第二十八話 関係ありません
## 第二十八話 関係ありません
青葉生活輸送の事務所は、川沿いの古い倉庫の二階にあった。
窓は小さい。
壁には、色あせた配達区域図が貼られている。
机の上には、昨日撮った写真が並んでいた。
割れた窓。
土にこぼれた米。
庭に落ちた布団。
玄関に貼られた紙。
若い男、間瀬は、スマートフォンの画面を見ながら言った。
「これ、かなり使えますよ」
作業服の男、牧野が笑った。
「だから言ったろ。ああいう家は、写真にすると弱いんだよ」
薄い青の腕章の女、篠原は、机の前に座っていた。
昨日より顔色が悪い。
ただし、それは罪悪感ではなかった。
朝から、境界側からの照会が来ていた。
青葉生活輸送の車両番号。
地域生活保全会の腕章。
川島宅での撮影。
貼り紙の文面。
窓、米、布団。
川島氏への挑発発言。
すべて、記録されているらしい。
牧野は鼻で笑った。
「記録、記録って、あいつら好きだな」
篠原はファイルを閉じた。
「笑っている場合じゃありません。白羽側にも確認が入るはずです」
「白羽さんは関係ないって言うだろ」
間瀬が言った。
「それでいいんじゃないですか。俺らも関係ないって言えば」
篠原は答えなかった。
その時、階段の下で車のドアが閉まる音がした。
一台ではない。
二台。
いや、三台。
窓の外を見た間瀬の顔が変わった。
「……南岸です」
牧野の笑いが止まった。
倉庫の前に、古い二トン車と黒い軽トラックが止まっていた。
車体には、白羽の名前ではなく、別の文字が貼られている。
南岸復旧組合。
先頭の男は、六十前後だった。
背は高くない。
だが、肩が四角い。
工具袋を持っているわけでもないのに、そこに立っただけで、何かを壊せる人間に見えた。
牧野が舌打ちした。
「何だよ、あいつら」
篠原が小声で聞く。
「知っているんですか」
「この辺で道とか橋とか直してる連中だよ」
「復旧組合でしょう」
「名前はな」
階段を上がる音がした。
ゆっくりだった。
急いでいない。
逃げられるなら逃げてみろ、という足音だった。
ドアが開いた。
灰色の作業服を着た年配の男が入ってきた。
後ろに三人。
誰も怒鳴っていない。
だが、事務所は狭くなった。
男は机の上の写真を見た。
割れた窓。
こぼれた米。
土についた布団。
それから牧野を見た。
「川島の家、荒らしたのはお前らか」
牧野は笑おうとした。
「荒らしてませんよ。地域の安全確認です」
男は、玄関に貼られた紙の写真を指で叩いた。
「不安定な親族への児童返還に反対します、か」
篠原が言った。
「私たちは、子どもの心理安定を」
「その言葉、どこで覚えた」
篠原は黙った。
「白羽か」
牧野がすぐに言った。
「白羽とは関係ありません」
男は頷いた。
「そうか」
それから、短く言った。
「じゃあ、今ここで白羽に電話しろ」
事務所が静かになった。
間瀬がスマートフォンを握る。
篠原は顔を上げた。
「今ですか」
「今だ」
「白羽さんは仕事中です」
「仕事中なら出るだろ」
牧野が立ち上がった。
「何の権利で」
男の後ろにいた一人が、一歩だけ前に出た。
それだけで、牧野は言葉を止めた。
年配の男は怒鳴らなかった。
ただ、言った。
「お前らは昨日、川島の家で同じことをしたんだろ。相手の場所に来て、相手の都合を聞かず、写真を撮って、紙を貼った」
牧野の喉が動いた。
「電話しろ」
篠原は、震える指でスマートフォンを取り出した。
白羽生活支援センター。
地域連携窓口。
通話がつながるまで、誰も話さなかった。
やがて、穏やかな女の声が聞こえた。
「白羽生活支援センター、地域連携窓口です」
篠原は唇を湿らせた。
「地域生活保全会の篠原です。昨日の川島氏宅の件で、境界側から照会が来ています。こちらの行動について、白羽側からも説明を」
