第二十二話 白い封筒 改正版
## 第二十二話 白い封筒
白い封筒は、透明な袋の中に入れられていた。
職員室の机の上。
窓から入る朝の光を受けて、封筒の表面だけが妙に明るく見えた。
旧南第三小学校 御中。
丁寧な字だった。
乱暴ではない。
脅しているわけでもない。
汚れてもいない。
だから余計に、健二はそれが嫌だった。
怒鳴り声や銃声なら、まだ分かりやすい。
どこから危険が来ているか、身体が先に反応する。
でも、この封筒は違った。
白く、きれいで、礼儀正しい。
その中に、子どもを移す同意が入っていた。
三枝は机の前に座り、赤鉛筆で問題の箇所をもう一度確認していた。
倉持は別紙を並べ、団体名と関連法人の欄を書き写している。
瀬田ハルは、少し離れたところに立っていた。
封筒を見ている。
けれど、封筒だけを見ているわけではなかった。
第七で見た書類。
第七で聞いた言葉。
第七で消えていった名前。
その全部を、同時に見ている顔だった。
健二は言った。
「これ、相原さんに送りましたか」
倉持が頷く。
「写しは送っています。原本はここに残します」
「原本をここに?」
「ここで受け取ったものです。ここに残す意味があります」
三枝が続けた。
「ただし、一部の写しは保護所にも置きます。同じ場所に全部置かない」
健二は頷いた。
記録室は、もう一度狙われた。
なら、記録は一か所に置かない。
名前も。
証言も。
書類も。
白い封筒も。
健二は封筒を見た。
「これを出してきたってことは、向こうはまだ諦めていないですよね」
倉持は眼鏡を直した。
「諦めていないと思います」
「次は何をしてきますか」
倉持はすぐには答えなかった。
紙を見ている。
だが、紙だけで未来は分からない。
その時、無線が鳴った。
坂井が取った。
「旧南第三、坂井」
相原の声が入る。
「相原だ。真柴健二はいるか」
坂井が健二を見る。
健二は無線の前へ行った。
「真柴です」
「直樹が話したがっている。短くしろ。医療班に怒られる」
無線の向こうで、低い声が入った。
「ケン」
「兄ちゃん」
「白い封筒の紙は残ってるか」
「残ってる」
「破ってないか」
「破ってない。燃やしてもない」
「蓮は」
「我慢した」
「ならいい」
健二は机の上の封筒を見た。
「向こうは、次に何をしてくる」
無線の向こうで、少し間があった。
直樹が息を整えているのが分かった。
「署名が取れてないなら、次は相談の形に変える」
「相談?」
「書類だけでは動かせない。相手が拒否した記録が残るからな」
倉持が顔を上げた。
直樹は続けた。
「だから、次は向こうから“相談を受けた”形を作る。支援を求められた。話を聞いた。必要があると判断した。そういう記録にする」
三枝の表情が変わった。
「相談実績を作るということですね」
倉持が低く言った。
「署名がなくても、相談中という形にできる」
瀬田ハルが白い封筒を見た。
「第七でも、最初はそうでした」
健二が振り向く。
「そう、というのは」
「最初から強制ではありませんでした。相談、見学、一時確認。そういう言葉から始まりました」
瀬田ハルは、封筒の中の書類に目を落とした。
「子どもをすぐに連れていくのではなく、まず大人を納得させます。相談した記録を残して、次に車を入れる。施設の方が安全だと説明する。本人が迷っているなら、大人が判断すると言う」
健二の背中に冷たいものが走った。
直樹の声が続いた。
「だから、次に見るのは車だ」
「旧南第三に来るってことか」
「直接とは限らない。近くの集落か、避難所か、親族確認が済んでいない家かもしれない」
「何のために」
「一件、形を作るためだ」
健二は無線を握った。
「形?」
「支援を受けて助かった子、という形だ。そこに子どもの本音は出ない。食事がある。寝床がある。清潔な服を着ている。写真を撮れば、大人は安心する」
瀬田ハルが小さく言った。
「名前が変わっていても、外からは分かりません」
職員室が静かになった。
直樹は言った。
