第十六話 名前で答える朝 改正版
## 第十六話 名前で答える朝
朝は、思ったより早く来た。
保護所の窓は遮光シートで覆われていた。
それでも、シートの端から細い光が入っている。
健二は、事情聴取室の隅で目を覚ました。
寝たつもりはなかった。
椅子に座ったまま、腕を組んでいただけだ。
だが、気づけば首が痛い。
向かいの机には、昨夜の書類が積まれている。
受入票。
聴取記録。
一時保護資料。
北側から届いた正式照会の写し。
紙ばかりだった。
昨日まで、健二たちは屋根を渡り、地下を抜け、川を渡っていた。
足元を見ていれば、進めるかどうか分かった。
沈む板。
割れた格子。
水の流れ。
泥の深さ。
危ない場所は、体が教えてくれた。
だが、ここでは違う。
目の前にあるのは紙だった。
どの紙が生きていて、どの紙が腐っているのか。
どの言葉が子どもを守り、どの言葉が子どもを戻すのか。
健二には、まだ分からなかった。
「起きたか」
横から声がした。
直樹だった。
壁際の椅子に座っている。
左腕は巻き直され、右足首は固定されている。
顔色は悪い。
だが、目は起きていた。
「兄ちゃん、寝た?」
「少し」
「嘘だろ」
「少し目を閉じた」
「それは寝たって言わない」
「お前も似たようなもんだ」
健二は首を回した。
関節が鳴った。
「子どもたちは」
「まだ寝てる。三枝が見てる」
「兄ちゃん、見に行ったのか」
「廊下から見ただけだ」
「歩くなって言われてただろ」
「走ってない」
「そういう問題じゃねえよ」
直樹は答えなかった。
机の上の紙を見ている。
健二も同じ方を見た。
北側からの正式照会。
そこには、細かい文字がびっしりと並んでいた。
保護児童八名。
再配置前緊急回収対象。
心理汚染の疑い。
外部誘導による虚偽申告。
不法搬出資料。
越境拉致。
読むだけで、胸の中が重くなる。
子どもたちは昨日、自分の足で川を渡った。
怖いと言った。
痛いと言った。
帰りたいと言った。
名前で返事をした。
その全部が、この紙の上では違う言葉に変えられていた。
「言葉で縛りに来てるな」
健二が言った。
直樹はうなずいた。
「向こうの得意分野だ」
「こっちは」
「こっちも言葉で返す」
「俺、苦手なんだけど」
「昨日は言ってた」
「必死だったからだよ」
「今日も必死でいい」
健二は苦い顔をした。
「雑だな」
「本当だ」
その時、廊下の向こうから足音がした。
相原一尉が入ってくる。
昨夜より少し疲れた顔をしていた。
だが、制服は乱れていない。
その後ろに、三枝理香と倉持もいた。
三枝はボードを抱えている。
倉持は紙の束を持っている。
相原が言った。
「一時間後に共同確認を行う」
健二の背中がこわばった。
「北側も来るんですか」
「ああ。代表二名。保安局一名。教育局一名」
直樹が聞いた。
「保安局は灰色の男か」
相原は少し目を細めた。
「名前は確認済みだ。保安局監察官、黒崎仁」
健二はその名前を聞いた。
黒崎仁。
灰色の男に、名前があった。
当たり前のことだった。
敵にも名前がある。
直樹が前に言っていた。
健二はそれを思い出した。
「教育局は」
三枝が答えた。
「第七教育管理施設の上位機関から、田端という職員が来ます。瀬田さんの所属記録も持ってくるはずです」
「瀬田さんは」
「別室で待機しています。共同確認には、必要に応じて同席させます」
健二はすぐに言った。
「必要です」
相原が健二を見る。
「理由は」
「子どもたちは瀬田さんを知っています。施設の中で、唯一名前に近いものを守ろうとした人です」
三枝がうなずいた。
「私も同席が望ましいと思います。特に、北側が施設内での状態を説明するなら、瀬田さんの反論が必要です」
倉持が眼鏡を押し上げる。
「ただし、瀬田ハル自身が北側職員であったことは不利にも働きます。脱走を手引きした者として追及されるでしょう」
健二は言った。
「それでも、いないよりいい」
直樹が続けた。
「子どもに全部言わせるな。瀬田ハルが言えることは、瀬田ハルが言えばいい」
相原は短くうなずいた。
「同席させる。ただし、発言はこちらが許可した時だけだ」
健二は息を吐いた。
まだ、手順の中だ。
でも、少しずつ場が作られている。
相原は机の上に一枚の紙を置いた。
「確認の条件だ」
健二は紙を見た。
そこには、箇条書きで条件が書かれていた。
児童は本人申告名で呼称する。
旧番号のみでの呼称を禁止する。
威圧的発言、誘導的発言を禁止する。
質問は一名ずつ、児童保護調整官を介して行う。
児童は回答を拒否できる。
北側職員は児童へ直接接近しない。
記録は録音・書面の両方で残す。
銃器は確認室内に持ち込まない。
健二は最後の一行を見て、少しだけ息を飲んだ。
「銃は持ち込まないんですか」
相原は答えた。
「見える場所に武器があると、子どもが答えられない。室外警備は置く」
直樹が言った。
「いい条件だ」
相原は直樹を見た。