電話の向こうの声は、少しだけ間を置いた。
「当センターとしては、昨日の川島氏宅への訪問、撮影、貼付物、その他の行為について、指示、依頼、承認は行っておりません」
間瀬の顔が固まった。
牧野が篠原からスマートフォンを奪うように取った。
「おい、話が違うだろ。こっちは白羽さんのために」
声が途中で止まった。
年配の男が、牧野を見ていた。
電話の向こうの声は変わらなかった。
「当センターは、そのような行為を依頼しておりません」
「でも、文面は」
「地域団体の自主的な啓発活動について、当センターから申し上げられることはありません」
「じゃあ、俺らは?」
「当センターとしては、関係ありません」
その言葉は、事務所の中に白く落ちた。
関係ありません。
白羽の声は、最後まで穏やかだった。
牧野はスマートフォンを握ったまま固まっていた。
篠原は椅子に座り込んだ。
間瀬は、机の上の写真を見ていた。
さっきまで武器だった写真が、今は自分たちの手の跡に見えた。
年配の男は言った。
「聞いたな」
誰も答えなかった。
「白羽とは関係ないそうだ」
牧野の顔から血の気が引いた。
男は、机の上の写真を一枚ずつ並べた。
「窓。米。布団。貼り紙。撮影。挑発」
それから、牧野を見た。
「じゃあ、お前らだけだ」
*
健二たちが青葉生活輸送の事務所へ着いたのは、それから一時間ほど後だった。
相原からの連絡で、青葉生活輸送に正式な確認を取ることになっていた。
同行したのは、健二、三枝、坂井、古賀だった。
倉庫の前には、車がなかった。
昨日の白い軽バンも、幌つきの作業車もない。
古い倉庫の前に、風だけが残っていた。
事務所の階段を上がると、ドアは半分開いていた。
中には誰もいなかった。
机の上には、写真が残っている。
割れた窓。
土にこぼれた米。
庭に落ちた布団。
昨日、川島の家で撮られたものだった。
三枝が言った。
「触らないでください」
坂井が周囲を見る。
机の上には、湯気の消えた紙コップが三つ。
倒れた椅子が一脚。
床に落ちた薄い青の腕章。
壁に貼られていた配達区域図が、片方だけ剥がれている。
健二は、空気を吸った。
暴力の匂いがした。
血の匂いではない。
怒鳴った後の湿った空気。
逃げ道を探した足の跡。
机を強く掴んだ指の跡。
誰かが怖がった後の、妙に静かな部屋。
坂井が言った。
「すでに誰かが来ていますね」
健二は頷いた。
分かった。
見なくても分かった。
こういう空気を、健二は知っている。
父の現場にもあった。
資材置き場の奥。
話し合いが終わった後の事務所。
相手が帰った後、誰も大声を出さなくなるあの時間。
三枝が落ちていた腕章を見た。
「地域生活保全会」
古賀が写真を撮る。
「現場確認記録として残します」
その時、階段の下で足音がした。
健二たちは振り向く。
最初に上がってきたのは、間瀬だった。
スマートフォンは持っていない。
右の頬が大きく腫れていた。
唇の端は切れ、口の中を切ったのか、話す前から顎に力が入っている。
服の胸元は伸び、肩のあたりに倉庫の埃が白くついていた。
階段を一段上がるたびに、片足をかばっている。
昨日、川島にスマートフォンを向けていた軽さは、どこにもなかった。
目が泳いでいる。
健二たちを見るのではなく、背後の階段を何度も気にしていた。
その後ろに、牧野が上がってきた。
こちらはもっと酷かった。
作業服の襟が破れている。
左目の下が紫色に腫れ、唇の端から乾いた血が線になって残っていた。
右手で脇腹を押さえている。
息を吸うたびに、顔がわずかに歪む。
歩けないほどではない。
だが、まっすぐ歩けてはいなかった。
昨日、川島に「殴れよ」と言った男が、今は誰かに触れられるだけで身を引く顔をしていた。
