第十七話 最初の一便 改正版
## 第十七話 最初の一便
荷台に水タンクを固定すると、健二は次の荷物に手を伸ばした。
食料箱。
医療箱。
毛布。
簡易ベッドの部品。
折りたたみ式の机。
段ボールに入った着替え。
発電機。
ホワイトボード。
名札用の紙。
物は多い。
だが、何をどこへ置くかは分かる。
健二にとって、荷物は黙っていても性格がある。
重いもの。
濡らしてはいけないもの。
すぐ使うもの。
後で使うもの。
揺れると壊れるもの。
上に置いていいもの。
下に置いてはいけないもの。
それを見分けるのは、考えるより体が先だった。
隊員の一人が、食料箱を荷台の端へ置こうとした。
健二はすぐに言った。
「それ、端じゃなくて真ん中にください」
隊員が手を止める。
「真ん中ですか」
「缶詰と水が入ってるなら重いです。端に寄せると、曲がった時に荷台の中で暴れます」
「ああ、すみません」
「謝らなくていいです。真ん中に置いて、左右から軽い物で押さえましょう」
隊員はうなずいた。
もう一人の隊員が毛布の袋を持ってきた。
「これは」
「最後です」
「取り出しやすいからですか」
「はい。向こうに着いたら最初に使う可能性があります。濡らしたくもない。上に置きます」
「了解」
返事が少し変わった。
さっきまでは監督するための返事だった。
今は、仕事を一緒に進めるための返事に近い。
健二はそれに少しだけ救われた。
事情聴取対象。
監督付き。
自由ではない。
それでも、今は荷台の上で動ける。
運ぶものがある。
運んだ先に、使う人がいる。
それだけで、体の中の重さが少し違った。
保護区画Bの窓を見る。
もう小さな手は見えなかった。
たぶん、三枝に中へ戻されたのだろう。
それでいい。
見えなくても、いる。
八人いる。
「真柴さん」
隊員の声で、健二は振り返った。
「はい」
「これで全部ですか」
荷台を見た。
水。
食料。
医療。
寝具。
暖房。
発電機。
名札用の紙。
ホワイトボード。
健二はリストを確認する。
「靴は?」
「後部座席です。サイズごとに分けました」
「ありがとうございます。あと、工具箱はありますか」
隊員が少し首を傾げた。
「工具箱?」
「閉鎖中の学校ですよね。床や窓がそのまま使えるとは限りません。養生テープ、ロープ、軍手、ドライバー、釘抜き、懐中電灯。最低限でいいので」
隊員はもう一人を見た。
「営繕用の箱、倉庫にあったな」
「取ってきます」
隊員が走っていく。
相原が少し離れた所から見ていた。
健二は視線に気づいた。
「何ですか」
「運送屋らしくなったな」
「今まで何に見えてたんですか」
「巻き込まれた大男」
「ひどいですね」
「間違ってはいない」
健二は荷台から降りた。
「今も巻き込まれてますよ」
「違う」
相原は短く言った。
「今は、自分で乗っている」
健二はすぐには返せなかった。
自分で乗っている。
確かにそうだった。
最初に老人から荷物を預かった時も、半分は巻き込まれたようなものだった。
兄に止められ、危険を知らされ、それでも行くと決めた。
今も同じだ。
子どもたちの名前を運ぶことになった。
旧南第三小学校へ物資を運ぶことになった。
誰かに命令されたからではない。
やると言った。
健二は相原に聞いた。
「兄ちゃんは」
「図面を見ている」
「大人しくしてますか」
「していない」
「ですよね」
相原は少しだけ眉を寄せた。
「旧南第三の裏門が死角になると言って、警備配置に口を出している」
「すみません」
「謝るなら止めてこい」
「無理です」
「即答するな」
その時、工具箱を持った隊員が戻ってきた。
健二は受け取って、中を見た。
養生テープ。
ビニール紐。
軍手。
釘抜き。
ドライバー。
小型のバール。
懐中電灯。
カッター。
結束バンド。
「十分です」
健二は荷台に載せた。
「出せます」
相原がうなずく。
「第一便、出発。現地確認後、三十分ごとに無線連絡。予定外の接触があれば即時報告。旧南第三周辺で北側関係者を見た場合、独断で対応するな」
「分かりました」
相原は健二を見た。
「その顔は分かっていない」
