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第七十二話 番号ではなく

## 第七十二話 番号ではなく


 敵の本流は、粉砕された。


 火が落ちたあとの富士川は、静かではなかった。


 爆発の音は遠ざかったのに、空気だけがまだ震えている。泥の底が細かく鳴り、焼けた金属がどこかで軋み、煙の向こうで誰かが泣いている。


 勝った音ではなかった。


 終わった音でもなかった。


 ただ、大きなものが壊れた後に残る、後始末の音だった。


 オペレーター室で、久世一尉は画面を見ていた。


 無人機の映像は、爆煙で何度も白くなった。そのたびに久世は映像を切り替え、熱源の形を拾い直す。


 動くもの。


 動かないもの。


 こちらへ来るもの。


 こちらから離れるもの。


 その場で同じ円を描くもの。


 画面の上では、敗残兵も負傷者も死体も、似たような点になる。


 だから、久世は断定しなかった。


 断定すれば、誰かが撃つ。


 誰かが撃てば、戻れなくなる。


 久世は無線を握った。


「観測班、総員。追うな」


 楠本一曹がすぐに引き継ぐ。


「楠本班、前に出すぎるな。武器を持って向かってくる者だけ止めろ。手を上げた者、動けない者は撃つな」


 無線の向こうで、若い隊員の息が揺れた。


 怒りがある。


 恐怖がある。


 真壁が戻らなかった場所が、まだすぐそこにある。


 撃ちたい者がいる。


 叫びたい者がいる。


 なぜ真壁三曹が死んで、あいつらが生きているのかと、言いたい者がいる。


 楠本一曹はそれを知っていた。


 だから、もう一度言った。


「聞け。真壁は、戻すために死んだ。殺し返すためじゃない」


 誰も返事をしなかった。


 だが、銃口が少し下がった。


 それで十分だった。


   *


 ジンは泥の中から顔を上げた。


 耳の奥で、まだ火の音が鳴っている。


 鼻の奥には、焦げた油と湿った土と、焼けた金属の臭いが混じっていた。


 ラソアが隣で咳をする。


「生きてるか」


「生きてる」


「お前、毎回それだな」


「確認は大事だ」


 ジンはミニミを抱え直した。


 真壁の銃だった。


 重い。


 だが、もう撃つためだけに重いのではなかった。


 撃たないためにも、重かった。


 久世の声が落ちる。


「ジン、ラソア」


「聞こえてる」


「敗残兵が右の低地から流れてくる。楠本班の前に出すな。ただし、撃ち尽くすな」


 ラソアが顔をしかめた。


「難しい注文だ」


 久世は乾いた声で返す。


「簡単なら俺がやってる」


「嫌な教官だ」


「知ってる」


 ジンは立ち上がらず、低い姿勢のまま動いた。


 ラソアもついてくる。


 二人は正面へは行かない。


 逃げる敵の前に立てば、敵は走るしかなくなる。


 走れば撃つことになる。


 だから横へ入る。


 逃げ道を完全には塞がない。


 だが、観測班の方へは行かせない。


 逃げるなら、武器を捨てて泥の低い方へ。


 向かってくるなら、止める。


 その線を作る。


 ジンは、倒れた車両の陰から右の低地を見た。


 最初に来たのは、若い兵だった。


 片足を引きずっている。


 顔は泥と煤で黒くなっている。


 口が動いている。


 何かを叫んでいるのか、泣いているのか分からない。


 手には小銃があった。


 だが、銃口は下がっている。


 ジンはミニミを向けなかった。


 代わりに、低く言った。


「武器を捨てろ」


 言葉が通じたかは分からない。


 だが、声の質は通じる。


 兵は止まった。


 目がジンを見る。


 次に、ミニミを見る。


 それから、地面を見る。


 手が震えている。


 銃を落とすまでに、長い時間がかかった。


 本当は二秒もなかった。


 だが、その間に全員が死ねる。


 ラソアがAKを少し上げた。


 ジンは小さく首を振る。


 待つ。


 撃たない。


 若い兵の小銃が、泥の上に落ちた。


 軽い音だった。


 ジンは言った。


「手を上げろ」


 兵は両手を上げた。


 ラソアが横へ回り、兵を膝立ちにさせる。


 乱暴ではない。


 優しくもない。


 ただ、武器から離す。


 身体の前に手を出させる。


 地面を見る位置に置く。


 それだけだった。


 ラソアが低く言う。


「名前」


 兵は答えない。


 震えている。


 ラソアはもう一度言った。


「名前だ。番号じゃない」


 兵は、何かを小さく言った。


 聞き取れない。


 ラソアは眉を寄せた。


「もう一回」


 兵は、今度は少しだけはっきり言った。


 名前だった。


 番号ではなかった。


 ラソアはそれを無線に流さなかった。