「次に来るのは、脅しじゃない。相談だ。だから厄介なんだ」
少し雑音が入った。
相原の声が割り込んだ。
「こちらで団体の登録情報を確認した。あの団体は、支援物資の配布だけじゃない。巡回相談、施設見学、広報放送も活動内容に入っている」
健二は眉を寄せた。
「広報放送?」
「地域の簡易放送や民間ラジオ枠を使っている。避難所や集落へ向けて、相談窓口の案内を流すらしい」
直樹の声が戻った。
「千紘はラジオを聞いていただろう」
健二は振り返った。
千紘は職員室の外、廊下で古いラジオを持っていた。
「千紘に聞かせるのか」
「無理にじゃない。聞けるならだ」
直樹は短く言った。
「支援団体は、人を集める前に声を流す。怖い声じゃない。優しい声だ。だから拾えるなら、拾っておけ」
千紘はラジオを両手で持ったまま、少しだけ背筋を伸ばした。
「聞けます」
三枝がすぐに言った。
「無理はしなくていいです」
千紘は小さく首を横に振った。
「聞こえたら、残した方がいいと思います」
倉持が録音機を取り出した。
「では、短時間だけ。時刻と内容を記録します」
相原が言った。
「旧南第三は、今日から来訪記録を厳格にしろ。車両、人数、所属、用件、置いていった物、持って帰った物。全部だ」
倉持がすでに書き始めていた。
「了解しました」
健二が答える前に、倉持が言った。
「こちらで書式を作ります」
無線の向こうで、直樹が言った。
「あと、名前」
「名前?」
「来た奴にも名前を言わせろ。団体名じゃない。個人名だ」
健二は頷いた。
「分かった」
「団体は責任をぼかす。名前を出させろ」
通信はそこで切れた。
職員室に、しばらく沈黙が残った。
白い封筒が、机の上で光っていた。
*
その日の午前、旧南第三には新しい帳面ができた。
来訪記録。
倉持が表を作った。
日時。
氏名。
所属。
車両。
用件。
置いていった物。
持って帰った物。
対応者。
備考。
陸がそれを見て、すぐに言った。
「車両の色も必要です」
倉持がペンを止める。
「そうですね」
「通過だけの場合も記録しますか」
「します」
「坂の下、校門前、校舎裏、体育館横で欄を分けた方がいいです」
倉持は、陸を少し見た。
「理由は」
「見えるものが違います。坂の下からは校舎全体、校門前からは入口、校舎裏からは多目的室の窓、体育館横からは燃料置き場が見えます」
健二は陸を見た。
十歳の子どもが、校舎の見られ方を分けている。
それは少し怖くもあった。
だが、今は必要だった。
倉持は静かに頷いた。
「入れましょう」
蓮が横から覗き込む。
「俺も書くのかよ」
「見たものは言ってください。書くのは陸でも倉持さんでもいい」
健二が言うと、蓮は少し不満そうにした。
「俺、字が汚いし」
陸がすぐに言った。
「読めればいいです」
「うるせえ」
「読めないと困ります」
「陸がすぐに言った。
「読めればいいです」
「うるせえ」
「読めないと困ります」
「分かってるよ」
蓮は紙を奪うように見て、眉を寄せた。
「車の番号、全部見えなかったら?」
倉持が答えた。
「見えた分だけ」
「白い車が二台いたら?」
「違いを書く。傷、文字、窓の数、乗っていた人」
蓮は少し黙った。
「面倒くせえ」
健二は言った。
「面倒なことをしないと、向こうが楽になる」
蓮は健二を見た。
それから、紙をもう一度見た。
「じゃあ、見る」
その言葉は小さかった。
でも、逃げてはいなかった。
*
校門の横には、古い守衛室があった。
分断前は、来客用の受付と宿直室を兼ねていたらしい。
窓ガラスは一枚はそこが、旧南第三の見張り場所になっていた。
机の上には来訪記録。
鉛筆。
懐中電灯。
古い双眼鏡。
坂の下が見える小さな地図。
守衛室の外には、境界警備隊の小型車が一台停めてあった。
軍用車というほど大きくはない。
だが、無線機と予備のライト、簡単な救急箱が積まれている。
夜は坂井か古賀がそこで交代で休み、蓮と陸は大人がいる時間だけ記録を手伝うことになっていた。
竹本はその守衛室を見て言った。
