第七話 神社までの配送路
## 第七話 神社までの配送路
旧給食センターの食材搬出口は、建物の裏手にあった。
錆びた鉄扉を押し開けると、細い坂道に出た。
昔、給食を積んだ車が学校へ向かうための道だったのだろう。
道幅は狭い。
だが、舗装はまだ残っている。
両脇には、背の高い雑草が伸びていた。
使われなくなった道は、すぐに町から忘れられる。
健二は軽バンの運転席に乗り込み、ゆっくりアクセルを踏んだ。
八人の子どもたちは後ろに詰めて座っている。
瀬田ハルはその間に身体を入れていた。
直樹は助手席に座らなかった。
後部ドアの近くにいた。
窓の外を見るため。
子どもたちを見るため。
そして、何かあれば最初に降りるため。
健二はミラー越しに兄を見た。
「座れよ」
「座ってる」
「それ、座ってるって言わないだろ」
「動ける位置だ」
「またそれか」
直樹は答えなかった。
左腕には包帯が巻かれている。
血は止まっているように見えた。
だが、無傷ではない。
それでも直樹の目は、痛みではなく外を見ていた。
古い配送路を、軽バンが進む。
遠くからサイレンが聞こえる。
近づいたり、遠ざかったりしている。
追われている。
だが、まだ見つかってはいない。
「この道、どこに出る」
直樹が聞いた。
瀬田ハルが答える。
「旧第七小学校の南側を回って、住宅地の裏へ出ます。その先に神社へ続く道があります」
「車で行けるか」
「途中までです。最後は山道になります」
「子どもの足で」
「ゆっくりなら」
直樹は子どもたちを見た。
「ゆっくり歩ける時間はない」
その言葉で、空気が少し重くなった。
健二はハンドルを握りながら言った。
「でも、走らせ続けるのも無理だぞ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「運転中に後ろを見るな」
「ミラーだよ」
「前見ろ」
「見てる」
軽バンは坂道を上がった。
道の先に、鉄のチェーンが張られていた。
健二はブレーキを踏む。
「塞がれてる」
チェーンの向こうは、細い山道へ続いていた。
脇に古い看板が倒れている。
配送車両以外通行禁止。
文字は薄れていた。
直樹がすぐに降りた。
「エンジン切るな」
「切らない」
直樹はチェーンに近づかず、少し離れた場所で足元を見た。
泥。
落ち葉。
タイヤの跡。
靴の跡。
健二には、ただ汚れた道にしか見えない。
だが、直樹はしゃがんだ。
指先で泥の端に触れる。
それから周囲の草を見た。
「来てる」
健二は窓を開けた。
「何が」
「保安局。二人か三人。車はここまで来てない。歩きで入ってる」
「何で分かるんだよ」
「靴跡が新しい。草が戻ってない」
「……そういうの、どこで覚えた」
「色々だ」
「色々で済ますなよ」
直樹は答えず、周囲を見た。
配送路の左側は斜面。
右側は竹林。
正面はチェーン。
待ち伏せに向いている。
車を降りたところを止められる。
子どもを連れていれば、動きは鈍る。
直樹はチェーンを見ていなかった。
その奥を見ていた。
「ここで降りるな」
「じゃあどうする」
「少し戻る。竹林へ入る」
「道あるのか」
「ある」
「見えるのか」
「見えないから道だ」
「兄ちゃん、たまに禅問答みたいになるよな」
「うるさい。戻れ」
健二は軽バンをゆっくりバックさせた。
子どもたちは黙っている。
その静けさが、健二には気になった。
怖くて静かなのか。
訓練で静かなのか。
それとも、もう限界なのか。
直樹が後ろから言った。
「止めろ」
健二はブレーキを踏んだ。
直樹が先に降りる。
竹林の手前で、また足元を見る。
