第二十四話 救済の名札 改正版
## 第二十四話 救済の名札
翌朝、健二は二トントラックの荷台を空にした。
完全な空ではない。
毛布の束。
水の箱。
使っていない紙コップ。
古いがまだ使える折りたたみ椅子。
竹本が修理した小さな棚。
どれも、旧南第三で余っているものではなかった。
余っているものなど、ほとんどない。
それでも、相原が境界保護所側で用意した支援物資の一部を、健二のトラックで運ぶことになった。
行き先は、全国児童救済連絡会が管理する施設。
白羽生活支援センター。
名前だけ聞けば、きれいな場所に思えた。
白い羽。
生活。
支援。
センター。
正しい言葉が並んでいる。
健二は荷台のロープを締めながら、その名前がどうしても好きになれなかった。
坂井が車両の横に立っている。
今日は制服ではない。
だが、境界警備隊の身分証は持っている。
施設側には、境界保護所からの支援物資搬入と、運送業者による荷下ろしとして連絡が入っている。
隠れて入るわけではない。
正式に入る。
だからこそ、見えるものがある。
倉持が紙を一枚、健二に渡した。
「確認項目です」
健二は受け取った。
そこには、短い言葉が並んでいた。
出入口。
窓。
内側から開くか。
靴の数。
名札の書式。
子どもの呼び方。
職員の立ち位置。
子どもが出口を見るか。
名前で振り向くか。
健二は紙を見て、息を吐いた。
「荷物の確認じゃないですね」
倉持は頷いた。
「荷物は帳面で確認できます。人は、見ないと分かりません」
三枝が近づいてきた。
「無理はしないでください。子どもを連れ出そうとしない。約束もしない。名前を聞き出そうとしない」
健二は顔を上げた。
「名前を聞くのも駄目ですか」
「聞き方によります」
三枝は静かに言った。
「その子が答えられる状態か分からないまま聞けば、こちらも同じことをしてしまいます」
健二は黙った。
名前を守るために行く。
でも、名前を無理に聞けば、また奪う側になる。
難しい。
瀬田ハルが少し離れた場所から言った。
「もし名札があっても、それだけで安心しないでください」
健二は振り向く。
「名札があっても?」
「はい」
瀬田ハルは、自分の手元の紙を見た。
「第七にも、名札に似たものはありました。番号だけではなく、生活名や班名が書かれていました。子どもたちは、それで呼ばれることに慣らされていきました」
健二は昨日の巡回相談車を思い出した。
透明な名札ケース。
白い紙。
青い線。
颯太の「また、書くの」という声。
瀬田ハルは続けた。
「名札があるかどうかではなく、その子が自分の名前として受け取っているかを見てください」
健二は頷いた。
「分かりました」
その時、無線が鳴った。
坂井が取る。
「旧南第三、坂井」
相原の声が入った。
「出発前に、直樹が話す」
少し雑音が混じった。
それから、直樹の声が入る。
「ケン」
「兄ちゃん」
「荷台は見たか」
「見た」
「ロープは」
「締めた」
「燃料は」
「往復分だけ」
「予備は」
「坂井さんの車に」
「ならいい」
健二は少しだけ笑った。
「今日は細かいな」
「いつもだ」
「そうだった」
直樹は少し間を置いた。
「昨日言った見る場所は、覚えてるな」
「靴、窓、出口、職員の立ち位置、名札、子どもの返事」
「それでいい」
直樹は、そこで声を少し低くした。
「今日は、それを探しに行くんじゃない」
健二は眉を寄せた。
「探しに行くんじゃない?」
「探そうとすると、顔に出る。相手も気づく」
健二は黙った。
「荷物を運べ。伝票を見ろ。棚を置け。運送屋の仕事をしろ。その途中で、見えたものだけ拾え」
「見ようとしすぎるな、ってことか」
「そうだ」
直樹は短く答えた。
「人間は、探しているものを見つけると止まる。お前は分かりやすい。止まるな」
健二は苦笑しそうになったが、できなかった。
「そんなに顔に出るか」
「出る」
