第二十五話 はると呼ぶ声 改正版
## 第二十五話 はると呼ぶ声
白羽生活支援センターの報告書は、職員室の机の上に置かれていた。
白い封筒の横。
巡回相談車の控えの横。
瀬田ハルが書き出した言葉の一覧の横。
そこに、健二が昨日見てきたものが並んでいる。
白羽生活支援センター。
青い線の名札。
苗字のない呼び名。
揃った返事。
出口を見ない子ども。
「なお」と呼ばれた男の子。
「はる」と言いかけた声。
倉持は、その紙を何度も読み返していた。
三枝は、前日に川島という男が持ってきた写真の写しを横に置いた。
大野晴斗。
十二歳。
北側から逃げてきた可能性のある子。
叔父だという川島が、旧南第三へ探しに来た子。
写真の中の少年は、まだ少し幼く見えた。
髪は短い。
目はまっすぐ前を見ている。
表情は硬い。
学校の運動場らしい場所で撮られている。
健二は、その写真を見た。
そして、昨日の食堂の奥に座っていた「なお」と呼ばれた男の子を思い出した。
似ている。
そう思った。
だが、言えなかった。
似ている、だけでは足りない。
子どもの名前を取り戻すために、別の子を間違えるわけにはいかない。
健二は、写真から目を離した。
「似ているとは思います」
三枝が静かに言った。
「はい」
「でも、断定はできません」
「分かっています」
健二は答えた。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥が落ち着かない。
もし、あの子が晴斗なら。
白羽で「なお」と呼ばれていた子が、本当は大野晴斗なら。
川島は、すぐ近くまで来ていたことになる。
旧南第三の門の前まで来て、甥を探し、写真を見せ、帰っていった。
その頃、晴斗は白羽の食堂で「なお」と呼ばれていたかもしれない。
その事実だけで、健二は喉の奥が詰まった。
倉持が言った。
「ここで焦ると、向こうに気づかれます」
健二は頷く。
「はい」
「白羽に直接、『なおという子の本名は大野晴斗ですか』と聞けば、向こうは動きます」
三枝が続けた。
「その子の部屋を変えるかもしれません。呼び名を変えるかもしれません。別の施設へ移すかもしれません」
瀬田ハルが小さく言った。
「第七でも、名前が外に漏れた子は、部屋を変えられました」
健二は瀬田ハルを見る。
「部屋を?」
「はい。担当も、呼び名も変わりました。本人が混乱しないように、という理由でした」
その言葉が、職員室を冷たくした。
本人が混乱しないように。
もう何度も聞いた言葉だった。
便利すぎる言葉だった。
健二は写真を見た。
「じゃあ、どう確認すればいいんですか」
誰もすぐには答えなかった。
正しい手順は必要だった。
でも、手順が遅すぎれば、子どもはまた見えない場所へ移される。
健二は、机の上の紙を見た。
白い封筒。
巡回相談車の記録。
白羽の報告書。
川島の写真。
紙は増えている。
だが、その紙の向こうにいる子は、まだここにいない。
その時、守衛室から蓮の声がした。
「車」
職員室の空気が変わった。
陸の声が続く。
「坂の下。灰色の軽自動車。前回来た車と同じ可能性があります」
健二は窓の外を見る。
坂の下に、古い灰色の軽自動車が止まっていた。
大野晴斗の叔父だという、川島の車だった。
*
川島は、昨日より疲れた顔をしていた。
服は同じではなかったが、皺は深かった。
髭も少し伸びている。
きっと眠れていない。
手には、茶封筒を持っていた。
守衛室の前で、坂井が対応する。
「氏名と用件をお願いします」
川島は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに答えた。
「川島です。大野晴斗の件で来ました」
陸が書き留める。
「時刻、九時三十八分。川島さん。大野晴斗さんの親族申出追加資料」
川島は陸を見た。
「子どもが書いてるんですか」
蓮がすぐに言った。
「見たこと書いてるだけだ」
川島は少しだけ頭を下げた。
「すみません」
蓮は返事をしなかった。
だが、怒鳴らなかった。
健二が門の内側へ出てきた。
「追加の資料ですか」
