表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/52

第十八話 走り届けた単車

## 第十八話 走り届けた単車


 子どもたちを乗せた車列が出た後、境界一時保護所は急に広くなった。


 さっきまで廊下には、子どもたちの足音があった。


 毛布を引きずる音。

 蓮が小さく文句を言う声。

 美月が痛いと言う声。

 颯太が、自分の名前に返事をするまでの短い間。


 それが消えた。


 残ったのは、無線の雑音と、発電機の音と、書類をめくる音だけだった。


 直樹は、元職員室の窓際に座っていた。


 右足は固定されている。

 左腕は吊られている。


 医療班からは、もう歩くなと言われていた。


 直樹は返事だけして、窓の外を見ていた。


 相原は机の上に地図を広げている。


 倉持は北側から提出された資料と、西側で作った受入記録を照合していた。


 三枝は、子どもたちの本人申告名を書いた紙を別の封筒に分けている。


 瀬田ハルは、その作業を見ていた。


 自分が持ち出した資料が、今は西側の机の上にある。


 安心していいのか、まだ分からない顔だった。


 無線が鳴った。


「旧南第三より境界一時保護所」


 相原が取る。


「こちら相原」


 雑音の向こうから、健二の声が聞こえた。


「八人、入りました」


 部屋の空気が、少しだけ緩んだ。


 三枝が小さく息を吐く。


 瀬田ハルは目を閉じた。


 倉持は眼鏡を外し、眉間を押さえた。


 相原は短く聞いた。


「状態は」


「疲れています。でも、八人でいます。部屋も使えます。名前札も作り始めました」


 直樹は窓の外を見たまま言った。


「八人か」


 相原が無線に向かって言う。


「八人で間違いないか」


 向こうで少し間があった。


 健二ではない声が入った。


「八人いる」


 陸だった。


 その声を聞いて、直樹は初めて少しだけ目を伏せた。


 相原は言った。


「了解した。そちらは旧南第三の受入を継続。こちらは保護所側の処理を続ける」


「兄ちゃんは?」


 健二の声だった。


 相原は直樹を見た。


 直樹は手を出し、無線を受け取った。


「いる」


「動いてないだろうな」


「座ってる」


「本当に?」


「今はな」


「今は、って何だよ」


「そっちを見ろ。こっちを見るな」


 無線の向こうで健二が黙った。


 それから、低く言った。


「戻ってこいよ」


 直樹は少し間を置いた。


「ああ」


「ちゃんと言ったな」


「言った」


「聞いたからな」


「しつこい」


 健二が小さく笑ったような音がした。


 通信は切れた。


 直樹は無線を相原に返した。


 相原が言った。


「兄弟そろって面倒だな」


「よく言われる」


「だろうな」


 その時、直樹は顔を上げた。


 窓の外。


 暗くなり始めた校庭の向こう。


 さっきまで聞こえていた鳥の声が、急に消えていた。


 相原が気づく。


「どうした」


 直樹は答えなかった。


 窓を開ける。


 外の空気が入ってくる。


 発電機の音。

 無線車両の低い振動。

 遠くの犬の声。


 いや。


 犬の声は、途中で止まっていた。


 直樹は言った。


「外周は何人出してる」


「二班。正面と裏の用水路側」


「戻りの時間は」


「まだだ」


「遅い」


 相原の顔が変わった。


「森谷の班が戻っていない」


 直樹は窓の外を見続けた。


「単車の音がする」


 相原が顔を上げる。


 遠くから、弱いエンジン音が近づいていた。


 速い音ではない。


 逃げる音だった。


 エンジンがうまく回っていない。


 ふらつきながら、それでもこちらへ向かってくる。


 相原が扉へ向かう。


「外へ出る」


 直樹も立とうとした。


 右足が遅れた。


 それでも、窓枠に手をついて立ち上がる。


 相原が言った。


「お前は残れ」


「見る」


「怪我人が見るものじゃない」


「見ないと遅れる」


 相原は舌打ちして、廊下へ出た。


 直樹も続いた。


 医療班の一人が言った。


「真柴さん、動かないでください」


 直樹は答えなかった。


     *


