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第八十話 行くな

## 第八十話 行くな


 朝は、何も知らない顔で来る。


 夜に黒い車が来ても。


 名前を持たない若い男が入口に立っても。


 来訪記録に、名前未確認、と書かれても。


 朝は、いつも通りに来る。


 京都の後方支援拠点では、湯が沸いていた。


 洗濯機が回る。


 水の箱が運ばれる。


 医療品の棚が開けられる。


 夜間担当の職員が、眠そうな目で記録を引き継ぐ。


 子どもの靴が、棚の上で乾いている。


 内側に縫われた小さな名前は、外からは見えない。


 けれど、履く子には分かる。


 宮崎めぐみは、その棚の前で少しだけ足を止めた。


 名前の糸が、まだ少し湿っている。


 指で触れない。


 乾く前に触ると、糸がよれる。


 名前は、急いで触ると形が崩れる。


 めぐみは、少し離れたところから見た。


「……うん」


 小さく頷く。


 それだけだった。


 末安えりは、裏口の方から戻ってきた。


 手には携帯灰皿。


 口にはミント。


 煙草の匂いは薄まっていたが、消えてはいない。


 えりはそれを気にして、子どもの部屋には近づかなかった。


「寝た?」


 めぐみは首を横に振った。


「……少しだけ」


「それ、寝てないって言うの」


「……そっか」


「そっか、じゃないのよ。睡眠にもスピードいるから。落ちる時は一気に落ちる。だらだら起きるのが一番コスパ悪い」


「えりさんは、寝るのも速いもんね」


「得意。起きるのも速い。怒るのも速い」


「……うん。知ってる」


 えりは煙草の箱を指で弾いた。


「昨日の黒手袋、また来るよ」


「……うん」


「今度は、名前の確認じゃ済まないかもしれない」


「……うん」


「分かってる?」


「分かってるよ」


 めぐみの声は、低く、やわらかかった。


 それでも、えりは目を細めた。


「その声、分かってる人の声じゃないね」


「……そうかな」


「分かってるけど、怖がる場所を後回しにしてる人の声」


 めぐみは答えなかった。


 えりは、こういう時だけ余計なことを言わない。


 速く動く人間ほど、止まるべき時を知っている。


 えりは廊下の奥を見た。


「午前中、三十分だけ空ける。寝るか、描くか、どっちかにしな」


「仕事が」


「仕事は回す。私がいる」


「……えりさん、薬の棚は分からないでしょ」


「分からないものは、分からないって書く。昨日あんたが言ってた」


 めぐみは少しだけ笑った。


「……覚えてたんだ」


「タイトルと目次だけで内容分かる女だからね」


「それ、分かってないことも多いよ」


「細かい。スピードが落ちる」


 えりは手を振った。


「三十分。アトリエ行きな」


「……うん。ありがとう」


「褒めてない」


「知ってる」


 めぐみは、古い倉庫を使った小さな部屋に入った。


 アトリエ、と呼ばれている部屋だった。


 けれど、立派なものではない。


 棚には、色鉛筆。


 端の丸くなった鉛筆。


 子どもたちの描きかけの画用紙。


 使いかけのスケッチブック。


 支援物資の箱から抜いた緩衝紙。


 描けるものなら、何でも置いてある。


 窓は小さい。


 午前の光が、四角く床に落ちていた。


 めぐみは椅子に座り、スケッチブックを開いた。


 白い紙を見る。


 しばらく、何も描かなかった。


 描きたいものは、最初から決まっていた。


 決まっている時ほど、手はすぐには動かない。


 心の中で、もう何度も見てしまっているからだ。


 鉛筆を持つ。


 紙の上に、最初の線を置く。


 地面。


 少し盛り上がった根。


 太い幹。


 そこから枝が広がる。


 大きな楠だった。


 見上げると、空の半分くらいが葉で埋まってしまう木だった。


 夏でも、その下だけは少し涼しかった。


 風が通るたびに、葉の裏が白く返る。


 遠くで蝉が鳴いていても、木の下だけは、声が少しやわらかくなる。


 めぐみは、その影を描いた。


 楠の影は、きれいな円ではない。


 葉の隙間から光が落ちて、丸くなったり、ちぎれたりする。


 そのまだらの光の下に、二人を置く。


 男の子と、女の子。


 けれど、もう子どもだけでもない。


 大人でもない。


