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第一話 分裂前の家族記録映像 前書き変更版

前書きは**消していい**と思います。

ただし、内容は捨てずに、**プロローグの中へ吸収**した方がいいです。


理由は、前書きとプロローグを分けると、読者が本編前に二回説明を読むことになり、少し重くなります。

なので、世界設定・兄弟・紙・名前・帰り道を一つにまとめて、**短いプロローグ**にした方が入りやすいです。


プロローグ 帰り道の学校


 かつて一つだった日本は、もう一つではない。


 東京を境に、国は南北に割れた。


 北には、再建と平等を掲げる北日本再建評議会がある。


 そこでは、食料、燃料、教育、移動、家族の形までが管理されるようになった。


 人は、名前ではなく、記録番号や保護区分で呼ばれる。


 子どもたちは、安全や教育の名の下に、親や故郷から少しずつ切り離されていく。


 南には、自由と安全を掲げる西日本暫定政府がある。


 けれど、そこも楽園ではない。


 物資は足りない。


 燃料は限られている。


 書類と手続きは、人の命に追いつかない。


 国外勢力。


 民間支援団体。


 土地を狙う資本。


 境界を食い物にする回収屋たち。


 それぞれが、それぞれの正義や利益を掲げて動いている。


 国が割れたことで、人の暮らしも割れた。


 家族と離れた子ども。


 名前を変えられた子ども。


 帰る場所があるのに、そこへ戻れない人。


 帰る場所そのものを失った人。


 記録から消され、最初からいなかったことにされそうな人。


 この国では、銃声だけが人を傷つけたわけではない。


 紙も、人を消した。


 名前も、人を奪った。


 道も、閉じられた。


   *


 紙には、二つの使い方がある。


 人を消すための紙。


 人を残すための紙。


 名前を書く。


 人数を数える。


 配給を渡す。


 治療を受けさせる。


 どれも、最初は子どもを守るために見える。


 けれど、紙の上で名前は少しずつ変わる。


 本名の横に、別の名が書かれる。


 その横に、また別の呼び名が増える。


 新しい名前に返事をすれば、安定。


 黙れば、同意。


 泣けば、不安定。


 帰りたいと言えば、混乱。


 そう書かれた子どもは、まだ生きている。


 食べている。


 眠っている。


 授業も受けている。


 ただ、自分の名前へ戻る道だけが、少しずつ見えなくなっていく。


   *


 真柴直樹と、真柴健二。


 兄の直樹は、かつて戦場で人を帰す道を作ってきた男だった。


 弟の健二は、親の会社を畳み、古い二トントラック一台で運送屋として生き直そうとしている男だった。


 兄は、道を作ってきた。


 弟は、荷物を運んできた。


 けれど、国が割れたあと、二人が運ぶことになるものは、荷物だけではなかった。


 名前。


 記録。


 子どもたち。


 帰る場所。


 そして、消されかけた人間の存在。


 この物語は、戦争に勝つ話ではない。


 正しい国を選ぶ話でもない。


 大きな思想で世界を救う話でもない。


 これは、帰れなくなった人たちに、もう一度、帰り道を作る物語である。


 紙を残す。


 名前を待つ。


 道を消さない。


 それが、この物語の始まりだった。


この形なら、前書きの世界観を残しつつ、プロローグとして読めます。

「前書き」という別枠は消して、これをそのまま冒頭に置くのが一番自然です。


## 第一話 分裂前の家族記録映像


 日本が二つに割れてから、地図を見る人間は減った。


 理由は簡単だった。


 地図に書かれている線が、もう現実と合わなくなったからだ。


 県境よりも検問。

 市町村よりも管理区域。

 道路番号よりも通行許可証。

 住所よりも、どちら側の人間か。


 昔は一本だった国道も、今では途中で名前が変わる。


 東京より北へ向かう道は、「北日本再建評議会」の管理道路と呼ばれた。

 東京より西、そして九州へ伸びる道は、「西日本暫定政府」の補給路と呼ばれた。


 北は、平等と再建を掲げていた。