さらに後ろから、篠原が上がってきた。
薄い青の腕章はつけていなかった。
髪が乱れ、頬に赤い跡がある。
殴られたのか、掴まれたのかは分からない。
ただ、昨日まで丁寧に整えていた書類用の鞄を、胸の前で抱えるように持っていた。
その手が震えていた。
三人とも、怒ってはいなかった。
怯えていた。
事務所に戻ってきたというより、そこへ逃げ戻ってきたように見えた。
三枝は三人を見た。
「確認に来ました」
牧野は答えなかった。
昨日、川島に向けていた顔ではなかった。
健二は、牧野の目を見た。
昨日の男は、川島を殴らせようとしていた。
今の男は、殴られた後の人間の目をしている。
痛快だと思ってもよかった。
けれど、健二の腹の中には、別のものが沈んだ。
白羽の外側の暴力が、別の暴力に奪われた。
それは、早かった。
紙より早い。
手順より効く。
記録より怖い。
だからこそ、危なかった。
三枝が言った。
「白羽生活支援センターとは連絡を取りましたか」
篠原の顔が歪んだ。
「取りました」
「回答は」
篠原はしばらく黙った。
牧野が低く言った。
「関係ないそうです」
その声は、昨日の笑い声とは違っていた。
「白羽は、俺らとは関係ないってよ」
間瀬が、机の上の写真を見た。
「こんだけやらせておいて」
三枝が静かに聞く。
「やらせて、とは?」
間瀬は牧野を見る。
牧野は止めなかった。
止める力がもうなかった。
間瀬は言った。
「地域連携の資料です。青いファイル。生活環境を確認する時の表現例とか、心理安定とか、不安定親族とか」
坂井が言った。
「その資料はありますか」
篠原は黙った。
健二は、部屋の隅の棚を見た。
青いファイルが一冊、斜めに突っ込まれている。
古賀が視線で確認する。
三枝が言う。
「任意での提示を求めます」
篠原は、しばらく動かなかった。
やがて、棚からファイルを取り出した。
表紙には、こう書かれていた。
地域における児童心理安定支援 連携資料
生活環境確認時の留意表現
白羽生活支援センターの名前はない。
だが、裏表紙に小さな印があった。
全国児童救済連絡会 地域連携部。
三枝は表紙を撮影した。
坂井は言った。
「写しを取ります」
篠原は力なく頷いた。
牧野が低く呟いた。
「守ってくれねえのかよ」
誰に言ったのかは分からなかった。
白羽にか。
地域生活保全会にか。
自分たちが信じていた後ろ盾にか。
健二は、その声を聞いても、同情はしなかった。
ただ、覚えた。
白羽は、名前を変える時だけ優しい。
手が汚れた時は、すぐ外す。
関係ありません。
その一言で。
*
青葉生活輸送の事務所で取った記録は、三種類に分けられた。
一つ目。
川島宅への無断接近と物品損壊の疑いに関する事実記録。
二つ目。
地域生活保全会および青葉生活輸送の発言記録。
三つ目。
白羽生活支援センターおよび全国児童救済連絡会との直接関係は未確認だが、使用語彙、資料文例、行動目的に一致が見られるという連携疑い記録。
倉持なら、もっと正確な名前をつけるだろう。
健二はそう思った。
それでも、今日の紙は昨日より強かった。
昨日は、白羽の言葉が川島の家を壊した。
今日は、その言葉がどこから来たのか、少しだけ見えた。
牧野たちは、確認書への署名を渋った。
署名といっても、罪を認めるものではない。
この場で説明を受け、発言内容の一部を確認した、という記録だった。
牧野は嫌がった。
篠原も目を伏せた。
間瀬は何度もスマートフォンのない手元を見た。
三枝は何度も確認した。
「署名は任意です。拒否できます」
「拒否した場合は」
牧野が聞く。
「拒否として記録します」
「結局、記録じゃねえか」
三枝は答えた。
「はい」
牧野は苦い顔で署名した。
間瀬も署名した。
