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第二十七話 帰る家を壊す

## 第二十七話 帰る家を壊す


 川島の家の前に、朝早く、二台の車が止まった。


 一台は白い軽バン。


 もう一台は、幌のついた小さな作業車だった。


 車体には、会社名らしい文字が入っている。


 青葉生活輸送。


 その横に、小さく貼られたステッカー。


 地域生活保全会 協力車両。


 白羽生活支援センターの名前は、どこにもなかった。


 車から降りてきたのは、四人だった。


 作業服の男が二人。

 白い腕章ではなく、薄い青の腕章をつけた女が一人。

 もう一人は、スマートフォンを持った若い男だった。


 若い男は、川島の家を撮影している。


 玄関。

 割れかけた雨どい。

 錆びた郵便受け。

 庭の隅に積まれた古い板。

 洗濯物のない物干し竿。


 作業服の男が言った。


「ここに子ども戻すって、正気かよ」


 女がファイルを開く。


「未確認親族候補。単身。就労状況不安定。母親不在。居住環境不十分の可能性」


「そのまま書けるな」


 若い男が笑った。


「写真、撮っときます」


 女は玄関の引き戸に紙を貼った。


 不安定な親族への児童返還に反対します。

 子どもの心理安定を守りましょう。

 安全な生活環境を乱さないでください。


 別の男が、窓の外から中を覗いた。


「鍵、古いな」


「壊すなよ」


 女が言う。


「確認できる状態にするだけでいいです」


 男は笑った。


「言い方な」


 窓枠に指をかける。


 古いガラスが、音を立てた。


 ひびが入る。


 男は手を止めた。


「あー、古いから割れた」


 若い男がそれを撮る。


「危険な住環境」


 女が紙に書く。


 窓ガラス破損。

 児童居住には修繕が必要。


 台所の勝手口の前には、米袋が一つ置かれていた。


 川島が昨日のうちに買っておいたものだった。


 男の一人が、それを足で押した。


「米はあるんだ」


「でも一袋だけ」


「足りねえだろ」


 袋の端に何かが引っかかった。


 米が、ざらざらと土の上へこぼれた。


 女が眉をひそめる。


「そこまでしなくていいです」


 男は肩をすくめた。


「袋、弱かっただけだろ」


 若い男が、こぼれた米を撮る。


「食品保管状態、不適切」


 女は何も言わなかった。


 玄関の横には、畳んだ布団が干してあった。


 川島が昨夜、晴斗が帰ってきた時のために出しておいたものだった。


 作業服の男が、それを持ち上げる。


「古いな」


「やめてください」


 女が言う。


「記録だけでいいです」


 男は布団を地面に落とした。


 庭の土がつく。


「落ちた」


 若い男がまた撮った。


「寝具衛生状態に懸念」


 近所の家のカーテンが、少しだけ動いた。


 誰かが見ている。


 だが、誰も外へは出てこなかった。


 薄い青の腕章の女は、玄関に貼った紙をもう一度見た。


 子どもの心理安定。

 安全な生活環境。

 不安定な親族。


 どれも、昨日、白羽で聞いた言葉と同じだった。


 ただし、ここには白羽の名前はない。


 女は静かに言った。


「私たちは、子どもを守るために来ています」


 作業服の男が答える。


「分かってますよ」


「白羽とは関係ありません」


「もちろん」


 若い男は、スマートフォンの画面を確認しながら笑った。


「地域の心配です」


 そう言って、割れた窓と、こぼれた米と、土のついた布団をもう一度撮った。


     *


 旧南第三を出る前、健二たちは職員室で確認をしていた。


 川島は、門の外で待っている。


 中には入れない。


 それでも、昨日より少しだけ落ち着いて見えた。


 無線には、相原と直樹が入っている。


「今日は、家を見る」


 直樹の声が言った。


「家だけじゃない。道、学校、近所、食料、寝床、連絡手段。全部だ」


 健二は答える。


「分かってる」


「分かってない顔だ」


「見えてないだろ」


「声で分かる」


 健二は息を吐いた。


 三枝が紙を確認している。


 帰れる場所を見る項目。


 名前を変えない。

 ご飯がある。

 寝る場所がある。

 痛いと言える。

 怖いと言える。

 学校へ行ける。

 小さい子の世話を全部背負わせない。

 大きな音や怖い音への配慮がある。

 戻れる連絡先がある。

