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第七十九話 呼ぶ人を間違えない 改正版

## 第七十九話 呼ぶ人を間違えない


 夜の拠点では、音を小さくする。


 扉を閉める音。


 椅子を引く音。


 水の箱を置く音。


 子どもの名前を呼ぶ声。


 どれも、大きすぎると誰かが起きる。


 小さすぎると、誰かが不安になる。


 宮崎めぐみは、夜間担当表の端に鉛筆を走らせていた。


 呼ぶ人を間違えない。


 そう書いて、少しだけ手を止める。


 夜に泣く子どもは、名前を呼ばれれば落ち着くとは限らない。


 声が違えば、逆に泣く。


 呼ぶ順番を間違えれば、戻ってこない。


 名前は、正しければいいものではない。


 誰が、どの距離で、どんな声で呼ぶか。


 それで、名前は薬にも刃物にもなる。


 めぐみは、鉛筆を置いた。


 外で、車の音がした。


 珍しい音ではない。


 この拠点には、夜でも車が来る。


 水。


 薬。


 移送。


 支援物資。


 職員の交代。


 泣き止まない子を、別の部屋へ移すこともある。


 だから、車の音だけで走ってはいけない。


 走ると、誰かが不安になる。


 若い職員が、洗濯物の籠を持ったまま振り返った。


「宮崎さん」


 めぐみは、声を低くした。


「……うん。中の子、起こさないでね」


「車ですか」


「……たぶん。確認するね」


「警備を呼びますか」


「えりさんを」


 職員の顔が、少しだけ引き締まった。


「分かりました」


「声は低くね。走らなくていいよ」


 職員は頷いた。


 頷いてから、小走りになりかける。


 めぐみは首を横に振った。


「……歩いて。急ごう」


 職員は足を止めた。


 それから、歩いた。


 急いで。


 走らずに。


 廊下の明かりは、落としすぎない。


 明るすぎると、眠っている子が起きる。


 暗すぎると、目を覚ました子が、自分のいる場所を間違える。


 夜の明かりには、ちょうどいい弱さが必要だった。


 右手の部屋では、子どもが三人眠っている。


 左手の部屋では、夜間担当の職員が記録をつけている。


 奥の棚には、名前を縫った靴が並んでいた。


 乾いた靴。


 まだ乾いていない靴。


 内側のタグだけが、少し湿っている靴。


 めぐみは、その棚の前を通る時、足を止めなかった。


 守りたいものを見ると、足が止まる。


 止まると、守れない時がある。


 玄関の手前で、末安えりが煙草を消していた。


 吸っていた場所は、外ではない。


 換気扇の真下だった。


 古い業務用換気扇が低く鳴っている。


 その下に、小さな携帯灰皿。


 えりは、吸い殻をそこへ押し込んだ。


 指の動きが速い。


 無駄がない。


 立ち上がるのも速かった。


 歩く時も、速い。


 話す前に相手の逃げ道を見る癖がある。


 元警察。


 マル暴。


 今は、肩書きのない女。


 めぐみの昔からの親友。


 速度とニコチンで身体を動かしているような人だった。


 えりは、ポケットから薄いミントを出して口に放り込んだ。


「黒い車。ライト弱い。荷物じゃない。まともな来客でもない。はい、目次だけでだいたい読めた」


 めぐみは小さく頷いた。


「……人数は?」


「車内に二。降りたのは一」


「武器は?」


「見えない。見せない持ち方。面倒なやつ」


「……そっか」


「そっか、じゃないでしょ。スピード足りてる? こっちで先に潰す?」


「まず、私が聞くね」


「危なかったら?」


「止めて」


「どのくらい」


 めぐみは少しだけ考えた。


「……壊さないくらい」


 えりは口の端だけで笑った。


「注文が細かいのよ、めぐちゃん」


「……いつもありがと」


「褒めてない」


「うん。知ってる」


「でも、分かった。壊さない。たぶん」


「たぶん、は怖いかな」


「努力目標」


 玄関の外に、白い作業服の若い男が立っていた。


 黒い手袋。


 胸元に、小さな数字。


 三。


 夜の灯りの中で、その数字だけが妙にはっきり見えた。


 男は、拠点の中を見ていなかった。


 見るべきではないと教えられている目だった。


 玄関の横。


 水の箱。


 掲示板。


 搬入口。


 廊下の奥。


 それらを、短く確認している。


 人を見るのではなく、場所を見る目だった。


 めぐみは扉を少し開けた。


 開けすぎない。


 閉めすぎない。


