第二十九話 処置室
## 第二十九話 処置室
朝の道は、昨日より明るく見えた。
明るくなったのではない。
見なければならないものが増えただけだった。
川島の家から仮校舎までの道。
古い橋。
低い欄干。
街灯の切れた支柱。
草に隠れた側溝。
雨が降ればぬかるむ細い坂。
夕方には暗くなる曲がり角。
健二は、歩きながら一つずつ見ていった。
横には三枝。
少し後ろに坂井。
川島は黙って歩いている。
南岸復旧組合の二トン車が、橋の手前に止まっていた。
昨日の灰色の作業服の男が、橋の欄干を軽く叩いている。
名前は聞いていない。
聞かないことにした。
その男は、橋の下を覗いて言った。
「腐ってはいない。だが、夜は見えねえな」
健二は頷いた。
「街灯は」
「支柱は使える。線は死んでる。仮設なら通せる」
三枝が記録する。
通学路。橋付近、夜間視認性低い。
仮設照明、反射材、見守り位置の検討必要。
男は健二を見た。
「見守りってのは、俺らが立つのか」
健二は首を振った。
「怖がらせない人を立たせたいです」
男は鼻を鳴らした。
「またそれか」
「はい」
「面倒くせえな」
そう言いながら、男は橋の端に白い印をつけた。
健二はそれを見た。
昨日、人を黙らせた力が、今日は道に印をつけている。
それでいい。
そう思おうとした。
だが、腹の奥ではまだ落ち着かない。
力は、向きを間違えるとすぐ人に向かう。
川島が橋の先を指した。
「あの先を曲がれば、学校です」
仮校舎は、旧役場の分庁舎を使っていた。
窓ガラスの一部は板で塞がれている。
校門はない。
白いロープが張られ、そこに小さな札が下がっていた。
仮設学習所。
三枝が言った。
「ここで、大野晴斗さんとして仮登録できるか確認します」
川島は、小さく頷いた。
頷いたが、声は出なかった。
その時、健二の無線が鳴った。
直樹ではなかった。
相原だった。
「真柴健二さん、そちらは通学路確認中ですか」
「はい」
「直樹さんと連絡が取れていますか」
健二は足を止めた。
「兄ちゃんに何かありましたか」
「危険ではありません。ただ、別件で動いています」
「別件?」
「白羽生活支援センターの裏口に関する情報です」
健二の背中が固くなった。
「白羽ですか」
「はい。まだ疑いの段階です。直樹さんが、炊き出し場で証言と廃棄物を確認しています」
*
炊き出しは、旧駅舎の高架下で行われていた。
大きな鍋から湯気が上がっている。
配られるのは、薄い粥と塩気の強い汁だった。
列には、帰る場所を失った者たちが並んでいた。
作業着のまま座り込む男。
毛布を肩にかけた老女。
片方だけ軍靴を履いた男。
名前を聞かれても、首を振るだけの女。
直樹は、列の端に座っていた。
怪我のせいで、立っているより座っている方が楽だった。
誰にも命令していない。
誰にも聞き込みをしていない。
ただ、紙の器を両手で持っていた。
湯気の薄い汁。
その向こうに、白羽生活支援センターの裏手へ続く細い道がある。
白羽は、表から見ると白い。
清潔で、静かで、整理されている。
だが、裏手にはゴミ箱があった。
搬入口があった。
白い車が入る細い門があった。
表の受付を通らないものは、そこから出入りする。
直樹の横に、女が座った。
年は四十を少し過ぎたくらい。
手の甲が荒れている。
炊き出しの手伝いをしているのか、袖口に米粒がついていた。
女は直樹を見ずに言った。
「真柴さんですか」
直樹は器を置いた。
「誰だ」
「森谷佐和です」
直樹の目が動いた。
森谷。
その姓だけで、腹の奥が冷えた。
「拓の」
「叔母です」
女はそう言った。
森谷拓。
境界の報告を運んで死んだ若い警備兵。
最後まで、任務を離さなかった男。
佐和は、布袋を膝の上に置いた。
「遺品が戻ってきた時、聞きました。拓は、旧南第三へ報告を届けようとしていたと」