 単車は、保護所の正門を越えたところで大きく揺れた。


 乗っていた隊員は、最後まで車体を倒さないようにしていた。


 だが、校庭へ入った瞬間、単車ごと横へ崩れた。


 相原が走る。


「森谷!」


 若い隊員だった。


 外周斥候班の一士。


 森谷拓。


 倒れた体の下から、血が広がっていた。


 腹のあたりが黒く濡れている。

 肩にも傷がある。

 右手の指は、まだハンドルの形に曲がっていた。


 ここまで握ってきた手だった。


 ここまで倒れないようにした手だった。


 相原が膝をつく。


「森谷、聞こえるか」


 森谷は口を開けた。


 声にならない息が漏れる。


 直樹は近づき、森谷の顔を見る。


「話せるか」


 森谷の目が、直樹へ動いた。


 誰かを見たというより、声の方向を探したような目だった。


「正面……じゃ……ありません」


 相原が顔を近づける。


「どこだ」


「裏の……用水路……二人……いや、三人……」


 相原が無線を取る。


「外周二班、裏用水路側を確認」


 森谷が首をわずかに振った。


「違う……そっちは……見せる方です」


 相原の手が止まる。


「見せる方?」


 森谷は苦しそうに息を吸った。


「発電機……通信線……撃つって……聞こえました」


 倉持が外へ出てきた。


 三枝も続く。


 瀬田ハルは扉のところで止まっている。


 森谷は胸元の地図ケースを掴もうとした。


 手が震えて、うまく掴めない。


 直樹がその手に触れた。


「地図か」


 森谷は小さくうなずいた。


 直樹は防水ケースを外し、中の地図を抜いた。


 赤い鉛筆の印がいくつかある。


 正面門。

 発電機。

 裏用水路。

 通信線。


 そして、保護所の裏側へ向かう細い矢印。


 森谷の手で引かれたらしい線は、途中で止まっている。


 そこから先は、血でにじんでいた。


 相原が聞いた。


「人数は」


「見えたのは……十二……もっと……」


「所属は」


「分かりません……北の制服じゃ……ないのも……」


 森谷は血の混じった息を吐いた。


「無線で……先に撃たせろって……」


 その場の空気が変わった。


 相原の目が細くなる。


「こちらに先に発砲させる気か」


 直樹は地図を見たまま言った。


「境界の揉め事に見せたいんだろうな」


 森谷は、まだ何かを言おうとしていた。


 相原が止める。


「もういい。森谷、話すな」


 森谷は首を振った。


 声がほとんど出ていない。


「もう一組……見失いました……」


 直樹が聞く。


「どこで」


「用水路の手前……降りた後……散って……」


「車は」


「三台……一台は……灯りを消して……」


 森谷の呼吸が浅くなる。


 医療班が止血を試みている。


 だが、直樹には分かった。


 間に合わない。


 森谷自身も、分かっている顔だった。


 それでも、まだ目だけは動いていた。


 相原を探している。


 届いたかどうかを、確かめようとしている。


「報告……届きましたか」


 相原の喉が動いた。


「ああ。届いた」


 森谷の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 それから直樹の方へ目を動かした。


 直樹は短く言った。


「森谷拓」


 森谷の目が、少しだけ動いた。


「情報に感謝。伝令、ご苦労」


 森谷は、それで力が抜けたように見えた。


 次の息は、戻ってこなかった。


 相原はしばらく動かなかった。


 医療班が目を伏せる。


 三枝が口元を押さえた。


 瀬田ハルは扉のところで、両手を握りしめていた。


 直樹は森谷の地図を見ていた。


 正面。

 発電機。

 通信線。

 裏用水路。

 見失った一組。


 もし発電機を落とされれば、保護所は暗くなる。

 通信線を切られれば、旧南第三との声が途切れる。

 記録室を焼かれれば、八人の本人申告名も、受入の控えも、北側提出資料の欠落も、まとめて煙になる。


 森谷が持ち帰ったのは、情報だけではなかった。


 時間だった。


 燃やされる前の時間。


 切られる前の時間。


 消される前の時間。


 直樹は地図を相原に渡した。


「本命はまだ見えてない」


 相原は地図を見た。


