第二十三話 巡回相談車 改正版
## 第二十三話 巡回相談車
朝から、蓮は守衛室にいた。
校門の横にある、古い小さな部屋。
窓には竹本が打ちつけたベニヤ板があり、そこに細い覗き穴が作られている。
机の上には来訪記録。
鉛筆が三本。
懐中電灯。
古い双眼鏡。
坂の下までを描いた地図。
守衛室の外には、境界警備隊の小型車が停まっていた。
白でも黒でもない、くすんだ緑色の車だった。
大きな軍用車ではない。
だが、無線機と予備ライトが積まれている。
後部座席には救急箱と毛布がある。
蓮はその車を見て、少しだけ安心していた。
安心していることは、誰にも言わなかった。
陸は机の前に座り、昨日作った表をもう一度見ていた。
「来訪記録、親族申出記録、車両通過記録、物品受領記録」
蓮が言った。
「多すぎだろ」
「分けないと混ざります」
「混ざったら?」
「向こうが得します」
蓮は黙った。
それはもう、少し分かってきていた。
白い封筒の中には、米や燃料の話と、子どもを移す話が一緒に入っていた。
混ざると危ない。
名前と番号も。
支援と移送も。
相談と同意も。
善意と管理も。
混ざると、後で誰かが持っていく。
蓮は守衛室の覗き穴から坂の下を見た。
「今日、本当に来んのか」
陸は時計を見る。
「放送では午後でした」
「午後って広すぎだろ」
「十二時から十七時くらいです」
「広すぎるっつってんだよ」
陸は少し考えた。
「では、十二時から十七時まで見る必要があります」
「お前と話すと疲れる」
「すみません」
「謝んな」
陸はまた紙に目を落とした。
蓮は、坂の下を見続けた。
今までなら、待つのは嫌いだった。
何かが来ると分かっていて、じっとしている時間。
先に動きたくなる。
外へ出て、坂の下まで見に行きたくなる。
だが、昨日、直樹が無線で言った。
見るだけだ。
追うな。
乗るな。
中に入るな。
その言葉は、蓮に向けられたものではなかった。
でも、蓮は勝手に自分に言われた気がしていた。
見るだけ。
それは、何もしないことではない。
今は少しだけ、そう思える。
*
多目的室では、美月が毛布の位置を整えていた。
昨日より、少しだけ手順ができていた。
夜に起きる子がつまずかないように、水の容器は壁側へ寄せる。
颯太の名前札が見えるように、ランタンは入口側から少し内へ入れる。
悠太が音で驚かないように、金属のバケツは廊下の端へ移す。
花音が絵を描けるように、短くなった鉛筆を一つ箱に入れる。
悠斗は、美月の指示で水を運んでいた。
「ここ?」
「もう少し右」
「右?」
「颯太くんが夜に起きた時、手で触れるところ」
悠斗は水の容器を置き直した。
美月が少し離れて確認する。
「そこです」
悠斗は小さく息を吐いた。
「外を見るより、難しいな」
美月は首を傾げた。
「そうですか」
「危ない方を見てる方が分かりやすい」
「中も危ないです」
美月は静かに言った。
「水がないと困ります。名前札が見えないと颯太くんが困ります。音が鳴ると悠太くんが困ります。毛布が遠いと、夜に寒いです」
悠斗は黙った。
危険というのは、外から来るものだけだと思っていた。
銃声。
車。
知らない大人。
白い腕章。
でも、ここでは違う。
水の場所が悪いだけで、颯太は夜に固まる。
金属の音が鳴るだけで、悠太は動けなくなる。
毛布が足りないだけで、美月は痛みを我慢する。
中を見る。
健二に言われた意味が、少しだけ分かった。
悠斗は言った。
「次、何を運ぶ?」
美月は少し考えた。
「椅子を二つ、廊下へ」
「何で」
「相談車が来た時、子どもが部屋の中に集まらないように。大人が廊下で話せる場所が必要です」
悠斗は美月を見た。
「美月、すごいな」
美月は少し困った顔をした。
「すごくないです。部屋に知らない大人が近づくのが嫌なだけです」
