表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
70/241

第七十話 戻る線

## 第七十話 戻る線


 本流は、声から来た。


「聴党指揮!」


 富士川の風を裂いて、揃った叫びが落ちた。


 一人ではない。


 十人でもない。


 腹の底から揃えられた声。


 人間の声なのに、人間の迷いが削られている。


 コンテナの外で、若い隊員の一人が反射的にそちらを見た。


 久世一尉がすぐに言った。


「見るな」


 続けて、さらに大きな声。


「能打勝仗!」


 別の隊員の銃口がわずかに上がった。


 楠本一曹が怒鳴る。


「銃口を戻せ! 撃たされるな!」


 声は武器だった。


 弾ではない。


 だが、弾より先に人を動かす。


 大きな声は目を奪う。揃った声は、そこに本体があると錯覚させる。怒号は恐怖を作り、恐怖は判断を狭くし、判断が狭くなれば、人は前だけを見る。


 前だけを見れば、後ろで動かしている者を見失う。


 久世は、オペレーター室の画面を見たまま言った。


「声を聞くな。足を見ろ」


 若い隊員は、一瞬、その意味を理解できなかった。


 だから久世は続けた。


「声は見せ札だ」


 画面の中で、前列の兵たちが叫びながら進んでくる。


 腕を振る。


 胸を張る。


 前へ出る。


 叫ぶ。


 彼らは目立つ。


 見ようとしなくても見える。


「前で叫んでいる連中は、こっちの目と銃口を引きつけるために置かれている。撃たれる場所に立たされている」


 楠本一曹が低く言った。


「前は餌か」


「餌にされた兵だ」


 久世は答えた。


「餌を憎んでいる暇はない。針を見ろ」


 ジンは、コンテナの入口に立っていた。


 手にはQBZ-191。


 腰にはQSZ-193。


 どちらも馴染まない。


 それでいい。


 馴染ませるために持つのではない。


 声の後ろへ行くために持つ。


 ジンは前列の兵を見た。


 いや、正確には見てしまった。


 その中に一人、足が震えている若い兵がいた。


 口は周囲と同じ言葉を叫んでいる。


 だが、踵がほんの少しだけ後ろへ残る。膝が前へ出るのを嫌がっている。肩は怒っているように見えるのに、足だけが逃げ道を探している。


 敵だった。


 だが、敵である前に、弾にされた人間だった。


 誰かに声を入れられ、怒りを入れられ、死ぬ場所を与えられた足だった。


 その一瞬、ジンの中で選択肢が生まれた。


 前へ行く。


 あの若い兵を止める。


 富士川の隊員を守りながら、目の前の火を消す。


 人間としては、その方が自然だった。


 だが、視界の端で真壁三曹がわずかに位置を変えた。


 まだ前には出ていない。


 だが、前へ出る準備をしている。


 若い隊員が取り残されれば、真壁は行く。


 真壁は、そういう兵だった。


 戻る道を作るためなら、自分の戻る道を削る。


 ジンが前の若い敵兵に心を取られれば、真壁が先に動く。


 真壁が動けば、富士川無人観測班の地上の足が削られる。


 だから、ジンは前を捨てた。


 目の前の死にたくない足を救う選択肢を、捨てた。


 代わりに、後ろを見る。


 誰がその若い兵を死ぬ場所へ送っているのか。


 誰が富士川の若い隊員を撃たせようとしているのか。


 誰が真壁を前へ出させようとしているのか。


 ジンが見ていたのは、敵の勇気ではない。


 敵の恐怖でもない。


 誰が、その恐怖を使っているかだった。


 車列の影。


 通信機材の近く。


 撮影役の半歩後ろ。


 そこに男がいた。


 叫んでいない。


 拳も振っていない。


 前列の兵と同じ方向も見ていない。


 富士川側の銃口。


