第二十六話 返事を待つ
## 第二十六話 返事を待つ
白羽生活支援センターの朝は、静かだった。
廊下は磨かれている。
窓には白いカーテンがかかり、食堂の机は等間隔に並んでいる。
玄関の靴箱には、子ども用の靴が揃えられていた。
白。
灰色。
薄い青。
よく似た色の靴が、よく似た向きで並んでいる。
遠野は、その前を通り過ぎて相談室へ入った。
机の上に、三枚の紙を置く。
一枚目は、来訪者記録。
二枚目は、親族確認面会記録。
三枚目は、児童帰属安定化連絡票。
その紙には、最初から項目が印刷されていた。
本名呼称への反応。
親族接触による不安定化。
生活名での安定回復。
面会継続可否。
施設側判断。
遠野は、ペン先を整えた。
何もおかしいとは思っていない手つきだった。
相談室の机の中央には、小さな透明ケースが置かれている。
青い線の入った白い紙。
そこには、ひらがなで書かれていた。
なお。
まだ、川島は来ていない。
まだ、三枝も健二も坂井も来ていない。
まだ、男の子も部屋に入っていない。
それでも、机の上にはもう名前が置かれていた。
長谷部が相談室へ入ってきた。
白い腕章。
胸の名札。
柔らかい声。
その後ろに畑中が続く。
畑中は、机の上の名札を見て頷いた。
「生活名表示、準備できています」
遠野が答える。
「はい」
長谷部は書類を確認する。
「本日の面会対象児」
遠野が読み上げた。
「生活名、なお。男子。推定十二歳。白羽生活支援センター生活室二号」
「現在の状態は」
「朝食完食。生活班での返事あり。昨夜の睡眠は中途覚醒一回。大きな不安行動はありません」
「本名への反応歴」
遠野は、少しだけ紙をめくった。
「昨日、廊下で“はる”に近い発声が一度ありました。ただし、対象が自分の名前か、他児への呼びかけかは不明です」
長谷部は頷いた。
「今日は、そこを無理に広げないでください」
「はい」
「親族側は感情が強くなる可能性があります。特に川島さんは、追加資料を持参していると聞いています」
畑中が言った。
「本人が泣いた場合は?」
「面会中断です」
「返事をしない場合は?」
「沈黙として記録。ただし、心理負荷の可能性を備考に入れてください」
遠野がすぐに書き込む。
長谷部は、穏やかな声で続けた。
「私たちは、子どもを過去へ戻すために面会させるのではありません。現在の安定を守りながら、必要な確認を行います」
畑中も遠野も、自然に頷いた。
その場にいる誰も、その言葉を疑っていなかった。
戻すことではなく、安定させること。
それが白羽の正しさだった。
長谷部は机の上の名札を指で少し整えた。
「生活名は、本人の安心です」
遠野が言った。
「はい」
「本名は、刺激になる場合があります」
「はい」
「親族の声は、大切な情報である一方、本人を揺さぶる要因にもなります」
「はい」
畑中が静かに言った。
「なおくんは、ここに来てから落ち着いています」
長谷部は頷いた。
「だからこそ、守りましょう」
それは、まっすぐな善意の声だった。
けれど、その善意の中に、大野晴斗という名前はなかった。
*
面会の前に、畑中は生活室へ向かった。
二段ベッドの並ぶ部屋で、子どもたちは静かに片づけをしていた。
枕元の箱には、それぞれ青い線の名札が貼られている。
ひなた。
まこと。
りお。
そう。
かな。
ゆい。
なお。
男の子は、自分の箱の前に座っていた。
畑中が近づくと、男の子は顔を上げた。
呼ばれる前に、まず大人の顔を見る。
目の動きは速くない。
だが、確かめるようだった。
何を言えばいいのか。
どちらを向けばいいのか。
どの返事なら安全なのか。
それを探すような目だった。
畑中は、膝を折って声を低くした。
