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第二十一話 燃料の夜 改正版

## 第二十一話 燃料の夜


 発電機を止めると、校舎は急に古くなった。


 廊下の蛍光灯が消える。

 職員室の隅で唸っていた小さな音も消える。

 多目的室の入口に置いた電気ストーブも、ただの箱になる。


 旧南第三小学校は、夜の中に戻った。


 完全な暗闇ではない。


 月明かりが、板で塞がれた窓の隙間から細く入っている。

 懐中電灯もある。

 竹本が持ってきた古いランタンもある。


 それでも、電気が消えた瞬間、八人の空気は変わった。


 浅野悠太が、耳ではなく目を固くした。


 音が消えたからだ。


 発電機の低い唸りは、怖い音でもあった。


 だが、鳴っている間は、ここが動いていると分かる音でもあった。


 それが消えると、校舎の小さな音だけが残る。


 風で板が鳴る。

 遠くで犬が吠える。

 誰かが廊下を歩くたび、床がきしむ。

 古い窓枠が、夜の冷えで小さく鳴る。


 悠太は、毛布の端を握った。


 隣にいた花音が、床に指で線を引いた。


 細い線。


 その横に、もう一本。


 そして、小さな丸。


 悠太はそれを見た。


「止まった音」


 花音はうなずいた。


 高瀬陸は、懐中電灯の明かりの下で紙を見ていた。


「発電機を夜に三時間だけ使う場合、燃料は五日。六時間使う場合、二日半。工具を使うと、もっと減ります」


 笹原蓮が、廊下の壁にもたれたまま言った。


「暗いと何もできねえだろ」


 陸は紙から目を上げない。


「何をするかで違います」


「見えねえじゃん」


「見る作業は減ります。でも、寝るなら暗くてもできます」


「寝られねえ奴もいるだろ」


 蓮の声は荒かった。


 だが、怒っている相手は陸ではなかった。


 暗さだった。

 止まった発電機だった。

 何かが足りないという状態だった。


 宮原美月が、ランタンを一つ手に取った。


「ここに置くと、廊下の入口まで見えます」


 健二は振り向いた。


 美月はランタンを床に置き、少し離れて見た。


「でも、颯太くんの名前札が見えません」


 小野寺颯太は、自分の名前札を両手で持っていた。


 暗くなると、颯太は名前札を近くに寄せる。


 近すぎると、字が見えない。


 それで、また不安になる。


 美月はランタンを少し動かした。


「ここなら、名前も見えます」


 陸が言った。


「照明位置、記録します」


 美月はうなずいた。


「お願いします」


 健二は、その光景を見ていた。


 燃料が足りない。


 ただそれだけで、寝る場所も、名前札の位置も、子どもの不安も変わる。


 食べ物だけではない。


 明かりも。

 音も。

 温度も。

 水も。

 通信も。


 全部が、学校を作っている。


 健二は発電機のそばにしゃがんだ。


 燃料タンクの蓋を開ける。


 中を照らす。


 少ない。


 底に残った燃料が、懐中電灯の光を鈍く返す。


 匂いだけが強く残っていた。


 背後から竹本が言った。


「明日、港側に行くしかなか」


 健二は蓋を閉めた。


「漁協のタンクですか」


「そうたい」


「危ないんですよね」


「安全な燃料は、もう誰かが持っとる」


 竹本は廊下の暗がりに目を向けた。


「残っとる燃料には、だいたい人がついとる。守る人間か、奪う人間か、売る人間か、名札をつけて配る人間か」


 健二は眉を寄せた。


「名札?」


「支援団体たい」


 竹本は吐き捨てるようには言わなかった。


 ただ、長く見てきたものを言っただけだった。


「米は腹に入る。燃料は場所を動かす。動かせるもんを握った奴は、人も動かそうとする」


 健二は黙った。


 昨日の白いワゴンを思い出す。


 全国児童救済連絡会。

 食料。

 生活支援。

 心のケア。

 設備の整った施設。


 燃料があれば、子どもを動かせる。


 車を出せる。

 発電機を回せる。

 無線を使える。

 夜でも人を移せる。


 燃料は、ただの油ではない。


 移動の権利だった。


     *


 翌朝、旧南第三は発電機を回さずに始まった。


 米は炊けた。


 廃材と、竹本が持ってきた古いかまどで炊いた。


 湯気は立った。

 米の匂いもした。


 だが、校舎の中は冷えていた。


 子どもたちは、毛布を肩にかけたまま廊下に座った。


 佐伯千紘は、花音の毛布を直した。

 美月は、颯太の名前札が見える位置にランタンを置いた。

 陸は、燃料の残量表を書き直している。

 中原悠斗は、八人の位置を見てから、自分の椀を持った。

 蓮は、門の方を何度も見た。

 悠太は、発電機の止まった音を、まだ気にしていた。


 健二は食事の前に言った。


「今日は港側へ行きます」


 蓮がすぐ顔を上げる。


「燃料?」


「そう」


「俺は?」


「残る」


「またかよ」


 健二は蓮を見た。


「昨日、白い車を見つけた」


「だから?」


「お前が見てなかったら、気づくのが遅れた」


 蓮は言い返さなかった。


「今日も、門の内側を見てほしい」


「毎回それかよ」


「毎回、必要だからだ」


 蓮は不満そうに顔を歪めた。


 でも、昨日ほど強く反発しなかった。


 陸が紙を持って言った。


「今日は坂の下だけではなく、校庭の裏側も見た方がいいです」