悠斗は黙って頷いた。
「じゃあ、廊下に置く」
*
職員室では、三枝と倉持が対応手順を確認していた。
机の上には、三枚の紙がある。
一枚目は、来訪者対応。
二枚目は、親族申出対応。
三枚目は、支援団体対応。
健二は、その三枚を見て言った。
「こんなに必要なんですね」
倉持が答える。
「相手が分けずに来るから、こちらは分けます」
三枝が頷く。
「親族を探す人と、支援団体と、物資提供者を同じ扱いにすると、後で危険です」
「でも、相手は混ぜてくる」
「はい」
倉持は眼鏡を直した。
「たとえば、親族確認の話をしながら物資を置く。物資を置きながら相談記録を作る。相談記録の中に移送同意を入れる。そういうことです」
健二は息を吐いた。
「よくできていますね」
「困っている現場ほど、読めませんから」
三枝は言った。
「だから、ここで止めます」
瀬田ハルは窓際で、言葉の一覧を見ていた。
昨日書き出したものだ。
心理安定。
生活環境変更。
一時的移送。
安全確保。
柔軟な対応。
大人による判断。
本人の混乱を考慮。
そこへ、新しい言葉を足す。
巡回相談。
生活の場。
あたたかい支援。
大人の手で守る。
健二が聞いた。
「その言葉、全部残しますか」
瀬田ハルは頷いた。
「はい」
「聞いていると、普通に良い言葉にも見えます」
「だから残します」
健二は瀬田ハルを見る。
瀬田ハルは言った。
「悪い言葉だけなら、誰でも警戒できます。良い言葉の中に、子どもの返事を消す仕組みが入っている時が危ないんです」
健二は少し黙った。
「支援って言葉も?」
「はい」
「安全も?」
「はい」
「大人が守る、も?」
瀬田ハルは目を伏せた。
「子どもに聞かないなら、危ないです」
健二は頷いた。
旧南第三では、名前を呼ぶ。
でも、名前を呼ぶだけでは足りない。
返事を待つ。
遅れても待つ。
嫌だと言ったら止まる。
分からないと言ったら、分からないままにする。
その手順を抜いた時、名前はただの音になる。
*
昼過ぎ、ラジオからまた声が流れた。
千紘は音楽室の前に座り、録音機を隣に置いていた。
昨日より、手の震えは少なかった。
悠太は少し離れたところにいる。
花音は床に線を描いている。
蓮と陸は守衛室。
美月と悠斗は廊下の椅子を動かしている。
颯太は名前札を持って、瀬田ハルの近くに座っていた。
ザー、という音の奥から、明るい声が入った。
『本日午後、境界南部地域を巡回相談車が回ります』
千紘は録音機を確認した。
赤い小さなランプがついている。
『お子さまの生活環境、学習環境、心のケアについてお悩みの方は、白い腕章のスタッフへお気軽にご相談ください』
千紘は唇を結んだ。
お気軽に。
その言葉が、軽すぎると思った。
『無理な移送は行いません。まずはお話を伺います』
倉持が職員室から顔を出した。
三枝も聞いている。
『必要に応じて、設備の整った施設見学もご案内できます』
健二は、その言葉を聞いた。
施設見学。
直樹の言葉が頭に浮かぶ。
相談。
見学。
一時確認。
次に車。
放送は続いた。
『子どもたちに、安心できる名前と、あたたかい明日を』
瀬田ハルの手が止まった。
名前。
健二も顔を上げた。
昨日の放送では、名前という言葉はなかった。
今日、入ってきた。
まるで、こちらが「名前」に反応していることを知っているかのように。
千紘はラジオを切らなかった。
最後まで聞いた。
音楽が流れた後、録音機を止める。
「名前って言いました」
千紘が言った。
健二は頷いた。
「聞こえた」
瀬田ハルが静かに言った。
「言葉を寄せてきています」
三枝が聞く。
「こちらが名前にこだわっていると、知られている?」
倉持が答える。
「可能性があります。昨日の川島さんへの話し方、支援団体のスタッフ、港でのやり取り。どこかで拾われたかもしれません」