「即答かよ」
「特に子どものことになると出る」
健二は返せなかった。
無線の向こうで、直樹が続ける。
「もし何か見つけても、その場で意味を決めるな。名前が違う、靴が揃っている、窓が開かない、子どもが出口を見ない。全部、まず持ち帰れ」
「その場で聞くな?」
「聞くなとは言わない。だが、問い詰めるな」
「……分かった」
「分かってない声だ」
「分かろうとしてる」
直樹は少し息を吐いた。
「それでいい」
健二は無線を握り直した。
「兄ちゃん」
「何だ」
「もし、助けてほしそうな子がいたら」
無線の向こうが少し静かになった。
「約束するな」
直樹は言った。
「今すぐ迎えに来るとも、必ず助けるとも言うな」
「言わない方がいいのか」
「守れない約束は、二回目の施設になる」
健二は目を伏せた。
「じゃあ、何て言えばいい」
「何も言わなくていい。見る。覚える。戻る。それだけでいい」
健二は黙った。
「ケン」
「何」
「戻ってこい。お前が戻らないと、次の道が作れない」
健二は小さく息を吐いた。
「分かった」
「それは分かった声だ」
通信は切れた。
健二は無線機から手を離した。
助けに行くのではない。
探しに行くのでもない。
運送屋として入り、見えたものを持ち帰る。
それが、今日の仕事だった。
*
出発の前、八人が校門の近くに集まっていた。
全員が外に出ているわけではない。
門の内側。
守衛室の横。
坂井の小型車のそば。
蓮は守衛室の窓に片肘をついていた。
「俺も行く」
「行かない」
健二は即答した。
「言うと思った」
「言う前から決まってた」
「ずるいだろ」
「ずるくていい」
蓮は舌打ちした。
「じゃあ、何見ればいい」
健二は少し考えた。
「今日は、戻る時間を見る」
「時間?」
「俺たちが出て、何時に戻るか。途中で白い車が来るか。誰が門に来るか」
陸が横から言った。
「出発時刻は九時二十分予定。戻り予定は十五時以内です」
「十五時を過ぎたら?」
蓮が聞く。
健二が答える。
「無線を入れる」
「入らなかったら」
坂井が言った。
「境界保護所から確認します」
蓮は坂井を見る。
「ちゃんとやれよ」
「やる」
いつものやり取りになっていた。
陸は健二に紙を渡した。
「車両記録の予備です」
「俺が書くのか」
「見えたら書いてください」
「運転中は書けない」
「止まった時でいいです」
健二は苦笑した。
「分かった」
千紘はラジオを持っていた。
「施設でも、あの声が流れているかもしれません」
「聞こえたら覚えておく」
「無理に聞かなくていいです」
千紘は、三枝の言い方に似ていた。
健二は頷いた。
「ありがとう」
美月は小さな布袋を渡した。
「酔った時用です。あと、手を拭く布です」
「俺が?」
「誰が使うか分かりません」
健二は布袋を受け取った。
「助かる」
悠斗は何も言わず、荷台を見ていた。
「どうした」
健二が聞くと、悠斗は言った。
「毛布、何枚ですか」
「二十枚」
「戻ってくる分は?」
「ない。渡す分だ」
「旧南第三は大丈夫ですか」
「必要分は残してある」
悠斗は少し頷いた。
自分がここに残る側になっても、全体の数を見る癖は消えない。
悠太はトラックのエンジン音に少し肩を上げた。
花音がその横で、トラックの形を床に描く。
颯太は名前札を握っていた。
健二は颯太の前にしゃがむ。
「行ってくる」
颯太は少し間を置いた。
「青い線、ある?」
健二はすぐには答えなかった。
「あるかもしれない」
「見たら」
「見る」
「変えない?」
健二は颯太の名前札を見た。
小野寺颯太。
「変えない」
颯太は頷いた。
「帰って、くる?」
「帰ってくる」
「名前、呼ぶ?」
「呼ぶ」
「八人?」
「八人」
颯太は、ようやく小さく頷いた。
健二は立ち上がり、運転席に乗った。
門は開いていた。
守衛室には蓮と陸がいる。
坂井は助手席へ乗り込んだ。
古賀は小型車で後ろにつく。