「発電機と通信じゃないのか」


「それは見せる方だ。森谷は、もう一組を見失ったと言った」


「どこへ行く」


 直樹は校舎を見た。


「燃やせば一番困る場所だ」


 倉持の顔が変わった。


「記録室」


 その瞬間、外で短い銃声が二つ鳴った。


     *


 保護所の全員が顔を上げる。


 すぐに無線が荒れた。


「外周二班、接触! 発電機側、複数! 発砲あり!」


 相原の表情が変わった。


 さっきまでの、書類と照会を扱う顔ではなかった。


 施設を守る指揮官の顔だった。


「全隊、施設防衛に移行。発電機と通信を守れ。旧南第三方向への射線は禁止。繰り返す、旧南第三方向への射線は禁止」


 返答が重なる。


 相原は続けた。


「記録室前に二名。倉持、資料を箱へ。三枝、瀬田ハルを内側へ」


 倉持が顔を上げる。


「記録室ですか」


「念のためだ」


 直樹は言った。


「念のためでいい。急げ」


 倉持はすぐに動いた。


 北側提出資料。

 受入記録。

 本人申告名の封筒。

 瀬田ハルが持ち出した資料。

 共同確認の録音。


 全部が、箱に入れられていく。


 紙は軽い。


 だが、燃えれば終わる。


 三枝は瀬田ハルの肩に手を置いた。


「中へ」


 瀬田ハルはうなずく。


 だが、足が動かない。


 森谷拓の白い布から、目が離れない。


 三枝がもう一度言う。


「瀬田さん。今は資料を残すのが先です」


 瀬田ハルは唇を噛み、ようやく動いた。


 直樹は森谷の単車を見ていた。


 横倒しになった車体。

 泥のついたタイヤ。

 割れたミラー。

 まだ熱を持っているエンジン。


 森谷拓は、すぐそばに横たえられていた。


 医療班が白い布をかけようとしていた。


 相原が低く言った。


「森谷の装備には触るな」


 直樹は森谷の胸元を見た。


 チェストリグ。

 無線。

 予備弾倉。

 信号灯。

 腰の弾帯。

 小型ライト。

 短い刃。

 止血帯。


 森谷は、最後までそれを身につけていた。


「借りる」


 直樹は言った。


 相原の目が鋭くなる。


「それは森谷の装備だ」


「分かってる」


「お前に支給されたものじゃない」


「それも分かってる」


 直樹は森谷の顔を見た。


「返せるものは返す」


 相原は何も言わなかった。


 直樹は膝をつき、森谷のチェストリグの留め具を外した。


 乱暴には扱わない。


 遺体から剥ぎ取るのではなく、任務を引き継ぐように、ひとつずつ外す。


 左腕がうまく動かない。


 ベルトが肩で引っかかる。


 相原が無言で手を伸ばし、肩のベルトを引いた。


 直樹は少しだけ相原を見た。


「手伝うのか」


「装備を落とされると困る」


「そうか」


 腰の弾帯を巻く。


 重さが戻ってくる。


 嫌な重さだった。


 昔の重さ。


 銃の重さではない。


 人を名前ではなく、役割で見るための重さ。


 直樹は小さく息を吐いた。


「戻るな」


 相原が聞いた。


「何だ」


「こっちの話だ」


 直樹は森谷の無線を肩につけ、信号灯を腰へ移した。


 短い刃は、弾帯の左側にあった。


 抜かない。


 そこにあると確認するだけでよかった。


 相原が言った。


「お前、ただの民間人じゃないな」


 直樹は答えなかった。


「どうなんだ?」


「今は必要ない」


「必要だ。俺の施設の外に出す人間だ」


 直樹は単車を起こした。


 右足に痛みが走る。


 体が一瞬遅れた。


 それでも、車体を支える。


「昔、こういう場所を歩いたことがある」


「どこで」


「今は関係ない」


「関係ある。俺はお前に火力支援を出すかもしれない」


 直樹はそこで初めて相原を見た。


「なら、俺を信用するな」


「何?」


「森谷の報告と、外の動きだけを信用しろ。俺の言うことがそれと合ってる時だけ使え」


 相原はしばらく黙った。


 外でまた銃声が鳴る。


 今度は少し近い。


 直樹は言った。


「火力はあんたが決めろ。俺は、どこに神経があるかを見る」


「神経?」


「班長、通信手、破壊担当。そこを残すと、襲撃は続く」


「殺す気か」


 直樹は少しだけ間を置いた。


「止める」


