第二十話 米の匂い 改正版
## 第二十話 米の匂い
米の匂いは、校舎の中をゆっくり進んだ。
廊下を曲がり、階段の下を抜け、板で塞がれた窓の前を通り、多目的室の入口まで届く。
昨日の朝より、少し濃い匂いだった。
粥ではない。
今日は、米が粒の形を残していた。
笹原蓮が、廊下に顔を出した。
「飯?」
竹本が鍋の前で言った。
「犬より早か」
「犬じゃねえし」
「腹減っとる顔は同じたい」
蓮は言い返そうとして、やめた。
鍋から立つ湯気を見たからだった。
白い米の匂い。
施設では、食べ物に匂いがあることの方が少なかった。
配給食は、温度も味も決まっていた。
腹に入ればいいものとして出されていた。
でも、これは違った。
米が炊ける匂いだった。
蓮は、鍋の横に置かれた薪を見た。
「これ、何で炊いてんの」
竹本は火の具合を見ながら答えた。
「廃材」
「ガスじゃないのかよ」
「ガスは止まっとる。電気は発電機。燃料は少なか。米炊くくらいで使えん」
「じゃあ、毎回これ?」
「今はな」
「今は、ばっかりだな」
「今が続けば、明日になる」
蓮は、よく分からない顔をした。
でも、鍋の前から離れなかった。
多目的室の中では、高瀬陸が昨日からの物資を数えていた。
紙に、鉛筆で表を書いている。
米。
水。
味噌。
塩。
毛布。
薬。
燃料。
電池。
紙コップ。
それぞれの横に、数字が並ぶ。
陸の字は小さいが、まっすぐだった。
健二が覗き込む。
「もう書いたのか」
「はい」
「誰に頼まれた?」
「足りないからです」
健二は少し笑った。
「それは理由になるな」
陸は表から顔を上げない。
「米は、今朝使った分を引くと、八人と大人五人で二日分です」
「大人五人?」
「健二さん、竹本さん、三枝さん、倉持さん、瀬田さん」
「相原さんの隊員は?」
「外で食べるなら別です。ここで食べるなら、一日半になります」
健二は黙った。
陸は続ける。
「燃料はもっと少ないです。発電機を夜だけ回しても、三日以内に止まります」
「三日以内」
「はい。窓の板を直すなら、工具の電気も使います。水を汲み上げるなら、さらに減ります」
健二は、廊下の向こうを見た。
壊れた校舎。
名前札。
毛布。
八人。
二日分の米。
三日分もたない燃料。
学校らしく見え始めたばかりなのに、数字はもう現実を突きつけてくる。
陸は鉛筆を置いた。
「足りません」
健二は頷いた。
「分かった」
「どうしますか」
「探す」
「どこで」
「それを今から考える」
陸は少し不満そうに眉を寄せた。
「考える前に、必要量を出した方がいいです」
健二は、陸を見た。
十歳の顔だった。
でも、目は紙の上の数字を正確に追っている。
「出せるか」
「人数が変わらなければ」
「頼む」
陸はすぐに鉛筆を持った。
「一日三食にしますか」
健二は少し迷った。
施設から来たばかりの子どもに、最初から減らす話をしたくなかった。
だが、嘘をつく場所にはしないと決めた。
「朝と夜は必ず。昼は軽くてもいい。ただし、子どもは抜かない」
陸はうなずいた。
「大人は?」
健二は答えた。
「後で考える」
陸は鉛筆を止めた。
「それは、よくないです」
「何で」
「大人が倒れたら、子どもが困ります」
健二は一瞬、言葉を失った。
廊下の入口で、宮原美月がこちらを見ていた。
美月は昨日より少し顔色が良い。
それでも、立つ時には壁に手をついている。
「大人も食べた方がいいです」
美月が言った。
健二は振り返る。
「聞いてたのか」
「聞こえました」
「ごめん」
「謝ることじゃないです」
美月はそう言って、自分の腕にかけていた布を見た。
昨日、瀬田ハルの鞄を置く場所を作った後、美月は廊下の端を片づけ始めた。
誰に命じられたわけでもない。
ただ、物の置き場所が決まると落ち着くのだ。
「食べる人が決まっていないと、片づける場所も決まりません」