 蓮が睨む。


「指図すんな」


「昨日、白い車は坂の下を通りました。次に来るなら、校舎の横か裏から見るかもしれません」


 蓮は黙った。


 悠斗が言った。


「俺も見る」


 健二は首を振った。


「悠斗は中を見る」


「中?」


「美月と瀬田さんを手伝ってくれ。全員の食事と寝る場所を確認する。誰かが外ばかり見ていると、中が崩れる」


 悠斗は少し戸惑った。


 外を見る方が分かりやすい。


 危険を見張る方が、役に立っている気がする。


 でも、中を見ると言われると、何をすればいいのか分からない。


 美月が言った。


「水の置き場所を変えたいです」


 悠斗が美月を見る。


「水?」


「夜に起きた時、颯太くんが探せませんでした。あと、悠太くんが音でびっくりしない場所に置きたいです」


 悠斗は少しだけ考えた。


「分かった」


 健二はうなずいた。


 役割は、外だけにあるわけではない。


 中を整えるのも、守ることだった。


 颯太が椀を持ったまま聞いた。


「帰って、くる?」


 健二は答えた。


「帰ってくる」


「名前」


「帰ったら呼ぶ」


「八人?」


「八人」


 颯太は頷いた。


 その確認は、もう儀式のようになっていた。


 帰ってくる。

 名前を呼ぶ。

 八人いる。


 それを聞いてから、颯太は食べ始めた。


     *


 港側へ向かう道は、山側より開けていた。


 だが、その分、見られやすかった。


 健二の二トントラックの前を、竹本の軽トラックが走る。


 後ろには坂井が乗る小型車がついた。


 今日は坂井だけではない。


 もう一人、境界警備隊の隊員が後ろに乗っていた。


 名は古賀。


 無口な男だった。


 坂井が健二の助手席に座り、地図を広げている。


「港の漁協タンクは、この先の旧岸壁です」


「まだ使えるんですか」


「タンク自体は。ただし、燃料の所有権が曖昧です」


「曖昧なものばかりですね」


「分断後は、曖昧なものほど狙われます」


 健二は前を見た。


 海が近づくにつれ、空気に塩の匂いが混じった。


 道路脇には、閉まった商店が並んでいる。


 割れたガラス。

 剥がれた看板。

 途中で止まったままの自販機。

 誰かが住んでいる家と、完全に空いた家が混ざっている。


 坂井が言った。


「昨日の団体ですが」


「全国児童救済連絡会ですか」


「はい。相原一尉が調べています。支援実績はありますが、後ろに複数の団体がついています」


「後ろ?」


「宗教系の救済団体、民間警備会社、物資輸送会社、それから土地管理会社です」


 健二は眉を寄せた。


「土地管理会社」


「廃校や空き施設を借り上げています。避難民支援の名目です」


 健二の手が、ハンドルを握り直した。


 廃校。


 空き施設。


 旧南第三も、外から見ればそう見えるのだろうか。


 壊れた校舎。

 少ない物資。

 子ども八人。

 燃料不足。


 支援する理由はいくらでも作れる。


 そして、支援の後に管理が来る。


 健二は言った。


「旧南第三も、欲しがると思いますか」


 坂井は即答しなかった。


「可能性はあります」


「理由は」


「境界から近い。校舎が残っている。水が一部使える。校庭が広い。地域の道と山側、港側の両方へ出られる」


 健二は、学校の構造を頭の中に浮かべた。


 健二が見ていたのは、子どもが寝られる部屋や、トイレまでの道だった。


 でも、別の人間が見れば違う。


 境界に近い拠点。

 人を集められる建物。

 物資を置ける場所。

 子どもの名目で出入りしやすい施設。


 同じ校舎でも、見る人間によって意味が変わる。


 坂井が続けた。


「それと、旧南第三には記録の写しがある」


 健二は息を止めた。


「それも知られているんですか」


「まだ断定はできません。ただ、昨日の保護所襲撃で記録室が狙われた。記録の一部を分散させたことを知りたがる者はいるはずです」


 健二は前を見た。


 海が見えた。


 港の先に、古いタンクが二つ並んでいる。


 その前に、人影があった。


     *


 旧漁協の前には、三種類の人間がいた。


 一つは、地元の漁師たちだった。


 人数は少ない。

 老人が多い。

 だが、目は鋭い。


 もう一つは、回収屋だった。


 服装はばらばら。

 軽トラック。

 ワゴン。

 バイク。

 腰に工具を下げ、手には伝票のようなものを持っている。


 兵士ではない。


 だが、ただの業者にも見えない。


 最後の一つは、白い腕章をつけた支援団体の人間だった。


 全国児童救済連絡会。


 長谷部の姿もあった。


 健二は車を止める前に、それを見た。


 坂井も見ている。


「昨日の男です」


「ええ」


 竹本の軽トラックが先に止まった。


 健二も少し離して止める。


 降りる前に、坂井が言った。


「交渉は短く。署名はしないでください」


「分かってます」


「燃料の受け取りも記録します」


「はい」


 健二は車を降りた。


 海風が強かった。


 タンクの周りには、油と錆の匂いが混ざっている。


 竹本が漁師の一人に声をかけた。


「浜田さん」


 白髪の男が振り向いた。


「竹本か」


「燃料、残っとるか」


「残っとる。だが、簡単には出せん」


 浜田と呼ばれた男は、健二を見る。