「本当に流行ってますね」
「いいから守れ」
「はい」
健二はトラックの助手席へ乗り込んだ。
運転は西側の隊員がする。
監督役だ。
もう一人は後続の小型車に乗る。
保護所の門が開く。
トラックがゆっくり動き出した。
窓の外で、相原が立っている。
その少し奥、校舎の入口に直樹がいた。
松葉杖を片手に、壁にもたれている。
健二は窓を開けた。
「兄ちゃん!」
直樹が顔を上げる。
「何だ」
「本当に戻るからな!」
直樹は少し面倒そうな顔をした。
「何回も言うな」
「言う側になったからな」
直樹は一瞬だけ黙った。
それから、短く言った。
「行け」
「行ってくる」
トラックは門を出た。
保護所が後ろへ下がっていく。
健二はサイドミラーを見た。
直樹の姿が小さくなる。
見えなくなるまで、健二はミラーから目を離さなかった。
*
旧南第三小学校までは、車で三十分ほどだった。
道は荒れていた。
途中までは舗装されている。
だが、使われなくなった道路の端から草が伸び、白線はところどころ消えている。
運転席の隊員が言った。
「この道、しばらく使われていません」
「でしょうね」
健二は窓の外を見る。
住宅跡があった。
門だけ残った家。
屋根が落ちた倉庫。
窓に板を打った民家。
畑の中に立ったままの洗濯竿。
人が暮らしていた跡はある。
でも、人の声はない。
北側の町とは違う静けさだった。
疲れ切って黙った町ではなく、先に人が離れた町。
健二はそれが少し怖かった。
「旧南第三は、元々避難所だったんですか」
健二が聞いた。
隊員はハンドルを握ったまま答える。
「分断直後は使っていたそうです。その後、別の施設に集約されて閉鎖。最近は備蓄倉庫代わりだったと聞いています」
「水道は」
「分かりません。電気は発電機前提です」
「トイレが問題ですね」
「仮設を運ぶ話も出ています」
「すぐ必要になります。子どもが八人。職員も入るなら、今日中に段取りした方がいいです」
隊員が少し横を見る。
「本当に運送屋なんですね」
「だから、何だと思ってたんですか」
「正直、もっと危ない人かと」
健二は一瞬黙った。
それから、少し笑った。
「危ないのは兄の方です」
「それは分かります」
「分かるんだ」
「はい」
健二は窓の外へ視線を戻した。
道の先に、低い丘が見えてきた。
その向こうに、校舎の屋根が見える。
旧南第三小学校。
健二は胸の中で、その名前をもう一度言った。
旧南第三小学校。
名前のある場所。
まだ、ただの建物だ。
でも、これから意味が変わるかもしれない。
トラックが坂を上がる。
校門が見えた。
鉄の門は片側が少し傾いている。
校名板は残っていた。
旧南第三小学校。
文字はかすれている。
だが、読めた。
健二は思わず言った。
「残ってる」
隊員が聞いた。
「何がですか」
「学校の名前」
隊員は校門を見た。
「ああ」
健二はしばらく、その文字を見ていた。
施設番号ではない。
管理区画でもない。
学校の名前。
ただそれだけで、少し違って見えた。
*
校門の鍵は、西側管理局が用意していた。
隊員が門を開ける。
金属がこすれる音がした。
トラックはゆっくり校庭へ入った。
運動場は草に覆われていた。
中央だけは、かろうじて地面が見えている。
体育館の屋根は残っている。
校舎の窓も大半は割れていない。
ただ、正面玄関の上にある時計は止まっていた。
十時十三分。
いつ止まったのかは分からない。
健二はトラックを降りると、まず足元を見た。
地面は少しぬかるんでいる。
水はけが悪い。
校庭の端に溝があるが、落ち葉で詰まっている。
「まず排水ですね」
隊員が驚いた顔をした。
「最初にそこですか」
「雨が降ったら、荷物も人も濡れます。水が校舎側へ寄ってます」
健二は校舎を見る。
玄関前に泥の跡がある。
雨のたびに水が流れ込んでいるのかもしれない。
「荷物を入れる前に、入口を見ます」
「はい」
玄関へ向かう。
靴箱は残っていた。
上履きはない。
土埃が積もっている。
扉は重かったが、開いた。
中の空気は湿っていた。
閉じた建物の匂い。
古い木。
埃。
少しだけカビ。