それから短く言った。
「ここから歩く」
瀬田ハルが子どもたちを見る。
「降ります。荷物は持たなくていいです」
直樹が言った。
「違う。水は持てる奴が持つ。持てない奴は持つな」
瀬田ハルがうなずく。
直樹は子どもたちの顔を順番に見た。
「走らない。声を出さない。前だけ見るな。足元も見る」
子どもたちは黙って聞いている。
「息が苦しい奴は手を上げろ。足が痛い奴もだ。黙って倒れたら、全員が止まる」
美月が少しだけ右足を動かした。
直樹はそれを見逃さなかった。
「美月は真ん中。悠斗、蓮、挟め」
悠斗がうなずく。
蓮も少し遅れてうなずいた。
「名前の分からない五人は、二人ずつ並べ。小さい奴を内側に入れろ」
五人の子どもたちは戸惑った。
瀬田ハルがそっと手を動かし、並びを作る。
直樹は健二を見た。
「お前は最後尾」
「分かってる」
「抱えるな。遅れたら知らせろ」
「分かってる」
「抱えたくなる顔をしてる」
「顔見て言うな」
「顔で分かる」
健二は口を曲げた。
「兄ちゃんは」
「前」
「腕」
「動く」
「答えになってねえ」
「前を見る奴がいる」
直樹はそう言って、竹林へ入った。
*
竹林の中は、昼なのに薄暗かった。
風が吹くたびに、細い葉がこすれ合う。
ザラザラという音が、上から降ってくる。
足元は柔らかい。
落ち葉が重なり、ところどころ湿っている。
子どもたちは歩きにくそうだった。
施設の中の白線や黄色線とは違う。
ここには、線がない。
どこを歩いていいか、自分で決めなければならない。
それが怖い子もいるのだろう。
一人の小さな男の子が、何度も足を止めかけた。
番号札は三一四。
まだ名前は分かっていない。
健二は後ろから声をかけた。
「足元、ゆっくりでいい」
三一四は振り返らない。
ただ、肩だけが少し震えている。
健二は近づきすぎなかった。
急かすと固まる。
そう思った。
直樹が前から低く言った。
「三一四」
男の子がびくっとした。
直樹は言い直した。
「お前」
男の子が顔を上げる。
「足を見るな。前の背中を見ろ。足は勝手についてくる」
男の子は、小さくうなずいた。
健二はそれを見ていた。
番号で呼ぶな。
急かすな。
でも、見落とすな。
直樹の声は冷たく聞こえる。
だが、言っていることはいつも具体的だった。
怖い子に「頑張れ」とは言わない。
泣きそうな子に「大丈夫」とも言わない。
次に何を見ればいいかだけを渡す。
それが直樹のやり方だった。
しばらく進むと、直樹が片手を上げた。
全員が止まる。
今度は、子どもたちの止まり方が少し違った。
施設で染みついた、罰を恐れる止まり方ではない。
前の人の合図を受けて止まる。
そんな止まり方だった。
直樹は耳を澄ませた。
健二も耳を澄ます。
遠くで枝が折れる音がした。
人の足音。
直樹は瀬田ハルに小さく手で合図した。
瀬田ハルが子どもたちを低くさせる。
健二も腰を落とした。
竹の隙間から、灰色の服が見えた。
保安局員が二人。
小銃を持っている。
距離は近くない。
だが、子どもが一人でも声を出せば見つかる。
健二の喉が乾いた。
直樹は動かなかった。
右手を少し下げ、子どもたちの位置を確認する。
それから、身体の向きを変えた。
敵に向かうのではない。
敵と子どもたちの間に、竹の太い束が入る位置へずれた。
射線。
健二はその言葉を思い出した。
第五話の写真館の裏路地で見た動きと同じだった。
直樹は、倒しに行かない。
まず、通さない場所へ立つ。
保安局員の一人が言った。
「こっちか?」
もう一人が答える。
「足跡が多い。子どもならこの辺で疲れる」
「上は神社か」