 嫌だと言ったら止まる。

 返事を急がせない。

 分からない時は、その場で決めない。


 陸が、それを写した予備の紙を健二に渡した。


「現地用です」


「俺が持ってていいのか」


「汚れてもいいように、写しです」


 蓮が横から言った。


「汚す前提かよ」


「外で使う紙です」


 陸は淡々としていた。


 蓮は健二を見た。


「今日は俺も」


「行かない」


「まだ言ってねえ」


「言う顔だった」


「顔で決めんな」


「顔で分かる」


 蓮は舌打ちした。


「大人って、すぐ顔で決めるな」


 その言葉に、職員室が少し静かになった。


 健二は蓮を見た。


「悪い」


 蓮は目をそらした。


「……別に」


 三枝が言った。


「今日は、川島さんの家の確認です。子どもたちは旧南第三で待機します」


 悠斗が少しだけ顔を上げた。


「帰れる家かどうか、見るんですよね」


「はい」


「駄目だったら?」


 三枝はすぐには答えなかった。


「駄目と決めるために見るのではありません」


 悠斗は黙った。


 三枝は続ける。


「何が足りないか。何を整えれば帰れる場所になるか。それを見るためです」


 悠斗は、小さく頷いた。


 颯太は名前札を握っていた。


「名前、変えない家?」


 健二は頷く。


「それも見る」


「嫌だって言ったら?」


「止まる家かどうかも見る」


 颯太は、少しだけ安心したように見えた。


 無線の向こうで、直樹が言った。


「ケン」


「何」


「白羽は、もう動いてると思え」


 健二の手が止まった。


「もう?」


「昨日、記録が割れた。川島を帰り道にされると困る。なら、川島を“不適切な親族候補”にする」


 三枝が顔を上げる。


「生活環境の不備を理由にする可能性がある」


 相原が言った。


「白羽から、川島氏の生活状況確認を求める照会が来ています。文面は丁寧ですが、かなり早い」


「早すぎるな」


 直樹が言った。


「向こうは、先に紙を作る気だ」


 健二は、トラックの鍵を握った。


「だったら、こっちが先に見る」


「見るだけじゃない」


 直樹の声が低くなる。


「壊されていたら、壊された状態を記録しろ。元から駄目だったのか、誰かが駄目にしたのか。分けろ」


 健二は眉を寄せた。


「壊されていたら?」


「あり得る」


 職員室が冷えた。


 直樹は続けた。


「相手は、子どもを動かすためなら、家も紙も人も使う。川島を怒らせるかもしれない」


「怒らせる?」


「殴らせるんだ」


 健二は黙った。


「川島が手を出せば、その瞬間に“不適切”だ。だから、止める。でも、お前が全部止めるな。川島に止まらせろ」


「難しいな」


「難しいからやる」


 通信は切れた。


 健二は、門の外に立つ川島を見た。


 川島は、自分の家を見せるために来ている。


 でも、そこがもう壊されているかもしれない。


 健二は、胸の奥に嫌な重さを感じた。


     *


 川島の家へ向かったのは、健二、三枝、坂井、川島の四人だった。


 古賀は少し後ろを小型車でついてくる。


 川島の家は、旧南第三からさらに南西へ一時間ほど行った川沿いの集落にあった。


 かつては小さな商店や工場があったらしい。


 今は、半分ほどのシャッターが閉まっている。


 川島は道中、ほとんど話さなかった。


 自分の家を見せるということは、自分の足りなさを見せることでもある。


 米がどれだけあるか。

 布団があるか。

 学校へ行けるか。

 嘘をついていないか。


 昨日、川島はそう言った。


 健二は、あの言葉を思い出していた。


 十分じゃない。


 それでも、名前は変えない。


 車が集落へ入ると、川島の顔が変わった。


 家の前に、人影があった。


 白い軽バン。

 幌つきの作業車。

 青い腕章。


 玄関に貼られた紙。


 庭にこぼれた米。


 地面に落ちた布団。


 ひびの入った窓。


 川島が、車のドアを開ける前に声を出した。


「何だよ、これ」


 健二はすぐに周囲を見た。


 男が二人。

 女が一人。

 スマートフォンを構えた若い男が一人。


 逃げる気配はない。


 むしろ、待っていたように見えた。


 坂井が先に降りた。


「所属と氏名をお願いします」


 作業服の男が笑った。


「何だよ。警察か?」


「境界警備隊です」


 坂井は身分証を見せる。