「はい」
川島は茶封筒を持ち上げた。
「家に残っていたものを探しました。全部ではないですが、これだけ」
三枝と倉持も来た。
川島は、門の外に置かれた机の上に茶封筒を置いた。
昨日から決めた手順だった。
受け取る前に、誰が、何を、どの状態で持ってきたかを確認する。
倉持が封筒を見た。
「開封してもよろしいですか」
「お願いします」
茶封筒の中には、三つのものが入っていた。
一枚の写真。
古い連絡帳の切れ端。
子ども用の小さな手紙。
写真には、昨日の写真より少し成長した少年が写っていた。
川島が言った。
「去年の春です。分断の少し前です」
健二は写真を見た。
昨日の食堂の男の子に、さらに近かった。
でも、まだ言わなかった。
連絡帳の切れ端には、子どもの字で名前が書かれている。
大野晴斗。
字は少し乱れている。
だが、強く書いてあった。
手紙には、短い文があった。
おじさんへ。
また川にいこう。
はると。
川島はそれを見て、唇を噛んだ。
「姉の家に残っていました。晴斗の母親は、北側に残ったままです。生きているかも分かりません」
三枝は静かに聞いた。
「晴斗くんが白羽生活支援センターにいる可能性を、どこで聞きましたか」
川島は目を伏せた。
「昨日、帰り道に、白い腕章の人に会いました」
健二の胸が重くなる。
「旧南第三に来た後ですか」
「はい。坂の下で。子どもを探しているなら、白羽という施設で相談した方がいいと言われました」
坂井の顔が硬くなった。
「誰でしたか」
「女性でした。名前は……畑中さん、と言ったと思います」
倉持がペンを走らせる。
畑中。
白羽への誘導。
親族申出者への接触。
三枝が聞いた。
「白羽へは行きましたか」
川島は首を横に振った。
「行こうと思いました。でも、途中で戻りました」
「なぜですか」
川島は茶封筒を握りしめた。
「旧南第三で、手順で進めると言われたからです」
健二は川島を見る。
川島は目を逸らさなかった。
「正直、昨日は腹が立ちました。甥がいるかもしれないのに、会えないと言われて。でも、帰ってから考えました」
川島の喉が動いた。
「もし違う子だったら。もし、晴斗が怖がっているのに、自分が叔父だからと近づいたら」
川島の声が少し震えた。
「それでまた、あいつが黙るなら、駄目だと思いました」
職員室の前にいた瀬田ハルが、静かに川島を見ていた。
三枝が言った。
「今日は、資料を預かって確認します」
川島は頷いた。
「お願いします」
そして、少し迷ってから言った。
「晴斗は、自分の名前を言うのが遅い子でした」
健二の手が止まった。
「遅い?」
「はい。小さい頃から、呼ばれてもすぐ返事しない。ぼんやりしているわけじゃなくて、相手の顔を見てから返事する子でした」
颯太の名前が、健二の中で重なった。
遅くても、聞く。
川島は続けた。
「だから、急かさないでください。もし会えるなら、俺が先に名前を呼んでも、返事を待ちます」
三枝が小さく頷いた。
「大事な情報です」
川島は健二を見た。
「ここに、いるんですか」
健二は答えられなかった。
嘘は言いたくない。
でも、断定もできない。
三枝が代わりに言った。
「現時点では確認中です」
川島は唇を噛んだ。
怒りを飲み込んでいる顔だった。
「分かりました」
健二は言った。
「川島さん」
「はい」
「今、白羽に強く詰めると、晴斗くんに会えなくなるかもしれません」
川島の目が揺れた。
「会えなくなる?」
「白羽側が警戒すれば、部屋を変えるかもしれません。呼び名を変えるかもしれません。別の施設へ移すかもしれません。そうなれば、本当に晴斗くんなのか確かめる前に、こちらから見えなくなります」
川島は拳を握った。
「じゃあ、待てってことですか」
「待つだけではありません」
健二は言った。
「間違えないために、順番を作ります。あなたが本当に叔父か。写真の子と、こちらが見た子が同じか。本人がどう反応するか。その全部を確かめます」
川島はうつむいた。
「また、手順か」
「はい」
川島は小さく笑った。
苦い笑いだった。
「嫌いになりそうです」
「俺もです」