 声だけが届く幅。


「……こんばんは」


 男は答えた。


「確認です」


「……どちらの確認かな」


「生活環境調整班」


 声は平らだった。


 若い声だった。


 だが、若さより先に、平らさが来る。


 めぐみは、胸元の数字を見た。


 三。


 紙の上で見た番号。


 エレーナから回ってきた名前。


 犬塚央。


 めぐみは、その名前を呼ばなかった。


「……お名前、聞いてもいい?」


 男は少しだけ止まった。


 ほんのわずかだった。


 でも、めぐみには見えた。


 止まったのは顔ではない。


 指だった。


 黒い手袋の中で、指が少しだけ固まった。


「三号です」


 めぐみは、すぐには返さなかった。


 相手の言葉を、いったん受け取る。


 その上で、静かに返す。


「……うん。でも、それは名前じゃないね」


「三号で十分です」


「……そっか」


 めぐみは、扉の向こうの男を見た。


 正面から長く見ない。


 長く見られると、人は逃げる。


 逃げない人は、壊れる。


「十分かどうかは、こちらでは決められないかな」


 男は答えない。


 えりの気配が、めぐみの斜め後ろで少し低くなる。


 めぐみは、声の高さを変えなかった。


「ここでは、名前を確認してから入ってもらうんだよ」


「入る必要はありません」


「……うん。じゃあ、入口で確認するね」


「周辺確認です」


「誰の指示かな」


「生活環境調整班」


「担当者名は?」


「三号です」


 会話が同じ場所へ戻る。


 戻る会話は危ない。


 人が逃げている時か、命令だけで動いている時に起きる。


 めぐみは、男の足を見なかった。


 足を見れば、別の名前を思い出しそうだった。


 真柴直樹。


 書類にあった名前。


 でも、彼女の中にあるのは、その書類の男ではない。


 兵士でもない。


 経歴でもない。


 寒い時ほど平気な顔をした男の子。


 もう男性になっているはずの、なお。


 そこへ今、触れてはいけない。


 めぐみは、目の前の男に意識を戻した。


 黒い手袋。


 何かを掴むための手。


 何かを隠すための手。


 何かに触れないための手。


「……手袋、外せる?」


 男の指が動いた。


「必要ありません」


「ここでは、子どもの靴にも触れるから」


「触りません」


「水の箱には?」


「触りません」


「……じゃあ、何を確認しに来たのかな」


 男は黙った。


 黙ったまま、廊下の奥を見た。


 その一瞬だけ、めぐみは扉を閉めかけた。


 えりが前に出る。


 速かった。


 靴音が遅れて聞こえるくらいだった。


 男の右手がわずかに動いた。


 攻撃の動きではない。


 だが、何かを取り出す前の動きだった。


 次の瞬間、黒い手袋の手は、扉の枠に届く前に止まっていた。


 えりが手首を押さえている。


 男の身体は壁際に寄せられていた。


 肩。


 肘。


 手首。


 どこにも力を溜めさせない押さえ方だった。


 強くは見えない。


 だが、動けない。


「えりさん」


「ちょっと挨拶。スピードが足りない子だったから」


「……強くしないでね」


「してない。これ、親切価格」


「痛くはしてるよね」


「痛いくらいで済ませてる。先輩としての義務」


 男は顔を伏せていた。


 声は出さない。


 抵抗もしない。


 痛がる様子もない。


 痛みを出すことを、許されていない人間の静けさだった。


 めぐみは、一歩だけ近づいた。


「……怪我は?」


 男は答えなかった。


 えりが言った。


「ない。まだね」


「……まだ、はいらないかな」


「はいはい」


 えりは少しだけ力を緩めた。


 それでも、男は動けなかった。


 めぐみは、玄関横に置いている来訪記録を取った。


 夜間用。


 水濡れしても読めるように、厚い紙を使っている。


 名前。


 所属。


 目的。


 確認者。


 めぐみは、名前の欄に何も書かなかった。


 空白にはしない。


 空白は消えたように見える。


 彼女は、ゆっくり書いた。


 名前未確認。


 その横に、小さく括弧をつける。


 三号と申告。


 男の肩が、わずかに揺れた。


 めぐみはそれを見た。


 見たが、何も言わなかった。


 犬塚央。


 その名前は、喉の奥にあった。


 だが、呼ばない。


 今ここで呼べば、たぶん反応する。


 反応すれば、戻るかもしれない。