 中途半端に手足だけ伸びて、心だけ少し置いていかれたみたいな、あの頃のふたり。


 なおは、少しだけ大きく描いた。


 肩はまだ完成していない。


 身体つきも男になりきれていない。


 それでも、黙っていると妙に遠くを見る目をしていた。


 少しだけ浅く座る癖がある。


 すぐ立てるように、膝を引く癖がある。


 平気な顔をしているのに、手だけ冷たい日があった。


 めぐみは、その手を描くところで、少し止まった。


 自分の手と、なおの手。


 きちんと握る、ではない。


 指を絡める、でもない。


 ただ、眠る前に、なんとなく触れていた手。


 離れていないことだけが分かるくらいの、頼りないつなぎ方。


 それが、あの頃のふたりには似合っていた。


 めぐみは、そっと鉛筆を動かした。


 なおは木にもたれるように座っている。


 目を閉じている。


 隣の自分も、目を閉じている。


 頭が少しだけなおの肩に寄っている。


 でも、寄りかかりきってはいない。


 遠慮が残っている。


 まだ、自分の全部を預けてしまうほど大人ではなかった。


 好きだと言い切ってしまうほど、強くもなかった。


 ただ、一緒にいると眠くなる午後があった。


 その普通が、ずっと続くと思っていた。


 それだけだった。


 めぐみは、鉛筆を寝かせて、木陰を少し濃くした。


 紙の上の自分は、今よりも少し髪が短い。


 なおは、笑ってはいない。


 でも、不機嫌でもない。


 眠る直前の、あの少し気の抜けた顔をしている。


 たぶん、あの人がいちばん子どもだったのは、眠る前だった。


 起きている間は、平気なふりをする。


 少し強いふりをする。


 寒くても寒くないと言う。


 重くても持てると言う。


 痛くても平気だと言う。


 でも、眠くなると、それが少しだけほどける。


 肩の力が落ちる。


 眉間の固さが消える。


 誰にも見せたくない顔を、無防備に置いてしまう。


 めぐみは、その顔を何度か見ていた。


 だから、描けた。


「……へただなぁ」


 小さく言って、少しだけ笑った。


 ほんとうは、へたではなかった。


 描けすぎてしまうから、困っているのだ。


 葉の影も。


 指の間も。


 昼寝のぬるい空気も。


 あの時の幸福の、どうしようもない頼りなさも。


 思い出せてしまう。


 あの頃のふたりは、恋人というには幼すぎた。


 友達というには、近すぎた。


 家族になるには、まだ何も知らなすぎた。


 大きな子どもだった。


 傷を上手く隠せないくせに、隠したつもりでいた。


 寂しいことを、言葉にできなかった。


 手をつないで昼寝をして、それで全部分かった気になっていた。


 でも、あの時間だけは、たしかに幸せだった。


 めぐみは、なおのシャツの皺を一本描き足した。


 次に、自分の服の端に落ちた木漏れ日を描いた。


 白い紙の上で、ふたりだけ時間が止まっている。


 ここでは、まだ何も壊れていない。


 誰も名前を消されていない。


 遠くへ行っていない。


 大人の事情も。


 記録も。


 分類も。


 処理もない。


 あるのは、夏の午後と、楠の匂いと、つないだ手だけだった。


 扉の外で、小さな足音がした。


 子どもではない。


 職員の足音だ。


 めぐみは、少しだけ顔を上げた。


 けれど、まだスケッチブックを閉じなかった。


 もう少しだけ、この絵の前にいたかった。


 紙の上の自分は、安心しきった顔で眠っている。


 そんな顔をしていたのかは分からない。


 でも、なおの隣では、たぶんしていた。


 なおも、完全には眠っていない。


 半分だけ眠って、半分だけ起きている顔だった。


 何かあれば、すぐ立ち上がりそうな顔。


 それでも、その日は立ち上がらなくてよかった。


 誰も来なかった。


 呼ばれなかった。


 急がなくてよかった。


 それが、どれほど珍しい幸せだったのか。


 あの頃のふたりは、知らなかった。


 扉が、軽く二回叩かれた。


「宮崎さん」


 若い職員の声だった。


 めぐみは、目を絵から離さないまま返事をした。


「……うん」


「お薬の確認、終わりました」


「……そっか。ありがと」


「次の移送の紙も来ています」


「……いま、行くね」


 そう言ってからも、すぐには立たなかった。


 めぐみはスケッチブックの上の絵を見た。


 楠の木。


