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第二話 名前のない子どもたち

## 第二話 名前のない子どもたち


 古い二トントラックは、道ではない場所を走っていた。


 タイヤの下で砕けた瓦礫が鳴る。

 錆びた鉄板を踏むたび、車体が跳ねる。

 荷台の鉄箱が、固定ベルトの奥で鈍い音を立てた。


 健二はハンドルにしがみついていた。


 右には崩れかけたブロック塀。

 左には雑草に埋もれた鉄骨。

 正面には、かつて作業用道路だった細い通路が、灰色の朝の中に伸びている。


 普通の道ではない。


 けれど、健二には道に見えた。


 現場で育った人間には分かる。


 重機が通った跡。

 資材車が踏み固めた地面。

 雨が降ると水が溜まる場所。

 見た目は崩れていても、下の土がまだ生きている場所。


 健二は、そういうものを身体で覚えていた。


「右、沈むぞ」


 助手席の直樹が言った。


「分かってる!」


「左寄れ」


「寄ったら鉄骨に当たる!」


「当てるな」


「簡単に言うなよ!」


 健二はメガネの奥で目を細め、ハンドルを切った。


 トラックの右タイヤが泥に沈みかける。

 車体が大きく傾いた。


 荷台の鉄箱が鳴る。


「うわっ!」


「アクセル戻すな」


「戻したら?」


「埋まる」


「最悪だな!」


「だから戻すな」


 健二は奥歯を噛みしめ、アクセルを踏み続けた。


 車体が一度沈み、次の瞬間、泥を跳ね上げて前へ出た。


 背後で、黒い四駆が同じ場所へ突っ込んできた。


 だが、運転手は道を知らなかった。


 四駆の右タイヤが深く沈む。

 エンジン音が荒くなり、後輪が空回りした。


 直樹がバックミラーを見た。


「一台、落ちた」


「もう一台は?」


「来てる」


 健二は舌打ちした。


「しつこいな」


「保安局案件って言ってた。諦める理由がない」


「ただの初仕事だぞ」


「初仕事で検問を破ったからな」


「兄ちゃんが兵士を倒したからだろ」


「撃たれる前に動いただけだ」


「俺の初仕事、終わったな」


「まだ届けてない」


 健二は一瞬、黙った。


 そうだった。


 終わっていない。


 荷物はまだ荷台にある。

 鉄箱はまだ開けられていない。

 届ける相手にも会っていない。


 ただ、検問を破っただけだ。


 始まったばかりだった。


「この先、どこへ出る?」


 直樹が聞いた。


「旧資材搬入口の裏。抜ければ、昔の河川管理道に出る」


「通れるのか」


「たぶん」


「その“たぶん”は信用できるのか」


「兄ちゃんの“ある”よりは信用できる」


 直樹は少しだけ口元を動かした。


 その直後、後ろから銃声がした。


 弾は車体の後方に当たり、金属音を響かせた。

 健二の肩が跳ねる。


「撃ってきた!」


「前見ろ」


「見てる!」


「大きく振るな。タイヤを取られる」


「撃たれてんだぞ!」


「焦って蛇行すれば、相手に動きを読まれる」


「じゃあどう走る!」


「逃げろ。ただし、逃げてる顔をするな」


「無茶言うなよ!」


 健二は歯を食いしばった。


 確かに、焦ってハンドルを切りすぎていた。

 瓦礫道で車体を振れば、タイヤを取られる。

 それに、無駄な動きは後ろの運転手に次の進路を教えるだけだった。


 健二は息を吐き、ハンドルを握り直した。


 大きく逃げない。

 道を外さない。

 相手に読ませない。


 それでも、止まらない。


 直樹はひび割れた助手席の窓越しに後方を確認した。


 追ってくる四駆は一台。

 距離は詰まっていない。


 だが、離れもしない。


 運転手はうまい。

 車体の揺れを殺しながら、健二のトラックが作った轍を正確になぞってくる。


「ケン」


「何!」


「あいつ、素人じゃない」


「見れば分かる!」


「いや、検問の警備じゃない。別の人間だ」


 健二はバックミラーを見た。


 黒い四駆。

 フロントガラスの奥に、灰色の服を着た男が見える。

 白い腕章ではない。


「保安局か」


「たぶんな」


「最悪じゃん」


「ああ」


 直樹は短く答えた。


「最悪だ」


     *


 河川管理道は、まだ残っていた。


 かつて川沿いの点検用に使われていた細い道だった。