 けれど実際には、配給、監視、思想検査、国外勢力の干渉で町は疲れ切っていた。


 南は、自由と安全を掲げていた。

 けれど実際には、海の向こうの大国と、その同盟国の支援なしには成り立たなかった。物資はある。燃料もある。弾もある。だが、大きな決定はいつも外から降ってきた。


 どちらも、自分たちが正しいと言った。

 どちらも、相手が日本を壊したと言った。


 けれど、直樹にはどうでもよかった。


 正義の名で人を縛る奴も、自由の名で人を売る奴も、直樹にとっては同じだった。


 守る気がないなら、旗の色など関係ない。


     *


 直樹には、三つ下の弟がいる。


 名前は健二。


 ただし、初対面の人間はたいてい兄弟を逆に見る。


 理由は分かりやすい。


 健二の方が体が大きい。肩幅も広い。現場で鍛えた腕も太い。

 それに、黒縁のメガネをかけている。


 目が悪いのは本当だった。

 だが、健二にとってメガネは、ただの視力補正ではなかった。


 営業先で少し柔らかく見える。

 図面を見る時に都合がいい。

 何より、疲れた目元を少し隠せる。


 親が残した建築会社を背負っていた頃から、健二の顔には年齢以上の疲れが張りついていた。


 だから、知らない人間はよく言う。


「お兄さんの方が運転ですか」


 そのたびに、直樹は必ず言った。


「おいケン、また兄貴に見られてるぞ」


 健二は決まって返した。


「兄ちゃんが若作りなんだよ」


「お前が老けてんだ」


「社長やってたら老けるんだよ」


「じゃあ、やめて正解だったな」


 そう言われると、健二はいつも笑えなかった。


 会社を畳んだのは、二週間前だった。


 父親の代から続いた建築会社だった。

 だが、古いやり方はもう通用しなかった。


 新しい規制。

 増え続ける書類。

 入ってこない若い人材。

 残ったのは、高齢の職人たちと、他では働き口を見つけにくい者たち。


 誰が悪いわけでもなかった。

 ただ、会社という形では、もう守れなかった。


 健二は看板を下ろした。

 それだけだった。


 泣かなかった。

 泣く暇もなかった。


 それから二週間。


 健二は、古い二トントラック一台で個人運送業を始めた。


 名前は決めていない。

 事務所もない。

 看板もない。


 ただ、荷物を運ぶ。


 それが、今の健二に残った仕事だった。


 そして今日が、初仕事だった。


     *


 依頼人は、元教師の老人だった。


 場所は、閉鎖された公民館の地下。

 窓は板で塞がれ、電気は最低限しか点いていなかった。


 壁には、昔の町内会のお知らせが残っていた。


 夏祭りのお知らせ。

 子ども会の廃品回収。

 防災訓練。

 小学校の運動会。


 どれも古びていて、誰も剥がさないまま放置されていた。


 老人は細かった。


 背中が少し曲がり、右手には古い革の鞄を持っていた。

 けれど目だけは、妙に若かった。


 老人は鉄箱を机の上に置いた。


「これを、旧東京境界の北側へ届けてほしいんです」


 健二は思わず聞き返した。


「北側、ですか」


「はい」


「評議会の管理区域ですよね」


「そうです」


 健二は直樹を見た。


 兄は黙っていた。

 ただ、鉄箱を見ている。


 その目を見た時点で、健二には分かった。


 兄はもう、この荷物を危険物だと判断している。


「中身は何ですか」


 健二が聞いた。


 老人は少し迷ってから答えた。


「映像です」


「映像?」


「分裂前の日本の家族記録映像です」


 健二は眉を寄せた。


「家族の映像が、なんでそんなに危ないんですか」


 老人はすぐには答えなかった。


 代わりに、革の鞄から一枚の告示文を取り出した。


 紙は古く、折り目の部分が擦れて白くなっている。


 そこには、黒い文字でこう印字されていた。


 ――未登録児童情報媒体取締要項。


 旧日本時代に撮影された学校行事、家庭記録、地域活動、避難訓練、自治体広報映像のうち、未成年者の氏名、顔貌、家族構成、旧住所、旧学校名、旧担任、保護対象者の出自情報を含むものは、未登録のまま教育管理区域へ搬入してはならない。


