第七十三話 証人の線
## 第七十三話 証人の線
「敗残兵じゃない。後ろが、まだ見てる」
久世一尉の声で、富士川の空気が変わった。
撃ち合いの緊張ではない。
もっと冷たいものだった。
泥の上に膝をつかされた敵兵たち。
積まれた小銃。
外された弾倉。
焼けた車両。
砕けたドローン。
真壁三曹が戻らなかった場所。
そのすべてを、どこかから誰かが見ている。
黒瀬了が、泥で汚れた通信機の前にしゃがんだ。
通信機は小さかった。
軍用には見えない。
安物の外装。
傷だらけのボタン。
だが、そこから流れた短い符号だけが、妙に乾いていた。
命令ではない。
声でもない。
確認だった。
まだ見ている。
まだ数えている。
まだ、この場所を戦場として使うつもりでいる。
黒瀬は通信機に触れなかった。
「触るな」
近くの若い隊員が手を止める。
「証拠だ」
楠本一曹が顔を上げた。
「まだ攻めてくる?」
黒瀬は通信機を見たまま答えた。
「攻めてきた事実を、消しに来るかもしれない」
「証拠隠滅か」
「それと、責任の押し付けだ」
オペレーター室で、久世が画面を切り替える。
無人機の映像には、爆煙の奥で小さく動く熱源が残っていた。
逃げる者。
動けない者。
こちらを見ている者。
その違いは、映像だけでは分からない。
だが、足の向きだけは見える。
ほとんどは散っている。
低地へ逃げる。
壊れた車両の陰に隠れる。
負傷者のそばで止まる。
その中に、一つだけ違う足があった。
観測班の方へは来ない。
味方の負傷者の方へも行かない。
武器を拾おうともしていない。
その足は、機材へ向かっていた。
撮影機材。
通信機。
落ちたドローンの残骸。
死んだ現地指揮官が持っていたはずの小さな端末。
久世は目を細めた。
「一名、証拠側へ動く」
ジンは泥の上で顔を上げた。
ミニミは背に回している。
手にはQBZ-191。
撃つために握っているのではない。
必要なら止めるために持っている。
「兵か」
久世が答える。
「足が違う」
ジンはそれだけで分かった。
敗残兵の足ではない。
怖がっていない。
負傷しているふりもしていない。
逃げる足ではない。
何かを終わらせに行く足だった。
ラソアが横でAKを握り直した。
「行くか」
その瞬間、黒瀬の声が割り込んだ。
「行くな」
ジンが止まる。
黒瀬は通信機から目を離さずに言った。
「そこから先は、攻撃になる」
「証拠を消される」
「分かっている」
「なら」
「日本側は追えない」
その言葉は、弾より重かった。
観測班の誰もが、一瞬だけ黙った。
敵は停戦中に攻撃してきた。
真壁は死んだ。
若い隊員は負傷した。
観測班の線は裂かれかけた。
それでも、こちらから追って撃てば、敵は言う。
日本側が停戦を破った。
日本側が敗残兵を攻撃した。
日本側が外国人戦闘員を使った。
黒瀬はその言葉を、すでに聞いているような顔をしていた。
「撃ち勝っただけでは負ける」
楠本一曹が低く言う。
「現場にそれを言うのは酷だね」
「酷だから言う」
黒瀬は立ち上がった。
「ここはまだ停戦中だ。こちらができるのは防衛、自陣内の危険排除、捕虜保護、証拠保全。追撃と報復はできない」
ラソアが笑った。
「戦場で法律の授業か」
黒瀬はラソアを見た。
「違う。生き残るための話だ」
ラソアの笑いが消える。
黒瀬は続けた。
「敵は撃って勝つだけじゃない。こちらに撃たせて勝つこともある」
ジンは通信機の方を見た。
番号で呼ばれた兵たち。
声を前に出された兵たち。
死ぬ場所に置かれた若い足。