それでも、腐った匂いではなかった。
使える。
健二はそう思った。
廊下へ入る前に、懐中電灯をつける。
昼でも校舎の中は暗い。
窓に板が打たれている場所がある。
床を踏む。
きしむ。
だが、抜ける感じはない。
「すぐ走る場所じゃないですね」
隊員が言った。
「子どもは走ります」
健二は答えた。
「だから、走れないようにするより、走っても危なくない範囲を決めた方がいいです」
「なるほど」
健二は教室を一つずつ見た。
一年一組。
一年二組。
資料室。
保健室。
職員室。
古い札が残っている。
黒板も残っていた。
机と椅子は少ない。
ほとんど運び出されたのだろう。
だが、床は広い。
簡易ベッドを並べられる。
子ども八人が同じ部屋に入れる。
仕切りを作れば、着替えもできる。
「ここ」
健二は一階の広い教室で止まった。
元は多目的室だったらしい。
黒板はない。
窓が二面にある。
廊下側にも出入り口が二つある。
「ここを子どもたちの部屋にします」
隊員が中を見回す。
「理由は?」
「出入口が二つ。廊下側に大人を置ける。窓があるから換気できる。トイレにも近い。保健室にも近い」
「欠点は」
「窓が低い。夜に不安で外へ出ようとする子がいたら、ここから出られる」
「危ないですね」
「危ないけど、見える。高い窓よりましです。外側に人を置けば止められます」
健二は窓を開けようとした。
固い。
力を入れると、少し動いた。
埃が落ちる。
「使える」
次にトイレを見た。
水は出ない。
タンクは乾いている。
排水の匂いが少し戻っている。
「トイレは仮設が必要です。水が出るまで使わせない方がいい」
隊員が無線で報告する。
「旧南第三、トイレ使用不可。仮設トイレ要請」
無線の向こうで返事がある。
健二は保健室へ入った。
ベッドが一台だけ残っている。
マットレスは使えない。
カビが出ていた。
棚には何もない。
ただ、流し台がある。
蛇口をひねる。
音だけ。
水は出ない。
「ここは医療用ですね。でも、掃除が先です」
職員室は本部に使えそうだった。
窓から校庭が見える。
校門も見える。
玄関も見える。
直樹がいれば、ここを選ぶだろう。
そう思った。
健二は少しだけ笑った。
兄がいない場所でも、兄ならどこを見るかが分かる。
それが少し悔しかった。
*
荷下ろしが始まった。
最初に水。
次に発電機。
それから医療箱と掃除道具。
毛布は最後。
健二は隊員たちに指示を出した。
「発電機は校舎の中に入れないでください。音と排気があるので、外の軒下。雨がかからない場所へ」
「了解」
「水タンクは多目的室の外。子ども部屋の中には置かない。倒れたら危ない」
「はい」
「医療箱は保健室。でも一つだけ子ども部屋の入口にも置いてください。すぐ使う物です」
「分かりました」
隊員が動く。
初めは監督役だった二人も、いつの間にか完全に作業員になっていた。
健二は荷台から簡易ベッドの部品を下ろした。
組み立てながら、部屋の配置を考える。
八人分。
でも、八台をきっちり並べるだけでは駄目だ。
子どもたちはまだ怖がっている。
全員の顔が見える方がいい。
寝る時に、誰かがいると分かる形。
健二はベッドを壁沿いに並べようとして、やめた。
「円に近い形にしましょう」
隊員が聞く。
「円ですか」
「真ん中を空けて、顔が見えるように。病院みたいに一列にすると、管理されてる感じが強くなる」
「そこまで考えるんですね」
「考えないと、多分あの子たちは寝ません」
隊員は何も言わなかった。
ただ、ベッドの向きを変えた。
八つの簡易ベッドが、部屋の中に置かれていく。
完全な円にはならない。
でも、互いの顔は見える。
入口からも見える。
窓から離れている。
健二はうなずいた。
「これで」
次に毛布を置く。
それぞれのベッドに一枚ずつ。
予備を入口横に積む。
着替えはサイズごとに箱へ分ける。
靴も同じ。
健二は箱に紙を貼った。
小さい。
中くらい。
大きい。
隊員が聞いた。
「サイズ表記じゃないんですか」
「数字で分けると、あの子たちが嫌がるかもしれません」
「ああ」