竹本は門の脇で腕を組み、低く言った。
「荷物を運ぶ顔で行け」
健二は窓を開けた。
「どういう顔ですか」
「欲張らん顔たい」
健二は少し笑った。
「難しいですね」
「なら、難しい顔で行け」
トラックは旧南第三を出た。
*
白羽生活支援センターは、旧南第三から南東へ一時間半ほどの場所にあった。
分断前は、企業の研修施設だったらしい。
山の斜面を少し上がったところにあり、門の前には新しい看板が立っていた。
白羽生活支援センター。
全国児童救済連絡会 連携施設。
看板は新しい。
建物は古い。
だが、手入れはされていた。
外壁は塗り直され、窓には白いカーテンがかかっている。
入口には花壇があり、季節外れの花が少しだけ植えられていた。
玄関には消毒液と来訪者名簿が置かれている。
健二はトラックを止めた。
坂井が小さく言う。
「きれいですね」
「はい」
きれいだった。
だからこそ、すぐに悪い場所だとは言えない。
荒れた施設なら分かりやすい。
汚れた床。
怒鳴る大人。
閉じ込められた子ども。
でも、ここは違った。
白い壁。
揃えられた靴。
掃除された玄関。
柔らかい声の職員。
長谷部が入口から出てきた。
「真柴さん。お越しいただきありがとうございます」
健二は運送屋として頭を下げた。
「物資をお届けに来ました」
「助かります。こちらへ」
長谷部の後ろには、別の職員が二人いた。
一人は畑中。
もう一人は、若い男性職員だった。
名札には「白羽支援員 遠野」とある。
健二はその名札を見た。
個人名がある。
だが、支援員という肩書きが先に大きく書かれている。
坂井が言った。
「境界警備隊の坂井です。搬入確認に立ち会います」
長谷部は笑顔で頷く。
「もちろんです。透明性は大事ですから」
透明性。
健二はその言葉を胸の中で繰り返した。
透明という言葉を使う場所ほど、見えないものがあるかもしれない。
搬入口は建物の横にあった。
トラックを回す。
健二はバックミラーで建物を見る。
窓。
カーテン。
非常口。
靴箱。
職員の立ち位置。
直樹に言われたことを思い出す。
荷物は最後に見ろ。
搬入口の横には、小さな靴箱があった。
外履きが並んでいる。
子どもの靴が多い。
だが、どれも同じような色だった。
白、灰色、薄い青。
サイズは違う。
でも、個性が少ない。
健二は荷台を開けながら、靴箱を見た。
すぐ履ける位置にある靴は少ない。
奥の方に、まとめて置かれている。
外へ出るための靴というより、管理されている物に見えた。
健二は心の中で記録した。
靴。
子ども用多数。
色が似ている。
すぐ履ける位置ではない。
荷下ろしが始まった。
遠野が毛布の束を運ぶ。
畑中が水の箱を確認する。
長谷部は帳面を持っている。
「毛布二十枚、水十二箱、紙コップ六袋、折りたたみ椅子四脚、小型棚一台」
倉持が作った伝票と同じだった。
数字にズレはない。
そこだけを見れば、きちんとした施設だった。
健二は毛布を運びながら、搬入口の奥を見た。
廊下がある。
白い床。
右手に事務室。
左手に相談室。
奥に食堂らしい広い部屋。
食堂から、子どもの声が聞こえた。
笑い声ではない。
返事の声だった。
「はい」
揃っていた。
一人の声ではない。
複数の子どもが、同じタイミングで返事をしていた。
健二は荷物を置く手を止めそうになった。
止めなかった。
運送屋として、荷物を置いた。
*
荷下ろしの途中、長谷部が言った。
「せっかくですから、少し中をご覧になりますか」
健二は顔を上げた。
坂井も長谷部を見る。
「旧南第三との誤解もあるようですし、私たちの活動を見ていただければ安心していただけると思います」
健二はすぐには答えなかった。
こちらから求めれば、不自然になる。
向こうから案内するなら、見る口実になる。
健二は言った。
「荷下ろしが終わってからでよければ」
「もちろんです」