 手をつないだふたり。


 眠っている午後。


 まだ大人になりきれていない、大きな子どもふたり。


 その絵の端に、めぐみは小さく日付を書こうとして、やめた。


 日付を書くと、記録になる。


 これは記録ではなかった。


 消えたものを数えるための紙ではない。


 まだ胸の奥で生きているものに、触れるための紙だった。


 代わりに、木陰をもう少しだけ濃くした。


 なおの指先と、自分の指先が、ちゃんと離れていないと分かるくらいに。


「……またね」


 誰に言ったのか、自分でも分からないまま、めぐみはそう言った。


 それからスケッチブックを閉じた。


 紙の中の午後も、木陰も、つないだ手も、その中へ静かにしまわれる。


 立ち上がる。


 外には薬がある。


 靴がある。


 名前がある。


 呼ばなければならない人たちがいる。


 それでも、あの楠の下のふたりは、閉じた紙の中で眠ったままだった。


 何も知らずに。


 何も失う前のままで。


 同じ頃、黒瀬了は車の中で、夜間接触の報告を読んでいた。


 紙ではない。


 端末の画面だった。


 だが、書かれている内容は、紙より重かった。


 夜間入口接触。


 生活環境調整班。


 三号。


 宮崎めぐみ。


 末安えり。


 名前未確認。


 三号と申告。


 記入不可。


 拠点内侵入なし。


 怪我なし。


 帰還確認。


 黒瀬は、画面をしばらく見ていた。


 名前未確認。


 空白にしていない。


 不明とも書いていない。


 名前なし、とも書いていない。


 未確認。


 まだ探している。


 まだ消していない。


 宮崎めぐみらしい記録だった。


 黒瀬は、次に末安えりの欄を見た。


 元警察。


 組織犯罪対策。


 暴力団対応歴。


 現場制圧経験。


 速度依存傾向。


 ニコチン常用。


 黒瀬は眉を動かさなかった。


 ただ、短く息を吐いた。


「京都は、思ったより硬いな」


 助手席のジンが、窓の外を見たまま言った。


「京都か」


 黒瀬は答えなかった。


「窓口か」


 黒瀬は画面を消した。


「お前には関係ない」


「ある」


「ない」


「黒い手袋か」


 黒瀬は、そこで初めてジンを見た。


 ジンの目は、窓の外に向いたままだった。


 だが、見ているのは外ではない。


 音のない場所を見ている目だった。


「誰から聞いた」


「顔に出た」


「俺の顔にか」


「お前の沈黙にだ」


 黒瀬は端末をポケットに入れた。


「行くな」


 ジンは、ゆっくり顔を向けた。


「まだ何も言ってない」


「言う前に止めている」


「子どもがいる」


「だからだ」


「靴がある」


「だからだ」


「名前がある」


「だからだ」


 ジンは黙った。


 黒瀬は、短く続けた。


「今のお前を京都へ戻せば、守りに行く顔ではなくなる」


「俺は撃たない」


「昨日もそう言った」


「撃っていない」


「壊してもいない、とも言った」


「壊していない」


「今はな」


 ジンの指が、膝の上でわずかに動いた。


 そこには、薄い封筒があった。


 黒瀬から渡された写し。


 まだ開けていない。


 開けるなと言われた封筒。


 持っているだけでいい、と言われた紙。


 ジンはそれを見なかった。


「三号か」


 黒瀬は答えなかった。


「央か」


「今、その名前を使うな」


 ジンの目が、ほんの少しだけ冷えた。


 怒りではない。


 確認だった。


「生きているんだな」


「紙の上では、未確認だ」


「現場には来た」


「だから未確認だ」


「消えてない」


「消えていない名前が、人を救うとは限らない」


 ジンは黙った。


 黒瀬はエンジンをかけないまま、ハンドルに片手を置いた。


「京都は、名前を戻す場所だ」


「分かってる」


「分かっていない」


「分かってる」


「なら行くな」


 その言葉だけ、黒瀬は少し低く言った。


 ジンは窓の外を見た。


 車の外には、朝の道路がある。


 人が歩いている。


 自転車が通る。


 コンビニの前で、配達車が止まっている。


 どれも普通だった。


 普通の中に、黒い車は混ざる。


 白い作業服も混ざる。


 黒い手袋も混ざる。


 子どもの靴も混ざる。


 見ただけでは、区別がつかない。


「放っておけと言うのか」