隊員はそれ以上聞かなかった。
ホワイトボードを部屋の正面に立てる。
黒板ではない。
白い板。
健二はペンを持った。
手が少し止まった。
何を書くか。
予定表。
注意事項。
保護区画B。
旧南第三一時受入室。
どれも違う気がした。
健二はしばらく考えた。
そして、上の方に大きく書いた。
八人の部屋
隊員がそれを見た。
「名前は書かないんですか」
「本人に書かせます」
「なるほど」
「うまく書けなくてもいい。自分で書いた方がいい」
健二はペンを置いた。
その下に、小さく書く。
痛い時は言う。
寒い時は言う。
怖い時は言う。
分からない時は分からないと言う。
書きながら、健二は少しだけ苦笑した。
直樹が言いそうなことばかりだった。
でも、今はこれでいい。
健二は最後にもう一行書いた。
番号だけで呼ばない。
書いてから、少し強すぎるかと思った。
だが、消さなかった。
この場所を作る理由は、それだった。
*
昼過ぎ、無線が入った。
隊員が受ける。
「旧南第三、第一便。どうぞ」
雑音の向こうから、相原の声がした。
「現地状況を報告しろ」
隊員が健二を見る。
健二はうなずいた。
「校舎一階、多目的室を子ども部屋に使用予定。床の抜けは今のところありません。窓は一部固いですが開きます。換気可能です。水道は使えません。トイレも仮設が必要です。発電機は外置きで設置中。医療用は保健室を使えますが掃除が必要です」
無線の向こうで少し間があった。
相原が言う。
「ずいぶん詳しいな」
隊員が少し笑いをこらえた。
健二は無線に向かって言った。
「運送屋ですから」
別の声が入った。
直樹だった。
「床下を見たか」
健二は少し顔をしかめた。
「兄ちゃん、そこにいるのかよ」
「見たか」
「まだ」
「一階の水回り側は沈む。古い学校なら配管周りが先に傷む」
「今から見ます」
「あと、窓の鍵を確認しろ。開く窓より、閉まらない窓が問題だ」
「分かった」
「夜に外へ出る子がいるかもしれない。怒って止めるな。出る前に気づける配置にしろ」
「もう考えてる」
「ならいい」
無線が一瞬静かになる。
相原の声が入った。
「こちらの無線を私用に使うな」
直樹が答える。
「警備助言だ」
「都合のいい言葉を使うな」
健二は思わず笑った。
その笑いで、少しだけ緊張が抜けた。
無線の向こうで、三枝の声もした。
「健二さん、子どもたちが部屋の様子を知りたがっています。可能なら、後で簡単に説明をお願いします」
「分かりました」
少し間があって、別の小さな声が入った。
「健二さん?」
悠斗だった。
健二は無線を見た。
「悠斗?」
相原の声が遠くで聞こえる。
「勝手に触るな」
悠斗の声が続いた。
「八人で行けそう?」
健二は部屋を見た。
八つのベッド。
毛布。
水。
靴。
ホワイトボード。
まだ足りない。
だが、言えることはあった。
「八人で寝られる場所は作ってる」
無線の向こうで、少しだけ沈黙があった。
それから、悠斗が言った。
「分かった」
蓮の声が遠くから聞こえた。
「変な場所じゃない?」
健二は答えた。
「今のところ、変な大人が作ってる場所だ」
無線の向こうで、誰かが笑った。
相原の声が戻る。
「通信終了。現地は作業を続けろ」
無線が切れた。
健二はしばらく無線機を見ていた。
見えない所にいても、声が届く。
それだけで、約束は少し強くなる。
*
床下を見るため、健二は廊下の点検口を探した。
古い校舎には必ずどこかにある。
保健室の近くの廊下に、四角い板を見つけた。
釘抜きで持ち上げる。
湿った空気が上がってきた。
懐中電灯で照らす。
床下は暗い。
水は溜まっていない。
だが、配管の周りに錆が出ている。
木材の一部が黒ずんでいた。
「ここは重い物を置かない方がいい」
健二は言った。
隊員が覗き込む。
「危ないですか」
「すぐ抜けるほどじゃないです。でも、子どもが走ったり、発電機を置いたりする場所じゃない」
「印をつけます」
「お願いします。ここは通路にしない方がいい」
健二は養生テープで床に印をつけた。
立入禁止、と書きかけてやめた。
禁止という言葉が強すぎる気がした。