直樹は黙っていた。
「その報告を受け取った人たちの中に、真柴という名前があったと」
「誰に聞いた」
「境界の人からです。詳しいことは教えてもらえませんでした。でも、拓が最後まで運ぼうとした紙が、子どもの名前に関わるものだったことは聞きました」
佐和は、布袋の口を閉じた。
「だから、あなたに話すことにしました」
「なぜ今だ」
直樹の声は低かった。
責めているわけではなかった。
だが、聞かずにはいられなかった。
佐和は白羽の裏手を見た。
「前から、変だとは思っていました」
「何が」
「裏口です」
彼女は、白羽の搬入口の方を見た。
「あそこは、表と違います。表では、白羽の人たちは丁寧です。子どもには優しい声を出します。私たちにも、たまに余った毛布をくれます。でも、裏口では私たちを見ません」
直樹は黙って聞いていた。
「だから、私たちは白羽を見られます」
佐和は続けた。
「でも、見えただけでは何も言えませんでした」
「なぜ」
「私たちが言えば、ただの噂になります。路上の者の勘違い。炊き出しに集まる不安定な人間の話。そう処理されます」
その言い方に、怒りはなかった。
何度もそう扱われてきた人間の声だった。
「それに、ここを失えば困る人がいます。白羽に抗議すれば、炊き出しの場所ごと追い出されるかもしれない。だから、みんな見ていても言えませんでした」
直樹は器を置いた。
「なら、なぜ今日だ」
佐和は懐から、小さな袋を出した。
「昨日から、白羽の裏口の動きが変わりました」
「どう変わった」
「白い車が、朝早く来ました。いつもの物資ではなく、子ども用の毛布と、白い箱を積んでいました」
佐和は袋の中から、破れた紙片を出した。
「それと、これが廃棄箱の外に落ちていました」
直樹は紙片を受け取った。
紙は破られていた。
文字も途中で切れている。
だが、いくつかの語は読めた。
生活名。
過去名刺激。
視聴覚。
反復音声。
対象児、なお。
反応語、はる、さかな。
直樹の目が変わった。
佐和は言った。
「意味は分かりません。でも、“なお”という名前と、“はる”“さかな”という言葉が、何かの処置表みたいなものに並んでいました」
直樹は、紙片から目を離さなかった。
昨日、川島の家で出た言葉。
はる。
さかな。
白羽が消そうとしているかもしれない反応。
その可能性だけで十分だった。
佐和は、もう一つ、白い箱の切れ端を出した。
「これも、裏のゴミに混じっていました。炊き出しの後、周りを掃除するんです。猫とかが漁らないように」
箱には、薬品名らしきものがあった。
ただし、正式名は削られている。
残っていたのは、施設管理番号と、白羽生活支援センターの内部管理印。
その横に、手書きで小さく書かれていた。
処置室二。
直樹は、白羽の裏口を見た。
そこに、小さな換気口がある。
白い壁の低い位置。
目立たない場所だった。
佐和は、背後のベンチを指した。
そこに、片方だけ軍靴を履いた男が座っていた。
髪は伸び、頬はこけている。
だが、座り方は兵士だった。
背中を壁に預け、入口と出口を視界に入れている。
佐和が言った。
「彼が、音を聞きました」
男は顔を上げた。
「あんた、兵隊だったろ」
直樹は否定しなかった。
「だった」
「じゃあ分かるな」
「何を」
「人を番号で呼ぶ場所の匂いだ」
直樹は、男を見る。
男は白羽の裏口を指した。
「夜じゃない。昼だ。あそこから同じ音がする。録音の声だ」
「何と言っていた」
「なおくん、大丈夫です。ここがあなたの生活です。古い名前は、思い出さなくて大丈夫です」
直樹の指が、紙片を押さえた。
紙がわずかに曲がる。
男は続けた。
「何度もだ。女の声で、同じ言葉を繰り返す。子どもの声は小さい。たまに、うう、とか、や、とか聞こえる」
「今日も聞いたか」
「少し前に聞いた。途中で音が止まった。たぶん、部屋を替えたか、扉を閉めた」
