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第十九話 朝の名前

## 第十九話 朝の名前


 旧南第三小学校の朝は、静かだった。


 静かすぎるくらいだった。


 廊下の窓は、いくつか割れたまま板で塞がれている。

 校庭の端には、背の高い草が残っている。

 体育館の屋根は錆び、雨樋は途中で外れていた。


 それでも、朝は来た。


 窓の隙間から入った細い光が、多目的室の床を横に伸びている。


 その光の中で、八人が眠っていた。


 正確には、眠れている子と、眠れていない子がいた。


 中原悠斗は、一番入口に近い場所で横になっていた。


 眠っているように見えたが、完全には眠っていない。

 廊下で床が鳴るたびに、まぶたが少し動く。


 悠斗の視線は、何度も部屋の中を回った。


 一人。

 二人。

 三人。


 宮原美月は、毛布を胸の下までかけて眠っている。

 笹原蓮は、壁側で丸くなっている。

 浅野悠太は、耳の近くに自分の手を置いたまま寝ている。

 佐伯千紘は、村瀬花音の隣にいる。

 高瀬陸は、机の脚の向きを見たまま横になっている。

 小野寺颯太は、自分の名前札を握っている。


 八人。


 悠斗はそこで、ようやく少しだけ目を閉じた。


 部屋の入口の外では、健二が座っていた。


 背中を壁につけ、膝を立てている。

 眠ってはいない。


 古い二トントラックでここまで来てから、健二は一度も横になっていなかった。


 子どもたちの寝る場所を決める。

 窓を塞ぐ。

 水を置く。

 トイレまでの道を確認する。

 竹本たちが持ってきた毛布を分ける。

 名前札の紙を切る。

 鉛筆を削る。

 無線を聞く。


 やることは、いくらでもあった。


 それでも健二は、やることがある方がよかった。


 何もないと、保護所の方を考えてしまう。


 兄がいる。

 相原がいる。

 三枝がいる。

 倉持がいる。

 瀬田ハルもいる。


 そして夜の途中で、無線に銃声が混じった。


 健二は、その時、子どもたちの前では顔を変えなかった。


 変えないようにした。


 蓮が起きて「何の音だ」と言った。

 陸が「三回鳴った」と言った。

 悠太は耳を塞いで固まった。

 颯太は名前札を握ったまま、返事を忘れた。


 健二はその時、言った。


「外で何かあった。でも、ここには入れない」


 嘘ではなかった。


 全部は言わなかっただけだ。


 竹本が、廊下の向こうから戻ってきた。


 作業帽をかぶったまま、片手に古い魔法瓶を持っている。


「まだ起きとるとか」


 健二は小さく首を振った。


「寝たら、気づけない気がして」


「気づかんでよか時もある」


「子どもがいます」


「お前も人間たい」


 竹本はそう言って、魔法瓶を健二の横に置いた。


「湯。ぬるいけどな」


「ありがとうございます」


「礼は後でよか。朝になったら、飯を食わせる。学校の朝は、腹から始まるけん」


 健二は魔法瓶を見た。


 湯気はほとんど立っていなかった。


 それでも、温かかった。


 竹本は多目的室の方を見た。


「八人か」


「八人です」


「名前は」


「書きました」


「自分でか」


「はい」


 竹本は少しだけ口元を緩めた。


「なら、ここはまだ学校たい」


 健二は答えなかった。


 竹本は続ける。


「学校はな、机と黒板だけじゃなか。朝来て、名前呼ばれて、返事して、腹減ったと言える場所たい」


 健二は廊下の向こうを見た。


 暗い窓の向こうが、少しずつ白んでいる。


「ここを、そういう場所にできますかね」


 竹本は鼻で笑った。


「できるかじゃなか。やるかどうかたい」


 健二は少しだけ笑った。


「兄ちゃんみたいな言い方ですね」


「お前の兄ちゃんは、もっと怖かろうが」


「怖いです」


「なら、お前は怖くなか方で行け」


 健二は魔法瓶の蓋を開けた。


 ぬるい湯を少し飲む。


 胃の中に、ゆっくり熱が落ちた。


     *


 最初に起きたのは、高瀬陸だった。


 陸は起き上がると、何も言わずに部屋の中を見た。


 机が三つ。

 毛布が八枚。

 水の入ったペットボトルが六本。

 紙コップが九個。


 陸は眉を寄せた。


「水が足りない」


 健二は入口から顔を出した。


「おはよう」