代わりに書いた。
ここは通らない
少し変な日本語だ。
でも、子どもには分かる。
次に窓の鍵を確認する。
子ども部屋の窓は三つ。
一つは閉まる。
一つは固いが閉まる。
一つは鍵が壊れていた。
健二は壊れた鍵を見た。
外側からも押せば開く。
「これは駄目だ」
隊員が言う。
「板で塞ぎますか」
「全部塞ぐと、部屋が暗くなります。上だけ開けて、下を固定したい」
「できますか」
「応急なら」
健二は工具箱から結束バンドと紐を出した。
窓枠に残っている金具を使い、下側が開かないように固定する。
外から押しても、隙間は小さい。
換気はできる。
子どもが抜け出す隙間にはならない。
隊員が感心したように見る。
「慣れてますね」
「古い現場は、こういうのばっかりです」
「建築関係だったんですか」
健二の手が一瞬止まった。
「前は」
「今は運送屋」
「はい」
隊員はそれ以上聞かなかった。
健二は少しだけありがたかった。
昔の会社のことを話すには、まだ疲れすぎていた。
父親の代から続いた会社。
畳んだ看板。
守れなかった人たち。
残ったトラック。
それでも今、そのトラックではないが、荷物を運んでいる。
また場所を作ろうとしている。
それが救いなのか、罰なのか、まだ分からなかった。
*
午後の光が傾き始める頃、旧南第三小学校の一階は少しだけ変わっていた。
玄関前の泥は掃き出された。
子ども部屋にはベッドが八つ並んだ。
保健室には医療箱が置かれた。
職員室には地図と無線機が置かれた。
校庭の端では発電機が試運転を始めた。
音は低い。
少しうるさいが、我慢できる。
照明がついた時、隊員の一人が小さく声を上げた。
「おお」
廊下に明かりが入る。
暗かった校舎が、少しだけ学校に戻った。
健二は子ども部屋へ入った。
ホワイトボードを見る。
八人の部屋。
まだ名前はない。
空いている。
その空白が、今は怖くなかった。
これから本人たちが書くための空白だった。
健二は名札用の紙を机の上に置いた。
白い紙。
黒いペン。
安全ピンではなく、紐。
服に穴を開けなくていいように。
ただ、首から下げるのは危ない。
寝る時に絡むかもしれない。
だから、名札は体につけるのではなく、ベッドの横に下げる。
その子が寝る場所に、名前がある。
その子の体を、名前で縛らない。
健二はそう決めた。
その時、外から小型車の音が聞こえた。
後続の隊員ではない。
新しい車だ。
健二は窓から外を見る。
西側の車両だった。
相原ではない。
倉持でもない。
降りてきたのは、境界管理局の若い職員だった。
手に封筒を持っている。
隊員が対応する。
健二も玄関へ出た。
「何かありましたか」
若い職員は少し息を切らしていた。
「保護所から追加連絡です」
「相原一尉から?」
「はい。北側から第二報が入りました」
健二の胸が重くなる。
「何て」
職員は封筒を開け、紙を確認する。
「北側は、八名の移送に抗議しています。旧南第三小学校への移動は、拉致の継続および証拠隠滅にあたる可能性がある、と」
隊員が舌打ちしそうな顔をした。
健二は紙を見た。
また言葉だ。
拉致の継続。
証拠隠滅。
ただ寝る場所を作ろうとしているだけなのに。
子どもたちが番号で呼ばれずに眠れる部屋を作ろうとしているだけなのに。
それも、相手の紙の中では罪になる。
職員は続けた。
「相原一尉から伝言です。予定は変更しない。ただし、移送時刻を早める可能性がある。現地は受入可能状態を急げ、とのことです」
健二は子ども部屋を振り返った。
ベッドはある。
毛布もある。
水もある。
トイレはまだ。
仮設は来ていない。
窓の一つは応急固定。
保健室は掃除途中。
食事の準備も足りない。
まだ完全ではない。
だが、保護所に残せば、北側が毎日来る。
子どもたちはまた聞かれる。
また証明させられる。
健二は息を吸った。
「受け入れます」
隊員が健二を見る。
「まだ準備中です」
「分かってます。でも、ここを空のままにはしません」
若い職員が少し戸惑う。
「相原一尉には、何と」
「八人で寝られる部屋はできています。トイレは仮設待ち。水はあります。医療箱もあります。今夜だけなら、受けられます」