 該当資料は、児童保護、身元情報保全、敵性心理戦防止の観点から、評議会教育局および保安局の管理下に置く。


 健二は、紙面を最後まで読めなかった。


「……家族のビデオが、児童情報媒体?」


「北側では、そう扱われます」


 老人は静かに言った。


「ただの思い出としては、もう見てもらえないんです。子どもの顔が映っていれば個人情報。学校名が映っていれば教育管理情報。南側の子どもと一緒に笑っていれば、敵性融和資料です」


「むちゃくちゃだろ」


 健二の声が低くなった。


 老人は否定しなかった。


「ですが、表向きの理屈は通ります。未成年者の情報を守るため。保護児童を混乱させないため。外部勢力による心理戦を防ぐため。そう言われれば、現場の兵士も迷わず止めます」


 直樹が低く言った。


「建前としては、よくできてる」


「はい」


 老人はうなずいた。


「だから厄介なんです。ただの思想検閲なら、反発も起きる。でも、児童保護や安全管理と言われれば、誰も反対できない」


 健二は鉄箱を見た。


 ただの古い鉄箱だった。

 中に入っているのは、誰かの運動会や入学式の映像だと聞いている。


 けれど、今は少し違って見えた。


「その映像に、何が入ってるんですか」


 健二が聞いた。


 老人は、革の鞄から写真を何枚か取り出した。


 運動会。

 入学式。

 夏祭り。

 給食の時間。

 校庭に並ぶ子どもたち。

 桜の下で笑う親たち。


 どれも、特別な写真ではなかった。


 だからこそ、健二は目を離せなかった。


「この映像には、旧第七小学校の子どもたちが映っています」


 老人は言った。


「名前も、顔も、家族も、声も残っています。今は番号で呼ばれている子どもたちの、本当の名前が残っている」


 健二は写真を見た。


 子どもたちは笑っていた。

 国が割れる未来など、誰も知らない顔だった。


「それだけですか」


 直樹が聞いた。


 老人は答えに詰まった。


「……私に分かるのは、それだけです。ただ、評議会はこの映像を探しています。理由は分かりません。けれど、ただの思い出として扱うつもりがないことだけは確かです」


 直樹は鉄箱を見た。


「探してる奴がいる荷物は、だいたい中身以上の意味を持ってる」


「兄ちゃん」


「危険物だ」


 直樹は即答した。


「まだ理由は分からない。でも、持ってるだけで撃たれる類の荷物だ」


 老人の顔が苦しそうに歪んだ。


「届けてほしい相手がいます」


「誰ですか」


 健二が聞いた。


「旧第七小学校の内部にいる職員です。今は、瀬田ハルという名前で働いています。職員番号で呼ばれることも多い」


「本名じゃないんですか」


「分裂後、北側では多くの子どもが名前を変えられました。親との関係を断ち切るためです。家族名は、思想的な依存を生むとされた」


 健二はメガネの奥で目を細めた。


「名前まで取り上げるのかよ」


「名前は、帰る場所ですから」


 老人は言った。


「帰る場所を奪うなら、まず名前を奪うんです」


 健二は言葉を失った。


 直樹は黙っていた。

 ただ、老人の指先を見ている。


 震えていた。


「その瀬田ハルという人に渡せばいいんですね」


「はい」


「その人は信用できるんですか」


「できます」


「理由は」


 老人は一瞬だけ目を伏せた。


「私は、彼女の担任でした」


 公民館の地下に、沈黙が落ちた。


「彼女は、昔の名前をほとんど覚えていません。母親の顔も、父親の声も、学校で何と呼ばれていたのかも、もう曖昧になっているはずです。けれど、この映像を見れば思い出せるかもしれない」