健二は正直に言った。
川島は少しだけ驚いた顔をした。
健二は続けた。
「でも、何も確認せずに動けば、向こうの書類だけが事実になります。白羽で“なお”と呼ばれている子として処理されてしまう。そうなったら、大野晴斗という名前が後ろに押しやられます」
川島は長い息を吐いた。
「分かりました」
そして、門の前で頭を下げた。
「晴斗を、別の名前のまま終わらせないでください」
健二は答えた。
「終わらせません」
*
川島が帰った後、職員室で確認会議が開かれた。
倉持が三つの資料を並べる。
写真。
連絡帳の切れ端。
手紙。
三枝は、健二に確認した。
「昨日見た子と、似ていますか」
健二は写真を見た。
白羽の食堂。
奥の席。
「なお」と呼ばれて遅れた子。
「はる」と言いかけた声。
それらを思い出す。
「似ています」
「どの程度ですか」
健二は少し困った。
「はっきり同じとは言えません」
倉持が頷いた。
「では、そのまま扱いましょう」
「弱くないですか」
「弱いのではなく、言い切りすぎないということです。今言えるのは、“似ている”。そこまでです」
健二は黙った。
正確であることは、時にもどかしい。
だが、ここで強く言い切れば、間違えた時に別の子を巻き込む。
三枝が言った。
「川島さんの資料は、親族確認の材料になります。ただし、本人確認が必要です」
瀬田ハルが静かに言った。
「白羽の職員を通して呼ぶと、反応が変わります」
健二が見る。
「どういうことですか」
「職員がいると、子どもは施設内の名前で答えます。第七でもそうでした」
「じゃあ、職員なしで?」
「完全に職員なしは難しいと思います。でも、せめて職員が先に説明しない形が必要です」
三枝が紙に書く。
「面会条件。施設側職員による事前誘導なし。親族が先に名乗る。本人の反応を待つ。回答を急がせない」
倉持が続ける。
「場所は、出口が見える部屋。子どもの背後に職員を立たせない。面会時間は短時間。録音または複数名の控えを残す」
健二は聞いた。
「白羽がそんな条件を飲みますか」
倉持は即答しなかった。
「飲まない可能性があります」
「だったら」
「その時は、白羽が何を嫌がったのかが見えます。そこも判断材料になります」
三枝が頷く。
「面会を嫌がるのか。施設側の呼び名を先に使いたいのか。職員を子どもの背後に立たせたいのか。どこを譲らないかで、相手の考え方が見えます」
健二は椅子に座り直した。
子どもを助けるための道が、また書類になる。
それが苦しい。
でも、紙を嫌って燃やせば、向こうの書類だけが残る。
蓮の「混乱じゃない」という大きな字を思い出す。
あれも必要だった。
荒くても、曲がっていても、颯太を守るための言葉だった。
無線が鳴った。
坂井が出る。
「旧南第三、坂井」
相原の声だった。
「白羽の件か」
「はい。川島さんが追加資料を持参しました」
「直樹も聞いている」
少し雑音が入る。
直樹の声が続いた。
「ケン」
「兄ちゃん」
「写真は見たか」
「見た」
「同じか」
「似ている。でも、断定できない」
「それでいい」
健二は眉を寄せた。
「いいのか」
「いい。そこで断定する奴が一番危ない」
健二は黙った。
直樹は続けた。
「川島には何て言った」
「確認中だと。今強く動けば、白羽が警戒して、部屋や呼び名を変えるかもしれない。そうなると、晴斗くんなのか確かめる前に見えなくなる、と伝えた」
「それでいい」
「兄ちゃん、今日は褒めるな」
「褒めてない。最低限だ」
健二は少しだけ息を抜いた。
三枝が無線の近くへ来る。
「三枝です。白羽へ親族確認面会を申し入れる準備をしています」
相原が言った。
「こちらから正式照会を出す。白羽が拒むなら、理由を確認する」
倉持が続けた。
「面会条件をこちらで作成します」
直樹が言った。
「妥協点を作れ」
倉持がペンを持つ。
「何でしょう」
「子どもを施設内の呼び名で先に呼ばないこと」
職員室が静かになった。
直樹は続けた。
「先に『なお』と呼ばれたら、その子はそっちに戻る。川島が呼ぶなら、川島の知っている名前で呼ばせろ」
三枝が頷く。