「そっちが旧南第三か」


 健二は頭を下げた。


「真柴健二です」


「子どもを入れたと聞いた」


「はい」


「何人だ」


 健二は一瞬だけ黙った。


 昨日から、人数を聞かれることに敏感になっていた。


 だが、浜田の目は長谷部の目とは違った。


 数を値踏みしている目ではない。


 必要量を考えている目だった。


「八人です」


 浜田は頷いた。


「なら、発電機と水で食うな」


「はい」


「暖房は」


「最低限です」


「最低限は、だいたい足りん」


 浜田はそう言って、タンクの方を見た。


「軽油は少しある。灯油も少し。だが、漁師も使う。病人の家もある。全部は渡せん」


「必要分だけで構いません」


 その時、横から声が入った。


「必要分を公平に分ける仕組みが必要ですね」


 長谷部だった。


 昨日と同じ、柔らかい声。


 白い腕章の下に、きれいな作業服。


「真柴さん、またお会いしましたね」


 健二は軽く頭を下げた。


「どうも」


「港にも支援に来ています。燃料は、食料以上に争いの元になりますから」


 浜田が鼻を鳴らした。


「争いの元にしている奴が言うか」


 長谷部は笑顔を崩さない。


「私たちは調整をしています」


 回収屋の一人が口を挟んだ。


「調整でも何でもいい。こっちは買い取るって言ってんだ。金を出す奴が持っていく。それが一番揉めねえ」


 浜田が睨む。


「金で買った燃料で、病人の家のストーブが消えたらどうする」


「金がねえ奴が悪い」


 空気が硬くなった。


 坂井が一歩前へ出る。


 古賀も後ろに立った。


 銃を構えたわけではない。


 だが、いるだけで場が変わる。


 長谷部はすぐに間に入った。


「争いは避けましょう。私たちの施設へ燃料を一括で預けていただければ、必要な場所へ配分できます」


 健二は、その言葉を聞いた。


 一括で預ける。

 配分する。

 管理する。


 どれも正しい言葉だった。


 でも、正しい言葉が続くほど、誰の手から何が離れるのかを見なければならない。


 浜田が言った。


「預けん」


「なぜです」


「ここで帳面をつける」


「帳面より、広域の支援網が必要です」


「その広域とやらに預けた米が、戻ってこんかった家を知っとる」


 長谷部の笑顔が少しだけ止まった。


 回収屋が笑う。


「どいつもこいつも信用ねえな」


 健二はタンクを見た。


 燃料が必要だ。


 だが、この場で燃料を持ち出すことは、ただの輸送ではない。


 誰が何を優先するのかを決めることになる。


 健二は浜田に言った。


「旧南第三で必要なのは、発電機と水、最低限の暖房です」


「何日分だ」


 健二は坂井を見る。


 坂井が紙を出す。


「五日分を希望します。ただし、病人の家と漁協の最低稼働分を優先してください」


 浜田は健二を見た。


「お前、運び屋か」


「はい」


「なら、運ぶ量を欲張るな。多く積むと、道で止まる」


「分かっています」


「分かっとる顔じゃなか。足りんと思っとる顔たい」


 健二は黙った。


 図星だった。


 米も足りない。

 燃料も足りない。

 人も足りない。

 時間も足りない。


 足りないものばかりだと、多く持ちたくなる。


 父の会社でもそうだった。


 受けられるだけ受ける。

 断らない。

 義理を欠かない。

 抱え込む。


 そうして、最後に全部が潰れる。


 健二は息を吐いた。


「三日分で」


 坂井が健二を見る。


 浜田の目が少し変わった。


「五日じゃなかとか」


「三日分。残りはここに残してください。三日後、また取りに来ます。その時の残量と必要な家を見て、もう一度決めます」


 竹本が少し口元を緩めた。


 長谷部は言った。


「非効率ですね」


 健二は振り向いた。


「そうかもしれません」


「一度に運べる時に運んだ方がいい。旧南第三の子どもたちのためにも」


「一度に運ぶと、ここが空になります」


「こちらで保管できます」


「ここで記録します」


 長谷部の目が、また少しだけ硬くなる。


 健二は続けた。


「必要な分を、必要な分だけ運びます。残りは、ここで必要な人のために残します」


 回収屋が舌打ちした。


「綺麗事だな」


 浜田が低く言う。


「綺麗事でも、帳面に書けば少しは持つ」


 竹本が頷いた。


「書くぞ」


     *


 燃料を移す作業は、米より緊張した。


 容器の数を確認する。

 漏れがないか見る。

 誰の分か書く。

 量を測る。

 積む位置を決める。


 健二は荷台を見た。


 米袋とは違う。


 燃料は動く。

 傾く。

 漏れる。

 匂う。

 火がつけば終わる。


 荷台の重心を低くし、容器の間に板を挟み、ロープを二重に回す。


 坂井が感心したように見た。


「慣れていますね」


「昔、現場で灯油も塗料も運びました」


「危険物の資格は」


「持っていました。今の区分で有効かは分かりません」


 坂井は少し笑った。


「分断後は、分からない資格ばかりです」


 健二はロープを締めた。


「分からないなら、こぼさないように運ぶだけです」


 その時、背後で声が上がった。


 回収屋の一人が、タンクの横に置かれていたポリ容器を勝手に動かそうとしていた。


 浜田が怒鳴る。


「触るな!」


 男は笑う。


