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第七十四話 名前を呼ぶ夜

## 第七十四話 名前を呼ぶ夜


「次の場所だ」


 黒瀬了がそう言ったあとも、富士川の現場は動かなかった。


 誰も、すぐに次へ向かおうとはしなかった。


 向かえなかった。


 次の場所がある。


 紙の下で、次の本流が動いている。


 それは分かっていた。


 だが、今この泥の上には、まだ終わっていないものが残っている。


 捕虜。


 証拠。


 負傷者。


 壊れた通信機。


 落ちたドローン。


 番号で呼ばれていた敵兵たち。


 そして、真壁三曹。


 楠本一曹が低く言った。


「先に、戻すよ」


 誰のことか、全員が分かっていた。


 真壁三曹を運ぶ袋は、思っていたより小さく見えた。


 だが、誰も軽いとは言わなかった。


 若い隊員二人が、袋の横に立っていた。


 助けられた二人だった。


 一人は肩に包帯を巻かれ、もう一人は泥で汚れた手袋を握りしめていた。二人とも、何かを言いたそうにしている。


 ありがとう。


 すみません。


 戻れませんでした。


 どの言葉も、言えば壊れる。


 楠本一曹は、二人の前に立った。


「見るな」


 一人が唇を噛んだ。


「でも」


「今見ると、動けなくなる」


「……はい」


「真壁は、お前らを止めるために戻したんじゃない。動かすために戻した」


 楠本一曹の声は荒くなかった。


 それが、かえって重かった。


「後で泣け。今は手を動かせ」


 二人は小さく頷いた。


 袋に触れようとして、やめた。


 代わりに、泥に落ちていた弾倉を拾い、通信機を分け、捕虜の列の外側に張ったロープを直した。


 何かをする。


 それだけで、人はまだ崩れずに済む。


 ジンは少し離れたところに立っていた。


 真壁のミニミは、すでに楠本班へ返してある。


 返したあとも、肩には重さが残っていた。


 銃の重さではない。


 借りたものを返せなかった重さだった。


 久世一尉は、オペレーター室から出てこなかった。


 出てこないのではない。


 出られなかった。


 無人機の映像、敵通信の記録、味方火力の要請時刻、捕虜の初期証言、爆撃前後の熱源の変化。すべてを、停戦監視団へ出せる形に整えなければならない。


 戦闘は終わっている。


 だが、久世の戦いはまだ終わっていない。


 画面の中で、真壁が動いていた。


 右の穴を塞ぐ。


 若い隊員を戻す。


 戻らない。


 久世はその映像に印をつけた。


 必要な部分だけを残す。


 真壁の死を、敵の宣伝に使わせないために。


 真壁の死を、ただの数字にしないために。


 それは、ひどく嫌な作業だった。


 黒瀬がオペレーター室に入ってくる。


「映像は」


「残してる」


「編集するな」


「する暇がない」


「ならいい」


 久世は画面から目を離さなかった。


 黒瀬が横に立つ。


 画面の中で、真壁がまた動く。


 何度見ても同じだ。


 穴を塞ぐ。


 若い隊員を戻す。


 戻らない。


 久世の左手が、端末の上で一度止まった。


「黒瀬」


「何だ」


「これを、外へ出すのか」


「必要なら」


「遺族に見せるものじゃない」


「遺族のためじゃない」


「分かっている」


 久世は低く言った。


 分かっている。


 分かっているから、嫌だった。


 人間の死を証拠にする。


 仲間の最後を、時刻と位置と熱源に変える。


 敵は人を番号で動かした。


 こちらは名前で呼んだ。


 それでも、外に出す時には、名前を記録の中に閉じ込めなければならない。


 久世は目を閉じなかった。


 閉じれば、もう一度開けるのに時間がかかる。


 黒瀬は静かに言った。


「死を使われる前に、こちらで意味を固定する」


 久世は短く返した。


「嫌な言い方だ」


「俺も嫌いだ」


   *


 ラソアは、敵装備の山の前にしゃがんでいた。


 泥で汚れたAK。


 見慣れない弾倉。


 市販品にしか見えない通信機。


 砕けた小型ドローン。


 撮影用の小さなカメラ。