「なおくん」
男の子は少し遅れて答えた。
「はい」
畑中は微笑んだ。
「今日は、少しだけお話があります」
男の子は黙っていた。
「川島さんという方が来ます」
男の子の指が、箱の縁に触れた。
畑中は続ける。
「昔のことを話すかもしれません。昔の名前を呼ばれるかもしれません」
男の子の肩が、ほんの少し上がった。
畑中は、すぐに優しい声を重ねた。
「でも、無理に思い出さなくて大丈夫です」
男の子は畑中を見る。
「……大丈夫?」
「はい。ここでは、あなたは“なおくん”です」
畑中は、青い線の名札が貼られた箱を指先で軽く叩いた。
「困ったら、私を見る。分からなくなったら、黙っていていい。つらくなったら、手を上げる。そうしたら、面会は止めます」
男の子は、小さく頷いた。
それは理解した頷きなのか。
従うための頷きなのか。
畑中は確かめなかった。
「いい子です」
その言葉に、男の子はもう一度頷いた。
生活室の隅で、年上の女の子がそれを見ていた。
昨日、「はる」と言いかけた時に首を横に振った子だった。
畑中がそちらを見ると、女の子はすぐに目を下げた。
「準備しましょう」
畑中は立ち上がった。
男の子も立ち上がる。
自分の名前を持つのではなく、箱につけられた名札を一度見てから。
なお。
それを確認してから、廊下へ出た。
*
健二たちが白羽生活支援センターに着いたのは、午前十時少し前だった。
空は曇っていた。
雨は降っていない。
だが、山の空気は湿っていた。
川島は、車を降りる時に茶封筒を握り直した。
昨日よりも服は整えている。
髭も剃っている。
それでも、目の下の疲れは消えていなかった。
三枝が言った。
「川島さん。確認します」
「はい」
「今日は、連れて帰る日ではありません」
「分かっています」
「大野晴斗という名前を呼ぶのは、川島さんです」
「はい」
「返事がなくても、急かさない」
「はい」
「泣いても、抱きしめに行かない」
川島の顔がわずかに歪んだ。
「はい」
「本人が黙っていたら、黙っていたことをそのまま残します。拒否とも同意とも決めません」
「はい」
健二は川島の横に立っていた。
自分にも同じことを言い聞かせていた。
今日は、助け出す日ではない。
決める日でもない。
名前がどこまで残っているかを見る日。
返事を待つ日。
坂井は身分証を確認し、古賀は車の位置を記録した。
玄関には、長谷部が立っていた。
昨日と同じ笑顔だった。
「お待ちしておりました」
三枝が軽く頭を下げる。
「本日は、事前に合意した条件でお願いします」
「もちろんです」
長谷部は迷いなく答えた。
その迷いのなさが、健二には引っかかった。
玄関で来訪者名簿に記入する。
三枝。
坂井。
川島。
真柴健二。
健二は、所属欄に少し迷ってから書いた。
運送業。
前回と同じだ。
今日は荷物が少ない。
それでも、搬入担当として同行する形になっている。
白羽側がそれを受け入れたのは、健二が昨日すでに荷物を運んだからだ。
運ぶことで入った場所へ、もう一度入る。
直樹の言葉が頭に戻る。
見るのも、運ぶ仕事だ。
長谷部が言った。
「こちらへ」
相談室へ通された。
健二は、入った瞬間に机を見た。
青い線。
透明ケース。
白い紙。
なお。
川島の足が止まった。
「これは」
長谷部が穏やかに言う。
「現在、本人が安心して生活している呼び名です」
川島は名札を見たまま言った。
「晴斗の名前じゃありません」
「今の本人にとっては、大切な生活名です」
川島の拳が震えた。
三枝が一歩前に出る。
「面会中、その名札は下げてください」
長谷部は少しだけ眉を動かした。
「本人の心理安定のために置いています」
「本人の反応を見るためには、先に呼び名を提示しないでください」
