第四話 出口のない地図
## 第四話 出口のない地図
八時間。
子どもを八人逃がすには、短すぎる時間だった。
だが、何もしないには長すぎる時間でもあった。
資料室の中で、健二は手書きの見取り図を見下ろしていた。
瀬田ハルが記憶を頼りに描いた地下階の図面。
老人から託された端末に残っていた、分裂前の避難訓練映像。
そして、今の第七教育管理施設の中で、彼女が知っている限りの警備配置。
それらを机の上に並べても、地図は完成しなかった。
足りない場所がある。
地下通路の出口だ。
子どもたちを地下へ降ろせたとしても、出る場所が分からなければ意味がない。
出口が塞がれていれば、そこは逃げ道ではなく袋小路になる。
健二は映像を止めた。
画面の中では、昔の子どもたちが避難訓練で地下通路へ入っていくところだった。
白い体操服。
赤白帽。
教師の声。
揃わない足音。
少しだけふざけている男の子。
それを注意する女の子。
普通の学校の、普通の訓練だった。
けれど今、その映像は命綱になっている。
「もう一回、戻してくれ」
健二が言った。
直樹は端末を操作した。
「何度目だ」
「分かるまで見る」
「分かるのか」
「分からん」
「正直だな」
「兄ちゃんと違ってな」
直樹は少しだけ眉を動かした。
瀬田ハルは二人のやり取りを見ていたが、笑わなかった。
笑う余裕がないのだろう。
それでも、さっきよりは顔色が戻っている。
自分の名前を見た人間の顔。
忘れていた母親の声を聞いた人間の顔。
健二には、それがどういうものなのか正確には分からない。
ただ、ひとつだけ分かった。
この人は、もう戻れない。
瀬田ハルという名前だけで、昨日までと同じようには生きられない。
井口春奈という名前が、彼女の中で目を覚ましたからだ。
「ここ」
健二は画面を指さした。
避難訓練の映像の中で、子どもたちが地下へ入っていく。
カメラは揺れながら、その後を追っている。
暗い通路。
低い天井。
コンクリートの壁。
非常灯の緑色。
そして、数秒だけ外の光が映る。
「この光、出口か?」
瀬田ハルが身を乗り出した。
「分かりません。昔の地下通路は、防災倉庫から外の避難場所へ抜けると聞いたことがあります。でも、その避難場所がどこなのかは、記録が消されています」
直樹が言った。
「映像の外の音を聞け」
「音?」
「再生してくれ」
健二は音量を上げた。
ざらついた音声が流れる。
子どもの足音。
教師の声。
非常ベルのような音。
そして、かすかに別の音。
健二は耳を澄ませた。
車の音。
いや、違う。
「シャッター?」
健二がつぶやいた。
直樹が健二を見た。
「聞こえるか」
「ああ。金属シャッターが揺れる音に近い」
瀬田ハルが首を横に振った。
「学校の地下通路に、商店街のシャッター音が聞こえるはずがありません」
「今の学校だけ見ればな」
健二は端末の画面を見つめた。
映像の奥で、子どもたちが地下通路を進んでいる。
外の光が一瞬入り、風がマイクに当たって音が割れる。
その直後、また金属音。
ガラガラ、と震えるような音。
健二の頭の中で、さっき見た景色がつながった。
旧商店街。
元写真館。
アーケードの落ちた屋根。
風で揺れていたシャッター。
トラックを隠した場所。
「まさか」
健二は顔を上げた。
「兄ちゃん、俺たちが車を置いた商店街」
「ああ」
「あそこに写真館があったろ」
「あった」
「その裏、地面が少し沈んでた。雨水が流れるはずの方向と違う場所だけ乾いてた」
直樹の目が細くなった。
「出口か」
「まだ分からん。でも、昔の避難場所が商店街側にあったなら、地下通路が繋がっててもおかしくない」
瀬田ハルは信じられないという顔をした。
「学校から商店街まで?」
「距離はある。でも、防災用ならあり得る。災害時に校庭が使えない場合、商店街の広場や公民館側へ抜ける設計だったのかもしれない」
健二は手書き図面の端に線を引いた。
学校。
防災倉庫。
地下通路。
商店街。
写真館。
「旧第七小学校は、町の中心にあったんだろ」
「はい」