 片側は崩れたフェンス。

 もう片側はコンクリートの護岸。


 道路の真ん中には草が生え、ところどころアスファルトが割れている。


 健二はそこへトラックを滑り込ませた。


 黒い四駆も追ってくる。


「このままだと捕まるぞ」


 直樹が言った。


「分かってる」


「撒ける場所は」


「ある」


「どこだ」


「昔の第二排水門」


「何がある」


「水門の横に、管理車両用の短いトンネルがある。今はたぶん封鎖されてる」


「たぶんが多いな」


「この国で確実な道なんかあるかよ」


 直樹は少しだけ笑った。


「ないな」


 健二はメガネを指で押し上げた。


 フロントガラスの先に、排水門が見えてきた。


 灰色のコンクリート。

 錆びた手すり。

 半分倒れた立入禁止の看板。

 その横に、暗い口を開けた管理トンネルがあった。


 入口は、鉄製のゲートで塞がれている。


 健二はアクセルを緩めなかった。


「開いてないぞ」


 直樹が言った。


「見れば分かる!」


「突っ込む気か」


「古いゲートだ。支柱が腐ってる」


「確証は」


「現場の勘」


「嫌な言葉だな」


「兄ちゃんの戦場の勘よりマシだ!」


 健二はハンドルを両手で握った。


 トラックはゲートに突っ込んだ。


 金属が悲鳴を上げた。


 一瞬、車体が止まる。

 次の瞬間、腐った支柱が根元から折れ、ゲートが内側へ倒れた。


 トラックは暗いトンネルへ滑り込んだ。


 健二はすぐにライトを消した。


 闇が落ちる。


 エンジン音だけが、狭いコンクリートの中で反響した。


「止めろ」


 直樹が言った。


 健二はブレーキを踏んだ。


 トラックが止まる。


「エンジン切れ」


 健二はキーを回した。


 音が消えた。


 世界が急に静かになった。


 遠くで、水の流れる音がする。

 トンネルの天井から、水滴が落ちた。


 健二は息を殺した。


 後ろから、黒い四駆のエンジン音が近づいてくる。


 トンネルの入口手前で止まった。


 ライトの光が、ゲートの壊れた影を照らしている。

 健二は、思わず身体を低くした。


 直樹は動かなかった。


 ただ、右手を軽く上げて、健二に黙るよう合図した。


 四駆のドアが開く音がした。


 足音。


 一人。

 いや、二人。


 砂利を踏む音が近づく。


 健二は喉が渇くのを感じた。


 黒縁のメガネが、汗で少しずり落ちる。

 直したい。

 でも動けない。


 外の男が言った。


「中を確認するか」


 別の声が返した。


「やめろ。崩落の可能性がある。車両も入れない」


「だが、対象車両はこの先に」


「上に報告しろ。旧第七関連だ。地元の検問ではなく、教育局と保安局の合同案件になる」


 健二は、直樹を見た。


 直樹は表情を変えない。


 外の男が続けた。


「媒体は必ず回収しろとの命令だ。運搬者は?」


「生死問わず」


 健二の背筋が冷えた。


 直樹は、ゆっくりと目を閉じた。


 数秒後、足音が遠ざかった。


 ドアが閉まる。

 エンジン音が響く。

 四駆はしばらくその場にいたが、やがて遠ざかっていった。


 完全に音が消えるまで、直樹は動かなかった。


 健二は、ようやく息を吐いた。


「生死問わずって言ったよな」


「ああ」


「俺、初仕事なんだけど」


「何回言うんだ」


「何回でも言うわ。初仕事で生死問わずって何だよ」


 直樹は助手席の背もたれに体を預けた。


「だからやめろと言った」


「そういう正論、今いらない」


「必要な時ほどいらないと言う」


 健二はハンドルに額をつけた。


 心臓がまだ速い。


 怖かった。


 検問で銃を向けられた時よりも、今の方が怖い。

 相手が本気で殺してもいいと思っていると分かったからだ。


「兄ちゃん」


「何だ」


「あの箱、何なんだ」


 直樹はすぐには答えなかった。


 暗いトンネルの中で、荷台の鉄箱が一度だけ小さく鳴った。


 まるで返事をしたみたいだった。


     *


 トンネルの奥には、古い管理室があった。


 健二の記憶では、河川点検用の作業員が使っていた部屋だった。

 今は扉が歪み、鍵は壊れている。


 中には、錆びた机と、割れた椅子が二脚。

 壁には古い地図。