陸がすぐに言った。
「人数表に大人も入れます」
美月は頷いた。
「お願いします」
健二はそのやり取りを見ていた。
昨日まで番号だった子どもたちが、今日、米の数と机の位置を話している。
それは小さなことのようで、健二には大きかった。
生きる話になっている。
*
朝食の時、悠斗はまた最後に座ろうとした。
健二は何も言わなかった。
代わりに、千紘が言った。
「悠斗くん、そこ空いてる」
健二の隣ではない。
窓側でもない。
真ん中に近い席だった。
悠斗は少し困った顔をした。
真ん中に座ると、全員が見えにくい。
入口も遠い。
何かあった時に、すぐ動けない。
悠斗の目が、部屋を一周する。
陸が言った。
「八人います」
悠斗は陸を見る。
「まだ何も言ってない」
「顔が数えていました」
蓮が吹き出した。
「顔が数えてたって何だよ」
陸は真面目に言った。
「そう見えました」
悠斗は少しだけ困ったように笑った。
それから、真ん中の席に座った。
健二は何も言わなかった。
言葉で褒めると、悠斗はまた役割にしてしまう気がしたからだ。
浅野悠太は、湯気を見ていた。
花音が、紙の端に線を描いている。
昨日の湯気より、今日は少し太い線だった。
悠太が小さく言った。
「今日は、丸い音」
蓮が眉をひそめる。
「米に音なんかあるかよ」
悠太は答えなかった。
花音が、箸袋の裏に丸い線を足した。
蓮はそれを見て、余計に分からない顔をした。
「変なの」
悠太は少し肩をすくめた。
怒ってはいない。
花音も怒っていない。
蓮だけが、自分の言葉が届かなかったような顔をして、椀の中を見た。
食事が始まる。
今日は、昨日より早く箸が動いた。
颯太は、椀の横に名前札を置いている。
小野寺颯太。
食べている途中でも、時々その文字を見る。
千紘が気づいて、名前札が濡れないように少しだけ遠ざけた。
颯太は一瞬、顔を強張らせた。
千紘がすぐに言う。
「ここ。見えるところ」
颯太は、名前札を見た。
ちゃんと見える。
それで、少しだけ肩の力が抜けた。
健二はその様子を見ていた。
何かを取り上げる時は、代わりに見える場所を作る。
それだけで、反応が変わる。
施設では、そういう小さな手順が消えていたのだと思った。
食べ終わる頃、竹本が言った。
「米を取りに行く」
廊下の空気が変わった。
健二が顔を上げる。
「どこへですか」
「古い集荷場。山側にある。昔の農協の倉庫たい」
倉持がすぐに聞いた。
「在庫があるんですか」
「少しはな」
「記録は」
竹本はにやりとした。
「あるけん、お前らが喜ぶ」
倉持は少しだけ眉を上げた。
竹本は続ける。
「ただ、今は誰のもんか分からん米が混ざっとる。持ち主が避難した分。亡くなった分。戻ってこん分。地元で預かっとる分。そこに、回収屋が目をつけとる」
健二の表情が変わる。
「回収屋」
「まだ来とらん。でも来る。米の匂いは、人間より先に広がる」
三枝が言った。
「西側の配給は」
倉持が答える。
「申請中です。ただ、境界保護所が襲撃されたため、優先順位の再確認が入っています」
「つまり」
「遅れます」
蓮が椀を置いた。
「また紙かよ」
倉持は蓮を見た。
「紙も必要です」
「米はもっと必要だろ」
「その通りです」
蓮は少し黙った。
大人に正面から肯定されると、次に怒る場所を失う。
竹本が健二を見た。
「運べるか」
健二は即答しなかった。
トラックはある。
道も分かる。
だが、燃料は少ない。
直樹は動けない。
相原の隊員は、保護所と外周で手一杯だ。
そして、ここには八人いる。
健二は言った。
「行きます」
三枝が顔を上げる。
「健二さん」
「ここで待っていても、米は増えません」
倉持が聞く。
「護衛は」
「必要です。でも、多くは出せないですよね」
倉持は黙った。
答えはそれだけで十分だった。
竹本が言った。
「わしが行く」