 前列の間隔。


 撮影役の位置。


 車両の退路。


 それらを順番に見ている。


 自分は死ぬ場所に立っていない。


 他人が死ぬ場所だけを、選んでいる。


 ジンは低く言った。


「前は声だ」


 久世が聞いた。


「後ろは」


「静かだ」


 楠本一曹が言った。


「それじゃ分からない。何を見てる」


 ジンは画面の端を指した。


「叫んでる連中は、見せるために出されてる。声が大きい。動きも大きい。死ぬ場所にいる」


「後ろの静かなやつは」


「死なない場所にいる」


 ジンは続けた。


「前列が止まるたび、顎だけ動く。通信役と撮影役の両方を見ている。前を見てない。結果を見てる」


 久世は画面を拡大した。


 映像は荒い。


 だが、形は見えた。


 声を出さない男。


 前に出ない男。


 富士川側がどこで撃つかを待っている男。


 黒瀬了が、コンテナの壁際で言った。


「現地指揮官だな」


 ジンは答えなかった。


 答える必要はない。


 見えた。


 見えた以上、選択肢はさらに減る。


 正面を受け続ければ、観測班が削られる。


 現地指揮官を放置すれば、次の前列が出る。


 撃たせれば、映像にされる。


 待てば、真壁が前へ出る。


 追えば、罠に入る。


 残った選択肢は一つだった。


 声の後ろへ行く。


 久世が言った。


「福岡仁」


 ジンは入口で足を止めた。


「お前の仕事は正面じゃない」


「分かってる」


「声に引っ張られるな」


「引っ張られない」


「なら、どこへ行く」


 ジンは泥の上の線を見た。


「声の後ろ」


 久世は一拍だけ黙った。


 その一拍で、オペレーター室の空気が詰まる。


 止めるか。


 行かせるか。


 久世は画面を見たまま言った。


「行け」


 楠本一曹が顔を向ける。


「一尉」


「行かせる」


「正面は」


「うちが受ける」


 楠本一曹は奥歯を噛んだ。


 その役を引き受けるということは、観測班が前列の声を受け続けるということだった。


 撃たれる。


 撮られる。


 揺さぶられる。


 それでも、ジンが後ろへ届くまで崩れない。


「嫌な役だね」


「いつものことだ」


 久世の声は乾いていた。


 楠本一曹は無線を握った。


「楠本班、前に出るな! 戻る線を切るな! 撃つなら止めるために撃て、追うために撃つな!」


 ジンは外へ出た。


 風が顔に当たる。


 硝煙の匂いはまだ薄い。


 だが、砂利の乾いた匂いと、焼けたゴムの匂いが混じっていた。


 口の中に、古い鉄の味がした。


 恐怖ではない。


 身体が、これから何をするかを先に理解した味だった。


 ラソアが少し遅れてついてくる。


「お前、あの銃を信用してないだろ」


「してない」


「じゃあ、何を信用する」


「足」


「便利な言葉だな」


「便利じゃない。嘘が少ないだけだ」


 敵の声が重なる。


「作風優良!」


 前列が一歩詰める。


 観測班側の銃口が揺れる。


 楠本一曹が怒鳴る。


「揺れるな! 隣を見ろ!」


 最初の銃声は、観測班側ではなかった。


 敵の前列の一人が撃った。


 狙いは甘い。


 だが、砂利が跳ねた場所は、若い隊員の足元に近かった。


 隊員が反射で腰を浮かせる。


 真壁三曹の声が飛ぶ。


「伏せろ!」


 その声と同時に、ミニミの短い音が河川敷を叩いた。


 倒すためではない。


 前へ出ようとした敵の足を止め、味方の頭を下げさせるための音だった。


 若い隊員が、土嚢の後ろに落ちる。


 息が詰まったような声が無線に入る。


「大丈夫です」


 楠本一曹が怒鳴る。


「返事より呼吸! 肩を落とせ!」


 ジンは、その間に白い箱の影へ入った。


