られてる」


 蓮が少しだけ笑った。


「怒られてるの?」


「たぶんな」


 直樹が遠くから言った。


「聞こえてるぞ」


 健二は肩をすくめた。


「耳は元気だ」


 子どもたちが少しだけ笑った。


 ほんの少し。


 でも、笑った。


 その瞬間、白衣を着た女性がやって来た。


 年齢は三十代半ばくらい。


 髪を後ろでまとめ、首から身分証を下げている。


 児童保護調整官

 三枝理香


 そう書かれていた。


 三枝は子どもたちに膝を折って目線を合わせた。


「これから体温とけがを見ます。痛い所がある人は言ってください。言えない時は、首を振るだけでもいいです」


 その言い方は柔らかかった。


 だが、手には書類がある。


 ボードに挟まれた受入票。


 三枝は職員に言った。


「未確定児童、八名。仮番号を振って」


 健二の胸が、そこで止まった。


「待ってください」


 三枝が顔を上げる。


「何ですか」


「名前があります」


 三枝は健二を見た。


「確認前の氏名は、そのまま正式登録できません。いったん仮番号で受けます」


「また番号ですか」


 声が少し強くなった。


 自分でも分かった。


 三枝は表情を変えなかった。


「こちらでは、本人確認が終わるまで仮番号を使います。医療、食事、保護区画、全ての記録に必要です」


「名前で書けばいいじゃないですか」


「名前が間違っていた場合、別人の記録になります」


「間違ってません」


「あなたがそう言っているだけです」


 健二は言葉に詰まった。


 三枝は冷たいわけではない。


 手順を言っている。


 だが、その手順の入り口に、また番号が出てきた。


 悠斗の顔が固くなる。


 美月が毛布を握る。


 颯太が少し後ろへ下がった。


 直樹が医療班を振り切るようにして近づいてきた。


「仮番号は必要だ」


 健二が振り返る。


「兄ちゃん」


「医療と保護の手順にはいる。そこを止めるな」


「でも」


 直樹は三枝を見た。


「ただし、番号だけで呼ぶな」


 三枝の目が少し動く。


 直樹は続けた。


「記録上の仮番号は分かる。だが、子どもに向けて呼ぶ時は名前で呼べ」


 三枝は少し黙った。


「確認前の名前を呼べと?」


「確認中の名前として扱え」


 健二はその言葉を聞いた。


 確認中の名前。


 それなら、手順に入る。


 名前を消さずに。


 三枝はボードを見た。


 少し考えてから言った。


「受入票に、仮番号と本人申告名を併記します。呼称は本人申告名。ただし、正式確定ではありません」


 直樹はうなずいた。


「それでいい」


 健二はまだ納得しきれなかった。


 だが、子どもたちの顔を見ると、少しだけ表情が戻っていた。


 三枝は子どもたちに向き直った。


「今から、仮の番号も書きます。でも、あなたたちを呼ぶ時は名前で呼びます。いいですか」


 悠斗が聞いた。


「番号で呼ばれない?」


「呼びません」


「本当に?」


 三枝は少しだけ表情を和らげた。


「本当です。書類には番号を書く。でも、あなたに話す時は、中原悠斗さんと呼びます」


 悠斗は少し照れた顔をした。


「さんはいらない」


 三枝は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、うなずいた。


「分かりました。悠斗」


 悠斗は小さくうなずいた。


     *


 受入確認が始まった。


 三枝が一人ずつ名前を聞く。


 職員が受入票に書く。


「本人申告名。中原悠斗」


「はい」


「年齢は」


 悠斗は少し考えた。


「たぶん、十一」


 三枝は書いた。


「推定十一歳」


「たぶんって書くの?」


「確認できるまで、そう書きます」


 悠斗は少しだけ口を曲げた。


「じゃあ、あとで直して」


「直します」


 次に美月。


「宮原美月」


「はい」


「痛い所は」


「右足」


「いつから」


 美月は健二を見る。


 健二がうなずく。


「逃げてる途中から。屋根と川で、もっと痛くなった」


 三枝はすぐに医療班へ目を向けた。


「右足優先。腫れを確認」


 美月は少し驚いた。


「ちゃんと聞くんだ」


 三枝は手を止めた。


「聞きます」


 美月は小さく言った。


「じゃあ、痛い」


「分かりました」


 千紘は体温が低かった。


 毛布の上から震えが止まらない。


「佐伯千紘」


「はい」


「寒い?」


「寒い」


「水に入った?」


「川と、沢」