「竹本さんは門を」
「門には人を置く。わし一人で門を守っとるわけじゃなか」
蓮が立ち上がった。
「俺も行く」
健二はすぐに言った。
「行かない」
「何でだよ」
「子どもだから」
「子ども扱いすんな」
「子どもだ」
蓮の顔が赤くなる。
怒鳴る前に、相原の部下の一人が廊下の外から顔を出した。
昨日、保護所から三枝たちについて来た隊員だ。
若いが、目つきは落ち着いている。
「一尉から伝言です。旧南第三の外へ子どもを出すな。特に笹原蓮」
蓮が叫ぶ。
「何で俺だけ名指しなんだよ!」
隊員は真面目に答えた。
「動きそうだからだそうです」
蓮は言葉に詰まった。
竹本が笑った。
「読まれとる」
「うるせえ!」
健二は蓮を見た。
「ここにいてくれ」
「嫌だ」
「頼む」
蓮は一瞬だけ黙った。
命令ではない。
頼まれた。
それが蓮には一番扱いにくい。
「何すんだよ、ここで」
健二は少し考えた。
「門の内側を見る」
「門番かよ」
「違う。内側だ」
「何が違うんだよ」
健二は言った。
「外ばかり見ていると、中の変化に気づけない。米を取りに行っている間、誰がどこにいるか、何が足りないか、変な音がしないかを見てくれ」
蓮は眉を寄せた。
「それ、俺じゃなくて陸でいいだろ」
陸がすぐに言った。
「僕は数を見ます。蓮くんは動きを見た方がいいです」
「勝手に決めんな」
陸は首を傾げた。
「向いています」
蓮はまた言葉に詰まった。
向いている。
そう言われたことが、あまりなかった。
問題児。
反抗。
危険。
扱いにくい。
そういう言葉ではなかった。
蓮は紐を指に巻きつけながら言った。
「……変な音って何だよ」
健二は答えた。
「分からない。だから見てくれ」
蓮は舌打ちした。
「分からないばっかりだな」
「分からないから、頼む」
蓮はしばらく黙った。
それから、目を逸らして言った。
「早く戻れよ」
「戻る」
「米、落とすなよ」
「落とさない」
「米びつ、空にすんなよ」
「分かった」
蓮はそれ以上言わなかった。
*
健二は古い二トントラックの前に立った。
荷台には空の米袋、ロープ、雨除けのシート、工具箱、水、簡単な救急箱を積んでいる。
竹本は軽トラックで先導する。
相原の部下が一人、助手席に乗ることになった。
名は坂井という。
坂井は、健二のトラックを見て言った。
「これで山道へ入るんですか」
「入れます」
「道が悪いと聞いています」
「悪い道ほど、荷物が偏らないように積めばいいです」
坂井は少し感心した顔をした。
「運送屋ですね」
健二は荷台のロープを締めながら言った。
「今は、それしかできません」
「それが必要です」
その言葉に、健二は少し手を止めた。
それが必要。
父の会社を畳んでから、その言葉を聞くことは少なくなっていた。
荷物を運ぶ。
米を運ぶ。
水を運ぶ。
人を運ぶ。
ただの運送屋。
でも、今はそれがなければ、学校は朝を迎えられない。
健二はロープをもう一度確認した。
「出ます」
校門の前に、八人が並んでいた。
三枝が少し後ろに立ち、瀬田ハルが颯太の横にいる。
美月は立っているのが少しつらそうだったが、壁にもたれて見送っていた。
悠斗は、また人数を数えている。
千紘は花音の肩に手を置いている。
悠太はトラックのエンジン音に少し肩を上げたが、花音が紙に描いた線を見て落ち着いた。
陸は手元の紙に出発時刻を書いている。
蓮は門の内側に立っていた。
「健二さん」
悠斗が言った。
「何だ」
「何時に戻りますか」
「昼過ぎ」
陸がすぐに言った。
「昼過ぎは範囲が広いです」
健二は少し笑った。
「十四時までに戻る」
陸は書いた。
「十四時」
蓮が言った。
「十五時になったら?」
健二は答える。
「竹本さんが無線を入れる」
「入らなかったら」
坂井が言った。
「私が外周に連絡します」
蓮は坂井を睨んだ。
「ちゃんとやれよ」
坂井は真面目に頷いた。