 老人は写真の一枚を健二に渡した。


 そこには、校庭で走る子どもたちが映っていた。


「この映像は、子どもたちに名前を返すものです」


 健二は写真を握った。


 名前も、看板も、帰る場所も、失くなる時は静かだった。


 気づいた時には外されていて、誰も呼ばなくなっている。


「合図は」


 直樹が聞いた。


 老人は、小さく息を吸った。


「こう伝えてください」


 老人は写真の中の校庭を指でなぞった。


「春の運動会を、返しに来た、と」


     *


 公民館を出ると、夕方の空が赤く濁っていた。


 遠くでヘリの音がする。

 国道の方では、燃料配給所に並ぶ車の列が見えた。


 直樹は振り返らずに歩いた。

 健二はその背中を追った。


「おいケン」


「何」


「あの荷物はやめろ」


「でも受けた」


「まだ断れる」


「断ったら、あのじいさんは別の誰かに頼む」


「それでいい」


「よくねえよ」


 直樹が立ち止まった。


「何でだ」


 健二も立ち止まった。


「何でって」


「お前が運ばなくても、誰かが運ぶ。お前が死ぬ理由にはならない」


「死ぬ前提で話すなよ」


「死ぬ場所だ」


 直樹の目は冗談ではなかった。


 健二は、一度だけ空を見た。


 赤い空だった。


 昔は、夕焼けを見ると腹が減った。

 今は、どこかが燃えているのかと思う。


「兄ちゃん」


「何だ」


「俺さ、会社畳んだだろ」


「ああ」


「次に何か運ぶなら、ちゃんと意味のあるものがいいんだよ」


「意味で命は守れない」


「分かってる」


「分かってない」


「分かってるよ」


 健二は兄を見た。


「でも兄ちゃん、意味のない荷物ばっか運んでたら、俺、本当にただの空っぽになる」


 直樹は何も言わなかった。


 風が吹いた。

 砂埃が二人の足元を流れていく。


 しばらくして、直樹が言った。


「一つだけ条件がある」


「何」


「俺の言うことを聞け」


「いつも聞いてるだろ」


「嘘をつくな」


「たまには聞いてる」


「笑ってごまかすな」


 健二は口を閉じた。


 直樹は続けた。


「危ないと思ったら捨てる。無理なら戻る。人命と荷物なら人命を取る。お前が勝手に抱え込んだら、俺が止める」


「分かった」


「本当に分かったか」


「分かったって」


「その顔が信用できない」


「どの顔だよ」


「営業スマイルの準備をしてる顔」


 健二は少し笑った。


「必要だろ。検問通るんだから」


「その笑顔、気持ち悪いからな」


「便利だろ」


「便利な化け物だ」


「兄ちゃんの無表情よりマシ」


 直樹は小さく息を吐いた。


「行くぞ」


「いいのか」


「よくはない」


「じゃあ何で」


 直樹は、健二を見ずに言った。


「お前一人で行かせるよりはマシだ」


     *


 翌朝、二人は出発した。


 荷台には、鉄箱が一つ。

 固定ベルトで二重に縛り、その上に古い工具箱とブルーシートを重ねた。


 外から見れば、ただの廃材運搬にしか見えない。


 健二は運転席に座り、黒縁のメガネを指で押し上げた。

 直樹は助手席で、地図ではなく手書きのメモを見ていた。


「正規ルートは」


「混む。検問が三つ。最後に荷物検査」


「裏道は」


「橋が落ちてる可能性がある」


「可能性?」


「見てないから分からん」


「兄ちゃんでも分からないことあるんだな」


「撃たれたいのか」


「朝から怖いな」


 トラックは、まだ薄暗い町を抜けた。


 シャッターの閉まった商店街。

 配給を待つ人の列。