「お前に褒められても嬉しくない」
「褒めてない。確認だ」
「なお悪い」
健二はそのやり取りを聞いて、少しだけ力が抜けた。
だが、すぐに戻った。
共同確認。
北側が来る。
黒崎が来る。
田端が来る。
そして、子どもたちの前で、名前をもう一度試される。
*
保護区画Bでは、子どもたちが起きていた。
朝食として、温かい粥と味噌汁が配られている。
食堂ではなく、教室の中だった。
机を寄せて、八人が同じ場所に座っている。
瀬田ハルも少し離れた所にいた。
手元には紙コップの湯気。
顔色は昨日より少し戻っている。
だが、目の下は赤い。
ほとんど眠れなかったのだろう。
健二が入口に立つと、悠斗がすぐに気づいた。
「健二さん」
「おはよう」
言ってから、健二は少し変な感じがした。
おはよう。
そんな普通の言葉を言ったのは、いつ以来だろう。
美月が粥の器を持ったまま言った。
「おはよう」
千紘も小さく言う。
「おはようございます」
蓮が言った。
「眠れなかった」
三枝が後ろから言う。
「蓮は二時間くらい寝ていました」
「寝てない」
「記録では寝ています」
「記録って何でも書くな」
陸が横から言った。
「寝てたよ」
蓮は陸を見た。
「見てたのかよ」
「起きたら寝てた」
「それは寝てたって言わないだろ」
花音が少し笑った。
颯太も粥を少しずつ食べている。
その顔を見て、健二は少し安心した。
食べている。
眠れていなくても、食べている。
まだ、ここにいる。
直樹は入口の横の椅子に座った。
三枝がすぐに言う。
「立っていないのは評価します」
直樹は顔をしかめる。
「評価される覚えはない」
「足首の腫れが引くまでは、こちらの指示に従ってください」
蓮が小さく言った。
「直樹さん、怒られてる」
「違う」
健二が言った。
「怒られてる」
子どもたちが少し笑った。
その笑いが消える前に、相原が入口に来た。
空気が少し変わる。
子どもたちは、昨日より相原を怖がらなくなっていた。
だが、制服を見ると体が固まる。
相原は部屋の中には入らなかった。
入口で帽子を取った。
「これから、北側との確認を行う」
子どもたちが静かになる。
相原は続けた。
「向こうの職員が来る。ただし、君たちに近づかせない。番号だけで呼ばせない。答えたくない質問には答えなくていい」
美月が聞いた。
「答えなかったら、怒られる?」
三枝が答える。
「怒られません。答えないことも記録します」
蓮が顔をしかめた。
「それも記録かよ」
「はい」
「なんか嫌だな」
三枝はうなずいた。
「嫌なら、嫌と書きます」
蓮は少し黙った。
「それならいい」
悠斗が聞いた。
「戻れって言われたら?」
健二はすぐに答えようとした。
だが、相原が先に言った。
「この場で連れて行かれることはない」
「この場では?」
悠斗は言葉を逃さなかった。
相原は少し黙った。
それから言った。
「今後のことは、記録と手続きを見て決める。だが、今日ここで君たちを車に乗せて戻すことはしない」
悠斗はまだ不安そうだった。
直樹が言った。
「今日の目標は一つだ」
子どもたちが直樹を見る。
「戻りたくないなら、戻りたくないと言う。分からないなら、分からないと言う。怖いなら、怖いと言う。黙れと言われても、三枝を見る」
三枝は少し驚いた顔をした。
「私ですか」
「保護調整官だろ」
「そうですが」
「なら、子どもが止まったら、あんたが止める」
三枝は直樹を見た。
それから、子どもたちを見た。
「分かりました。皆さんが答えられない時は、私が止めます。無理に答えさせません」
颯太が小さく言った。
「名前、間違えたら?」
健二が近づきそうになって、線の外で止まる。
「間違えてもいい」
颯太が健二を見る。
「いいの?」
「いい。思い出してる途中だから」
瀬田ハルも言った。
「間違えても、消えません」
颯太は瀬田ハルを見る。
瀬田ハルは微笑もうとして、少しだけ失敗した。
でも、やさしい顔だった。
「思い出す途中のものは、消えたものではありません」
颯太は小さくうなずいた。
花音が言った。
「一緒にいていい?」
三枝が答える。
「確認室には全員で入ります。ただ、質問は一人ずつです。答える時、隣の子の手を握っていてもいいです」
花音は少し安心した顔をした。
千紘が花音の手を握った。
悠斗が小さく言った。
「八人で行く」
蓮が言う。
「またそれか」
陸が答えた。
「八人いるから」
健二はその言葉を聞いた。
八人いる。
昨日までは、健二が数えていた。
今は、子どもたちが自分で数えている。
*
共同確認は、元音楽室で行われることになった。
広い部屋だった。
黒板の横に、古いピアノが残っている。
ふたは閉じられ、上には何も置かれていない。
机は少なかった。
中央に長机が一つ。
その奥に相原、倉持、三枝。
横に記録係。
窓側に真柴兄弟と瀬田ハル。
子どもたちは入口に近い側、三枝の近くに椅子を並べて座る。
北側の職員は、部屋の反対側。