「生活名を隠すことは、本人の不安につながる可能性があります」
三枝は声を荒げなかった。
「大野晴斗かどうかを確認する場です。最初から“なお”を提示すれば、確認ではなく誘導になります」
長谷部は黙った。
その沈黙の間に、遠野が記録用紙へ何かを書こうとした。
坂井が静かに言った。
「今のやり取りも、こちらで記録します」
遠野の手が止まる。
長谷部は微笑んだ。
「分かりました」
畑中が名札を机の端へ下げた。
完全にはしまわない。
子どもの席から少し斜めに見える位置。
三枝が言った。
「見えないところへ」
畑中が三枝を見る。
「本人が不安になった時のために」
「見えないところへ」
畑中は、ようやく透明ケースを伏せた。
青い線が、机の上から消えた。
健二は、その動きを見ていた。
伏せるまでに、二度、抵抗があった。
それも記録に残すべきだと思った。
*
椅子の配置でも、もう一度揉めた。
白羽側は、男の子の椅子を部屋の奥に置いていた。
その背後に畑中が立つ予定だった。
入口側に川島。
川島の横に三枝。
壁際に坂井。
長谷部と遠野は記録用の机。
一見、整っている。
だが、子どもから見れば、出口までの間に大人が並ぶ形だった。
三枝が言った。
「子どもの席を、出口が見える位置へ変えてください」
長谷部が答える。
「本人が落ち着く配置にしています」
「本人が出口を見られる配置にしてください」
「逃げる必要はありません」
「逃げるためではありません。戻れる道が見えるためです」
長谷部は少しだけ首を傾げた。
その言葉の意味が、本当に分からないようだった。
「ここは安全な施設です」
三枝は言った。
「安全なら、出口が見えても問題ありません」
坂井が椅子を動かした。
健二も手伝った。
運送屋として、机を少しずらす。
椅子の脚が床を擦る音がした。
健二はその音に、旧南第三の悠太の顔を思い出した。
大きな音。
怖い音。
帰れる場所を見る項目。
それはここでも必要だった。
畑中は、今度は男の子の右後ろに立とうとした。
三枝が止める。
「背後には立たないでください」
「不安定になった時に、すぐ支えるためです」
「背後に立たれると、本人の返事が変わります」
「私たちは本人を脅かすために立つわけではありません」
「それでも変わります」
畑中は、少し困ったように長谷部を見た。
長谷部は短く頷いた。
「では、横に」
三枝が言った。
「視界に入る位置で、距離を取ってください」
畑中は、男の子の席から二歩離れた場所へ移った。
健二は思った。
この人たちは、悪い顔をしない。
声も荒げない。
だが、何度でも、子どもの返事が白羽へ戻る位置を取ろうとする。
*
廊下の向こうから、足音がした。
小さな足音。
それに合わせて、畑中の声が聞こえた。
「ゆっくりで大丈夫です」
ドアが開く。
男の子が入ってきた。
短い髪。
細い肩。
白羽の清潔な服。
胸元には、青い線の名札。
なお。
川島が息を吸った。
健二は、川島の腕が動きかけたのを見た。
三枝も見ていた。
川島は、自分で手を止めた。
男の子は、川島を見なかった。
まず長谷部を見る。
次に畑中を見る。
それから遠野の持つ記録用紙を見る。
最後に、川島を見た。
その順番が、健二には痛かった。
人を見る順番ではない。
返事を探す順番だった。
誰の顔を見ればいいか。
どの顔の後に答えればいいか。
それを覚えた子どもの目だった。
畑中が言いかけた。
「なおく――」
三枝が静かに遮る。
「呼称を先に使わない約束です」
畑中は口を閉じた。
男の子は、その二人を交互に見た。
何かが違う。
そう感じた顔だった。
川島は、震える手を膝の上に置いた。
三枝が小さく言う。