 医療支援物資と書かれた箱だった。


 さっきまで紙を隠していた箱。


 今は、弾除けにもならない薄い板に見える。


 弾が近くを抜けた。


 箱の角が裂け、中の包帯が風に飛んだ。


 白い布が、河川敷を転がる。


 その白さが腹立たしかった。


 助けるためのものに、隠されていた紙。


 助けるための箱の陰で、今は人が死のうとしている。


 ジンは低く走った。


 足元の砂利が滑る。


 QBZ-191の重さが肩に遅れてついてくる。


 馴染まない。


 遅い。


 だが、遅さが分かっていれば、まだ使える。


 前方で敵の前列がばらけた。


 一人が叫びながら横へ流れ、ジンの進む線をふさいだ。


 その敵はジンを見ていなかった。


 観測班側を見ている。


 声に引っ張られ、自分の横に何がいるかを見ていない。


 ジンは撃たなかった。


 撃てば、音で後ろの男が引っ込む。


 身体を低くし、壊れた車体の陰へ滑り込む。


 膝が砂利に当たった。


 痛みが熱として上がる。


 戦術的なコスト。


 止まるほどではない。


 だが、身体のどこかが一つ遅くなる。


 ラソアの声が後ろで低く聞こえた。


「右、来るぞ」


 ジンは振り返らない。


 右から、前列の一人が回り込んできた。


 若い。


 顔がこわばっている。


 口だけが叫びの形をしている。


 目はジンを見ていない。


 ジンの持つ銃を見ている。


 敵か味方か、判断が遅れている。


 QBZ-191。


 その一瞬の誤認が、ジンに残った余白だった。


 ジンは身体をずらし、相手の進む線を外した。


 敵の肩が車体にぶつかる。


 鈍い音。


 ラソアがその兵を後ろから押さえ込む。


「行け」


 ジンは行った。


 足を止めれば、前の若い兵を見てしまう。


 見れば、迷う。


 迷えば、真壁が動く。


 だから進む。


 敵前列の声がまた揃いかける。


「聴党指揮!」


 現地指揮官の男が、車両の影から半歩だけ出た。


 右手が上がる。


 撮影役が膝をつく。


 通信役が男を見る。


 観測班側の若い隊員が、ほんの少しだけ前に出かける。


 真壁がその動きを見た。


 久世が言う。


「真壁、動くな」


 その瞬間、ジンは理解した。


 今だ。


 現地指揮官は、前列を動かすために安全な場所から半歩だけ出た。


 自分は死なないと思っている男が、他人を死ぬ場所へ送るために、ほんの半歩だけ自分の死ぬ場所へ出た。


 ジンはQBZ-191を肩へ入れた。


 馴染まない。


 構えの最後で、銃がわずかに遅れる。


 だから、無理に早くしない。


 遅れる分だけ、呼吸を先に捨てる。


 声が重なる。


「能打勝仗!」


 その音の下で、ジンは撃った。


 長い音ではなかった。


 富士川の風が、一瞬だけ声を削った。


 叫んでいない男が、声を出さないまま崩れた。


 だが、終わらなかった。


 現地指揮官の隣にいた通信役が、倒れた男へ手を伸ばしながら、もう一方の手で小さな機材を掴んだ。


 次の合図を出そうとしている。


 ジンは舌打ちもしなかった。


 選択肢がまた一つ消える。


 距離を詰めるしかない。


 QBZ-191を構え直すには、車体の影が狭すぎた。


 銃身が引っかかる。


 身体が遅れる。


 久世の声が無線に入る。


「残ってる」


「見えてる」


 ジンは小銃を無理に使わなかった。


 腰のQSZ-193を抜く。


 安心のためではない。


 最後の距離を間違えないために。


 通信役が機材を持ち上げる。


 撮影役がこちらを向く。


 レンズがジンを捕まえかける。


 ジンは前へ出た。


 車体の影を抜ける。


 風が顔に当たる。