「やる」
蓮は、少しだけ困った顔をした。
大人が怒らずに返すと、蓮は次の言葉を探せなくなる。
颯太が小さく手を上げた。
健二は運転席の窓を開ける。
「どうした」
颯太は名前札を握ったまま言った。
「帰って、くる?」
健二は頷いた。
「帰ってくる」
颯太は、もう一度聞いた。
「名前、呼ぶ?」
健二は少し間を置いた。
「帰ってきたら、呼ぶ」
「誰の」
「八人全員」
颯太は小さく頷いた。
「はい」
健二はエンジンをかけた。
トラックがゆっくり動き出す。
門は開いたままだった。
蓮が、その内側に立っている。
健二はバックミラーでそれを見た。
閉じない門。
でも、誰もいない門ではない。
*
山側の道は、思ったより荒れていた。
分断の前は、軽トラックや農機が普通に通っていた道だったらしい。
今は、路肩が崩れ、落ち葉が積もり、ところどころに倒木の跡があった。
竹本の軽トラックが前を走る。
健二はその後ろを、速度を落としてついていく。
坂井は助手席で周囲を見ている。
小銃は持っているが、膝の上に置いたままだ。
健二は言った。
「銃声がしたら、どうしますか」
坂井は健二を見た。
「止めます」
「どこに」
「開けた場所なら止めません。遮蔽物のある場所まで進みます」
健二は頷いた。
「兄ちゃんなら、同じことを言いそうです」
「真柴直樹さんですか」
「知ってるんですか」
「相原一尉が、あの人の指示は鵜呑みにするなと言っていました」
健二は苦笑した。
「信用するなって?」
「はい。ただし、外の動きと合っている時だけ使え、と」
「兄ちゃんが言いそうです」
坂井は少し黙った。
「昨日、あの人がいなければ、保護所は危なかったと聞いています」
健二はハンドルを握る手に力を入れた。
「そうですか」
「でも、一尉はこうも言っていました。あの人に頼りすぎるな、と」
「それも正しいです」
坂井は健二を見る。
「弟さんが言うんですか」
「弟だから言います」
車内に、しばらくエンジン音だけが残った。
健二は前を見たまま言った。
「兄は、戻れる人間です。でも、戻す人が必要です」
坂井は何も言わなかった。
健二も、それ以上は言わなかった。
前方で、竹本の軽トラックが止まった。
健二もブレーキを踏む。
古い集荷場が見えた。
平屋の倉庫。
錆びたシャッター。
横に壊れた看板。
その奥に、小さな精米機が残っている。
建物の前には、すでに人がいた。
地元の農家らしい老人が二人。
女が一人。
それから、見慣れない白いワゴン車。
ワゴンの側面には、青い文字でこう書かれていた。
全国児童救済連絡会。
健二は、車を止めたままその文字を見た。
坂井も同じものを見ている。
「聞いていますか」
健二は首を振った。
「いいえ」
竹本が先に降りた。
健二も続く。
白いワゴンのそばに立っていた男が、こちらを見て笑った。
年齢は四十代くらい。
清潔な作業服を着ている。
軍でも行政でもない。
声は柔らかい。
「旧南第三の方ですか」
健二はすぐには答えなかった。
男は自分から名乗った。
「私は、全国児童救済連絡会の長谷部と申します。境界地域の子どもたちへ、食料と生活支援を届けています」
竹本の顔が少し険しくなる。
「誰が呼んだ」
長谷部は笑顔を崩さなかった。
「呼ばれたわけではありません。必要な場所へ、必要なものを届けるのが私たちの活動です」
健二はワゴンの中を見た。
段ボールが積まれている。
米。
缶詰。
粉ミルク。
毛布。
水。
確かに、必要なものだった。
必要すぎるくらいだった。
長谷部は健二を見る。
「旧南第三には、子どもが八人いると聞きました」
坂井の目が動いた。
健二も、心の中で一歩下がった。
八人。
その数を、この男は知っている。
長谷部は続ける。
「大変でしょう。急な受け入れで、食料も燃料も足りないはずです。私たちなら、継続支援ができます」
