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第六話 給食の匂い

## 第六話 給食の匂い


 旧給食センターは、町の南側にあった。


 瀬田ハルの言った通り、建物はまだ残っていた。


 低いコンクリート造りの建物だった。

 大きな搬入口。

 錆びたシャッター。

 色の抜けた看板。


 旧第七学校給食共同調理場。


 その文字の上に、評議会の白い紙が貼られていた。


 使用停止。

 再配置予定地。

 無断立入禁止。


 健二は軽バンを建物の裏へ回した。


 サイレンの音は遠くなっている。

 だが、消えたわけではなかった。


 どこかで追っている。


 どこかで探している。


 町全体が、少しずつ網になっていくような感覚があった。


「ここです」


 瀬田ハルが言った。


「裏の地下搬入口。昔は給食用の食材を下ろしていました」


「今も入れるか」


 直樹が聞いた。


「鍵はありません。でも、建物は使われていないはずです」


「はず、か」


 直樹は左腕を押さえながら外を見た。


 袖の裂け目から、血が滲んでいる。


 健二はそれが気になっていた。


「兄ちゃん、先に腕」


「中に入ってからだ」


「後回しにするなよ」


「出血量は多くない」


 直樹はそう言いながら、左手の指を一本ずつ動かした。


 親指。

 人差し指。

 中指。

 薬指。

 小指。


 それから手の甲を軽く叩き、感覚を確かめる。


「指は動く。感覚もある。骨もいってない」


「何でそんな冷静なんだよ」


「見れば分かる」


「普通は分からねえんだよ」


「圧迫で止まる」


 直樹は短く言った。


 健二は言い返そうとして、やめた。


 兄の声が、いつもの我慢とは違ったからだ。


 痛みを隠している声ではない。

 傷を評価している声だった。


 直樹は昔、野外衛生をやっていた。

 衛生兵として、撃たれた人間、裂けた人間、動けなくなった人間を見てきた。


 健二はそのことを細かく聞いたことがなかった。


 兄は、自分から話す人間ではない。


 けれど今の一言で分かった。


 直樹は、怪我を怖がっていないわけではない。

 怪我の見方を知っているだけだ。


「まず中だ」


 直樹が言った。


「ここで止血してる間に見つかったら意味がない」


 健二は奥歯を噛んだ。


「分かった。でも中に入ったらすぐ見るからな」


「三分だけだ」


「値切るな」


「三分で足りる」


「足りるようにする、だろ」


「そうとも言う」


 健二は軽バンを、搬入口の陰に滑り込ませた。


 エンジンを切る。


 急に静かになった。


 後部座席では、八人の子どもたちが身を寄せ合っていた。


 誰も声を出さない。


 泣いている子もいる。

 だが、声を押し殺している。


 それが、健二には嫌だった。


 子どもが泣く時くらい、声を出してもいいはずだった。


 でも、ここではそれすら危険になる。


 瀬田ハルが小さく言った。


「降ります。走らないで。前の人についてきてください」


 子どもたちは無言でうなずいた。


 直樹が先に降りた。


 周囲を見る。


 搬入口。

 道路。

 隣の空き地。

 建物の窓。

 屋上。


 それから短く言った。


「出ろ」


 健二は後部ドアを開けた。


 一人ずつ降ろす。


 一人。

 二人。

 三人。

 四人。


 五人目で、三一九の女の子が止まった。


 さっき名前を尋ねた子だ。


 彼女は外へ出る前に、健二を見た。


「ここ、どこ」


「給食センター」


「給食?」


「飯を作る場所だよ。学校に運ぶやつ」


 女の子は少しだけ首を傾げた。


「ごはん?」


「ああ。ごはん」


 その言葉を聞いた瞬間、後ろの子どもたちの何人かが、小さく反応した。


 腹が鳴った子がいた。


 慌てて腹を押さえる。


 健二は何も言わなかった。


 笑わなかった。


 ただ、胸の奥が痛んだ。


 そうだ。


 逃げている途中だった。


 撃たれて、追われて、地下を走って、名前の話をしていた。


 でも、子どもたちは腹が減る。


 怖くても、腹は減る。


 健二は、急にそのことがたまらなく現実に感じた。


     *


 地下搬入口の扉は、半分だけ開いていた。