 距離が消える。


 短い音が二つ鳴った。


 通信役が倒れた。


 撮影役のレンズが砂利に落ちた。


 割れる音は小さかった。


 だが、その音がジンには一番はっきり聞こえた。


 声は続いていた。


 前列の兵たちは、まだ叫んでいる。


 だが、足が遅れた。


 一拍。


 たった一拍。


 けれど、その一拍で声と足がずれた。


 叫んでいるのに進めない者。


 進んだが横を見る者。


 倒れた男を見る者。


 通信役へ視線を投げたあと、そこに誰もいないことに気づく者。


 誰の合図を待てばいいのか分からない足が、観測班の前でばらけた。


 ジンは倒れた男たちを長く見なかった。


 見れば、殺した事実が身体に入ってくる。


 身体に入れば、次の足が遅れる。


 だから見ない。


 ただ確認する。


 声を出していなかった男は、もう合図を出さない。


 通信役も、もう継げない。


 撮影役も、もう切り取れない。


 それだけでいい。


 久世の声が無線に落ちた。


「落ちた」


 楠本一曹が短く聞く。


「頭か」


「現地のな」


 黒瀬が言った。


「上の頭は別にいる」


 久世は答えた。


「分かってる」


 楠本一曹が叫ぶ。


「今だ! 押し返せ! 追うな! 戻る線だけ開けろ!」


 観測班側が動いた。


 声はまだ残っている。


 だが、もう揃っていない。


 前列の兵たちは、熱狂を残したまま行き先を失っていた。


 それは勝利ではなかった。


 ただ、観測班が息を吸うために買った、数秒だった。


 その数秒を、敵はすぐに奪い返しに来た。


 声は乱れた。


 だが、敵は止まらなかった。


 三人。


 二人。


 四人。


 小さな塊に分かれた敵が、河川敷の低い窪み、白い支援物資の箱、焼けた車両の陰を使って、観測班の線を裂きに来る。


 大きな波ではない。


 小さな波が、同時にいくつも来る。


 右を見れば左が薄くなる。


 左を押さえれば中央が空く。


 中央を守れば、前に出た隊員が戻れなくなる。


 久世は画面を見た。


 敵の足だけが増えていく。


「分散投入」


 黒瀬が画面を覗き込む。


「現地指揮官を落としても止まらないか」


「止めるための指揮官じゃなかった」


 久世は答えた。


「点火役だ」


 楠本一曹の声が無線に入る。


「どういう意味」


「最初から小分けにしてある。頭を落とされても、番号で動く」


 その直後、敵側の無線が雑音混じりに割り込んだ。


「二号、右」


「三、前」


「戻るな」


 人の名前はなかった。


 番号。


 方向。


 命令。


 それだけだった。


 楠本一曹が低く吐いた。


「名前くらい呼べっての」


 久世は返事をしなかった。


 画面の端で、別の小集団が右側へ流れている。


 その先には、若い隊員二人がいた。


 さっきまで戻る線の内側にいたはずの二人が、ばらけた敵を避けるうちに、白い箱と壊れた車両の間に押し出されていた。


 真壁三曹が気づいた。


「右、抜けます」


 久世の声がすぐに落ちた。


「真壁、出るな」


「穴を塞ぎます」


「それは誘いだ」


「分かってます」


「なら出るな」


 真壁は一拍だけ黙った。


 その沈黙の間に、敵の小集団がさらに寄る。


 若い隊員の一人が転び、もう一人がその襟を掴んだ。


 戻る線が細くなる。


 細くなりすぎる。


 真壁の声が戻った。


「塞がないと、後ろが穴になります」


 楠本一曹が無線に入った。


「真壁、死ぬんじゃないよ」


 いつもなら、真壁はこう答える。


 戻ります。


 だが、その時だけ違った。


「戻します」


 楠本一曹の顔が変わった。


 久世の声が硬くなる。