「まず、名乗ってください」
川島は頷いた。
声を出すまでに、少し時間がかかった。
「川島です」
男の子は瞬きした。
「君のお母さんの弟です」
男の子は黙っていた。
畑中の方を見ようとする。
三枝が畑中を見た。
畑中は何も言わなかった。
川島は続けた。
「君が小さい時、一緒に川へ行きました」
男の子の指が動いた。
ほんの少し。
膝の上で、指先が丸まった。
健二は見た。
坂井も見ていた。
遠野のペンが動きかける。
三枝が言った。
「まだ記録の判断を書かないでください。事実だけを」
遠野は一瞬止まり、それから別の欄に書いた。
川島は、封筒から手紙を出さなかった。
写真も出さなかった。
見せたくなるはずだった。
だが、出さなかった。
約束を守っていた。
川島は、男の子をまっすぐ見た。
そして、名前を呼んだ。
「大野晴斗」
部屋の空気が止まった。
男の子は返事をしなかった。
川島も、すぐには次を言わなかった。
三枝も言わなかった。
健二も言わなかった。
坂井は時計を見た。
五秒。
十秒。
十五秒。
白羽側の沈黙は、別の種類の沈黙だった。
待っている沈黙ではない。
割り込むタイミングを探す沈黙だった。
男の子は、唇を少し開いた。
声はすぐに出なかった。
喉が動く。
目が、畑中へ行きかける。
だが、途中で止まる。
川島の方へ戻る。
「……はる」
川島の顔が崩れかけた。
その瞬間だった。
畑中が、優しく言った。
「なおくん、大丈夫ですよ。無理に思い出さなくていいんです」
健二は、息を止めた。
優しい声だった。
怒鳴っていない。
脅していない。
手も上げていない。
けれど今、この子が戻ろうとした場所を、白羽は静かに閉じた。
三枝が、すぐに言った。
「止めてください」
畑中は驚いたように三枝を見る。
「安心させただけです」
「本人の反応を待たずに、“なお”と呼び戻しました」
「呼び戻したのではありません。本人が不安定にならないように」
「今の発声は、本人の反応です」
長谷部が間に入った。
「三枝さん。本人の心理安定を優先するという条件は、ご理解いただいているはずです」
三枝は視線を外さない。
「心理安定を理由に、本人の反応を上書きしないでください」
「上書きではありません」
長谷部は、穏やかに言った。
「現在、この子は“なお”として生活リズムを取り戻しています。大野晴斗という名前が、今の本人にとって安全とは限りません」
川島が震える声で言った。
「晴斗です」
長谷部は川島を見る。
「お気持ちは分かります」
「気持ちじゃない」
川島の声が低くなった。
「あいつの名前です」
長谷部は表情を変えなかった。
「親族の方の記憶と、本人の現在の安定は分けて考える必要があります」
川島は立ち上がりそうになった。
健二が、川島の腕を押さえた。
強くではない。
行くな、という重さだけを乗せた。
川島は歯を食いしばって座った。
健二は、長谷部を見た。
「今のは、親族の感情じゃありません」
長谷部が健二を見る。
「では、何でしょう」
「名前を呼んだだけです」
部屋が静かになった。
健二は続けた。
「名前を呼ばれて、あの子は“はる”と言いかけた。それだけです。そこへ、あなたたちは“なお”を差し込んだ」
畑中が首を横に振る。
「差し込んだのではありません。安心させたんです」
健二は思った。
同じだ。
昨日、長谷部が颯太を見て「混乱」と言った時と同じ。
こちらが名前を確認している時、向こうは状態を判断する。
こちらが待っている時、向こうは処理する。
三枝が遠野の記録用紙を見た。
「今、何を書きましたか」
遠野は紙を伏せようとした。
坂井が言った。
「面会記録は、双方確認の対象です」
長谷部が頷く。
「構いません」
