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第三話 春の運動会を返しに来た

## 第三話 春の運動会を返しに来た


 トンネルを抜けると、空は低かった。


 灰色の雲が町の上に垂れ込み、朝なのに夕方のように暗い。

 川沿いの道には、人の気配がほとんどなかった。


 健二はトラックの速度を落とした。


 フロントガラスの端には、ひびが入ったままだ。

 助手席の窓も割れている。

 車体の横には、検問の鉄柵でついた傷が長く残っていた。


 初仕事の車としては、最悪だった。


 だが、まだ走る。


 健二は、それだけで少し救われた気がした。


「このまま学校まで行くのか」


 健二が聞いた。


「学校じゃない」


 直樹は助手席から外を見たまま答えた。


「今は教育管理施設だ」


「言い方の問題だろ」


「言い方は、扱い方を変える」


 健二は黙った。


 確かにそうだった。


 会社もそうだった。


 建築会社と言えば、人の暮らす場所を作る仕事に聞こえる。

 けれど、同じ建物でも、そこに人を閉じ込めるための壁を作れば、もう意味は違う。


 学校も同じだ。


 子どもが帰ってくる場所なのか。

 子どもを管理する場所なのか。


 名前が変われば、そこにいる人間の扱いも変わる。


「近くで車を捨てる」


 直樹が言った。


「捨てるって言うな。俺の仕事道具だぞ」


「じゃあ隠す」


「最初からそう言えよ」


「傷だらけのトラックは目立つ」


「兄ちゃんが検問で暴れたからだろ」


「撃たれたからだ」


「撃たれる前から暴れてた」


「結果、生きてる」


「その言い方、ずるいんだよ」


 健二は舌打ちしながらも、車を脇道へ入れた。


 旧第七小学校のある区域は、昔は住宅街だったらしい。


 今は違う。


 人が住んでいる家もある。

 だが、窓には板が打たれ、玄関には管理番号の札が貼られていた。


 空き家には白い文字で「再配置済」と書かれている。

 家の壁には、評議会の標語が貼られていた。


 個人より共同体。

 家族より教育。

 記憶より再建。


 健二は、その三行を見て顔をしかめた。


「気持ち悪いな」


「お前の営業スマイルといい勝負だ」


「この状況でまだ言うか」


「言える時に言っておく」


 直樹は前方を指さした。


「右。あの商店街跡に入れ」


 そこには、昔はアーケードだったらしい通りがあった。


 屋根の半分は落ち、看板は錆び、シャッターには落書きが重なっている。

 八百屋、文房具店、写真館、パン屋。


 どれももう営業していない。


 健二はトラックをゆっくり奥へ入れた。


 割れたタイルの上をタイヤが踏む。

 小さな音が、空っぽの通りに響いた。


「ここで止めろ」


 直樹が言った。


 健二は、元写真館の前にトラックを止めた。


 店の看板には、色あせた家族写真が残っていた。


 父親、母親、子ども二人。

 全員が笑っている。


 誰かがその写真の上から、黒いスプレーで大きく線を引いていた。


 健二はそれを見て、しばらく何も言えなかった。


「行くぞ」


 直樹は荷台から鉄箱を下ろした。


「持っていくのか」


「置いていく理由がない」


「重いぞ」


「お前が持つ」


「だろうなと思った」


 健二は鉄箱を両手で持ち上げた。


 たしかに重い。

 だが、持てないほどではない。


 それでも、ただの荷物ではなかった。


 中に名前が入っている。

 中に道が入っている。

 中に、壊れる前の学校が入っている。


 そう思うと、重さが少し変わった。


     *


 旧第七小学校は、商店街の先にあった。


 昔は、町の中心だったのだと思う。


 正門へ続く道には、桜の木が並んでいた。

 枝は伸び放題で、花など咲いていない。

 だが、春になれば、ここはきっと綺麗だったのだろう。


 映像の中の子どもたちも、この道を通ったのかもしれない。


