第五話 写真館の出口
## 第五話 写真館の出口
地下通路は、思ったよりも長かった。
天井は低く、ところどころで水が落ちている。
壁は湿り、古い非常灯はほとんど死んでいた。
足元は悪い。
子どもたちの靴音が、狭い通路の中で重なった。
八人。
先頭に直樹。
その後ろに瀬田ハル。
真ん中に子どもたち。
最後尾に健二。
健二は、走りながら人数を数え続けていた。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
七人。
八人。
八人いる。
今はまだ、八人いる。
背後から怒号が聞こえた。
「止まれ!」
遠い。
だが、確実に近づいている。
地下通路の音は逃げ場がない。
追う側の足音も、追われる側の息遣いも、全部が壁に当たって戻ってくる。
子どもたちの中の一人が、すすり泣きを始めた。
瀬田ハルがすぐに振り返る。
「声を出さないで」
その声は厳しかった。
だが、責めてはいなかった。
泣くな、と言っているのではない。
生きるために、今だけ声を小さくしてほしい。
そういう声だった。
直樹は振り返らずに進む。
止まらない。
迷わない。
だが、速すぎもしない。
子どもの足に合わせている。
健二はそれに気づいていた。
兄は、昔からそうだった。
冷たく見える。
置いていくように見える。
でも、本当に置いていく時は何も言わない。
今の直樹は、振り返らないだけで、全員を見ていた。
「あとどれくらいですか」
瀬田ハルが小声で聞いた。
健二は前方の闇を見た。
「このままなら、もうすぐ写真館の下です」
「このままなら?」
「出口が塞がれてなければ」
瀬田ハルは唇を結んだ。
健二も、それ以上は言わなかった。
出口が塞がれていたら。
上に保安局がいたら。
子どもたちを連れて戻るしかない。
だが、戻れば追手がいる。
その時は、この通路が逃げ道ではなくなる。
ただの穴だ。
人を閉じ込める穴になる。
健二は、そう考えた瞬間、自分の手が拳になっていることに気づいた。
開け。
心の中で、自分に言った。
怒りは後だ。
今は手を開け。
運ぶために。
*
通路の先に、薄い光が見えた。
写真館の点検口から漏れる光だった。
健二は息を吐きかけて、すぐに止めた。
まだ早い。
上には保安局がいるはずだ。
直樹が片手を上げた。
全員が止まる。
子どもたちは、ぴたりと止まった。
それがかえって痛々しかった。
本来なら、子どもは急には止まれない。
前の子にぶつかる。
小さな声を出す。
誰かがふざける。
でも、この子たちは止まれた。
止まる訓練をされている。
怒られないために。
罰を受けないために。
目立たないために。
健二は奥歯を噛んだ。
直樹が低く言った。
「上に二人」
健二は耳を澄ませた。
床板の向こうから、かすかな足音がする。
写真館の中だ。
保安局員がまだ残っている。
「出られない?」
瀬田ハルが聞いた。
「正面は無理だ」
直樹が答えた。
健二は壁を照らした。
端末の弱い光に、古い文字が浮かび上がる。
商店街第二避難口。
その横に、矢印があった。
正面の点検口とは別方向を指している。
「待って」
健二はしゃがみ込んだ。
「何かある」
壁の下に、細い溝が続いている。
水の流れではない。
配線でもない。
人が通るには狭いが、設備用の横穴にしてはきれいに作られている。
健二はその先を照らした。
数メートル先に、小さな金属扉がある。
「こっち」
「行けるのか」
直樹が聞いた。
「たぶん、写真館の裏の搬入口に出る。昔、薬品とか機材を入れるための小さい出入口があったんだと思う」
「大人は通れるか」
「ギリギリ」
「お前は」
「……かなりギリギリ」
「痩せろ」
「今言うな」
直樹は扉を見た。
「音を出すな」
「努力する」
「努力じゃ足りない」
「じゃあ祈れ」
「祈りは当てにしてない」
「兄ちゃんって、本当に学校嫌いそうだな」
健二は金属扉の前にしゃがんだ。