「だったら学校だけで完結してない。防災計画は町全体で作る。学校、商店街、公民館、川沿いの管理道。全部つながってても不思議じゃない」
直樹が言った。
「見に行く」
「俺が行く」
健二が即答した。
直樹は健二を見た。
「一人でか」
「兄ちゃんは中に残った方がいい」
「理由は」
「ここで何かあったら、動けるのは兄ちゃんだ。俺が中にいても、たぶん邪魔になる」
「自分を下げるな」
「下げてねえよ。役割の話だ」
健二は黒縁のメガネを押し上げた。
「建物の出口を見るなら俺の方がいい。人の殺し方を見るなら兄ちゃんの方がいい」
「殺すとは言ってない」
「じゃあ、人を殺さずに止める方法を見るなら兄ちゃんの方がいい」
直樹は少し黙った。
「車は目立つ」
「歩いて行く」
「外は保安局が回ってる」
「だから営業スマイルはしない」
「それは朗報だ」
「今、殴っていい?」
「戻ってからにしろ」
瀬田ハルが小さく言った。
「外へ出るなら、職員用の通用証が必要です」
彼女は机の引き出しから、薄いカードを取り出した。
「搬入補助員用の仮証です。長くは使えません」
「助かります」
健二が受け取ると、瀬田ハルは彼の手を見た。
大きく、節の太い手だった。
建築の現場で使ってきた手。
会社を畳んでも、簡単には変わらない手。
「あなたは、なぜここまでしてくれるんですか」
瀬田ハルが聞いた。
健二は少し困った顔をした。
「まだ、何もしてませんよ」
「十分しています」
「俺はただの運送屋です」
「ただの運送屋は、検問を破ってまで来ません」
「それは兄ちゃんが勝手に」
「おいケン」
直樹が低く言った。
健二は口を閉じた。
少し考えてから答えた。
「俺、会社を畳んだんです」
瀬田ハルは黙って聞いていた。
「守ってるつもりだったんですよ。社員とか、職人とか、親が残したものとか。でも、会社って形ではもう守れなかった。だから、せめて次は、ちゃんと届くものを運びたいんです」
瀬田ハルは目を伏せた。
「それは、危険な考えです」
「でしょうね」
「人は、意味のあるものから順番に死にます」
その言葉に、健二は返事ができなかった。
直樹が静かに言った。
「だから手順で動く」
瀬田ハルは直樹を見た。
「分かっています」
健二は仮証を首から下げた。
「行ってくる」
直樹が言った。
「十五分で戻れ」
「短すぎる」
「二十分」
「せめて三十分」
「二十五分」
「兄ちゃん、値切るなよ」
「命の値段は上げられない」
健二は息を吐いた。
「分かった。二十五分」
資料室を出る前に、直樹が健二を呼んだ。
「おいケン」
「何」
「無理なら戻れ」
「分かってる」
「人がいたら避けろ」
「分かってる」
「捕まりそうなら箱のことは言うな」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
健二は少し笑った。
「兄ちゃん」
「何だ」
「俺、兄ちゃんじゃないんだから、全部一人で何とかしようとは思ってないよ」
直樹は何も言わなかった。
それが返事だった。
*
廊下に出ると、空気が一気に冷たくなった。
資料室の中はまだ人間の気配があった。
ここは違う。
白い床。
灰色の壁。
線で区切られた通路。
決められた歩幅で歩く子どもたち。
健二は仮証を胸元に出し、職員に見えるように歩いた。
営業スマイルは使わない。
目立たない。
急がない。
止まらない。
直樹に言われた通りだった。
逃げてる顔をするな。
けれど、健二には難しかった。
廊下の奥から、子どもたちが列になって歩いてきた。
八人ではない。
もっと多い。
全員が同じ灰色の服を着ている。
胸には名前ではなく番号札。
三一二。
三一三。
三一四。
健二は、思わず足を止めそうになった。
その時、列の一番後ろにいた小さな男の子が、健二を見た。
年齢は八歳くらい。
髪は短く刈られている。
頬に小さな傷があった。
番号札には、三二七と書かれていた。
その子は、健二の黒縁のメガネを見て、小さく首を傾げた。
そして、口だけを動かした。
お父さん?