健二は無線機を見た。
まだ連絡はしない。
まず、ここで記録する。
千紘が言った。
「声は優しいです。でも、昨日より近いです」
健二は千紘を見る。
「近い?」
「昨日は、大人に話している声でした。今日は、子どもにも聞こえるようにしている気がします」
廊下が静かになった。
千紘は、自分で言ったことに少し驚いたように目を伏せた。
瀬田ハルが言った。
「大事なことです」
千紘は小さく頷いた。
声を聞く子。
声の違いに気づく子。
それは、千紘の中で、少しずつ形になり始めていた。
*
最初に白い車を見つけたのは、蓮だった。
「来た」
声は小さかった。
でも、守衛室の中の空気が一瞬で変わった。
陸が時計を見る。
「十三時四十六分」
蓮は覗き穴から坂の下を見ている。
「白い車。一台」
陸が書く。
「車種」
「分かんねえ。昨日のより長い」
「ワゴン?」
「たぶん」
「文字は」
「青い字。横に全国児童……」
「全国児童救済連絡会」
「それ」
坂井が守衛室に入った。
「人数」
蓮は目を細めた。
「前に二人。後ろは見えない。窓にカーテンみたいなのがある」
坂井の表情が変わった。
「カーテン?」
「白っぽい。中が見えにくい」
陸がすぐに書く。
「後部窓、白いカーテン」
車は坂を上がってきた。
古賀が小型車の横に立つ。
坂井は校門の内側へ出た。
健二も職員室から出てきた。
三枝、倉持、瀬田ハルも廊下の入口に立つ。
子どもたちは多目的室の中へ入れた。
ただし、閉じ込めたわけではない。
美月が椅子を入口から少し離して置き、悠斗が水の位置を確認した。
颯太は名前札を握っている。
千紘はラジオを胸に抱えている。
悠太は花音の横に座った。
蓮だけは守衛室。
陸も守衛室。
見る役だった。
白い巡回相談車は、校門の前で止まった。
エンジンは切られなかった。
蓮が小さく言った。
「エンジン、ついたまま」
陸が書く。
「停車後もエンジン継続」
車の前席から、長谷部が降りた。
昨日と同じ、白い腕章。
清潔な作業服。
穏やかな顔。
もう一人、女性スタッフが降りた。
昨日封筒を届けた畑中だった。
後部座席のドアは開かない。
健二はそれを見た。
坂井も見ている。
長谷部は校門の前で頭を下げた。
「昨日は行き違いがあり、失礼しました」
健二は門の内側に立ったまま答えた。
「今日は何の用件ですか」
「巡回相談です。こちらの地域を回っています。旧南第三にも、お困りのことが多いのではと思いまして」
倉持が記録を始める。
「氏名、所属、用件をお願いします」
長谷部は少しだけ視線を動かした。
それから笑った。
「全国児童救済連絡会、長谷部です。用件は、生活支援と相談のご案内です」
「同乗者は」
「畑中です」
畑中が頭を下げる。
倉持は書いた。
「車両は」
長谷部が少し困ったように笑った。
「そこまで必要ですか」
坂井が答えた。
「必要です」
長谷部は車の番号を告げた。
陸が守衛室で書き写す。
蓮が横から言う。
「後ろのカーテンも書け」
陸は頷いた。
健二は長谷部に聞いた。
「車の中には、何がありますか」
長谷部は少しだけ間を置いた。
「相談用の資料、物資の見本、簡易椅子などです」
「確認できますか」
「もちろんです。ただ、個人情報を含む資料もありますので」
坂井が言った。
「外から確認します。こちらから中には入りません」
長谷部は笑顔のまま頷いた。
「分かりました」
畑中が後部ドアへ向かう。
蓮が窓から見ていた。
「開けるぞ」
後部ドアが開いた。
健二は門の内側から車内を見た。
相談用の折りたたみ椅子が二脚。
簡易机。
段ボール箱。
毛布。
書類箱。
水。
小さなぬいぐるみ。
そして、車内の奥に細長いベンチがあった。
ベンチには、固定用のベルトがついている。
健二はそれを見た。
坂井も見た。