「大野晴斗、と」
「そうだ。ただし、返事を急がせるな」
健二が言った。
「川島さんも、待つと言っていた」
「なら使える」
瀬田ハルが静かに言った。
「もう一つ、必要です」
全員が見る。
「本人が返事をしなくても、拒否とは扱わないでください」
三枝がすぐに書く。
「返事なしは、返事なしとして扱う。拒否、混乱、同意とは決めつけない」
瀬田ハルは頷いた。
「はい」
無線の向こうで、直樹が短く言った。
「それがいい」
相原が言った。
「午後、白羽へ照会を出す。返答が来次第、旧南第三へ回す」
通信が切れた。
職員室には、紙をめくる音だけが残った。
*
昼食の時、八人にも簡単に説明した。
すべては言わない。
白羽にいるかもしれない子の話。
その子の名前が違うかもしれないこと。
親族が探していること。
でも、すぐには決めないこと。
悠斗が最初に聞いた。
「帰れるかもしれないってことですか」
三枝が答える。
「そうかもしれません。でも、まだ分かりません」
悠斗は箸を止めた。
「帰れるなら、早く帰した方がいいんじゃないですか」
健二は悠斗を見た。
その声には、自分自身へ向けたものも混ざっていた。
帰れるなら、帰るべき。
迷惑をかけないように。
年長だから。
下の子のために。
悠斗の中には、そういう考えがある。
三枝はゆっくり言った。
「帰る場所があることと、今すぐ帰していいことは違います」
悠斗は黙った。
蓮が横から言った。
「また難しいこと言う」
瀬田ハルが言った。
「たとえば、迎えに来た人が本当に家族でも、その家にご飯がないかもしれません」
美月が顔を上げる。
「寝る場所も?」
「はい」
三枝が続ける。
「学校に行けないかもしれない。病気の人の世話を急に任されるかもしれない。怖いと言えないかもしれない」
悠斗の表情が変わった。
健二はそれを見逃さなかった。
悠斗は何かを言おうとして、やめた。
蓮が言った。
「でも、ここにずっといられるわけじゃねえだろ」
職員室にいた大人たちは黙った。
その通りだった。
旧南第三は、永遠の場所ではない。
帰り道を作る場所だ。
でも、焦って押し出す場所ではない。
健二は言った。
「ずっといる場所ではないかもしれない。でも、急いで出す場所でもない」
陸が箸を置いた。
「確認項目が必要です」
「そうだな」
「帰れる家の確認項目」
三枝が陸を見る。
陸は指で数えながら言った。
「名前を呼ぶか。食事があるか。寝る場所があるか。学校へ行けるか。怖い時に戻れる連絡先があるか」
そこで、美月が小さく言った。
「痛いって言えない家は、嫌です」
三枝は頷き、紙に書いた。
痛いと言える。
千紘は少し迷ってから言った。
「小さい子の面倒を、ずっと見ないといけないのは……疲れます」
その声は小さかった。
誰かを責める声ではない。
ただ、自分が背負ってきたものを少しだけ置く声だった。
三枝は書いた。
小さい子の世話を全部背負わせない。
悠太は、廊下の方を見た。
風で窓枠が小さく鳴っている。
「大きい音が、ずっとする場所は、怖い」
花音が床に、小さな家の形を描いた。
その家の横に、細い道を一本引く。
家から外へ出る道。
外からまた戻れる道。
三枝は、悠太の言葉を受けて書いた。
大きな音や怖い音への配慮がある。
颯太は名前札を触りながら言った。
「名前、変えない?」
質問の形だった。
でも、颯太にとっては一番大事な確認だった。
三枝はすぐに書いた。
名前を変えない。
蓮が腕を組んだまま言った。
「嫌だって言ったら、ちゃんと止まんのか」
三枝は顔を上げた。
「それも入れます」
倉持が別の紙に、少し整えた言葉で書き直した。
嫌だと言ったら止まる。
返事を急がせない。
分からない時は、その場で決めない。
健二は一人ずつ見た。
八人が、自分たちの怖さで確認項目を作っている。
それは、書類の項目よりずっと生きていた。
三枝はすぐに紙を出した。
「今の、全部残します」
蓮が嫌そうな顔をした。
「また書くのかよ」
「必要だからです」
陸が先に言った。
蓮は舌打ちした。
「分かってるよ」
*
午後、白羽生活支援センターから返答が来た。