錆びている。
だが、完全には死んでいない。
内側からなら開く作りだ。
防災用の非常扉だからだろう。
健二は力任せに押さなかった。
まず、扉の縁に指をかける。
固着している場所を探る。
上ではない。
右下だ。
そこに力を入れると、扉が小さく鳴った。
全員が止まった。
上の足音も止まる。
健二は息を止めた。
写真館の床の上で、男の声がした。
「今、音がしたか」
別の声。
「鼠だろ」
「地下だぞ」
「古い建物だ。音くらいする」
沈黙。
健二の背中に汗が流れた。
瀬田ハルが子どもたちを抱くように両手を広げている。
直樹は動かない。
ただ、いつでも前に出られる姿勢だった。
数秒後、上の足音がまた動いた。
健二はゆっくり息を吐いた。
「続けるぞ」
直樹が言った。
「分かってる」
健二はもう一度、扉に手をかけた。
今度は押さない。
引く。
少し持ち上げる。
下の錆びた部分を外す。
建具は、力ではなく癖だ。
古い扉には、必ず癖がある。
どこに重さが逃げるか。
どこで引っかかるか。
どうすれば音を立てずに動くか。
健二は、昔の現場を思い出した。
親父が言っていた。
古い建物はな、怒らせるな。
力でやると余計に動かん。
どこに逃げたいか、聞け。
その言葉を、今になって思い出した。
健二は扉を持ち上げるようにして、ゆっくり引いた。
金属が小さく擦れる。
だが、開いた。
人一人がやっと通れる隙間だった。
外の空気が入ってくる。
埃と雨の匂い。
古い商店街の匂い。
出口だ。
「先に俺が出る」
直樹が言った。
「待てよ。狭いって」
「だから先に出る」
「俺が見つけた出口だぞ」
「だからお前は最後だ」
「意味分からん」
「挟まったら邪魔だ」
「ひどくない?」
「事実だ」
直樹はそう言って、身体を横にして扉を抜けた。
音もなく外へ出る。
数秒後、小さく合図があった。
安全。
瀬田ハルが子どもたちに言った。
「一人ずつ。声を出さない。前の人が出たら、次」
子どもたちはうなずいた。
最初の子が出る。
次の子が続く。
健二は最後尾で数える。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人目の女の子が、扉の前で止まった。
小さな体が震えている。
髪の短い女の子だった。
番号札には、三一九と書かれている。
瀬田ハルが小声で呼ぶ。
「三一九番」
女の子は動かない。
通路の奥から、追手の足音が近づいている。
健二の背中に冷たい汗が流れた。
女の子は、扉の向こうを見ていた。
狭い出口。
暗い隙間。
知らない外。
怖いのだ。
当然だった。
ずっと番号で呼ばれて、決められた線の内側だけを歩かされてきた子が、いきなり外へ出ろと言われている。
怖くないわけがない。
瀬田ハルが近づこうとした。
しかし、通路の奥から光が揺れた。
追手のライトだ。
時間がない。
健二はしゃがんだ。
「おい」
女の子はびくっとした。
健二は声を低くした。
「怒ってない。急がせたいけど、怒ってない」
女の子は健二を見た。
目に涙が溜まっている。
「外、こわい」
「うん」
健二はうなずいた。
「怖いよな」
「行ったら、戻れない」
「そうだな」
瀬田ハルが苦しそうな顔をした。
健二は続けた。
「でも、ここにいたら、選べない」
女の子は黙っていた。
「外に出ても怖い。ここにいても怖い。だったら、自分で選べる方に行こう」
「選ぶ?」
「ああ」
健二は自分の胸を軽く叩いた。
「俺も最近、会社をやめた。怖かった。でも、自分で降りた。誰かに落とされるよりは、少しだけマシだった」
女の子には、会社の意味など分からないかもしれない。
でも、健二は嘘を言いたくなかった。
「名前は?」
健二が聞いた。
女の子は首を振った。
「分からない」
「じゃあ、今は番号でいい」
健二は番号札を見た。
「三一九。怖いままでいい。泣いてもいい。でも、次の一歩だけ自分で選べ」