篠原は少し迷ってから、自分の名前を書いた。
その横に、所属としてこう書いた。
地域生活保全会。
三枝は聞いた。
「白羽生活支援センターとの兼務は」
「ありません」
「全国児童救済連絡会との関係は」
篠原は黙った。
少ししてから言った。
「研修参加者です」
三枝は書いた。
本人申告。全国児童救済連絡会地域連携研修参加者。
それだけだった。
だが、その一行が増えた。
白羽はまだ白い。
でも、白羽の周囲にある青い線が、少しだけ紙に残った。
*
事務所を出たところで、健二はその男を見た。
知らない男だった。
川沿いのガードレールの脇に、古い二トン車が止まっている。
車体には、南岸復旧組合とだけ書かれていた。
その前に、灰色の作業服を着た年配の男が立っていた。
背は高くない。
だが、肩が四角い。
工具を持っていないのに、そこにいるだけで、何かを動かせる人間に見えた。
人を動かす。
車を止める。
業者を黙らせる。
道を開ける。
場合によっては、誰かの道を塞ぐ。
健二は、その男を知らない。
男も、健二を知らない。
それでも健二は、そこに、いないはずの父親の影を見た。
声を聞く前から分かった。
これは、紙より早く物事を終わらせる大人だ。
父の周りにいた大人たち。
父自身の背中。
現場の隅で、誰かを黙らせた声。
守ると言いながら、別の誰かを押しのけた手。
全部が、その男の立ち方に混じっていた。
男は、健二たちを一度見た。
「境界の人間か」
坂井が答えた。
「はい」
「遅いな」
坂井は否定しなかった。
「遅かった部分はあります」
男は鼻を鳴らした。
「青葉のチンピラは、もう川島の家には来ねえよ」
三枝が言った。
「何をしたんですか」
「話をしただけだ」
男は平らな声で答えた。
健二は、その言葉を信じなかった。
だが、問い詰めても何も出ないことも分かった。
事務所の中には、倒れた椅子があった。
落ちた青い腕章があった。
牧野の唇は切れていた。
間瀬の頬は腫れていた。
誰も、はっきりとは言わない。
言わなければ、紙には残りにくい。
そういうやり方を、健二は知っていた。
父の現場にもあった。
話し合い。
確認。
注意。
今後のための申し入れ。
そういう名前で、人は黙らされた。
男は、健二を見た。
「若いの。お前、川島の家を見たんだろ」
「見ました」
「じゃあ分かるだろ。ああいう家を荒らすチンピラは、一回怖い目を見ないと止まらん」
健二は答えなかった。
それが早いことは分かっていた。
それが効くことも分かっていた。
青葉生活輸送は、もう川島の家には近づかないだろう。
青い腕章も、あの集落では使いにくくなる。
白羽は関係ないと言い、外側のチンピラは外側で潰れる。
それは、ひどく分かりやすい終わり方だった。
健二の中にも、その終わり方を望む場所があった。
だが、それは帰り道ではない。
ただ、別の大人が道の入口に立つだけだ。
白い大人の代わりに、黒い大人が立つ。
子どもはまた、その顔を見ることになる。
健二は言った。
「それでは、晴斗くんが帰れる道は増えません」
男の目が細くなった。
「あ?」
「青葉生活輸送が来なくなるだけです」
「十分だろ」
「十分じゃありません」
健二は、川の方を見た。
「川島さんの家から仮校舎までの道が暗い。橋も古い。街灯も少ない。子どもが通うなら、そこを見ないといけません」
男はしばらく黙った。
「俺らに、道を直せって言ってるのか」
「はい」
「人を締めるより、そっちをやれと」
「はい」
男は、少しだけ笑った。
楽しそうではなかった。
「面倒なことを言うな」
「分かっています」
「殴る方が早いぞ」
「早いです」
「効くぞ」
「効きます」
「なら、なぜ止める」
健二は、自分の手を見た。
荷物を持つ手。
窓に板を打つ手。
米を拾う手。