「同じ意味になる時がある」


「分かってる」


 相原は無線を握りしめた。


「勝手に撃つな」


「撃つ前に言う」


「撃てない時は」


「別の手で止める」


 相原の目が鋭くなる。


「その別の手が問題だ」


 直樹は単車にまたがった。


「問題になる前に終わらせる」


 相原は短く言った。


「指揮権は渡さない」


「要らない」


「旧南第三方向へは絶対に撃たせない」


「当然だ」


「火力支援は限定する。照明弾、外周からの制圧、車両停止までだ」


「十分だ」


 相原は無線に向かって言った。


「外周三班、照明弾待機。こちらの合図まで撃つな。発電機側へは撃ち込むな。旧南第三方向への射線は禁止」


 返答が入る。


「了解」


 相原は直樹を見た。


「戻れるのか」


 直樹は答えた。


「戻る」


「なぜ言い切れる」


 直樹は暗い外周を見た。


「子どもに名前を呼ばれた」


 単車のエンジンが低く鳴った。


 直樹は正門へ向かわなかった。


 体育館裏の細い道へ出る。


 そこから、用水路へ回る。


 森谷拓の単車は、夜の中へ消えた。


     *


 直樹は途中で単車を止めた。


 エンジンを切る。


 急に夜の音が戻った。


 草の擦れる音。

 用水路の水。

 遠くの発電機。

 そして、人の低い声。


 前方に四人。


 一人は銃を持っている。

 一人は発電機の方を見ている。

 一人は通信機を肩にかけている。

 もう一人は何も持っていない。


 直樹は、その何も持っていない男を見た。


 男は撃たない。

 走らない。

 だが、他の三人が動くたびに、必ずそちらを見る。


 班長だ。


 直樹はすぐには撃たなかった。


 撃てば場所が割れる。


 それに、発電機の近くで弾を増やせば、相手も慌てて発電機へ撃ち込む。


 目的は倒すことではない。


 発電機を守ること。

 通信を切らせないこと。

 記録室へ向かう本命を探すこと。


 直樹は用水路の縁を使った。


 水路は浅い。


 だが、底に泥が溜まっている。


 足を入れれば音が出る。


 だから中には入らない。


 縁のコンクリートに、右足の外側だけを置く。


 左手は使えない。


 バランスは悪い。


 体重を少しでも間違えれば、水路へ落ちる。


 それでも、草むらを踏むよりは音が少ない。


 直樹は森谷の無線を押した。


「相原」


「何だ」


「発電機側、四人。撃っている奴は囮。通信手が一人。班長らしいのが一人」


「班長をどう見た」


「何も持っていない。なのに全員が目を向ける」


「確実か」


「確実じゃない。だが、あいつを止めれば四人は止まる」


 相原は一拍置いた。


「こちらからは見えない」


「照明弾を上げろ。ただし発電機の真上じゃない。用水路側だ」


「理由は」


「暗い方へ下がる奴がいる」


 相原は短く命じた。


「外周三班、照明弾。用水路側へ一発」


 数秒後、夜が白く割れた。


 光に照らされた男たちが、一斉に動いた。


 銃を持った男は発電機側へ走った。

 通信手は腰を落とした。

 何も持っていない男だけが、光の外へ下がろうとした。


 直樹は低く言った。


「当たりだ」


 照明弾の光が落ちる前に、直樹は二歩進んだ。


 痛みが右足首から膝へ上がる。


 息を止める。


 吸うと、体が揺れる。

 吐くと、足が沈む。


 だから、次の足場まで呼吸を止める。


 通信手が肩の機材に手を伸ばした。


 直樹はその時だけ、撃った。


 声ではない。

 腕でもない。

 通信機材を使えなくする場所。


 肩の機材が地面に落ちる。


 通信手が倒れる。


 直樹はすぐに草の影へ沈んだ。


 同じ場所にいれば、次は自分が撃たれる。


 銃を持った男が振り返る。


「おい!」


 返事はない。


 男は通信手の方へ一歩入った。


 その足が、用水路の泥を踏む。


 音がした。


 ぬちゃ、と鈍い音。


 直樹はその音で距離を測った。


 三歩。


 近い。


 もう撃たない。


 ここから先は、音を増やさない方がいい。


 銃を持った男が、さらに一歩近づく。


 直樹は、森谷の弾帯の左側にある短い刃へ指をかけた。


 森谷のものだった。


 だから、無駄には使えなかった。