「余ってんだろ」


「病人の家の分たい」


「生きてるかどうかも分かんねえだろ」


 空気が一気に荒れた。


 坂井が前へ出る。


「容器から離れてください」


 男は坂井を見た。


「警備隊が燃料の番犬かよ」


「離れてください」


 男の仲間が二人、近づいてくる。


 古賀が無言で位置を変えた。


 銃口は下げたままだ。


 だが、進路を塞いでいる。


 健二は、容器と男たちの足元を見た。


 油が少しこぼれている。


 誰かが容器を倒せば、火がなくても危ない。


 長谷部は少し離れたところで見ている。


 止めない。


 調整役だと言ったのに、止めない。


 健二はそれに気づいた。


 回収屋が騒げば、漁師たちは疲れる。

 警備隊も緊張する。

 その後で「こちらに預ければ安全です」と言える。


 健二は、父の古い現場を思い出した。


 強い声の人間が場を荒らす。


 その後に、もっと大きな顔をした人間が「俺がまとめてやる」と言って出てくる。


 昔の任侠の匂い。


 そして、支配の匂い。


 健二は大声を出さなかった。


 荷台から空の木箱を一つ下ろし、油のこぼれた場所に置いた。


 男たちの足が止まる。


「踏むな」


 健二が言った。


 回収屋が振り向く。


「あ?」


「そこ、油がこぼれてる。踏んで滑る。容器が倒れる。火がなくても怪我人が出る」


「知るかよ」


「理解しろよ」


 健二の声は低かった。


 怒鳴ってはいない。


 だが、現場の声だった。


 父親が現場で使っていた声に少し似ていると、健二自身が思った。


 でも、続く言葉は違った。


「これは誰かの家の分です。持っていくなら、帳面に名前を書け。量を書け。どこへ運ぶか書け。書けないなら触るな」


 回収屋は舌打ちした。


「偉そうに」


 健二は男の目を見た。


「偉くない。運ぶだけだ」


 坂井が横に立つ。


「記録なしの持ち出しは認められません」


 古賀も無言で立っている。


 浜田が帳面を開いた。


「名前を書け。書けんなら帰れ」


 回収屋はしばらく睨んでいたが、やがて容器から手を離した。


「面倒くせえな」


 男たちは軽トラックの方へ戻った。


 完全に引いたわけではない。


 だが、今は動けない。


 長谷部がそこでようやく口を開いた。


「現場をまとめるのがお上手ですね、真柴さん」


 健二は答えなかった。


「旧南第三にも、そういう方が必要でしょう」


 健二はロープを締め直しながら言った。


「必要なのは、俺ではありません」


「では、何ですか」


「記録と、人の目と、戻って確認できる場所です」


 長谷部は微笑んだ。


「それを管理する人も必要です」


「管理ではなく、確認です」


「似たようなものでは?」


 健二は手を止め、長谷部を見た。


「違います」


 長谷部はそれ以上言わなかった。


 だが、健二には分かった。


 この男は、旧南第三をまだ諦めていない。


     *


 旧南第三では、午前中に白い封筒が届いた。


 持ってきたのは、長谷部本人ではなかった。


 若い女性スタッフだった。


 門の前に立ち、瀬田ハルに向かって丁寧に頭を下げた。


「昨日の件で、支援物資の申込書をお持ちしました」


 瀬田ハルは門の外に出なかった。


 門の内側に立ったまま、言った。


「担当者に確認します」


「急ぎの支援です。食料と燃料の優先枠が今日中に埋まる可能性があります」


 瀬田ハルは、その言葉に少しだけ眉を動かした。


 急ぎ。

 優先。

 今日中。


 第七でも、似た言葉を聞いたことがある。


 早くしないと枠がなくなる。

 今決めないと不利になる。

 大人が判断してあげなければならない。


 瀬田ハルは言った。


「ここでは、急ぎの書類ほど一人では受け取りません」


 女性スタッフは少し困った顔をした。


「受け取るだけでも」


 その時、蓮が門の横から出てきた。


「置いてけよ」


 瀬田ハルが蓮を見る。


 蓮は門の内側に立ったまま、女性スタッフを睨んでいる。


「中には入んな。紙だけ置いてけ」


 女性スタッフは少し笑った。


「あなたは、ここの子?」


 蓮の顔が変わった。


 ここの子。


 その言い方に、蓮は反応した。


 でも、怒鳴る前に陸が横から言った。


「氏名を名乗ってください」


 女性スタッフは驚いた。


「え?」


「誰が、何時何分に、何を持ってきたか記録します」


 陸は紙を持っていた。


 蓮が少し得意そうに言った。


「そういうことだ」


 女性スタッフは笑顔を戻した。


「全国児童救済連絡会の畑中です」


 陸は書く。


「畑中さん。時刻、十時十九分。白い封筒一通」


 瀬田ハルが言った。


「門の外の机に置いてください」


「中で説明を」


「説明は、担当者が戻ってから聞きます」


「でも、今日中に」


 瀬田ハルは静かに言った。


「急がせる説明は、後で聞きます」


 畑中は一瞬だけ言葉を失った。


 それから、封筒を門の外に置かれた机に置いた。


「では、よろしくお願いします」


 白い車は、坂の下へ戻っていった。


 蓮は封筒を見た。


「どうするの?」


 瀬田ハルは首を振る。


「どんな内容かを、見ます」


 陸がしゃがんだ。


「封は閉じています。厚さは六ミリくらい。紙が複数枚。中に硬いものはありません」