倉持のペンが止まりかける。
長谷部が言った。
「長時間の相談で具合の悪くなった方が休めるようにしています」
健二は何も言わなかった。
直樹の声が頭に残っている。
相談車なら、相談用の椅子と机があるはずだ。
だが、移送する気があるなら、子どもを乗せる場所がある。
窓。
鍵。
内側から開くか。
毛布の数。
名札。
書類箱。
健二は見た。
後部ドアの内側に、ロックがある。
外から開ける取っ手は大きい。
内側の取っ手は小さい。
子どもの手で開けられるかは分からない。
車内の上部に、小さな棚がある。
そこに名札ケースが並んでいた。
透明なケース。
白い紙。
青い線。
健二は息を止めた。
「その名札は」
長谷部はすぐに答えた。
「相談時にお名前を確認するためのものです」
「本人の名前ですか」
「もちろん、基本的には」
基本的には。
またその言葉だった。
健二は言った。
「基本的には、では困ります」
長谷部の笑顔が少しだけ硬くなる。
「事情がある場合もあります。子ども自身が本名を思い出せない、または混乱している場合には、安心できる呼び名を一時的に使うこともあります」
瀬田ハルの顔が変わった。
健二は振り返らなかった。
見なくても分かった。
同じ言葉だった。
本人の混乱。
安心できる呼び名。
一時的。
瀬田ハルが一歩前へ出た。
「その呼び名は、誰が決めますか」
長谷部は瀬田ハルを見た。
「専門スタッフが、本人の様子を見ながら」
「本人が嫌だと言ったら」
「無理には」
「嫌だと言えない子は」
長谷部の笑顔が止まった。
瀬田ハルは静かに続けた。
「怖い時に黙る子は。名前を呼ばれても返事が遅れる子は。大人の顔色を見て、何でも頷いてしまう子は。そういう子の呼び名は、誰が決めますか」
職員室の入口で、三枝が瀬田ハルを見ていた。
倉持はその言葉を記録している。
長谷部は少し声を柔らかくした。
「そのために、私たち専門の者が」
瀬田ハルは首を横に振った。
「第七でも、そう言いました」
空気が凍った。
長谷部の目が、ほんの少し細くなる。
「第七?」
健二は長谷部を見た。
「旧第七教育管理施設です」
「私たちとは関係ありません」
「関係があるとは言っていません」
健二は静かに言った。
「ただ、言葉が似ています」
長谷部は少しだけ笑った。
「危険な施設と、私たちを同じように扱うのは心外です」
坂井が言った。
「同じかどうかを確認するために、記録しています」
長谷部は坂井を見る。
「警備隊が民間支援を妨げるのですか」
「妨げていません。中に入れないだけです」
畑中が少し前へ出た。
「せめて、子どもたちに物資だけでも」
健二は言った。
「物資は必要なら受け取ります。ただし、中身と条件を確認して、物資、相談、移送、施設見学を分けてください」
長谷部は答えた。
「支援は総合的に行うものです」
「ここでは分けます」
「分けることで、必要な支援が遅れます」
「混ぜることで、子どもが動かされます」
長谷部は黙った。
白い車のエンジン音だけが残る。
守衛室の中で、蓮が低く言った。
「エンジン、ずっとついてる」
陸が書く。
「停車中、エンジン継続」
蓮は続けた。
「後ろのドア、畑中が立ったまま。すぐ閉められる位置」
陸が書く。
「後部ドア前に職員一名」
「中のベンチ、子ども二人なら座れる」
陸の手が一瞬止まった。
それから書いた。
「後部ベンチ、子ども二名程度」
蓮は自分の声が少し震えていることに気づいた。
怒りではない。
見えてしまう怖さだった。
*
その時、多目的室の中で、颯太が動いた。
白い車のエンジン音。
名札。
安心できる呼び名。
それらが、颯太の中のどこかに触れた。
颯太は名前札を握ったまま、入口の方へ一歩出た。
千紘が気づく。
「颯太くん」
颯太は止まらなかった。
廊下へ出る。
瀬田ハルが振り返る。