 男の笑いが、少しだけ薄くなった。


 女が前に出た。


「地域生活保全会です。児童の安全な生活環境を守るため、地域住民として確認に来ました」


 三枝が言った。


「川島さんの許可はありますか」


「地域の不安を受けての確認です」


「許可は?」


 女は答えなかった。


 健二は玄関の紙を見た。


 不安定な親族への児童返還に反対します。

 子どもの心理安定を守りましょう。

 安全な生活環境を乱さないでください。


 昨日、白羽で聞いた言葉が、川島の玄関に貼られている。


 川島は紙を見て、顔色を変えた。


「誰が貼った」


 作業服の男が言った。


「地域の声だよ」


「剥がせ」


「何で? 事実だろ。お前みたいな生活の男に、子ども戻せんのか?」


 川島が一歩出る。


 健二は止めようとした。


 だが、川島は自分で止まった。


 男は笑う。


「ほら、すぐキレる」


 若い男のスマートフォンが、川島を向いていた。


 健二はそれを見た。


 最初から撮っている。


 川島が怒るところを。


 川島が手を出すところを。


 それを待っている。


 川島の拳が震えた。


 作業服の男が近づく。


「殴れよ。ほら。子ども返せって言うなら、まず大人らしくしてみろよ」


 川島は、歯を食いしばった。


 長い沈黙だった。


 それから、低く言った。


「殴ったら、俺を不適切って書くんだろ」


 男の顔が、わずかに変わった。


 若い男のスマートフォンが止まる。


 川島は続けた。


「暴力的傾向あり。児童引き取り不適。そう書くんだろ」


 女が口を開いた。


「私たちは、そういうことを」


「言ってないだけだ」


 川島は、玄関の紙を見た。


「ここにもう書いてある」


 健二は川島の横に立った。


 今、止まったのは健二ではない。


 川島自身だった。


 三枝が静かに言った。


「この状態は、親族確認および生活環境確認への妨害として記録します」


 女が眉をひそめる。


「妨害ではありません。地域の心配です」


 坂井が作業車のナンバーを読み上げた。


 古賀が記録する。


「白羽生活支援センターとの関係はありますか」


 坂井が聞いた。


 作業服の男がすぐに言った。


「ねえよ」


 女も答える。


「ありません」


 若い男が言った。


「白羽さんは関係ないっすよ。俺らは地域の子ども守ってるだけなんで」


 健二は、玄関の紙をもう一度見る。


 心理安定。

 安全な生活環境。

 不安定な親族。

 過去の名前に戻す負担。


 白羽の名前はない。


 だが、白羽の言葉がある。


 三枝が言った。


「この貼り紙の文面は、どなたが作成しましたか」


 女は答えなかった。


「地域の意見をまとめました」


「誰が」


「個人名は出せません」


 坂井が言う。


「無断で私有地に立ち入ったことについては?」


 作業服の男が笑った。


「立ち入ってないですよ。外から見ただけ」


 健二は、窓のひびを見た。


「その窓は?」


「古いから割れたんじゃないですか」


「米は?」


「袋が破れてましたよ」


「布団は?」


「落ちてましたね」


 男は笑っている。


 だが、目は笑っていなかった。


 健二は、怒りが上がってくるのを感じた。


 殴るのは簡単だった。


 この距離なら、止められる前に一人は倒せる。


 だが、それをやれば、向こうの紙が完成する。


 川島だけではなく、旧南第三も巻き込まれる。


 子どもを守ると言いながら、暴力的な集団と接触している。


 そう書かれる。


 健二は、拳ではなく、紙を出した。


 陸から預かった現地用の記録紙。


「三枝さん」


「はい」


「先に、状態を記録します」


 三枝は頷いた。


「貼り紙は剥がさないでください。位置、文面、貼付状態を撮影します」


 坂井が周辺を確認する。


 古賀が写真を撮る。


 川島は、まだ震えていた。


 だが、手は出さなかった。


 それを見て、作業服の男は舌打ちした。


「つまんねえな」


 健二はその言葉も覚えた。


     *


 地域生活保全会を名乗る四人は、しばらくして車に乗った。


 去り際に、作業服の男が川島へ言った。


「施設にいた方が幸せな子もいるんだよ」


 川島は何も言わなかった。


 男はさらに言う。


「飯も布団もある。大人もいる。ここよりよっぽど安全だろ」


 川島は、それでも黙った。