「何で分かるんだよ」


 蓮が聞く。


「見れば分かります」


「お前、たまに気持ち悪いな」


「すみません」


「謝んなよ」


 瀬田ハルは二人のやり取りを聞きながら、封筒を見ていた。


 白い封筒。


 きれいな字。


 旧南第三小学校 御中。


 御中。


 ここはまだ、正式な組織ではない。


 だが、相手はもう、組織として扱おうとしている。


 瀬田ハルは、職員室へ戻って三枝と倉持を呼んだ。


 封筒は、三人立ち会いで開けた。


 中には、支援物資申込書。

 燃料優先配分申請書。

 生活支援に関する同意書。


 そして、別紙が一枚入っていた。


 倉持が読み始めて、途中で手を止めた。


 三枝が聞く。


「何かありますか」


 倉持は紙を机に置いた。


「あります」


 瀬田ハルは、紙の下の方を見る。


 細かい字。


 支援の実施に伴い、対象児童の安全確保を目的として、必要に応じ一時的な移送、保護委託、生活環境変更に同意するものとする。


 三枝の顔が変わった。


「物資の申込書ではありませんね」


 倉持が頷く。


「物資支援の形をしていますが、移送同意が紛れています」


 蓮が入口から聞いていた。


「何だよ、それ」


 三枝は蓮を見た。


 少し迷ったが、言った。


「米や燃料をもらう書類の中に、子どもを別の場所へ移すことに同意する文が入っています」


 蓮の顔が一気に赤くなった。


「は?」


 陸が小さく言った。


「混ぜています」


 瀬田ハルは頷いた。


「はい。混ぜています」


 蓮は封筒を睨んだ。


「燃やせよ、そんな紙」


 倉持がすぐに言った。


「燃やしません」


「何でだよ」


「証拠だからです」


 蓮は口を閉じた。


 証拠。


 その言葉は、蓮の中で少しずつ意味を持ち始めていた。


 怒って破るより、残した方が相手を止められることがある。


 それは、蓮にはまだ難しい。


 でも、昨日から何度も聞いている。


 記録する。

 名前を残す。

 帳面に書く。

 紙を見る。


 蓮は紐を強く握った。


「じゃあ、残せよ」


 倉持は頷いた。


「残します」


 三枝は書類を封筒に戻さず、別の透明な袋に入れた。


「健二さんが戻ったら共有します」


 瀬田ハルは窓の外を見た。


 門は開いている。


 でも、そこに置かれるものが全部安全とは限らない。


 開いた門には、見る目が必要だった。


     *


 港で燃料を積み終えた頃、健二の無線が鳴った。


 坂井が取る。


「坂井」


 三枝の声だった。


「旧南第三です。支援団体から書類が届きました」


 坂井の表情が変わる。


「内容は」


「支援物資申込書に、児童の移送同意が含まれていました」


 坂井は健二を見た。


 健二は言葉を失った。


 長谷部が少し離れた場所に立っている。


 聞こえているかは分からない。


 だが、健二は見た。


 長谷部の視線が、一瞬だけこちらへ動いた。


 知っている。


 少なくとも、関係している。


 健二は無線に近づいた。


「誰か署名しましたか」


「していません。門の外で受け取り、立ち会いで開封しました」


「中に入れましたか」


「入れていません」


 健二は目を閉じて、短く息を吐いた。


「子どもたちは」


「無事です」


「騒ぎには」


「なっています。蓮くんは怒っています。でも、書類は破っていません」


「陸は」


「届いた時間と相手の名前を記録しています」


「颯太は」


「瀬田さんのそばにいます。名前札も持っています」


 健二は頷いた。


 今すぐ戻りたい。


 だが、燃料を積んだまま焦れば、帰る前に事故になる。


「分かりました。燃料を固定してから戻ります」


 坂井が言った。


「燃料は積み終えています」


 浜田が健二を見る。


「急ぐな。燃料を積んどる時ほど、急いだら火事だ」


 健二は頷いた。


「はい」


 急ぎたい。


 今すぐ戻りたい。


 だが、焦って燃料をこぼせば、旧南第三に帰る前に全部失う。


 健二は荷台のロープをもう一度確認した。


 長谷部が近づいてきた。


「何か問題がありましたか」


 健二は振り向いた。


「そちらの書類が届きました」


「ああ、支援申込書ですね」


「移送同意が入っていたそうです」


 長谷部は少しだけ困った顔をした。


「誤解です。緊急時に備えた一般的な文言です」


「物資の申込書に必要ですか」


「子どもの安全を守るためには、柔軟な対応が必要です」


 健二は長谷部を見た。


「子どもが嫌だと言っても?」


「だからこそ、大人の判断が必要な時があります」


 健二の中で、何かが静かに決まった。


 怒鳴る必要はない。


 殴る必要もない。


 ただ、線を引けばいい。


「旧南第三には入れません」


 長谷部の笑顔が消えなかった。


「それは、子どもたちにとって不利益になるかもしれません」


「不利益かどうかは、こちらで確認します」


「記録では測れないものもあります」


「はい」


 健二は頷いた。


「だから、記録だけでは決めません」


 長谷部が黙る。


 健二は続けた。


「書類には、食料がある、寝床がある、安全だと書けます。でも、その場所で子どもが名前を呼ばれているか、怖いと言えるか、嫌だと言った時に止まれるかは、紙だけでは分かりません」