子どもたちから距離を取らされていた。
扉の外には、西側の隊員が立っている。
武器は室内にない。
それでも、空気は重かった。
やがて、北側の二人が入ってきた。
一人は黒崎仁。
灰色の服ではなく、今日は濃い紺色の外套を着ていた。
だが、立ち方は同じだった。
道を見る目。
逃げ道を見る目。
人がどこで止まるかを見る目。
もう一人は、教育局の田端という男だった。
細い眼鏡をかけ、書類鞄を持っている。
表情は薄い。
怒っているわけでも、焦っているわけでもない。
それが逆に怖かった。
田端は席に着く前に、瀬田ハルを見た。
「瀬田職員」
瀬田ハルの肩が小さく動く。
相原がすぐに言った。
「本確認では、役職による呼称で威圧しないことを条件としている」
田端は相原を見る。
「呼称です」
「瀬田ハル氏、と呼べ」
田端は少しだけ間を置いた。
「分かりました。瀬田ハル氏」
瀬田ハルは顔を上げた。
その目は揺れていた。
だが、下げなかった。
黒崎は直樹を見た。
直樹は椅子に座っている。
足の固定が見える。
黒崎の目がそこに落ちた。
「歩けなくなったか」
直樹は答えた。
「座れるようになった」
健二は思わず横を見た。
黒崎は少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
相原が机を叩いた。
強くはない。
だが、音は通った。
「確認を始める。条件は事前に通達した通りだ。児童への直接接近は禁止。呼称は本人申告名。誘導、威圧、旧番号のみの呼称は禁止。違反があれば中断する」
田端が言った。
「北側としては、本人申告名という表現に同意していません」
倉持が答える。
「同意不要です。本保護所内の呼称基準です」
田端は眼鏡の奥で目を細めた。
「記録しておきます」
「こちらも記録しています」
部屋の端で、録音機の赤いランプがついていた。
健二はその小さな光を見た。
昨日はライトが怖かった。
今日は録音の赤い光がある。
同じ光でも、意味が違う。
消すための光ではなく、残すための光。
そう信じたかった。
*
最初に呼ばれたのは、悠斗だった。
三枝が柔らかく言う。
「中原悠斗」
「はい」
悠斗は立ち上がろうとした。
三枝が手で止める。
「座ったままでいいです」
悠斗は椅子に座り直した。
少し背筋を伸ばす。
田端が書類を見る。
「対象児童は、旧施設では三二七番として保護管理されていた。本人が中原悠斗であると認識した経緯を確認したい」
悠斗の顔が固くなる。
三枝がすぐに言った。
「質問を分けます。悠斗、あなたは自分の名前をどうやって思い出しましたか」
悠斗は少し考えた。
「最初は、たぶん、でした」
「たぶん?」
「地下で逃げてる時に、健二さんに聞かれて。名前、あるかって。はっきりじゃなくて、たぶん悠斗って」
田端が書く。
「外部誘導による想起」
健二の拳が動きかけた。
直樹が横で言った。
「まだ黙れ」
健二は奥歯を噛んだ。
三枝が田端を見る。
「記録は事実表現にしてください。外部誘導という評価は、確認後に別欄で」
田端は少し不満そうにペンを動かした。
三枝は悠斗へ戻る。
「その後、名前が違うと思ったことはありますか」
悠斗は首を振った。
「ない」
「中原悠斗と呼ばれた時、どう感じますか」
悠斗は少し恥ずかしそうにした。
「変だけど、嫌じゃない」
「番号で呼ばれるのは?」
悠斗の顔が曇る。
「嫌です」
田端が口を開きかけた。
三枝が先に言った。
「理由を言えますか」
「戻る感じがする」
「どこへ?」
悠斗は少しだけ黒崎の方を見た。
すぐに目をそらす。
「施設」
三枝はうなずいた。
「分かりました」
田端が言った。
「施設では安全確保のために番号管理を行っていた。嫌悪反応は、逃走時の混乱による可能性がある」
相原が低く言った。
「意見は後でまとめて述べろ。今は本人の確認だ」
田端は口を閉じた。
悠斗は椅子に座ったまま、膝の上で拳を握っていた。
健二は声を出したくなった。
よく言った。
そう言いたかった。
だが、今は言えない。
だから、悠斗と目が合った時、小さくうなずいた。
悠斗も、ほんの少しだけうなずいた。
*
次は美月だった。
三枝が呼ぶ。
「宮原美月」
「はい」
美月は右足を少し浮かせるようにして座っている。
医療班が簡単な固定をしてくれていた。
田端が書類を見る。
「宮原美月という氏名は、旧資料により確認されたのか」
三枝が答える。
「質問は本人に行います」
田端は少し顔を上げた。
「では、本人に」
三枝が美月を見る。
「美月、あなたは自分の名前をどう思いますか」
美月は少し困った顔をした。
「どうって?」
「嫌か、嫌じゃないか。自分のものだと思うか、まだ分からないか」
美月は考えた。
「自分のものだと思う」
「どうして?」
「呼ばれた時に、そっちを見るから」
部屋が少し静かになった。
健二は胸の奥が痛くなった。
呼ばれた時に、振り向く。
それが名前だ。
美月は続けた。
