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第八話 水の道

## 第八話 水の道


 神社の裏には、細い下り道があった。


 道というより、獣が通ってできた隙間に近い。


 濡れた落ち葉。

 曲がった木の根。

 膝の高さまで伸びた草。


 その先から、水の音が聞こえていた。


 犬の声は、もう近い。


 鳥居の方からではない。

 山の下から回り込むように、複数の吠え声が上がっている。


 保安局は、神社の存在に気づいていた。


 直樹は振り返らずに言った。


「足元だけ見るな。前の背中を見ろ」


 子どもたちは、息を切らしながら進む。


 健二は最後尾で数えた。


 一人。

 二人。

 三人。

 四人。

 五人。

 六人。

 七人。

 八人。


 八人いる。


 まだ、八人いる。


 だが、美月の足が遅れている。


 右足の靴擦れをかばって、歩き方が変になっていた。


 悠斗と蓮が両側から支えている。

 浅野悠太はその後ろで、何度も振り返っていた。


「前見ろ」


 健二が小さく言った。


 悠太はうなずいた。


 名前を取り戻したばかりの子どもは、自分の名前を確かめるように、胸元を握っていた。


 山道が急になった。


 瀬田ハルが一度滑りかけ、木の幹を掴む。


 犬の声がまた響いた。


 子どもたちの肩が跳ねる。


 健二は思わず言った。


「犬、近いぞ」


「だから足を乱すな」


「普通、急ぐだろ」


「ここで走れば滑る」


 直樹は足元の濡れた根を見た。


「一人転べば、全員が止まる。止まれば追いつかれる」


 健二は言い返せなかった。


 確かに、足元は悪い。

 濡れた落ち葉。

 苔のついた石。

 見えにくい木の根。


 大人でも滑る。

 子どもならなおさらだった。


 直樹は短く言った。


「急ぐ。だが走らない」


 沢の音が大きくなった。


 木々が開け、細い水の流れが見えた。


 幅は二メートルほど。

 深さは足首から膝下くらい。

 水は澄んでいるが、流れは速い。


 六月の山水は、見た目より冷たそうだった。


 直樹は沢の手前で止まる。


 すぐには入らなかった。


 まず上流を見る。

 次に下流を見る。

 向こう岸の土を見る。

 石の配置を見る。


 健二には、ただの沢にしか見えない。


「渡るのか」


「渡らない」


「じゃあ何する」


「中を歩く」


 瀬田ハルが顔を上げた。


「子どもたちには冷たすぎます」


「短い距離だ」


「どれくらい」


「二十メートル」


 健二は沢を見た。


「二十メートルって、子どもには長いぞ」


「分かってる」


「なら」


「犬が来る」


 直樹の声で、全員が黙った。


「匂いを切る。泥を落とす。向こう岸にすぐ上がらない。水の中を上流へ行く」


「下流じゃないのか」


「普通は下流へ流れると思う」


「だから上か」


「そうだ」


 健二は息を吐いた。


「本当に猟師かよ」


「違う」


「じゃあ何だよ」


「追われたことがあるだけだ」


 その言い方で、健二は黙った。


 直樹は子どもたちを見た。


「靴は脱ぐな。脱げたら終わりだ」


 子どもたちはうなずく。


「水に入ったら、足を高く上げるな。滑る。小さく進め」


 悠斗が美月を見る。


「美月は?」


「真ん中。悠斗、左。蓮、右。美月の腕を引っ張るな。肩を支えろ」


 直樹は次に、まだ名前の分からない四人を見た。


「小さい奴を前にするな。流れを受ける」


 瀬田ハルが並びを整える。


 健二は最後尾についた。


「俺は?」


「最後。流された奴を止めろ」


「簡単に言うな」


「お前が一番重い」


「褒めてないよな」


「役に立つ」


「もっと他に言い方あるだろ」


 直樹は沢へ入った。


 水が跳ねる。


 直樹の表情は変わらない。


 だが、足の置き方が慎重になった。


 子どもたちも続く。


 一人ずつ。


 水に足を入れた瞬間、美月が息を吸った。


「冷たい」


「息を止めるな」


 直樹がすぐに言った。


「吐け」


 美月は震えながら息を吐いた。


「もう一回」


 美月はもう一度吐く。


 悠斗と蓮が両側で支える。


 浅野悠太も水に入った。


「うわっ」


 声が出かけたところで、自分で口を押さえる。


 健二は後ろから言った。


「声出していい。小さくな」


 悠太は少しだけ驚いた顔をした。


「いいの?」


「今はいい。大声は駄目」