 ランドセルを背負って。

 親に急かされて。

 友達とふざけながら。

 運動会の日には、弁当を持った家族と一緒に。


 健二は、鉄箱を持ち直した。


 正門が見えた。


 そこにあったのは、学校の門ではなかった。


 高い鉄柵。

 監視カメラ。

 灰色の詰所。

 ゲートの横には白い看板。


 北日本再建評議会

 第七教育管理施設


 旧校名は消されていた。


 かすかに残った文字の跡だけが、そこに昔の名前があったことを示している。


 健二は低く言った。


「学校じゃねえな」


「ああ」


 直樹は短く答えた。


「学校じゃない」


 中から、子どもたちの声が聞こえた。


 それで健二は一瞬だけ安心しかけた。


 だが、すぐに違和感を覚えた。


 笑い声ではなかった。


 合唱のような声だった。


 同じ言葉を、同じ調子で、同じ高さで繰り返している。


 個人より共同体。

 家族より教育。

 記憶より再建。


 小さな声。

 揃いすぎた声。

 間違えたら怒られる声。


 健二の手に力が入った。


 鉄箱の角が指に食い込む。


「ケン」


 直樹が言った。


「顔に出すな」


「出るだろ、こんなの」


「出しても変わらない」


「変わらないからって、出すなってことかよ」


「今はな」


 健二は奥歯を噛んだ。


 直樹は正門ではなく、校舎の裏手へ目を向けていた。


「地下通路はこっちじゃない」


「映像だと防災倉庫の横だったな」


「ああ。校庭の反対側だ」


「回り込むのか」


「正面から行けば止められる」


「裏からでも止められるだろ」


「見られなければ止められない」


「兄ちゃんのそういう理屈、嫌いじゃないけど嫌だわ」


 二人は正門から離れた。


 住宅街の細い路地を抜け、校舎の裏手へ回る。


 鉄箱を抱えた健二は、足音を殺すのが難しかった。

 それでも、直樹の後ろについていく。


 直樹は速く歩かない。

 走らない。

 壁に張りつくわけでもない。


 ただ、見られにくい場所を選んでいるだけだった。


 道の角。

 電柱の影。

 放置された軽自動車。

 倒れた看板。

 木の陰。


 直樹の移動は、派手ではなかった。


 だからこそ怖い。


 戦場というのは、こういうものなのだろうと健二は思った。


 大声で走る場所ではない。

 誰にも見られずに、生きて戻る場所だ。


     *


 校舎裏へ回ると、健二は足を止めた。


 建物が、変だった。


 旧第七小学校の校舎は、三階建てだった。

 外壁は灰色に塗り直され、窓のいくつかは内側から塞がれている。


 だが、健二が見ていたのはそこではなかった。


 柱。

 壁。

 増設された渡り廊下。

 不自然に新しい排気口。

 窓を潰して作られた細長いスリット。

 防火扉の位置。


 健二は、鉄箱を地面に置いた。


「ケン?」


 直樹が振り返る。


 健二は校舎を見たまま言った。


「この建物、変だ」


「何が」


「荷重の逃がし方がおかしい」


 直樹は黙った。


 健二は少し前に出た。


「あそこ、元は教室だろ。窓の並びで分かる。なのに内側に壁を増やしてる。外から見える排気口の位置も変だ。普通の教室改修じゃない」


「収容区画か」


「たぶん」


 健二は校舎の二階を見た。


「それに、あの渡り廊下。後付けだ。しかも雑だ。避難経路を増やすためじゃない。人の流れを一方向に絞る作りだ」


「逃がさないためか」


「そう見える」


 言ってから、健二は自分の声が低くなっていることに気づいた。


 建物を見るのは、昔から得意だった。


 どこに無理があるか。

 どこを抜いたら危ないか。

 どこが人を守るための作りで、どこが人を閉じ込めるための作りか。


 それは図面よりも先に、身体で分かる。


「誰がこんな工事したんだよ」


 健二は吐き捨てた。


 直樹は校舎を見たまま言った。


「仕事としてやった奴がいる」