「真壁」


「道を作ります」


「お前が戻れない」


「二人は戻れます」


 真壁三曹が動いた。


 派手ではなかった。


 英雄のようでもなかった。


 ただ、仲間が戻るための線に、自分の身体を入れた。


 ミニミの音が河川敷を叩く。


 敵を倒すためだけの音ではない。


 前に出ようとする足を止める音。


 若い隊員の頭を下げさせる音。


 戻る線を、泥の上に一瞬だけ作る音だった。


「走れ!」


 楠本一曹が叫んだ。


「止まるな! こっちまで来い!」


 若い隊員二人が動いた。


 一人は肩を押さえ、もう一人はその襟を掴んでいる。助け合っているというより、どちらかが手を離せば、二人ともその場に落ちてしまうような戻り方だった。


 真壁はその後ろに残った。


 敵の小集団が、真壁の位置へ寄る。


 無人機の映像が、煙と砂で一瞬白くなる。


 久世は画面から目を離さない。


 離せなかった。


「真壁」


 返事はない。


「真壁、応答しろ」


 雑音。


 風。


 ばらけた敵の声。


 返事はない。


「真壁」


 久世の声は崩れなかった。


 崩してはいけなかった。


 崩れたら、画面の中の線も崩れる。


 崩れた声は、すぐに味方へ伝染する。


 だから久世は、真壁の名前を呼びながら、同時に敵の足を見ていた。


 楠本一曹が、コンテナの外で前へ出ようとした。


「楠本」


 久世の声が刺さる。


「動くな」


「真壁が」


「お前が出たら現場が落ちる」


 楠本一曹は止まった。


 足が止まっただけで、身体の中は止まっていなかった。


 拳が震えている。


 奥歯が鳴るほど噛みしめている。


 それでも止まった。


 指揮官だから。


 助けに行きたい人間だからこそ、行けなかった。


 若い隊員二人が、泥の上を転がるようにして戻ってきた。


 楠本一曹は、その胸ぐらを掴んで土嚢の内側へ押し込んだ。


「中へ入れ! 止まるな! 息してるなら動け!」


 隊員の一人が何かを言おうとした。


 声にならない。


「謝るな!」


 楠本一曹が怒鳴った。


「まだ終わってない!」


 謝らせたら、そこで足が止まる。


 足が止まれば、次が死ぬ。


 だから、怒鳴るしかなかった。


 ジンは、その時にはもう走っていた。


「福岡仁、戻れ」


 久世の声が飛ぶ。


 ジンは答えない。


「戻れ」


 ジンは泥の上を進む。


 真壁のところまで、あと十数メートル。


 近い。


 だが、戦場の十数メートルは、廊下の十数メートルとは違う。


 砂利が滑る。


 泥が足を持っていく。


 破れた包帯が風に飛び、視界の端で人影に見える。


 銃声は遠いのか近いのか分からない。


 右から来た音が、左の耳を叩く。


 口の中に、鉄と砂の味がする。


 ジンは走りながら、前列の残党を見た。


 目が血走っている者。


 叫びが途中で切れている者。


 自分が何をしているのか、分からなくなっている者。


 それでも足だけは前へ出ている。


 人間が命令から遅れているのに、足だけが命令を覚えている。


 嫌な光景だった。


 ジンは真壁の横に膝をついた。


「真壁」


 返事はない。


 顔を見た。


 長くは見なかった。


 見ると止まる。


 止まれば、真壁が戻した二人分の時間を捨てることになる。


 ジンは、ミニミに手を伸ばした。


 泥がついていた。


 重かった。


 QBZ-191とは違う重さだった。


 敵の線に入るために渡された借り物ではない。


 富士川の地上の足が、最後まで握っていた重さだった。


 ジンは低く言った。


「借りるぞ」


 その時、上から羽音が落ちてきた。


 小さい。


 蜂より低い。