 悠太は小さく言った。


「冷たい」


「だろうな」


「足が変」


「動いてるなら大丈夫」


「本当に?」


 直樹が前から言った。


「しびれたら言え。痛いならまだ動く」


 悠太は眉を寄せた。


「痛いのはいいの?」


「いいとは言ってない。判断だ」


「難しい」


「今は歩け」


 沢の中を、八人が進む。


 水の音が足音を隠す。


 犬の声は、いったん遠くなったように聞こえた。


 だが、消えたわけではない。


 健二は最後尾で、子どもたちの足を見ていた。


 直樹に言われた通り、顔ではなく足を見る。


 限界は足に出る。


 確かにそうだった。


 美月の右足は、少し遅れる。

 浅野悠太は、水の冷たさで歩幅が小さくなる。

 名前の分からない一人の女の子は、左足を何度も置き直している。


 健二は声をかけた。


「左足、滑るか」


 女の子がびくっとする。


 番号札は三二二。


 彼女は小さくうなずいた。


「靴の中に石」


 健二は直樹を見る。


「兄ちゃん」


「止まるな。次の大きい石の陰で止める」


「分かった」


 数歩先に、膝ほどの大きさの石が水の中にあった。


 直樹がその陰で全員を止める。


「三二二、靴」


 女の子はうまく動けない。


 瀬田ハルがしゃがもうとした。


 直樹が止める。


「水の中でしゃがむな。冷える」


 健二が言った。


「俺がやる」


「早く」


 健二は水の中に片膝をつかず、腰を落とした。


 三二二の足首を支え、靴を少し浮かせる。


 中に小石が入っていた。


 それを出す。


「よし」


 三二二は何か言おうとして、やめた。


 健二は言った。


「ありがとうは後でいい。今は歩け」


 女の子はうなずいた。


 直樹が上流を見た。


「あと十メートル」


 健二は歯を食いしばった。


 十メートル。


 たった十メートル。


 だが、子どもにとっては長い。


 冷たい水の中で、追跡犬に追われながら歩く十メートルは、普通の十メートルではない。


 その時、下流の方で犬が吠えた。


 今度ははっきり近かった。


 子どもたちが一斉に振り返る。


「見るな」


 直樹が言った。


「でも」


 悠斗が言う。


「見るな。足が止まる」


 悠斗は唇を噛んで、前を向いた。


 健二は後ろを見た。


 木々の間に、犬の影はまだ見えない。


 だが、声は沢に沿って上がってくる。


 水で匂いを切っても、完全には消えないのかもしれない。


 直樹の声が低くなった。


「急ぐ。走るな。歩幅だけ少し上げろ」


 矛盾しているようで、矛盾していなかった。


 子どもたちは、直樹の足運びを真似する。


 浅く。

 小さく。

 水を大きく跳ねさせずに。


 ようやく、上流の曲がり角に出た。


 そこには、倒木が沢にかかっていた。


 直樹はその下を見た。


 水の流れが少し深くなっている。


 向こう岸に、細い土の切れ目がある。


「ここで上がる」


 瀬田ハルが子どもたちを順番に上げる。


 健二は最後尾で、流れの中に立つ。


 足が冷たい。


 冷たいというより、痛い。


 だが、自分は大人だ。


 子どもたちの方が先だ。


 一人。

 二人。

 三人。

 四人。

 五人。

 六人。

 七人。


 八人目の三二二が上がろうとした時、足を滑らせた。


 水が跳ねる。


 健二は反射的に腕を伸ばした。


「危ない!」


 三二二の腕を掴む。


 引き上げようとした瞬間、健二の足も滑った。


 体が流れに持っていかれかける。


 直樹が上から叫ぶ。


「健二、踏ん張るな!」


「はあ!?」


「流れに逆らうな。横へ出ろ!」


 健二は三二二を抱え込もうとした。


 直樹の声が飛ぶ。


「抱えるな!」


 その声で、健二は止まった。


 抱え込むな。


 まただ。


 今、抱え込めば、自分も三二二も流される。


 健二は三二二の腕を引くのではなく、身体を横へずらした。


 流れに逆らわず、斜めに。


 直樹が上から倒木の枝を伸ばす。


「枝を掴め!」


 三二二が枝を掴む。


 健二も片手で掴んだ。


 瀬田ハルと悠斗が岸から三二二を引く。


 蓮も手を伸ばす。


 浅野悠太も、小さな手で三二二の服を掴んだ。


 三二二の体が岸に上がる。


 健二も続いて上がった。


 膝をつく。


 息が荒い。


 直樹がすぐに三二二の前にしゃがんだ。


「息」


 三二二は咳き込んだ。