女の子の涙がこぼれた。
それでも、足が少し動いた。
瀬田ハルが手を伸ばす。
大丈夫、とは言わなかった。
ただ、手を出した。
女の子は、その手を握った。
そして、出口を抜けた。
健二は息を吐いた。
六人目。
七人目。
八人目。
最後に、悠斗が残った。
彼は健二を見た。
「メガネの人は?」
「俺か」
「来る?」
「ああ。行く」
「逃げない?」
「逃げるよ。今から全力で」
悠斗は少しだけ笑った。
それから出口を抜けた。
健二は最後に身体を横にした。
狭い。
本当にギリギリだった。
「兄ちゃん、これ絶対俺向きじゃない!」
小声で言いながら、肩を押し込む。
腹が引っかかる。
「くそっ」
後ろから追手の声。
「いたぞ! 出口だ!」
ライトが通路の奥から差し込む。
健二は身体をねじった。
抜けない。
直樹が外側から低く言った。
「息を吐け」
「吐いてる!」
「もっと吐け」
「俺の体型の問題みたいに言うな!」
「事実だ」
「あとで絶対殴る!」
健二は思いきり息を吐き、肩を抜いた。
身体が外へ転がり出る。
直樹が腕を掴み、引き起こした。
「遅い」
「狭い!」
「痩せろ」
「今二回目だぞ!」
その瞬間、地下側から銃声がした。
扉の縁に弾が当たり、錆びた金属片が飛んだ。
直樹が健二を押し倒す。
「伏せろ!」
子どもたちが小さく悲鳴を上げた。
出口は写真館の裏路地だった。
幅の狭い通路。
片側は写真館の壁。
反対側は隣のパン屋の裏口。
上には崩れかけたアーケードの骨組み。
正面に出れば、写真館の表にいる保安局員と鉢合わせする。
後ろは地下通路。
挟まれかけている。
「車は?」
直樹が聞いた。
「写真館の前」
「使えない」
「だよな」
健二は周囲を見回した。
裏路地。
古い搬入口。
錆びた台車。
割れたビールケース。
隣のパン屋。
パン屋。
健二は顔を上げた。
「こっち」
「どこだ」
「パン屋の裏」
「なぜ」
「昔の商店街なら、パン屋には早朝搬入用の裏口がある。表じゃなくて横の通りへ抜けられる」
「鍵は」
「壊れてることを祈る」
「祈りは当てにしてない」
「今だけ当てにしろ!」
健二はパン屋の裏口へ走った。
ドアノブを回す。
開かない。
「くそっ」
瀬田ハルが子どもたちを壁際に寄せる。
地下出口から保安局員が出ようとしている。
直樹が動いた。
男へ飛びかかったのではない。
まず、子どもたちへ伸びる細い射線を切った。
身体を半歩ずらし、壁と自分の間に、子どもたちが抜けるだけの隙間を残す。
「行け」
短く言った。
男の銃口が直樹を追う。
その一瞬で、瀬田ハルが子どもたちを動かした。
直樹は銃を持つ腕を下から払った。
弾は路地の壁を削り、白い粉が散る。
すぐに踏み込まず、出口の前を塞ぐ位置に戻る。
相手を倒すためではない。
後ろへ通さないための動きだった。
二人目が地下から出ようとする。
直樹は、路地の幅と相手の肩の向きを見て、半歩だけ位置を変えた。
狭い場所では、それで十分だった。
男たちは前に出られない。
子どもたちは、その間に一人ずつ小窓へ向かっていく。
「早く行け」
直樹は振り返らずに言った。
健二は子どもたちを小窓へ押し出しながら、兄の背中を見た。
敵を倒しに行く背中ではなかった。
退路ができるまで、危険の流れをそこで止めている背中だった。
健二はパン屋の裏口の横に、小さな搬入窓を見つけた。
パンケースを受け渡すための小窓だ。
大人は通れない。
子どもなら通れる。
またか。
健二は小窓を開けた。
内側の留め金は錆びていたが、押せば外れた。
「子どもから入れる」
瀬田ハルがすぐに動いた。
「一人ずつ。中に入ったら、反対側の扉を探して」
悠斗が最初に前へ出た。
「俺、行く」
健二は彼を見た。
「怖いぞ」
「怖い」
「じゃあ、行けるな」
悠斗はうなずき、小窓から中へ入った。
続いて、三一九の女の子。
さっき止まった子だ。