 玩具より重い。


 だが、戦場に玩具は飛ばない。


 ジンは顔を上げた。


 煙の上。


 電線のない空の低いところ。


 小型ドローンが揺れていた。


 腹に、何かを抱えている。


 筒状のもの。


 落とすためのもの。


 久世の声が、一瞬で変わった。


「上だ」


 楠本一曹が叫ぶ。


「伏せろ!」


 ジンは動けなかった。


 ミニミを掴んだまま、真壁の横にいる。


 自分だけ伏せればいい場所ではない。


 真壁の身体がそこにある。


 持ち上げるには遅い。


 捨てて逃げるには、もっと遅い。


 あと少しだった。


 あと少しで、真壁のミニミを持ち上げ、戻る線を作れる。


 あと少しで、観測班は息を吸える。


 だが、その少しが遠い。


 ドローンが、腹の下で小さく揺れた。


 落ちる。


 そう思った瞬間、河川敷の横からエンジン音が割り込んだ。


 古い商用車だった。


 白い車体。


 左側のドアがへこみ、フロントガラスには蜘蛛の巣みたいなひびが入っている。


 それでも走っていた。


 砂利を跳ね、泥を飛ばし、荷台から弾箱と何か長い筒を転がしながら、車は敵の小集団とジンの間へ突っ込んできた。


 運転席で、ラソアが歯をむいていた。


「伏せろ、ジン!」


 ジンは反射で真壁の横へ身体を落とした。


 車が横滑りした。


 敵の小集団が散る。


 一人が車体の前に跳ね飛ばされ、もう一人が叫びながら後ろへ倒れた。


 商用車は完全には止まらない。


 半回転するように尻を振り、ジンと敵の間に斜めに刺さった。


 即席の壁。


 燃料の匂い。


 焼けたゴム。


 荷台から落ちた弾箱が、泥の上で口を開けた。


 ラソアは運転席から転がり落ちるように出た。


 手には、敵から拾ったAKがあった。


「上!」


 久世の声が飛ぶ。


 ラソアは空を見た。


 小型ドローンが、車の上で揺れている。


 近い。


 近すぎる。


 普通に狙って落とすには、もう遅い。


 ラソアは舌打ちした。


「くそ」


 それでも撃った。


 一発目は外れた。


 ドローンが横に逃げる。


 二発目。


 空中で、弾が一つの線ではない散り方をした。


 ラソア自身が、撃った後に気づいた。


 弾が割れた。


 点ではなく、細かい破片のように広がった。


 ドローンの片側が弾ける。


 羽音が壊れる。


 機体が傾く。


 腹に抱えたものが、泥の上へ落ちかける。


「離れろ!」


 楠本一曹の声が割れた。


 ジンは真壁のミニミを掴んだまま、身体を横へ投げた。


 ラソアも車体の陰へ飛ぶ。


 ドローンは、敵と観測班の間の何もない泥の上へ落ちた。


 鈍い爆発。


 大きくはない。


 だが、近い。


 泥と砂利が雨のように降った。


 ジンの頬に熱いものが当たる。


 耳が一瞬、何も聞こえなくなる。


 音が消えた世界で、ラソアの口だけが動いていた。


 次に、音が戻った。


「生きてるか!」


 ラソアの声だった。


 ジンは咳き込んだ。


 口の中に泥と鉄の味がある。


「生きてる」


「その銃、持てるか」


 ジンはミニミを抱え直した。


 重い。


 腕が沈む。


 だが、持てる。


「借りてる」


「誰から」


 ジンは答えなかった。


 ラソアは真壁を見た。


 一瞬だけ、冗談の顔が消えた。


 すぐに戻した。


 戻さなければ、ここでは動けない。


「遅れた」


 ジンは短く言った。


「間に合った」


 ラソアは首を振った。


「違う」


 ジンも分かっていた。


 真壁には間に合っていない。


 間に合ったのは、その後だった。


 真壁が作った数秒に、ラソアが滑り込んだ。