「吐け。吸うな。まず吐け」


 彼女は水を少し吐き、また咳をした。


 直樹は背中を強く叩かなかった。


 横向きにさせ、顔を下に向ける。


「咳が出るなら息はある」


 健二は濡れた手を握った。


「大丈夫か」


「大丈夫って聞くな」


 直樹が言った。


「答えられない奴も大丈夫って言う」


「じゃあ何て聞くんだよ」


「名前」


 直樹は三二二の顔を見た。


「お前、聞こえるか」


 三二二は小さくうなずいた。


「寒いか」


 うなずく。


「指、動かせ」


 三二二は指を動かした。


「足は」


 つま先が少し動いた。


「歩けるか」


 彼女は迷った。


 直樹は言った。


「嘘は要らない」


 三二二の目に涙が浮かんだ。


「少し、怖い」


「怖いはいい。歩けるか」


「歩ける」


「よし」


 直樹は健二を見た。


「濡れた服の水を取る。乾いたものを探せ」


「乾いたのなんて」


 健二は周囲を見た。


 雨を避けられる場所はない。


 だが、沢から少し上がった先に、古い水路跡が続いていた。


 石積みの向こうに、小さなコンクリートの建物が見える。


「兄ちゃん、あれ」


「管理室か」


「多分」


「行く。三二二は真ん中。冷える前に動かす」


 三二二は震えながら立ち上がった。


「ごめんなさい」


 その声は、ほとんど反射だった。


 直樹がすぐに言った。


「謝るな」


 三二二はびくっとした。


 直樹は声を落とした。


「報告しろ」


「……石で、滑りました」


「次は早く言え」


「はい」


「それでいい」


 三二二は、少し不思議そうな顔をした。


 怒られなかったからだ。


 謝らなくていいと言われたからだ。


 瀬田ハルがそっと彼女の肩を支えた。


 健二はその後ろで立ち上がった。


 膝が少し笑っている。


 直樹がそれを見た。


「お前も滑った」


「見れば分かる」


「足首は」


「大丈夫」


「つま先動かせ」


「俺もかよ」


「動かせ」


 健二はつま先を動かした。


「動く」


「痛みは」


「プライドが痛い」


「なら歩ける」


「厳しいな」


「行くぞ」


     *


 沢から上がった先は、古い水路跡だった。


 石積みの小さな溝が、山の斜面に沿って続いている。


 健二はその構造を見た。


「これ、昔の農業用水か」


 瀬田ハルが辺りを見る。


「この上に、昔は畑がありました。今はほとんど残っていません」


「水路なら、どこかに管理用の小屋か、取水口があるはずだ」


「隠れられる?」


「広さ次第です」


 健二は水路の石積みを手で触った。


 古い。

 だが、崩れきってはいない。


 直樹が聞いた。


「歩けるか」


「水路沿いなら、道より目立たない。でも、崩れてる場所がある」


「先に見ろ」


「俺が?」


「建物を見る目はお前の方がいい」


 健二は一瞬、言葉を失った。


 兄がそう言うのは珍しい。


「褒めた?」


「事実だ」


「腹立つ褒め方だな」


「早く行け」


 健二は先に進んだ。


 水路の横を歩きながら、石の崩れ方を見る。

 踏んでいい場所。

 避ける場所。

 子どもが足を取られる場所。


「ここは右。石に乗るな」


 悠斗が後ろへ伝える。


「右。石に乗らない」


 美月が繰り返す。


「石、乗らない」


 蓮が三二二に言う。


「ここ、気をつけろ」


 三二二はうなずいた。


 さっきまでただの番号だった子が、少しずつ列の中で役割を持ち始めていた。


 施設の列とは違う。


 前の人に従うだけの列ではない。


 後ろへ渡す列だった。


 健二はそれを見て、胸が少し熱くなった。


 水路を進むと、小さなコンクリートの建物が見えてきた。


 半分、土に埋もれている。


 扉は錆びていた。


「取水管理室だ」


 健二が言った。


「入れるか」


 直樹が聞く。


「多分」


「また多分か」


「この国は多分ばっかりなんだろ」


 健二は扉に手をかけた。


 動かない。


 錆びている。


 だが、完全には死んでいない。


 健二は無理に引かなかった。


 扉の下を見る。

 蝶番を見る。

 周囲のコンクリートを見る。


「ここ、扉じゃなくて枠が歪んでる」


「開けられるか」


「力任せなら音が出る。静かにやる」


 健二は落ちていた鉄棒のようなものを拾い、扉の下に差し込んだ。


 少し持ち上げる。


 扉の重さを逃がす。


 ゆっくり引く。