 瀬田ハルが言うには、昔は食材搬入用の小さなリフトがあった場所らしい。


 今はリフトも止まり、鉄のレールだけが残っている。


 中へ入ると、湿った空気が鼻に触れた。


 古い油の匂い。

 消毒液の匂い。

 錆びた金属の匂い。


 それでも、どこかにまだ、給食室の名残があった。


 大きな鍋。

 配膳用の台車。

 壁に残った献立表。

 手洗い場。

 空になった調味料棚。


 健二はライトで壁を照らした。


 献立表は、分裂前のものだった。


 月曜日。

 カレーライス。

 牛乳。

 フルーツポンチ。


 火曜日。

 わかめご飯。

 鶏の照り焼き。

 味噌汁。


 水曜日。

 揚げパン。

 ポトフ。

 みかん。


 悠斗が献立表を見上げた。


「揚げパン」


 その声は、ほとんど息だった。


 健二は聞いた。


「食べたことあるのか」


 悠斗は少し考えた。


「分からない」


「分からない?」


「でも、知ってる気がする」


 瀬田ハルが顔を伏せた。


 それ以上聞くな、という顔だった。


 健二は口を閉じた。


 記憶は、全部消えるわけではないのだろう。


 名前は忘れても、味は残るのかもしれない。

 母親の顔は曖昧でも、給食の匂いは残るのかもしれない。


 それは救いにも思えた。

 同時に、残酷にも思えた。


「ここで休む」


 直樹が言った。


「どれくらい」


 瀬田ハルが聞いた。


「長くはない。十分、十五分」


「子どもたちは限界です」


「分かってる」


「腕」


 健二が言った。


 直樹は自分の左腕を見た。


 それから健二に包帯を投げた。


「三分押さえろ」


「自分でやれよ」


「片手じゃ巻きが甘くなる」


「そういう時だけ人を使うな」


「今は使う」


 健二は舌打ちしながらも、作業台の上に救急箱を置いた。


 給食センターの壁に、古い救急箱が残っていた。

 中身はほとんど使えなかったが、包帯と消毒液は生きていた。


 直樹は袖を切った。


 傷が見える。


 弾がかすっただけではなかった。


 皮膚が裂け、血がまだ滲んでいる。


 健二は顔をしかめた。


「これで、かすっただけ?」


「貫通してない。骨もない。動脈でもない」


「言い方が嫌なんだよ」


「事実だ」


 直樹は傷の周囲を自分で確認し、血の流れを見る。


「消毒は軽くでいい。時間をかけるな。先に圧迫」


「衛生兵かよ」


 健二がぼやくと、直樹は顔を上げずに答えた。


「昔な」


 健二の手が止まった。


「聞いてねえぞ」


「聞かれてない」


「兄ちゃん、そういうの多すぎるんだよ」


「今は押さえろ」


 健二は言われた通り、布を傷口に当てた。


「もっと強く」


「押さえてる」


「撫でるな。血を止めるんだ」


「うるせえな、怪我人のくせに」


「怪我人だから言ってる」


 瀬田ハルが包帯を差し出した。


「これを」


「助かる」


 直樹は包帯を受け取り、片手で巻き始めようとした。


 だが、途中で健二に渡す。


「ここから巻け。上から押さえたまま」


「こうか」


「違う。緩い」


「注文多いな」


「緩いと止まらない。強すぎると指が死ぬ」


「怖い言い方すんな」


「死ぬものは死ぬ」


「余計怖いわ」


 健二は巻き直した。


 直樹は指先の色を見る。

 指を動かす。

 感覚を確かめる。


 それから短くうなずいた。


「これでいい」


「先生みたいに言うな」


「衛生では、できてない奴は動かせない」


「じゃあ俺、合格?」


「雑だが使える」


「褒め方が腹立つな」


 瀬田ハルが、ほんの少しだけ笑った。


 子どもたちの何人かも、それを見ていた。


 誰も大きく笑わない。

 でも、空気がほんの少し緩んだ。


 逃げてから初めて、人間の息が戻った気がした。


     *


 子どもたちは、調理場の隅に座らせた。


 瀬田ハルが備蓄棚を探す。


 賞味期限の切れた保存食がいくつか残っていた。

 固い乾パン。

 水のパック。

 粉末スープ。


 食べられるかどうか確認し、使えるものだけを分ける。


 健二は乾パンを子どもたちに配った。


「少しずつ食え。慌てると喉に詰まる」


 悠斗が受け取り、両手で持った。


「食べていいの」


「いい」


「許可は」