「分かってるよ」


「断れなかったのかもしれない」


「分かってる」


「でも、やった」


 健二は黙った。


 胸の奥がざらついた。


 自分も、似たような仕事を受けかけたことがある。

 いや、受けたことがないとは言い切れない。


 発注名は復興工事。

 内容は防災改修。

 実際にできるものは、人を選別し、人を通さず、人を閉じ込める施設。


 そんな仕事は、書類の名前だけでは分からない。


 けれど現場を見れば分かる。


 分かってしまう。


「兄ちゃん」


「何だ」


「俺、会社畳んで正解だったのかもしれん」


「今さらか」


「今さらだよ」


 直樹は何も言わなかった。


 その沈黙が、少しだけありがたかった。


     *


 防災倉庫は、校舎裏の端にあった。


 映像で見た場所と同じだった。


 だが、様子は違っていた。


 古い倉庫の前には、新しい鉄板が張られている。

 入口は溶接され、扉の縁には補強材が入っていた。


 地面には、最近削った跡がある。

 土が新しい。

 足跡もある。


 直樹がしゃがんだ。


「最近触ってるな」


「封鎖しただけじゃない」


 健二は倉庫の脇に回った。


「ここ、水が抜けてる」


「水?」


「地下が完全に死んでるなら、雨水が溜まる。だけどこのあたりだけ乾いてる。どこかに抜けてるんだよ」


 直樹が健二を見た。


「通路は生きてるか」


「少なくとも、全部は潰してない」


「入れるか」


「この扉からは無理」


 健二は周囲を見た。


 倉庫の裏には、雑草に覆われたコンクリートの低い壁がある。

 その下に、古い排水溝が通っていた。


 健二はしゃがみ込み、手で雑草を払った。


 錆びた鉄格子が見えた。


「ここ」


「排水口か」


「たぶん、地下通路の換気か排水を兼ねてる。人が通るには狭い」


「お前は無理だな」


「兄ちゃんも無理だろ」


「子どもなら通れる」


 その言葉に、二人は同時に黙った。


 子どもなら通れる。


 それは、希望にも聞こえた。

 同時に、嫌な意味にも聞こえた。


 子どもしか通れない逃げ道。

 子どもだけが逃げられる穴。

 大人は入れない。


 健二は鉄格子を見つめた。


「これ、内側からなら開くかもしれない」


「外からは」


「道具があれば外せる。でも音が出る」


「音はまずい」


「だよな」


 直樹は時計を見た。


「瀬田ハルに接触する」


「どうやって」


「老人の合図を使う」


「どこで」


「職員の出入り口を探す」


「正面に行くのか?」


「行かない。裏の搬入口だ」


 健二は顔をしかめた。


「また検問みたいなことするのか」


「お前の営業スマイルの出番だ」


「さっき気持ち悪いって言っただろ」


「気持ち悪いが、使える」


「褒めてんのか、それ」


「現実的な評価だ」


「腹立つな」


 直樹は、健二の黒縁メガネを見た。


「それも使える」


「メガネ?」


「業者に見える」


「元社長の貫禄があるからな」


「老けてるだけだ」


「兄ちゃん、いつか殴るぞ」


「今はやめろ。目立つ」


     *


 裏の搬入口は、校舎の北側にあった。


 かつて給食搬入口だった場所らしい。

 今は物資搬入ゲートになっている。


 小型の電動車が二台止まっていた。

 白い腕章をつけた警備員が一人。

 灰色の作業服を着た職員が数人。


 健二は鉄箱を持ったまま、深く息を吸った。


「兄ちゃん」


「何だ」


「俺、これから営業スマイルするけど、後で文句言うなよ」


「状況による」


「言う気だろ」


「自然に気持ち悪ければ言わない」


「自然に気持ち悪いって何だよ」


 健二はメガネを指で押し上げた。


 肩の力を抜く。

 口角を上げる。

 相手の警戒を刺激しない。

 目を合わせすぎない。

 でも逸らしすぎない。


 昔、嫌というほどやった顔だった。


 取引先。