 金属が小さく鳴った。


 全員が止まる。


 犬の声。


 遠くない。


 健二は息を止め、もう一度ゆっくり力をかけた。


 扉がわずかに開いた。


 人一人が通れる隙間。


「入れる」


 直樹が先に中を確認する。


 暗い。


 狭い。


 古い配管。

 操作盤。

 壁にかかった道具。

 床は乾いている。


「入れ」


 子どもたちが一人ずつ入る。


 中は狭いが、八人と大人三人が身を寄せれば入れた。


 管理室の隅に、古い棚があった。


 中には、点検用の軍手、古いウエス、破れた麻袋が残っていた。

 埃っぽい。

 だが、濡れてはいない。


 健二はそれを引っ張り出した。


「これ、使えるか」


 直樹が一枚を手に取る。


「埃を払え。胸と首元を拭く」


 瀬田ハルがウエスを振り、埃を落とした。


 美月がそれを受け取って、三二二に差し出す。


「これ」


 三二二は驚いた。


「でも」


「濡れてないから」


 蓮も棚から麻袋を一枚取り出した。


「これも使える?」


 直樹が見る。


「直接肌に当てるな。外から巻け」


 悠斗がうなずき、三二二の肩にそっとかけた。


 浅野悠太も、棚から落ちていた軍手を拾う。


「手、冷たいなら」


 三二二は、受け取った軍手を胸に抱えた。


「ありがとう」


 今度は謝らなかった。


 健二はそれだけで十分だと思った。


 健二は最後に扉を閉めようとした。


 直樹が止める。


「少し開けろ」


「閉めないのか」


「閉めきると、開ける時に音が出る。空気も悪くなる」


「なるほど」


「足跡を消す」


 直樹は外へ出て、水路の周囲を軽くならした。


 枝で引きずるようにして、目立つ足跡だけを崩す。


 全部は消さない。


 消しすぎると、逆に目立つのだろう。


 健二は中からそれを見ていた。


 犬の声が近づく。


 直樹が戻ってくる。


 扉を少しだけ残して閉める。


 暗い管理室の中で、全員が息を殺した。


 外から、犬の息遣いが聞こえた。


 爪が石を叩く音。


 低いうなり。


 人の声。


「匂いが沢で切れてる」


「上流か下流か」


「犬はこっちを気にしてる」


「水路か?」


 健二は、三二二が震えているのに気づいた。


 寒さか。

 恐怖か。

 たぶん両方だ。


 直樹は声を出さず、指で合図した。


 息をゆっくり。


 健二は三二二の肩に手を置いた。


 さっき瀬田ハルがしたように。


 声はかけない。


 肩に触れるだけ。


 震えは止まらない。


 でも、呼吸は少しだけ落ち着いた。


 外の声が近づく。


「ここ、開いてないか」


 健二の心臓が跳ねた。


 扉の前に、人が立っている。


 犬が低く唸った。


 外の男が扉に手をかけた。


 直樹は、子どもたちと扉の間に身体を入れた。


 半歩だけずれる。


 それだけで、扉の隙間から見える場所が変わった。


 足元には、小石と錆びたボルトが落ちている。

 直樹はそれを踏まず、靴の外側で静かに寄せた。


 扉の下に噛ませれば、犬が鼻先を入れる隙間を狭められる。

 開いた瞬間に押し込めば、埃と錆びた粉が舞う。


 犬の鼻。

 人間の目。


 その両方が、一瞬だけ遅れる。


 健二は壁際にあった古い鉄棒を握った。


 手汗で滑りそうになる。


 その時、遠くで別の声がした。


「おい! 上の参道に足跡がある!」


 扉の前の男が動きを止める。


「本当か?」


「犬が反応してる!」


 足音が離れていく。


 犬の爪音も遠ざかる。


 健二は息を吐きそうになった。


 直樹が小さく手を上げる。


 まだ。


 健二は息を止める。


 数秒。


 十秒。


 二十秒。


 それから直樹は、ようやく手を下げた。


 全員が小さく息を吐いた。


 悠斗が震える声で聞いた。


「今の、行った?」


「まだ近い」


 直樹が答えた。


「でも、ここは見落とした」


 健二は小声で言った。


「上の足跡って」


「俺が少し残した」


「は?」


「全部消すと、水路が怪しまれる。別の道に少しだけ残した」


「兄ちゃん、嫌な奴だな」


「助かるならそれでいい」


 健二は呆れたように笑った。


 だが、すぐに笑いは消えた。


 三二二の震えが強くなっている。


 直樹も気づいた。


「濡れた子を真ん中へ」


 瀬田ハルが三二二を真ん中へ移動させる。


 美月がウエスを持ち直し、三二二の肩にかけた麻袋の端を押さえた。


 蓮が小さく言った。