健二の胸が刺されたように痛んだ。
違う。
自分は父親ではない。
この子の父親でもない。
なのに、その子は一瞬だけ、そう見えたのだろう。
大きな体。メガネ。作業服。荷物を持つ手。
誰かに似ていたのかもしれない。
健二は何も言えなかった。
言えば、列を乱す。
列を乱せば、子どもが怒られる。
だから健二は、ただ少しだけ首を横に振った。
男の子の目から、光が一瞬消えた。
すぐに前を向く。
健二は、その背中を見送った。
拳を握りかけて、直樹の声を思い出した。
握るな。
怒りは後だ。
今怒れば、全員死ぬ。
健二は拳を開いた。
廊下を進む。
外へ出る搬入口までは、もう少しだった。
*
搬入口の警備員は、さっきと同じ男だった。
健二を見ると、眉をひそめた。
「どこへ行く」
「旧資料の搬入車両を移動します」
健二は仮証を見せた。
「瀬田職員からの指示です。搬入口前に長く置くなと」
警備員は仮証を見た。
「一人か」
「助手は中で記録確認中です」
「車はどこだ」
「商店街側です。裏に回します」
警備員は疑っている。
健二は、笑わなかった。
余計な愛想は不要だ。
怪しい時ほど、人は笑ってごまかそうとする。
だから、今回は疲れた業者の顔をした。
「こっちも早く終わらせたいんですよ。予定外の資料って言われても、運ぶ側は困るだけで」
警備員はしばらく健二を見ていた。
そして、面倒くさそうに顎を振った。
「十分で戻れ」
「はい」
「遅れたら報告する」
「分かりました」
健二は外へ出た。
背中に視線を感じる。
走らない。
振り返らない。
急がない。
だが、心臓はうるさかった。
アーケード跡へ戻るまでの道が、やけに長く感じた。
途中、保安局らしき灰色の車両が一台、道を横切った。
健二は壁際に寄り、作業員のように頭を下げた。
車両は止まらなかった。
それでも、通り過ぎるまで息ができなかった。
やがて、商店街跡に戻った。
トラックは元写真館の前にあった。
傷だらけのまま、静かにそこにいる。
「悪いな」
健二は小さく言った。
車にではなく、自分に言ったのかもしれなかった。
元写真館のシャッターは半分だけ下りていた。
看板には、色あせた家族写真。
その上に黒いスプレーの線。
健二は、建物の裏へ回った。
そこには、狭い路地があった。
古い室外機。
折れた物干し台。
割れた排水管。
崩れたコンクリートの床。
健二はしゃがみ込み、地面を見た。
乾いている。
周囲は湿っているのに、ここだけが乾いていた。
風が抜けている。
地下に空間がある。
健二は耳を澄ませた。
何も聞こえない。
だが、地面に手を当てると、かすかに振動があった。
遠くの空調。
水の流れ。
あるいは、人の気配。
「ここか」
健二は周囲を探した。
写真館の裏口は錆びていたが、鍵は壊れていた。
中へ入る。
店内は暗かった。
床には割れた写真立て。
壁には古いサンプル写真。
七五三、入学式、成人式、家族写真。
誰かの人生の節目が、埃をかぶって並んでいる。
健二は足を止めた。
入学式の写真があった。
小さな女の子が、赤いランドセルを背負っている。
両脇に両親。
女の子は少し緊張した顔で笑っていた。
井口春奈ではない。
別の誰かだ。
けれど、この町には、同じような写真がたくさんあったのだろう。
名前を呼ばれて、写真を撮られて、家に飾られていた子どもたち。
その写真を見て、健二は思った。
名前を消すというのは、写真を燃やすことだけではない。