彼女は一瞬迷ったが、自分で小窓に手をかけた。
健二は何も言わなかった。
見ているだけだった。
彼女は中へ入った。
最後の子どもが小窓を抜けた。
瀬田ハルが続く。
だが、大人の彼女には狭い。
健二が肩を押す。
「すみません!」
「謝らないで、押して!」
「じゃあ押します!」
瀬田ハルが何とか中へ入った。
健二は直樹を見た。
「兄ちゃん!」
「先に行け!」
「嫌だ!」
「行け!」
直樹の声が鋭くなった。
それは命令だった。
でも、健二は動けなかった。
兄を置いていく。
その言葉が、身体を止めた。
直樹は一瞬だけ振り返った。
「おいケン」
その目を見て、健二は息を止めた。
「勝つな。運べ」
健二の胸に、何かが刺さった。
勝つな。
運べ。
兄は、自分に戦えと言っていない。
子どもを運べと言っている。
抱え込むな。
立ち止まるな。
柱になろうとするな。
今は、道になれ。
健二は歯を食いしばった。
「絶対来いよ!」
「うるさい。早く行け」
健二は小窓を抜けようとして、すぐに悟った。
無理だ。
通れない。
「俺は表から回る!」
「ケン!」
「俺もでかいんだよ!」
健二は小窓ではなく、裏路地を走った。
パン屋の側面へ回る。
通り抜けできる細い隙間を探す。
あった。
エアコンの室外機と壁の間。
大人一人がやっと通れる幅。
健二は身体をねじ込みながら進んだ。
肩が擦れる。
作業服が破れる。
「痩せろって言われるな、これ」
自分で言って、少しだけ笑いそうになった。
笑っている場合ではない。
通路の先に出る。
そこは商店街の横道だった。
パン屋の表口が半分開いている。
中から子どもたちの気配がした。
健二は扉を開けた。
「こっち!」
瀬田ハルが子どもたちを連れて出てくる。
八人いる。
数える。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
七人。
八人。
八人いる。
「車は?」
瀬田ハルが聞いた。
「俺のトラックは使えない。たぶん押さえられてる」
「では」
健二は商店街を見た。
元パン屋の横に、古い軽バンが一台あった。
店のロゴが剥がれかけている。
タイヤは少し沈んでいるが、完全には死んでいない。
鍵があるかは分からない。
だが、考える時間はない。
「これを使う」
「動くんですか」
「動いてくれないと困る」
「祈るんですか」
「今日は祈りの日です」
健二は運転席のドアを開けた。
鍵はなかった。
当然だった。
「くそ」
その時、悠斗が言った。
「店のおじいちゃん、鍵をレジの下に置いてた」
健二は振り返った。
「知ってるのか」
「前、パン買いに来たことある。分裂の前」
悠斗の声は小さかった。
だが、確かだった。
健二は店内へ戻り、レジの下を探した。
古い鍵束があった。
「悠斗、天才」
悠斗は少しだけ目を丸くした。
名前を呼ばれたからだ。
健二は鍵を差し込んだ。
一つ目。違う。
二つ目。違う。
三つ目。
回った。
「よし」
エンジンをかける。
一度目はかからない。
二度目も駄目。
三度目。
古い軽バンが、咳き込むような音を立てた。
そして、かかった。
健二は思わずハンドルを叩いた。
「動いた!」
瀬田ハルが子どもたちを乗せる。
「奥に詰めて。頭を低くして」
子どもたちは言われた通りに動いた。
慣れすぎている。
それがまた、健二の胸に引っかかった。
「兄ちゃんは?」
悠斗が聞いた。
健二は写真館の方を見た。
まだ直樹が来ない。
銃声は止んでいる。
それが逆に怖かった。
「来る」
健二は言った。
自分に言い聞かせるように。
「兄ちゃんは来る」
その時、写真館の裏路地から人影が出た。
直樹だった。
左腕を押さえている。
走っているが、少しだけ動きが重い。
その後ろから、保安局員が二人追ってくる。
「兄ちゃん!」
「出せ!」
直樹が叫んだ。
健二はアクセルを踏みかけて、止めた。
まだだ。
直樹が乗っていない。