 陸は健二を見た。


「水が六本です。八人いるから、足りません」


「今から増える」


「いつ」


「朝飯の前」


「何分後」


 健二は少し考えた。


「二十分以内」


 陸はうなずいた。


「分かりました」


 それだけ言って、陸は自分の名前札を見た。


 高瀬陸。


 少しだけ指で端を直す。


 名前札は、机の上に並べられていた。


 中原悠斗。

 宮原美月。

 笹原蓮。

 浅野悠太。

 佐伯千紘。

 高瀬陸。

 村瀬花音。

 小野寺颯太。


 陸が名前札の並びを見ていると、悠斗が起きた。


「全員いる?」


 陸が即答した。


「います」


 悠斗は自分でも数えた。


 八人。


 それから健二を見た。


「外は」


「朝になった」


「そうじゃなくて」


「分かってる」


 健二は部屋の入口に座った。


「外で怖いことはあった。でも、この部屋には入っていない」


 悠斗は黙った。


「直樹さんは」


「生きてる」


 悠斗の肩が、ほんの少し落ちた。


 安心したように見えた。


 でも、すぐにまた周囲を見る。


 自分の安心を確認するより、他の七人の反応を見ていた。


 健二はそれを見ていた。


 この子は、先頭に立たされすぎている。


 そう思った。


 健二は言った。


「悠斗」


「はい」


「今は、先頭じゃなくていい」


 悠斗の顔が少し固まる。


「でも」


「でも、は後でいい。朝飯の時、お前は最後じゃなくていい」


 悠斗は返事をしなかった。


 聞こえなかったのではない。


 意味を受け取る場所を探している顔だった。


 次に起きたのは、宮原美月だった。


 美月は体を起こす前に、自分の足を見た。


 それから、周囲の目を探した。


 誰も責めていないと分かってから、ゆっくり起き上がる。


「痛いか」


 健二が聞いた。


 美月は反射的に言いかけた。


「大丈……」


 そこで言葉が止まった。


 昨日、ホワイトボードに書いた文字が見えたからだ。


 痛い時は言う。


 美月は唇を結び、もう一度言った。


「少し痛いです」


 健二はうなずいた。


「分かった。朝飯の前に、座る場所を変えよう。足を伸ばせるところに」


 美月は小さくうなずいた。


 それから、自分の毛布をきれいに畳み始めた。


 一度畳んで、角がずれていることに気づき、もう一度直す。


 隣の蓮の毛布も、少しだけ直そうとした。


 その手を、蓮が寝たまま掴んだ。


「触んな」


 美月が手を引く。


「ごめん」


 蓮は目を開けた。


 寝起きの目ではなかった。


 ずっと起きていた目だった。


「外の音、まだする?」


 健二は答えた。


「今はしない」


「また来る?」


「分からない」


「分からないって何だよ」


「分からないことは、分からないって言うことにした」


 蓮は舌打ちした。


「大人のくせに」


「大人でも分からないことはある」


「役に立たねえ」


「そういう時もある」


 蓮は何かを言い返そうとしたが、やめた。


 床に落ちていた短い紐を拾い、指に巻きつける。


 ほどいて、また巻く。


 健二はそれを止めなかった。


 蓮は手を動かしている間だけ、声が荒くならなかった。


 浅野悠太は、少し遅れて起きた。


 目を開けても、しばらく動かない。


 健二は近づきすぎず、少し離れた場所から声をかけた。


「悠太。朝だ」


 悠太は健二を見なかった。


 窓の方を見ていた。


 板の隙間から、風が入っている。


 古い校舎が、朝の冷えた空気で小さく鳴った。


 きし、という音。


 悠太の肩が少し上がる。


 健二は言った。


「今のは窓。風で鳴った」


 悠太は、ゆっくりうなずいた。


 その後、耳を塞いでいた手を少しだけ下ろした。


「また鳴る?」


「鳴るかもしれない。でも、銃の音じゃない」


 悠太は床を見た。


 花音が、隣で起きていた。


 花音は何も言わず、床の埃に指を置いた。


 細い線を引く。


 窓。

 風。

 小さな波のような形。


 悠太はそれを見た。


 それから、ほんの少しだけ口を開けた。


「そういう音」


 花音はうなずいた。


 二人の会話は、それで終わった。


 佐伯千紘は起きると、まず花音の肩に毛布がかかっているかを見た。