 でも、戻る場所がここでいいとは限らない。


 名前を返すことと、人を戻すことは同じではない。


 えりが言った。


「どうする、めぐちゃん」


「……中には入れない」


「帰す?」


「確認してから」


「黒瀬?」


「うん」


「黒瀬も面倒な男だね。タイトルと目次だけで読むと、絶対に長編タイプ」


「えりほどじゃないよ」


「私は短編。分かりやすいでしょ」


「……うん。雑だからね」


 えりは鼻で笑った。


 その軽いやり取りの間も、男の手首は逃がしていない。


 めぐみは小さな無線を取った。


 夜間用の短い回線。


 黒瀬につながるまで、数秒かかった。


 その数秒の間に、奥の部屋で子どもが声を上げた。


 泣き声ではない。


 眠りの中で誰かを探す声だった。


 若い職員が廊下に出ようとする。


 めぐみは手で止めた。


 そして、低く言った。


「……高橋さんで」


 職員は頷いた。


 その子を眠らせられる声の名前だった。


 高橋という職員が、部屋へ入る。


 急がない声で名前を呼ぶ。


 子どもの声は、少しずつ小さくなった。


 男は、その音を聞いていた。


 顔は伏せたまま。


 黒い手袋の指だけが、また少し固まっている。


 めぐみは、無線に向かって言った。


「宮崎です。夜間入口に、生活環境調整班を名乗る人が一名。白い作業服、黒い手袋、胸元に三」


 黒瀬の声が返った。


「接触したのか」


「入口で止めています」


「中に入れたか」


「入れていません」


「怪我は」


 めぐみは、えりを見た。


 えりは肩をすくめた。


「……ありません」


「名前は」


「本人申告は三号。名前は未確認です」


 無線の向こうで、わずかな沈黙があった。


「呼んでいないな」


「……はい」


「呼ぶな」


「分かっています」


「そこで拘束すると、線が切れる」


 めぐみは、静かに息を吸った。


「ここには子どもがいます」


「だから切るな」


 黒瀬の声は冷たかった。


 だが、意味は分かる。


 ここで大きく止めれば、別の形で来る。


 別の名前で来る。


 別の車で来る。


 別の夜に来る。


 見える線を、見えない線にしてはいけない。


 めぐみは、目を伏せた。


「……帰します」


「記録は」


「残します」


「十分だ」


「……十分では、ないです」


 黒瀬は黙った。


 めぐみは続けた。


「でも、今できるのは……そこまでです」


「そうだ」


 通信は切れた。


 めぐみは、記録紙を一枚めくった。


 男の前に置く。


「……ここに、所属を書いてください」


 男は動かなかった。


 えりが手を少し緩める。


 男は、黒い手袋のままペンを持った。


 字は硬かった。


 生活環境調整班。


 それだけを書く。


「……担当者名も」


 男は書かない。


 めぐみは言った。


「書けない時は、書けない、でいいよ」


 男は、ペンを持ったまま止まる。


 黒い手袋の指が、ペン軸を強く掴む。


 めぐみは待った。


 急がせない。


 名前を失った人間に急がせると、命令に戻る。


 男は、紙に短く書いた。


 記入不可。


 めぐみは頷いた。


「……うん。分かりました」


 男は顔を上げた。


 初めて、めぐみの方を見た。


 若い顔だった。


 目の奥に疲れがある。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 もっと乾いたものだった。


 長く名前を呼ばれていない人間の目。


 めぐみは、犬塚央と呼びそうになった。


 呼ばなかった。


 代わりに言った。


「……今夜は、ここまでだよ」


 男は何も答えない。


「次に来る時は、事前連絡をください」


「必要ありません」


「……ここでは、必要です」


 男は、紙を見た。


 名前未確認。


 三号と申告。


 記入不可。


 それらの文字を見ていた。


「消さないんですか」


 初めて、男の声に少しだけ揺れが出た。


 めぐみは答えた。


「……消さないよ」


「名前がないのに」


「ない、とは書いてないから」


 男は黙った。


 めぐみは紙を指で押さえた。


「未確認。……まだ、確認している途中です」


 男の喉が動いた。


 何かを飲み込んだように見えた。


 えりが男の手を離す。


 男は手首を押さえなかった。


 痛みを確かめる動きもしない。


 そのまま一歩下がった。


 めぐみは言った。