その後ろで、まだ見ている何者か。
ジンは低く言った。
「なら、どう使う」
黒瀬は即答しなかった。
少しだけ、ジンとラソアを見比べた。
「お前たちは、日本の代わりに攻撃する駒じゃない」
ラソアが肩をすくめる。
「初めてまともなことを言われた」
「第三国人だから動ける場所がある。だが、第三国人だからこそ、敵はそこを使ってくる」
黒瀬の声は冷たい。
「だから、お前たちは証人だ」
ジンは眉を動かした。
「証人?」
「見た者だ。聞いた者だ。撃たなかった者だ。止めた者だ」
「兵士にやらせる仕事じゃない」
「停戦中の兵士は、そういう仕事をする」
黒瀬は通信機を指した。
「敵が停戦を破った証拠を守る。捕虜を処刑させない。自爆役を混ぜられても全部を撃たせない。証拠を消しに来る者を、殺すのではなく止める」
ジンは無言だった。
ラソアが小さく息を吐く。
「撃つより面倒だな」
黒瀬は言った。
「だからお前たちにやらせる」
*
停戦監視団への通報準備が始まった。
それは戦闘より静かで、戦闘より間違えられない作業だった。
無人機映像の時刻。
最初の警報。
先導なしの車両。
前列の声。
番号で呼ばれた兵。
現地指揮官。
通信役。
撮影機材。
小型ドローン。
腹に抱えていた投下物。
捕虜の証言。
停戦後に攻撃してきた方向。
全部を残す。
勝つためではない。
先に壊したのが誰かを、消されないためだった。
久世はオペレーター室で映像を切り分けていた。
左手の指は遅い。
動かない二本が邪魔になる。
それでも、必要なところだけは外さない。
黒瀬が横に立つ。
「監視団へは」
「映像、熱源、通信記録、捕虜の初期証言。出せる」
「編集するな」
「する暇がない」
「ならいい」
久世は一瞬だけ黒瀬を見た。
「黒瀬」
「何だ」
「この映像に真壁が映る」
黒瀬は答えるまでに少し時間を置いた。
「必要部分だけ残せ」
「遺族に見せられるものじゃない」
「遺族のためじゃない」
「分かっている」
久世は画面に視線を戻した。
分かっている。
だが、分かっていても、指は重かった。
真壁が動く。
穴を塞ぐ。
若い隊員を戻す。
戻らない。
その映像を、証拠として残さなければならない。
人間の死を、外交の材料にしなければならない。
久世は目を閉じなかった。
閉じれば、もう一度開けるのに時間がかかる。
黒瀬は静かに言った。
「死を使われる前に、こちらで意味を固定する」
久世は低く返した。
「嫌な言い方だ」
「俺も嫌いだ」
*
外では、捕虜の列が作られていた。
楠本一曹がその前に立つ。
銃口は下げている。
だが、声は下げていない。
「武器は一か所にまとめろ。捕虜と武器を近づけるな。負傷者は先に見る。水は確認後。勝手に与えるな。写真を撮るな。蹴るな。黙らせるために殴るな」
若い隊員が、敵兵の一人を見下ろしていた。
敵兵は泣いている。
年は近い。
もしかしたら、その隊員より若い。
だが、その手はさっきまで小銃を握っていた。
隊員の肩が震えている。
真壁三曹の血が、まだ泥の上に残っている。
敵兵の泣き声が、耳に触る。
隊員の銃口が、わずかに上がった。
その銃身を、横からラソアの手が押さえた。
「捕虜だ」
隊員はラソアを睨んだ。
「真壁三曹が死んだんです」
「知ってる」
「知ってるなら」
「だからだ」
隊員の顔が歪む。
「だから?」
ラソアは銃身を押さえたまま言った。
「今撃てば、あいつの死を敵の宣伝に使われる」
隊員は黙った。
ラソアは続けた。
「お前の怒りは正しい。撃てば、敵の道具になる」