「封鎖区域だ。隠れるには向いてる」
「なら先回りだ」
二人は近くを通り過ぎようとした。
その時、三一四の男の子が小さく息を吸った。
泣きそうになったのではない。
息が詰まったのだ。
身体が限界に近い。
健二は反射的に手を伸ばしかけた。
だが、その前に直樹が動いた。
大きな動きではなかった。
竹の幹を軽く押す。
上に溜まっていた水滴が、別の場所に落ちた。
音がした。
保安局員二人がそちらを見る。
その一瞬で、瀬田ハルが三一四の肩に手を置いた。
声をかけない。
肩に触れるだけ。
男の子の呼吸が、少し戻った。
直樹は動かない。
保安局員はしばらく周囲を見た。
「鳥か」
「行くぞ」
二人の足音が遠ざかる。
誰もすぐには動かなかった。
直樹が低く言った。
「まだ」
さらに数秒。
それから直樹は手を下げた。
「行く」
健二は息を吐いた。
「今の、わざと?」
「何が」
「水の音」
「偶然だ」
「嘘つけ」
「前見ろ」
健二は小さく笑いそうになったが、笑えなかった。
兄は何でもできる。
そう思ったわけではない。
兄は、怖い場所を知っている。
それを思った。
*
竹林を抜けると、道は山の斜面に入った。
車の音はもう聞こえない。
代わりに、遠くで防災無線の声が流れていた。
『保護対象児童八名の捜索にご協力ください』
同じ文句。
同じ声。
子どもたちは、そのたびに肩を硬くする。
美月が小さく言った。
「私たち、保護されてたの」
誰もすぐに答えなかった。
蓮が乾いた声で言った。
「保護って、戻ること?」
悠斗が首を振った。
「違うと思う」
「じゃあ、何」
「分からない」
瀬田ハルが言った。
「本当の保護は、怖がらせることではありません」
美月は瀬田ハルを見た。
「先生も、怖かった?」
瀬田ハルは一瞬黙った。
「怖かったです」
「先生なのに?」
「先生でも、怖いです」
美月は少しだけ考えた。
「じゃあ、怖くても歩いていいの」
「はい」
瀬田ハルは言った。
「怖くても、歩いていいです」
健二はその会話を聞きながら、最後尾を歩いた。
足元が悪い。
自分一人なら何でもない道だ。
だが、八人の子どもを連れて歩くと、道の見え方が変わる。
小さな石。
濡れた根。
折れた枝。
急な斜面。
全部が危険になる。
子どもを連れて逃げるというのは、ただ速く進むことではない。
全員が進める速さを探すことだ。
健二は、ようやくそれが分かってきた。
前方で直樹が止まった。
山道の分岐だった。
左は広い道。
右は細い獣道のような道。
瀬田ハルが言った。
「神社は左です」
直樹は左を見た。
それから右を見た。
「右へ行く」
「神社は左です」
「左は待たれる」
瀬田ハルが黙る。
健二が言った。
「右はどこに出る」
「分からん」
「分からん道へ行くのか」
「分かってる道は、敵にも分かる」
「それはそうだけど」
直樹は右の道にしゃがんだ。
落ち葉を少し払う。
そこに、古い石段の端が見えた。
「昔の参道だ」
瀬田ハルが驚いた顔をした。
「そんな道が」
「人が歩かなくなっただけだ」
直樹は立ち上がった。
「こっちから回る」
健二は兄を見た。
「猟師かよ」
直樹が一瞬だけ健二を見る。
「違う」
「じゃあ何だよ」
「足跡がある」
「俺には落ち葉しか見えない」
「だから見落とす」
「腹立つな、その言い方」
直樹は答えず、右の古い参道へ入った。
健二は瀬田ハルと目を合わせた。
瀬田ハルも、何も言わなかった。
直樹の過去は、いつも短い言葉で閉じる。
健二は、兄の過去を全部知っているわけではない。
ただ、今の歩き方を見ていると分かる。
直樹は、道のない場所を何度も歩いてきた人間だった。