長谷部は笑った。
その笑顔は、昨日より少し丁寧だった。
丁寧すぎる笑顔だった。
荷下ろしを終え、健二と坂井は玄関から中へ入った。
来訪者名簿に名前を書く。
健二は、真柴健二と書いた。
所属欄には、運送業。
少し迷ってから、そう書いた。
親の会社ではない。
父の看板でもない。
今の自分の仕事だった。
坂井は境界警備隊と書いた。
長谷部が案内する。
「こちらが相談室です」
相談室はきれいだった。
机と椅子。
柔らかい色のカーテン。
ぬいぐるみ。
壁には、子どもが描いたらしい絵。
だが、椅子の位置が気になった。
子ども用の椅子は、部屋の奥。
大人の椅子は、入口側。
子どもが座ると、出口までの間に大人がいる形になる。
健二はそれを見た。
職員の立ち位置。
子どもと出口の間に立つか。
直樹の声が頭に戻る。
長谷部は説明を続ける。
「ここで、生活の困りごとや、子どもたちの不安を聞き取ります」
坂井が聞いた。
「子ども本人からですか」
「場合によります。本人が話せる時は本人から。難しい場合は、保護者や関係者から」
健二は聞いた。
「本人が話したくない時は?」
「無理には聞きません」
「話したくない、という記録は残りますか」
長谷部は少しだけ間を置いた。
「必要に応じて」
必要に応じて。
健二はその言葉を記録した。
次に食堂へ案内された。
広い部屋だった。
長机が三列。
椅子がきれいに並んでいる。
壁には献立表。
今日の昼食は、米、味噌汁、煮物、果物。
食事はきちんとしている。
旧南第三より、ずっと整っている。
子どもたちが十数人、席に座っていた。
年齢はばらばらだった。
小学校低学年くらいの子。
十歳前後の子。
中学生くらいの子もいる。
全員、清潔な服を着ていた。
髪も整えられている。
殴られているようには見えない。
飢えているようにも見えない。
寒さに震えてもいない。
それでも、健二は息苦しくなった。
子どもたちは、入ってきた大人を一斉に見た。
そして、すぐに目を戻した。
誰も出口を見なかった。
誰も、窓を見なかった。
誰も、他の子の位置を確認しなかった。
旧南第三の八人とは違う。
安全だから見ないのか。
見ることをやめさせられているのか。
まだ分からない。
長谷部が言った。
「みんな、支援物資を運んでくださった真柴さんです」
子どもたちは、同じタイミングで言った。
「ありがとうございます」
声が揃っていた。
きれいだった。
きれいすぎた。
健二は、喉の奥が詰まるのを感じた。
その時、職員の遠野が名簿を持って食堂に入ってきた。
「午後の確認をします」
子どもたちが姿勢を正した。
遠野は名簿を読み上げる。
「ひなた」
「はい」
「まこと」
「はい」
「りお」
「はい」
「そう」
「はい」
「かな」
「はい」
健二は、手を握りしめそうになった。
名前だ。
番号ではない。
柔らかい名前。
でも、どこか薄い。
苗字がない。
漢字もない。
誰がつけたのか分からない。
遠野は続ける。
「ゆい」
「はい」
「なお」
「はい」
その時、一人の男の子が、ほんの少しだけ反応に遅れた。
十歳くらい。
短い髪。
食堂の奥の席。
遠野がもう一度言う。
「なお」
男の子は慌てて答えた。
「はい」
隣の子が、その子の袖を小さく引いた。
健二は見た。
袖を引いた子の動きは、注意ではなく、合図だった。
遅れるな。
そういう合図に見えた。
長谷部が健二の方を見た。
「ここでは、子どもたちが安心して生活できるよう、呼びやすい名前を使っています」
健二は聞いた。
「本人の名前ではないんですか」
「本名の子もいます。事情がある子もいます」
「事情」
「家族から離れたばかりの子、北側で混乱した記録を持つ子、本名を思い出せない子、名乗ることで不安定になる子。いろいろです」
瀬田ハルの言葉が頭に戻る。
本人の混乱を考慮する。
安心できる呼び名。
一時的。