 床には水が染みていた。


 直樹は、まず周囲を確認した。


 入口。

 窓。

 天井。

 逃げ道。

 音の反響。


 安全とは言えない。

 だが、数分なら使える。


「箱を下ろすぞ」


 直樹が言った。


「開けるのか」


「見る」


「じいさん、本人に渡せって言ってたぞ」


「追われてる理由が分からない荷物を持ったまま動くのは危険だ」


「勝手に見るのはまずくないか」


「死ぬよりはマシだ」


 健二は言い返せなかった。


 二人で荷台から鉄箱を下ろした。


 見た目より重かった。


 机の上に置くと、鉄の脚が軋んだ。


 箱には古い錠前がついていた。

 老人から預かった鍵を差し込むと、乾いた音を立てて開いた。


 中には、いくつもの記録媒体が入っていた。


 古いメモリーカード。

 傷だらけの外付けドライブ。

 紙焼きの写真。

 手書きの名簿。

 封筒に入った古いDVD。

 そして、小さな端末。


 健二は思わず言った。


「思ったより多いな」


「思い出は重い」


「兄ちゃんがそういうこと言うと怖いな」


「お前の営業スマイルよりは自然だ」


「まだ言うか」


 健二は端末を手に取った。


 電源は入った。


 古い学校のロゴが画面に出る。


 旧第七小学校。


 その文字を見た瞬間、部屋の空気が少し変わった気がした。


 端末には、いくつかの映像ファイルが並んでいた。


 春の運動会。

 入学式。

 避難訓練。

 給食の時間。

 卒業式。

 交流会。

 地域防災の日。


 健二は、春の運動会を開いた。


 画面に、青空が映った。


 古い映像だった。

 色は少し抜けている。

 音もざらついている。


 それでも、そこには人がいた。


 校庭に並ぶ子どもたち。

 白線を引く教師。

 ビニールシートを広げる親たち。

 祖母らしき女性が重箱を抱えて歩いている。

 父親がビデオカメラを構えて、子どもの名前を呼んでいる。


『春奈、こっち見て』


 小さな女の子が振り返る。


 赤い帽子。

 白い体操服。

 少し困ったような笑顔。


 健二は息を止めた。


「これが、瀬田ハルか」


 直樹は画面を見たまま言った。


「昔の名前ではな」


 映像の中の女の子は、母親らしき女性に背中を押されて、列へ戻っていった。


 画面の中では、何も起きていない。


 ただの運動会だった。


 子どもが走る。

 親が笑う。

 先生が拡声器で怒鳴る。

 誰かが弁当を落として、周囲が笑う。


 それだけだった。


 健二は、なぜか胸が詰まった。


「こんなのが、取り締まり対象かよ」


「今の連中にはな」


 直樹は短く答えた。


 健二は画面を止めようとした。


 その時、直樹が言った。


「待て」


「何」


「戻せ」


「どこ」


「今のところ」


 健二は少し戻した。


 映像は、玉入れの準備中だった。


 子どもたちが校庭の端へ移動している。

 その奥に、体育館と校舎裏が映っている。


「止めろ」


 健二は画面を止めた。


 直樹は画面に顔を近づけた。


「兄ちゃん?」


「拡大できるか」


「やってみる」


 健二は指で画面を広げた。


 画質は荒い。

 それでも、校舎裏の一角が見えた。


 古い防災倉庫。

 その横に、今は使われていないような小さな扉。


 直樹の目が細くなった。


「これだ」


「何が」


「防災扉」


「防災扉?」


「今の管理図面にはないはずだ」


「なんで分かるんだよ」


「検問で保安局が反応した。旧第七小学校関連なら押収と言った。単なる児童名簿なら教育局だけでいい。保安局が出るなら、施設構造が絡んでる」


 健二は画面を見た。


「この扉が?」


「たぶんな」


「でも、ただの倉庫かもしれないだろ」


「避難訓練の映像を開け」


 健二は言われた通りにした。


 次の映像が始まる。


 校内放送。

 子どもたちが机の下に潜る。

 教師が廊下へ誘導する。

 階段を降りる。

 校庭へ出る。


 映像は手ぶれしている。

 撮影者は保護者ではなく、学校関係者らしい。


 途中で、子どもたちの一部が校舎裏へ向かう場面が映った。


 教師の声が入る。


『低学年は第一避難口へ。高学年は防災倉庫横の地下通路へ』


 健二は思わず画面を止めた。