健二は静かに聞いた。
「どういう支援ですか」
「食料、衣類、衛生用品、心のケア、それから必要であれば、子どもたちをより設備の整った施設へ移すこともできます」
竹本が低く言った。
「施設?」
長谷部は柔らかく頷いた。
「はい。旧南第三は、まだ環境が整っていないように見えます。子どもたちには、安心できる場所が必要です」
健二は、その言葉を聞いた。
安心できる場所。
悪い言葉ではない。
むしろ、正しい。
でも、正しすぎる言葉は、時々、人を縛る。
健二は聞いた。
「その施設では、子どもを何と呼びますか」
長谷部は少しだけ瞬きをした。
「何と、とは?」
「名前です。本人が言った名前で呼びますか」
「もちろん、最大限配慮します」
最大限。
健二の中で、何かが引っかかった。
父の言葉にも似ていた。
できるだけ。
なるべく。
事情を考えて。
家族なんだから。
会社なんだから。
そういう言葉は、後で形を変える。
健二はもう一つ聞いた。
「子どもが、行きたくないと言ったら」
長谷部は少し困ったように笑った。
「もちろん、無理に連れて行くことはありません。ただ、子どもは自分に何が必要か分からない場合もあります。そこは大人が判断してあげる必要があります」
竹本の目が細くなった。
坂井は黙っている。
健二は、白いワゴンの段ボールを見た。
米。
水。
毛布。
全部必要だ。
でも、その向こうにあるものが見えない。
「物資は必要です」
長谷部の顔が少し明るくなる。
「では」
「でも、子どもたちを移す話は、ここではしません」
長谷部は笑顔のまま止まった。
健二は続ける。
「それから、受け取るなら記録します。俺一人の署名では受け取りません」
長谷部の笑顔が、ほんの少し硬くなった。
「手続きが増えると、支援が遅れますよ」
「遅れても、記録します」
「子どもたちのためです」
「だから記録します」
長谷部は、健二をじっと見た。
その目から、柔らかさが少し抜けた。
すぐにまた戻った。
「分かりました。では、改めて旧南第三へ伺います」
「事前に連絡してください」
「もちろんです」
長谷部は名刺を差し出した。
健二は受け取らなかった。
代わりに、坂井が受け取った。
「こちらで確認します」
長谷部は少しだけ笑った。
「慎重なのは良いことです」
白いワゴンの後部扉が閉められる。
段ボールの匂いと、米の匂いが一瞬だけ風に混ざった。
ワゴンはゆっくりと集荷場を出ていった。
健二は、その後ろ姿を見ていた。
竹本が低く言う。
「あれは、米の匂いを嗅いで来た顔たい」
坂井が聞く。
「知っている団体ですか」
「知らん。知らんが、腹減っとる子どもの前に飯持って来る奴は、飯の後に何を持って帰るか見らんといかん」
健二は、名刺を持つ坂井の手を見た。
「坂井さん」
「はい」
「あの人、子どものことを心配しているように見えましたか」
坂井はすぐには答えなかった。
白いワゴンが消えていった道を見ている。
「心配している言葉は使っていました」
「言葉は」
「はい」
坂井は視線を集荷場の入口へ戻した。
「あの人が最初に確認したのは、子どもの状態ではありませんでした。怪我をしている子がいるか、眠れているか、食べられているか。そういうことは聞いていません」
健二は黙って聞いていた。
「聞いたのは、八人いるということ。旧南第三にいるということ。あなたが運んだということ。設備が足りないということ。そして、移せるかもしれないということです」
竹本が低く言った。
「子どもを見とらん。置き場所を見とる」
健二は、その言葉でようやく自分の違和感に形がついた気がした。
長谷部は、子どもたちを心配している顔をしていた。
でも、見ていたのは一人一人の顔ではない。
八人という数。
旧南第三という場所。
足りない米と燃料。
そして、動かせるかどうかだった。
*
集荷場の中は、埃っぽかった。