 次に颯太の手を見る。


 颯太はまだ名前札を握っていた。


 千紘はそっと声をかける。


「颯太くん」


 返事はない。


「朝だよ」


 颯太の指が、名前札の角をこする。


 千紘は健二を見た。


 健二は首を横に振らなかった。


 近づきすぎるなという合図もしなかった。


 ただ、待った。


 颯太は目を開けた。


 天井を見る。

 窓を見る。

 千紘を見る。


 それから、自分の手の中の紙を見た。


 小野寺颯太。


 颯太は小さく息を吸った。


「……はい」


 誰も名前を呼んでいなかった。


 それでも、颯太は返事をした。


 千紘が少し笑った。


「おはよう」


 颯太はもう一度、名前札を見た。


「おはよう」


 その声は小さかった。


 でも、昨日より少しだけ早かった。


     *


 朝食は、給食室ではなく廊下で作った。


 給食室はまだ使えない。


 水道は一部だけ生きていたが、飲めるかどうか確認が必要だった。

 ガスは止まっている。

 電気は発電機頼りだった。


 竹本が、地元の大人を二人連れてきた。


 一人は米を持っていた。

 一人は古い鍋と、味噌を持っていた。


 健二が頭を下げる。


「すみません」


 米を持ってきた女が言った。


「子どもに食わせる米に、すみませんはいらん」


 竹本が頷く。


「あとで帳面には書け。誰が何を出したかは残す。善意も記録せんと、後で揉める」


 健二はその言葉に、少し驚いた。


 竹本は古い人間に見える。

 だが、ただの情だけで動いているわけではない。


 誰が何を出したか。

 誰が何を受け取ったか。

 それを残す。


 それは、健二が父親の会社で最後まで苦しんだ部分だった。


 健二の父親は、実の父ではなかった。


 母の再婚相手だった。


 血はつながっていない。

 だが、父は父として家にいた。


 現場には出る人だった。


 雨でも出る。

 重い物も持つ。

 若い職人が困っていれば、文句を言いながらでも手を貸す。

 仕事だけは、途中で投げない人だった。


 健二は、それを知っている。


 だから、父を簡単に悪く言えない。


 でも、品行方正な人ではなかった。


 酒も飲む。

 タバコも吸う。

 賭け事もする。

 口も荒い。


 昔の世界の匂いを、ずっと背中に残している人だった。


 背中の彫り物。

 欠けた小指。

 低い声。

 義理と筋で物事を決める目。


 父は、それを捨てたつもりだったのかもしれない。


 でも、考え方は残っていた。


 健二とは違いすぎた。


 筋を通せ。

 義理を欠くな。

 世話になった相手を切るな。

 家族なら分かれ。

 会社なら耐えろ。


 その言葉で、赤字も無理も家の中に流れ込んできた。


 健二は、名門高校へ行けるくらいには、まっすぐ生きようとしていた。

 書類も、約束も、説明も、信用も、全部必要だと思っていた。


 だから会社を畳んだ時、父の看板を下ろしたというより、父のやり方で誰かを守れるふりをやめたのだ。


 竹本が言った。


「何ぼーっとしとる」


 健二は顔を上げた。


「すみません」


「また言うた」


「癖です」


「それも帳面につけとけ」


 健二は少し笑った。


「何の帳面ですか」


「お前が背負いすぎた回数たい」


 竹本は鍋を置き、火を見た。


「家族も善意も、記録せんと重りになる。重りになったら、子どもが潰れる」


 健二は、その言葉を聞いて、しばらく何も言えなかった。


 竹本は、ただ米を炊く準備をしているだけだった。


 だが、健二には、その言葉が自分に向けられたもののように聞こえた。


     *


 朝食は、白い粥だった。


 具はほとんどない。


 少しの味噌。

 少しの塩。

 地元の人が持ってきた漬物を細かく切ったもの。


 それでも、湯気が立っていた。


 子どもたちは、廊下に並べた机の前に座った。


 悠斗は、いつものように最後に座ろうとした。


 健二が言った。


「悠斗、ここ」


 自分の隣を指す。


 悠斗は戸惑った。


「でも」


「今日は、最後じゃない」


 悠斗は部屋の中を見た。


 七人が座っている。


 美月は足を伸ばせる場所に座っていた。

 蓮は椀を睨んでいる。

 悠太は湯気を見ている。