 健二は一瞬、言葉に詰まった。


 それから言った。


「俺が許可する」


 悠斗は健二を見た。


「メガネの人が?」


「ああ。メガネの人が」


「怒られない?」


「怒る奴が来たら、兄ちゃんが怖い顔する」


 悠斗は直樹を見た。


 直樹は無表情で自分の指先を確認していた。


「もう怖い顔してる」


「だろ。便利なんだ」


 悠斗は小さく笑った。


 そして乾パンをかじった。


 硬い音がした。


 それを合図にしたように、他の子どもたちも少しずつ食べ始めた。


 給食センターで、子どもが食べ物を口にする。


 当たり前の光景のはずだった。


 なのに、健二にはそれが妙に尊く見えた。


 直樹は壁にもたれながら、子どもたちの様子を見ていた。


 ただ見ているのではない。


 顔色。

 呼吸。

 手の震え。

 食べる速さ。

 意識が飛びそうな子がいないか。


 そういうものを見ている。


 健二はそれに気づいた。


「兄ちゃん」


「何だ」


「そういうの、やっぱ見てんだな」


「何が」


「誰が先に倒れそうか、とか」


 直樹は少し黙った。


「歩ける奴と、歩けない奴を分ける。泣いてる奴より、黙った奴を先に見る。血より呼吸。顔色より反応」


「……急に本職っぽいこと言うなよ」


「昔な」


 またそれだった。


 昔。


 直樹はその二文字で、いろんな場所を閉じる。


 健二はそれ以上聞かなかった。


 聞く時間ではなかった。


 瀬田ハルは、端末と名簿を作業台に広げた。


「名前を確認します」


 その言葉で、子どもたちの動きが止まった。


 健二はすぐに言った。


「食べながらでいい。無理に聞かなくていい」


 瀬田ハルもうなずいた。


「思い出したくない子は、今は聞かなくていいです」


 でも、三一九の女の子が顔を上げた。


「私は、聞きたい」


 小さな声だった。


 だが、はっきりしていた。


 瀬田ハルは、彼女を見た。


「番号は」


「三一九」


 瀬田ハルは名簿をめくる。


 古い紙の音がした。


 三一九。

 旧第七小学校。

 保護児童照合記録。


 瀬田ハルの指が止まった。


 少しだけ、ためらった。


 健二はその顔を見た。


 良い知らせではないのかもしれない。


 それでも、女の子は待っていた。


 瀬田ハルが静かに言った。


「宮原、美月」


 女の子は瞬きした。


「みやはら」


「美月」


「みつき」


 自分の口で言った瞬間、女の子の表情が変わった。


 意味を理解したというより、音が身体のどこかに触れたようだった。


「みーちゃん」


 彼女は小さく言った。


 瀬田ハルが目を見開く。


「覚えているの?」


「誰かが、そう呼んでた気がする」


 美月は乾パンを握ったまま、考えるように目を伏せた。


「みーちゃん、靴反対って」


 健二は息を止めた。


 何でもない言葉だった。


 でも、何でもないからこそ胸に来た。


 みーちゃん、靴反対。


 親かもしれない。

 先生かもしれない。

 祖母かもしれない。


 誰かが、彼女を番号ではなく、愛称で呼んでいた。


 瀬田ハルはゆっくり言った。


「あなたの名前は、美月です」


 美月は唇を噛んだ。


「もう一回」


「宮原美月」


「もう一回」


「宮原美月」


 美月は泣かなかった。


 ただ、乾パンを両手で握ったまま、何度も小さく口の中で繰り返した。


 みやはら、みつき。


 その声を聞きながら、健二は思った。


 名前を返すというのは、派手なことではない。


 叫ぶことでも、旗を振ることでもない。


 こうして、小さな声で何度も呼び直すことなのだ。


     *


 八人の名前は、すぐに全部は分からなかった。


 名簿は欠けていた。

 記録は改ざんされていた。

 番号と名前が一致しない箇所もある。


 それでも、三人の名前は分かった。


 三二七番。

 中原悠斗。


 三一九番。

 宮原美月。


 三二一番。

 笹原蓮。


 蓮という少年は、名前を聞いても反応しなかった。


 ただ、何度も首を傾げた。


「俺?」


 そう言った。


「そう。あなたの名前」


 瀬田ハルが答える。


「番号じゃなくて?」


「番号じゃなくて」


 蓮は少し考え、乾パンをかじった。