 草が、一度だけ揺れた。


 男の声は出なかった。


 体だけが沈む。


 直樹は倒れた男を道の端へ引いた。


 顔を踏まれない位置へ。


 それから、落ちた通信機の電源を切った。


「悪いな」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


     *


 発電機側の騒ぎは続いていた。


 銃声が二つ。


 続いて、外周隊員の声。


「発電機側、押し返しています!」


 相原の声が無線に入る。


「直樹、状況」


「通信手を止めた。班長はまだいる」


「発電機側は囮か」


「たぶんな」


「本命は」


「まだ分からない」


 直樹は用水路の奥を見る。


 さっきの照明弾で、影が一つ逃げた。


 何も持っていなかった男。


 班長らしい男。


 だが、その男は発電機へ戻らなかった。


 用水路の奥、保護所の裏へ回っている。


 直樹は単車へ戻る。


 右足が痛む。


 痛みで、視界の端が白くなる。


 それでも乗った。


 森谷の単車は、まだ動く。


 細い道を抜ける。


 保護所の裏側へ。


 そこは、普段は物資搬入に使う裏口だった。


 古い給食搬入口。

 今は倉庫と記録室に近い。


 直樹は単車を降りた。


 エンジンを切る。


 暗闇の中で、人の声がした。


「通信が切れた。構わん。予定通りだ」


 直樹は動きを止めた。


 今の声は、発電機側ではない。


 記録室の裏。


 別働隊。


 直樹は声の方を見る。


 三人いた。


 一人は灯油の缶を持っている。

 一人は布の束を持っている。

 一人は他の二人より少し離れて立っている。


 離れている男は、銃の持ち方が甘い。


 泥もほとんどついていない。


 現場の人間ではない。


 だが、声だけが強かった。


「火を入れろ。騒ぎは発電機側で持たせる」


 直樹は無線を押した。


「相原」


「何だ」


「本命が見えた」


「どこだ」


「記録室裏。灯油を持った二人。指示役が一人」


 相原の声が低くなる。


「記録室か」


「今、本人が言った」


「対処可能か?」


「旧南第三方向ではない。だが、建物に近い」


「中には倉持と三枝がいる」


「だから、今止める」


 一瞬の沈黙。


 相原が言った。


「許可する。ただし、記録室へ撃ち込むな」


「了解」


 直樹は無線を切った。


 灯油を持った男が、記録室の窓へ近づく。


 布を持った男が続く。


 離れた男は、扉の方を見ていた。


 自分の手は汚さない立ち方だった。


 直樹は拳銃を抜かなかった。


 音が大きすぎる。


 ここで銃声が鳴れば、記録室の中が混乱する。


 倉持と三枝が扉を開けるかもしれない。


 そうなれば、人質になる。


 記録室の裏は狭かった。


 右は校舎の壁。

 左は給食搬入口の古いスロープ。

 足元には、雨で流れた砂利と泥。

 その奥に、窓の下へ続く低い段差がある。


 直樹は、その段差を使った。


 正面からは行かない。


 灯油を持った男は窓を見ている。

 布を持った男は灯油の缶を見ている。

 指示役の男だけが扉を見ている。


 誰も、低い段差の下を見ていない。


 直樹は腰を低くした。


 昔の呼吸になる。


 嫌な呼吸だった。


 撃つ前の呼吸。

 数える呼吸。

 人間を、名前ではなく役割で見る呼吸。


 泥に右膝をつける。


 左腕は体に固定する。


 使えないものは、ないものとして扱う。


 右手だけで進む。


 一歩。


 砂利が鳴りそうになる。


 止まる。


 男たちの声を待つ。


「早くしろ」


 指示役が言った。


 その声に隠して、直樹は次の一歩を出した。


 灯油を持った男が、窓枠に手をかける。


 その声は出なかった。


 缶が地面に落ちる。


 鈍い音がした。


 布を持った男が振り返る。


 直樹はもうそこに入っていた。


 短い音。


 それだけ。


 二人目も倒れた。


 離れていた男が、ようやく銃を上げた。


「誰だ」


 直樹は答えなかった。


 男が撃った。


 銃声が記録室の裏に響く。


 弾は壁に当たり、木片が飛ぶ。


 記録室の中から、倉持の声がした。


「何だ!」