 千紘は颯太の椀を少し手前へ寄せている。

 陸は椀の数を数えている。

 花音は箸袋の端に指で線を引いている。

 颯太は名前札を自分の膝の上に置いている。


 悠斗は、ゆっくり座った。


 健二はそれを見届けてから言った。


「食べよう」


 誰もすぐには箸を取らなかった。


 施設では、食べ始める合図があったのかもしれない。


 順番。

 番号。

 姿勢。

 許可。


 健二は一瞬、どう言えばいいか迷った。


 その時、竹本が廊下の向こうから言った。


「冷めるぞ」


 蓮が小さく言った。


「それだけかよ」


 竹本は言い返した。


「飯は冷めたらまずい。それ以上の理由がいるか」


 蓮は少し黙った。


 それから、椀を持った。


「いただきます」


 千紘が続いた。


「いただきます」


 颯太が遅れて言う。


「……いただきます」


 その声で、他の子も少しずつ箸を取った。


 悠太は、最初の一口を食べる前に、湯気を見ていた。


 花音が、箸袋に描いた線を見せる。


 湯気の形だった。


 悠太は、それを見てから粥を食べた。


「熱い」


 小さく言った。


 健二はうなずく。


「熱い時は言う」


 美月が少しだけ笑った。


「痛い時も」


「そう」


 健二が言うと、美月は自分の椀を両手で持った。


 蓮は粥を半分ほど食べてから、急に言った。


「これ、毎朝あるの?」


 健二は正直に答えた。


「分からない」


 蓮の眉が上がる。


「また分からないかよ」


「米が足りない。燃料も足りない。だから毎朝あるとは言えない」


「じゃあ何で食えって言うんだよ」


「今あるから」


 蓮は黙った。


 健二は続けた。


「今あるものを食う。足りない分は探す。嘘はつかない」


 蓮は椀の中を見た。


「探せんの」


「探す」


「誰が」


「俺も。竹本さんも。大人たちも」


「俺は?」


 健二は蓮を見た。


「食ってから考えろ」


 蓮は一瞬、怒った顔をした。


 でも、椀を置かなかった。


 もう一口食べた。


     *


 朝食の後、点呼をした。


 健二がやろうとしたのではない。


 陸が言った。


「確認した方がいいです」


 悠斗がうなずいた。


「八人いるか」


 蓮が嫌そうな顔をする。


「またかよ」


 千紘が静かに言った。


「でも、いるって分かる」


 花音は、床に八本の短い線を描いた。


 颯太は名前札を握った。


 健二は何も言わなかった。


 子どもたちが、自分たちで始めた。


 悠斗が最初に言う。


「中原悠斗」


「いる」


 自分で言って、自分で返事をした。


 それは少し変だった。


 でも、誰も笑わなかった。


 美月が続く。


「宮原美月」


「います」


 蓮は少し口を曲げた。


「笹原蓮」


 間が空く。


 竹本が廊下の向こうで見ている。


 蓮は小さく言った。


「いるよ」


 悠太は、少し時間がかかった。


「浅野悠太」


 窓が鳴る。


 きし、と音がした。


 悠太の肩が上がる。


 花音が床の線を指でなぞった。


 悠太はそれを見た。


「います」


 千紘が続く。


「佐伯千紘」


「います」


 陸ははっきり言った。


「高瀬陸」


「います。六人目です」


 蓮が小さく笑った。


「言わなくていいだろ」


「必要です」


「何で」


「数が合うから」


 蓮は、それ以上言わなかった。


 花音はしばらく黙っていた。


 千紘が待つ。


 誰も急かさない。


 花音は、床の八本線の七本目に指を置いた。


「村瀬花音」


 声は小さかった。


 でも、出た。


 千紘の顔が少し緩む。


 最後に、颯太が自分の名前札を見た。


 小野寺颯太。


 指で、文字をなぞる。


 健二は、胸の奥が少し痛くなるのを感じた。


 名前を言うだけなのに、颯太には時間がいる。


 誰かがそれを奪ったからだ。


 颯太は、ゆっくり口を開いた。


「小野寺、颯太」


 間があった。


 八人全員が、颯太を見ている。


 颯太は名前札を握ったまま言った。


「います」


 陸がすぐに言った。


「八人います」


 健二は目を伏せた。


 昨日、無線で陸が言ったのと同じ言葉だった。


 八人いる。