 銀行。

 役所。

 元請け。

 怒っている施主。

 支払いを渋る相手。


 全部、この顔で乗り切ってきた。


 健二は鉄箱を抱え、搬入口へ歩いた。


 直樹は少し後ろを歩く。

 無愛想な作業員のような顔をしている。


 警備員が二人を見た。


「何だ」


 健二は笑った。


「お疲れさまです。旧資料の返却です」


「予定にない」


「でしょうね。こっちも朝から振り回されてます」


「どこの所属だ」


「南側の保管倉庫から回されました。教育局の古い媒体だそうです」


 健二は、わざと少し困った顔を作った。


「正直、こっちも詳しいことは聞かされてなくて。昔の学校資料だから急ぎで返せ、ただし正面から入れるなって言われまして」


 警備員の眉が動いた。


「正面から入れるな?」


「はい。児童の目に触れないように、と」


 これは半分嘘だった。


 だが、相手が言いそうな理屈を先に出すと、人は警戒を少し緩める。


 警備員は健二を見た。


 そして、直樹を見た。


「そっちは」


「助手です。無口ですが、荷物は持てます」


 直樹が無表情のまま健二を見た。


 健二は見なかったことにした。


 警備員はまだ迷っている。


 その時、奥の扉が開いた。


 灰色の制服を着た女性職員が出てきた。


 髪は後ろでまとめている。

 年齢は三十代半ばほど。

 顔色は悪い。

 だが、背筋は伸びていた。


 職員は健二たちを見た。


「何の騒ぎですか」


 警備員が答えた。


「旧資料の返却だそうです。予定外です」


 女性職員は健二を見た。


 健二は、その目を見た瞬間、息を止めた。


 映像の中の女の子とは違う。

 大人になっている。

 疲れている。

 目の下に影がある。


 だが、どこかに残っていた。


 赤い帽子の少女が、ほんの少しだけ。


 健二は鉄箱を抱え直した。


「瀬田ハルさん、ですか」


 女性職員の表情が固まった。


 警備員の目が健二に向く。


 まずい。


 直樹の気配が変わった。


 健二は、すぐに言い直した。


「失礼。瀬田職員に渡すよう言われています」


 女性職員は数秒、健二を見ていた。


 そして、静かに言った。


「誰からですか」


 健二は、老人の言葉を思い出した。


 春の運動会を、返しに来た。


 その一言を、ここで言うべきか迷った。


 警備員が横にいる。

 聞かれれば終わるかもしれない。


 だが、ここまで来て言わなければ、何も始まらない。


 健二は声を少し落とした。


「春の運動会を、返しに来ました」


 女性職員の顔から、血の気が引いた。


 ほんの一瞬だった。


 だが、健二には分かった。


 届いた。


 その言葉は、彼女のどこか深い場所に届いた。


 警備員が眉をひそめる。


「何だ、それは」


 健二はすぐに営業スマイルを戻した。


「古い行事記録の分類名です。春季運動会資料。いやあ、昔の学校ってこういう名前の付け方が雑で」


 警備員は納得していない顔だった。


 だが、女性職員が先に言った。


「確認します。こちらへ」


「瀬田職員」


 警備員が止めた。


「予定外資料です。ここで開封を」


「児童情報が含まれる可能性があります」


 瀬田ハルは静かに言った。


「搬入口で開ける方が規定違反です」


 警備員は口を閉じた。


 彼女の声は大きくない。

 しかし、慣れていた。


 命令する声ではない。

 規則を盾にして、相手を黙らせる声だった。


「私が確認し、教育局記録室へ回します」


「記録室へ?」


「そうです」


「保安局への報告は」


「必要であれば、こちらから行います」


 警備員は不満そうだった。


 だが、それ以上は言えなかった。


 瀬田ハルは健二を見た。


「運搬者は二名とも同行してください。受領記録が必要です」


 健二はうなずいた。


「はい。助かります」


 直樹は何も言わずについてくる。