 三枝の声もする。


「伏せて!」


 直樹は壁の影へ落ちる。


 男がもう一度撃つ。


 今度は当たらない。


 撃ち方が荒い。


 現場の撃ち方ではない。


 命令するために来た男だ。


 自分で撃つことには慣れていない。


 直樹は無線を押した。


「相原、記録室裏。銃声はこっちだ。中の人間を出すな」


「了解。記録室、扉を開けるな!」


 相原の声が保護所内に響く。


 離れていた男が、通信機を取り出そうとした。


 直樹はそれを見た。


 通信させない。


 命令させない。


 火を入れさせない。


 旧南第三へ行かせない。


 直樹は影から出た。


 男が銃を向ける。


 だが、遅い。


 直樹は間合いの中へ入っていた。


 銃声は鳴らなかった。


 男の体が壁に当たり、そのまま崩れた。


 直樹はしばらく動かなかった。


 灯油の匂いだけが残っている。


 記録室の窓は割れていない。


 火は入っていない。


 中にいる倉持と三枝は、生きている。


 それを確認してから、直樹は無線を押した。


「記録室裏、三名停止。火は入っていない」


 相原の声が返る。


「負傷は」


「中は無事。俺はまだ動ける」


「お前のことを聞いたんじゃない」


「なら、後で見ろ」


 相原は低く言った。


「正面が崩れた。残りが車両へ戻っている」


 直樹は顔を上げた。


「逃がすな。車が動けば、旧南第三へ向かう」


「車両停止を命じる」


「照明弾は正面じゃない。門の左奥だ」


「そこには誰もいない」


「逃げるなら、そこへ行く」


「確証は」


「班長を落とした。残った奴は、明るい方へは出ない」


 相原は一拍だけ黙った。


「外周三班、門左奥へ照明弾」


 夜が白く裂けた。


 光の端に、走る影が二つ浮いた。


 相原の声が飛ぶ。


「外周一班、車両を止めろ。旧南第三方向へ抜けさせるな」


 銃声が重なった。


 今度は西側の火力だった。


 長くは続かない。


 短く、抑えるための音。


 直樹は記録室裏から動き、単車へ戻った。


 正面へは行かない。


 敵が戻る車両の横へ回る。


 保護所の正面は、照明で白く照らされていた。


 玄関灯。

 外周灯。

 相原たちが上げた照明弾の残光。


 そのせいで、校庭の中央は明るい。


 だが、明るい場所の外側は逆に黒かった。


 校庭の左奥。

 古い倉庫の壁際。

 植え込みの影。


 そこに、黒いワゴンが一台、半分だけ隠れるように停まっていた。


 保護所の建物からは三十メートルほど。


 正門からは少し外れた位置。


 旧南第三へ続く道へ出るには、そこを抜けるのが一番早い。


 車は三台。


 一台はすでに前輪を撃たれて動けない。

 一台は方向転換しようとして、外周隊員に押さえられている。

 もう一台が、黒いワゴンだった。


 ワゴンの後ろに三つの影がある。


 運転席へ走る男。

 後部座席から無線を探す男。

 その二人へ、小さく手で指示を出している男。


 声は聞こえない。


 だが、二人が必ずその男を見る。


 現場の班長だ。


 直樹は倉庫の壁に体を寄せた。


 足元は泥だった。


 右足首が痛む。


 一歩ごとに、固定の中で腫れた部分がずれる。


 呼吸が乱れそうになる。


 それでも、音は立てない。


 泥を踏む時は、踵からではなく、足の外側から置いた。

 草の上ではなく、すでに誰かが踏んだ跡を踏む。

 小石は避ける。

 折れた枝は踏まない。


 単車は少し手前に倒してある。


 エンジンは切った。


 金属が冷える小さな音だけが残っている。


 直樹は無線を押した。


「相原、黒いワゴンの後ろ。命令を出している男がいる」


「見えない」


 相原の声は荒れていた。


 正面の照明が強すぎるのだ。


 明るい校庭の向こうにある黒いワゴンは、保護所側から見ると、ただの黒い塊にしか見えない。


 車の後ろにしゃがんでいる人間は、影に飲まれている。


「照明を切れ」


「何?」


「明るすぎる。そっちからは影が潰れて見えない」


「こちらも見えなくなる」


「三秒でいい」


 直樹はワゴンの後ろを見た。


 班長はまだ影の中にいる。


 照明がある限り、明るい校庭へは出ない。