だが、米はあった。
袋に入った玄米が、奥の棚に積まれている。
竹本が帳面を出す。
古いノートだった。
名前。
日付。
量。
預かり主。
引き取り先。
きれいな帳面ではない。
だが、誰かが必死で残した記録だった。
倉持が見たら喜ぶだろう、と健二は思った。
竹本は言った。
「全部は持っていかん」
「どれくらいですか」
「旧南第三に五日分。残りはここに残す。ここにも食う人間がおる」
健二は頷いた。
「分かりました」
米袋を運ぶ。
重い。
一袋を肩に乗せると、背中にずしりと来た。
昔、父の現場で資材を運んだ時の感覚が戻る。
重いものは、重い。
気合いで軽くなるわけではない。
ただ、持ち方を間違えなければ運べる。
健二は荷台へ米袋を積んだ。
坂井も手伝う。
竹本は帳面に書き込む。
誰が何を出したか。
誰が何を受け取ったか。
何のために使うか。
記録する。
善意を重りにしないために。
健二は、その意味が少し分かり始めていた。
米袋を積み終えた頃、坂井が言った。
「燃料はありませんね」
竹本が頷く。
「燃料は別たい。米より厄介」
「どこに」
「港側。古い漁協のタンクがある。だが、そこは今、面倒な連中が見とる」
健二は顔を上げる。
「回収屋ですか」
「回収屋だけならまだ分かりやすか」
「他にも?」
竹本は、集荷場の外を見た。
白いワゴンが去った道の方だった。
「善意の顔した連中も、燃料は欲しがる」
健二は何も言わなかった。
米は運べる。
でも、燃料は別の話になる。
燃料がなければ、トラックは動かない。
発電機も止まる。
水も汲めない。
医療も、通信も、暖房も止まる。
米は腹をつなぐ。
燃料は場所をつなぐ。
どちらもなければ、旧南第三は続かない。
*
旧南第三へ戻ったのは、十三時五十分だった。
校門の内側に、蓮が立っていた。
その横に陸がいる。
陸は紙を持っていた。
「十四時前です」
健二は窓から答えた。
「間に合った」
蓮は荷台を覗く。
「米は?」
「ある」
「落としてない?」
「落としてない」
「白い車は?」
健二は動きを止めた。
「見えたのか」
蓮は顔をしかめる。
「坂の下を通った。知らない車。青い字が書いてあった」
陸が紙を見る。
「十二時二十七分。旧南第三の坂の下を一度通過。止まらずに西へ」
健二は坂井と目を合わせた。
坂井の表情も硬くなっている。
長谷部たちは、集荷場から帰った後、旧南第三の近くまで来ていた。
健二は聞く。
「誰か降りたか」
蓮が答える。
「降りてない。でも、ゆっくり走った」
陸が続ける。
「門の前ではなく、坂の下です。校舎全体が見える位置です」
健二は胸の奥が冷えるのを感じた。
蓮が言った。
「変な音はしなかった」
健二は蓮を見る。
「見てくれてたのか」
蓮は目を逸らした。
「頼まれたからな」
「助かった」
蓮は紐を強く握った。
「別に」
陸は紙を差し出した。
「記録です」
健二は受け取った。
時刻。
車両。
色。
文字。
通過方向。
停止なし。
速度遅い。
十歳と十一歳が、門の内側から学校を見ていた。
健二は紙を折らずに持った。
「三枝さんと倉持さんに見せよう」
陸は頷いた。
蓮は少しだけ得意そうな顔をしたが、すぐに隠した。
荷台から米を降ろす。
美月が置き場所を決める。
「湿気が少ないところがいいです。あと、颯太くんが名前札を置く机の近くには置かない方がいいです。人が増えるから」
健二は頷いた。
「分かった」
陸が言う。
「五日分ですか」
「たぶん」
「たぶんでは計算できません」
「あとで量る」
「お願いします」
千紘は米袋についた埃を布で拭いている。
花音は袋の縫い目を見ていた。
悠太がその横で、袋が床に置かれる音を聞いている。
「低い音」
花音は床に太い線を描いた。
颯太は米袋ではなく、ホワイトボードを見ていた。
自分の名前。
八人の名前。