 三枝の手が止まった。


「沢?」


 健二が言った。


「山側から逃げた時に、水に入りました」


 三枝はすぐに職員へ言う。


「保温優先。温かい飲み物。濡れた靴下を替える」


 千紘は職員が持ってきた靴下を見て、少し戸惑った。


「もらっていいの?」


「いいです」


 職員が答えた。


 千紘はまだ疑うように見てから、両手で受け取った。


 蓮は名前を聞かれると、少し斜めを向いた。


「笹原蓮」


「年齢は」


「知らない」


 三枝は書いた。


「推定」


「何でも推定かよ」


「分からない時は、そう書きます」


「便利だな」


「便利ではありません。あとで確認するためです」


 蓮は少し黙った。


「じゃあ、確認しろよ」


 三枝はうなずいた。


「します」


 蓮はそれ以上言わなかった。


 悠太は橋の光をまだ気にしていた。


 保護所のライトを見るたび、肩が跳ねる。


「浅野悠太」


「はい」


「光が苦手?」


 悠太は少し驚いた。


「分かるの?」


「今、ライトが動くたびに目を閉じている」


 悠太は小さくうなずいた。


「橋で、見つかったから」


 三枝は職員に言った。


「強いライトを当てないで。医療確認は横の灯りで」


 陸は受入票をじっと見ていた。


「高瀬陸」


「ここ」


 三枝が少し笑いそうになった。


「ここにいる、でいい?」


「うん」


「数字に強い?」


 陸は少しだけ首を傾げた。


「数字は、見える」


「見える?」


「おかしいのが、分かる」


 三枝はそのまま書いた。


 本人特徴。数字認識に反応。


 花音は、名前を聞かれても最初は答えなかった。


 千紘の後ろに半分隠れている。


 三枝は無理に近づかなかった。


「村瀬花音」


 花音は小さくうなずいた。


「声で返事しなくてもいいです。うなずくだけでも記録できます」


 花音はもう一度うなずいた。


 それから、小さく言った。


「花音」


「はい。花音で記録します」


 最後は颯太だった。


 三枝が名前を呼ぶ。


「小野寺颯太」


 颯太は少し遅れて顔を上げた。


「はい」


「今の名前で呼ばれるのは、まだ慣れない?」


 颯太は迷った。


 そして、正直に言った。


「少し」


「他に呼ばれていた名前はある?」


 颯太は首を振る。


「番号」


「番号以外は?」


 颯太はしばらく黙った。


 花音が横で言った。


「そうちゃん?」


 颯太の指が動いた。


 三枝がすぐに聞いた。


「そうちゃんと呼ばれていた記憶がある?」


 颯太は目を伏せた。


「声だけ」


「誰の声か分かる?」


「分からない」


 三枝はそれ以上、追わなかった。


「分かりました。今はそこまででいいです」


 颯太は少しだけ安心した顔をした。


 健二はそれを見ていた。


 西側にも、ちゃんと見る人はいる。


 だが、手順もある。


 番号も出る。


 確認、推定、仮登録。


 その一つ一つが、子どもたちを守るかもしれない。

 同時に、また何かを奪うかもしれない。


 健二はその両方を見ていた。


     *


 五分はとっくに過ぎていた。


 だが、相原は健二をすぐには引き離さなかった。


 子どもたちの受入確認が終わるまで、黄色い線の外に立たせてくれた。


 その後で、相原が来た。


「真柴健二。真柴直樹。事情聴取室へ。瀬田ハルも別室で確認する」


 健二は子どもたちを見る。


 悠斗がすぐに言った。


「見える所?」


 健二は少し迷った。


 もう、見える所ではない。


 校舎の中に入れば、見えなくなる。


 嘘はつけない。


「今度は見えない」


 悠斗の顔が固まる。


 健二は続けた。


「でも、この建物の中にいる。呼ばれたら返事できる距離にいる」


「本当?」


「本当だ」


 蓮が言った。


「また後でって言うやつ?」


 健二は少し笑った。


「今回は、ちゃんと後で戻る」


「本当に?」


「本当に」


 直樹が横から言った。


「戻らなかったら、相原一尉に文句を言え」


 相原が眉を寄せる。


「勝手にこちらへ回すな」


 蓮は相原を見た。


「文句言っていいの?」


 相原は少しだけ困った顔をした。


「必要があれば言え」


 蓮は小さくうなずいた。


「覚えた」


 相原は少しだけ目を伏せた。


 たぶん、自分で余計な約束を増やしたことに気づいたのだろう。


 三枝が子どもたちを保護区画へ案内する。


「まず温かい飲み物と着替え。その後、診療です。質問はあとでします」