誰も呼ばなくなることだ。
誰も思い出さなくなることだ。
「時間ないだろ、俺」
健二は自分に言った。
店の奥へ進むと、暗室があった。
写真館には昔、フィルムを現像するための小さな暗室があったのだろう。
その床の一部が、不自然に沈んでいた。
健二はしゃがんだ。
床板ではない。
コンクリートの点検蓋だ。
上に棚が倒れていて、半分隠れていた。
「ビンゴ」
健二は棚をどかそうとして、すぐにやめた。
音が出る。
力任せは駄目だ。
棚の下に手を入れ、支点を探す。
現場で何度もやった動きだった。
重いものは、真っ向から持ち上げない。
逃がす。
ずらす。
動く方向に合わせる。
少しずつ、棚を横へ動かした。
床の点検蓋が見えた。
錆びている。
だが、完全には固着していない。
健二はスマホ型の小型端末でライトを照らした。
蓋の縁に、古い文字が刻まれていた。
第七小学校防災連絡通路
商店街第二避難口
健二は息を止めた。
あった。
本当にあった。
健二は端末を取り出し、短い通信を送った。
――出口発見。写真館地下。第二避難口。
返信はすぐ来た。
直樹からだった。
――戻るな。入口を確認しろ。開くか。
健二は顔をしかめた。
「簡単に言うなよ」
点検蓋に手をかける。
重い。
錆びている。
だが、動く。
わずかに隙間が開いた瞬間、下から冷たい空気が上がってきた。
地下の匂い。
湿ったコンクリート。
古い鉄。
そして、かすかに消毒液。
健二は蓋を少しだけ開け、中を照らした。
梯子があった。
下へ続いている。
その先は暗い。
人が通れる。
健二は通信を返した。
――開く。人が通れる。梯子あり。下は暗い。空気あり。
今度の返信は少し遅れた。
――待機。追跡の有無を確認。
健二は端末を見つめた。
「待機ね」
言われた通り、外の気配を探る。
その時だった。
店の外で、車の音が止まった。
健二の体が固まる。
足音がした。
一人ではない。
二人。
いや、三人。
硬い靴音。
保安局だ。
健二は点検蓋を静かに戻した。
完全には閉めない。
閉めれば音が出る。
少しだけ隙間を残し、その上に棚を戻す。
息を殺す。
暗室の入口から、男の声が聞こえた。
「この辺りに車両痕がある」
「例のトラックか」
「写真館前に停まっていたという報告がある」
健二は壁に背をつけた。
逃げ道は下にある。
だが、今開ければ音が出る。
見つかれば終わりだ。
端末が震えた。
直樹からの通信。
――状況。
健二は返せなかった。
足音が近づいてくる。
写真館の表のシャッターが、ゆっくり持ち上げられる音がした。
ガラガラ、と金属が鳴る。
映像の中で聞いた音と同じだった。
健二は、暗室の中で目を閉じた。
ここが出口だ。
間違いない。
だが、今、その出口は敵に塞がれようとしている。
足音が店内に入ってきた。
「中を探せ」
男の声がした。
健二は、ゆっくり拳を開いた。
怒るな。
焦るな。
逃げてる顔をするな。
兄の声が頭の中で響く。
健二はメガネを外し、胸ポケットにしまった。
暗室の奥にあった黒い布を手に取る。
昔、写真を現像する時に使っていた遮光布だろう。
埃っぽい。
それを肩にかける。
そして、暗室の隅にあった古いカメラケースを抱えた。
足音が暗室の前で止まった。
扉が開く。
灰色の服を着た保安局員が、ライトを向けた。
「お前、何をしている」
健二は振り返った。
メガネを外しているせいで、相手の顔は少しぼやけている。