 だが、一度暗くなれば、移動できると思って走る。


 人は、見えている光より、消えた光に反応する。


「今のままだと、あいつは車の影に残る。暗くなれば、旧南第三側の道へ走る」


「お前には見えるのか」


「俺は近い」


「危険すぎる」


「近いから、見える」


 相原は短く息を吐いた。


「照明、三秒落とせ」


 外周灯が落ちた。


 校庭が、急に黒くなる。


 白く浮いていた地面が消え、代わりに、建物の窓だけが薄く残った。


 一秒。


 ワゴンの後ろで、影が動いた。


 二秒。


 命令を出していた男が、車の後ろから低く走り出す。


 三秒。


 直樹はもう、その横へ回っていた。


 照明が戻る。


 白い光が校庭を叩いた時、男はまだ走っている途中だった。


 男が直樹に気づいた。


 遅い。


 男は腰の銃へ手を伸ばした。


 だが、足元は泥だった。


 走り出した勢いのまま、靴が少し滑る。


 直樹は正面から入らなかった。


 正面から行けば、銃が上がる。

 背後から行けば、声を出される。


 だから、男の右肩の外側へ入った。


 銃を抜く腕の外側。


 力が入りにくい角度。


 直樹は左腕を使わない。


 使えない。


 右手で男の上着を掴み、体を引くのではなく、横へずらした。


 男の膝が泥に落ちる。


 声が出かける。


 直樹はその口を塞がなかった。


 塞げば、もみ合いになる。


 代わりに、男の体をワゴンの後部へ押しつけた。


 金属に背中が当たる。


 鈍い音。


 男の息が詰まる。


 直樹はそのまま、男の手首を下へ落とした。


 銃は抜けない。


 男はまだ動こうとした。


 直樹は膝を入れなかった。

 殴らなかった。

 長く戦わなかった。


 泥の中へ、重心だけを落とした。


 男の足が滑り、体が沈む。


 直樹は襟を掴んだまま、男の顔が泥に埋まらない位置へ転がした。


 息はある。

 声は出ない。

 手は銃に届かない。


 それで十分だった。


 照明が完全に戻った時、命令を出していた男は立っていなかった。


 ワゴンの運転手は手を上げていた。


 もう一人は逃げようとして、西側の隊員に伏せさせられた。


 銃声は、少しずつ止んでいった。


     *


 夜が静かになったのは、明け方に近い時間だった。


 発電機は動いている。


 通信も生きている。


 記録室は燃えていない。


 ただ、保護所の窓はいくつか割れ、外周の土には弾痕が残っていた。


 相原は外で状況確認をしていた。


 倉持は記録室の前に座り込んでいる。


 箱に入れた書類を抱えていた。


 三枝は瀬田ハルのそばにいる。


 瀬田ハルは震えていた。


 だが、資料の入った封筒からは手を離していなかった。


 直樹は、森谷の単車の横に座っていた。


 チェストリグは外していない。


 弾帯もそのままだ。


 手が少し震えていた。


 痛みではない。


 古い震えだった。


 戻したくなかったものを、戻した震え。


 相原が近づいてくる。


「終わった」


 直樹は答えなかった。


「何人止めた」


 直樹は顔を上げない。


「知らんね」


「報告が要る」


「なら、そっちで数えろ」


 相原はしばらく黙った。


 直樹は低く言った。


「俺は、やるべき事をした」


 相原はそれ以上聞かなかった。


 代わりに、手に持っていた紙片を差し出した。


「記録室裏の男が持っていた」


 直樹は受け取った。


 古い校舎図の写しだった。


 赤い丸が三つある。


 発電機。

 通信室。

 記録室。


 森谷の報告では分からなかったもの。


 戦闘の前には断定できなかったもの。


 ここでようやく、分かった。


 相原が低く言った。


「境界の小競り合いに見せて、記録を焼くつもりだったか」


 倉持が、記録室の扉の前から言った。


「燃えていたら、ただの停電と混乱で処理されていたかもしれません」


 三枝が唇を噛む。


「子どもたちの証言も、本人申告名も、受入記録も」


 瀬田ハルが小さく言った。


「また、なかったことにされるところでした」


 直樹は紙片を相原へ返した。


「森谷が戻らなければ、間に合わなかった」


 相原は紙片を受け取った。


 手が、少しだけ強く握られる。