「帰り道、車に乗るまで振り返らないでね」


 男は、わずかに顔を上げた。


「なぜですか」


「こちらの子が、窓から見るかもしれないから」


「それが」


「目が合うと、覚えます」


 男は答えなかった。


「覚えられたくないなら、振り返らないで」


 男は少しだけ沈黙した。


 それから、背を向けた。


 振り返らずに歩いた。


 黒い車のドアが開く。


 閉まる。


 ライトは強くならなかった。


 車は、来た時と同じように、静かに細い道を出て行った。


 めぐみは、扉を閉めた。


 鍵はかけない。


 この拠点では、夜にも戻ってくる人がいる。


 ただ、内側の掛け金だけを下ろす。


 強く閉じすぎない。


 弱く開けすぎない。


 えりがポケットを探った。


「吸っていい?」


「……外でね」


「分かってる」


「玄関前じゃなくて、裏」


「分かってるって」


「吸い殻は」


「携帯灰皿。何年言ってんの」


「何年でも言うよ」


 えりは笑った。


 疲れた笑いだった。


「よかったの」


「よくはないかな」


「あたしは早いよ?」


「……うん。だから、追わないで」


「黒瀬は追う」


「黒瀬さんは、それが仕事だから」


「私たちは?」


 めぐみは、棚の上の靴を見た。


 内側に名前が縫われた靴。


 乾ききっていない靴。


 明日の朝、誰かが履く靴。


「ここを見る」


 えりは、少しだけ黙った。


 それから、煙草の箱を指で弾いた。


「ほんと、あんたは遅い」


「……うん」


「褒めてる」


「そうは聞こえないかな」


「私が速すぎるだけ」


「……知ってる。昔から」


 その言葉に、めぐみの手が少し止まった。


 昔。


 それは危ない言葉だった。


 昔には、なおがいる。


 兵士ではない。


 資料の中の危険人物でもない。


 真柴直樹という字でもない。


 ただ、少し寒そうに笑う男の子がいる。


 もう男性になっているはずの人がいる。


 めぐみは、そこへ行かなかった。


 今は夜間記録がある。


 扉がある。


 靴がある。


 眠っている子どもがいる。


 えりは、めぐみの顔を見た。


「またその顔」


「……どんな顔?」


「呼びたい名前を飲み込んだ顔」


 めぐみは答えなかった。


 えりはそれ以上聞かなかった。


 親友は、聞くことより、聞かないことの方が必要な時を知っている。


 めぐみは、記録紙を持って机に戻った。


 名前未確認。


 三号と申告。


 記入不可。


 消さない。


 紙の端に、小さく印をつける。


 青。


 赤ではない。


 黒でもない。


 青。


 保留。


 確認。


 消さない。


 その夜、黒崎は報告を受け取った。


 白い机の上に、薄い紙が一枚置かれる。


 夜間入口接触。


 生活環境調整班。


 三号。


 宮崎めぐみ。


 末安えり。


 名前未確認。


 三号と申告。


 記入不可。


 黒崎は、その文字をしばらく見た。


 赤ペンを持つ。


 最初に消す場所を探した。


 だが、消す場所がなかった。


 名前が書かれていない。


 だが、空白でもない。


 未確認。


 その言葉は、処理しにくかった。


 不明なら、不明で分類できる。


 なしなら、なしで処理できる。


 虚偽なら、虚偽として扱える。


 未確認は違う。


 まだ探しているという意味を持つ。


 宮崎めぐみ。


 黒崎は、その名前の横に線を引かなかった。


 代わりに、赤ペンで小さく書いた。


 名称回復傾向。


 そして、もう一行。


 対象接触注意。


 次に、末安えりの名前を見る。


 元警察。


 組織犯罪対策。


 暴力団対応歴。


 現場制圧経験。


 速度依存傾向。


 ニコチン常用。


 黒崎は、その欄を赤ペンで囲まなかった。


 囲むには、まだ早い。


 代わりに黒で書いた。


 物理阻害要素。


 黒は、動かす時に使う。


 赤は、消す時に使う。


 黒崎は、次に三号の報告を見た。


 接触。


 制止。


 記録。


 帰還。


 任務継続可能。


 黒崎は、三号の欄を開いた。


 犬塚央。


 本名欄は、そのまま残っている。


 消していない。


 消さない方が、管理しやすい。


 名前は、消すより使わない方が長く死ぬ。


 黒崎は、本名欄の横に書いた。


 反応残存。


 その文字を見て、少しだけ目を細めた。


 残存。