 搬入口の扉をくぐる瞬間、健二は背中に警備員の視線を感じた。


 まだ疑っている。


 当然だ。


 健二だって、自分たちが怪しいことは分かっている。


     *


 中は、学校の匂いがしなかった。


 消毒液。

 古いコンクリート。

 金属。

 そして、紙の匂い。


 給食の匂いも、チョークの匂いも、掃除用ワックスの匂いもない。


 廊下には線が引かれていた。


 白い線。

 黄色い線。

 赤い線。


 子どもたちは、その線の内側を歩いていた。


 列を作り、黙って、前だけを見ている。


 誰も走らない。

 誰もふざけない。

 誰も壁の掲示物を見ない。


 健二は、その光景を見て胸が苦しくなった。


 学校の廊下とは、もっと騒がしいものだったはずだ。


 誰かが走る。

 誰かが怒られる。

 誰かの上履きが脱げる。

 壁に貼られた絵の前で、友達同士が笑う。


 そういう場所だったはずだ。


 だが、ここにはそれがない。


 直樹は小さく言った。


「見るな」


「無理だろ」


「顔に出すな」


「出るだろ」


「出すな」


 健二は唇を噛んだ。


 瀬田ハルは前を歩いている。


 背中はまっすぐだった。

 しかし、手は小さく震えていた。


 やがて、彼女は廊下の端にある資料室へ二人を入れた。


 扉を閉める。

 鍵をかける。


 その音がした瞬間、彼女の肩から力が抜けた。


「誰からですか」


 彼女は振り返らずに聞いた。


 健二は答えた。


「あなたの昔の担任だと」


 瀬田ハルは目を閉じた。


「生きていたんですね」


「はい」


「そうですか」


 その声は、泣いているようには聞こえなかった。


 けれど、泣くよりも苦しかった。


 直樹が言った。


「名前は」


 彼女は直樹を見た。


「瀬田ハルです」


「昔の名前だ」


 彼女は黙った。


 健二は、鉄箱を机の上に置いた。


「無理に言わなくていいです」


 瀬田ハルは健二を見た。


 健二はメガネの奥で、まっすぐ彼女を見返した。


「でも、この箱は、たぶんあなたに名前を返すために来ました」


 瀬田ハルの唇がわずかに震えた。


「名前を返されても、困ります」


 彼女は小さく言った。


「ここでは、名前は危険です」


 直樹が答えた。


「知ってる」


「では、なぜ持ってきたんですか」


「選ばせるためだ」


 瀬田ハルは直樹を見た。


 直樹は続けた。


「思い出すかどうか。使うかどうか。燃やすかどうか。決めるのはあんただ」


 部屋の中に、古い蛍光灯の音が響いていた。


 瀬田ハルは、ゆっくり鉄箱に近づいた。


 指先で、箱の縁に触れる。


 その手が震えている。


 健二は鍵を差し出した。


「開けますか」


 瀬田ハルはしばらく鍵を見つめた。


 そして、受け取った。


 鍵穴に差し込む。

 回す。


 乾いた音がした。


 鉄箱が開いた。


 中の端末を見た瞬間、瀬田ハルの呼吸が止まった。


「これ……」


 健二が言った。


「春の運動会、見ました」


 瀬田ハルは顔を上げた。


「見たんですか」


「すみません。追われていたので、中身を確認しました」


 彼女は責めなかった。


 ただ、端末を手に取った。


 画面をつける。


 春の運動会。


 その文字を、彼女は長い時間見つめていた。


 指が、再生ボタンの上で止まる。


 押せない。


 健二は何も言わなかった。


 直樹も何も言わなかった。


 やがて、彼女は再生した。


 古い映像が始まった。


 青空。

 校庭。

 子どもたちの声。

 白線。

 赤い帽子。

 母親の声。


『春奈、こっち見て』


 瀬田ハルの手から、端末が落ちそうになった。


 健二が、とっさに支えた。


 画面の中で、小さな女の子が振り返る。


 赤い帽子。

 白い体操服。

 困ったような笑顔。


 瀬田ハルは、口元を押さえた。


 声は出なかった。