 若い男がスマートフォンを下げる。


 女が最後に言った。


「白羽とは関係ありません。ただ、子どもの心理安定を考えれば、慎重な判断が必要です」


 三枝が答えた。


「その発言も記録します」


 女は、少しだけ不快そうな顔をした。


 車は走り去った。


 白羽の名前を一度も出さずに。


 白羽の言葉だけを残して。


     *


 川島の家は、古い平屋だった。


 立派ではない。


 玄関の戸は重く、開けるたびに音がする。


 廊下の床は一部沈む。


 台所は狭い。


 風呂も古い。


 天井には雨染みがあった。


 きれいな家ではなかった。


 白羽の食堂や生活室と比べれば、明らかに劣っている。


 それは事実だった。


 だからこそ、健二は慎重に見た。


 壊されているもの。

 元から古いもの。

 修理できるもの。

 足りないもの。

 補えるもの。

 すぐには補えないもの。


 全部を分ける必要があった。


 三枝は玄関の貼り紙を撮影した。


 坂井は車両番号、人物の特徴、発言を記録した。


 古賀は近所の家を回り、目撃者がいないか確認する。


 健二は、割れた窓の前に立った。


「このひび、今朝ですか」


 川島は頷いた。


「昨日はなかった」


「証明できますか」


「……分かりません」


 健二は窓枠を見た。


 古い。


 だが、外から力が入った跡がある。


 泥のついた指の跡も残っている。


「写真を撮ります」


 川島は悔しそうに頷いた。


 台所の前には、破れた米袋があった。


 米は土に広がっている。


 健二はしゃがんだ。


「この米は?」


「昨日買いました。晴斗が来ても、飯がないって言われないように」


 川島の声が詰まる。


「笑うなよ」


「笑いません」


 健二は、こぼれた米を見た。


 白い米。


 土。


 靴跡。


 それを袋に戻すことはできない。


 でも、ただ捨てることもできなかった。


「使える分と、駄目な分を分けます」


「そんなの、もう」


「分けます」


 健二は言った。


「全部駄目にすると、向こうの思う通りです」


 川島は黙った。


 布団は庭の土の上に落ちていた。


 三枝が写真を撮る。


「昨日、干していたんですか」


「はい」


「誰のために?」


 川島は少しだけ迷った。


「晴斗のためです」


 その声には、恥ずかしさが混じっていた。


 まだ帰ると決まっていない子のために、布団を干した。


 それを見られるのが恥ずかしいのかもしれない。


 三枝は、表情を変えずに書いた。


 児童受け入れ準備として布団を用意。

 確認時、庭土上に落下。

 第三者による移動の可能性あり。

 洗浄・乾燥が必要。


 健二は、その書き方を聞いていた。


 不適切な寝具。


 白羽なら、そう書くかもしれない。


 だが、三枝は違った。


 児童受け入れ準備として布団を用意。


 同じ布団でも、記録の向きが違う。


 それだけで、川島の行動の意味が変わる。


     *


 家の中へ入った。


 玄関には、古い靴が二足。


 川島のものだった。


 その横に、小さな靴箱があった。


 中には、子ども用の古いサンダルが一足入っている。


 健二は、それを見た。


「これは?」


 川島は、少し顔を背けた。


「晴斗のです。小さい頃の。もう履けないけど」


「捨てなかったんですね」


「捨てられなかっただけです」


 三枝が静かに書く。


 過去の所持品あり。

 本人記憶との関連確認は未実施。


 部屋は二つあった。


 一つは川島が寝ている部屋。


 もう一つは、物置に近い部屋だった。


 だが、昨日から片づけようとした跡がある。


 段ボールが隅に寄せられている。


 畳の上に、掃いた跡。


 壁際に、小さな机。


 机の上には、古い釣り糸と、割れた浮きが置かれていた。


「川へ行ったって言ってましたね」


 健二が聞くと、川島は頷いた。


「あいつ、魚を見つけるのが早かったんです」


 声が少し柔らかくなった。


「石の下にいる小さいやつとか。俺が分からないのに、あいつだけ見つける」


 三枝が聞いた。


「昨日の面会で、“さかな”と言いました」


 川島は黙った。


「その言葉に、心当たりはありますか」


「あります」


「ただし、それだけで本人確認は」


「分かってます」


 川島は、今度は先に言った。


「それだけで決めないんですよね」