 壁に貼られた暫定政府のポスター。

 その上から黒いスプレーで書かれた落書き。


 自由は売り物じゃない。

 平等は鎖じゃない。

 日本を返せ。


 どの言葉も、昔なら誰かの主張だった。

 今はただ、剥がれかけた紙と汚れた壁になっている。


 健二は、何度も見た景色のはずなのに、その日は妙に胸が重かった。


 荷台にある鉄箱のせいだと思った。


 中に入っているのは、映像だ。

 ただの映像。


 けれど、その映像には、壊れる前のものが映っている。


 壊れる前の家。

 壊れる前の学校。

 壊れる前の家族。

 壊れる前の日本。


 健二はハンドルを握りながら、ふと思った。


 それを見たら、自分は泣くだろうか。


 会社の看板を外した時でさえ泣かなかったのに、誰かの運動会を見て泣くのだろうか。


「おいケン」


 直樹の声で我に返った。


「前」


 検問が見えた。


 仮設の鉄柵。

 土嚢。

 簡易監視塔。

 白い腕章。

 銃。


 健二はゆっくり速度を落とした。


「兄ちゃん」


「何だ」


「俺、営業スマイルいくわ」


「やめろ。余計に怪しい」


「じゃあ兄ちゃんが笑う?」


「死人が出る」


「だろ」


 トラックが停止した。


 若い警備員が近づいてきた。

 まだ二十代前半に見える。目の下に濃い隈があり、銃の持ち方に慣れていない。


 健二は窓を開けた。


「ご苦労さまです」


 健二は、完璧な営業スマイルを作った。


 助手席で直樹が、心底嫌そうに顔を背けた。


 警備員は書類を受け取った。


「個人運送?」


「はい。今日が初仕事です」


「初仕事で境界線か」


「景気いいでしょう」


「悪い冗談だな」


「よく言われます」


 警備員は書類を見たあと、健二と直樹を見比べた。


「兄弟か」


「はい」


 健二が答えた。


 警備員は、当然のように健二を見た。


「兄の方が運転か」


 健二は一瞬、黙った。


 助手席で直樹が、わずかに口元を動かした。


「俺が兄です」


 直樹が言った。


 警備員は少し驚いた顔をした。


 健二は苦笑いした。


「よく間違えられます」


 直樹は窓の外を見たまま言った。


「おいケン、また老けたな」


「検問中に言うなよ、兄ちゃん」


 警備員は笑わなかった。


 その顔を見て、直樹の表情からわずかな緩みが消えた。


「積み荷は」


「廃材と保管品です」


 健二は、できるだけ自然に答えた。


「保管品?」


「古い学校関係の資料です。北側の管理施設に返却するものです」


 その瞬間、警備員の表情が変わった。


 目が、書類から荷台へ動いた。


 健二は、その変化を見逃さなかった。


 まずい。


 相手は、ただの書類確認ではない。

 学校資料という言葉に反応した。


 警備員は無線機を手に取った。


「教育記録関連の搬入車両。登録番号確認願います」


 無線の向こうで、ざらついた声がした。


『媒体種別を確認。映像、写真、名簿、避難訓練記録があれば押収。旧第七小学校関連なら保安局案件だ』


 健二の背中に汗が流れた。


 直樹の右手が、わずかに動いた。


 警備員は銃に手をかけたまま言った。


「荷台を開けろ」


 健二は笑おうとした。


 けれど、いつもの営業スマイルはうまく出なかった。


「中身、昔の映像ですよ。運動会とか、入学式とか。見ると泣くタイプです?」


 警備員は笑わなかった。


「未登録児童情報媒体の疑いがある」


「家族の映像ですよ」


「児童の旧名、顔貌、家族構成、旧学校名を含む資料は、未登録での移送を禁じられている」