川島を止めた手。
人を殴らなかった手。
「怖がらせて守ると、子どもは次に、その怖い人の顔を見るようになります」
男は黙った。
「白羽の顔を見る。青葉生活輸送の顔を見る。地元の顔役の顔を見る。誰を怒らせたら駄目かを探す。それは帰れる場所じゃありません」
男は、長く健二を見ていた。
「お前、誰の息子だ」
健二は答えなかった。
父の名前を出したくなかった。
この男に、父の名前を渡したくなかった。
この場で父の名前を出せば、また別の力の線が引かれる気がした。
誰の息子か。
どこの現場の血筋か。
誰の顔で通るのか。
そういうものから、帰り道を離したかった。
健二は答えずに言った。
「道を見てください」
男は、少しだけ健二を見る目を変えた。
「名前を出さねえのか」
「出しません」
「嫌いか」
健二は少しだけ黙った。
「嫌いです」
「でも、そういう力が必要な時もある」
「はい」
「そこまで分かってて、使わないのか」
「使い方を変えたいんです」
「どう変える」
「人を黙らせるためじゃなく、道を直すために」
男は、今度は本当に少しだけ笑った。
「変なことを言う」
「最近、そういうことばかり言っています」
「道は見る。橋も見る。街灯は、材料があれば立てられる」
健二は頭を下げた。
「お願いします」
「まだ受けるとは言ってねえ」
「でも、必要になります」
男は舌打ちした。
「面倒な若いのに捕まったな」
そう言って、二トン車に乗った。
車が去った後も、健二はしばらくその場に立っていた。
知らない男だった。
それでも、そこには父の影があった。
怒鳴る人。
黙らせる人。
早く終わらせる人。
守るためだと言って、誰かの道を塞ぐ人。
健二の中にも、その力に頼りたい場所がある。
だからこそ、選ばなければならない。
父の名前を出さない。
父のやり方で通さない。
怖い大人を、門番にしない。
道を直す人にする。
それができなければ、白羽と違う帰り道にはならない。
*
旧南第三へ戻ると、門の前に蓮がいた。
蓮は健二の顔を見るなり言った。
「殴った?」
「殴ってない」
「殴られた?」
「殴られてない」
「つまんねえ」
健二は苦笑した。
「つまんないか」
「つまんねえよ」
蓮は腕を組んだ。
「でも、あのチンピラどもは?」
「もう川島さんの家には来にくい」
蓮の目が少しだけ動いた。
「ざまあ」
健二は止めなかった。
その言葉が出るくらいのことは、確かにあった。
職員室では、倉持が机を空けて待っていた。
三枝が記録を並べる。
青葉生活輸送の発言記録。
白羽地域連携窓口との通話内容。
地域生活保全会資料の写し。
青葉生活輸送の確認書。
南岸復旧組合とみられる第三者接触後の現場状況。
青葉生活輸送の協力業者リスト一時除外通知。
倉持は、それぞれを箱に分けた。
蓮が聞く。
「で、勝ったのか」
誰もすぐには答えなかった。
蓮は不機嫌そうに言う。
「何でそこで黙るんだよ」
健二は言った。
「少し返した」
「少し?」
「白羽本体には届いてない。でも、外側の連中は切られた。青葉生活輸送は、しばらく児童搬送には関われない」
蓮の目が少し光った。
「ざまあ」
陸が言った。
「備考にしますか」
「するな」
蓮がすぐに言う。
倉持が少し笑いそうになったが、笑わなかった。
千紘が聞いた。
「白羽は、助けなかったんですか」
三枝が頷く。
「関係ありません、と回答しました」
颯太が小さく言った。
「仲間じゃないの?」
「外側の人たちは、仲間だと思っていたかもしれません」
倉持が答える。
「でも、白羽はそう書きませんでした」
颯太は、少し考えた。
「じゃあ、捨てた?」
職員室が静かになる。
健二は答えた。
「そう見える」
颯太は名前札を握った。
「嫌だ」
「うん」
美月が毛布を抱えたまま言った。