「変なの」


 そう言った。


 それでも、番号札を指で触る回数は減った。


 名前が分からなかった五人は、黙っていた。


 羨ましいのか。

 怖いのか。

 期待しているのか。


 健二には分からなかった。


 だから、言った。


「焦らなくていい」


 五人が健二を見る。


「見つかる名前もある。すぐには見つからない名前もある。でも、名前がまだ分からないからって、お前らが空っぽってことじゃない」


 言ってから、健二は自分の言葉に少し驚いた。


 空っぽ。


 自分がさっき直樹に言った言葉だった。


 意味のない荷物ばかり運んでいたら、空っぽになる。


 でも、この子たちは違う。


 名前を奪われても、空っぽにはならなかった。


 怖がる。

 腹が減る。

 思い出そうとする。

 笑いそうになる。

 泣くのを我慢する。


 それだけで、ちゃんと人間だった。


 直樹は、給食センターの出入口近くで外を見ていた。


 健二が近づいた。


「外は」


「静かすぎる」


「嫌な言い方だな」


「探してるなら騒がしい。待ち伏せなら静かだ」


「つまり」


「囲まれ始めてる」


 健二は息を吐いた。


「ここも長くは無理か」


「ああ」


「どこへ行く」


「老人のところへは戻れない。公民館も押さえられる」


「南側へ抜ける?」


「検問が張られる」


「じゃあ」


 直樹は瀬田ハルを見た。


「この町で、子どもを隠せる場所は」


 瀬田ハルは少し考えた。


「旧図書館」


「管理されてるか」


「表向きは閉鎖。地下書庫があります。ただ、遠い」


「他は」


「神社」


 健二が顔を上げた。


「神社?」


「第七小学校の裏山に、小さな神社があります。分裂後、宗教的施設として封鎖されましたが、地元の人は近づきません。監視も薄いはずです」


 直樹が聞いた。


「道は」


「山道です。車は途中までしか入れません」


「子どもの足で行けるか」


「ゆっくりなら」


「夜まで待つか」


 健二は外を見た。


 まだ昼にもなっていない。


 夜までここで待つには長すぎる。


 直樹も同じことを考えている顔だった。


 その時、調理場の古いスピーカーから音がした。


 ノイズ。


 ザザッ、という音。


 全員が止まった。


 瀬田ハルが顔を上げる。


「放送設備……まだ生きてる?」


 スピーカーから、硬い声が流れた。


『第七教育管理施設より通達。保護対象児童八名が外部勢力により連れ去られました』


 子どもたちの顔が強張った。


 瀬田ハルが唇を噛む。


『対象児童は、強い心理的混乱状態にあります。発見した場合は近づかず、速やかに保安局へ通報してください』


 健二の手が拳になった。


 直樹が短く言った。


「開け」


 健二は拳を開いた。


 放送は続く。


『外部協力者は、児童の旧名情報を悪用し、保護対象者を危険区域へ誘導している可能性があります』


「悪用?」


 美月が小さく言った。


 瀬田ハルが彼女の肩に手を置く。


 放送の声は、淡々としていた。


『繰り返します。児童を発見した場合、個人名で呼びかけてはいけません。旧名への反応は精神汚染を悪化させる危険があります』


 悠斗が乾パンを握りしめた。


「名前で呼んじゃ駄目なの」


 誰もすぐには答えられなかった。


 健二はしゃがんだ。


 悠斗の目を見る。


「駄目じゃない」


「でも、放送が」


「あれは、あいつらの都合だ」


「都合?」


「お前を番号に戻したい奴らの都合」


 悠斗は唇を噛んだ。


 健二は言った。


「中原悠斗」


 悠斗の肩が震えた。


 健二はもう一度言った。


「中原悠斗」


 美月が顔を上げる。


 瀬田ハルが続いた。


「宮原美月」


 美月の目に涙が浮かんだ。


 直樹は外を見たまま、低く言った。


「笹原蓮」


 蓮が驚いたように直樹を見た。


「俺?」


「お前だ」


 蓮は少しだけ口を開け、それから閉じた。


 調理場の空気が変わった。


 放送はまだ流れている。


 名前で呼ぶな、と言っている。


 だからこそ、名前で呼ぶ。


 大声ではない。

 叫ばない。

 ただ、そこにいる子どもを、その名前で呼ぶ。


 健二は、まだ名前の分からない五人を見た。


「まだ分からない奴もいる」