「違う」


「なら」


「離れろ」


 ジンは黒瀬を見た。


「守りたいなら、窓口から離れろ」


 黒瀬は端末を取り出し、別の地図を開いた。


「京都に来た車の元を追う。生活環境調整班の供給線を切る。山口へ伸びている線を先に見る」


「京都は」


「京都には、宮崎と末安がいる」


「誰だ」


「窓口と、防御だ」


「足りるのか」


「今は足りる」


 ジンは、その言葉を嫌った。


 今は。


 エレーナが嫌う言葉。


 黒瀬も嫌っているはずの言葉。


 それでも、その言葉しか使えない時がある。


「俺が行けば」


「三号を撃つ」


「撃たない」


「なら壊す」


「壊さない」


「お前は、壊す前にそう言う」


 同じ言葉だった。


 倉庫で言われた言葉。


 ジンは口を閉じた。


 黒瀬は、さらに言った。


「お前が京都へ戻れば、あの場所に処理を持ち込む」


「俺は処理じゃない」


「今は、処理に戻る手前だ」


 車内が静かになった。


 黒瀬は、無線を入れた。


 短い呼出音のあと、エレーナの声が入った。


「はい」


「聞いていたか」


「一部だけ」


「言え」


 無線の向こうで、紙が動く音がした。


 エレーナは、少し間を置いてから言った。


「名前を戻す場所に、処理する人間を入れてはいけません」


 ジンは何も言わなかった。


 エレーナは続けた。


「これは、あなたを責めているのではありません」


「同じだ」


「違います」


 エレーナの声は静かだった。


「あなたは、今、戻ろうとしている人間ではありません。戻す場所を守るために、壊す側へ戻りかけている人間です」


 ジンは膝の封筒を見た。


 薄い。


 軽い。


 だが、重い。


「子どもがいる」


「ええ」


「名前がある」


「ええ」


「黒い手袋が来た」


「ええ」


「なら止める」


「止める場所を間違えないでください」


 ジンは無線を見た。


 無線の向こうに、エレーナの顔はない。


 あるのは声だけだった。


 それでも、エレーナは見ているように言った。


「あなたがそこへ行けば、誰かがあなたを止めなければならなくなります」


「止めればいい」


「止める人を、あなたは壊します」


 黒瀬は黙っていた。


 ジンも黙った。


 エレーナは、最後に言った。


「あなたが本当に守りたいなら、今は離れてください」


 通信が切れた。


 ジンは、しばらく封筒を見ていた。


 黒瀬は待った。


 急がせない。


 急がせれば、ジンは決断ではなく反応で動く。


 反応で動いたジンは、速い。


 速すぎる。


 そして、戻れない。


 ジンが言った。


「山口の線か」


「そうだ」


「黒い車の元」


「そうだ」


「生活環境調整班」


「そうだ」


「三号は」


「今は追うな」


「名前は残ってる」


「だから追うな」


 ジンは、ゆっくり息を吐いた。


「名前が残っているなら、拾える」


「拾う手を間違えれば、千切れる」


 黒瀬はエンジンをかけた。


「お前は、今、拾う手じゃない」


 ジンは反論しなかった。


 車が動き出す。


 京都へ戻る道は、右にあった。


 標識が流れる。


 黒瀬の車は、左へ曲がった。


 ジンは振り返らなかった。


 膝の上には、薄い封筒がある。


 まだ開けていない。


 開ければ、何かが分かるかもしれない。


 分かってしまえば、何かが動くかもしれない。


 だから、開けない。


 車は京都から少しずつ離れていく。


 それは逃げることではなかった。


 少なくとも、黒瀬はそう判断していた。


 だが、ジンにはまだ分からなかった。


 離れることで守れるものがある。


 近づくことで壊すものがある。


 その区別は、戦場では単純だった。


 近づく。


 制圧する。


 止める。


 回収する。


 離脱する。


 だが、名前のある場所では違う。


 名前は、制圧できない。


 回収もできない。


 呼ぶ人を間違えれば、戻らない。


 ジンは、その言葉を知らなかった。


 けれど、京都の窓口にいる誰かは、たぶん知っている。


 そう思った瞬間、胸の奥で何かが動いた。


 ジンは封筒から手を離した。


 黒瀬が横目で見る。


「開けるな」


「分かってる」


「分かってない手だった」


「触っただけだ」