「番号で呼ばれた時は、返事しないと怒られるから見る。でも、美月って呼ばれたら、怒られるからじゃなくて、私のことだって思う」
三枝の手が一瞬止まった。
それから、ゆっくり書いた。
田端は何も言わなかった。
黒崎は美月を見ている。
表情は変わらない。
だが、目だけは少し細くなっていた。
「施設へ戻りたいですか」
三枝が聞いた。
美月はすぐに首を振った。
「戻りたくない」
「理由は」
「名前で呼ばれないから」
美月は少し考えてから、付け加えた。
「あと、痛いって言っても、あとでって言われるから」
直樹が横でわずかに目を伏せた。
健二はそれを見た。
美月は続けた。
「ここでは、痛いって言ったら見てくれた」
三枝は小さくうなずいた。
「記録しました」
*
蓮の番になると、空気が少し変わった。
「笹原蓮」
「いるよ」
いつもの返事だった。
田端が眉を動かす。
「返答は、はい、で統一させた方がよいのでは」
蓮がすぐに言った。
「何で」
相原が田端を見る。
「返答の形式を強制しない。条件に含まれている」
田端は黙った。
三枝が蓮に聞く。
「蓮、施設へ戻りたいですか」
「戻りたくない」
「理由は」
「嫌だから」
三枝はそのまま受け止めた。
「何が嫌ですか」
蓮は少し黙った。
ただ「嫌」と言うだけでは足りないと分かっている顔だった。
でも、うまく言葉にできない。
健二は口を開きかけた。
直樹が小さく言う。
「待て」
健二は黙った。
蓮は自分で考えていた。
そして、少し乱暴に言った。
「名前を言うと変な顔される」
三枝が聞く。
「誰に?」
「大人に」
「施設の?」
「そう」
「どんな顔?」
蓮は田端の方を見た。
そして言った。
「今みたいな顔」
部屋が止まった。
田端の顔がわずかに強ばる。
蓮は続けた。
「間違ってるって顔。勝手なこと言うなって顔。俺が自分の名前を言うと、そういう顔をする」
三枝は静かに書いた。
蓮は椅子の背にもたれた。
「だから戻りたくない」
田端が口を開く。
「それは職員の態度への主観的反応であって」
相原が遮った。
「主観を聞く場だ」
田端は黙った。
蓮は少しだけ相原を見た。
「今のは、ちょっと助かった」
相原は表情を変えずに言った。
「記録には残さなくていい」
三枝が言う。
「残します」
相原が少しだけ嫌そうな顔をした。
*
確認は一人ずつ続いた。
浅野悠太は、強い光が怖いことを話した。
「橋の上から照らされた時、体が動かなくなった」
三枝が聞く。
「施設でも、そういう光はありましたか」
悠太はうなずいた。
「夜、廊下で」
田端が言う。
「夜間巡回の安全照明です」
悠太は小さく言った。
「安全でも、怖い」
三枝はそのまま記録した。
佐伯千紘は、沢で滑ったこと、川が怖かったこと、でも名前を呼ばれて進めたことを話した。
「千紘って呼ばれたら、私の番だって分かった」
三枝が聞く。
「番号では分からなかった?」
「分かるけど、怖くなる」
「どうして?」
「間違えたら怒られる感じがする」
高瀬陸は、質問に少し時間がかかった。
田端が資料の番号を出すたびに、陸の目が動く。
三枝が気づいた。
「陸、何か気になる?」
陸は机の上の書類を見た。
「その紙、順番が違う」
田端の手が止まる。
「何のことだ」
「移送記録。三一六の次に三二四が来てる。でも、その前に三二二があるはず」
田端は書類を見る。
倉持も身を乗り出す。
瀬田ハルが小さく言った。
「三二二は、千紘です」
陸は続けた。
「抜けてる」
倉持が北側から提出された写しを確認する。
しばらくして、顔が変わった。
「確かに、提出資料に一部欠落がある」
田端は言った。
「複写時の不備でしょう」
陸は首を振った。
「違う。ここだけじゃない。下の数字も飛んでる」
部屋の空気が変わった。
倉持が相原を見る。
「北側提出資料の整合性に疑義あり。記録します」
相原がうなずいた。
黒崎は陸を見ていた。
「よく見ているな」
陸はすぐに目を伏せた。
三枝が間に入る。
「陸への直接発言は控えてください」
黒崎は引いた。
「失礼」
その声は、意外にも穏やかだった。
陸は小さく言った。
「褒められたの?」
蓮が横から言う。
「たぶん」
「怖い」
「分かる」
三枝が記録しながら、少しだけ口元を緩めた。
村瀬花音は、最初ほとんど話せなかった。
千紘の手を握ったまま、うなずくだけだった。
三枝は急がせなかった。
「花音、声で答えなくてもいいです。戻りたいなら右手を上げて。戻りたくないなら左手を上げてください」
花音は少し迷った。
それから、左手を上げた。
三枝は言った。
「戻りたくない、ですね」
花音はうなずいた。
田端が言う。
「発語なしでは意思確認として弱い」
三枝が返す。
「発語困難時の意思表示として記録します」
花音は三枝を見た。
少しして、小さく言った。
「戻りたくない」
三枝はうなずいた。
「聞こえました」
花音はまた千紘の手を握った。
最後は小野寺颯太だった。