言ってから、健二は自分の言葉の重さに気づいた。
今夜だけなら。
それは簡単な言葉ではない。
夜になれば、子どもたちは怖がる。
眠れない子もいる。
泣く子もいるかもしれない。
外へ出ようとする子もいるかもしれない。
それでも、戻さないためには、今夜を越えなければならない。
職員はうなずいた。
「伝えます」
その時、無線が鳴った。
隊員が取る。
「旧南第三、どうぞ」
相原の声だった。
「真柴健二はいるか」
隊員が健二に無線を渡す。
「います」
健二は無線を受け取った。
「真柴です」
雑音の向こうで、少し間があった。
それから、直樹の声が入った。
「ケン」
健二の背筋が伸びた。
「兄ちゃん?」
「移送が早まる」
「どれくらい」
「夕方には出る」
健二は窓の外を見た。
もう午後の光は傾き始めている。
「早すぎる」
「ああ」
「でも、来るんだな」
「来る」
「八人で?」
「八人で」
健二は目を閉じた。
その言葉だけで、少し力が入った。
「分かった。受ける」
直樹は少し黙った。
そして言った。
「学校の門を開けておけ」
「開いてる」
「閉まらない門は?」
「片側が少し傾いてる。でも通れる」
「なら、子どもが入ったら閉めるな」
「閉めない?」
「閉めれば、施設に見える」
健二は門を見た。
古い鉄の門。
閉めれば、確かに囲いになる。
守るための門にもなる。
閉じ込めるための門にもなる。
「じゃあ、どうする」
「開けたまま、人を置け。逃げる子を止めるためじゃない。ここから出ても戻れると分からせるためだ」
健二は息を止めた。
ここから出ても戻れる。
それが、帰る場所かもしれない。
「分かった」
「あと、玄関に名前を書くな」
「何で」
「北側に見られる」
「じゃあ」
「中に書け。本人たちが見る場所に」
健二はホワイトボードを見た。
八人の部屋。
まだ空いている白い板。
「もう用意してる」
「ならいい」
無線の向こうで、少し雑音が入った。
直樹の声が続く。
「ケン」
「何だ」
「救ったと思うな」
健二は黙った。
黒崎の言葉が、直樹にも残っているのだと分かった。
それで救ったつもりか。
直樹は言った。
「今夜、眠れたら一つ進む。それだけだ」
健二は子ども部屋を見た。
八つのベッド。
八枚の毛布。
空白のホワイトボード。
「ああ」
「運べ」
「分かってる」
「今度は場所だ」
健二はゆっくり息を吐いた。
「分かってる」
無線が切れた。
健二はしばらく動かなかった。
それから、校庭へ出た。
門は開いている。
片側が傾いた古い鉄の門。
風で少し揺れて、軋む音を立てている。
健二は隊員に言った。
「門は閉めません」
隊員が驚く。
「防犯上は」
「人を置きましょう。閉めるより、その方がいいです」
「理由は」
健二は門を見た。
「閉めると、あの子たちはまた入れられたと思う」
隊員は何か言いかけて、黙った。
それから、うなずいた。
「分かりました。警備に伝えます」
健二は校庭を見た。
草の伸びた運動場。
止まった時計。
古い校舎。
開いた門。
まだ整っていない。
まだ安全とも言い切れない。
でも、ここに八人が来る。
今夜、ここで眠る。
それだけは、決まった。
健二はもう一度、校舎の中へ戻った。
子ども部屋に入り、ホワイトボードの前に立つ。
ペンを手に取る。
書くべきか迷った。
本人たちに書かせるつもりだった。
でも、最初に一つだけ、書いておきたい言葉があった。
健二は、八人の部屋の下に、小さく書いた。
ここでは名前で呼ぶ。
それだけ書いて、ペンを置いた。
夕方の光が窓から入る。
白いボードに、黒い文字が残る。
その文字を見ながら、健二は子どもたちを待った。
最初の一便は、もう荷物では終わらない。
次に来るのは、八人だ。
中原悠斗。
宮原美月。
笹原蓮。
浅野悠太。
佐伯千紘。
高瀬陸。
村瀬花音。
小野寺颯太。
この場所が帰り道になるかは、まだ分からない。
でも、門は開いている。
名前を書く場所もある。
健二は、窓の外の道を見た。
夕方の光の中、遠くで車の音が聞こえ始めた。