「今のお前は、触る前にそう言う」


 ジンは黙った。


 車は高速へ向かう。


 山口へ伸びる線。


 黒い車の元。


 白い作業服の供給先。


 外箱記号。


 通路。


 名前を消す側の道。


 そこへ行く。


 京都では、めぐみが移送の紙を確認していた。


 朝に閉じたスケッチブックは、アトリエの棚に置かれている。


 楠の木。


 手をつないだふたり。


 眠っている午後。


 まだ大人になりきれていない、大きな子どもふたり。


 めぐみは、その絵を誰にも見せなかった。


 えりにも見せなかった。


 見せれば、えりはたぶん何も言わない。


 何も言わずに煙草を一本増やす。


 それが分かっているから、見せなかった。


 廊下で、子どもが名前を呼ばれて振り向いた。


 めぐみは、その声に目を向ける。


 ちゃんと振り向いた。


 その子は、戻ってきている。


 今は。


 めぐみは鉛筆を持った。


 夜間担当表の下に、もう一行書き足す。


 呼ぶ時は、急がない。


 その文字を見て、少しだけ止まる。


 なお。


 その名前は、まだ書かない。


 呼ばない。


 でも、消さない。


 閉じたスケッチブックの中で、楠の影がふたりを覆っている。


 あの午後だけは、まだ失われていない。


 少なくとも、紙の中では。


 黒崎は、白い机の前で報告を見ていた。


 京都窓口、再接触なし。


 生活環境調整班、帰還。


 黒瀬了、京都方面から離脱。


 福岡仁、同行。


 黒崎は、福岡仁の名前を見た。


 次に、真柴直樹の名前を見る。


 二つの名前は、まだ紙の上で完全には重ならない。


 だが、離れてもいない。


 黒崎は赤ペンを持った。


 書きかけて、止める。


 名前の逃走。


 そう書こうとして、やめた。


 違う。


 紙の上で、何かがずれている。


 逃げているのではない。


 消しているのでもない。


 分けている。


 黒崎は、その言葉をまだ書かなかった。


 書けば、紙の上でそれが形になる。


 形になれば、追える。


 追えるようになれば、壊せる。


 だが、まだ足りない。


 黒崎は、赤ペンを置いた。


 代わりに黒で、小さく書いた。


 再照合。


 その下に、もう一行。


 宮崎めぐみ。


 関連保留。


 赤ではない。


 黒でもない。


 黒崎の机には、青い印はなかった。


 だから保留も、冷たく見えた。


 京都の空は、午後にかけて少し白く曇った。


 めぐみは、拠点の入口に水の箱を運ぶ職員を見ながら、声をかけた。


「……ゆっくりでいいよ」


「でも、急ぎです」


「……うん。急いで。でも、走らないでね」


 職員は頷いた。


 歩いて行く。


 急いで。


 走らずに。


 めぐみはその背中を見送った。


 机の上には、名簿がある。


 薬の確認がある。


 移送の紙がある。


 夜間記録がある。


 名前未確認。


 三号と申告。


 記入不可。


 消さない。


 その横に、折れた鉛筆が置かれている。


 短い線なら、まだ引ける。


 めぐみはそれを手に取った。


 紙の端に、小さく青い印をつける。


 保留。


 確認。


 消さない。


 その印は、誰かを救うものではない。


 ただ、消さないための印だった。


 それでも、消さなければ、いつか呼べる日が来るかもしれない。


 なお。


 その名前は、まだ胸の奥にある。


 声にはしない。


 紙にも置かない。


 でも、あの楠の下で眠るふたりの指先は、まだ離れていなかった。


 遠くで、黒瀬の車は京都から離れていく。


 ジンは、窓の外を見ていた。


 京都へ戻る標識は、もう後ろに流れていた。


 封筒は、膝の上にある。


 まだ開けていない。


 黒瀬が言った。


「行くな」


 ジンは答えなかった。


 行かない、とは言わなかった。


 行く、とも言わなかった。


 ただ、封筒に手を置かず、窓の外を見続けた。


 その沈黙を、黒瀬は今だけ許した。


 車は、名前を消す線の方へ走っていく。


 京都では、名前を戻す場所が、午後の仕事に戻っていた。


 楠の下のふたりは、まだ眠っていた。


 何も知らないまま。


 何も失う前のまま。


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