三枝が呼ぶ。
「小野寺颯太」
颯太は少し遅れて顔を上げた。
「はい」
田端が書類を見る。
「この児童については、旧第七施設の記録に該当がない。氏名確認の根拠は、第三区児童相談分室の索引と所持品記録のみである」
三枝が颯太に向き直る。
「颯太、今の名前はまだ慣れないと言っていましたね」
「はい」
「でも、その名前で呼ばれるのは嫌ですか」
颯太は首を振った。
「嫌じゃない」
「番号で呼ばれるのは?」
颯太は少し黙った。
手が膝の上で動く。
花音が隣で袖を差し出した。
颯太は、その袖を少しだけつかんだ。
「戻る感じがする」
「どこへ?」
「白い部屋」
健二は息を止めた。
白い部屋。
それは初めて出た言葉だった。
田端がすぐに言う。
「心理的混乱による断片記憶の可能性がある」
颯太の肩が跳ねる。
三枝が田端を見た。
「評価は後で」
田端は口を閉じる。
三枝は颯太へ戻った。
「白い部屋では、何と呼ばれていましたか」
颯太は下を向いた。
「番号」
「他には」
颯太は首を振る。
「分からない」
黒崎が初めて口を開いた。
「その子には無理だ」
相原がすぐに言う。
「発言は許可していない」
黒崎は相原を見る。
「追い詰めるなと言っている」
部屋が静かになった。
健二は黒崎を見た。
敵の言葉だった。
だが、今の言葉だけは、子どもを責めるものではなかった。
三枝は颯太に言った。
「ここで止めますか」
颯太は少し考えた。
そして、小さく首を振った。
「言う」
「何を?」
「戻りたくない」
三枝は黙って待った。
颯太は顔を上げた。
声は小さかった。
でも、部屋に届いた。
「小野寺颯太かどうか、まだ全部は分からない。でも、番号に戻りたくない」
健二の胸に、何かが刺さった。
その言葉は、完璧な証明ではない。
書類としては弱いのかもしれない。
でも、本人の言葉だった。
三枝はゆっくりうなずいた。
「記録しました」
*
確認が終わった時、部屋の空気は重く沈んでいた。
誰も勝った顔をしていない。
子どもたちは疲れていた。
美月は足をかばい、千紘はまた少し震えている。
花音は千紘の手を離さない。
颯太はうつむいている。
悠斗だけが、必死に背筋を伸ばしていた。
相原が言った。
「児童は保護区画へ戻す。三枝調整官、医療班と一緒に」
三枝がうなずく。
「はい」
子どもたちが立つ。
健二は声をかけた。
「よく話した」
悠斗が少しだけ笑う。
美月が言った。
「疲れた」
「だろうな」
蓮が言う。
「話す方が川より疲れる」
直樹が答えた。
「そういう時もある」
蓮は嫌そうな顔をした。
「もう嫌だ」
「俺も嫌だ」
直樹がそう言うと、蓮は少しだけ目を丸くした。
子どもたちは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
その音が、やけに大きく聞こえた。
残ったのは、大人たちだけだった。
相原。
倉持。
三枝は途中まで付き添ってから戻る。
瀬田ハル。
真柴兄弟。
北側の田端。
黒崎。
田端が最初に口を開いた。
「子どもたちの発言は、逃走直後の混乱下におけるものです。北側としては、安定環境での再確認が必要と考えます」
倉持が言った。
「安定環境とは」
「第七教育管理施設です」
健二は思わず立ち上がりかけた。
直樹が机の下で健二の腕を押さえた。
怪我をしている方ではない。
右手だった。
強い力ではない。
だが、止まった。
瀬田ハルが静かに言った。
「そこは、安定環境ではありません」
田端が瀬田を見る。
「あなたは職員としての責務を放棄した」
「はい」
瀬田ハルは認めた。
「でも、あの子たちを番号で呼び続けることが、私の責務なら、私は放棄してよかったと思っています」
田端の表情がわずかに動いた。
「思想汚染を受けている可能性がありますね」
瀬田ハルの手が震えた。
だが、声は止まらなかった。
「母に名前を呼ばれたことを思い出しました」
部屋が静かになる。
「それを汚染と呼ぶなら、私は汚染されています」
健二は瀬田ハルを見た。
昨日まで、彼女は規則の内側にいた。
でも今は、自分の言葉で立っている。
田端はすぐには返せなかった。
黒崎が口を開いた。
「田端さん、ここでそれを言うと不利になる」
田端が黒崎を見る。
「どういう意味ですか」
「相手は録音している。母の記憶を汚染と呼んだ記録が残る」
田端の顔が固まった。
黒崎は淡々としていた。
敵を助けているのか、北側の損を避けているのか。
健二には分からなかった。
相原が言った。
「現時点で、八名全員が施設への帰還を拒否している。北側提出資料には欠落の疑義がある。本人申告名と旧資料の一致も複数確認された。よって、本日中の返還は行わない」
田端が言う。
「北側は抗議します」
「受け取る」
「上位協議を要求します」
「所定の窓口へ出せ」
相原の声は変わらなかった。
健二はその横顔を見た。
この男も、手順で戦っている。
昨日は冷たく見えた。