遠野は紙を見せた。
そこには、途中まで書かれていた。
本名呼称後、対象児に発声あり。
内容不明瞭。
親族側感情高まり。
生活名呼称により安定支援を実施。
三枝が静かに言った。
「違います」
遠野が顔を上げる。
三枝は一つずつ言った。
「大野晴斗と呼ばれ、対象児は沈黙。その後、“はる”に近い発声あり。施設職員が“なおくん”と呼称。本人の反応は中断。これが事実です」
遠野は反論しようとした。
長谷部が先に言う。
「“中断”という表現は適切ではありません。本人を保護したのです」
三枝は答えた。
「こちらの記録には、中断と残します」
「記録が割れますね」
「割れて構いません。割れたことも事実です」
長谷部の笑顔が、少しだけ薄くなった。
健二は初めて、その顔を見た。
怒りではない。
焦りでもない。
理解できないものを見た顔だった。
白羽にとって、記録は整えるものだ。
割れたまま残すという考え方が、そもそもないのかもしれない。
*
面会は、一度中断された。
ただし、終了ではない。
三枝が強く求めた。
「今のまま終了すれば、施設側呼称によって反応が止まった状態で終わります。もう一度、短く確認します」
長谷部は難色を示した。
「本人への負担が」
坂井が言った。
「こちらの条件を施設側が一度破っています。再確認は必要です」
長谷部は畑中と遠野を見た。
それから、男の子を見た。
男の子は、椅子に座ったまま両手を膝に置いている。
何も言っていない。
目だけが、大人たちの間を動いていた。
川島は、その目を見ていた。
自分の方を見てほしい。
きっとそう思っている。
それでも、言わなかった。
三枝が川島に言った。
「次は、名前を繰り返さなくていいです。あなたが知っていることを一つだけ」
川島は頷いた。
喉を鳴らす。
ゆっくり息を吸った。
「晴斗」
その瞬間、長谷部が目を動かした。
三枝がすぐに言う。
「待ってください」
長谷部は何も言わなかった。
川島は続ける。
「また、川に行こう」
男の子の指が、はっきり動いた。
膝の上で、右手の親指が人差し指をこすった。
川原の石を触るような動きだった。
川島は泣きそうになった。
でも、泣かなかった。
「前に、石で滑って、俺が怒られた」
男の子の口が少し開く。
声は出ない。
畑中が動きかける。
三枝が視線だけで止める。
長い沈黙。
男の子は、やっと言った。
「……さかな」
川島の顔から血の気が引いた。
それは、晴斗が川でよく言っていた言葉なのか。
ただの単語なのか。
誰にも分からない。
川島は、今度こそ手を伸ばしかけた。
健二が止めた。
川島は自分の膝を掴んだ。
「そうだ」
声が震えていた。
「魚、見たな」
男の子は、それ以上何も言わなかった。
遠野のペンが動く。
坂井が言った。
「事実のみで」
遠野は、少し息を吐いた。
それから書いた。
川島氏の「川」「石」「魚」に関連する発言後、対象児が「さかな」と発声。
三枝が確認する。
「そこまでは一致します」
長谷部が言った。
「ただし、その発声が本人記憶に基づくものかは不明です」
三枝は頷いた。
「不明として残します」
長谷部は、少し意外そうに三枝を見た。
三枝は続けた。
「不明は、不明です。白羽の判断にも、こちらの断定にも使いません」
健二は、その言葉を胸に入れた。
不明を不明のまま置く。
それは、簡単そうで難しい。
連れて帰りたい川島にとっても。
早く守りたい健二にとっても。
安定に戻したい白羽にとっても。
だが、不明を勝手に埋めた時、名前は消える。
男の子は、黙ったまま座っていた。
胸の名札には、なお。
口の端には、まだ出なかった音。
はる。
その先は、まだ戻ってこない。
*
面会は終了した。