直樹は立ち上がろうとした。
佐和が止めた。
「怪我をしているんでしょう」
「関係ない」
「拓も、そう言って行きました」
直樹は動きを止めた。
佐和は、強くは言わなかった。
ただ、その一言だけだった。
拓も。
そう言って行った。
直樹は、ゆっくり座り直した。
佐和は言った。
「私たちは、白羽に直接言えません。言えば、ここから消されます。だから、拓が最後に届けようとした場所の人に話します」
直樹は、紙片と箱の切れ端を並べた。
まだ、確定ではない。
だが、噂では終わらないだけの線はあった。
白羽の裏口。
反復音声。
対象児、なお。
はる。
さかな。
処置室二。
内部管理印。
直樹は無線を取った。
「相原」
すぐに応答があった。
「なんだ」
「旧駅裏。白羽の裏口について証言がある」
「証言者は」
「炊き出し関係者。森谷拓の叔母。ほか一名。元兵士らしい男」
「内容は」
「断片だ。白羽の廃棄物から紙片。内部管理印つきの箱片。紙片に“生活名”“過去名刺激”“反復音声”“対象児なお”“反応語はる、さかな”。箱片に“処置室二”」
相原の声が少し硬くなった。
「確定か」
「確定じゃない」
「音は」
「複数回聞いている。録音音声。“なおくん、大丈夫です。古い名前は思い出さなくて大丈夫です”」
「場所は」
「白羽裏手。換気口付近。今日、白い車が入った」
無線の向こうが、一瞬静かになった。
相原は声を低くした。
「真柴、お前はそこを動くな」
「動く」
「動くな。証拠物と証言者を保持しろ。お前が踏み込めば、施設側に“武装経験者による威圧”と書かれる」
直樹は黙った。
相原は続けた。
「こっちで確認を取る。まず白羽に照会はかけない。逃げられる。境界側の緊急確認として入る」
「遅い」
「遅くしない」
「森谷拓の意志だ」
「分かっている」
相原の声には、迷いがなかった。
「だから、お前はそこで止まれ。今度は、こちらが先に動く」
直樹は紙片を見た。
止まることも、仕事だった。
「分かった」
*
健二の無線にも、すぐ連絡が入った。
相原の声は硬かった。
「白羽生活支援センターで、不審な処置室使用の疑いがあります。対象は、なおと呼ばれている少年の可能性があります」
川島が顔を上げた。
「晴斗ですか」
「断定はできません」
相原はすぐに言った。
「ただし、紙片に“対象児なお”“反応語はる、さかな”とあります」
三枝が無線に近づく。
「根拠は紙片と証言ですね」
「はい。現時点では疑いです。室内確認後に正式記録へ移します」
「分かりました」
坂井が言った。
「未成年者に対する未承認処置の疑いとして、緊急確認ですね」
「そうです」
川島が一歩前へ出た。
「行きます」
三枝は川島を見る。
「行きます。ただし、叫ばないでください。走らないでください。名前を呼ぶ時は、こちらの合図で」
「今、そんな」
「必要です」
三枝の声は、強かった。
「白羽は、あなたが崩れるのを待っています。今、あなたが壊れれば、また紙になります」
川島は歯を食いしばった。
健二は川島の肩に手を置いた。
「行きましょう」
南岸復旧組合の年配の男が、橋の上からこちらを見た。
「何だ」
「白羽です」
健二が答えた。
「子どもが、変な部屋に入れられているかもしれません」
男の目が細くなった。
「俺らも行くか」
健二は首を振った。
「道を空けてください」
男は少しだけ笑った。
「そう来たか」
「はい」
「分かった」
男は二トン車へ向かい、部下に短く指示を出した。
橋の上から資材車が退く。
道が開いた。
怖い大人を、門番にしない。
道を開ける人にする。
健二は、それを確認して車に乗った。
*
白羽生活支援センターは、昼の光の中で静かだった。
玄関は磨かれている。
窓は白いカーテンで整えられている。
受付には花が置かれていた。