 三枝は頷いた。


「はい」


 川島は苦笑した。


「嫌いな言葉が増える」


「すみません」


「いや」


 川島は首を横に振った。


「必要なんですよね」


 その言い方は、昨日より少しだけ変わっていた。


     *


 近所の人は、なかなか出てこなかった。


 古賀が声をかけても、窓の向こうで気配が消える。


 誰も関わりたくない。


 それも分かる。


 青い腕章の人間たちは、正義の言葉でやって来た。


 子どものため。

 地域のため。

 安全のため。


 それに逆らえば、自分も悪者になる。


 しばらくして、斜め向かいの家から、年配の女性が出てきた。


 手には、古い買い物袋を持っている。


 女性は周囲を何度も見てから、川島の家の門の前に来た。


「川島さん」


 川島が振り向く。


「島田さん」


 島田と呼ばれた女性は、健二たちを警戒した目で見た。


 三枝が名乗り、用件を簡単に説明する。


 島田はしばらく迷った。


 それから、小さく言った。


「今朝の人たち、見ました」


 三枝が聞く。


「家に入っていましたか」


「中には入ってないと思います。でも、庭には入ってました。窓も触ってた。布団も……」


 島田は言いにくそうに、庭を見る。


「落としたのを見ました」


 川島が唇を噛む。


 三枝が言った。


「証言として残してもよろしいですか」


 島田はすぐには頷かなかった。


「名前は」


「出したくなければ、匿名証言として扱います。ただし、後で正式確認が必要になる場合があります」


 島田は不安そうだった。


 川島が言った。


「無理しなくていいです」


 島田は川島を見た。


「晴斗くん、見つかったの?」


 川島は答えられなかった。


 三枝が言う。


「確認中です」


 島田は頷いた。


「そう」


 そして、川島の家を見た。


「この人、乱暴な人じゃないですよ」


 川島が顔を上げる。


 島田は続けた。


「口は悪いし、愛想もないけど。晴斗くんが小さい頃、よく川に連れて行ってた。お姉さんが忙しい時は、迎えにも行ってた」


 三枝は書く。


 川島氏と児童の過去交流あり。

 近隣者証言。

 川遊び、送迎の記憶あり。


 島田は、少し強い声で言った。


「でも、この家だけで育てられるかって言われたら、簡単じゃないと思う」


 川島は目を伏せた。


 島田は言った。


「それも本当です」


 三枝は頷いた。


「ありがとうございます。両方、記録します」


 島田は少し驚いたように三枝を見た。


「両方?」


「はい。乱暴な人ではないことも。生活環境に課題があることも。どちらもです」


 島田は、少しだけ表情を緩めた。


「そういう書き方もあるんですね」


 三枝は静かに答えた。


「そうしないと、人が消えます」


 島田は、その意味を完全には分からなかったかもしれない。


 でも、黙って頷いた。


     *


 午後になる前に、健二は修理を始めた。


 割れた窓には、川島の家の裏にあった板を合わせる。


 竹本がいれば、もっときれいにやるだろう。


 健二は、そう思いながら釘を打った。


 古い木に釘が入る音がする。


 大きすぎないように、ゆっくり。


 悠太なら怖がるかもしれない。


 そう考えた自分に、健二は気づいた。


 旧南第三の八人が作った確認項目は、ここでも生きている。


 大きな音がないか。


 怖いと言えるか。


 痛いと言えるか。


 戻れる連絡先があるか。


 川島は庭で、こぼれた米を分けていた。


 使えない分は、袋に入れる。


 使えるかもしれない分は、別にする。


 だが、ほとんどは駄目だった。


「捨てます」


 川島が言った。


「写真を撮ってから」


 三枝が言う。


「はい」


 川島は苦い顔をした。


「米まで記録か」


「米も、帰る場所です」


 健二が言った。


 川島は手を止めた。


「米も?」


「はい」


 健二は窓に板を当てながら言う。


「名前だけじゃ帰れません。飯がいる。布団がいる。鍵がいる。学校までの道がいる。嫌だって言える大人がいる」


 川島は黙った。


「だから、米も記録します」


 川島は、こぼれた米を見た。


「……そうか」


 その声は小さかった。


 三枝は、濡れた布団を洗えるか確認した。


 島田が古い物干し竿を一本貸してくれた。


 坂井は、集落から学校までの道を地図に書き込む。