健二は食堂の子どもたちを見た。
ひなた。
まこと。
りお。
そう。
かな。
ゆい。
なお。
番号ではない。
でも、本当にその子の名前なのか。
健二には分からなかった。
分からないことが怖かった。
*
廊下へ出る時、健二は靴箱をもう一度見た。
室内履きが並んでいる。
それぞれに、青い線の入った名札がついていた。
ひなた。
まこと。
りお。
そう。
かな。
やはり苗字はない。
漢字もない。
旧南第三の名前札とは違う。
あそこでは、子どもが自分の名前を確認するために持っている。
ここでは、物を管理するためについているように見えた。
長谷部が言った。
「こちらが生活室です」
生活室には、二段ベッドが並んでいた。
布団は清潔だった。
枕元には小さな箱がある。
箱にも名札。
ひなた。
まこと。
りお。
健二は、箱の中を見なかった。
見る権利はない。
だが、箱の外の名札は見えた。
すべて同じ紙。
同じ青い線。
同じ字の大きさ。
誰かがまとめて作った名札だった。
坂井が聞いた。
「子どもたちは、外へ出られますか」
長谷部は答えた。
「もちろんです。安全確認の上で、庭で遊ぶ時間も設けています」
「自由に?」
「安全のため、職員が付き添います」
健二は窓を見た。
窓は開く。
だが、開く幅が狭い。
転落防止のためと言われれば、そう見える。
しかし、外へ出る窓ではない。
外を見る窓だった。
健二は黙って記録した。
窓。
開く幅は狭い。
外へ出る用途ではない。
廊下の奥から、小さな声が聞こえた。
「はる……」
健二はそちらを見た。
食堂で「なお」と呼ばれていた男の子だった。
廊下の端に立ち、別の年上の女の子を見ている。
男の子はもう一度言いかけた。
「はる……」
女の子はすぐに首を横に振った。
ほんの小さな動きだった。
遠野が廊下の向こうから言った。
「なお」
男の子は肩を震わせた。
「はい」
遠野は優しい声で言った。
「生活室へ戻りましょう」
男の子は頷いた。
健二はその場で動かなかった。
はる。
それは名前の途中なのか。
誰かの名前なのか。
自分の名前なのか。
分からない。
だが、男の子は「なお」と呼ばれて振り向いた。
振り向いたというより、従った。
健二の手が震えそうになった。
何も言わなくていい。
見る。
覚える。
戻る。
直樹の声が、頭の奥で響いた。
健二は息を整えた。
長谷部がこちらを見ている。
健二は顔に出さないように、生活室の棚を見た。
「棚は、こちらに置けばいいですか」
長谷部は少し笑った。
「ええ。お願いします」
健二は棚を動かした。
運送屋の顔に戻る。
棚を置く位置を確認する。
壁との隙間を見る。
床の傾きを見る。
荷物が倒れないように置く。
手を動かしている間だけ、怒りを抑えられた。
*
搬入が終わった後、長谷部は玄関まで見送った。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
健二は伝票を出した。
「受領確認をお願いします」
長谷部は署名した。
全国児童救済連絡会。
白羽生活支援センター。
長谷部。
健二は伝票をしまう。
長谷部が言った。
「真柴さん」
「はい」
「旧南第三の子どもたちも、一度見学に来ませんか」
坂井の目が動いた。
健二は表情を変えなかった。
「今は外出させません」
「見学だけです。ここを見れば、安心する子もいると思います」
「安心するかどうかは、子ども本人に聞きます」
「もちろんです」
長谷部は笑った。
「ただ、子どもは見たことのない場所を怖がります。最初は大人が選択肢を見せてあげることも必要です」
健二は、青い線の名札を思い出した。
「選択肢を見せることと、名前を変えることは別です」
長谷部の笑顔が、わずかに硬くなった。
「またその話ですか」
「大事な話です」
「ここでは、子どもたちは落ち着いています」
健二は玄関の靴箱を見た。
揃った靴。