 海風が吹いた。


 タンクの金属が、小さく鳴る。


「だから、子どもの顔を見ます。返事の仕方を見ます。名前を呼ばれた時に、体が固まるかどうかも見ます」


 長谷部の目が少しだけ細くなる。


 健二は言った。


「あなたは昨日から、子どもの名前を一度も聞いていません」


 長谷部は黙っていた。


「八人いることは知っていた。旧南第三にいることも知っていた。俺が運んだことも知っていた。でも、一人ずつの名前は聞かなかった」


「支援の初期段階では、人数と必要物資の把握が優先されます」


「そうでしょうね」


 健二は言った。


「でも、うちは名前で呼ぶことを先に決めました」


「うち?」


 長谷部がその言葉を拾った。


 健二は一瞬だけ黙った。


 うち。


 言ってから気づいた。


 旧南第三を、うちと言った。


 会社でもない。

 施設でもない。

 家族でもない。


 でも、今の健二にとって、そこはもうただの空き校舎ではなかった。


「旧南第三です」


 健二は言い直した。


「そこでは、名前で呼びます」


 長谷部は静かに笑った。


「理想は大切です」


「理想ではありません」


 健二は荷台の燃料を見た。


「手順です」


 その言葉に、坂井が少しだけ健二を見た。


 直樹の言葉に似ていたからだ。


 信用ではなく、手順で動け。


 健二は兄の言葉を借りたのだと思った。


 だが、今はそれでよかった。


「帰ります」


 健二は運転席に乗った。


 竹本も軽トラックへ戻る。


 坂井が助手席に乗り込む前、長谷部に言った。


「今後、旧南第三への接触は事前通告してください。無通告の書類搬入、車両接近は記録します」


 長谷部は丁寧に頭を下げた。


「分かりました」


 だが、その声は昨日より冷たかった。


     *


 帰り道、健二は速度を上げなかった。


 燃料を積んでいる。


 焦れない。


 それでも、心は先へ行っていた。


 旧南第三。

 開いた門。

 白い封筒。

 移送同意。

 蓮の怒り。

 颯太の名前札。


 坂井が言った。


「よく、怒鳴りませんでしたね」


 健二は前を見たまま答えた。


「怒鳴ったら、あの人たちの方が慣れている気がしました」


「場を荒らすのが得意な相手ですか」


「たぶん」


 坂井は少し黙った。


「相原一尉が言っていました」


「何を」


「敵は、銃を持っている者だけではない。書類を持ってくる者もいる、と」


 健二は苦笑した。


「相原さんも、兄ちゃんみたいになってきましたね」


「それは一尉に言わない方がいいです」


「言いませんよ」


 海風が遠ざかる。


 山の匂いが戻ってくる。


 健二はトラックの荷台から、燃料の重みを感じていた。


 米より危うい重み。


 でも、これで今夜は発電機を少し回せる。


 名前札が見える。

 無線が使える。

 水を汲める。

 音楽室に明かりを入れられるかもしれない。


 燃料は、学校の夜を少しだけ延ばす。


     *


 旧南第三に戻ると、蓮が門の内側にいた。


 昨日よりも、立ち方が少し違っていた。


 ただ待っているのではない。


 見ている。


 健二のトラックが入る前に、蓮は荷台を見た。


「燃料?」


「ある」


「こぼしてない?」


「こぼしてない」


「白い奴らは?」


「港にいた」


 蓮の顔が歪む。


「やっぱりかよ」


 健二は車を降りた。


「書類、見た」


 蓮は紐を握った。


「破ってない」


「聞いた」


「燃やしてもない」


「偉い」


「偉くねえ」


 蓮は顔を背けた。


 でも、耳だけ少し赤かった。


 陸が紙を持って来た。


「十時十九分、白い封筒。畑中という女性。十二時四分、坂の下を別の白い車が通過。ナンバーは見えませんでした。十三時二十二分、門の前に人影なし」


 健二は紙を受け取った。


「ありがとう」


 陸は頷いた。


「燃料の量は」


「三日分」


 陸の眉が動く。


「五日分ではないんですか」


「三日分にした」


「なぜ」


「港にも必要な人がいる」


 陸は少し考えた。


「再取得予定は」


「三日後」


「記録します」


 美月が燃料置き場を聞いた。


「どこに置きますか」


 健二は言った。


「人が通らないところ。火から遠いところ。颯太の名前札からも遠いところ」


 美月は頷いた。


「では、北側の倉庫は使わない方がいいです。夜に颯太くんが通ります」


 陸が言った。


「西側の掃除用具室は換気が悪いです」


 蓮が言った。


「用務員室の奥は?」


 竹本が即答する。


「火気がある。駄目たい」


 悠斗が言った。


「体育館の横は?」


 竹本が少し考える。


「雨はしのげる。鍵もかかる。遠いが、見回りが必要たい」


 蓮が言った。


「俺が見る」


 健二は蓮を見る。


 蓮はすぐに言った。


「何だよ。向いてるんだろ」


