第七十一話 火が来るまで 改稿版
## 第七十一話 火が来るまで 改稿版
ミニミが鳴った。
観測班の線は、まだ切れていなかった。
だが、それは敵を押し返したという意味ではなかった。
ただ、敵の足が一度止まっただけだった。
ジンはすぐに撃つのをやめた。
撃ち続けたくなる。
敵が動いている。
声が聞こえる。
車体の向こうで影が揺れる。
なら撃つ。
そうしたくなる。
だが、撃ち続ければ音が残る。熱が残る。位置が残る。
敵が欲しいのは、それだった。
ジンはミニミを抱えたまま、横へ滑った。
さっき撃った場所には残らない。
壊れた商用車の陰から、泥の浅い溝へ。
溝から、白い支援物資の箱の裏へ。
箱の裏から、焼けた車輪の影へ。
まっすぐ走らない。
立ち上がらない。
同じ穴から続けて撃たない。
それは自衛隊の教範として覚えた動きではなかった。
もっと汚い場所で、もっと雑に、もっと生き残るためだけに身体へ入った動きだった。
ラソアも同じだった。
彼は車体の反対側へ転がり、敵から拾ったAKを持ち替える。撃たない。撃ちたい場面で撃たない。煙の上を小型ドローンが舐めるように動くたびに、銃口を上げかけて、また下げる。
「見えてる」
ラソアが低く言う。
「でも撃たない」
ジンは短く返した。
「見えてるから撃つな」
久世の声が無線に入る。
「そこは見られてる」
「分かってる」
「分かってるなら、同じ場所で喋るな」
ジンは無線を切り、また動いた。
ミニミの重さが腕に沈む。
真壁の重さだった。
重い。
だから、動くたびに遅れる。
だが、その遅れも使う。
遅れるなら、先に場所を変える。
撃つ前に逃げ道を見る。
撃った後では遅い。
右側で、敵の声が飛んだ。
「二号、右!」
「三、前!」
「戻るな!」
人の名前はない。
番号。
方向。
命令。
それだけだった。
楠本一曹が無線で吐き捨てる。
「名前くらい呼べっての」
久世は答えない。
画面を見ている。
無人機の映像の中で、敵はまた分かれていた。
正面に見せ札。
右に二人。
中央に三人。
さらに左の窪みに、伏せた影が一つ。
大きな突破ではない。
小さな穴を同時に開けに来ている。
観測班を一か所で破るのではなく、全部の場所で少しずつ足りなくさせる動きだった。
久世が言った。
「右は見せかけ。中央の後ろ、二つ目が本命」
楠本一曹がすぐに拾う。
「楠本班、右を見すぎるな。中央を薄くするな。負傷者を下げろ」
若い隊員の一人が、土嚢の上から銃口を出しかけた。
ジンは別の穴から低く言った。
「撃つな」
「でも、来てます」
「来させろ」
「抜けます」
「まだ抜けてない」
隊員の息が無線に入る。
浅い。
早い。
ジンは言葉を選ばなかった。
「お前が撃てば、そこがお前の墓になる」
隊員の息が止まった。
楠本一曹が続ける。
「聞いたな。息はしろ。撃つな」
隊員の肩が少し下がった。
ジンは別の影へ移った。
右の敵が前に出る。
派手に動く。
声も出す。
撃ってほしがっている足だった。
ジンはそこを見ない。
中央の後ろを見る。
焼けた車両の影が、一度だけふくらんだ。
伏せていた敵が、半身を上げる。
そこだけを短く撃つ。
長くは撃たない。
敵の足が止まる。
伏せる。
右の見せ札も、つられて止まる。
ジンは撃った場所に残らず、すぐに横へ沈んだ。
その直後、さっきまで頭があった場所を弾が抜けた。
砂利が跳ねる。
白い箱の側面が裂ける。
中から包帯が飛び出し、泥に落ちた。
ラソアが笑った。
「人気者だな」
「お前も撃て」
「今は嫌だ」
「なぜ」
「見られてる」
ラソアは車体の下から敵を見ていた。
AKの銃口は出していない。
銃口を出せば、光る。
光れば、見つかる。
彼は代わりに、足元の泥を掴み、車体の向こうへ投げた。
小さな音。
敵の一人が反応する。
その肩が動く。
そこへは撃たない。
ラソアは逆側へ転がった。
撃ったのは、ジンだった。
別の穴から、短く。
敵が伏せる。
伏せた敵の後ろで、もう一人が止まる。
止まったことで、前の二人が詰まる。
狭い場所に、足が溜まる。
ジンは撃たない。
そこで撃てば倒せる。
だが、倒せる敵を倒すことが、今の目的ではない。
足を止める。
時間を買う。
味方の火が来るまで、観測班の線を残す。
それだけだった。