でも、それでいい。
健二は、疲れた顔で言った。
「写真の回収です」
「何?」
「家族写真です。旧資料として回収しろって言われたんですよ。こっちは朝からあっち行けこっち行けで、もう訳分かんなくて」
保安局員は健二を睨んだ。
「所属は」
健二は仮証を見せた。
「搬入補助です。瀬田職員の指示で」
「瀬田?」
「はい。旧資料の確認中です」
保安局員の目が細くなった。
「その名前を、どこで聞いた」
まずい。
健二は一瞬で分かった。
瀬田ハルの名前が、もう警戒対象になっている。
男はさらに一歩入ってきた。
「答えろ」
健二は、カメラケースを抱え直した。
営業スマイルはしない。
でも、営業で鍛えた間の取り方は使う。
焦って答えない。
相手に先を急がせる。
「搬入口で本人から聞きました。確認するなら、そちらへ」
「本人は今どこだ」
「中です」
「何を確認している」
「旧学校資料です」
「映像か」
健二は、少しだけ眉を寄せた。
「さあ。俺は運ぶだけなんで」
男の手が、腰の銃に近づいた。
その時、写真館の外で別の声がした。
「対象車両、確認!」
保安局員が振り返った。
健二も息を止めた。
外に、別の隊員が叫ぶ。
「検問突破車両と一致! 荷台なし! 周辺に運搬者がいる可能性!」
健二は心の中で舌打ちした。
トラックを見つけられた。
男が健二へ向き直る。
「お前、運搬者か」
健二は答えなかった。
答える必要がなくなったからだ。
男の目が変わった。
銃を抜く。
その瞬間、健二はカメラケースを男の腕にぶつけた。
殴ったのではない。
押した。
銃口の向きをずらすためだけに。
直樹の動きを見ていたから、真似した。
下手だった。
でも、十分だった。
銃声が暗室の天井を撃った。
古い照明が割れ、暗室がさらに暗くなる。
健二は男を突き飛ばし、棚にぶつけた。
写真立てが落ちる。
ガラスが割れる。
「くそっ!」
男が叫ぶ。
健二は点検蓋へ手をかけた。
もう音を気にしている場合ではなかった。
蓋を開ける。
冷たい空気が上がる。
背後から足音。
健二は梯子に足をかけた。
その瞬間、端末が震えた。
直樹からの通信。
――戻るな。下へ行け。こっちも動く。
健二は端末を握った。
「兄ちゃん」
返事は打てなかった。
保安局員が暗室へ踏み込んでくる。
健二は梯子を降りた。
暗い地下へ。
写真館の床の上で、男たちの怒号が響いた。
蓋が開いたまま、光が細く落ちてくる。
健二は下から見上げた。
そして、初めて気づいた。
地下通路は、思ったより広かった。
子どもだけの道ではない。
大人も通れる。
つまり、八人を逃がせる。
健二は暗闇の中で、震える息を吐いた。
だが、安心する暇はなかった。
遠くから、小さな足音が聞こえた。
一人ではない。
いくつも。
通路の奥から、誰かが走ってくる。
健二は身を低くした。
暗闇の向こうで、小さな声がした。
「瀬田先生?」
子どもの声だった。
健二は目を見開いた。
まだ二十二時ではない。
計画の時間ではない。
子どもたちは、もう動かされている。
健二は端末を握りしめた。
直樹へ送る。
――子どもの声。予定より早い。もう始まってる。
返信はすぐに来た。
――八人を確認しろ。俺たちも降りる。
健二は暗い通路の先を見た。
小さな影が、ひとつ、またひとつと現れる。
灰色の服。
番号札。
怯えた目。
その先頭に、さっき廊下で健二を見た男の子がいた。
三二七。