健二も気づいた。
「颯太」
颯太は健二を見なかった。
白い車を見ていた。
車内の棚にある、透明な名札ケース。
白い紙。
青い線。
颯太の唇が小さく動いた。
「また、書くの」
健二はすぐに近づかなかった。
急に近づけば、颯太は固まる。
「何を?」
健二は少し離れたところから聞いた。
颯太は名前札を握った。
「名前」
長谷部が颯太を見た。
その目が、初めてはっきりと子どもに向いた。
健二はそれに気づいた。
だが、その目は優しさだけではなかった。
反応を見ている目だった。
颯太は続けた。
「前も、書いた」
廊下が静かになった。
千紘が口元を押さえた。
悠斗が立ち上がりかける。
美月が水の容器の横で止まる。
悠太は花音の袖を握った。
花音は床に描いていた線を消した。
健二はゆっくり言った。
「どこで」
颯太は答えなかった。
代わりに、名前札を胸に押しつけた。
「小野寺颯太」
「うん」
「これ」
「うん」
「変えない?」
健二は、胸の奥が痛くなるのを感じた。
「変えない」
颯太は健二を見た。
「遅くても?」
「遅くても」
「分からなくても?」
「分からなくても」
「怖くても?」
「怖くても」
颯太は少しだけ息を吸った。
「小野寺颯太」
健二は言った。
「います」
陸が守衛室の中で顔を上げた。
蓮も見ていた。
颯太は、ほんの少しだけ頷いた。
長谷部が静かに言った。
「その子は、少し混乱しているようですね」
空気が変わった。
蓮が守衛室で机を叩きかけた。
坂井が一歩動く。
健二は長谷部を見た。
「今のを、混乱と記録しますか」
長谷部は穏やかに答えた。
「不安反応として、専門的には」
「ここでは、名前の確認です」
健二の声は低かった。
「この子は、自分の名前を確認しただけです」
長谷部は黙った。
瀬田ハルが言った。
「そうやって、返事を不安反応に変えるんです」
長谷部は瀬田ハルを見た。
瀬田ハルは震えていた。
だが、逃げなかった。
「名前を確認した子を、混乱していると書く。嫌だと言えない子を、判断困難と書く。大人が決める理由にする」
三枝がその横に立った。
「今の発言も記録します」
倉持が書いていた。
長谷部の顔から、笑顔が少しだけ消えた。
「私たちは敵ではありません」
健二は答えた。
「敵かどうかは、今決めません」
「では」
「旧南第三には入れません。子どもとは話させません。物資を置くなら中身と条件を確認します。相談記録は作りません」
長谷部は、しばらく健二を見ていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「分かりました。今日はご挨拶だけにしておきます」
畑中が後部ドアを閉めた。
その瞬間、蓮が言った。
「閉めるの早い」
陸が書く。
「後部ドア、即時閉鎖」
白い車は、エンジンをかけたまま向きを変えた。
坂の下へ戻っていく。
健二はその後ろ姿を見た。
車の後部窓の白いカーテンが、風もないのに少し揺れた。
*
白い車が見えなくなってからも、誰もすぐには動かなかった。
颯太は名前札を握っている。
健二はゆっくり膝をついた。
「颯太」
颯太は健二を見る。
「はい」
「よく言った」
颯太は首を横に振った。
「言ってない」
「言った」
「小野寺颯太って」
「それが大事だった」
颯太は分からない顔をした。
でも、名前札を離さなかった。
千紘が近づいて、颯太の横に座った。
美月は毛布を一枚持ってきて、颯太の近くに置いた。
悠斗は廊下の入口に立ち、全員の位置を見ている。
悠太は小さく言った。
「車の音、嫌だった」
花音は床に、白い車の四角い形を描いた。
その中に、小さな線を何本も入れる。
カーテンの線だった。
蓮が守衛室から出てきた。
顔が赤い。
怒っている。
でも、ただ怒っているだけではなかった。