 花音が聞いた。


「一緒にいていい?」


 三枝は少し考えた。


「最初は男女で部屋を分ける予定でした」


 花音の手が千紘の袖を握る。


 颯太の顔も強ばる。


 三枝はそれを見て、すぐに言い直した。


「今日は全員、同じ広い部屋にします。着替えだけは仕切りを使います。それでいいですか」


 悠斗がほっとした顔をした。


「同じ部屋」


「はい。同じ部屋です」


 健二は胸の中で息を吐いた。


 ここでも、言えば変わることがある。


 黙っていれば、手順のまま進む。


 言うこと。


 伝えること。


 それも、帰り道の一部だった。


     *


 事情聴取室は、元は職員室だったらしい。


 壁には、古い掲示板が残っている。


 行事予定表の跡。

 外された校内放送のスピーカー。

 ほこりの残った棚。


 中央に長机が置かれ、向こう側に相原一尉と別の職員が座っていた。


 職員は眼鏡をかけた中年の男だった。


 身分証には、境界管理局とある。


 名は、倉持。


 相原が言った。


「座れ」


 健二と直樹は並んで座った。


 直樹は椅子に座る時、わずかに顔をしかめた。


 健二はそれを見た。


「足、痛いだろ」


「今言うことじゃない」


「今も言うことだろ」


 相原が口を挟んだ。


「医療班から報告は受けている。聴取は短くする」


 倉持が書類をめくった。


「まず、あなた方は北側へ無許可で侵入したのか」


 健二は答えようとした。


 直樹が先に言った。


「最初の配送は許可証つきだ。途中から追跡を受けた」


「許可証は」


「車にある。北側に残っていなければな」


 倉持は顔を上げた。


「車はどこに」


 健二が答えた。


「旧写真館の近くです。多分、もう保安局に押さえられています」


「配送物は何だった」


 健二は少し黙った。


 直樹が横を見る。


「言え」


 健二は息を吸った。


「分裂前の家族記録映像です」


 倉持のペンが止まる。


「誰から依頼された」


「元教師の老人です。名前は」


 健二はそこで言葉を止めた。


 依頼人の名を出していいのか。


 北側に知られれば危ない。


 西側に知られても、どう使われるか分からない。


 直樹が言った。


「今は伏せる」


 倉持の目が細くなる。


「聴取に協力しないということか」


「子どもの保護に関係する範囲で話す。依頼人を出すなら、保護措置を先に示せ」


 倉持は相原を見た。


 相原は黙っている。


 倉持は少し息を吐いた。


「分かった。現時点では仮に伏せる」


 健二は内心で驚いた。


 直樹の言い方は乱暴ではない。


 だが、引く所と引かない所がはっきりしている。


 倉持が続けた。


「北側は、児童拉致を主張している。あなた方は八名を施設から連れ出した。この事実は認めるか」


 健二は答えた。


「施設から出したのは事実です。でも、拉致じゃありません」


「子どもたちの意思確認は、誰が行った」


「瀬田ハルさんと、俺たちです」


「逃げる意味を子どもたちは理解していたのか」


 健二はすぐには答えられなかった。


 理解。


 どこまで理解していたのか。


 番号で呼ばれていた子どもたちが、自分の置かれた政治的状況を説明できるはずがない。


 でも、戻りたくないことは分かっていた。


 名前を奪われたことも。


 健二は言った。


「全部は分かっていなかったと思います」


 倉持がペンを動かす。


 健二は続けた。


「でも、番号で呼ばれる場所に戻りたくないことは分かっていました。自分の名前を知りたいことも分かっていました」


「それは、あなたの解釈では」


「本人たちが言いました」


「記録は」


「今から取ればいい」


 直樹が言った。


 倉持が直樹を見る。


 直樹は続けた。


「俺たちの話だけで決めるな。北側の話だけでも決めるな。八人に一人ずつ聞け。急がせず、脅さず、番号で呼ばずに」


 倉持は何か言い返そうとして、やめた。


 相原が静かに言った。


「それは実施する」


 健二は相原を見た。


「本当に?」


「児童保護調整官が聞く。録音も残す。北側への回答資料にもなる」


 北側への回答。


 またそこへ戻る。


 健二の胸が重くなった。


「返すための資料ですか」


 相原はすぐには答えなかった。


「守るためにも、返さないためにも、記録が必要だ」


 健二は黙った。


 直樹が言った。


「今はそれでいい」


「兄ちゃん」


「感情だけだと、向こうに負ける」