今も冷たい。
だが、冷たさの中に、線がある。
その線のこちら側に、今は八人がいる。
黒崎が直樹を見た。
「お前たちの勝ちではない」
直樹は答えた。
「知ってる」
「一時保護は、永続保護ではない」
「それも知ってる」
「この先、あの子たちは何度も聞かれる。何度も証明させられる。名前を取り戻したせいで、苦しみは増える」
健二は黒崎を見た。
「だから消すんですか」
黒崎は健二へ視線を移す。
「消せば楽なこともある」
「楽なのは誰ですか」
黒崎は黙った。
健二は続けた。
「子どもですか。それとも、管理する大人ですか」
田端が口を開く。
「感情論です」
健二は田端を見た。
「感情です」
田端が少し眉を寄せる。
健二は続けた。
「子どもが怖いって言った。戻りたくないって言った。名前で呼ばれたいって言った。それは感情です。でも、だから無視していいとは思いません」
部屋の中が静かになった。
健二は自分の手が震えているのに気づいた。
でも、止めなかった。
「俺は書類のことは分かりません。でも、荷物を運ぶ時でも、宛名を間違えたら届きません」
直樹が少しだけ健二を見た。
健二は続ける。
「この子たちの宛名は、番号じゃない。名前です」
黒崎の目が少し動いた。
田端は何か言おうとして、やめた。
相原が低く言った。
「本日の共同確認は終了する。北側代表は退室を」
田端は書類を鞄にしまった。
黒崎は立ち上がる。
扉へ向かう前に、一度だけ直樹を見る。
「真柴直樹」
直樹は目を上げた。
「何だ」
「名前を返した。川も越えさせた。西側の保護所にも入れた」
黒崎は、閉じた扉の方を見た。
その向こうには、子どもたちがいる。
「だが、あの子たちには、まだ家も、親も、学校もない。西側の書類では、まだ仮の存在だ」
直樹は黙って聞いていた。
黒崎は続けた。
「それで救ったつもりか」
健二は息を止めた。
その言葉は、ただの挑発ではなかった。
名前を取り戻しても、帰る場所がなければ終わらない。
それを突いている。
直樹は少しだけ間を置いた。
「まだ救ってない」
黒崎の目が動く。
「なら何だ」
「死なせなかっただけだ」
部屋の空気が重くなる。
直樹は、子どもたちが出ていった扉を見た。
「名前は戻った。でも、帰る場所はまだない。だから作る」
「誰が」
直樹は健二の方を見ずに言った。
「俺たちが」
黒崎はしばらく直樹を見ていた。
「作れなかったら?」
「また別の道を探す」
「それでも見つからなかったら」
直樹は黒崎を見返した。
「見つかるまで戻さない」
黒崎は何も言わなかった。
そのまま部屋を出ていった。
*
北側の代表が帰った後、健二は椅子に座り込んだ。
全身が重い。
川を渡った時より疲れている気がした。
蓮が言っていた通りだった。
話す方が疲れる。
相原が書類をまとめながら言った。
「八名は一時保護継続。期間は七十二時間。その間に、追加資料の確認、本人聴取、北側への回答を行う」
健二は顔を上げた。
「七十二時間だけですか」
「まずは七十二時間だ」
「その後は」
「決まっていない」
健二はまた胸が重くなるのを感じた。
決まっていない。
その言葉は怖い。
でも、施設に戻すと決まっているよりはましだった。
三枝が言った。
「七十二時間あれば、本人申告名と資料の照合を進められます。親族記録、旧住所、学校記録、避難者台帳も探します」
倉持が続ける。
「ただし、問題があります」
健二は嫌な予感がした。
「何ですか」
「この保護所は長期滞在用ではありません。北側からの圧力もある。八名をどこに移すか、早急に決める必要があります」
「移す?」
健二の声が少し強くなる。
また移動。
また知らない場所。
子どもたちはやっと毛布にくるまったばかりだ。
三枝が静かに言った。
「安全な場所に移す必要があります。ここは境界に近すぎます」
相原が地図を広げた。
古い学校の図面が載っている。
健二は思わず身を乗り出した。
それは、保護所の地図ではなかった。
「これは」
相原が指で示した。
「旧南第三小学校。現在は閉鎖中。境界から離れているが、校舎は残っている。西側の管理下にあり、仮設保護区画として使える可能性がある」
健二は地図を見る。
校舎。
体育館。
裏門。
給食室。
古い職員室。
運動場。
学校だった。
まだ、学校の形をしていた。
瀬田ハルが小さく言った。
「学校……」
三枝がうなずく。
「保護施設として使うには整備が必要です。ただ、子どもたちを分けずに置ける広さがあります」
倉持が言う。
「問題は人員です。職員、医療、警備、生活支援。すぐには揃わない」
相原が健二を見た。
「真柴健二」
「はい」
「お前は運送屋だな」
嫌な予感がした。
「はい」
「物資を運べるか」
健二は地図を見る。
旧南第三小学校。
そこに、八人を移す。
毛布。
食料。
水。
着替え。
医療品。
机。
布団。
暖房。
ただ移すだけではない。
人がいられる場所にする。