「家族構成って……」


「保護児童の身元情報を混乱させる恐れがある」


 健二は、言葉に詰まった。


 警備員は若かった。

 疲れていて、怖がっていた。


 だが、その口から出てくる言葉は、完全に教え込まれたものだった。


「それ、本気で言ってるのか」


 健二が聞いた。


 警備員の手が震えた。


「黙れ」


「運動会の映像が、そんなに怖いのか」


「黙れ」


「子どもの名前が残ってるのが、そんなにまずいのか」


「黙れ!」


 その声は怒りではなかった。


 悲鳴に近かった。


 健二は気づいた。


 この若い警備員も、たぶん知っているのだ。

 自分たちが何を消しているのかを。


 監視塔から、別の男の声が飛んだ。


「その車を止めろ! 荷台を確認しろ! 記憶媒体を押収しろ!」


 直樹が低く言った。


「ケン。話は終わりだ」


 警備員が一歩下がり、銃を上げようとした。


 直樹が先に動いた。


 助手席のドアを開ける。

 外へ出ると同時に、警備員の銃口を横へずらした。


 折らない。

 殴らない。

 ただ、撃てない角度に変える。


 警備員の指が引き金にかかった。


 乾いた音がした。


 銃弾は健二のトラックではなく、道路脇の標識を弾いた。

 標識が震え、古い錆がぱらぱらと落ちる。


「うわっ!」


 警備員が怯んだ。


 直樹はその隙に、警備員の腕を引き込んだ。

 銃を奪おうとはしない。奪えば、周囲の兵士全員が直樹を撃つ理由を得る。


 だから、直樹は銃を持った腕ごと警備員を土嚢の陰へ押し倒した。


 警備員の背中が土嚢にぶつかる。

 息が漏れる。

 それだけだった。


 殺さない。

 壊さない。

 ただ、数秒だけ動けなくする。


「伏せてろ」


 直樹は低く言った。


 警備員は震えた目で直樹を見た。


 その顔は敵の顔ではなかった。

 命令を信じるしかなかった若い人間の顔だった。


 直樹は一瞬だけ、その目を見た。


 昔、どこかの戦場でも同じ目を見たことがある。


 撃ちたいわけではない。

 でも撃たなければ、自分が撃たれる。


 そういう顔だった。


「おいケン!」


 直樹が叫んだ。


「出せ!」


「兄ちゃんが乗ってからだろ!」


「動かせ! 止まってる方が危ない!」


 健二は歯を食いしばり、ギアを入れた。


 古い二トントラックが大きく震える。

 エンジンが唸り、荷台の鉄箱が小さく鳴った。


 直樹は土嚢の陰から身を低くしたまま、助手席側へ戻った。


 監視塔から怒号が飛ぶ。


「止まれ! 止まれ!」


 別の兵士が銃を向ける。

 だが、直樹は撃ち返さない。


 トラックの車体を壁にするように、前輪の横を抜け、開いたままの助手席ドアへ手を伸ばした。


 健二は車を完全には発進させなかった。

 ブレーキを残しながら、ほんの少しずつ前へ出す。


 止まれば囲まれる。

 出しすぎれば兄を置いていく。


 その中間を、健二は足裏の感覚だけで探った。


「早くしろよ、兄ちゃん!」


「うるさい。お前の運転が下手なんだ」


「今それ言う!?」


 直樹がドアの縁を掴んだ。


 その瞬間、後方で二発目の銃声が鳴った。


 助手席の窓にひびが入る。

 白い線が蜘蛛の巣のように広がった。


 健二の背中に冷たい汗が走る。


「兄ちゃん!」


「前を見ろ!」


 直樹は片足をステップにかけ、身体を車内へ滑り込ませた。

 完全に座る前に、健二はアクセルを踏んだ。


 トラックが前へ跳ねる。


 直樹の身体が助手席に投げ出され、肩がドアにぶつかった。

 それでも直樹は片手でドアを引き寄せ、乱暴に閉めた。