 それだけで、朝が少しだけ学校になった。


     *


 無線が鳴ったのは、そのすぐ後だった。


 健二は廊下の端に置いていた無線機へ向かった。


 子どもたちも、音に反応した。


 悠太は耳を塞ぎかけたが、途中で止める。

 陸は時計を見る。

 千紘は颯太の横へ寄る。

 悠斗は立ち上がりかけた。


 健二は手で制した。


「座ってていい」


 相原の声が入った。


「こちら境界一時保護所。旧南第三、応答願う」


 健二は無線を取る。


「こちら旧南第三。真柴健二」


「八人の状態は」


「朝食を取りました。今、点呼をしました。八人います」


「了解」


 相原の声は、いつもより少し低かった。


 疲れている。


 健二には分かった。


「兄は」


「生きている」


 その言葉だけで、健二の指から力が抜けた。


 相原は続けた。


「ただし、負傷は悪化している。医療班が見ている」


「話せますか」


「短くなら」


「お願いします」


 少しの雑音。


 それから、直樹の声が入った。


「ケン」


 健二は息を吐いた。


「兄ちゃん」


「八人は」


「いる」


「飯は」


「食べた」


「米は」


「少ない」


「燃料は」


「もっと少ない」


「竹本は」


「いる」


「なら、今日一日は持つ」


 健二は少し笑いそうになった。


「兄ちゃん、こっちの確認ばっかりだな」


「お前は?」


「俺?」


「寝たか」


 健二は少し黙った。


「座ってた」


「寝てないんだな」


「兄ちゃんに言われたくない」


「俺は怪我人だ」


「怪我人は寝ろよ」


 無線の向こうで、直樹が少し息を漏らした。


 笑ったのかもしれない。


 蓮が立ち上がった。


「直樹さんか」


 健二は無線を少し離そうとしたが、蓮は近づいてきた。


「おい」


 健二が小さく言う。


「おい、じゃない」


 蓮は無線に向かって言った。


「痛いのか」


 少し間があった。


 直樹の声が返る。


「痛い」


「弱いな」


「そうだな」


「座ってろよ」


「座ってる」


「本当かよ」


「今はな」


 蓮は顔をしかめた。


「それ、健二さんにも言ってたぞ」


「使い回しだ」


 蓮は少しだけ笑った。


 それから無線から離れた。


 悠太は、まだ少し耳を塞いでいた。


 でも、直樹の声を聞いていた。


 颯太は自分の名前札を握ったまま、小さく言った。


「直樹さん、生きてる」


 千紘がうなずいた。


「うん」


 健二は無線に戻った。


「兄ちゃん」


「何だ」


「そっちは」


 直樹は少し黙った。


 その沈黙で、健二は何かあったことを察した。


 相原が代わって話した。


「昨夜、保護所は襲撃を受けた。発電機、通信、記録室が狙われた」


 健二は子どもたちを見た。


 全員がこちらを見ている。


 隠せる空気ではなかった。


「記録は」


「無事だ」


 健二は目を閉じた。


 八人の名前。

 本人申告名。

 証言。

 受入記録。


 消されなかった。


 相原は続けた。


「外周斥候班の森谷拓一士が、報告を持ち帰った。森谷の報告がなければ、間に合わなかった」


 健二は、無線を握る手に力を入れた。


 子どもたちは黙っている。


 陸が小さく言った。


「森谷拓」


 千紘がその名前を聞き返すように口の中で動かした。


 森谷拓。


 颯太は名前札を見た。


 名前がある人が、死んだのだと分かったのかもしれない。


 健二は相原に聞いた。


「森谷さんは」


 相原は答えるまでに少し時間を置いた。


「戦死した」


 廊下が静かになった。


 竹本も、地元の大人たちも黙った。


 健二は無線を持ったまま、子どもたちの方を向いた。


 ここで、何と言えばいいのか。


 怖いことはあった。

 でも、ここには入れていない。


 それは言えた。


 でも、誰かが死んだことは。


 子どもに言っていいのか。


 健二は、自分の母親の声を思い出した。


 家族なんだから分かりなさい。

 子どもなんだから黙っていなさい。

 お金がないんだから我慢しなさい。

 心配してるから怒ってるの。


 言葉はいつも、途中で形を変えた。


 味方の時は心強かった。

 外に向かって怒ってくれる時は、頼もしかった。