隊員の手が震える。
泣いているのは捕虜だけではなかった。
隊員も泣きそうだった。
楠本一曹が近づいた。
「銃を下げろ」
「……はい」
「後で泣け」
「はい」
「今は手を動かせ」
隊員は銃口を下げた。
ラソアは手を離す。
敵兵はまだ泣いている。
ラソアはその敵兵を見て、低く言った。
「名前」
敵兵は何かを言った。
「番号じゃない。名前だ」
もう一度、敵兵は言った。
小さな名前だった。
ラソアはそれを記録係に渡した。
無線では流さない。
名前を、番号に戻さないために。
*
ジンは、捕虜の列を見ていなかった。
奥を見ていた。
久世が言った一名。
証拠へ向かう足。
その足は、まだ消えていない。
敵の敗残兵に紛れ、負傷者の後ろを通り、壊れた車両の陰へ入る。
逃げているように見える。
だが、逃げる方向ではない。
証拠の方へ寄っている。
ジンは無線を入れた。
「久世一尉」
「見えてる」
「止める」
「追うな」
「追わない」
「そこから出るな」
「出ない」
「嘘をつくな」
ジンは少しだけ口の端を動かした。
「防衛線の内側で止める」
久世は黙った。
言葉の線を探している。
敵地へ追うのは攻撃。
逃げる敗残兵を後ろから撃つのも攻撃。
だが、自陣内の証拠物へ接近する危険人物を止めるのは、防衛だった。
黒瀬が無線に入る。
「殺すな」
ジンは答える。
「努力する」
「努力じゃ足りない」
「なら、ラソアを寄こせ」
ラソアが横で笑う。
「俺は道具か」
黒瀬が言う。
「証人だ」
「最悪だな」
「行け」
ジンとラソアは、敵に向かって走らなかった。
走れば攻撃に見える。
走れば敵も走る。
走れば撃つしかなくなる。
二人は、防衛線の内側を横へ移った。
捕虜の列と、武器置き場と、壊れたドローンの残骸の間。
線を作る。
逃げ道を塞ぐのではない。
証拠へ行く道だけを消す。
ジンは低く言った。
「止まれ」
男は止まらない。
負傷兵のふりをしている。
片腕を押さえ、腰を曲げている。
だが、足だけが違う。
痛む足ではない。
目的のある足。
ラソアが別角度から声を投げる。
「そっちは捕虜の列じゃない」
男の肩が一瞬だけ揺れた。
言葉を理解している。
ジンは銃口を上げすぎない。
上げすぎれば、撃つしかなくなる。
低く構える。
止める線だけを作る。
男は壊れた撮影機材へ視線を投げた。
ほんの一瞬。
だが、ジンは見た。
「そっちか」
男が動いた。
速かった。
負傷者の動きではない。
撮影機材の方へ走る。
ジンは撃てる。
撃てば止まる。
だが、撃てば殺すかもしれない。
撃てば、敵は言う。
捕虜を撃った。
逃げる敗残兵を撃った。
外国人戦闘員に処刑させた。
ジンの指が、ほんの少しだけ重くなった。
その重さを、久世の声が切った。
「福岡仁、撃つな」
ジンは撃たなかった。
代わりに、前へ出る。
出すぎる。
ラソアが舌打ちした。
「馬鹿」
ジンは男の進む線へ身体を入れた。
男は止まらない。
ぶつかる。
ジンの肩に衝撃が走る。
男の手が懐へ入る。
ラソアが横から飛び込んだ。
銃ではない。
肩と腕で押さえる。
男の手が泥の中へ叩きつけられる。
小さな金属片が転がった。
記録媒体。
通信機の部品。
あるいは証拠を壊すための何か。
黒瀬が叫ぶ。
「手を押さえろ。物を踏むな」
ラソアが男の腕をねじり、膝で動きを止める。
「殺してないぞ」
ジンは息を吐いた。
「見れば分かる」
「褒めろ」
「後で」
「絶対言わないやつだ」
男は泥の中で何かを叫んだ。
言葉は分からない。