 ただ、短く言った。


「一名、武装解除。負傷。生きてる」


 楠本一曹が返す。


「後ろへ送れ。名前は記録係に聞かせろ。無線では流すな」


「了解」


 次に来た二人は、違った。


 一人は手を上げていた。


 もう一人は、その後ろで銃を隠していた。


 ジンは足で見た。


 前の兵は、膝が崩れている。


 逃げたい足。


 後ろの兵は、踵が残っていない。


 前へ出る足。


 ジンは前の兵に向けていた視線を、後ろへずらした。


「ラソア」


「見えてる」


 後ろの兵が銃を上げる。


 遅い。


 だが、近い。


 ラソアが横から撃った。


 短く。


 後ろの兵が泥に落ちる。


 前の兵は悲鳴を上げて伏せた。


 ジンはその前の兵を撃たなかった。


「動くな」


 兵は動かなかった。


 ラソアが吐き捨てる。


「混ぜてくるな」


 ジンは答えた。


「混ぜさせられてる」


「同じだ」


「違う」


「今は違わない」


 その言葉には、怒りがあった。


 真壁の死が、そこに残っていた。


 ジンは何も言わなかった。


 ラソアも、それ以上言わなかった。


 戦場で正しさを言い合う暇はない。


 ただ、撃つ相手と撃たない相手を間違えないことだけが、今の正しさだった。


   *


 久世の声が入る。


「右奥、三。うち一名、負傷して動けない。二名、武器あり」


 ジンは車体の陰を移った。


 同じ場所には残らない。


 敗残兵になった敵ほど、不規則に撃つ。


 恐怖で撃つ。


 見ずに撃つ。


 名前ではなく、音に向けて撃つ。


 だから、こちらも音を残さない。


 ジンはミニミを使わず、QBZ-191を拾い直した。


 真壁の銃は背に回す。


 重い。


 だが、この距離でミニミを振り回せば、撃ちすぎる。


 撃ちすぎれば、処置ではなく処刑になる。


 それは違う。


 ジンは、そう思った。


 思ってしまった。


 自分がまだ、そう思えることに少しだけ驚いた。


 右奥の三人は、壊れた車両の影にいた。


 一人は座り込んでいる。


 足を押さえている。


 二人はその前で銃を持っている。


 守っているのか、逃げ道を探しているのか、まだ分からない。


 ジンは姿を見せなかった。


 声だけを投げた。


「武器を捨てろ」


 返事は銃声だった。


 車体の上で火花が散る。


 ラソアが別の角度から怒鳴る。


「次は当てるぞ!」


 返事はまた銃声。


 ただし、今度は上に抜けた。


 狙っていない。


 撃っているだけ。


 ジンは息を吐いた。


「一人、パニック」


 久世が言う。


「もう一人は」


「見てる」


「指示役か」


「たぶん」


 ジンは右へ移った。


 ラソアは左で音を作る。


 敵の銃口がラソアへ向く。


 その瞬間、ジンが車体の下から出た。


 撃つ。


 一発。


 銃を持っていた方の腕が落ちる。


 もう一人が振り返る。


 ラソアがその足元を撃つ。


 泥が跳ねる。


 敵の膝が折れた。


 座り込んでいた負傷兵が、両手を上げる。


 ジンは声を落とした。


「終わりだ」


 終わり。


 その言葉が通じたかは分からない。


 だが、三人の足が止まった。


 それで十分だった。


 楠本一曹の声が入る。


「捕虜を中へ入れすぎるな。武器から離せ。負傷はまとめる。水をやるな、まず確認」


 若い隊員が返す。


「了解」


 声が震えている。


 楠本一曹はすぐに言った。


「顔を見るな。手を見ろ。足を見ろ。泣いてても武器を持ってたら敵だ。泣いてなくても手を上げたら撃つな」


「了解」


「返事ができるなら動け」


「はい」


 久世は画面を切り替えた。


 まだ動く熱源がある。


 こちらへ向かうもの。


 こちらから離れるもの。


 その場で小さく揺れているもの。


 死体と負傷者と敗残兵は、画面の上では似ている。


 だから、久世は断定しない。


 断定すれば、誰かが撃つ。


 誰かが撃てば、戻れなくなる。


「左、動く熱源二。武器不明。楠本班、近づきすぎるな」


 楠本一曹が答える。


「了解」


 その時、若い隊員の一人が、真壁のいた方へ顔を向けた。


 敵の負傷兵を縛る手が止まる。


 ジンは見た。


 久世も見た。


 楠本一曹が、その隊員の肩を掴んだ。


「見るな」


「でも、真壁三曹が」


「見るな」


「……はい」


「今見ると、次に撃つ相手を間違える」


 隊員の目が潤んだ。


 楠本一曹は、その顔を見なかった。


 見れば、自分も崩れる。


「後で泣け」


 短く言った。


「今は手を動かせ」


 隊員は頷いた。


   *


 敗残兵が、観測班の線の外側に膝をつかされていく。