 健二は悔しかった。


 でも、分かった。


 北側は書類を持ってくる。


 管轄。

 保護対象。

 再配置。

 拉致。


 言葉で子どもたちを奪い返しに来る。


 なら、こちらも記録を残さなければならない。


 名前があること。

 本人が拒否していること。

 施設で番号管理されていたこと。

 旧資料と本人の記憶がつながること。


 それを、言葉と書類にしなければならない。


 健二は初めて、逃げるより面倒な戦いが始まったのだと分かった。


     *


 聴取が一度止まったのは、夜中近くになってからだった。


 直樹の足が腫れてきたため、医療班が無理に中断させた。


 直樹は不満そうだった。


 だが、相原が言った。


「歩行可能と言ったな。腫れが増えれば、その報告は変わる。見せろ」


 直樹は少しだけ相原を見た。


「言い方が嫌だな」


「お前の真似だ」


 健二は少し笑いそうになった。


 直樹は何も言い返さなかった。


 医療班に連れて行かれる前、健二は廊下から保護区画の方を見た。


 扉の上に、紙が貼られている。


 保護区画B

 未成年一時受入


 その下に、手書きの紙が追加されていた。


 本人申告名あり

 呼称は氏名使用


 三枝が貼ったのだろう。


 健二はその紙を見て、少しだけ息が入った。


 まだ仮だ。


 まだ正式ではない。


 でも、書かれている。


 消されないために。


 手順の中に入った。


 扉の向こうから、小さな声が聞こえた。


 子どもたちの声だ。


 はっきりとは分からない。


 でも、誰かが名前を呼んでいる。


「高瀬陸」


「ここ」


「村瀬花音」


「はい」


 また点呼をしている。


 たぶん、眠る前に不安になったのだろう。


 誰かが始めて、みんなが答えている。


 健二は扉の前で立ち止まった。


 中には入れない。


 でも、声は聞こえる。


 その時、扉が少しだけ開いた。


 三枝が顔を出す。


「真柴さん」


「はい」


「子どもたちが、寝る前に一度だけ顔を見たいと言っています」


 健二は相原を見た。


 相原は廊下の端に立っている。


 少し考えてから言った。


「入口から一分。中には入るな」


「ありがとうございます」


「礼は要らない」


 健二は扉の前に立った。


 中には入らない。


 入口から、八人が見えた。


 教室だった場所に、簡易ベッドが並べられている。


 それぞれ毛布をかけている。


 濡れた服は替えられていた。


 髪も少し乾いている。


 顔色も、さっきよりはましだった。


 悠斗が起き上がる。


「健二さん」


「いるぞ」


 美月が聞いた。


「直樹さんは?」


「医療班に怒られてる」


 蓮が笑った。


「また?」


「また」


 花音が小さく聞いた。


「戻ってこない?」


 健二は答えた。


「戻ってくる。俺も兄ちゃんも、この建物の中にいる」


 颯太が聞いた。


「明日も?」


 その質問には、少しだけ詰まった。


 明日どうなるかは分からない。


 でも、今言えることはある。


「明日も、名前を呼ぶ」


 颯太は健二を見た。


「僕のも?」


「ああ。小野寺颯太」


 颯太は小さくうなずいた。


「はい」


 陸が言った。


「八人いる」


 健二はうなずいた。


「八人いる」


 三枝が時計を見る。


 一分が近い。


 健二は子どもたちを見た。


「寝ろ。寝られなくても、目を閉じろ。寒かったら言え。痛かったら言え。怖かったら言え」


 美月が小さく言った。


「全部言っていいの?」


「全部じゃなくてもいい。言える分だけでいい」


 悠斗がうなずいた。


「分かった」


 健二は扉から離れた。


 閉まる直前、蓮の声が聞こえた。


「真柴健二」


 健二は振り返った。


 蓮が毛布の中から言った。


「いる?」


 健二は少しだけ笑った。


「いるよ」


 蓮はそっぽを向いた。


「じゃあいい」


 扉が閉まった。


 健二は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。


     *


 夜の保護所は静かだった。


 だが、完全な静けさではない。


 無線の声。

 遠くの発電機。

 廊下を歩く隊員の靴音。

 医療班の小さな話し声。


 健二は事情聴取室に戻る途中、窓の外を見た。


 校庭の向こうに、境界の方角がある。


 そのさらに向こうに、北側がある。


 灰色の男は、まだ諦めていない。