ラソアが荷台の方へ這う。
「煙、使う」
「こっちに流すな」
「風くらい読める」
「お前は信用してない」
「風は信用しろ」
ラソアは割れた車体の下から、煙を吐く筒を転がした。
白い煙が低く広がる。
壁ではない。
穴を隠す布だった。
敵の目を完全に塞ぐほど濃くはない。
だが、銃口と身体の輪郭をぼかすには十分だった。
ジンはその煙の端を使って移動した。
煙の中には入らない。
煙の中に入れば、自分も見えない。
煙の端。
見えそうで見えない線。
そこを使う。
敵の声が荒くなった。
「前!」
「右!」
「見えない!」
ラソアが低く言った。
「今なら殺せる」
「殺すな」
「優しいな」
「違う。入らせる」
ラソアが一瞬だけジンを見た。
すぐに分かった顔をした。
「一歩下がるのか」
「下がったように見せる」
「嫌な兵士だ」
「お前に言われたくない」
ジンはミニミを抱え、車体の陰から離れた。
正面の小さな陣地を捨てる。
本当に捨てるのではない。
捨てたように見せる。
楠本一曹が無線で聞いた。
「ジン、下がるのか」
「一歩だけ」
「抜かせるな」
「入れさせる」
楠本一曹は、すぐに怒鳴らなかった。
意味を理解するまでの一拍。
その一拍のあと、声が変わった。
「楠本班、前の穴を空けろ。追うな。撃つな。入らせる」
若い隊員が混乱した。
「入らせるんですか」
「私に二回言わせるな」
敵は見ていた。
観測班の正面が薄くなった。
そう見えた。
番号で動かされている兵たちが、そこへ流れる。
前の穴へ入る。
勝ったと思った足。
初めて自分から進んだように見える足。
だが、その穴はもう観測班の線ではなかった。
空けた穴だった。
ジンは右の低い溝へ移っている。
ラソアは左の車体の陰にいる。
二人の射線は、正面ではなく斜めに重なっていた。
久世が画面の前で言った。
「入った」
ジンは短く返す。
「今」
ミニミが鳴った。
ラソアのAKも重なる。
長くは撃たない。
叩いて、切る。
叩いて、切る。
敵は前の穴に入ったと思った瞬間、横から押さえられた。
伏せる。
逃げようとして後ろへ下がる。
だが、後ろから来た味方が詰まっている。
足が絡む。
声が番号を失う。
ジンは追わない。
ラソアも追わない。
追えば、今度はこちらが穴へ入る。
穴を取り返した気になるな。
穴は捨てたものだ。
捨てたものを取りに戻るやつから死ぬ。
ジンは、それを知っていた。
ラソアも知っていた。
自衛官ではない。
だが、現場を知っている兵士だった。
久世の声が落ちる。
「左、近い。壕に入るぞ」
ジンは身体を起こしかけた。
その瞬間、壕の曲がり角の向こうに影が見えた。
近い。
近すぎる。
長い銃は遅い。
ミニミは重い。
QBZ-191も、ここでは遅い。
曲がり角の戦闘は、距離ではなく、先に迷った方が死ぬ。
ラソアが動いた。
AKを下げ、身体だけを先に入れる。
銃で押すのではない。
肩で押し、膝で止め、相手の進む線を折る。
鈍い音。
短い息。
ラソアの肘が動く。
敵の足が崩れる。
ジンはその横から一瞬だけ銃口を入れ、すぐに引いた。
倒れたかどうかは見ない。
見る暇はない。
壕の中に入り込まれた敵は、一人で終わるとは限らない。
次が来る。
次の影が曲がり角に出る。
ラソアが叫ぶ。
「下がれ!」
ジンは半歩下がった。
ラソアは煙の残った筒を蹴り、曲がり角の向こうへ転がした。
煙がまた壕の中で割れる。
敵の影が止まる。
ジンは撃たない。
撃てば煙の中へ吸われる。
代わりに、ラソアが低い位置から一発だけ撃つ。
敵は伏せる。
伏せた敵の後ろが詰まる。
それだけでいい。
久世が言った。
「いい。そこに残るな」
ジンは返事をしない。
残らない。
さっきまでいた壕の曲がり角を捨て、さらに一歩下がる。
観測班の線が後退したように見える。
だが、全員が下がったわけではない。
右は残る。
中央は薄く見せる。
左は煙で切る。
ジンとラソアは、穴と穴の間を動き続ける。
姿を見せる。
消える。
別の場所から撃つ。
また消える。
敵に人数を数えさせない。
敵に位置を覚えさせない。
敵に「ここを抜けばいい」と思わせない。
それは派手な戦闘ではなかった。
だが、観測班が生きるための戦闘だった。
無線が割れた。
久世の声ではない。
敵の番号だった。