 でも家の中では、気分で法律が変わった。


 健二は、子どもにそういう大人になりたくなかった。


 だから、言葉を選んだ。


「森谷拓さんという人がいた」


 八人が健二を見る。


「その人が、保護所まで知らせを届けた。何が起きていたのか、ここにいる俺には全部は分からない。でも、相原さんは、その知らせがなければ間に合わなかったと言った」


 健二は一度、無線機を見た。


「保護所では、発電機と通信と記録室が狙われた。君たちの名前が入った記録は、無事だった」


 美月が毛布の端を握った。


 蓮が低く聞く。


「死んだの」


 健二は頷いた。


「亡くなった」


 蓮の顔が歪む。


「何で」


「知らせを届けるために、戻ってきた」


「頼んでない」


 蓮の声が荒くなる。


「俺たち、頼んでない」


 誰も責めなかった。


 健二は言った。


「そうだな」


「頼んでないのに死ぬなよ」


「そうだな」


 蓮は立ち上がり、廊下の壁を蹴ろうとした。


 でも、蹴らなかった。


 代わりに、床に落ちていた紐を強く握った。


 千紘が小さく言った。


「名前、残した方がいいです」


 健二が見る。


「森谷拓さんの名前」


 千紘は自分の声に少し驚いたようだった。


 でも、続けた。


「忘れたら、また番号みたいになる」


 陸がすぐに言った。


「九人目ではありません」


 蓮が睨む。


「何だよそれ」


「この部屋は八人です。でも、記録に残す名前は増えます」


 蓮は何も言えなかった。


 花音が、床の八本線の少し外側に、一本だけ短い線を描いた。


 八人の線とは離れている。


 でも、同じ方向を向いている。


 悠太はそれを見た。


「遠い音」


 花音がうなずいた。


 健二は、ホワイトボードの前に立った。


 昨日、そこにはこう書いた。


 ここでは名前で呼ぶ。

 痛い時は言う。

 寒い時は言う。

 怖い時は言う。

 分からない時は分からないと言う。

 番号だけで呼ばない。


 健二は、下に一行足した。


 森谷拓さんの名前も、忘れない。


 書いた後、少し迷った。


 さん、でいいのか。

 一士、と書くべきか。

 戦死、と書くべきか。


 でも、ここは旧南第三だった。


 子どもたちが朝を迎える場所だった。


 だから、健二はそのままにした。


 森谷拓さん。


 名前として残す。


     *


 昼前、保護所から車が一台来た。


 護衛は少ない。


 だが、相原の部下がついていた。


 車から降りてきたのは、三枝と倉持と瀬田ハルだった。


 三枝は疲れた顔をしていた。


 倉持は書類箱を抱えている。

 瀬田ハルは、片手に封筒を持っていた。


 健二が迎えに出る。


「無事でしたか」


 三枝が頷く。


「記録は無事です。全てではありませんが、必要なものは残りました」


 倉持が箱を抱え直す。


「ただし、ここへ写しを分散します。同じ場所に置くのは危険です」


 健二は頷いた。


「分かりました。保管できる場所を作ります」


 瀬田ハルは校舎を見ていた。


 旧南第三小学校。


 古い。

 壊れている。

 完全な場所ではない。


 それでも、子どもたちの靴が廊下に並んでいた。


 毛布が干してある。

 水の入った容器が置かれている。

 ホワイトボードに名前がある。


 瀬田ハルは、その文字を見た。


 中原悠斗。

 宮原美月。

 笹原蓮。

 浅野悠太。

 佐伯千紘。

 高瀬陸。

 村瀬花音。

 小野寺颯太。


 そして、その下。


 森谷拓さんの名前も、忘れない。


 瀬田ハルの目が止まった。


「森谷さんの名前も」


 健二は言った。


「子どもたちが残した方がいいと言いました」


 三枝が目を伏せる。


 倉持は何も言わなかった。


 瀬田ハルは、ホワイトボードの前に立った。


 しばらく見てから、言った。


「第七では、大人の名前は残りませんでした」


 健二が見る。


「職員番号はありました。担当表もありました。でも、名前はあまり残りませんでした。子どもも、大人も、役割で呼ばれていました」


 瀬田ハルは、小さく息を吸った。


「ここでは、残るんですね」


 健二は答えた。


「残します」


 竹本が横から言った。


「消したら、わしがまた書く」