 最寄りの小学校は、分断後、仮校舎として再開準備中だった。


 通学には徒歩で三十分。


 途中に橋がある。


 橋は古いが、まだ通れる。


 夜は暗い。


 街灯は二本だけ。


 健二はそれを聞いて言った。


「帰り道が暗いな」


 坂井が頷く。


「反射材、懐中電灯、送迎方法が必要です」


 三枝が書く。


 通学路。

 徒歩約三十分。

 橋あり。

 夜間照明不足。

 対策必要。


 川島は言った。


「俺が送ります」


 三枝は聞く。


「毎日?」


 川島は止まった。


 仕事がある。


 いつも送れるとは限らない。


 すぐに「送る」と言えば、後で守れない約束になる。


 川島は、昨日の面会を思い出したのかもしれない。


 守れない約束は、二回目の施設になる。


 健二は、それを言わなかった。


 川島は、自分で考えた。


「毎日は……分かりません」


 三枝は頷いた。


「では、そこも課題です」


 川島は悔しそうにした。


 だが、怒らなかった。


「課題、ですね」


「はい」


「でも、できないって決まったわけじゃない」


「はい」


 三枝は書いた。


 送迎方法、要調整。

 近隣協力者候補確認。

 学校側との連絡必要。


 川島は、その書き方を見ていた。


「不適切って書かないんですね」


 三枝は顔を上げる。


「まだ、そう決める段階ではありません」


「白羽なら書くかな」


「書くかもしれません」


「じゃあ、先に直します」


 川島は、布団を持ち上げた。


「帰れる家にするために」


     *


 昼過ぎ、無線で旧南第三へ報告した。


 職員室には、倉持、瀬田ハル、そして八人のうち年長の悠斗と千紘がいた。


 すべては聞かせない。


 だが、報告の一部は必要だった。


 健二は言った。


「川島さんの家は、古い。そして課題は多い」


 無線の向こうで、倉持が書いている音がする。


「ただし、今朝、第三者が家の前に貼り紙をしていた。窓にひび。米袋破損。布団が庭土上に落下。白羽との直接関係は不明。ただし、貼り紙の文言は白羽で聞いたものと一致」


 瀬田ハルの声がした。


「心理安定、安全な生活環境、親族の感情、ですか」


「はい」


 倉持が言った。


「妨害記録として分けます」


 三枝が答える。


「お願いします」


 無線の向こうで、蓮の声がした。


「殴ったのか」


「殴ってない」


 健二が答える。


「川島さんも、俺も」


「何でだよ」


「殴ったら、向こうの証拠になる」


 少し沈黙。


 蓮は低く言った。


「……くそだな」


「そうだな」


 健二は否定しなかった。


 悠斗の声が聞こえた。


「家は、帰れるんですか」


 健二は周囲を見た。


 板を打った窓。

 干し直した布団。

 こぼれた米。

 古い靴箱。

 小さなサンダル。

 川まで続く道。

 暗い通学路。


「まだ、帰れる家とは言えない」


 無線の向こうが静かになった。


 健二は続ける。


「でも、帰れる家に直せるかもしれない」


 悠斗は返事をしなかった。


 三枝が言う。


「そのために、今日見ています」


 瀬田ハルが小さく言った。


「壊されたものも、直せるものと、直せないものに分けてください」


 健二は答えた。


「はい」


 通信の最後に、直樹が入った。


「ケン」


「兄ちゃん」


「川島は殴らなかったか」


「殴らなかった」


「自分で止まったか」


「止まった」


「なら、一つ進んだ」


 川島は、少し離れた場所でそれを聞いていた。


 顔は見えない。


 でも、手が止まっていた。


 直樹は続ける。


「白羽は次に、その家の不備を書く。こっちは、不備と妨害と改善可能性を分けて書け」


「分ける」


「それから」


「何」


「壊れた場所を直したら、その直した記録も残せ」


 健二は少しだけ笑いそうになった。


「修理の記録まで?」


「修理は帰り道だ」


 健二は黙った。


 修理は帰り道。


 その言葉は、妙にしっくりきた。


     *


 夕方までに、できることだけをやった。


 窓には板を打った。


 米は使えない分を廃棄記録にして、足りない分を支援物資で補う必要があると書いた。


 布団は洗い、干した。


 玄関の貼り紙は、写真と写しを取ってから外した。


 外した紙は捨てない。


 透明袋に入れ、日時と場所を書いた。