 武器は別に積まれる。


 弾倉は泥の上に並べられる。


 通信機は一か所に集められる。


 名前を言える者は言わせる。


 言えない者は、番号ではなく特徴で記録する。


 若い。


 右脚負傷。


 灰色の上着。


 左手に包帯。


 人間を番号にしないために、観測班は、敵にまで手間をかけていた。


 ラソアがそれを見て、低く言った。


「面倒な国だな」


 ジンは答えた。


「面倒だから、まだ捨ててない」


「何を」


「器を」


 ラソアは少しだけ眉を上げた。


 意味は分からなかった。


 だが、聞き返さなかった。


 聞き返すには、泥の上に倒れている真壁が近すぎた。


 久世の声が入る。


「ジン」


「聞こえてる」


「奥から一名、こちらへ来る。武器あり。だが歩き方が変だ」


 ジンは目を細めた。


 煙の奥から、一人が出てくる。


 歩き方が確かにおかしい。


 足を引きずっているのではない。


 真っすぐすぎる。


 怖がっている足ではない。


 何かを決めた足だった。


 胸元が少し膨らんでいる。


 手は上がっていない。


 口が動いている。


 声は聞こえない。


 ラソアがAKを上げる。


「止まれ!」


 相手は止まらない。


 ジンはミニミを使わなかった。


 QSZ-193にも触れなかった。


 QBZ-191を上げる。


 相手の足元へ一発。


 泥が跳ねる。


 相手が一瞬止まる。


 その一瞬で、胸元の手が動いた。


 久世が叫ぶ。


「下がれ!」


 ジンとラソアは同時に横へ落ちた。


 小さな爆発が起きた。


 大きくはない。


 だが、近かった。


 泥と破片が車体に当たる。


 捕虜たちが悲鳴を上げる。


 若い隊員が一人、反射で銃を上げかけた。


 楠本一曹がその銃口を押さえた。


「違う! 全部を撃つな!」


 隊員の腕が震えている。


「でも」


「今の一人だ!」


 楠本一曹の声は割れていた。


「全部を同じにするな!」


 その言葉は、敵に向けたものではなかった。


 自分たちに向けたものだった。


 久世が画面から声を落とす。


「観測班、総員。敗残兵の中に自爆役が混ざる可能性あり。だが、手を上げた者を撃つな。武器を持つ者、接近を止めない者だけ止めろ」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 命令が難しいからではない。


 守るのが難しいからだった。


 憎しみで撃つ方が簡単だった。


 怖いものを全部敵にする方が簡単だった。


 だが、それをした瞬間、真壁が作った道は別のものになる。


 戻す道ではなく、殺す道になる。


 ジンは泥の中から起き上がった。


 口の中にまた鉄の味がする。


 ラソアが隣で息を吐いた。


「やってられんな」


「そうだな」


「でも、やるんだろ」


「やる」


「嫌な国だ」


「嫌な仕事だ」


 ラソアは少しだけ笑った。


「それなら分かる」


   *


 遠くで、まだ火の残響が続いている。


 敵の本流は粉砕された。


 だが、敗残兵の処置は、勝利よりずっと汚く、ずっと長く、ずっと人間に近かった。


 久世は画面を見ながら、静かに言った。


「真壁」


 誰にも聞かせるつもりのない声だった。


 だが、楠本一曹の無線には入っていた。


 楠本は何も言わなかった。


 ジンも何も言わなかった。


 ただ、泥の上で膝をつく敵兵たちを見た。


 名前を聞かれる者。


 腕を縛られる者。


 泣く者。


 黙る者。


 まだこちらを睨む者。


 その全部を、番号にしないで扱う。


 それが、この割れた器を捨てないということなのだと、ジンは思った。


 真壁は戻らなかった。


 だが、真壁が作った道は、敗残兵の前にも残っていた。


 人を戻す道として。


 その時、集められた通信機の一つから、短い音が鳴った。


 誰も動かなかった。


 久世だけが、画面から目を外した。


 黒瀬了が、泥で汚れた通信機を見下ろす。


 そこに流れた声は、番号ではなかった。


 名でもなかった。


 ただ、短い符号だった。


 そして、その符号にだけ、久世の顔が変わった。


 楠本一曹が聞く。


「何」


 久世は、しばらく答えなかった。


 それから、低く言った。


「終わってない」


 ジンが顔を上げる。


 ラソアも、AKを握り直す。


 久世は通信機を見たまま続けた。


「敗残兵じゃない。後ろが、まだ見てる」


 泥の上に、真壁が作った道が残っている。


 その先で、戦争はまだ終わろうとしていなかった。


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