森谷拓さんの名前。
そして、その下にはまだ何も書かれていない。
健二は白いワゴンのことを考えた。
全国児童救済連絡会。
食料を持ってくる団体。
子どもの数を知っている団体。
旧南第三を見に来た団体。
名前を最大限配慮すると言った団体。
最大限。
健二はその言葉が嫌いだった。
できるだけ。
なるべく。
事情を見て。
大人が判断して。
そういう言葉は、子どもの名前を後ろへ押しやる。
*
夕方、三枝と倉持、瀬田ハル、坂井、竹本が職員室に集まった。
健二は陸の記録を机に置いた。
坂井は長谷部の名刺を置く。
三枝がそれを読む。
「全国児童救済連絡会」
倉持が眉を寄せる。
「聞いたことはあります。境界地域で支援活動をしている団体です。ただ、正式な委託先ではありません」
健二が聞く。
「信用できますか」
倉持は即答しなかった。
「支援実績はあります。食料も出しています。避難民を受け入れた記録もあります」
「なら、良い団体ですか」
「それと、子どもを預けていいかは別です」
三枝が名刺を見たまま言った。
「こちらで確認します。どの施設へ移すと言っているのか。誰が運営しているのか。子どもの記録をどう扱うのか」
瀬田ハルが静かに言った。
「第七にも、最初は支援という言葉がありました」
部屋が静かになる。
瀬田ハルは続けた。
「食事、寝床、教育、心の安定。言葉だけなら、全部正しかったです」
健二は瀬田ハルを見た。
「でも、名前は消えた」
瀬田ハルは頷いた。
「はい」
竹本が腕を組む。
「米は受け取ってもよか。だが、子どもは渡さん」
三枝が言う。
「受け取るなら、条件を明確にします。物資の提供と、子どもの移送提案は切り離す」
倉持が紙に書き始める。
「受領者は旧南第三運営準備会。個人名ではなく、複数名立ち会い。物資の内容、数量、提供条件、見返りの有無を記録。子どもの個人情報は提供しない」
健二はその言葉を聞いた。
旧南第三運営準備会。
まだそんなものは存在していない。
でも、今、紙の上で生まれようとしている。
会社ではない。
施設でもない。
家族でもない。
名前で呼ぶ場所を残すための、仮の形。
健二は言った。
「俺一人の名前にはしないでください」
三枝が顔を上げる。
「もちろんです」
「俺が責任者みたいになると、また背負いすぎる」
竹本が笑った。
「少しは学んだな」
健二は苦笑した。
「兄に言われました」
「兄ちゃんは何でも知っとるな」
「自分のこと以外は」
瀬田ハルが、ほんの少しだけ笑った。
その時、無線が鳴った。
坂井が取る。
「旧南第三、坂井」
相原の声が入る。
「こちら相原。白いワゴンについて報告を受けた」
坂井が健二を見る。
健二は頷いた。
相原は続ける。
「その団体には注意しろ。支援団体としての登録はある。ただし、北側との境界地域で、子どもの移送をめぐる苦情が複数出ている」
三枝の顔が強張る。
倉持のペンが止まる。
健二は無線に近づいた。
「苦情とは」
「親族確認前の移送提案。本人同意の扱いが曖昧。支援物資の受領書に、保護委託の同意が紛れていた例がある」
健二は、背中に冷たいものを感じた。
長谷部の笑顔。
段ボール。
最大限配慮します。
大人が判断してあげる必要があります。
相原は続けた。
「まだ違法とは断定できない。だが、旧南第三には入れるな。物資を受け取る場合は、必ず内容を確認しろ。単独で署名するな」
健二は答えた。
「分かりました」
相原の声が少し低くなる。
「それと、真柴健二」
「はい」
「お前一人で署名するな」
健二は少しだけ笑った。
「さっき同じ話をしていました」
「ならいい」
無線の向こうで、少し雑音が入った。
その奥に、直樹の声が聞こえた。
「ケン」
「兄ちゃん?」
「飯は増えたか」
「米は五日分」
「燃料は」
「まだ」
「次は燃料だな」
「うん」
「白い車には乗るな」
「乗らない」