 瀬田ハルは少し驚いた顔をした。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


「では、消えにくいペンが必要ですね」


 竹本が頷く。


「倉庫にある。たぶんな」


 蓮が廊下の向こうから言った。


「たぶんかよ」


「探せ」


「俺が?」


「文句言う口があるなら、手も動く」


 蓮は顔をしかめた。


 でも、立ち上がった。


「どこだよ」


「用務員室」


「案内しろよ」


「案内じゃなか。お前が覚えろ」


 蓮は文句を言いながら、竹本の後についていった。


 相原の支援がどういう形になるかは、まだ分からない。

 だが、蓮はもう、ただ守られるだけの子ではなくなり始めていた。


 美月は、瀬田ハルの鞄を見ていた。


「重いですか」


 瀬田ハルが振り向く。


「少し」


「置く場所、作ります」


 美月はそう言って、廊下の端の机を動かそうとした。


 健二が止める。


「足」


 美月は止まった。


「痛い時は」


「言う」


「じゃあ、どうする」


 美月は少し考えた。


「誰かに頼む」


 健二はうなずいた。


 美月は陸を見た。


「高瀬くん、机、少しだけ動かせる?」


 陸は机の脚と床を見た。


「二十センチなら」


「お願いします」


「分かりました」


 瀬田ハルは、そのやり取りを見ていた。


 子どもに命令しているのではない。

 子どもが、自分で頼んでいる。


 第七とは違う。


 瀬田ハルは、初めて旧南第三の廊下に、自分の足で立っている気がした。


     *


 午後、三枝は健二に言った。


「今後、八人の行き先を考える必要があります」


 健二は頷いた。


 分かっていた。


 ここは、永遠に八人を置いておく場所ではない。


 だが、急いで出す場所でもない。


 三枝は続ける。


「親族の確認、戸籍の照合、本人申告、北側資料との矛盾、西側での保護認定。全部、時間がかかります」


 倉持が言う。


「それと、親族が見つかっても、即時引き渡しとは限りません」


 健二は倉持を見た。


 倉持は書類箱の蓋に手を置いたまま言った。


「家族だから安全とは言えません」


 その言葉に、健二は少しだけ黙った。


 自分の中の古い家の匂いが戻る。


 父親の低い声。

 母親の高い声。

 金の話。

 家族の話。

 恩の話。

 義理の話。


 全部が混ざって、逃げ道を塞いでいく感じ。


 健二は言った。


「はい」


 三枝が健二を見る。


 健二は続けた。


「血がつながっているかだけでは、見ない方がいいと思います」


「理由は」


 健二は少しだけ迷った。


 自分の話をする必要があるのか。


 でも、言わなければ伝わらないこともある。


「俺の父は、実の父ではありません」


 三枝は黙って聞いた。


「母の再婚相手でした。現場には出る人でした。雨でも出る。重い物も持つ。若い職人が困っていれば、文句を言いながらでも手を貸す。仕事だけは、途中で投げない人でした」


 健二はそこで、少し言葉を切った。


「でも、品行方正な人ではありません。酒も飲む。タバコも吸う。賭け事もする。口も荒い。昔の世界の匂いを、ずっと背中に残している人でした」


 健二は廊下の奥を見た。


 蓮が用務員室から何かを見つけて、竹本に文句を言っている。


「背中の彫り物も、欠けた小指も、俺は見ています。あの人は、それを捨てたつもりだったのかもしれません。でも、考え方は残っていました」


 健二は続けた。


「筋を通せ。義理を欠くな。世話になった相手を切るな。家族なら分かれ。会社なら耐えろ。そういう言葉で、無理を通す人でした」


 倉持が少し目を細める。


 三枝は何も言わない。


「俺とは、違いすぎました」


 しばらく、誰も話さなかった。


 廊下の向こうから、蓮の声だけが聞こえる。


「これ、使えんのかよ」


 竹本の声が返る。


「使えるかどうか見るのが先たい」


 健二はその声を聞きながら、三枝を見た。


「悪人かどうかだけでは分からないんです」


 三枝は黙って聞いていた。


「守る気がある人でも、子どもに我慢ばかりさせる家はあります。飯はある。でも、怖いと言えない。布団はある。でも、名前で呼ばれない。家族だから、世話になったんだから、金がないんだからって言葉で、黙らされる家もあります」