 ただ、目だけが大きく開いていた。


 忘れていた顔を見た人間は、泣く前に固まるのだと、健二はその時初めて知った。


 映像の中で、母親らしき女性が笑っている。


『春奈、走る前に靴ひも見て』


 瀬田ハルの膝が崩れた。


 健二が支えようとした。

 だが、直樹が先に椅子を引いた。


 瀬田ハルはそこに座った。


「……その名前」


 彼女は、ようやく声を出した。


「聞いたことがある気がしていました」


 健二は静かに言った。


「井口春奈」


 瀬田ハルは目を閉じた。


 その名前は、部屋の中に落ちた。


 誰かを呼ぶための音だった。

 けれど同時に、誰かを殺すための証拠にもなる音だった。


 瀬田ハルは、ゆっくり目を開けた。


「これは、持ってきてはいけないものでした」


「でしょうね」


 健二が答えた。


「でも、持ってきました」


 彼女は端末を握りしめた。


「あなたたちは、これが何に使われるか分かっていますか」


 直樹が答えた。


「半分は分かった」


「半分?」


「名前。身元。旧学校記録」


 瀬田ハルは直樹を見た。


「もう半分は」


「地下通路」


 その言葉を聞いた瞬間、瀬田ハルの表情が変わった。


 明らかだった。


 彼女は知っていた。


 健二は身を乗り出した。


「やっぱりあるんですね」


 瀬田ハルはすぐには答えなかった。


 資料室の外を見た。

 廊下の気配を聞いた。


 そして、小さく言った。


「あります」


 健二の喉が鳴った。


「使えるんですか」


「一部は」


「子どもたちを逃がせる?」


 瀬田ハルは健二を見た。


 その目は、さっきまでの怯えた職員の目ではなかった。


 教師の目だった。


 いや、教師になりそこねた人間の目だった。


「逃がしたい子がいます」


 彼女は言った。


「一人ではありません」


 直樹の表情が変わらないまま、空気だけが重くなった。


「何人だ」


「今夜、再配置される子が八人」


「再配置?」


 健二が聞いた。


「別の施設へ移されます。親の記録と強く結びつく反応を示した子どもたちです」


「それって……」


「思い出しかけた子です」


 瀬田ハルの声がかすれた。


「名前を。家族を。家に帰りたいという感情を」


 健二は拳を握った。


 直樹がすぐに言った。


「握るな」


「兄ちゃん」


「怒りは後だ」


「後で済む話かよ」


「今怒れば、全員死ぬ」


 健二は息を止めた。


 瀬田ハルは続けた。


「今夜二十二時、八人は北側の再教育中枢へ送られます。そこへ移されたら、戻ってきた子はいません」


「地下通路で逃がすつもりだったのか」


 直樹が聞いた。


 瀬田ハルはうなずいた。


「でも、出口が分かりませんでした。古い図面は消され、記録も改ざんされています。通路がどこに繋がっていたのか、確証がなかった」


 健二は鉄箱を見た。


「映像には映ってる」


「はい」


「だからこの箱が必要だった」


「はい」


 瀬田ハルは、端末を握ったまま言った。


「春の運動会を返しに来た。その意味が、今分かりました」


 健二は黙った。


 老人は、どこまで知っていたのだろう。


 ただ名前を返したかったのか。

 子どもを逃がしたかったのか。

 それとも、両方なのか。


 直樹が言った。


「俺たちは運び屋だ」


 健二は兄を見た。


 その言葉が出た時点で、直樹が何を言おうとしているのか分かった。


「救出部隊じゃない」


 瀬田ハルはうなずいた。


「分かっています」


「戦えば負ける」


「はい」


「正面から助ければ全員死ぬ」


「はい」


「だから、逃がすなら静かにやる」


 健二は息を吐いた。


 やっぱりだ。


 兄はもう、ただ届けるだけで終わらせる気がない。


 瀬田ハルは、直樹を見た。


「手伝ってくれるんですか」


 直樹は即答しなかった。