 川島は、それを嫌そうに見ていた。


「こんな紙まで残すのか」


 三枝が答える。


「残します」


「見るだけで腹が立つ」


「だから残します」


 川島は黙った。


 玄関に貼られていた紙は、家を傷つけるためのものだった。


 だが、残せば、誰がどんな言葉で川島の家を壊しに来たかの証拠になる。


 紙は、奪うためにも使われる。


 守るためにも使える。


 その違いを決めるのは、誰のために残すかだった。


 家の中の物置部屋は、完全には片づかなかった。


 それでも、寝る場所を作れる余地はあった。


 川島は古い段ボールをどかしながら言った。


「狭いな」


 健二は答えた。


「狭いです」


「白羽の方が広いだろうな」


「広いです」


「飯もある」


「あります」


「職員もいる」


「います」


 川島は手を止めた。


「じゃあ、俺は何で晴斗を帰したいんだろうな」


 健二は、すぐには答えなかった。


 川島は、自分で続けた。


「名前か」


 健二は頷いた。


「名前と、戻れる人です」


「戻れる人?」


「白羽には、生活はあります。でも、戻れる人がいるかは分からない」


 川島は、古い机の上に置かれた釣り糸を見た。


「俺が、その人になれるか分かりません」


「だから、見ています」


 川島は苦笑した。


「またそれか」


「はい」


「嫌いです」


「はい」


 川島は、それでも段ボールを動かした。


     *


 旧南第三へ戻ったのは、日が沈む少し前だった。


 門の内側に、また八人がいた。


 蓮は、健二の顔を見るなり言った。


「殴ってない顔だな」


「何だ、それ」


「殴った顔じゃない」


「殴ってない」


 蓮は少しだけ安心したように見えた。


 それから、すぐに不機嫌な顔に戻る。


「でもムカつくだろ」


「ムカつく」


「ならいい」


 陸が時計を見た。


「戻り時刻、十七時十四分」


「ぎりぎりか?」


 蓮が聞く。


「予定変更があったため、別枠です」


「便利だな、別枠」


 健二は少し笑った。


 笑ってから、すぐに疲れが来た。


 職員室で報告をした。


 倉持が紙を並べる。


 白羽面会記録。

 川島追加資料。

 帰れる場所を見る項目。

 今日の現地確認記録。

 妨害記録。

 修理記録。


 紙の山は、また増えた。


 健二は、一つずつ話した。


 青葉生活輸送の車。

 地域生活保全会の腕章。

 玄関の貼り紙。

 窓のひび。

 破られた米袋。

 土についた布団。

 撮影していた若い男。

 川島を挑発した発言。

 白羽との関係否定。

 白羽と同じ言葉。


 瀬田ハルは、じっと聞いていた。


 そして、小さく言った。


「外側の人たちです」


 健二が見る。


「外側?」


「第七にもいました。施設の中の人ではないけれど、同じ言葉を使う人たち。家族を責めたり、近所に話を流したり、戻る場所を先に壊したりしました」


 三枝が聞く。


「白羽とは別組織でも?」


「はい」


 瀬田ハルは頷いた。


「別だと言えます。でも、同じ方向を向いています」


 倉持が書く。


 外部協力者。

 白羽との直接関係不明。

 使用語彙一致。

 親族候補の不適格化を促す行動。


 蓮が言った。


「やっぱり白羽だろ」


 倉持は答えた。


「現時点では、直接関係は不明です」


「またそれかよ」


「だから、“不明”として残します」


 蓮は舌打ちした。


 でも、それ以上は言わなかった。


 颯太が聞いた。


「家、壊れた?」


 健二は颯太を見る。


「少し壊された」


「直した?」


「少し直した」


「帰れる?」


 健二は、すぐには答えなかった。


「まだ分からない」


 颯太は名前札を握る。


「でも、直す?」


「直す」


 颯太は頷いた。


 悠斗は、ホワイトボードの「帰れる場所を見る項目」を見ていた。


「帰る家って、壊されても帰る家ですか」


 健二は少し考えた。


「壊されたままなら、帰れないかもしれない」


 悠斗は黙っている。


 健二は続けた。


「でも、壊された時に直す人がいるなら、帰れる場所に近づく」


 悠斗は小さく言った。


「直す人」


「うん」


 それは、家の話だけではなかった。


 名前も、記録も、道も、人も。


 壊された時に直す人がいるか。


 帰り道とは、そういうものなのかもしれない。


     *