 直後、鉄柵が車体の横をこすった。


 耳障りな金属音が鳴る。

 健二は思わず首をすくめた。


「最悪だ。初仕事で車に傷が入った」


「命が残っただけマシだ」


「兄ちゃんも無事か」


「見て分からんか」


「無事そうな顔じゃねえんだよ」


「元からだ」


 直樹は割れた窓の向こうを見た。


 警備員たちが走っている。

 倒れた若い警備員は、土嚢の横で身体を起こそうとしていた。


 生きている。

 撃たれてもいない。

 骨も折れていない。


 直樹はそれを確認してから、短く言った。


「右へ出ろ」


「道ある?」


「ある」


「兄ちゃんの“ある”は信用ならねえんだよ」


「お前なら通れる」


 健二はハンドルを握り直した。


 前方に見えたのは、道ではなかった。


 崩れた資材置き場。

 傾いたフェンス。

 錆びた鉄骨。

 雑草に埋もれた作業用通路。


 普通の車なら止まる。

 だが、現場で育った健二には分かった。


 通れる。


「掴まれ!」


 健二は叫んだ。


 トラックは、検問所の脇道へ突っ込んだ。


 車体が大きく揺れる。

 荷台で鉄箱が鳴る。

 後ろの四駆が追ってくる。


 健二はハンドルを握りしめたまま叫んだ。


「兄ちゃん、あいつら何であそこまで止めるんだよ! 名前が入った映像だからか?」


「それだけじゃない」


 直樹は割れた助手席の窓から後方を見た。


「無線、聞いたか」


「聞こえたよ! 旧第七小学校がどうとか、保安局案件だとか!」


「そこだ」


「何が?」


「旧第七小学校は、今は教育管理施設だ」


「それはじいさんも言ってた」


「昔は学校だった。なら、映像には何が映る」


 健二は一瞬、言葉に詰まった。


「……運動会とか、入学式とかだろ」


「校舎も映る。体育館も、裏門も、防災倉庫も、避難訓練も、非常階段もな」


 健二の喉が鳴った。


 直樹は続けた。


「子どもの思い出に見える映像が、今の連中から見れば施設の下見映像になる。改造前の校舎、塞いだはずの通路、今の図面から消した避難口。そういうものが映ってる可能性がある」


「……つまり」


「ただの家族映像じゃない」


 直樹は、荷台の方を見た。


「旧名簿で、家族記録で、施設図面で、逃走経路だ」


 健二はハンドルを握る手に力を込めた。


「じいさん、そんなこと言ってなかったぞ」


「知らなかったのかもしれない。知ってて黙ってたのかもしれない」


「どっちだと思う」


「どっちでも同じだ」


 直樹は低く言った。


「この箱は、人を帰すための荷物にもなるし、人を殺す理由にもなる」


 後ろで、追跡車両の一台が鉄骨に突っ込んだ。


 もう一台はまだ追ってくる。


 健二はアクセルを踏み込んだ。


 古いトラックは悲鳴のような音を立て、それでも前へ進んだ。


 荷台の鉄箱が、また小さく鳴った。


 その中には、分裂前の日本が入っている。


 運動会の歓声。

 食卓の湯気。

 父親の笑い声。

 母親の小言。

 子どもの泣き声。

 兄弟げんか。

 誰かの「ただいま」。


 そして、名前を奪われた子どもたちの本当の名前。

 学校がまだ学校だった頃の姿。

 帰れなくなった人たちの、帰り道。


 国が二つに割れても、映像の中の人間たちは、まだ同じ食卓に座っていた。


 健二はハンドルを握り直した。


「届けるぞ」


 直樹が前を見たまま答えた。


「ああ」


 そして少しだけ間を置いて、言った。


「帰すぞ」




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