*
古い参道は、予想以上に険しかった。
石段は苔に覆われ、ところどころ崩れている。
美月の右足が遅れ始めた。
悠斗と蓮が両側から支える。
直樹はそれを見て、歩調を落とした。
健二は最後尾から言った。
「休むか」
「二分」
直樹が答えた。
「短いな」
「止まりすぎると冷える」
「兄ちゃん、腕は」
「止まってる」
「見せろ」
「後で」
「また後かよ」
「出血はない。指も動く」
直樹は実際に指を動かした。
「ほら」
「ほらじゃねえよ」
子どもたちは、石段の脇に座った。
水を少しずつ飲む。
三一四の男の子は、まだ黙っていた。
直樹が彼の前にしゃがんだ。
「お前」
男の子はびくっとする。
「息を吐け」
男の子は息を止めていたことに気づいたようだった。
「吐けるだけ吐け」
男の子が細く息を吐く。
「もう一回」
男の子はもう一度吐いた。
直樹は彼の顔を見る。
目を見る。
唇の色を見る。
「水を一口」
健二が水を渡す。
三一四は小さく飲んだ。
直樹は言った。
「歩けるか」
三一四はうなずく。
「声で答えろ」
「歩ける」
「よし」
健二は横から見ていた。
「兄ちゃん、そういうの慣れてるよな」
「疲れた奴は嘘をつく」
「子どもでも?」
「子どもほど」
「何で」
「怒られたくないからだ」
三一四が小さく反応した。
直樹は彼を責めなかった。
ただ、少しだけ声を低くした。
「ここでは、倒れる前に言え。怒らない」
三一四は直樹を見た。
「本当に?」
「怒る余裕がない」
健二が思わず言った。
「言い方」
「事実だ」
三一四は、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
その時、蓮が直樹に聞いた。
「おじさんは、北の人を殺すの」
空気が止まった。
瀬田ハルが蓮を見た。
健二も何も言えなかった。
直樹はすぐには答えなかった。
山の中に、防災無線の声が薄く流れている。
保護。
通報。
外部勢力。
危険。
蓮は続けた。
「北の人は、悪い人?」
直樹は蓮の前にしゃがんだ。
「悪い奴はいる」
「全部?」
「全部じゃない」
「でも、銃持って追ってくる」
「追ってくる奴は敵だ」
「じゃあ、敵は悪い人?」
直樹は少しだけ目を伏せた。
健二は兄の横顔を見た。
その顔を、昔どこかで見たことがある気がした。
帰ってきた後の顔だ。
何も話さず、手だけを洗っていた時の顔。
直樹は言った。
「敵にも名前がある」
蓮は黙った。
「家もある。親もいる。子どもがいる奴もいる」
「じゃあ、撃っちゃ駄目じゃん」
「撃たなきゃこっちが死ぬ時がある」
蓮は唇を噛んだ。
「分かんない」
「分からなくていい」
直樹は言った。
「今は、分からないままでいい」
健二が静かに聞いた。
「兄ちゃんは、北の連中が憎いのか」
直樹は健二を見なかった。
「憎い奴もいる」
「全部じゃないのか」
「全部にしたら、撃つのが楽になる」
健二は黙った。
直樹は続けた。
「楽になったら終わりだ」
山の空気が、少し冷えた気がした。
直樹は遠くを見るような目をした。
「外にいた時、赤い国から来た奴がいた」
健二は兄を見た。
直樹が自分から過去を話すのは珍しかった。
「言葉は半分も通じなかった。酒癖は悪い。飯は盗む。寝相も悪い」
「最悪じゃねえか」
「でも、俺が熱を出した時、水を持ってきた」
直樹は短く息を吐いた。
「山で、俺の装備を半分持った。文句を言いながらな」
蓮が聞いた。
「その人も、赤い国の人?」
「ああ」
「悪い人?」
「面倒な奴だった」
直樹は少しだけ口元を動かした。
「でも、仲間だった」
蓮は考え込んだ。