「記録に残す」


 直樹は言った。


「名前もな」


 相原は森谷の方を見た。


 医療班が白い布をかけている。


 朝の光が、その布の端に当たっていた。


「森谷拓」


 相原は言った。


「外周斥候班。一士。報告を持ち帰り、保護所防衛に寄与。戦死」


 直樹は目を閉じた。


 遠くで無線が鳴る。


 旧南第三からだった。


 健二の声が入る。


「こちら旧南第三。夜が明けました。八人います」


 相原が無線を取る。


「こちら境界一時保護所。八人の状態は」


「眠れた子もいます。眠れなかった子もいます。でも、八人います」


 直樹は顔を上げた。


 相原が無線を差し出す。


 直樹は少し迷ってから受け取った。


「ケン」


 無線の向こうで、健二の息が止まる気配がした。


「兄ちゃん? 何があった」


 直樹は答えなかった。


「今、そっちの無線、ずっと切れてた。相原一尉も出なかった。旧南第三には、保護所周辺で接触ってだけ来た。何があった」


「終わった」


「終わった、じゃ分かんねえよ。怪我は」


「増えてない」


「その言い方が一番信用できねえ」


「動いてる」


「それも信用できねえ」


 健二の声が少し荒くなる。


「戻ったか」


「まだ保護所だ」


「そういう意味じゃない。ちゃんと戻ってるのか」


 直樹は森谷の単車を見た。


 泥。

 血。

 割れたミラー。


 それでも、ここまで戻ってきた単車。


「戻ってる」


 健二は少し黙った。


「……誰か、やられたのか」


 直樹はすぐには答えなかった。


 森谷拓の白い布が、朝の光を受けている。


 相原が少しだけ目を伏せた。


 健二の声が低くなる。


「兄ちゃん」


「森谷拓」


「誰だ」


「外周の隊員だ。報告を届けた」


「生きてるのか」


 直樹は目を閉じた。


「届かせて、死んだ」


 無線の向こうで、健二が息を止めた。


 何かを言おうとして、言葉が出ない。


 直樹は続けた。


「八人の名前を焼かせないための報告だった」


 健二は長く黙った。


 それから、静かに言った。


「名前を一つ、預かったんだな」


「ああ」


「忘れるなよ」


「忘れない」


 健二はまた少し黙った。


「こっちは八人いる。名前札も作った。颯太も書いた」


「そうか」


「だから、そっちの名前も残せ」


「ああ」


 通信が切れた。


 朝の光が、保護所の窓に入ってくる。


 割れたガラスが、床の上で小さく光っていた。


 直樹は森谷のチェストリグの留め具を外した。


 ひとつずつ。


 借りたものを返すように。


 胸から外した時、体が急に軽くなった。


 だが、その軽さは安心ではなかった。


 戻してしまったものが、まだ体の中に残っている。


 直樹は森谷の装備を、白い布の横に置いた。


「返す」


 誰にともなく言った。


 相原が隣に立つ。


「全部は返らない」


「分かってる」


「お前もだ」


 直樹は何も言わなかった。


 相原は続けた。


「お前が何者かは、後で聞く」


「聞かなくていい」


「必要だ。俺の施設で、お前に火力支援を出した」


「そうか」


「そうだ」


 相原は直樹を見た。


「だが、今は先に感謝する」


 直樹は割れた窓の外を見た。


 夜は終わっていた。


 だが、帰り道が安全になったわけではない。


 名前を書いた部屋ができた。


 その名前を消そうとする手も、まだある。


 それでも、今朝は消されなかった。


 森谷拓が持ち帰った報告。

 相原の判断。

 倉持の箱。

 三枝の記録。

 瀬田ハルの証言。

 そして、旧南第三で眠ろうとしている八人の名前。


 直樹は、朝の光の中で静かに息を吐いた。


 軍人だった頃の手順は、まだ体に残っていた。


 嫌になるほど、残っていた。


 だが、戻る理由も残っている。


 子どもたちが、自分の名前を呼んだから。


 健二が、戻ってこいと言ったから。


 森谷拓が、報告を届けたから。


 直樹は窓の外を見た。


 境界の向こうは、まだ暗かった。


 それでも、旧南第三の方角だけは、少しずつ明るくなっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