彼は健二を見ると、立ち止まった。
「お父さんじゃない人だ」
健二は返事に詰まった。
その言葉は、こんな場所で聞くには痛すぎた。
健二は膝をつき、子どもたちと目線を合わせた。
「違う」
できるだけ静かに言った。
「でも、帰る道を探してる」
男の子は、健二を見つめた。
「帰るって、どこに?」
健二はすぐに答えられなかった。
家。
親。
名前。
学校。
どれも、この子たちには奪われているかもしれない。
だから健二は、嘘をつかなかった。
「まだ分からない」
男の子の顔が曇る。
健二は続けた。
「でも、ここじゃない場所だ」
その時、通路の奥から瀬田ハルの声がした。
「三二七番、こちらへ」
子どもたちの後ろに、瀬田ハルがいた。
息が上がっている。
額に汗が浮いている。
その横に、直樹がいた。
無表情だった。
だが、左袖が少し破れている。
健二は立ち上がった。
「兄ちゃん」
「早まった」
直樹は短く言った。
「再配置が前倒しになった」
瀬田ハルが息を整えながら言った。
「保安局が動きました。私たちの接触が疑われています」
健二は子どもたちを見た。
一人。
二人。
三人。
数える。
八人。
全員いる。
直樹が健二を見た。
「出口は」
「写真館。大人も通れる」
「追手は」
「上にいる」
「数は」
「少なくとも三人」
「増えるな」
「だろうな」
直樹は一瞬だけ目を閉じた。
そして、子どもたちを見た。
「走れるか」
子どもたちは答えなかった。
怖がっている。
当然だった。
健二は膝をついた。
「大丈夫、と言いたいけど」
そこで一度、言葉を切った。
大丈夫。
自分が何度も使ってきた言葉。
自分を壊す時に使ってきた言葉。
だから、今は使わない。
「怖くていい」
健二は言った。
「泣いてもいい。でも、足だけは止めるな」
三二七番の男の子が、小さく聞いた。
「名前、言ってもいい?」
健二は息を止めた。
瀬田ハルが男の子を見た。
男の子は震える声で言った。
「たぶん、悠斗」
その名前を聞いた瞬間、瀬田ハルの目が揺れた。
健二はうなずいた。
「悠斗」
男の子が、びくっとした。
名前を呼ばれることに、身体が慣れていないのだ。
健二はもう一度言った。
「悠斗、先頭じゃなくて真ん中に入れ」
「なんで」
「先頭は怖い。後ろはもっと怖い。真ん中は、みんなで守れる」
悠斗は小さくうなずいた。
直樹が健二を見た。
何も言わなかった。
だが、少しだけ目が変わっていた。
瀬田ハルが子どもたちに言った。
「みんな、今から移動します。声を出さない。走りすぎない。前の人の背中を見る。止まったら、後ろの人の手を握る」
子どもたちは黙ってうなずいた。
直樹が先頭に立つ。
瀬田ハルが子どもたちの横につく。
健二は最後尾に回った。
後ろから、保安局員の怒号が聞こえた。
「地下だ! 地下通路へ入ったぞ!」
直樹が振り返らずに言った。
「行くぞ」
健二は、最後尾で拳を開いた。
八人。
瀬田ハル。
直樹。
自分。
狭い地下通路の中で、全員の足音が重なった。
勝たなくていい。
直樹の言葉が、頭の中で響いた。
八人、帰すぞ。
健二は暗い出口の方を見た。
写真館の床上では、敵が待っている。
それでも、道はある。
国が割れても。
学校が施設に変わっても。
名前が番号に変えられても。
道は、まだ残っていた。
健二は低く言った。
「行くぞ、悠斗」
男の子が、小さくうなずいた。
八人の子どもたちは、暗闇の中を走り出した。