悠斗も、美月も、まだ名前の分からない子どもたちも、黙って聞いていた。
直樹は言った。
「旗と人間を一緒にするな」
蓮が首を傾げる。
「旗?」
「国とか、思想とか、そういうものだ」
「難しい」
「難しいままでいい」
直樹は立ち上がった。
「ただ、今お前らを連れ戻そうとしてる奴は止める。必要なら撃つ」
健二は兄を見た。
その言葉は冷たかった。
でも、誇ってはいなかった。
直樹は、自分が何をできるか知っている。
そして、それをした後に何が残るかも知っている。
だから軽く言わない。
蓮は小さく言った。
「名前があるのに?」
直樹は答えた。
「ある。だから忘れない」
蓮は何も言わなかった。
直樹は全員を見た。
「二分終わり。動く」
*
古い参道を上がると、山の中腹に出た。
そこから、町が少し見えた。
旧第七小学校。
給食センター。
商店街。
細い道路。
白い車両がいくつも動いている。
保安局は町を塞ぎ始めていた。
健二は小さく息を吐いた。
「すごい数だな」
「ああ」
「神社まで行けるか」
「正面からは無理だ」
「またか」
直樹は町の方ではなく、山の尾根を見た。
「尾根を回る」
「子どもに尾根?」
「短い。だが、滑る」
「危なくないか」
「安全な道は押さえられる」
健二は何か言いかけて、やめた。
その通りだった。
直樹は瀬田ハルに言った。
「子どもを一列にする。間を空けすぎるな。止まる時は前に詰めるな」
「はい」
「健二」
「何」
「一番後ろの足元を見ろ。顔じゃない。足だ」
「足?」
「限界は顔より足に出る」
「分かった」
直樹は歩き出した。
尾根道は細かった。
右側は斜面。
左側は木が密集している。
落ち葉の下に石が隠れている。
直樹は先頭で、危ない場所を踏まずに避けていく。
健二はその足跡を見て、後ろの子どもに言う。
「兄ちゃんが踏んだところを踏め。違うところ行くな」
悠斗が前で繰り返す。
「同じところ踏んで」
美月がそれを真似する。
「同じところ」
蓮も言った。
「同じところ」
声は小さい。
でも、列の中を伝わっていく。
それは施設の号令とは違った。
命令ではない。
助けるための合図だった。
しばらく進んだ時だった。
前方の木の間に、人影が見えた。
一人。
保安局員ではない。
もっと若い。
灰色の服を着ているが、腕章が違う。
地域協力員。
町の住民を動員した警戒役だろう。
手には古い猟銃のようなものを持っている。
健二は息を呑んだ。
散弾銃。
近ければ危険だ。
直樹も見ていた。
距離はある。
だが、一本道に近い。
戻れば後ろが危ない。
進めば見つかる。
若い男は緊張しているようだった。
銃を持つ手が固い。
肩が上がっている。
周囲を見ているようで、見えていない。
直樹は子どもたちを止めた。
健二に低く言う。
「伏せさせるな。低くして木の陰へ」
「伏せないのか」
「動けなくなる」
「分かった」
健二は子どもたちを木の陰へ寄せた。
直樹は銃を持っていない。
拳銃も出していない。
ただ、山道の脇に落ちていた太い枝を拾った。
棍棒のような形だった。
健二は小声で言った。
「兄ちゃん」
「撃たせない」
「倒しに行くなよ」
「行かない。通る」
直樹は一人で前へ出た。
木の幹を使い、若い男から見えにくい角度で近づく。
速くない。
急がない。
だが、迷いがない。
若い男が何かに気づいた。
「誰だ!」
銃口が動く。
直樹は止まった。
距離を詰めない。
銃口の真正面にも立たない。
声だけを出した。
「撃つな」
「止まれ!」
「止まってる」
「手を上げろ!」
直樹は枝を下へ落とした。
両手を少し上げる。