表から見れば、どこまでも清潔だった。
相原たちは、正面玄関から入った。
相原。
坂井。
三枝。
古賀。
境界保護所の職員二名。
そして健二と川島。
直樹は来ていない。
来させなかった。
その代わり、直樹から受け取った紙片と箱の切れ端、佐和たちの証言記録が、相原の手元にあった。
受付の職員は、微笑んだ。
「ご予約は」
相原は身分証を出した。
「境界保護所です。未成年者への未承認処置の疑いについて、施設内確認を行う」
職員の笑顔が止まった。
「所長を呼びます」
数分後、長谷部が現れた。
いつものように整っていた。
薄い笑み。
乱れのない襟。
柔らかな声。
「突然ですね」
相原は答えた。
「緊急性がある」
「当センターでは、子どもへの不適切な処置など行っておりません」
三枝が言った。
「処置室二という部屋はありますか」
長谷部は、一瞬だけ目を止めた。
ほんの一瞬だった。
だが、三枝は見逃さなかった。
「施設内の部屋名については、外部にお答えできません」
相原は、箱の切れ端を見せた。
「白羽生活支援センターの内部管理印がある。手書きで処置室二とある」
長谷部の表情は崩れなかった。
「廃棄物から拾われたものですね。真正なものか確認が必要です」
「確認する」
「施設内の心理支援室は、外部の方が立ち入る場所ではありません」
「未成年者が不適切な処置を受けている疑いがある」
「誤解です」
「なら確認する」
長谷部は微笑んだまま、少しだけ横に立った。
「確認には手続きが必要です」
相原は言った。
「手続きは取っている」
古賀が書類を出した。
白羽の玄関に、初めて白羽以外の紙が広げられた。
長谷部の笑みが、ほんの少し薄くなった。
*
廊下は白かった。
床も、壁も、扉も。
足音が吸い込まれる。
三枝は歩きながら、扉の札を見ていた。
相談室一。
生活支援室。
休息室。
記録保管室。
心理安定室。
そして、奥に小さな扉があった。
札は外されていた。
だが、扉の横に薄く跡が残っている。
そこに何かが貼られていた跡。
古賀がライトを当てる。
文字の跡が、かすかに見えた。
処置室二。
相原が長谷部を見る。
「ここか」
長谷部は言った。
「現在は使用していません」
その時、扉の向こうから音が漏れた。
女の声。
穏やかな声。
何度も、同じ言葉を繰り返している。
なおくん、大丈夫です。
ここがあなたの生活です。
古い名前は、思い出さなくて大丈夫です。
川島が息を止めた。
健二の拳が固くなる。
三枝が静かに言った。
「開けてください」
長谷部は動かない。
相原が職員に目配せした。
境界保護所の職員が扉に手をかける。
鍵はかかっていなかった。
扉が開いた。
*
部屋は、白かった。
窓はない。
壁に吸音材が貼られている。
中央に椅子がある。
椅子には、細い固定ベルトがついていた。
横の台には、遮光ゴーグル。
ヘッドホン。
記録用紙。
音声再生機。
透明な袋に入った青い線の名札。
薬剤トレー。
少年が椅子に座っていた。
小さな身体。
白い服。
胸に青い線の名札。
なお。
目元には遮光ゴーグルがかけられている。
耳にはヘッドホン。
手首は椅子の腕に固定されていた。
強く締められているわけではない。
だが、自分では外せない。
白羽の職員が二人、部屋にいた。
一人は記録用紙を持っている。
もう一人は、音声再生機の横に立っていた。
音声はまだ流れていた。
なおくん、大丈夫です。
ここがあなたの生活です。
古い名前は、思い出さなくて大丈夫です。
相原が言った。
「処置を停止」
職員が反射的に答える。
「途中で止めると、本人の心理状態に」
「停止」
坂井が前に出た。
音声再生機のスイッチが切られた。
部屋に、急に静けさが落ちた。
少年の肩が震えている。
三枝がゆっくり近づいた。
「ヘッドホンを外します」
白羽職員が言う。