「混乱って何だよ」
誰もすぐには答えなかった。
蓮は続けた。
「颯太は名前言っただけだろ。何であいつが勝手に混乱って決めんだよ」
三枝が言った。
「それが危険なんです」
「何が」
「大人が名前を聞く前に、状態を決めてしまうことです」
蓮は言葉を探した。
「じゃあ、あいつらは、颯太が何言っても混乱って書けんのか」
倉持が答えた。
「書こうと思えば、書けます」
「ふざけんなよ」
「だから、こちらの記録が必要です」
倉持は蓮の方を見た。
「颯太くんは、自分の名前を確認した。健二さんが返事をした。落ち着いた。そう記録します」
蓮はしばらく黙った。
それから言った。
「俺も書く」
陸が顔を上げた。
「字が」
「読めればいいんだろ」
陸は少しだけ目を丸くした。
それから紙を差し出した。
「はい」
蓮は鉛筆を握った。
字は大きく、曲がっていた。
でも、読めた。
白い車。
後ろの窓に白いカーテン。
ベンチあり。
名札ケースあり。
颯太が名前を言った。
あいつが混乱って言った。
混乱じゃない。
最後の一行で、蓮は鉛筆を止めた。
陸が見た。
「感想です」
「駄目か」
「備考に入れます」
蓮は少しだけ笑った。
「入れんなよ」
「必要です」
*
夕方、無線で直樹に報告した。
健二は守衛室の机の上に、今日の記録を置いていた。
倉持の記録。
陸の記録。
蓮の記録。
千紘の録音。
瀬田ハルの言葉の一覧。
相原が最初に出た。
「こちら境界保護所」
「旧南第三、真柴です。巡回相談車が来ました」
「入れたか」
「入れていません」
「子どもと接触は」
「颯太が車を見て反応しました。直接話はさせていません」
少し間があった。
相原の声が低くなる。
「直樹に代わる」
雑音。
それから直樹の声。
「ケン」
「兄ちゃん」
「車は」
「白いワゴン。後部窓に白いカーテン。相談用の椅子と机。毛布。書類箱。奥にベンチ。固定用のベルト。名札ケース」
無線の向こうが黙った。
健二は続けた。
「後部ドアは内側の取っ手が小さい。子どもが開けられるかは分からない。停車中もエンジンは切らなかった」
「乗せる車だな」
直樹は短く言った。
健二の胸が沈んだ。
「やっぱり?」
「相談だけなら、エンジンを切る。中を落ち着かせる。ドアを開けておく」
「うん」
「すぐ動ける状態で、後部を隠してる。乗せることを考えてる」
健二は目を閉じた。
そう思っていた。
でも、直樹に言われると確定したようで重かった。
直樹は続けた。
「名札ケースは」
「白い紙と青い線」
「旧南第三の名札とは違うか」
「違う」
「向こうの管理用だな」
健二は頷いた。
無線だから、直樹には見えない。
それでも頷いた。
「颯太が、それを見て反応した」
「何て」
「また書くの、って」
無線の向こうが静かになった。
直樹の声が、少し低くなった。
「前に書かされた記憶があるかもしれない」
「うん」
「無理に掘るな」
「分かってる」
「でも、残せ」
「残した」
「蓮は」
「書いた」
「何を」
健二は少し迷った。
それから読んだ。
「白い車。後ろの窓に白いカーテン。ベンチあり。名札ケースあり。颯太が名前を言った。あいつが混乱って言った。混乱じゃない」
無線の向こうで、直樹が少し息を吐いた。
「いい記録だ」
健二は蓮を見た。
蓮は守衛室の外で聞いていた。
聞こえていないふりをしている。
直樹は言った。
「次は、向こうの施設を見る必要がある」
健二の手が止まった。
「施設」
「あの車の行き先だ」
「追うなって言っただろ」
「今日はな」
「兄ちゃん、まさか」
「まだ俺は動けん」
「まだ、だろ」
「だから準備する」
健二は無線を握った。
「誰が行く」
「お前だ」
健二は黙った。
「俺?」
「運送屋が一番自然だ」
「何を運ぶんだよ」
「向こうが欲しがるものだ」
健二は嫌な予感がした。