長谷部は、終了の理由を「本人の疲労」とした。
三枝は、こちらの記録に「施設側の呼称介入後、再確認。本人発声あり。本人確認は継続」と書いた。
川島は、最後まで男の子に触れなかった。
男の子が部屋を出る時、川島は一度だけ言った。
「また来る」
長谷部がすぐに言おうとした。
三枝が見た。
長谷部は黙った。
男の子は、振り向かなかった。
でも、歩く速度がほんの少し落ちた。
健二はそれを見た。
坂井も見た。
遠野は書かなかった。
健二は、自分の記録用紙に書いた。
退室時、川島氏「また来る」。
対象児、振り向きなし。
歩行速度わずかに低下。
意味不明。
記録のみ。
玄関へ向かう廊下で、長谷部が言った。
「本日の面会で、本人が大野晴斗であるとは確認できませんでした」
三枝は答えた。
「同時に、本人が“なお”であるとも確認できていません」
長谷部は足を止めた。
「生活名としては確認されています」
「生活名として、でしょう」
三枝の声は静かだった。
「本人の名前として確認されたわけではありません」
長谷部は三枝を見た。
「三枝さん。名前は、本人を苦しめることもあります」
「はい」
三枝は否定しなかった。
長谷部は、少しだけ目を細めた。
三枝は続ける。
「だからこそ、本人に返す時は待ちます。急がせません。けれど、大人の都合で別の名前に置き換えたままにはしません」
「置き換えているのではありません」
「では、なぜ本名を先に呼ばれることを嫌がるのですか」
長谷部はすぐに答えなかった。
沈黙。
初めて、白羽側が少しだけ待たされた。
長谷部は、やがて言った。
「本人が壊れるかもしれないからです」
その声には、嘘がなかった。
健二は、そこが一番怖いと思った。
長谷部は本気で信じている。
名前を戻すことが、子どもを壊すと。
白羽の大人たちは、嘘をついている顔ではなかった。
だから、余計に怖かった。
この人たちは、本気で信じている。
名前を戻すことより、名前を変えたまま落ち着かせることが、子どものためだと。
川島が低く言った。
「壊したのは、誰ですか」
長谷部は川島を見る。
「私たちは、壊れた子を受け入れています」
「違う」
川島の声は震えていた。
「晴斗は、壊れ物じゃない」
長谷部は何も言わなかった。
その沈黙もまた、健二は覚えた。
*
帰りの車の中で、川島は一度も泣かなかった。
茶封筒を膝の上に置き、ずっと窓の外を見ていた。
途中、坂井が確認した。
「川島さん、大丈夫ですか」
川島は少し遅れて答えた。
「大丈夫じゃないです」
誰も責めなかった。
川島は続けた。
「でも、連れて帰れって暴れなかった」
「はい」
「名前を、もう一回呼びたかった」
「はい」
「でも、待った」
三枝が静かに言った。
「待てました」
川島は目を閉じた。
「晴斗ですよね」
誰もすぐには答えなかった。
車の揺れだけがあった。
三枝が言った。
「確認は継続です」
川島は笑った。
苦い笑いだった。
「まだそれですか」
「はい」
「嫌いです」
「はい」
少し沈黙があった。
川島は、今度は小さく言った。
「でも、今日、それで助かった気もします」
健二は運転席で前を見たまま聞いていた。
川島は続ける。
「俺だけだったら、あそこで抱きしめてた。晴斗だって決めてた。あいつが黙っても、俺が泣いて、全部決めてた」
健二はハンドルを握る手に力を入れた。
自分も同じだった。
もし一人なら。
もし三枝がいなければ。
もし直樹に言われていなければ。
自分も、晴斗だと決めたかった。
決めて、助けたかった。
それは優しさの形をしている。
でも、白羽と同じくらい危うい。
子どもの返事を待たずに、大人が決めるという意味では。
健二は言った。
「俺もです」