倉持が無線の内容を書き取る。
相原の声は硬かった。
「白羽は、面会の必要性を認める。ただし、本人の心理安定を優先するため、施設職員立ち会い、施設側呼称の使用、面会前説明を条件としている」
三枝の表情が険しくなった。
「施設側呼称の使用」
瀬田ハルが低く言った。
「先に『なお』と呼ぶつもりです」
相原が続ける。
「また、親族関係の確認には、施設側専門スタッフの聞き取りが必要だと言っている」
倉持は書く。
健二は拳を握った。
「川島さんが呼ぶ前に、向こうが話すってことですか」
三枝が頷いた。
「そうなります」
無線の向こうで、直樹の声が入った。
「断れ」
相原が言う。
「今、断ると面会自体が消える」
「その条件なら面会じゃない。白羽が整えた状態の子を見せられるだけだ」
直樹の声は冷たかった。
「『なお』として準備された子を見ても、晴斗かどうかは分からない」
三枝が無線に向かった。
「では、条件を再提示します」
直樹が言った。
「妥協点を作れ」
「妥協点?」
「完全に職員なしは無理だろう。なら、職員は同席してもいい。ただし、先に呼ばせるな。説明させるな。川島が名乗る。川島が名前を呼ぶ。子どもが反応するか見る」
倉持が書き取る。
「面会時間は短く。逃げ道のある部屋。子どもの背後に職員を立たせない」
瀬田ハルが付け加える。
「返事がなくても、その場で判断しない」
三枝が頷く。
「はい」
相原が言った。
「再提示する。白羽が応じなければ、親族確認を避けている理由を問う」
通信は切れた。
健二は窓の外を見た。
校門は開いている。
守衛室に蓮がいる。
陸が机に向かっている。
門の外に白い車はいない。
だが、白羽の中では今、誰かが「なお」と呼ばれているかもしれない。
その子が「はる」と言いかけたのは、ただの聞き間違いではなかったのかもしれない。
健二は、何もできない時間が一番苦手だった。
動きたい。
車を出したい。
迎えに行きたい。
でも、今動けば見えなくなる。
それを、何度も自分に言い聞かせた。
*
夕方、川島に来てもらった。
旧南第三の門の内側には入れない。
だが、守衛室の外に椅子を置き、三枝が説明した。
川島は黙って聞いていた。
「白羽側は面会自体には応じる姿勢です。ただし、こちらは条件を再提示しています」
「条件?」
三枝は一つずつ説明した。
施設側の呼び名を先に使わないこと。
川島が先に名乗ること。
大野晴斗という名前を、川島から呼ぶこと。
返事を急がせないこと。
返事がなくても、拒否や混乱と扱わないこと。
職員は子どもの背後に立たないこと。
面会後、すぐに引き渡しはしないこと。
川島は最後で顔を上げた。
「すぐには、連れて帰れないんですか」
三枝は静かに答えた。
「はい」
川島は唇を噛んだ。
「もし晴斗だったとしても?」
「はい」
「なぜですか」
健二は、川島を見た。
答えるのは三枝の役目かもしれない。
でも、健二が言った。
「帰れる場所か、確認するためです」
川島の顔が強張る。
「俺の家が駄目だと言うんですか」
「まだ、見ていません」
「俺はあいつの叔父です」
「はい」
「血もつながっています」
「はい」
「それでも?」
健二は頷いた。
「それでもです」
川島の拳が震えた。
怒りが来ると思った。
だが、川島は怒鳴らなかった。
代わりに、低く言った。
「じゃあ、見に来てください」
健二は川島を見る。
「俺の家を見てください。米がどれだけあるか。布団があるか。学校へ行けるか。俺が嘘をついていないか。全部見てください」
三枝が静かに頷いた。
「確認します」
川島は目を伏せた。
「正直、十分じゃないです」
その言葉は、健二の胸に刺さった。
「一人暮らしです。姉の家も空き家になっています。仕事も不安定です。晴斗をすぐに楽にしてやれるかは、分かりません」
川島は顔を上げた。
「でも、名前は変えません」
誰も話さなかった。
「飯が足りないなら、俺が減らします。布団が足りないなら、俺が床で寝ます。でも、名前は変えません」
健二は、父親のことを思い出した。
義理。
家族。
我慢。
食うためには耐えろ。