「地下通路って言った?」


「ああ」


 直樹は画面を見たまま答えた。


「じいさん、そんなこと言ってなかったぞ」


「知らなかったんだろう」


「元教師なのに?」


「教師全員が避難設備の全容を知ってるわけじゃない。昔は防災用だった。今の連中が消したのは、その後だ」


 健二は喉を鳴らした。


「つまり、この映像があれば……」


「今の教育管理施設に、地図から消えた入口があると分かる」


「だから保安局案件」


「そうだ」


 健二は、鉄箱を見た。


 さっきまで、これは名前を返すための荷物だと思っていた。

 今は違う。


 名前だけじゃない。


 この箱には、道が入っている。


 子どもたちが帰るための道が。


「兄ちゃん」


「何だ」


「これ、届けたらどうなる」


「使い方次第だ」


「助けられるのか」


 直樹はすぐには答えなかった。


 端末の画面には、古い学校の避難訓練が止まっている。


 子どもたちが、教師に誘導されて地下通路へ向かっている。


 その顔は真剣だった。

 でも、怖がってはいない。


 訓練だと分かっていたからだ。

 終われば教室に戻れると知っていたからだ。


 今の子どもたちはどうだろう。


 訓練ではなく、管理。

 避難ではなく、収容。

 名前ではなく、番号。


 健二はメガネの奥で目を細めた。


「この映像は、子どもたちに名前を返すものです」


 老人の声が頭に残っている。


 でも、違う。


 名前だけでは足りない。


 名前を思い出しても、帰る道がなければ、帰れない。


「なぁ兄弟」


 直樹が言った。


 健二は顔を上げた。


 直樹がその呼び方をする時は、茶化さない時だった。


「これを届ければ、瀬田ハルは選べる」


「何を」


「思い出すかどうか。逃がすかどうか。黙って生きるかどうか」


「俺たちは?」


「届けるだけだ」


 直樹はそう言った。


 だが、健二には分かった。


 兄はもう、ただ届けるだけでは終わらないと分かっている。


 それでも、そう言った。


 健二を止めるためではない。

 健二に、背負いすぎるなと言うためだった。


「兄ちゃん」


「何だ」


「俺、届けるだけで済む気がしない」


「俺もだ」


「じゃあ何で行くんだよ」


 直樹は端末の画面を閉じた。


「行かなきゃ、何も分からない」


 健二は黙った。


 その通りだった。


 トンネルの外では、遠くに車の音がした。


 追手かもしれない。

 別の車かもしれない。


 直樹は端末を鉄箱へ戻し、蓋を閉めた。


「移動するぞ」


「どこへ」


「旧第七小学校の近くまで行く。ただし正面からは行かない」


「地下通路か」


「まだ使えるか分からない」


「兄ちゃんでも?」


「見ないと分からん」


「またそれか」


「この国で確実な道なんかないんだろ」


 健二は少しだけ笑った。


「俺の台詞取るなよ」


 直樹は鉄箱を持ち上げた。


「行くぞ、ケン」


 健二はメガネを押し上げ、トラックの方を見た。


 古い車体は、傷だらけになっていた。

 助手席の窓は割れ、横腹には鉄柵の傷が残っている。


 初仕事の車としては、最悪だった。


 だが、まだ走れる。


 健二は運転席へ戻った。


 エンジンをかける。

 古いトラックが、低く唸った。


 荷台には鉄箱。

 中には、名前と道と、壊れる前の学校。


 健二はハンドルを握った。


「兄ちゃん」


「何だ」


「俺、学校って嫌いじゃなかったんだよ」


「急に何だ」


「いや、何となく」


 直樹は少し黙ってから言った。


「俺は嫌いだった」


「兄ちゃんは大体なんでも嫌いだろ」


「お前の営業スマイルほどじゃない」


「まだ言うか」


 トラックは、暗い管理トンネルをゆっくり進んだ。


 出口の向こうに、灰色の光が見えている。


 旧第七小学校は、その先にある。


 今はもう、学校ではない場所。


 けれど、映像の中ではまだ、子どもたちが校庭を走っていた。


 名前を呼ばれながら。


 家族に手を振りながら。


 帰る場所があると信じながら。


 健二はアクセルを踏んだ。


 トラックは、光の方へ出ていった。


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