同じような色。
すぐ履けない場所。
「落ち着いていることと、帰れることは違います」
長谷部は黙った。
坂井が一歩、健二の横に立つ。
健二は頭を下げた。
「失礼します」
外へ出る。
空気が変わった。
建物の中より、外の方が荒れている。
風も冷たい。
道も悪い。
それなのに、健二は外の空気を吸って少し楽になった。
トラックに乗る前、もう一度建物を見た。
白いカーテン。
青い線の名札。
揃った靴。
相談室の椅子。
出口の前に立つ大人。
「なお」と呼ばれて振り向いた子。
「はる」と言いかけた声。
健二はそれを全部、頭の中に入れた。
忘れない。
*
帰り道、坂井はしばらく黙っていた。
山道に入ってから、ようやく言った。
「あそこは、きれいでしたね」
「はい」
「食事もありました」
「はい」
「暴力も、見えませんでした」
「はい」
坂井は窓の外を見た。
「だから、難しいですね」
健二はハンドルを握ったまま頷いた。
「汚い場所なら、すぐ分かるのに」
「ええ」
少し沈黙が続いた。
健二は言った。
「子どもたち、出口を見ませんでした」
坂井が健二を見る。
「気づきましたか」
「旧南第三の子たちは、すぐ出口を見ます。悠斗は人数を数える。蓮は大人の手を見る。悠太は音に固まる。颯太は名前札を見る」
「白羽の子たちは?」
「大人を見て、すぐ戻しました」
健二は前を見た。
「見ない方が安全だと、覚えたみたいでした」
坂井は低く言った。
「それは、安全なんでしょうか」
健二は答えられなかった。
安全。
その言葉は便利だった。
食事がある。
寝床がある。
服がある。
職員がいる。
外に出ない。
大人の言う通りにする。
それを安全と呼ぶことはできる。
だが、帰れるかどうかは別だった。
健二は言った。
「兄なら、何て言うかな」
坂井は少し考えた。
「帰り道がない、と言うかもしれません」
健二はハンドルを握り直した。
帰り道がない。
その言葉が、一番近い気がした。
*
旧南第三へ戻ったのは、十五時前だった。
守衛室から、蓮が飛び出してきた。
「遅え!」
陸が後ろから言う。
「十五時以内です」
「ぎりぎりだろ」
「十四時五十二分です」
「ぎりぎりだろ!」
健二はトラックを止め、窓を開けた。
「戻った」
颯太が門の内側から見ていた。
「名前」
健二はすぐに言った。
「小野寺颯太」
颯太は少し遅れて答えた。
「います」
健二は頷いた。
「八人、呼ぶ」
悠斗がもう数えていた。
美月が廊下から出てくる。
千紘はラジオを抱えている。
悠太は花音の横にいる。
蓮は怒った顔のまま、守衛室の扉に寄りかかっている。
陸は時計を見ている。
健二はトラックを降りた。
旧南第三の校舎を見た。
壊れている。
暗い。
燃料も少ない。
米も多くない。
窓も板だらけ。
でも、子どもたちは出口を見る。
名前札を自分で持っている。
怒る。
数える。
固まる。
聞く。
描く。
遅れて返事をする。
白羽より整っていない。
でも、息があった。
*
職員室で報告をした。
倉持が紙を用意する。
三枝が座る。
瀬田ハルが少し緊張した顔で待っている。
坂井も同席した。
健二は一つずつ話した。
白羽生活支援センターの看板。
靴箱。
白いカーテン。
相談室の椅子の位置。
食堂で揃った返事。
苗字のない呼び名。
青い線の名札。
生活室の箱。
窓の開く幅。
「なお」と呼ばれた子。
「はる」と言いかけた声。
瀬田ハルの顔が白くなった。
「生活名です」
健二が聞く。
「生活名?」
「施設内で使う名前です。第七でも、途中から使われました」
三枝が言った。
「本名ではない?」
「本名の一部を使うこともあります。まったく違う名前をつけることもあります。最初は子どもが呼ばれやすいように、という理由でした」
倉持が書く手を止めない。
「青い線の名札は?」
健二が聞いた。
瀬田ハルは少し考えた。