それは、荷物の先に生活を作る仕事だった。
健二は直樹を見た。
直樹は黙っていた。
止めない。
ただ、見ている。
健二は相原に向き直った。
「運べます」
相原は続けた。
「ただし、お前は現在、事情聴取対象でもある。自由に動けるわけではない」
「それでも?」
「監督付きなら可能だ」
倉持が少し驚いた顔をする。
「相原一尉」
「物資がなければ移せない。移せなければ、ここに残すしかない。ここに残せば、北側が毎日来る」
三枝が小さくうなずいた。
「子どもたちの負担も増えます」
健二は地図から目を離せなかった。
旧南第三小学校。
そこに、八人を連れていく。
そこが帰る場所になるかは分からない。
でも、少なくとも、番号で呼ばれない場所にはできるかもしれない。
瀬田ハルが言った。
「私も手伝います」
倉持がすぐに言う。
「あなたは北側職員としての聴取が残っています」
「分かっています。でも、学校の中で子どもを見てきました。必要なものも分かります」
三枝が瀬田を見る。
「子どもの生活動線、夜間の不安、男女の仕切り、名前の確認。そういう面では、瀬田さんの知識は必要です」
相原は少し考えた。
「監督付きで協力を許可する。正式決定ではない。準備段階だ」
瀬田ハルはうなずいた。
「はい」
直樹が地図を見ていた。
健二が聞く。
「兄ちゃんは」
「俺は歩けない」
「そうだな」
「だが、見ることはできる」
「何を」
直樹は地図の裏門を指した。
「出入口。逃げ道。車両の置き場所。子どもが夜に飛び出した時の止め方。北側が来た時の動線」
相原が少しだけ眉を上げる。
「警備計画に口を出すつもりか」
「必要ならな」
「お前は事情聴取対象だ」
「知ってる」
「怪我人でもある」
「それも知ってる」
「面倒な男だな」
健二が言った。
「本当にそうです」
直樹が健二を見る。
「お前は黙れ」
「今日は話せって言っただろ」
「それは今じゃない」
三枝が少しだけ笑った。
相原も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
だが、すぐに表情を戻した。
「七十二時間だ。その間に、子どもたちを北側へ戻さないための材料を揃える。旧南第三小学校への移送準備も進める」
健二はうなずいた。
逃げるだけではなくなった。
今度は、場所を作る。
名前を呼べる場所。
眠れる場所。
痛いと言える場所。
怖いと言える場所。
戻りたくないと言っても、潰されない場所。
それを作らなければならない。
*
昼前、健二は保護区画Bへ呼ばれた。
子どもたちは少し眠ったらしい。
顔色は朝よりましだった。
だが、共同確認の疲れは残っている。
蓮は毛布にくるまったまま床に座っている。
陸は紙コップを両手で持っている。
花音は千紘の近くから離れない。
颯太は窓の方を見ていた。
健二が入ると、悠斗が立ち上がった。
「終わった?」
「今日の分は終わった」
「戻らない?」
「今日と明日は戻らない」
悠斗の顔が少し変わる。
「明後日は?」
健二は答えに詰まりかけた。
でも、逃げなかった。
「明後日も戻さないために、今から準備する」
蓮が顔を上げる。
「何それ」
「場所を作る」
「場所?」
健二はうなずいた。
「ここより遠い学校を使えるかもしれない。旧南第三小学校って場所だ」
美月が聞いた。
「学校?」
「学校だった建物だ」
千紘が小さく言った。
「また学校?」
その声には、不安があった。
学校という言葉が、もう安全なものではなくなっている。
健二はすぐに言い直した。
「今すぐ行くわけじゃない。行くとしても、番号で呼ぶ学校にはしない」
陸が聞いた。
「何する場所?」
健二は少し考えた。
「寝る。食べる。けがを治す。名前を確認する。これからどうするか考える」
蓮が言った。
「勉強は?」
健二は予想していなかった質問に少し詰まった。
「勉強も、たぶん必要だな」
蓮は嫌そうな顔をした。
「余計なこと言った」
美月が少し笑った。
花音が言った。
「みんな一緒?」
「それを頼む」
「誰に?」
「相原一尉と三枝さんに。あと、俺も手伝う」
颯太が振り返った。
「健二さんも来る?」
健二はうなずいた。
「物を運ぶ。毛布とか、食べ物とか、机とか」
悠斗が言った。
「運送屋だから?」
「ああ」
蓮が言う。
「本当に運送屋だったんだ」
「今さら何だと思ってたんだよ」
「変な大人」
健二は苦笑した。
「だいたい合ってる」
直樹の声が入口からした。
「否定しろ」
子どもたちが振り返る。
直樹が入口に立っていた。
松葉杖のようなものを一本持っている。
医療班に持たされたのだろう。
顔はとても嫌そうだった。
蓮がすぐに言う。
「それ、似合わない」
「知ってる」
美月が聞いた。
「痛い?」
「痛い」
「言った」
「言えと言われた」
美月は少し満足そうにうなずいた。
「よし」
直樹は困ったような顔をした。
健二は笑いをこらえた。
直樹は子どもたちを見る。
「今日、よく答えた」