「門は閉めん。でも、見んとは違う」
健二は頷いた。
開けたままにする。
ただし、無防備にはしない。
ここは施設ではない。
だが、誰でも好きに入れる場所でもない。
開いた門には、見ている目が必要だった。
*
瀬田ハルは、白い封筒の書類を別の紙に書き写していた。
全文ではない。
引っかかる言葉だけを抜き出す。
心理安定。
生活環境変更。
一時的移送。
安全確保。
柔軟な対応。
大人による判断。
本人の混乱を考慮。
瀬田ハルは、それを見ているうちに、手が止まった。
三枝が気づく。
「大丈夫ですか」
瀬田ハルはすぐには答えなかった。
廊下の向こうでは、美月が毛布の置き場所を変えている。
悠斗が水の容器を運んでいる。
颯太は名前札を持ったまま、二人の動きを見ている。
ここは第七ではない。
それでも、紙の言葉は第七を連れてくる。
瀬田ハルは言った。
「第七でも、最初は番号だけではありませんでした」
三枝は黙って聞いた。
「最初は、名前も使っていました。でも、書類の上で少しずつ変わりました。本人の混乱を避けるため。安全確保のため。集団生活の安定のため。そういう理由で、名前を呼ぶ回数が減っていきました」
健二も近くで聞いていた。
「急に消したわけじゃないんですね」
「はい」
瀬田ハルは紙を見る。
「急に消すと、子どもも大人も反発します。だから、先に別の呼び方を混ぜるんです」
「別の呼び方」
「班名、生活名、保護名、仮名。最初は便利な呼び方です。でも、いつの間にか本名よりそちらが優先されます」
三枝の顔が険しくなった。
「この団体も、そうだと?」
「同じとは言いません。でも、言葉の流れが似ています」
瀬田ハルは、赤く線を引いた箇所を指でなぞった。
「本人の混乱を考慮する、という言葉は便利です。子どもが嫌だと言っても、それは混乱だと扱えるから」
健二は、颯太の名前札を思い出した。
小野寺颯太。
呼ばれても、少し遅れて返事をする子。
その遅れを、誰かが「混乱」と呼べばどうなるか。
本人のために、しばらく別の名前で呼びましょう。
そう言えてしまう。
健二は低く言った。
「名前を奪うのに、優しい理由をつけるんですね」
瀬田ハルは頷いた。
「はい」
三枝は書類を閉じた。
「この言葉の一覧も、記録に入れます」
瀬田ハルは少し驚いた。
「私の記憶です。証拠には」
倉持が言った。
「証言です」
瀬田ハルが倉持を見る。
「第七を知る職員の証言として残せます。言葉の一致は、後で意味を持ちます」
瀬田ハルはしばらく黙った。
それから、小さく頷いた。
「残してください」
*
昼前、千紘はラジオを持って音楽室の前に座っていた。
古い携帯ラジオ。
電池の残りは少ない。
陸が電池の残量を気にして、使用時間を紙に書いている。
千紘は、ダイヤルを少しずつ回した。
ザー。
ザー。
遠くの声。
音が途切れる。
悠太が少し離れたところで、その雑音を聞いていた。
花音は床に細い線を描いている。
「ここの音、痛くない?」
千紘が悠太に聞いた。
悠太は少し考えた。
「細かいけど、刺さらない」
「じゃあ、少し続けるね」
悠太は頷いた。
千紘はラジオをまた動かした。
ザー、という音の奥から、人の声が浮かんだ。
女性の声だった。
明るく、落ち着いている。
『境界地域で暮らす子どもたちに、安心できる夜を』
千紘の手が止まった。
廊下の向こうで、蓮が振り返る。
『全国児童救済連絡会では、食料、燃料、衣類、学習支援、心のケアを必要とするご家庭、施設、地域拠点からの相談を受け付けています』
千紘は声を出さなかった。
代わりに、陸が走ってきた。
「聞こえましたか」
千紘は頷く。
「録音できますか」
陸は少し慌てた。
「録音機は」
倉持が職員室から出てきた。
「あります」
古い小型録音機だった。
倉持は電池を入れ、千紘の横に置いた。
「無理に聞かなくていいですよ」
千紘は首を横に振った。
「聞けます」
声は続いていた。
『私たちは、保護者のいない子ども、避難生活で不安を抱える子ども、適切な養育環境を