「四、回れ」
「五、後ろ」
久世がすぐに返す。
「楠本、後ろに回る」
「見えてる」
楠本一曹の声が近い。
「楠本班、後ろを見るな。私が見る。正面を捨てるな」
ジンはその声に被せた。
「久世、上は」
「一機、遠い。まだ落とすな」
ラソアが歯を鳴らした。
「また待つのか」
「待て」
「嫌だね」
「嫌でも待て」
ラソアはAKを下げた。
ドローンの羽音が煙の上を回る。
撃てば落ちるかもしれない。
だが、撃てばこちらの位置が空へ出る。
味方の火が来るまで、空に自分を売るわけにはいかない。
ラソアは小さく呟いた。
「待つのが一番疲れる」
ジンは答えた。
「だから兵士が死ぬ」
その時だった。
右の壕の出口で、若い隊員が一人、敵の影に反応して立ち上がりかけた。
ほんの少し。
本当に、膝が浮いただけだった。
だが、久世は見ていた。
そして、ジンも見ていた。
敵の別動が、そこへ銃口を向ける。
ジンは反射で動いた。
ミニミを抱えたまま、壕の上へ出る。
低くではない。
出すぎる。
久世が叫んだ。
「福岡仁、戻れ!」
ジンは止まらない。
若い隊員が死ぬ。
真壁が戻した線が、ここで切れる。
それだけが見えた。
ジンは前へ出る。
久世の声が割れた。
「真柴!」
無線が一瞬、固まった。
楠本一曹も、ラソアも、黒瀬も、その名前を聞いた。
ジンの足が、止まった。
止まったのは、ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬で、弾がジンの前を抜けた。
さっきまで胸があった場所を通った。
砂利が跳ねる。
ジンは横へ落ちる。
ラソアが煙の中から飛び出し、若い隊員の襟を掴んで壕の中へ引き倒した。
「寝てろ!」
隊員の息が潰れる。
だが、生きている。
ジンは泥に肩を打ちつけた。
ミニミを離さない。
耳の奥で、久世の声がまだ残っていた。
真柴。
福岡仁ではない。
真柴直樹。
久世が呼んだ。
教官が呼んだ。
ジンは泥の中で、一度だけ歯を噛んだ。
ラソアが横へ滑り込む。
「今の、誰だ」
ジンは答えない。
「お前か」
「黙れ」
「了解」
ラソアは、それ以上聞かなかった。
久世も沈黙した。
その沈黙を、楠本一曹が切った。
「今のは聞かなかった」
短い声だった。
「楠本班、戻る線を守れ。名前の話は後だ」
久世の呼吸が無線に入る。
わずかに荒い。
それでも、すぐに戻った。
「観測班、総員。敵、後方集結変化なし。前衛、分散継続。味方火力、最終調整」
ジンは泥の中から起き上がった。
「久世一尉」
「何だ」
「誘導しろ」
久世は一拍だけ黙った。
それから、いつもの乾いた声で返した。
「右の穴を捨てろ。左へ二つ移れ。そこから中央の足を止めろ」
「了解」
「同じ場所で撃つな」
「分かってる」
「死ぬな」
ジンはミニミを抱えた。
「命令か」
「命令だ」
「なら聞く」
ラソアが横で笑った。
「お前、命令好きだな」
「嫌いだ」
「じゃあ何が好きだ」
ジンは泥の向こうを見た。
真壁が作った道。
若い隊員の息。
久世の声。
楠本の怒鳴り。
ラソアの悪態。
全部、まだ残っている。
「返すことだ」
ラソアは一瞬だけ黙った。
それからAKを握り直した。
「なら、返しに行くぞ」
敵がまた動いた。
番号が飛ぶ。
声ではない。
人間の名前を捨てた命令。
ジンとラソアは、同時に別々の方向へ動いた。
右へ見せて、左へ撃つ。
撃って、沈む。
沈んで、煙の端を使う。
煙の中には入らない。
敵が入った穴は捨てる。
捨てた穴に入った敵を、斜めから止める。
長く撃たない。
追わない。
数秒を買う。
また数秒を買う。
それを積む。
火が来るまで。
味方の火が。
敵を焼く火が。
自分たちのすぐ近くにも落ちる火が。
久世の声が変わった。
「打撃、来る」
楠本一曹がすぐに叫ぶ。
「楠本班、深いところへ入れ! 浅い場所に残るな! 負傷者を抱えろ!」
ジンはミニミを抱えたまま、最後に一度だけ前を見た。
敵の足が走り出している。
遅い。
もう遅い。
ジンは短く鳴らした。
敵の足が止まる。
伏せる。
その一拍で、観測班の線が残る。
久世の声が最後に落ちた。
「頭を下げろ」
誰も英雄にならなかった。
誰も叫ばなかった。
観測班は、泥の中へ沈んだ。
火が来るまで、生き残るために。