「出せって言ってんだろ!」
「乗ってからだ!」
軽バンが動き出す。
完全には止めない。
少しずつ前へ出す。
検問の時と同じだった。
止まれば囲まれる。
出しすぎれば兄を置いていく。
直樹が後部ドアへ手を伸ばす。
瀬田ハルが内側から開ける。
直樹は走りながら飛び乗った。
その瞬間、健二はアクセルを踏んだ。
軽バンが商店街の横道へ飛び出す。
後ろで銃声。
バックドアの窓が割れた。
子どもたちが身を伏せる。
直樹が叫んだ。
「頭下げろ!」
健二はハンドルを切った。
軽バンは大きく揺れながら、商店街の出口へ向かう。
「兄ちゃん、腕!」
「かすっただけだ」
「嘘つけ!」
「前見ろ!」
「見てる!」
「大きく振るな」
「分かってる!」
健二は息を吐いた。
逃げてる顔をするな。
直樹の言葉を思い出す。
だが、今は違う。
今は逃げている。
逃げるべき時に、逃げている。
逃げることは、負けではない。
八人を乗せている。
瀬田ハルもいる。
直樹も乗った。
なら、勝たなくていい。
帰ればいい。
軽バンは商店街を抜けた。
外の道に出る。
灰色の空の下、町はまだ眠っているように静かだった。
だが、遠くからサイレンが聞こえた。
追手は終わっていない。
直樹が後部座席から言った。
「ケン」
「何!」
「川沿いへ戻るな。検問が張られる」
「じゃあどこへ!」
瀬田ハルが顔を上げた。
「旧給食センターへ」
「どこですか」
「学校の南側にあります。今は廃止されていますが、地下搬入口があります」
直樹が即座に聞いた。
「隠れられるか」
「一時的には」
「出口は」
「あります。たぶん」
健二は思わず笑った。
「この国、たぶんばっかりだな」
悠斗が小さく言った。
「でも、道はあるんでしょ」
健二はバックミラー越しに悠斗を見た。
悠斗は震えていた。
怖いのだ。
それでも、目は前を向いていた。
健二はうなずいた。
「ああ」
そしてハンドルを握り直した。
「道はある」
軽バンは、南へ向かって走った。
後ろには、学校だった施設。
前には、まだ見えない隠れ場所。
その間に、八人の子どもたちの息遣いがあった。
番号ではなく、名前に戻る途中の子どもたち。
健二はアクセルを踏んだ。
その時、後部座席から小さな声がした。
「三一九」
さっき出口で止まった女の子だった。
彼女は膝を抱えたまま、瀬田ハルを見ていた。
「私も、名前、ある?」
瀬田ハルは答えられなかった。
鉄箱は、今はトラックの荷台にはない。
端末も、名簿も、直樹が持っている。
でも、全部を確認する時間はなかった。
健二は運転しながら言った。
「ある」
女の子が健二を見た。
「まだ分からないだけだ」
軽バンの中が静かになった。
健二は続けた。
「見つける。なかったら、一緒に探す」
女の子は、何も言わなかった。
けれど、小さくうなずいた。
直樹が後ろから健二を見た。
「おいケン」
「何」
「抱えすぎるな」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「今は運転中だから見えないだろ」
「声で分かる」
健二は少しだけ笑った。
「じゃあ、兄ちゃんも一人で残ろうとするなよ」
直樹は答えなかった。
健二はバックミラーを見た。
直樹は左腕を押さえたまま、窓の外を見ている。
いつもの顔だった。
痛みを隠す顔。
何かあれば自分だけ降りるつもりの顔。
健二は低く言った。
「兄ちゃん」
「何だ」
「今度置いていこうとしたら、車で轢くぞ」
瀬田ハルが驚いた顔をした。
悠斗が少し笑った。
直樹は無表情で答えた。
「運転が下手だから避けられる」
「言ったな」
「前見ろ」
「見てるよ」
サイレンの音が、少し近づいた。
旧給食センターまで、あと数分。
健二はアクセルを踏み込んだ。
八人を乗せた古い軽バンは、灰色の町を走り抜けていった。
学校から逃げるために。
そしていつか、学校へ帰るために。