 三枝は目を伏せた。


 健二は続けた。


「だから、帰すなら見たいです」


「何をですか」


「その子が、そこで普通に朝を迎えられるかです。名前を呼ばれて、飯を食べて、痛い時は痛いと言えて、怖い時は怖いと言えるか。家族かどうかより、まずそこを見たいです」


 三枝はゆっくり頷いた。


「分かりました」


 倉持が書類箱を軽く叩く。


「では、確認項目に入れましょう。生活環境、呼び方、食事、寝具、医療、通学の見込み、金銭負担の押しつけがないか、本人が困った時に連絡できる相手がいるか」


 健二は倉持を見た。


「連絡できる相手」


 倉持は眼鏡を直した。


「はい。帰した後に、そこしか場所がない状態にしないためです」


 三枝が続けた。


「戻って相談できる場所も必要ですね。親族の家へ行ったら終わり、ではなく」


 健二は、旧南第三の廊下を見た。


 名前札。

 毛布。

 水の置き場所。

 開いた門。


「それなら、ここも残しておく必要がありますね」


 倉持は頷いた。


「はい。帰すためではなく、戻って確認できる場所として」


 健二は少しだけ息を吐いた。


 逃げる場所。

 戻れる場所。

 確認できる場所。


 言い方が変わるだけで、背負い方も変わる気がした。


     *


 夕方、直樹からもう一度無線が入った。


 今度は短かった。


「ケン」


「兄ちゃん」


「こっちは今日、動けない」


「分かってる」


「明日も怪しい」


「知ってる」


「勝手に動くな」


「どの口が言ってるんだよ」


 無線の向こうで、少し間があった。


「俺の口だ」


「説得力がない」


「旧南第三を見ろ」


 健二は廊下の向こうを見た。


 美月が毛布を畳んでいる。

 蓮が用務員室から出したロープを竹本に見せている。

 悠太が古い音楽室の前で足を止めている。

 花音がその横に立っている。

 千紘が三枝の持ってきた書類箱に布をかけている。

 陸が水の本数と人数を書いている。

 颯太がホワイトボードの自分の名前を見ている。

 悠斗が、全員の位置を確認してから、ようやく窓際に座った。


 八人いる。


「見てる」


 健二は言った。


 直樹の声が返る。


「そこは、お前の会社じゃない」


 健二は少し黙った。


「分かってる」


「一人で背負うな」


 健二は返事に詰まった。


 直樹は続けた。


「背負う場所にしたら、また潰れる」


「……うん」


「残す場所にしろ」


 健二はホワイトボードを見た。


 名前が並んでいる。


 ここでは名前で呼ぶ。


 森谷拓さんの名前も、忘れない。


「兄ちゃん」


「何だ」


「ここは、俺たちの拠点になるのかな」


 直樹は少し黙った。


 それから言った。


「違う」


 健二は少し意外だった。


「違うのか」


「ここは、残る場所だ」


「残る場所」


「俺たちは動く」


 健二は窓の外を見た。


 夕方の光が、校庭の草に当たっている。


 竹本が門のところに立っていた。


 門は閉まっていない。


「また、運ぶのか」


「たぶんな」


「どこへ」


「帰れない奴のところへ」


 健二は無線を握った。


 旧南第三を作り始めたばかりなのに、もう次の道の話をしている。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 ここを背負って動けなくなるより、ここが残ってくれる方がいい。


 健二は言った。


「じゃあ、ここは誰が見る」


「見たい奴が見る」


「無責任だな」


「違う。手放す練習だ」


 健二は少し笑った。


「兄ちゃんがそれ言うか」


「言ってる俺が一番怪しい」


「知ってる」


 無線の向こうで、直樹が少し息を吐いた。


「ケン」


「何」


「門は閉めるな」


 健二は校門を見た。


 竹本が、まるでその言葉を聞いていたように門の横へ立っている。


「分かってる」


「閉めたら、施設になる」


「開けたままだと、危ない」


「人を置け」


「竹本さんがいる」


「なら、しばらく学校だ」


 通信はそこで切れた。


 健二は無線を置いた。


 廊下に、子どもたちの声が少しずつ戻り始めている。


 大きな声ではない。


 笑い声でもない。


 でも、誰かが誰かの名前を呼ぶ声だった。


「美月」


「蓮くん」


「陸」


「花音ちゃん」


「颯太くん」


 そのたびに、誰かが返事をした。


 健二はホワイトボードの前に立った。


 文字を見た。


 ここでは名前で呼ぶ。


 その下に、もう一行を書き足すか迷った。


 考えて、やめた。


 まだ増やす必要はない。


 今日は、これでいい。


 八人が八人として朝を迎えた。


 森谷拓の名前も残った。


 旧南第三小学校は、まだ壊れた校舎だった。


 米も足りない。

 燃料も足りない。

 窓も割れている。

 記録を狙う者もいる。

 家族の元へ帰せば終わるわけでもない。


 それでも、ここには名前があった。


 健二は廊下の先を見た。


 開いた門の向こうに、夕方の道が伸びている。


 帰り道は、ここで終わるわけではない。


 でも、ここから始めることはできる。


 旧南第三小学校の門は、その日も閉まらなかった。


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