 北側は、明日には正式な書類を出してくるだろう。


 この保護所も、いつまで安全か分からない。


 だが、今夜だけは。


 今夜だけは、八人が同じ部屋で眠る。


 番号ではなく、名前で。


 健二が廊下を曲がると、相原が立っていた。


 手に一枚の紙を持っている。


「真柴健二」


「はい」


「北側から、正式照会の第一報が来た」


 健二の体が固まる。


「もうですか」


「ああ」


 相原は紙を見た。


「明朝、共同確認の申し入れがある。北側は、子どもたちへの直接確認を要求している」


「直接?」


「代表者立ち会いのもと、児童の意思を確認すると」


 健二の胸が冷えた。


 北側の人間が、子どもたちの前に来る。


 番号で呼んでいた側が。


 あの灰色の男かもしれない。


「そんなの、子どもが怖がるに決まってる」


「だから、こちらは条件をつける」


「条件?」


「呼称は本人申告名。威圧なし。保護調整官同席。録音あり。拒否する児童には質問しない」


 健二は少しだけ息を吐いた。


 それでも、不安は消えない。


「北側は飲むんですか」


「飲ませる」


 相原は短く言った。


 その言い方に、少しだけ人間味があった。


 健二は相原を見た。


「相原一尉」


「何だ」


「この子たちは、明日また戦うんですか」


 相原はすぐには答えなかった。


 廊下の向こうを見た。


 保護区画Bの扉。


 その向こうで、八人がいる。


「子どもを戦わせるつもりはない」


「でも、聞かれるんでしょう」


「ああ」


「それは、戦いじゃないんですか」


 相原は黙った。


 健二は自分で言って、胸が痛くなった。


 逃げて、川を渡って、やっと毛布にくるまった子どもたちに、明日また答えさせる。


 名前を言わせる。


 戻りたくないと、言わせる。


 それは必要なことかもしれない。


 だが、子どもたちにとっては、また怖い時間になる。


 相原は低く言った。


「だから、大人が先に場を作る」


 健二は顔を上げた。


「場?」


「子どもが答えても潰されない場だ。そこを作るのは大人の仕事だ」


 健二は、その言葉を聞いた。


 直樹がずっと作っていたもの。


 道。

 時間。

 射線のない場所。

 逃げ道。


 今度は、言葉の場を作らなければならない。


 子どもたちが名前を言っても、潰されない場所。


 健二は小さくうなずいた。


「分かりました」


「分かった顔には見えない」


 相原が言った。


 健二は少しだけ笑った。


「兄ちゃんみたいなこと言いますね」


「不本意だな」


 その時、廊下の向こうから直樹が戻ってきた。


 足にはしっかりとした固定が巻かれている。


 左腕も巻き直されていた。


 顔は不機嫌だ。


「誰が不本意だ」


 健二は振り返った。


「聞こえてたのかよ」


「耳は元気だ」


「それ、俺が言ったやつだぞ」


「使えるものは使う」


 相原が紙を直樹に見せた。


「明朝、北側との共同確認だ」


 直樹は紙を見た。


 表情は変わらない。


「来るな」


 健二が聞いた。


「誰が」


 直樹は保護所の窓の外を見た。


 暗い校庭。


 その向こうの境界。


「あの灰色の男だ」


 健二の背中が冷えた。


「分かるのか」


「あいつは、道を見る。ここで退くなら、次は書類で来る」


「それで子どもに会いに来るのか」


「会いに来るんじゃない」


 直樹は言った。


「取り戻しに来る」


 廊下の奥で、保護区画Bの灯りが少し落とされた。


 子どもたちが眠る時間だった。


 だが、帰り道はまだ眠らせてくれない。


 健二は扉の方を見た。


 中原悠斗。

 宮原美月。

 笹原蓮。

 浅野悠太。

 佐伯千紘。

 高瀬陸。

 村瀬花音。

 小野寺颯太。


 八人いる。


 今夜は、八人いる。


 明日も、そう言えるようにしなければならない。


 健二は小さく息を吸った。


「兄ちゃん」


「何だ」


「明日は、俺も話す」


「今日は何してた」


「もっと話す」


 直樹は少しだけ健二を見た。


「そうしろ」


 それだけだった。


 だが、十分だった。


 保護所の廊下に、夜の音が戻る。


 発電機の低い音。

 隊員の足音。

 子どもたちのいる部屋の、かすかな寝息。


 北でもない。

 南とも、まだ言い切れない。


 その中間の夜で、八人の名前だけが、確かに残っていた。


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