「守るって言って、後で知らないって言うのは嫌です」
千紘が頷いた。
「小さい子にやったら、もっと嫌です」
悠斗は、ホワイトボードを見ていた。
「怖い人が味方にいたら、安全ですか」
健二は、その質問にすぐ答えなかった。
今日、南岸復旧組合の男たちは青葉生活輸送を止めた。
怖い人が味方にいる安心は、たしかにある。
川島の家には、もう青葉生活輸送は来にくくなる。
それは現実の力だった。
でも。
「安全とは違うと思う」
健二は言った。
「怖い人が味方にいると、今度はその人の顔を見るようになる」
悠斗は顔を上げた。
「顔?」
「何を言えばいいか。どっちを見ればいいか。誰を怒らせたら駄目か」
颯太が小さく息を飲んだ。
白羽の面会室で、男の子が大人の顔を順番に見ていた。
あの目と同じになる。
白い大人でも。
黒い大人でも。
怖い大人の顔を見る場所は、帰れる場所ではない。
健二は続けた。
「だから、あの人たちには道を直してもらう。人を黙らせるためじゃなくて、学校まで行けるように」
蓮が言った。
「でも、あいつらまた来たら?」
坂井が答えた。
「来たら記録します。必要なら、こちらで止めます」
「弱くねえか」
直樹の声が無線から入った。
「弱くない」
全員が無線を見る。
直樹は続けた。
「殴らずに相手の仕事を止めた。白羽に切らせた。資料も取った。協力業者リストから外した。十分だ」
蓮は少し黙った。
「でも、白羽はまだいる」
「いる」
「じゃあ勝ってねえ」
「勝ってない」
直樹はすぐに言った。
「でも、負け方を変えた」
蓮が眉を寄せる。
「何だよ、それ」
「昨日までは、向こうの紙だけが残る負け方だった。今日は、こっちの紙も残った。向こうの外側が一つ剥がれた」
陸が小さく言った。
「剥がれた」
倉持が紙に書く。
白羽外部協力者の一部離脱。
青葉生活輸送、協力業者リスト一時除外。
地域生活保全会、全国児童救済連絡会資料との関連確認中。
白羽生活支援センター、直接関与を否定。
蓮がその最後の行を見た。
「関係ありません、だろ」
倉持は頷いた。
「はい」
「そのまま書けよ」
倉持は、少し考えてから書いた。
白羽生活支援センター回答。
「関係ありません」
颯太がそれを見た。
「冷たい」
誰も否定しなかった。
*
夜、健二は一人で廊下に出た。
校舎の外は暗い。
門の向こうの道は、黒く沈んでいる。
発電機の音が低く続いていた。
父の声が、まだ腹の底に残っていた。
守るなら怖がらせろ。
舐められたら終わりだ。
紙で飯は食えない。
どれも、完全には間違っていなかった。
今日、あの男たちが来なければ、牧野たちはもっと強気だったかもしれない。
青葉生活輸送が怖がったから、資料は出てきた。
力は、確かに役に立つ。
そこから目を逸らしてはいけない。
でも、その力を道の真ん中に置けば、子どもはまた別の顔を見ることになる。
白羽の顔。
青葉生活輸送の顔。
地元の顔役の顔。
父親の顔。
どれを見れば安全なのか。
どれを怒らせたらいけないのか。
それを探す子どもにしてしまう。
健二は、拳を開いた。
手のひらに、まだ釘を打った時の痛みが残っている。
割れた窓に板を打つ痛み。
人を殴らなかった手の痛み。
その痛みの方を選んだ。
廊下の先から、颯太が歩いてきた。
名前札を持っている。
「眠れないのか」
健二が聞くと、颯太は小さく頷いた。
「怖い人、来る?」
「ここには来ないようにする」
「白羽?」
「白羽も、青い腕章の人たちも、勝手には入れない」
「怖い人が守る?」
健二は少し考えた。
「怖い人には、橋と道を直してもらう」
「人は?」
「人は、怖がらせない」
颯太は、それをしばらく考えた。
「じゃあ、名前は?」
「名前は、怖がらせて守らない」
颯太は名前札を胸に当てた。