 五人は黙っている。


「でも、番号だけじゃない。絶対にそれだけじゃない」


 その時、外で車の音がした。


 一台ではない。


 複数。


 直樹が窓の隙間から外を見る。


「来た」


 瀬田ハルが子どもたちを集める。


 健二は立ち上がった。


「どこから出る」


 直樹は調理場の奥を指さした。


「食材搬出口」


「さっきの地下搬入口と逆側か」


「ああ」


「車は」


「軽バンを使う。だが正面突破はしない」


「どうする」


 直樹は健二を見た。


「お前、ここが給食センターなら、配送ルートが分かるか」


 健二は一瞬考えた。


 給食センター。

 複数の学校へ配送。

 大型車ではなく、小型トラック。

 住宅街を避け、学校裏へ回れる道。

 朝の短時間で配るための最短ルート。


 ある。


 給食車が通っていた道がある。


「裏の配送路」


「行けるか」


「たぶん」


 直樹が小さく笑った。


「この国、たぶんばっかりだな」


「俺の台詞だって」


 健二は鍵を握った。


 子どもたちは、もう立っていた。


 怖がっている。

 震えている。

 でも、さっきより少しだけ顔が違う。


 悠斗。

 美月。

 蓮。


 名前を取り戻した子は、自分の足元を見ていなかった。


 まだ番号の子たちも、その三人を見ていた。


 自分にも、いつか名前が戻るかもしれない。


 そんな顔だった。


 直樹が子どもたちを見た。


「走る前に確認する」


 子どもたちは直樹を見る。


「息が苦しい奴。足が痛い奴。目が回る奴。黙って手を上げろ」


 誰も動かなかった。


 直樹の声が少し低くなる。


「我慢は報告じゃない。黙って倒れたら全員止まる」


 その言葉で、美月が小さく手を上げた。


「足、少し痛い」


 直樹はすぐにしゃがんだ。


「どっち」


「右」


「歩けるか」


「歩ける」


「走れるか」


 美月は迷った。


「少しなら」


「なら真ん中だ。悠斗、蓮、挟め」


 悠斗と蓮がうなずいた。


 直樹は瀬田ハルを見た。


「泣いてる子より、黙った子を見ろ。止まったら声をかける前に肩を触れ」


「はい」


「名前が分かる子は名前で呼べ。分からない子は番号で急かすな。“お前”でいい」


 瀬田ハルは一瞬だけ目を伏せ、それからうなずいた。


「分かりました」


 健二は直樹を見た。


「兄ちゃん、先生みたいだな」


「向いてない」


「だろうな」


「うるさい。動くぞ」


 健二は言った。


「行くぞ」


 悠斗がうなずいた。


「どこへ」


 健二は一瞬迷った。


 神社。

 旧図書館。

 山道。

 まだ安全な場所なんてない。


 でも、言った。


「次の道へ」


 直樹が先に動いた。


 瀬田ハルが子どもたちを誘導する。


 健二は最後に、壁の献立表を見た。


 揚げパン。

 カレーライス。

 わかめご飯。


 いつか、この子たちが普通に給食を食べられる場所を作れるのだろうか。


 番号ではなく、名前で呼ばれて。

 列ではなく、友達と並んで。

 怒られながら走って。

 笑いながら食べて。


 学校を作るというのは、建物を建てることではないのかもしれない。


 そう思った。


 健二は電気を消した。


 旧給食センターの調理場が暗くなる。


 外では車のドアが開く音がした。


 保安局が入ってくる。


 その前に、八人は食材搬出口へ向かって走り出した。


 健二は最後尾で人数を数える。


 一人。

 二人。

 三人。

 四人。

 五人。

 六人。

 七人。

 八人。


 八人いる。


 まだ、八人いる。


 そして今は、そのうち三人に名前があった。


 中原悠斗。

 宮原美月。

 笹原蓮。


 健二は低く言った。


「次は、残り五人だ」


 直樹が振り返らずに答えた。


「まずは生きて出る」


「分かってる」


「分かってる顔じゃない」


「顔見てねえだろ」


「声で分かる」


 健二は少しだけ笑った。


 そして、子どもたちの後を追った。


 給食センターの裏口から、灰色の町へ。


 名前を取り戻した子どもたちと、まだ名前を探している子どもたちを連れて。


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