 陸が真面目に頷いた。


「向いています」


 蓮は少し嫌そうにした。


 でも、否定しなかった。


 健二は言った。


「一人では行かない。必ず大人と行く」


「分かってる」


「本当に?」


「分かってるって!」


 竹本が笑った。


「怒鳴る時は、分かっとらん時たい」


「うるせえ!」


 その声に、廊下の空気が少しだけ軽くなった。


 燃料を運び込む。


 重い。

 臭い。

 危ない。


 だが、必要だった。


 健二はそれを一つずつ置いた。


 記録する。

 置き場所を決める。

 見回る人を決める。

 使う時間を決める。


 ただ持って帰るだけでは終わらない。


 運んだ後に、生活がある。


     *


 夕方、職員室で書類の確認をした。


 倉持が、支援団体から届いた書類を机に並べる。


 三枝が赤鉛筆で問題の箇所に線を引く。


 瀬田ハルは、黙ってそれを見ていた。


 健二は書類の文字を見た。


 支援。

 安全確保。

 一時的移送。

 保護委託。

 生活環境変更。


 言葉は、どれも悪くない。


 悪くない言葉が並んでいるからこそ、怖い。


 蓮が入口から覗いている。


「何て書いてある」


 三枝は健二を見た。


 健二は頷いた。


 三枝は蓮に向かって言った。


「米や燃料をもらう代わりに、必要なら子どもを別の場所へ移してもいい、という意味の文があります」


 蓮は舌打ちした。


「やっぱりじゃねえか」


 陸が隣から言った。


「代わりとは書いていません」


「同じだろ」


「同じに見えるように、近くに置いてあります」


 倉持が陸を見る。


「その通りです」


 陸は少しだけ驚いた顔をした。


 褒められたのかどうか、判断できないようだった。


 倉持は続けた。


「直接は書かない。けれど、支援を受けるには全部読んで署名する必要がある。読まない人、急いでいる人、困っている人ほど署名してしまう」


 健二は紙を見たまま言った。


「困っている人の前に、よくできた紙を出すんですね」


 三枝が頷いた。


「はい」


 瀬田ハルが小さく言った。


「第七でも、同じでした」


 誰もすぐには聞き返さなかった。


 瀬田ハルは続けた。


「保護の同意。教育環境の変更。心理安定のための移動。言葉は違いました。でも、子どもの返事は、書類の後ろに回されました」


 健二は、ホワイトボードの方を見た。


 ここでは名前で呼ぶ。


 名前で呼ぶというのは、優しい言葉ではない。


 手順だ。


 最初に名前を呼ぶ。

 本人が返事をする。

 嫌なら嫌と言う。

 分からないなら分からないと言う。


 その前に書類を置かない。


 健二は言った。


「この書類は、どうしますか」


 倉持が答える。


「保管します。写しを取ります。相原一尉にも送ります。団体には、物資支援と移送同意を切り離した書式でなければ受け取れないと返します」


 三枝が続ける。


「そして、子どもの個人情報は出しません」


 健二は頷いた。


 蓮が言った。


「向こうが勝手に来たら?」


 坂井が答えた。


「記録します。必要なら止めます」


「止められんのかよ」


 坂井は少しだけ考えて言った。


「一人では無理な時もあります」


 蓮は眉を寄せる。


「何だよそれ」


「だから、見てください。早く気づけば、止める方法が増えます」


 蓮は黙った。


 頼まれる。

 必要と言われる。

 役に立てと言われるのではなく、見てほしいと言われる。


 蓮はそういう言葉に、まだ慣れていない。


 だが、逃げなかった。


「分かったよ」


 小さく言った。


     *


 夜、発電機を一時間だけ回した。


 蛍光灯が、少し遅れてついた。


 多目的室に明かりが戻る。


 颯太はすぐに名前札を見た。


 文字がはっきり見える。


 小野寺颯太。


 颯太は、指でその文字をなぞった。


 美月は、明かりの届く範囲を確認している。


「ここなら、夜に起きても水が見えます」


 陸が言う。


「発電機、一時間。残量から引きます」


 千紘は、ラジオを見ていた。


 古い携帯ラジオだった。


 竹本が用務員室から出してきたものだ。


 電池を入れると、雑音が鳴った。


 千紘は、その音にじっと耳を澄ませている。


 ザー、という音。


 その奥に、人の声が混じる。


 聞き取れない。


 でも、声だった。


 千紘は小さく言った。


「誰かが話してる」


 瀬田ハルが隣に座る。


「聞こえますか」


「まだ、分かりません」


 千紘はラジオを少し動かした。


 雑音が変わる。


 悠太が音楽室の前から顔を出した。


「その音、細かい」


 花音が床に、細い線をたくさん描いた。


 蓮が校門から戻ってきた。


「外、今のところ何もなし」


 陸がすぐに時刻を書く。


 蓮はそれを見て言った。


「いちいち書くなよ」


「必要です」