 安っぽいベルトに固定された予備電池。


 ひとつひとつが、前線の兵士が自分で揃えたものには見えなかった。


 雑なものと、高いものが混じっている。


 兵は雑に扱われているのに、機材だけ妙に新しい。


 ラソアは弾倉を見下ろした。


「前に出す連中に、いいものと悪いものを混ぜて持たせてる」


 黒瀬が近づく。


「どういう意味だ」


「銃は雑。通信も雑。だが、ドローン用の弾と小型機材は新しい」


 ラソアは弾倉を指で弾いた。


「兵は信用してない。でも、消耗品を少し長持ちさせる道具は渡す。嫌な補給だ」


 黒瀬はその言葉を聞いて、しばらく黙った。


 それから言った。


「ここから先は、お前の仕事だ」


 ラソアが眉を上げる。


「俺は荷物係の次は何になる」


「証人だ」


「またそれか」


「お前が撃った弾。お前が落としたドローン。お前が押さえた捕虜。全部、証言になる」


「戦うより面倒だな」


「知っている」


 黒瀬は装備の山を見下ろした。


「後方部隊、役所、停戦監視団、装備の出所確認。全部に付き合え」


「役所か」


 ラソアは心底嫌そうな顔をした。


「似合わないな」


 ジンが言った。


 ラソアは顔を上げる。


「俺もそう思う」


 ラソアは泥のついたAKを見下ろした。


「だが、こいつを誰が流したかを調べるには、撃つより書類の方が早い時がある」


「嫌な戦場だ」


「全部嫌だ」


 ラソアは立ち上がった。


 肩についた泥を払う。


 払っても落ちない。


 それを見て、短く笑った。


「お前はどうする」


 ジンは答えた。


「まだ聞いてない」


「行き先も知らずに動くのか」


「いつものことだ」


「お前らしい」


 少しだけ沈黙があった。


 富士川の風が、焦げた匂いを薄くする。


 だが、真壁の死は薄くならない。


 ラソアは、いつもの軽い顔を作らなかった。


「生きてろ」


 ジンは少しだけ間を置いた。


「お前もな」


 握手はなかった。


 肩を叩くこともなかった。


 生きていれば、また会う。


 死ねば、それまでだ。


 戦場の別れは、余計な言葉を嫌う。


 ラソアは敵装備の山へ戻った。


 もう、戦闘員の顔ではなかった。


 戦場の後ろで、戦争を続かせるものを拾う人間の顔だった。


   *


 夜になっても、富士川は眠らなかった。


 発電機の音。


 無線の短い応答。


 捕虜を移す車のドア音。


 負傷者を運ぶ担架の軋み。


 遠くで、誰かが吐いている。


 近くで、誰かが泣いている。


 泣き声はすぐに止まった。


 止めたのではない。


 止めなければ、動けなくなるからだ。


 ジンは、コンテナの外にいた。


 夜の空は暗い。


 だが、完全な闇ではない。


 焼けた車両の残り火と、投光器の白い光と、無人機の小さな灯りが、富士川の泥をところどころ照らしている。


 久世一尉が、片脚を少し引きずりながら出てきた。


 手には、木製の訓練ナイフが二本あった。


 ジンはそれを見た。


「今か」


「今だ」


「寝ろ」


「お前がな」


 久世は一本をジンに投げた。


 ジンは受け取った。


 軽い。


 軽すぎる。


 だから、危ない。


 重い刃なら、身体が勝手に警戒する。


 軽い木片は、油断を誘う。


 久世は何も言わずに構えた。


 ジンも構える。


 周囲には誰もいない。


 いや、正確には、見ないふりをしている隊員が何人かいた。


 楠本一曹も、少し離れた場所で腕を組んでいる。


 止めはしない。


 ここで二人を止めても、たぶん意味がないと分かっている顔だった。


 最初に動いたのは久世だった。


 遅い。


 昔の速さではない。


 左足が少し遅れる。


 指も、昔ほど開かない。


 だが、間合いだけは正確だった。


 ジンの手首の外側に、木の刃が触れる。


 軽い音。


 久世が言う。


「今のは切られてる」


「足が遅れた」


「違う」


 久世は一歩下がった。


「名前を聞いた」


 ジンは黙った。


 久世が再び動く。


 今度はさらに遅い。


 だが、ジンの呼吸の切れ目に入ってくる。


 ジンは避ける。