「なおくんは現在、安定処置中です」
三枝は職員を見た。
「今、その名前で呼ばないでください」
職員の口が止まった。
三枝は、少年の耳からヘッドホンを外した。
次に、遮光ゴーグルを外す。
少年はすぐには目を開けなかった。
まぶたが震えている。
川島が、一歩だけ前へ出た。
三枝が手で止める。
「待ってください」
川島は止まった。
止まったが、全身が震えていた。
相原は記録用紙を取った。
そこには、項目が並んでいた。
生活名呼称への反応。
過去名呼称への抵抗。
親族関連語への不安定化。
川、魚、叔父、晴斗への反応低減。
生活名再定着音声、二十分。
必要時、鎮静補助。
同意欄には、こう書かれていた。
本人同意確認済み。
署名欄は空白だった。
親族通知欄も空白。
境界共有欄も空白。
医師確認欄には、斜線が引かれていた。
相原の声が低くなった。
「ここからは疑いではない。現場確認だ」
坂井が記録した。
未成年者への身体拘束。
視聴覚遮断器具。
反復音声装置。
薬剤使用準備。
本人署名なし。
親族候補への通知なし。
境界側への共有なし。
医師確認なし。
過去名および親族関連語への反応低減を目的とした記録。
坂井は顔を上げた。
「未承認処置として記録します」
三枝が続けた。
「名前を思い出さないようにする行為を、安定とは呼びません」
長谷部はまだ穏やかな顔をしていた。
「表現が一方的です。本人の心理的負担を軽減するための支援です」
相原は記録用紙を持ち上げた。
「本人の署名はありません」
長谷部は答えなかった。
「親族通知もありません」
沈黙。
「境界共有もありません」
沈黙。
「医師確認もありません」
沈黙。
相原は言った。
「これは支援ではありません。未承認の処置です」
長谷部が言った。
「本人の心理的負担を考慮した口頭確認です」
三枝が振り向く。
「録音は」
「ありません」
「本人が自分の名前を言える状態でしたか」
「生活名で安定していました」
「質問に答えてください」
長谷部は、一瞬だけ黙った。
その沈黙が、答えだった。
白羽職員が言った。
「これは支援です」
健二は、椅子の横に立った。
少年の手首のベルトを見る。
強く締めてはいない。
痕が残らない程度にしてある。
だから、白羽は言うのだろう。
拘束ではありません。
安全保持です。
処置ではありません。
安定支援です。
健二は言った。
「この部屋は、帰り道を消すための部屋です」
長谷部が健二を見る。
「感情的な表現は控えてください」
「感情じゃありません」
健二は、記録用紙を指した。
「川。魚。叔父。晴斗。全部、帰り道です」
少年のまぶたが動いた。
三枝が小さく言った。
「川島さん」
川島は、息を吸った。
叫ばなかった。
走らなかった。
ゆっくり、一歩だけ近づいた。
「晴斗」
少年の指が、椅子の上で動いた。
小さく、かすかに。
白羽職員が言いかけた。
「なおくん、大丈夫」
三枝が遮った。
「呼び戻さないでください」
部屋が静まる。
川島は、もう一度言った。
「晴斗。川島です」
少年の唇が動いた。
声は、すぐには出なかった。
喉の奥で、何かが引っかかっているようだった。
それでも、少ししてから音になった。
「……かわ」
川島の顔が崩れそうになる。
だが、耐えた。
「うん。川だ」
少年は、目を少しだけ開けた。
光に慣れていない目だった。
焦点は合っていない。
でも、白羽職員ではなく、声の方を探していた。
「……さかな」
川島は、唇を噛んだ。
「うん。魚を見たな」
少年は、それ以上言わなかった。
それで十分だった。
三枝が記録した。
対象児、過去記憶語に反応。
川、さかな。
生活名呼称による呼び戻しを職員が試みるも制止。
反応継続。
相原が言った。
「処置担当者、書類作成者、同席職員の身元確認。薬剤トレー、音声再生機、記録用紙、名札、ヘッドホン、遮光ゴーグルを証拠保全」