 夜、健二はホワイトボードの横に新しい紙を貼った。


 帰れる場所は、きれいかどうかだけで決めない。


 蓮が読んだ。


「長えな」


「大事だからな」


 陸が言った。


「続きが必要です」


「続き?」


 倉持がペンを持つ。


 八人は、少しずつ言葉を出した。


 美月が言う。


「壊れたら、直す」


 千紘が言う。


「足りない時に、言える」


 悠太が言う。


「大きい音を、減らす」


 颯太が言う。


「名前、変えない」


 花音が床に、家の絵を描く。


 屋根に小さな割れ目。


 その横に、板を当てる線。


 蓮が言った。


「嫌だって言ったら、止まる」


 悠斗は、少し遅れて言った。


「戻れる道がある」


 倉持は、それを紙に書いた。


 帰れる場所は、きれいかどうかだけで決めない。

 壊れたら直す人がいる。

 足りない時に言える。

 怖い音を減らせる。

 名前を変えない。

 嫌だと言ったら止まる。

 戻れる道がある。


 健二は、その紙を見た。


 白羽なら、川島の家を不適切と書くだろう。


 古い。

 狭い。

 米が足りない。

 布団が汚れた。

 窓が壊れている。

 親族が不安定。


 どれも、嘘ではない。


 でも、それだけでは全部ではない。


 誰が壊したのか。

 誰が直そうとしたのか。

 足りないと認めたのか。

 助けを求められるのか。

 子どもが嫌だと言えるのか。


 そこまで見なければ、帰れる場所は分からない。


 発電機を止める前、無線が鳴った。


 相原だった。


「白羽側から追加照会が来た」


 三枝が返す。


「内容は」


「川島氏宅について、近隣から生活環境不安の声がある。対象児の心理安定を考慮し、親族引き取り判断を慎重に行うべき、との意見書が添付されている」


 職員室が静かになった。


 健二は目を閉じた。


 もう来ている。


 川島の家を壊し、写真を撮り、貼り紙をし、地域の声として紙にする。


 早い。


 あまりにも早い。


 直樹の声が入った。


「ケン」


「兄ちゃん」


「間に合ったな」


「間に合ったのか、これ」


「向こうの紙だけになる前に見た。壊された状態も、直した状態も、川島が殴らなかったことも残った」


 健二は、机の上の記録を見た。


 まだ足りない。


 でも、何もないよりはいい。


 直樹は言った。


「次は学校と道だ」


「晴斗くんの?」


「そうだ。家だけ整えても、学校へ行けなければ帰れない。道が危なければ帰れない。近所に戻れる人がいなければ、また孤立する」


 三枝が頷いた。


「学校側確認、通学路確認、近隣協力者確認ですね」


 相原が言った。


「こちらで仮校舎の担当者へ連絡を取る」


 直樹は短く言った。


「急げ。白羽は川島を“不適切”にする。こっちは、川島を完璧な保護者にするんじゃない。足りないところを見えるようにして、支援をつける」


 健二は答えた。


「分かった」


 通信が切れた。


 夜の職員室に、紙の音だけが残った。


 健二は、今日外した貼り紙を見た。


 不安定な親族への児童返還に反対します。

 子どもの心理安定を守りましょう。

 安全な生活環境を乱さないでください。


 きれいな言葉だった。


 だが、その紙が貼られていた玄関では、米がこぼれ、布団が土に落ち、窓が割られていた。


 白羽は、晴斗の名前を“なお”に変えようとした。


 そして今度は、晴斗が帰るかもしれない家を、帰れない場所に変えようとしていた。


 けれど、健二は今日、割れた窓に板を打った。


 壊されたなら、直す。


 汚されたなら、記録する。


 奪われそうなら、道を残す。


 帰る場所は、きれいだから帰れる場所になるのではない。


 壊された時に、もう一度直す人間がいるから、帰れる場所に近づく。


 健二はホワイトボードを見た。


 大野晴斗。

 本人確認継続。

 返事を急がせない。


 その下に、倉持が新しく一行を書いた。


 帰る家を、壊されたままにしない。


 外では、夜の風が校門を鳴らしていた。


 白い車は見えない。


 青い腕章も見えない。


 だが、見えないところで、もう次の紙が作られている。


 旧南第三もまた、紙を作る。


 違う紙を。


 子どもを閉じ込めるためではなく、帰り道を消さないための紙を。


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