「第七とは違います。でも、目的は似ています。本人確認ではなく、管理のための名札です」
健二は、颯太の名前札を思い出す。
自分で握る名前札。
青い線の名札は、棚や靴や箱についていた。
人ではなく、物と同じように。
三枝が言った。
「その施設にいる子どもたちの本名を確認する必要があります」
倉持が頷く。
「名簿が必要です。ただし、正面から請求しても出さないでしょう」
坂井が言った。
「相原一尉に報告します」
健二は言った。
「もう一つ」
全員が健二を見る。
「長谷部が、旧南第三の子どもたちを見学に来ないかと言いました」
三枝の顔が険しくなる。
「やはり」
「見学だけだと」
瀬田ハルが静かに言った。
「見学は、移送の前に行います」
「第七でも?」
「はい」
瀬田ハルは手を握った。
「最初は、見せるだけです。きれいな寝床、食事、遊び場。子どもが黙っていれば、大人は安心します。子どもが嫌がれば、環境の変化に不安がある、と記録されます」
健二は目を伏せた。
嫌だと言っても、理由にされる。
黙っても、同意にされる。
笑っても、安心にされる。
どの反応も、向こうの紙に吸い込まれる。
*
夜、八人の点呼の後、健二はホワイトボードの前に立った。
八人の名前が並んでいる。
その下に、森谷拓さんの名前。
そして、今日、新しい一行を書いた。
名前は、本人に返す。
蓮が読んだ。
「名前は、本人に返す」
「どういう意味だよ」
健二は少し考えた。
「大人が便利な名前をつけるんじゃない。大人が管理しやすい名前に変えるんじゃない。その子が自分の名前だと思えるところまで、返す」
陸が言った。
「返すには、元の名前が必要です」
「そうだな」
三枝が続けた。
「記録も必要です」
瀬田ハルが言った。
「待つことも必要です」
颯太は自分の名前札を見ていた。
「遅くても?」
健二は頷いた。
「遅くても」
蓮が言った。
「嫌だって言ったら?」
「止まる」
悠斗が言った。
「分からないって言ったら?」
「急がない」
美月が小さく言った。
「痛い時は?」
「言う」
千紘がラジオを抱えたまま言った。
「声が出ない時は?」
三枝が答えた。
「出るまで待ちます。出ないなら、出ないことをそのまま記録します」
悠太は花音の方を見た。
花音は床に、青い線の名札を描いていた。
その上から、指で別の線を引く。
青い線を消すように。
そして、横に八本の線を描いた。
八人の線。
颯太がそれを見て、小さく言った。
「小野寺颯太」
健二は答えた。
「います」
その夜、発電機を止めた後も、健二はしばらく眠れなかった。
白羽生活支援センターは、きれいだった。
清潔で、食事があり、毛布もあり、職員もいた。
それでも、健二の胸には、あの男の子の声が残っている。
はる。
言いかけて、止められた声。
なお、と呼ばれて振り向いた顔。
あの子の本当の名前は何なのか。
健二には分からない。
まだ助けられない。
まだ連れ出せない。
でも、見た。
見て、戻った。
戻って、記録した。
それが、今日できた全部だった。
職員室の机の上には、白い封筒と、巡回相談車の記録と、白羽生活支援センターの報告書が並んでいる。
紙は、また増えた。
ただし今度の紙は、奪うための紙ではない。
名前を返すための紙だった。
健二は暗い廊下を歩き、守衛室の方を見た。
蓮が窓から坂の下を見ている。
陸がその横で時刻を書いている。
外には、白い車はいない。
だが、白羽生活支援センターの明かりは、健二の頭の中でまだ消えていなかった。
きれいな建物。
青い線の名札。
揃った返事。
出口を見ない子どもたち。
そこにも、帰り道をなくした子どもがいる。
健二はようやく分かった。
旧南第三を守るだけでは終わらない。
門を開けて待つだけでは、届かない場所がある。
運ばなければならないのは、米や燃料だけではなかった。
名前を返すための道も、運ばなければならなかった。