 代わりに、健二を見た。


「おいケン」


「何だよ」


「断るなら今だ」


 健二は笑いそうになった。


 こんな状況で、まだ選ばせるのかと思った。


 兄らしい。


 残酷で、優しい。


「断れるわけないだろ」


「だと思った」


「じゃあ聞くなよ」


「お前は抱え込む。だから聞く」


 健二は言い返せなかった。


 直樹は瀬田ハルに向き直った。


「条件がある」


「何ですか」


「子どもを道具にしない。無理な子は逃がさない。泣いた子を責めない。途中で計画が崩れたら、生きて戻る方を選ぶ」


 瀬田ハルは静かにうなずいた。


「分かりました」


「もう一つ」


「はい」


「俺たちを信用するな」


 健二は思わず兄を見た。


 瀬田ハルも目を見開いた。


 直樹は淡々と言った。


「信用じゃなく、手順で動け。信用は裏切られる。手順は残る」


 瀬田ハルは、しばらく直樹を見ていた。


 そして、小さく言った。


「あなたは、学校の先生には向いていませんね」


 直樹は無表情で答えた。


「知ってる」


 健二は思わず吹き出しそうになった。


 こんな場所で笑うな、と自分に言い聞かせた。


 だが、少しだけ空気が動いた。


 瀬田ハルは端末を閉じた。


「二十二時まで、あと八時間です」


 直樹は時計を見た。


「足りないな」


「足りない?」


 健二が聞いた。


「足りないなら、やめるのか」


「違う」


 直樹は資料室の扉を見る。


「足りないから、余計なことは全部捨てる」


 瀬田ハルがうなずいた。


「地下通路の入口は、防災倉庫の裏です。ただ、内側からしか開きません」


「内側へ行けるのか」


「私なら行けます。記録室へ向かうふりをすれば」


「子どもたちは」


「二十一時半、再配置準備室に集められます」


「警備は」


「通常より増えます」


「当然だな」


 直樹は健二を見た。


「ケン」


「何」


「お前は車を回せ」


「どこへ」


「地下通路の出口を探す」


「俺が?」


「建物を見る目は、お前の方がある」


 健二は一瞬、言葉に詰まった。


 兄にそう言われることは、めったになかった。


「……分かった」


「営業スマイルはいらない」


「分かってるよ」


「本当に分かってるか」


「ここでやったら撃たれるだろ」


「気持ち悪くてな」


「そっちかよ」


 瀬田ハルが、ほんの少しだけ笑った。


 すぐにその顔は消えた。


 だが、健二は見逃さなかった。


 笑える人だ。

 まだ、完全には壊れていない。


 なら、戻れるかもしれない。


 瀬田ハルは、机の引き出しから古い紙を出した。


「私が覚えている範囲で描いた、地下階の見取り図です」


 紙には手書きの線がいくつも引かれていた。


 廊下。

 階段。

 記録室。

 地下倉庫。

 封鎖扉。

 そして、赤い丸。


「ここが、再配置準備室です」


 健二は図面を見た。


 直樹も覗き込む。


「出口は」


「分かりません」


 瀬田ハルは言った。


「だから、映像が必要なんです」


 直樹は端末を手に取った。


「探すぞ」


 健二はメガネを押し上げた。


 時間は八時間。


 子どもは八人。


 道は、まだ見つかっていない。


 外では、同じ言葉を繰り返す子どもたちの声が、廊下の奥から聞こえていた。


 個人より共同体。

 家族より教育。

 記憶より再建。


 健二は、その声を聞きながら、鉄箱に手を置いた。


 違う。


 心の中で、そう言った。


 名前より先に番号があるわけじゃない。

 家族より先に教育があるわけじゃない。

 記憶を消して、人が戻れるわけがない。


 直樹が低く言った。


「勝たなくていい」


 健二は兄を見た。


 直樹は、資料室の扉を見ていた。


「八人、帰すぞ」


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