家に戻ったんだから黙れ。
川島の言葉も、危うさを含んでいる。
俺が減らす。
俺が床で寝る。
それは美しいようで、後で子どもに重りになることもある。
健二は慎重に聞いた。
「晴斗くんが、ここに戻りたいと言ったら」
川島は固まった。
「戻る?」
「一度帰っても、やっぱり怖い。やっぱり無理だ。そう言ったら」
川島はすぐには答えられなかった。
その沈黙を、健二は見た。
即答しないことは、悪いことではない。
むしろ、きれいな言葉でごまかさない方がいい。
川島は長く息を吐いた。
「……腹は立つと思います」
三枝が少しだけ目を細めた。
川島は続けた。
「俺は、何のために探したんだって思うかもしれません。でも」
川島は茶封筒を握った。
「それでも、戻れる場所はあった方がいいんですよね」
健二は頷いた。
「はい」
川島は小さく笑った。
「難しいですね」
「はい」
「手順ってやつは、本当に嫌いになりそうです」
「俺もです」
川島は、今度は少しだけ本当に笑った。
*
夜、旧南第三で八人の点呼をした後、健二はホワイトボードの横に新しい紙を貼った。
帰れる場所を見る項目。
陸が書いた字を、倉持が整えたものだった。
名前を変えない。
ご飯がある。
寝る場所がある。
痛いと言える。
怖いと言える。
学校へ行ける。
小さい子の世話を全部背負わせない。
大きな音や怖い音への配慮がある。
戻れる連絡先がある。
嫌だと言ったら止まる。
返事を急がせない。
分からない時は、その場で決めない。
蓮が腕を組んで読んだ。
「最後が一番大事じゃねえの」
三枝が言った。
「そうですね」
悠斗は、その紙をじっと見ていた。
健二は気づいた。
悠斗は、帰る側の顔をしている。
帰れるかもしれない子の顔。
でも、同時に、帰ったら我慢しなければならないと思っている顔でもある。
健二は悠斗に声をかけなかった。
今は、急がない。
悠斗が自分から言うまで待つ。
それも手順だった。
発電機を止める前、無線が鳴った。
相原だった。
「白羽から返答が来た」
職員室にいた全員が顔を上げた。
「条件付きで面会を受ける。ただし場所は白羽。時間は明日午前。施設職員一名同席。こちらからは三枝、坂井、川島。健二は搬入担当として同行可能」
健二は息を止めた。
明日。
川島が大野晴斗の名前を呼ぶ。
白羽の「なお」が、振り向くかもしれない。
振り向かないかもしれない。
返事をしないかもしれない。
泣くかもしれない。
固まるかもしれない。
どれでも、その場で決めてはいけない。
直樹の声が、無線の向こうから入った。
「ケン」
「兄ちゃん」
「明日は、声を見る日だ」
「声?」
「川島の声。子どもの沈黙。職員の割り込み。全部だ」
健二は頷いた。
「分かった」
「子どもが返事をしなくても、急かすな」
「うん」
「川島が泣いても、流されるな」
「うん」
「職員が説明し始めたら、止めろ」
「分かった」
直樹は少し間を置いた。
「それと」
「何」
「お前も、名前を呼ぶ側に回るな」
健二は黙った。
「明日は川島の声を聞かせる日だ。お前が先に呼んだら、意味が変わる」
「……分かった」
「今のは分かった声だ」
通信が切れた。
健二は無線機を置いた。
職員室の外では、八人が静かにしていた。
声を聞いていたのだ。
颯太が名前札を握って言った。
「名前、呼ぶ?」
健二は答えた。
「明日、川島さんが呼ぶ」
「待つ?」
「待つ」
「遅くても?」
「遅くても」
颯太は頷いた。
それから、自分の名前札を見て、小さく言った。
「小野寺颯太」
健二は返した。
「います」
その夜、旧南第三の灯りは一時間で消えた。
暗くなった廊下に、ホワイトボードの文字だけがランタンで照らされていた。
ここでは名前で呼ぶ。
名前は、本人に返す。
帰れる場所を見る項目。
紙が増えていく。
それは面倒だった。
でも、その紙は子どもを閉じ込めるためではない。
子どもが帰る時に、戻れる道を消さないための紙だった。
明日、白羽で一つの名前が呼ばれる。
大野晴斗。
その名前が、誰の中に残っているのか。
まだ誰にも分からなかった。