「呼んで、待つ?」
「うん」
「遅くても?」
「遅くても」
颯太は、少しだけ頷いた。
それから、職員室のホワイトボードを見に行った。
健二も後についていく。
ホワイトボードには、倉持が今日の記録を貼っていた。
大野晴斗。
本人確認継続。
返事を急がせない。
帰る家を、壊されたままにしない。
白羽生活支援センター回答。「関係ありません」
青葉生活輸送、協力業者リスト一時除外。
次回確認。学校までの道。
颯太は最後の行を読んだ。
「学校までの道」
「次はそこを見る」
「道、壊されたら?」
「直す」
「暗かったら?」
「明かりをつける方法を考える」
「怖い人がいたら?」
健二は答えた。
「怖がらせない人を増やす」
颯太は、少しだけ息を吐いた。
「大変」
「大変だな」
「でも、名前だけより、帰れそう」
健二は、颯太の横顔を見た。
その言葉は、小さかった。
でも、今日一番大きな言葉のように思えた。
*
発電機を止める直前、無線が鳴った。
相原だった。
「追加報告です」
三枝が受ける。
「はい」
「白羽側は、青葉生活輸送との関係を否定したままです。ただし、こちらから全国児童救済連絡会の地域連携資料について照会を出しました」
倉持が書き取る。
「青葉生活輸送については?」
「児童搬送、支援物資搬送の協力対象から一時除外。境界区域内の通行許可も再審査です」
蓮が小さく言った。
「ざまあ」
今度は、誰もすぐに止めなかった。
倉持だけが、備考には書かなかった。
相原は続ける。
「川島氏宅の妨害行為については、近隣証言と現地確認記録を添えて、白羽側の生活環境不安意見書に対する反証として扱います」
三枝が頷いた。
「ありがとうございます」
直樹の声が入った。
「ケン」
「兄ちゃん」
「あの連中に、会ったか」
「会った」
「殴らせたか」
「止めた」
「よし」
健二は、少しだけ笑った。
直樹は言った。
「次は学校と道だ。白羽は川島を“不適切”にしたがる。こっちは、川島を完璧に見せるな。足りないところを出して、支援をつけろ」
「完璧にしなくていいのか」
「完璧な家なんかない」
直樹の声は、少しだけ低くなった。
「子どもが帰れるのは、完璧な家じゃない。壊れた時に直す人間がいる家だ」
健二はホワイトボードを見た。
帰る家を、壊されたままにしない。
「分かった」
通信が切れた。
職員室に、夜の静けさが戻った。
白羽は、まだ白かった。
長谷部も、畑中も、施設も、青い線の名札も、まだそこにある。
関係ありません。
その一言で、白羽は手を洗った。
だが、その水は完全には透明にならなかった。
青葉生活輸送の名前が残った。
地域生活保全会の腕章が残った。
資料の文例が残った。
川島が殴らなかった記録が残った。
南岸復旧組合の男たちが、殴らなかったとは言い切れない記録も残った。
暴力で奪われたものを、別の暴力で取り返しかけた日。
その日、健二は、いないはずの父親の影を見た。
そして、その影を門番にはしなかった。
道を直す方へ向けた。
旧南第三の紙は、初めて少しだけ向きを変えた。
白羽を守る紙ではなく。
白羽の外側を照らす紙へ。
健二は、ホワイトボードの下に新しい一行を書いた。
怖がらせて守らない。
颯太がそれを見て、名前札を握った。
「これも、帰る場所?」
健二は頷いた。
「うん」
外では、夜の道が暗く伸びていた。
次に見るのは、その道だった。
学校まで続いているか。
途中で消されていないか。
暗いなら、どこに明かりを置けるか。
怖い人ではなく、待てる人を、どこに立たせられるか。
大野晴斗という名前は、まだ帰ってきていない。
けれど、帰るかもしれない家の前から、青い腕章は一つ剥がれた。
白羽は関係ないと言った。
その言葉は、初めて白羽の外側を切った。