部屋が静かになる。
直樹がそういうことを言うのは珍しい。
悠斗が少し照れる。
蓮はそっぽを向く。
千紘は紙コップを握る。
颯太は小さくうつむいた。
直樹は続けた。
「でも、次は一人で答えなくていい」
悠斗が聞いた。
「どういうこと?」
「大人が先に準備する。聞かれる場所、聞かれ方、記録の残し方。そこを作る」
花音が言った。
「場所?」
健二が相原の言葉を思い出す。
「そう。場所」
直樹はうなずいた。
「名前を言っても、潰されない場所だ」
颯太が小さく言った。
「小野寺颯太って言っても?」
「ああ」
「まだ全部分からなくても?」
「それでもいい」
颯太は少しだけ息を吐いた。
健二はその顔を見た。
昨日より少しだけ、名前が体に近づいている。
そんな気がした。
陸が言った。
「八人で行く?」
健二は答えた。
「できるだけ」
蓮がすぐに聞く。
「できるだけって何だよ」
「正直に言った」
「嫌な正直だな」
「でも、俺は八人で行けるように運ぶ」
悠斗が言った。
「じゃあ、俺も数える」
陸がうなずく。
「僕も」
美月が言う。
「私も」
花音が千紘を見る。
「私も」
千紘も小さくうなずく。
「私も」
蓮は少し黙ってから言った。
「じゃあ俺も」
悠太が続ける。
「俺も」
最後に颯太が、少し遅れて言った。
「僕も」
健二は八人を見た。
逃げてきた子どもたち。
名前を取り戻した子どもたち。
これから、名前を守らなければならない子どもたち。
道はまだ遠い。
でも、次に運ぶものが見えてきた。
荷物ではない。
人でもない。
場所だ。
帰れる場所を、運ぶ。
*
午後、旧南第三小学校への第一便が決まった。
健二は相原から物資リストを渡された。
毛布二十枚。
簡易ベッド十二台。
水タンク。
食料箱。
発電機。
ストーブ。
医療箱。
着替え。
子ども用の靴。
ホワイトボード。
名札用の紙。
健二は最後の項目を見て、手を止めた。
「名札?」
三枝が言った。
「仮のものです。子どもたちが互いに名前を確認しやすいように」
健二は少し笑った。
「番号じゃなくて?」
「名前です」
三枝はそう答えた。
健二はリストを折りたたんだ。
「運びます」
相原が言う。
「監督として隊員二名をつける。勝手な行動はするな」
「分かっています」
「分かっている顔には見えない」
健二は苦笑した。
「それ、流行ってるんですか」
「お前たち兄弟がそういう顔をするからだ」
直樹は横から言った。
「俺は行かない」
健二が驚く。
「兄ちゃん?」
「足が邪魔になる。ここで地図を見る」
「珍しく正しい」
「お前、本当に黙れ」
直樹は相原を見た。
「旧南第三の図面を寄越せ。出入口と死角を確認する」
相原は少し考えてから、隊員に指示した。
「管理図を出せ」
健二は直樹を見る。
「兄ちゃん」
「何だ」
「戻ってくるからな」
直樹は少しだけ目を細めた。
「お前がそれを言う側になったか」
「言われる側の気持ちが分かった」
「遅い」
「うるせえ」
直樹は短く言った。
「運べ」
健二はうなずいた。
「ああ」
保護所の外へ出ると、昼の光がまぶしかった。
昨夜の白いライトとは違う。
太陽の光だった。
運動場の端に、西側の中型トラックが停まっている。
古いが、荷台は広い。
健二は荷台を見た。
どこに何を積むか。
重い物を下へ。
濡れて困る物は内側へ。
すぐ使う医療箱は最後に載せる。
毛布は取り出しやすく。
発電機は固定。
水タンクは揺らさない。
体が勝手に動き始める。
久しぶりに、分かる仕事だった。
隊員が聞いた。
「積み込み、手伝います」
健二はうなずいた。
「重い物からいきましょう。あと、毛布は最後です。先に積むと潰れます」
「了解」
返事が返る。
健二は荷台へ上がった。
そこから、保護区画Bの窓が見えた。
窓の向こうに、誰かの影がある。
小さい手が振られた。
誰かは分からない。
でも、八人の誰かだった。
健二は手を振り返した。
声は届かない。
でも、見えている。
見える所にいる。
約束は、まだ続いている。
健二は荷台の床を足で確かめた。
きしみは少ない。
使える。
荷物を積める。
場所を運べる。
旧南第三小学校。
そこが本当に帰り道になるかは、まだ分からない。
それでも、最初の一便が動き出す。
健二は荷台の奥へ進み、隊員に声をかけた。
「そこ、先に水をください。重さを真ん中に寄せます」
隊員が水タンクを運んでくる。
健二はそれを受け取った。
重い。
だが、持てる。
名前を運ぶよりは、ずっと分かりやすい重さだった。
けれど、今はその重さの先にも、名前がある。
中原悠斗。
宮原美月。
笹原蓮。
浅野悠太。
佐伯千紘。
高瀬陸。
村瀬花音。
小野寺颯太。
八人が眠れる場所を作るための荷物だ。
健二は水タンクを荷台の中央に置いた。
動かないように、しっかり固定する。
逃げるための道の次は、暮らすための場所。
帰り道は、まだ終わらない。
今度は、運ぶことで作る番だった。