だが、怒りではない。
恐怖でもない。
失敗した者の声だった。
ジンはその顔を見た。
兵士ではない。
少なくとも、前で番号を呼ばれていた兵の顔ではない。
この男は、前の兵を見ていなかった。
負傷者も見ていなかった。
死体も見ていなかった。
証拠だけを見ていた。
使う側の人間だった。
ジンは低く言った。
「名前」
男は黙った。
ラソアが腕を少しだけ押さえる。
「番号じゃない。名前だ」
男は答えない。
黒瀬が近づいてきた。
「無理に言わせるな」
「いいのか」
「黙秘も記録になる」
黒瀬は、泥の中の小さな部品を見た。
「回収しろ。袋に入れろ。素手で触るな」
若い隊員が動く。
今度は早かった。
怒りではなく、仕事として動いている。
ジンはその様子を見た。
撃たなかったことで、敵を逃がしたわけではない。
撃たなかったことで、証拠が残った。
殺さなかったことで、この男は喋る可能性を残した。
喋らなくても、黙っている姿が残る。
停戦中に、証拠を消そうとした男として。
*
停戦監視団への送信が始まった。
黒瀬は短い文章を読み上げる。
余計な感情は入れない。
怒りも、悲しみも、報復も入れない。
時刻。
場所。
攻撃方向。
使用された兵器。
確認された捕虜。
停戦後の攻撃。
自爆役の混入。
証拠隠滅を図った疑いのある人物の拘束。
久世が映像を添える。
楠本一曹が現場の負傷状況を報告する。
若い隊員が捕虜の数を数える。
ラソアが武器の山を見張る。
ジンは、捕らえられた男の足を見ていた。
まだ逃げようとしている。
体は押さえられている。
手も動かない。
だが、足だけが出口を探している。
ジンはその足を見ながら言った。
「こいつは、前には出ない」
黒瀬が聞く。
「分かるのか」
「分かる」
「証言できるか」
ジンは少しだけ眉を寄せた。
「足で?」
「お前が見たものとして」
ジンは黙った。
証人。
その言葉が、まだ馴染まない。
銃より馴染まない。
だが、今日ここでは、それを持つしかなかった。
「証言する」
ラソアが横で言う。
「俺もだ。こいつは兵じゃない。荷物を運ぶやつでも、負傷者を助けるやつでもない。証拠だけを見ていた」
黒瀬は頷いた。
「十分だ」
楠本一曹が、遠くから真壁の方を一度だけ見た。
誰も、そこに近づいていない。
まだ、動けない。
まだ、戦場が終わっていない。
けれど、真壁が作った道は、また一つ守られた。
報復で汚されず、証拠として消されず、捕虜の列の前にも残った。
久世の声が、無線に落ちる。
「送信、完了」
黒瀬が言った。
「これで終わりか」
久世は画面を見たまま答えた。
「終わらないだろうな」
黒瀬はうなずいた。
「だが、始められる」
ジンが聞いた。
「何を」
「戦闘ではない」
黒瀬は、泥の上に並べられた通信機と、捕虜と、壊れたドローンと、真壁の残した線を見た。
「どちらが停戦を壊したのかを、外へ出す」
ラソアが小さく笑った。
「撃つより面倒だ」
ジンは答えた。
「撃つより長い」
黒瀬が言う。
「だから、ここからが本番だ」
その時、拘束された男が初めて顔を上げた。
通訳を介さずとも分かる、短い言葉を吐いた。
名前ではなかった。
番号でもなかった。
地名だった。
久世の指が止まる。
黒瀬の顔から、わずかに色が消えた。
楠本一曹が聞く。
「何て言った」
黒瀬は男を見下ろした。
そして、低く答えた。
「次の場所だ」
富士川の風が、煙を少しだけ動かした。
停戦は、まだ紙の上では生きている。
だが、紙の下で、次の本流が動き始めていた。