 嫌な言葉だった。


 消したはずのものが、まだ働いている。


 黒崎にとって、それは感情ではない。


 記録上の不具合だった。


 扉が開いた。


 三号が入ってきた。


 白い作業服。


 黒い手袋。


 胸元の三。


 手首に、かすかな赤みがある。


 黒崎はそこを見た。


「痛みは」


「ありません」


「嘘は不要です」


「支障はありません」


「それでいい」


 三号は立ったままだった。


 黒崎は尋ねた。


「名前を聞かれましたか」


「はい」


「何と答えましたか」


「三号です」


「反応は」


「訂正されました」


「どう」


 三号は、少しだけ間を置いた。


「名前ではない、と」


 黒崎はペンを止めた。


「それから」


「名前が確認できない場合は、未確認と記録されました」


「空白ではなく」


「はい」


「消されなかった」


 三号は答えなかった。


 黒崎は三号を見た。


 人を見る目ではない。


 結果を見る目だった。


「それが何か影響しましたか」


「ありません」


「即答ですね」


「はい」


「なら、なぜ遅れた」


 三号は黙った。


 黒崎は赤ペンを置いた。


「三号」


「はい」


「あなたに名前は必要ありません」


「はい」


「名前は、作業を遅らせます」


「はい」


「作業を遅らせるものは、不要です」


「はい」


 黒崎は、そこで少しだけ声を低くした。


「犬塚央は、使いません」


 三号は、返事をした。


「はい」


 今度は遅れなかった。


 黒崎は頷いた。


「下がってください」


 三号は部屋を出た。


 廊下に出てからも、手袋を外さなかった。


 外せと言われていない。


 だから外さない。


 けれど、手首の赤みだけは、手袋の下に隠れなかった。


 黒い車に戻る途中、三号は一度だけ足を止めた。


 夜の京都は静かだった。


 遠くで、洗濯機のような低い音がした。


 実際には、別の建物の空調かもしれない。


 それでも、三号の頭には、あの拠点の音が残っていた。


 子どもの声。


 名前を呼ぶ大人の声。


 急がない声。


 未確認。


 消さない。


 その言葉も残っていた。


 犬塚央。


 その音は、まだ来ない。


 来ていないのに、胸の奥で何かが待っている。


 三号は、黒い手袋を握った。


 握っても、音は消えなかった。


 拠点では、夜間記録が閉じられた。


 めぐみは、最後にもう一度だけ玄関を見た。


 内側の掛け金。


 水の箱。


 棚の靴。


 来訪記録。


 名前未確認。


 三号と申告。


 記入不可。


 消さない。


 えりは、裏口から戻ってきた。


 煙草の匂いは、ミントで薄められていた。


「寝ないの」


「……少ししたら」


「それ、朝まで言う人の言葉」


「……うん。そうかも」


 えりはため息をついた。


「黒手袋、また来るよ」


「……うん」


「今度は、もっと近い」


「……うん」


「怖くないの」


 めぐみは、少しだけ考えた。


「……怖いよ」


「そう見えない」


「そう見えたら、子どもが起きるから」


 えりは黙った。


 めぐみは、机に戻った。


 折れた鉛筆を手に取る。


 短い線なら、まだ引ける。


 来訪記録の端に、小さな印をつけた。


 青。


 それから、夜間担当表の一番下に書き足した。


 呼ぶ人を間違えない。


 その文字を書いてから、めぐみは手を止めた。


 なお。


 呼べる名前が、ひとつだけ胸の奥に残っている。


 けれど、まだ呼ばない。


 呼べば、戻る。


 でも、戻ることが救いとは限らない。


 夜の拠点では、洗濯物が静かに揺れていた。


 名前を縫われた靴が、棚の上で乾いていた。


 カップの湯気は、もう消えていた。


 めぐみは、冷めたカップをようやく手に取った。


 一口飲む。


 苦かった。


 それでも、飲み込んだ。


 明日も朝が来る。


 朝が来れば、湯を沸かす。


 靴を揃える。


 薬を確認する。


 名前を見る。


 声には出せない名前も、紙には置けない名前もある。


 それでも、消さない。


 消さないまま、朝まで持つ。


 めぐみはカップを置いた。


 外の道を、もう一台の車が遠くへ消えていく音がした。


 その音が完全に消えるまで、彼女は灯りを落とさなかった。


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