「子どもも乗せるな」
「分かってる」
「物資は見る」
「うん」
「紙も見る」
「倉持さんが見てる」
「なら少し安心だ」
倉持が、無線の横で少しだけ眉を動かした。
健二は言った。
「兄ちゃん」
「何だ」
「米の匂いって、遠くまで行くんだな」
直樹は少し黙った。
「そうだな」
「良い匂いなのに」
「良い匂いだから、人が寄る」
健二は窓の外を見た。
校門は開いている。
でも、もうただ開いているだけでは足りない。
誰が来るのか。
何を持って来るのか。
何を持って帰ろうとするのか。
それを見なければならない。
直樹が言った。
「ケン」
「何」
「米は守れ」
「子どもは?」
「先に子ども」
「だよな」
「でも、米がなければ子どもは残れない」
健二は頷いた。
「分かってる」
「分かってるならいい」
通信は切れた。
*
夜、旧南第三の廊下に米袋が並んだ。
美月が布をかけた。
陸が数を書いた紙を貼った。
千紘が紙の端を押さえた。
蓮は校門の方を何度も見に行った。
悠太は音楽室の前に座っていた。
中からは、古いピアノの匂いがした。
鍵盤のいくつかは壊れている。
音が出るかどうかも分からない。
花音は、その横で床に線を描いている。
颯太はホワイトボードの前に立っていた。
自分の名前を見ている。
そこへ、悠斗が来た。
「颯太」
颯太は少し遅れて振り向いた。
「はい」
悠斗は少し驚いた顔をした。
昨日より早かった。
颯太も、それに気づいたように名前札を握った。
悠斗は言った。
「点呼、する?」
颯太は頷いた。
その声を聞いて、陸が紙を持って来た。
千紘が花音を呼び、花音が悠太の袖を引いた。
蓮は門から戻ってくる。
美月は毛布を畳む手を止めた。
八人が、ホワイトボードの前に集まる。
健二は少し離れた場所で見ていた。
竹本も廊下の端に立っている。
三枝は記録を取らない。
倉持もペンを置いている。
瀬田ハルは、ただ八人を見ていた。
悠斗が言う。
「中原悠斗」
「いる」
美月。
「宮原美月」
「います」
蓮。
「笹原蓮」
「いるよ」
悠太。
「浅野悠太」
少し間がある。
音楽室の古い扉が、風で小さく鳴った。
でも、悠太は固まらなかった。
「います」
千紘。
「佐伯千紘」
「います」
陸。
「高瀬陸」
「います。六人目です」
蓮が言う。
「だから言わなくていいって」
陸は答える。
「必要です」
花音。
「村瀬花音」
小さな声。
「います」
最後に、颯太。
颯太は名前札を見た。
小野寺颯太。
それから、顔を上げた。
「小野寺颯太」
昨日より、少しだけはっきりした声だった。
「います」
陸が言う。
「八人います」
その後、千紘がホワイトボードを見た。
森谷拓さんの名前も、忘れない。
千紘は少し迷ってから、小さく言った。
「森谷拓さん」
誰も返事をしなかった。
それでよかった。
森谷は、ここにはいない。
でも、名前はある。
蓮が低く言った。
「忘れない」
悠太が、音楽室の方を見た。
「遠い音」
花音が床に、一本の線を足した。
健二はその線を見た。
八本の線。
少し離れた一本。
そして今日、米袋の横に貼られた数字。
名前と米と記録。
それがなければ、学校は続かない。
夜が深くなっていく。
校門は閉まっていない。
だが、門の内側には人がいた。
蓮が、紐を指に巻きながら外を見ている。
陸が、その横で時刻を書いている。
旧南第三小学校は、まだ弱い場所だった。
米が五日分増えただけ。
燃料は足りない。
白いワゴンの正体も分からない。
支援という言葉の裏に、何があるかも分からない。
それでも、今日の夜は、昨日より少しだけ学校に近かった。
健二は廊下の窓から外を見た。
遠くの坂の下に、車の灯りはない。
ただ、風が草を揺らしている。
米の匂いは、まだ校舎の中に残っていた。
良い匂いだった。
だからこそ、守らなければならなかった。