健二は木の陰で、息を止めた。
若い男の銃口が揺れている。
「子どもを連れてるのか!」
直樹は答えなかった。
「外部勢力だな!」
「違う」
「嘘をつくな!」
直樹は若い男の目を見た。
「お前、撃ったことあるか」
若い男の顔が強張った。
「黙れ!」
「ないな」
「黙れ!」
「撃つなら、先に息を吐け。肩が上がってる」
若い男は混乱した。
健二も混乱した。
何を言っているんだ。
だが、直樹の声は静かだった。
「そのまま撃つと、外す。外れた弾は後ろに行く」
若い男が一瞬、銃口の先を見た。
その後ろに何があるか。
子どもたちがいるかもしれない。
町の誰かがいるかもしれない。
その一瞬だった。
直樹は半歩動いた。
真正面からではない。
銃口の線から外れ、腕の外側に入る。
若い男が引き金に指をかけるより早く、直樹は銃身を横へ押さえた。
銃声。
弾は木の幹を削った。
直樹は男の腕を折らなかった。
銃を奪う。
男の足を払う。
倒れた男の胸に膝を乗せず、肩だけを押さえる。
息ができる位置を残している。
若い男は震えていた。
直樹は銃を遠くへ滑らせた。
「動くな」
若い男は叫ばなかった。
叫べなかった。
直樹の声が低くなる。
「通るだけだ」
「保護児童を……」
「子どもを番号で呼ぶな」
若い男は直樹を見た。
「通報しないと、俺が……」
「分かる」
直樹は言った。
「お前にも家があるんだろ」
若い男の目が揺れた。
「だから、ここで死ぬな」
直樹は男の腕章を見た。
地域協力員。
保安局ではない。
訓練された兵士ではない。
恐怖で銃を持たされた町の若者だ。
直樹は男の両手を、腰の布で縛った。
きつすぎない。
だが、すぐには解けない。
「十分後に叫べ」
「何を」
「何でもいい。遅れたと言え。転んだと言え」
「なぜ」
「今叫べば、次は止める」
若い男は黙った。
直樹は立ち上がる。
健二が子どもたちを連れて出てきた。
蓮が若い男を見た。
直樹はすぐに言った。
「見るな。進め」
蓮は視線を外した。
美月が小さく聞いた。
「殺さないの」
直樹は答えた。
「通るだけだ」
それだけだった。
健二は、兄の背中を見た。
武器を使える。
撃てる。
倒せる。
でも、今の直樹はそれを見せるために動いていない。
撃たせない。
通す。
残す。
それだけだった。
*
尾根を回り込むと、小さな石段が見えた。
その先に、鳥居があった。
赤い塗装は剥げている。
笠木は少し傾いている。
しめ縄は切れて、片側だけが残っている。
神社だった。
町から見れば、もう封鎖された古い宗教施設。
誰も近づかない場所。
だが、そこにはまだ空気があった。
施設の消毒液の匂いでもない。
給食センターの古い油の匂いでもない。
山と土と、濡れた木の匂い。
子どもたちは、鳥居の前で止まった。
悠斗が言った。
「入っていいの」
瀬田ハルが少し迷った。
直樹が答えた。
「いい」
「許可は」
「俺が許可する」
健二が横から言った。
「メガネの人じゃなくて、怖い顔の人が許可したぞ」
悠斗は少しだけ笑った。
美月も、ほんの少し口元を緩めた。
八人は鳥居をくぐった。
境内は狭かった。
小さな社。
朽ちた手水舎。
石灯籠。
裏には、物置のような小屋がある。
健二はすぐに建物を見た。
「社の裏、床下が高い。小屋も使えるかもしれない」
直樹は周囲を見た。
「見張りは二方向。正面と尾根側」
「休めるか」
「少しなら」
瀬田ハルが子どもたちを座らせた。
美月は右足をさすっている。
直樹がそれに気づく。
「見せろ」
美月は少し驚いたが、足を出した。
靴擦れだった。
直樹は包帯の端を切り、布を当てた。
「歩ける」