 その数秒がなければ、ジンも、若い隊員たちも、観測班の線も、今ここで裂けていた。


 無線から久世の声が戻った。


「ラソア」


「聞こえてる」


「お前が撃った弾、普通じゃない」


 ラソアはAKの弾倉を見た。


 弾の先端に、見慣れない処理がある。


 撃つ前には気づかなかった。


 気づく暇もなかった。


「敵のだ」


「対ドローン用だろうな」


「先に言え」


「拾ったのはお前だ」


 ラソアは短く笑った。


「嫌な教官だ」


 久世は答えなかった。


 その代わり、画面を読む声に戻る。


 空から地上を見る声。


「敵、分散継続。右に二、中央に三。後方にさらに熱源」


 楠本一曹が怒鳴る。


「右を止めろ! 中央は下がるな! 真壁の線を閉じさせるな!」


 ジンはミニミを構えた。


 身体はまだ爆発の余波で揺れている。


 耳の奥が鳴っている。


 膝が痛い。


 肩に、真壁の重さが乗っている。


 ラソアが荷台から弾箱を蹴り寄せた。


「持ってきたぞ」


「多いな」


「お前はすぐ足りなくなる」


「俺のせいじゃない」


「だいたいお前のせいだ」


 敵の小集団が、車体の向こうで立て直そうとしている。


 さっきまでの声はもうない。


 代わりに、短い符号のような叫びが飛んでいた。


 番号。


 方向。


 前へ。


 横へ。


 戻るな。


 人間の名前はない。


 久世が低く言った。


「番号で動かしてる」


 楠本一曹が返す。


「名前くらい呼べっての」


 ジンは真壁のミニミを抱えた。


 敵は番号で動く。


 観測班は名前で呼ぶ。


 それだけの違いが、今はひどく重かった。


 久世の声が、全員に落ちる。


「観測班、総員」


 無線の向こうで、誰も余計な返事をしなかった。


「真壁が作った道を閉じさせるな」


 楠本一曹がすぐに引き継いだ。


「楠本班、戻る線を守れ。右を止めろ。中央は下がるな。負傷者を中へ入れろ」


 ラソアは車体の陰でAKを握り直した。


 ジンはミニミの重さを受けた。


 真壁は戻らなかった。


 だが、真壁が作った道は、まだ閉じていない。


 あと少しで間に合わなかったものがある。


 それでも、あと少しで間に合ったものもある。


 久世は、そこで別系統の端末を開いた。


 指は速くない。


 左手の二本は、もう昔のようには動かない。


 それでも、必要な場所だけは外さなかった。


 無人機の映像。


 熱源の塊。


 東海道側の低地。


 複数の車両。


 通信中継。


 短時間で組まれた遮蔽。


 さらに後方から寄ってくる別の足。


 久世は、そこに印を置いた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 画面の中で、敵の本流が形を持ち始める。


 今ここで観測班を裂いているのは、まだ前菜だった。


 本隊は近い。


 近すぎる。


 久世は無線を切り替えた。


「富士川無人観測班より、後方火力調整」


 遠い司令の声が返る。


 雑音混じりの応答。


 久世は続けた。


「敵、大規模集結地を確認。特科、空自、無人機群への同時打撃を要請。座標、送る」


 楠本一曹が聞いた。


「どれくらいで来る」


 久世は画面から目を離さない。


「長い」


「数字で言え」


「ここで耐えるには、長い」


 楠本一曹は、一度だけ目を閉じた。


 次に開いた時、もう真壁の方は見なかった。


「分かった」


 ジンは、泥の向こうで動く敵の足を見た。


 そして、低く言った。


「返すぞ、真壁」


 ミニミが鳴った。


 観測班の線は、まだ切れていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