長谷部が言った。
「当センターとしては、事実確認中です。現場の緊急判断だった可能性があります」
相原は長谷部を見た。
「現場の緊急判断で、処置室二という部屋が用意され、音声データが作成され、記録用紙が印刷され、薬剤トレーが置かれたのか」
長谷部は答えなかった。
相原は続けた。
「事情を聞く」
「任意ですか」
「現時点では」
長谷部は、ゆっくり頷いた。
「協力します」
その声はまだ穏やかだった。
白羽は、まだ白くあろうとしていた。
だが、部屋はもう開いていた。
*
青い線の名札は、少年の胸から外された。
三枝が外した。
乱暴にはしなかった。
名札を外す時も、少年に声をかけた。
「これを、証拠として預かります」
少年は答えなかった。
ただ、目を少しだけ動かした。
名札には、二文字だけが書かれていた。
なお。
透明な証拠袋に入ると、その二文字は急に軽く見えた。
安心の名前ではなかった。
本人が選んだ名前でもなかった。
処置のための札だった。
健二は、それを見ていた。
名札を外しても、大野晴斗が戻ったわけではない。
少年はまだ、揺れている。
声も小さい。
目も定まらない。
川島に抱きついたわけでもない。
でも、白羽の部屋は開いた。
白羽の音声は止まった。
白羽の紙は、机の上に出た。
そして、「なお」は初めて、本人の胸ではなく証拠袋の中に入った。
無線が鳴った。
直樹だった。
「ケン」
「兄ちゃん」
「間に合ったか」
健二は、処置室の白い壁を見た。
椅子。
ベルト。
ヘッドホン。
遮光ゴーグル。
記録用紙。
「間に合った」
無線の向こうで、短い沈黙があった。
直樹が言った。
「森谷拓の叔母が見ていた」
「森谷の」
「ああ」
健二は、胸の奥が少し重くなった。
森谷拓の名前は、また一つ別の紙につながった。
「兄ちゃん」
「何だ」
「森谷さんの意思、まだ動いてるな」
直樹は、すぐには返事をしなかった。
それから、短く言った。
「ああ」
その一音だけだった。
でも、健二には十分だった。
*
夕方、旧南第三のホワイトボードには、新しい紙が貼られた。
白羽生活支援センター。
処置室二。
生活名再定着。
視聴覚遮断。
反復音声。
鎮静補助準備。
本人署名なし。
親族通知なし。
境界共有なし。
対象児、なお。
反応語、はる、川、さかな。
処置停止。
名札「なお」、証拠保全。
蓮は、それを読んで黙っていた。
いつものように「ざまあ」とは言わなかった。
美月は毛布を強く抱いていた。
颯太は、自分の名前札を両手で握っている。
悠斗が言った。
「名前を思い出さないようにする部屋ですか」
三枝は頷いた。
「そう見えます」
千紘が言った。
「優しい声で?」
「はい」
颯太が小さく言った。
「怖い」
健二は、その言葉を否定しなかった。
白羽の怖さは、怒鳴らないことだった。
殴らないことだった。
優しい声で、名前を戻らないようにすることだった。
倉持が、最後に一行を加えた。
名前を消す処置は、支援ではない。
直樹の無線が、かすかに鳴った。
「もう一行」
倉持がペンを持つ。
「何ですか」
直樹は言った。
「見ていない者が、見ていた」
倉持は、そのまま書いた。
見ていない者が、見ていた。
炊き出しの列にいた者。
駅裏にいた者。
敗残兵。
森谷拓の縁者。
白羽が数えなかった人たちが、白羽の裏口を見ていた。
その声が、処置室の扉を開けた。
健二は、ホワイトボードを見た。
大野晴斗。
本人確認継続。
返事を急がせない。
帰る家を、壊されたままにしない。
怖がらせて守らない。
そして、新しい一行。
名前を消す処置は、支援ではない。
白羽は、名前を奪っただけではなかった。
名前を思い出す声まで、消そうとしていた。
その日、白い部屋の扉が開いた。
初めて、白羽の犯罪は、紙の外に出た。