 避けた先に、久世の木製ナイフが待っていた。


 喉元で止まる。


「今のは死んでる」


 ジンは息を吐いた。


「足が悪い割に、嫌な入り方をする」


「口が悪い割に、止まる」


「止まってない」


「止まった」


 久世はナイフを下げた。


「俺が“真柴”と呼んだ時だ」


 夜の音が、一瞬だけ遠くなった。


 ジンは久世を見た。


「呼ぶな」


「呼ばれたら止まる名前を、持って戦場に立つな」


「捨てた名前だ」


「捨てた名前にしては、よく効いた」


 ジンの目が細くなる。


 久世は構えを解かない。


「福岡仁なら止まらなかった」


「なら、福岡仁でいい」


「真柴直樹を殺すな」


 その言葉に、ジンの手がわずかに動いた。


 怒りではない。


 反射でもない。


 何かが、深いところで触れた。


「殺したのは俺じゃない」


 久世は静かに聞いた。


「なら、誰だ」


 ジンは答えなかった。


 久世は踏み込んだ。


 ジンが受ける。


 木と木がぶつかる。


 乾いた音。


 久世の動きは小さい。


 小さく、嫌なところを突く。


 ジンの強さを見るためではない。


 ジンの止まる場所を見るための動きだった。


 ジンはそれに気づいていた。


 だから余計に腹が立つ。


「教官のつもりか」


「元教官だ」


「もう部隊はない」


「だから、まだ教官でいられる」


 久世の刃がジンの脇腹に触れた。


「今のも死んでる」


「分かってる」


「分かってない」


 久世は木製ナイフを下げた。


「お前は、死ぬ場所を探してる時の動きをする」


 ジンは黙った。


「富士川でもそうだった。真壁のミニミを取りに行った時、ドローンが来た時、右の隊員が立ちかけた時。お前は、生きて戻る線より先に、穴を塞ぐ線を見る」


「悪いか」


「悪い」


 久世の声は即答だった。


「穴を塞いで死ぬのは、もう真壁がやった」


 ジンの顔が動いた。


 久世は続ける。


「お前まで同じことをするな」


「真壁は戻した」


「そうだ」


「俺も戻す」


「戻すなら、お前も戻れ」


 その言葉は、命令ではなかった。


 だから、ジンには余計に重かった。


 久世は少しだけ息を吐く。


「俺は、真壁を止められなかった」


 初めて、声に疲れが出た。


「映像で見えていた。誘いだと分かっていた。出るなと言った。だが、真壁は出た」


「出なければ、二人が死んだ」


「分かっている」


 久世は木製ナイフを握る手を見た。


「分かっているから、腹が立つ」


 ジンは何も言わなかった。


 久世は顔を上げる。


「お前は、あの場で真壁の任務を続けた」


「借りただけだ」


「違う。続けた」


 久世の声は乾いていた。


「だから言う。真壁の真似をするな。真壁が作った道を使って、戻れ」


 ジンは小さく言った。


「俺に戻る場所はない」


 久世はすぐに言った。


「嘘だ」


 ジンの目が変わる。


「何を知ってる」


「全部は知らん」


「なら言うな」


「全部知らなくても分かることはある」


 久世は木製ナイフをジンの胸に軽く当てた。


「戻る場所がない人間は、報酬を誰かに送らない」


 ジンは黙った。


 黒瀬が、少し離れた場所から見ていた。


 何も言わない。


 だが、聞いている。


 ジンは視線を逸らす。


「健二のところへ送るだけだ」


「それを戻る場所と言う」


「違う」


「違わない」


 久世はナイフを下げた。


「お前は帰る場所を自分で持てない。だから、他人の場所へ金を送る。水にして、飯にして、通信にして、子どもの名前を書く紙にして、そこに自分の帰り道を混ぜている」


 ジンは何も返せなかった。


 久世は言い過ぎたとも思わなかった。


 言わなければ、ジンはまた死ぬ場所へ歩く。


 だから言った。


「真柴直樹」


 ジンの肩がわずかに揺れる。


「その名前で戻れとは言わない」


 久世は続けた。


「だが、殺すな」


 夜の風が吹いた。


 焦げた匂いが薄くなり、代わりに川の湿った匂いが戻ってくる。


 ジンは、木製ナイフを下ろした。


「久世一尉」


「何だ」