直樹は続けた。
「物資だ。米でも毛布でも燃料でもない。相原が用意する空箱でいい。向こうが運送屋を使っているなら、搬入口がある」
相原の声が割り込んだ。
「まだ決定ではない」
直樹が言った。
「見るだけなら行ける」
相原が低く返す。
「お前は行かせない」
「俺とは言ってない」
「言いそうだから先に言った」
健二は少しだけ笑った。
兄弟と相原のやり取りが、少し似てきていた。
直樹は健二に戻した。
「ケン」
「何」
「向こうの施設に入るなら、荷物を見るな」
「運送屋なのに?」
「荷物だけ見るな。靴を見ろ。名札を見ろ。窓を見ろ。子どもが出口を見るか見ろ」
健二は黙った。
「それと、子どもが名前で振り向くか」
健二の胸が重くなった。
「それを見るのか」
「見るだけでいい」
「助けられなかったら?」
直樹はすぐには答えなかった。
少し間を置いて言った。
「その場で全部救おうとするな」
健二は目を伏せた。
「分かってる」
「分かってない声だ」
「分かってるよ」
「ケン」
「何」
「見るのも、運ぶ仕事だ」
健二は無線を見つめた。
見るのも、運ぶ仕事。
意味はすぐには分からなかった。
だが、直樹の声は確かだった。
「見て、記録して、次に戻る道を作る。そこで抱えたら、お前も子どもも止まる」
健二は小さく息を吐いた。
「分かった」
「嘘つけ」
「分かろうとしてる」
「ならいい」
通信はそこで切れた。
*
夜、旧南第三ではいつもの点呼をした。
だが、今日は少し違った。
颯太が、自分から前に出た。
名前札を両手で持っている。
声は小さい。
でも、昨日より少しだけはっきりしていた。
「小野寺颯太」
誰かが呼ぶ前だった。
自分で言った。
健二は答えた。
「います」
颯太は頷いた。
陸がすぐに書こうとした。
蓮が言った。
「それも書くのかよ」
陸は真面目に答えた。
「必要です」
蓮は少し考えてから言った。
「じゃあ、俺が書く」
陸は鉛筆を渡した。
蓮は紙に大きな字で書いた。
颯太が自分で名前を言った。
少し曲がった字だった。
でも、読めた。
千紘はラジオを胸に抱えたまま、颯太を見ていた。
美月はランタンの位置を直した。
悠斗は廊下の真ん中に座った。
悠太は発電機の音が止まる前に、花音の描いた線を確認した。
花音は床に、白い車の四角い形を描いた。
その四角の中に、今日は小さな名札を描いた。
青い線の入った名札。
でも、その横に、別の紙を描いた。
小野寺颯太。
文字ではなく、形だった。
颯太はそれを見て、小さく笑った。
健二はその笑顔を見た。
白い車は帰った。
でも、終わってはいない。
むしろ、始まったのだと思った。
あの車の先に、別の場所がある。
設備の整った施設。
安心できる生活の場。
専門スタッフ。
あたたかい支援。
そして、青い線の名札。
そこにいる子どもたちが、本当の名前で振り向くのか。
それを見なければならない。
発電機を止める時間になった。
陸が言った。
「一時間です」
健二はスイッチに手をかけた。
「消すぞ」
明かりが消えた。
校舎は夜に戻った。
守衛室の窓には、蓮と陸の影があった。
外の小型車では、坂井が無線の音量を絞っている。
職員室の机には、白い封筒と、今日の記録が並んでいる。
名前を奪うものは、銃だけでは来ない。
白い車で来る。
優しい声で来る。
相談という言葉で来る。
名札を持って来る。
それでも、旧南第三には、別の名札があった。
子どもたちが自分で握る名前札。
誰かに渡されたものではなく、自分で確認する名前。
健二は暗くなった廊下で、八人の気配を数えた。
八人いる。
まだ、ここにいる。
そして明日から、健二はその外を見に行く準備を始める。
巡回相談車は帰っていった。
だが、その白い車が残したものは、燃料の匂いよりも長く、旧南第三の夜に残っていた。