「落ちる」


 悠斗が反対側を持つ。


「こっち持つ」


 浅野悠太も、軍手を三二二の手に押し込んだ。


「手、入れて」


 名前の分からない他の三人も、三二二の周りに身を寄せた。


 体温を分けるほど大げさなことではない。

 ただ、狭い管理室の真ん中で、少しだけ風が当たらない場所を作った。


 直樹は止めなかった。


 三二二は、軍手を握ったまま小さく言った。


「ありがとう」


 もう一度、謝らなかった。


     *


 しばらくして、外の足音は遠ざかった。


 直樹は扉の隙間から外を見た。


「動く」


 瀬田ハルが聞いた。


「今ですか」


「今だ。ここに長くいると冷える」


「でも、外に」


「追手は上へ行った。戻る前に離れる」


 健二は三二二を見る。


「歩けるか」


 三二二は小さくうなずいた。


 直樹が言う。


「声で」


 三二二は息を吸った。


「歩けます」


「よし」


 管理室を出る。


 外の空気は冷たかった。


 だが、動ける。


 水路はさらに山の奥へ続いていた。


 その先に、古い林道が見えた。


 瀬田ハルが言った。


「あの林道を下れば、旧図書館の裏手に出るはずです」


「図書館か」


 健二が言う。


「さっき言ってた地下書庫」


「はい」


「隠れられる?」


「短時間なら」


 直樹は山の上を見た。


 犬の声は、もう少し遠くなっている。


「次は図書館だ」


 健二はうなずいた。


「また本のある場所か」


 悠斗が聞いた。


「本?」


 瀬田ハルが答える。


「本がたくさんある場所です」


 浅野悠太が言った。


「名前もある?」


 瀬田ハルは少し考えた。


「あるかもしれません」


 美月が顔を上げる。


「名簿?」


「学校の記録や、町の古い資料が残っていれば」


 まだ名前の分からない四人が、同時に瀬田ハルを見た。


 その中に、三二二もいた。


 濡れた髪を頬に貼りつけたまま、彼女は小さく聞いた。


「私のも?」


 瀬田ハルは、すぐには約束しなかった。


 でも、逃げもしなかった。


「探します」


 三二二はうなずいた。


 直樹が言った。


「期待しすぎるな」


 健二は兄を見た。


「言い方」


「見つからなかった時に折れる」


 三二二は直樹を見た。


 直樹は続けた。


「でも、探す」


 三二二は少しだけ目を伏せた。


「はい」


 健二は思った。


 直樹は、優しい言い方が下手だ。


 でも、嘘はつかない。


 だから子どもたちは、少しずつ直樹の言葉を聞くようになっていた。


 林道を下り始める。


 健二は最後尾で数えた。


 一人。

 二人。

 三人。

 四人。

 五人。

 六人。

 七人。

 八人。


 八人いる。


 名前は四人。


 まだ四人。


 だが、列はもう、施設の列ではなかった。


 前の背中を見る子。

 後ろに注意を伝える子。

 痛いと言える子。

 ありがとうと言える子。


 少しずつ、人に戻っている。


 その時、山の上から、男の怒鳴り声が響いた。


「違う! こっちじゃない!」


 犬の声が止まる。


 別の声が聞こえた。


「水路だ! 沢から水路に入ってる!」


 直樹が足を止めた。


 健二も止まる。


 追手が気づいた。


 早い。


 直樹は振り返る。


 山の上に、人影が見えた。


 距離はある。


 だが、こちらを見ている。


 灰色の服。


 保安局員。


 その男は、犬ではなく足元を見ていた。


 直樹と同じように、道を見ている。


 男が顔を上げた。


 遠くて表情は分からない。


 だが、視線が合った気がした。


 直樹の顔が少しだけ変わった。


 健二はそれに気づいた。


「知り合いか」


「知らん」


「じゃあ何だよ」


「向こうにも、見える奴がいる」


 山の上の男が、何かを叫んだ。


 言葉は風に消えた。


 だが、直樹には聞こえたようだった。


 直樹は短く言った。


「急ぐぞ」


 健二は聞き返さなかった。


 八人の子どもたちは、林道を下り始めた。


 目指すのは旧図書館。


 本が残っている場所。


 町の記録が眠っているかもしれない場所。


 そして、まだ名前を探している四人のための場所。


 背後で、犬の声がまた上がった。


 今度は、迷っていなかった。


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