「俺を呼ぶなら、戦場では福岡仁で呼べ」


「理由は」


「止まる」


「分かってる」


「なら」


「だから、呼んだ」


 ジンは久世を見た。


 久世は、少しだけ目を細めた。


「止まれるか見た」


「嫌な教官だ」


「ラソアにも言われた」


「同感だ」


 久世はナイフを二本とも受け取った。


 それから、低く言った。


「次は岐阜だ」


 ジンは眉を動かした。


「岐阜」


「黒瀬が行く。お前も行く」


「何をしに」


「富士川で使われたものが、どこから流れたかを追う」


 ジンは遠くの装備の山を見た。


 AK。


 通信機。


 ドローン。


 対ドローン弾。


 撮影機材。


 どれも、ここで生まれたものではない。


 誰かが流した。


 誰かが運んだ。


 誰かが必要な場所へ届くようにした。


 戦場には、撃つ者の前に、売る者がいる。


 久世は言った。


「岐阜に、古い通路が残っている」


「米軍か」


「違う」


 久世は首を振った。


「今はもうない。だから使える」


 ジンは意味を測る。


 久世はそれ以上言わなかった。


 代わりに、黒瀬が歩いてきた。


 手には、赤い封筒があった。


 古い紙だった。


 端が擦れている。


 宛名は英語。


 だが、封の裏にある署名だけは、キリル文字で書かれていた。


 アレクセイ・イリイチ・サボリン。


 ジンはその名を見た。


「アレクセイ」


 黒瀬が封筒を軽く振る。


「紹介状じゃない」


「なら何だ」


「借りの証明だ」


「誰への」


「岐阜に残っている、ロシア系アメリカ人たちへ」


 ジンは黒瀬を見る。


「米軍基地はない」


「ない」


「なら、なぜそこへ」


「表の基地なら政治になる。今必要なのは、表にない通路だ」


 黒瀬は封筒を指で叩いた。


「旧キャンプ岐阜の時代から残った家族、通訳、教会、軍属、移民、退役者の子どもたち。国の名前より先に、人の名前を覚えている連中だ」


 久世が横で言った。


「アレクセイは、名簿を作る側の人間だった。物流、収容、支援制度、名前の管理。人を番号にする仕組みを知っている」


 ジンは低く聞いた。


「信用できるのか」


 黒瀬は即答した。


「できない」


「なら、なぜ使う」


「人を番号にするやり方を知っている人間は、番号から名前を戻すやり方も知っている」


 ジンは黙った。


 敵は、兵を番号で呼んだ。


 観測班は、真壁の名前を呼んだ。


 久世は、ジンを真柴と呼んだ。


 今度は、岐阜で、番号から名前を戻す。


 戦いは、まだ続いている。


 銃声のない場所で。


 黒瀬が言った。


「夜明け前に出る」


 ジンは聞く。


「ラソアは」


「残る。後方部隊と役所と監視団に回す。あいつにしか言えない証言がある」


「嫌がるだろうな」


「もう嫌がってる」


 久世が短く笑った。


 笑いはすぐに消えた。


 楠本一曹が、遠くで真壁の袋を運ぶ隊員たちを見送っていた。


 誰も敬礼を大げさにはしない。


 ただ、背筋が少しだけ伸びる。


 それだけだった。


 ジンは、その光景を見た。


 真壁は戻らなかった。


 だが、真壁が作った道は、まだ残っている。


 捕虜の前にも。


 証拠の中にも。


 ジンの足元にも。


 久世が最後に言った。


「福岡仁」


 ジンは振り返る。


「戻れ」


 命令のようで、命令ではない声だった。


 ジンは少しだけ間を置いた。


「命令なら聞く」


 久世は首を振った。


「今回は違う」


 ジンは答えなかった。


 夜の富士川で、名前だけが残っていた。


 真壁。


 福岡仁。


 真柴直樹。


 アレクセイ・イリイチ・サボリン。


 そして、まだこれから取り戻さなければならない、たくさんの名前。


 夜明け前、ジンは黒瀬とともに岐阜へ向かう。


 銃を撃つためではない。


 誰が流したのかを探すために。


 誰が番号にしたのかを辿るために。


 そして、まだ消されていない名前を、紙の上に戻すために。


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