川島が少しだけ健二を見る。
「俺も、一人なら決めてました」
川島は何も言わなかった。
その沈黙は、白羽の沈黙とは違った。
決めないための沈黙だった。
*
旧南第三へ戻ると、門の内側に八人がいた。
蓮は守衛室の横に立っていた。
陸は時計を持っている。
悠斗は、人数を数えていた。
美月は毛布を抱えている。
千紘はラジオを消していた。
悠太は少し離れて音を聞いている。
花音は床に何かを描いている。
颯太は名前札を握っていた。
健二が車を止めると、蓮がすぐに言った。
「どうだった」
三枝が言う前に、颯太が聞いた。
「名前、呼んだ?」
健二は頷いた。
「呼んだ」
「返事、した?」
健二は、颯太を見た。
ここで簡単に言ってはいけない。
白羽がやったことと同じになる。
「すぐには、しなかった」
颯太は名前札を握り直す。
「遅かった?」
「遅かった」
「待った?」
「待った」
颯太は少しだけ頷いた。
陸が聞いた。
「確認結果は」
三枝が答えた。
「本人確認は継続です」
蓮が顔をしかめる。
「またそれかよ」
健二は言った。
「でも、名前は消えていなかった」
全員が健二を見る。
健二は続けた。
「大野晴斗と呼ばれて、すぐには返事しなかった。でも、“はる”に近い声が出た。川の話に、“さかな”と言った」
千紘が小さく言った。
「声が残ってた」
三枝が頷いた。
「そうです。ただし、まだ断定はしません」
蓮は納得していない顔だった。
「何でだよ。そこまで出たなら晴斗だろ」
倉持が職員室から出てきて言った。
「そう決めたい気持ちは分かります。でも、決めるのは私たちではありません」
蓮は黙った。
颯太が、小さく言った。
「名前、戻る途中?」
健二は頷いた。
「そうかもしれない」
「途中で、止められた?」
健二は一瞬、言葉を失った。
颯太は、白羽の部屋を見ていない。
畑中の声も聞いていない。
それでも分かるのかもしれない。
名前が戻りかけた時に、別の名前で呼ばれる怖さを。
健二は答えた。
「止められた」
颯太は、名前札を胸に押し当てた。
「嫌だ」
「うん」
蓮が低く言った。
「あいつら、何してんだよ」
三枝は静かに言った。
「本人たちは、安心させていると思っています」
「それが嫌なんだよ」
蓮の声が荒くなった。
「嫌がってるとか、怖がってるとか、分からないとか、全部あいつらの言葉に変わるんだろ」
倉持が頷いた。
「だから、こちらの記録が必要です」
陸はすでに紙を出していた。
「今日の記録、項目にします」
健二は言った。
「頼む」
陸は書き始めた。
白羽面会。
机上に生活名「なお」の名札あり。
面会前に下げるよう要請。
子どもの背後に職員が立とうとした。
配置変更。
川島氏が名乗る。
大野晴斗と呼ぶ。
沈黙。
「はる」に近い発声。
施設職員が「なおくん」と呼称。
反応中断。
川の話。
「さかな」と発声。
本人確認は継続。
白羽側記録と旧南第三側記録に差あり。
蓮が横から言った。
「白羽側、変だって書けよ」
陸は少し考えた。
「備考にします」
「また備考かよ」
「備考は大事です」
蓮は舌打ちした。
「じゃあ書け」
陸は書いた。
備考。
白羽側は、名前を戻す途中で生活名へ戻した。
健二はその字を見た。
蓮の言葉より整っている。
でも、意味は同じだった。
*
夜、点呼の時間になった。
八人が並ぶ。
健二は一人ずつ名前を呼んだ。
「中原悠斗」
「います」
「宮原美月」
「います」
「笹原蓮」
「いる」
「浅野悠太」
「います」
「佐伯千紘」
「います」
「高瀬陸」
「います」
「村瀬花音」
花音は小さく手を上げた。
「小野寺颯太」
颯太は少し遅れて言った。
「います」
健二は待った。
待ってから、頷いた。