美月はうなずいた。
「痛いけど」
「痛い時は言え」
「怒らない?」
「怒らない」
「本当?」
「怒る余裕がない」
美月は小さく笑った。
「またそれ」
直樹は少しだけ眉を動かした。
健二はその顔を見て、笑いそうになった。
兄は子どもに慣れていない。
でも、子どもの壊れ方は知っている。
それが少し悲しかった。
境内の奥で、三一四の男の子が古い絵馬を見つめていた。
そこには、子どもの字で願いが書かれていた。
運動会で一番になれますように。
お母さんの病気がよくなりますように。
友だちと同じクラスになれますように。
三一四はそれを読んでいた。
健二が近づく。
「読めるのか」
三一四はうなずいた。
「少し」
「何て書いてある」
三一四は一つを指さした。
「ゆう……た?」
悠斗が振り返った。
「俺?」
「違う。これ」
絵馬には、別の名前が書かれていた。
悠太。
健二はそれを見た。
その瞬間、三一四の表情が変わった。
「ゆうた」
彼は、自分の胸を押さえた。
「ゆうた……かもしれない」
瀬田ハルがすぐに端末を持ってくる。
「番号は」
「三一四」
彼は初めて、自分から番号を言った。
瀬田ハルが名簿を確認する。
古い記録。
欠けた欄。
照合番号。
瀬田ハルの指が止まった。
「三一四……浅野、悠太」
男の子は固まった。
健二は何も言わなかった。
直樹も遠くから見ているだけだった。
三一四。
いや、悠太は、絵馬を見たまま小さく言った。
「俺、ゆうた?」
瀬田ハルが答える。
「浅野悠太」
「ゆうた」
彼は自分の胸に手を当てた。
「俺、ゆうた」
悠斗が近づいた。
「似てる」
「何が」
「名前」
悠太は悠斗を見た。
二人はしばらく黙っていた。
それから、どちらともなく少し笑った。
健二は胸の奥が熱くなるのを感じた。
四人目。
八人のうち、四人に名前が戻った。
中原悠斗。
宮原美月。
笹原蓮。
浅野悠太。
まだ半分。
でも、半分まで来た。
直樹が境内の外を見たまま言った。
「喜ぶのは後だ」
健二は振り返る。
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「だから顔見てねえだろ」
「声で分かる」
その時だった。
山の下から、犬の吠える声がした。
一匹ではない。
複数。
保安局が犬を入れた。
瀬田ハルの顔が青ざめる。
「追跡犬……」
健二は境内の入り口を見る。
直樹はすぐに動いた。
迷いはなかった。
「水」
「え?」
「手水舎の水。残ってるか」
健二が走る。
古い手水鉢には、雨水が溜まっていた。
「ある!」
「布を濡らせ。靴の泥を落とす。境内の奥へ行くな。匂いを散らすな」
健二は言われた通りに動いた。
直樹は子どもたちを立たせる。
「すぐ出る」
「どこへ」
瀬田ハルが聞いた。
直樹は社の裏を指さした。
「山の反対側へ降りる。沢がある」
「沢?」
「水の中を歩く」
「子どもが」
「短い距離だ。匂いを切る」
健二は直樹を見た。
また、知らない兄が出てくる。
戦う兄ではない。
逃げる道を知っている兄。
追われた時に、どう痕跡を消すか知っている兄。
直樹は子どもたちを見た。
「寒い。足も痛い。だが行く」
美月がうなずいた。
悠斗も。
蓮も。
悠太も。
まだ名前の分からない四人も、立った。
犬の声が近づいてくる。
直樹は短く言った。
「八人、帰すぞ」
健二は水で濡らした布を握りしめた。
「ああ」
鳥居の向こうで、犬の声がまた響いた。
八人の子どもたちは、神社の裏へ走り出した。
名前を取り戻した四人と、まだ名前を探している四人。
山の中に、細い沢の音が聞こえていた。