「分かったよ」


 蓮はそう言って、廊下の壁にもたれた。


 健二は、八人を見た。


 米がある。

 燃料が少しある。

 名前札が見える。

 ラジオから声がする。

 音楽室に、まだ壊れていない鍵盤があるかもしれない。


 それだけで、学校は昨日より少しだけ続いている。


 だが、外には白い車がいる。


 書類がある。

 支援という言葉がある。

 回収屋がいる。

 燃料を狙う者がいる。


 開いた門は、良いものだけを通すわけではない。


 だから、見ていなければならない。


 無線が鳴った。


 健二が取る。


「旧南第三、真柴健二」


 相原の声が入る。


「燃料は」


「三日分、確保しました」


「五日ではないのか」


「港にも必要な家がありました」


 相原は少し黙った。


「そうか」


「間違っていましたか」


「いや」


 相原は短く言った。


「その判断でいい」


 健二は少しだけ息を吐いた。


 無線の向こうで、直樹の声がした。


「ケン」


「兄ちゃん」


「欲張らなかったな」


「聞こえてたのか」


「だいたい聞いた」


「盗み聞きかよ」


「無線だ」


 健二は少し笑った。


「三日後、また行く」


「その前に道を見る」


「兄ちゃんは動くな」


「俺が行くとは言ってない」


「言いそうだから先に言った」


 無線の向こうで、直樹が少し息を漏らした。


「白い団体は」


「書類に移送同意を混ぜてきた」


「そうか」


 直樹の声が低くなった。


「燃やすなよ」


「燃やしてない。蓮も我慢した」


「偉いな」


 健二は蓮の方を見た。


 蓮は聞こえていたらしく、顔を背けた。


「本人に言ってやって」


「蓮」


 健二は無線を少し蓮に向けた。


 蓮は嫌そうな顔をした。


「何だよ」


 直樹の声が入る。


「紙を燃やさなかったらしいな」


「うるせえ」


「よくやった」


 蓮は固まった。


 文句を言おうとした顔のまま、声が出なかった。


 直樹は続けた。


「怒るのは使える。だが、証拠を残した方が後で殴れる時がある」


 健二がすぐに言った。


「兄ちゃん、言い方」


 蓮は小さく笑った。


「そっちの方が分かる」


 直樹は短く言った。


「なら覚えとけ」


 無線が少し乱れた。


 相原の声が戻る。


「旧南第三、今夜も警戒を続けろ。白いワゴンの団体は、まだ動く」


 健二は答えた。


「了解」


 通信が切れた。


     *


 発電機を止める時間になった。


 陸が言った。


「一時間です」


 美月がランタンの位置を確認する。


 颯太が名前札を持つ。


 悠太は耳を澄ませる。


 千紘はラジオを切る前に、もう一度雑音を聞いた。


 蓮は門の方を見る。


 悠斗は八人を数える。


 健二は発電機のスイッチに手をかけた。


「消すぞ」


 誰も大きく反応しなかった。


 昨日より、少しだけ準備ができている。


 健二はスイッチを切った。


 唸りが止まる。


 蛍光灯が消える。


 校舎が夜に戻る。


 だが、完全な暗闇ではなかった。


 ランタンがある。


 名前札が見える位置に置かれている。


 水の場所も決まっている。


 燃料は体育館横に記録して置いた。


 米は布をかけてある。


 白い書類は証拠として袋に入っている。


 そして、門の内側には人がいる。


 蓮が立っていた。


 その横で陸が時刻を書いている。


 悠斗が廊下の真ん中に座った。


 最後ではなく、真ん中だった。


 美月が毛布を一枚、颯太の近くへ置いた。


 千紘が花音の横に座る。


 悠太は、消えた発電機の音を少し探したあと、花音の描いた線を見た。


 颯太は名前札を見て、小さく言った。


「小野寺颯太」


 誰かに呼ばれたわけではない。


 自分で確認した。


 陸が顔を上げる。


「います」


 颯太は、少し驚いた顔をした。


 それから、小さく頷いた。


 外では、風が草を揺らしている。


 坂の下に、車の灯りはない。


 けれど、健二はもう知っていた。


 見えないから、いないとは限らない。


 善意の顔をした車も、燃料を狙う手も、紙の中に紛れた同意も、暗いところから来る。


 それでも、旧南第三は明かりを全部つけ続けることはできない。


 限られた燃料で、限られた夜を越えるしかない。


 健二は廊下の窓から外を見た。


 門は開いている。


 でも、昨日とは違う。


 開いた門の内側には、名前がある。


 米がある。


 燃料がある。


 記録がある。


 そして、見ている子どもたちがいる。


 旧南第三小学校は、まだ弱い。


 だが、ただ待つだけの場所ではなくなり始めていた。


 その夜、校舎は暗かった。


 けれど、誰の名前も消えなかった。


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