点呼の後、颯太が聞いた。
「白羽の子も、呼ぶ?」
健二は答えられなかった。
まだ、呼べない。
ここで勝手に呼べば、それもまた違う。
三枝が静かに言った。
「今日は、記録に残します」
倉持がホワイトボードの端に、新しい行を書いた。
大野晴斗。
本人確認継続。
返事を急がせない。
蓮がそれを見た。
「名前、書くのか」
三枝が答えた。
「消さないためです」
颯太はその文字を見ていた。
花音は床に、二つの名札を描いた。
一つは青い線の名札。
もう一つは、何も線のない名札。
青い線の名札には、花音は何も書かなかった。
線のない名札には、ゆっくりと四つの丸を描いた。
大きな丸。
小さな丸。
少し離れた丸。
戻ってくる丸。
誰も、それを消さなかった。
その夜、職員室の机の上には、また紙が増えた。
白羽側の面会記録。
旧南第三側の面会記録。
川島の資料。
帰れる場所を見る項目。
大野晴斗の確認継続票。
紙は面倒だった。
だが、その紙がなければ、白羽の言葉だけが残る。
本名呼称への反応。
親族接触による不安定化。
生活名での安定回復。
そんな言葉で、はるという声が消される。
健二は、ホワイトボードを見た。
ここでは名前で呼ぶ。
名前は、本人に返す。
帰れる場所を見る項目。
大野晴斗。本人確認継続。返事を急がせない。
発電機を止める前、無線が鳴った。
相原の声だった。
「白羽側の記録写しを確認した。向こうは、生活名での安定継続を主張している」
三枝が目を閉じた。
直樹の声が続く。
「ケン」
「兄ちゃん」
「返事は」
「返ってきてない」
「声は」
「残ってた」
少しだけ沈黙があった。
直樹は言った。
「なら、次は帰る場所を見る」
健二は川島の言葉を思い出した。
俺の家を見てください。
米がどれだけあるか。
布団があるか。
学校へ行けるか。
嘘をついていないか。
「川島さんの家か」
「そうだ」
「晴斗くんか分からないのに?」
「だから見る」
直樹の声は短かった。
「白羽は、名前を変えて安定させる。こっちは、名前を返しても壊れない道を作る。その道がなければ、呼んでも戻せない」
健二は黙った。
名前を呼ぶだけでは足りない。
帰る場所がなければ、名前は宙に浮く。
直樹は続けた。
「明日は、川島の家を見る。家だけじゃない。道、学校、近所、食料、逃げ道、連絡手段。全部だ」
「分かった」
「それから」
「何」
「白羽は動く」
健二の背筋が冷えた。
「どう動く」
「向こうは今日、記録が割れた。次は、川島を不適切な親族候補にしようとする」
職員室が静かになった。
相原が低く言った。
「すでに、その兆候がある」
「兆候?」
三枝が聞く。
相原は答えた。
「白羽側から、川島氏の生活状況確認を求める照会が来ている。名目は、対象児の心理安定と安全確保」
健二は拳を握った。
川島の家を見る必要がある。
だが、それを白羽も利用しようとしている。
貧しい。
一人暮らし。
仕事が不安定。
母親不在。
支援体制不十分。
そう書かれれば、川島は晴斗の帰り道ではなく、不安定要因になる。
直樹が言った。
「だから先に見ろ。向こうの紙になる前に、こっちの目で見る」
健二は答えた。
「分かった」
通信が切れた。
発電機の音が、廊下に低く響いている。
健二は窓の外を見た。
白羽の建物はここから見えない。
だが、あの相談室の机の上には、まだ青い線の名札がある気がした。
なお。
伏せても、隠しても、白羽はその名前を持っている。
そして、どこかに大野晴斗という名前がある。
まだ返ってきていない。
でも、完全には消えていない。
返事はなかった。
けれど、沈黙も記録に残った。
はる。
その先を、誰も急かしてはいけなかった。




