第七十話 戻る線
## 第七十話 戻る線
本流は、声から来た。
「聴党指揮!」
富士川の風を裂いて、揃った叫びが落ちた。
一人ではない。
十人でもない。
腹の底から揃えられた声。
人間の声なのに、人間の迷いが削られている。
コンテナの外で、若い隊員の一人が反射的にそちらを見た。
久世一尉がすぐに言った。
「見るな」
続けて、さらに大きな声。
「能打勝仗!」
別の隊員の銃口がわずかに上がった。
楠本一曹が怒鳴る。
「銃口を戻せ! 撃たされるな!」
声は武器だった。
弾ではない。
だが、弾より先に人を動かす。
大きな声は目を奪う。揃った声は、そこに本体があると錯覚させる。怒号は恐怖を作り、恐怖は判断を狭くし、判断が狭くなれば、人は前だけを見る。
前だけを見れば、後ろで動かしている者を見失う。
久世は、オペレーター室の画面を見たまま言った。
「声を聞くな。足を見ろ」
若い隊員は、一瞬、その意味を理解できなかった。
だから久世は続けた。
「声は見せ札だ」
画面の中で、前列の兵たちが叫びながら進んでくる。
腕を振る。
胸を張る。
前へ出る。
叫ぶ。
彼らは目立つ。
見ようとしなくても見える。
「前で叫んでいる連中は、こっちの目と銃口を引きつけるために置かれている。撃たれる場所に立たされている」
楠本一曹が低く言った。
「前は餌か」
「餌にされた兵だ」
久世は答えた。
「餌を憎んでいる暇はない。針を見ろ」
ジンは、コンテナの入口に立っていた。
手にはQBZ-191。
腰にはQSZ-193。
どちらも馴染まない。
それでいい。
馴染ませるために持つのではない。
声の後ろへ行くために持つ。
ジンは前列の兵を見た。
いや、正確には見てしまった。
その中に一人、足が震えている若い兵がいた。
口は周囲と同じ言葉を叫んでいる。
だが、踵がほんの少しだけ後ろへ残る。膝が前へ出るのを嫌がっている。肩は怒っているように見えるのに、足だけが逃げ道を探している。
敵だった。
だが、敵である前に、弾にされた人間だった。
誰かに声を入れられ、怒りを入れられ、死ぬ場所を与えられた足だった。
その一瞬、ジンの中で選択肢が生まれた。
前へ行く。
あの若い兵を止める。
富士川の隊員を守りながら、目の前の火を消す。
人間としては、その方が自然だった。
だが、視界の端で真壁三曹がわずかに位置を変えた。
まだ前には出ていない。
だが、前へ出る準備をしている。
若い隊員が取り残されれば、真壁は行く。
真壁は、そういう兵だった。
戻る道を作るためなら、自分の戻る道を削る。
ジンが前の若い敵兵に心を取られれば、真壁が先に動く。
真壁が動けば、富士川無人観測班の地上の足が削られる。
だから、ジンは前を捨てた。
目の前の死にたくない足を救う選択肢を、捨てた。
代わりに、後ろを見る。
誰がその若い兵を死ぬ場所へ送っているのか。
誰が富士川の若い隊員を撃たせようとしているのか。
誰が真壁を前へ出させようとしているのか。
ジンが見ていたのは、敵の勇気ではない。
敵の恐怖でもない。
誰が、その恐怖を使っているかだった。
車列の影。
通信機材の近く。
撮影役の半歩後ろ。
そこに男がいた。
叫んでいない。
拳も振っていない。
前列の兵と同じ方向も見ていない。
富士川側の銃口。
前列の間隔。
撮影役の位置。
車両の退路。
それらを順番に見ている。
自分は死ぬ場所に立っていない。
他人が死ぬ場所だけを、選んでいる。
ジンは低く言った。
「前は声だ」
久世が聞いた。
「後ろは」
「静かだ」
楠本一曹が言った。
「それじゃ分からない。何を見てる」
ジンは画面の端を指した。
「叫んでる連中は、見せるために出されてる。声が大きい。動きも大きい。死ぬ場所にいる」
「後ろの静かなやつは」
「死なない場所にいる」
ジンは続けた。
「前列が止まるたび、顎だけ動く。通信役と撮影役の両方を見ている。前を見てない。結果を見てる」
久世は画面を拡大した。
映像は荒い。
だが、形は見えた。
声を出さない男。
前に出ない男。
富士川側がどこで撃つかを待っている男。
黒瀬了が、コンテナの壁際で言った。
「現地指揮官だな」
ジンは答えなかった。
答える必要はない。
見えた。
見えた以上、選択肢はさらに減る。
正面を受け続ければ、観測班が削られる。
現地指揮官を放置すれば、次の前列が出る。
撃たせれば、映像にされる。
待てば、真壁が前へ出る。
追えば、罠に入る。
残った選択肢は一つだった。
声の後ろへ行く。
久世が言った。
「福岡仁」
ジンは入口で足を止めた。
「お前の仕事は正面じゃない」
「分かってる」
「声に引っ張られるな」
「引っ張られない」
「なら、どこへ行く」
ジンは泥の上の線を見た。
「声の後ろ」
久世は一拍だけ黙った。
その一拍で、オペレーター室の空気が詰まる。
止めるか。
行かせるか。
久世は画面を見たまま言った。
「行け」
楠本一曹が顔を向ける。
「一尉」
「行かせる」
「正面は」
「うちが受ける」
楠本一曹は奥歯を噛んだ。
その役を引き受けるということは、観測班が前列の声を受け続けるということだった。
撃たれる。
撮られる。
揺さぶられる。
それでも、ジンが後ろへ届くまで崩れない。
「嫌な役だね」
「いつものことだ」
久世の声は乾いていた。
楠本一曹は無線を握った。
「楠本班、前に出るな! 戻る線を切るな! 撃つなら止めるために撃て、追うために撃つな!」
ジンは外へ出た。
風が顔に当たる。
硝煙の匂いはまだ薄い。
だが、砂利の乾いた匂いと、焼けたゴムの匂いが混じっていた。
口の中に、古い鉄の味がした。
恐怖ではない。
身体が、これから何をするかを先に理解した味だった。
ラソアが少し遅れてついてくる。
「お前、あの銃を信用してないだろ」
「してない」
「じゃあ、何を信用する」
「足」
「便利な言葉だな」
「便利じゃない。嘘が少ないだけだ」
敵の声が重なる。
「作風優良!」
前列が一歩詰める。
観測班側の銃口が揺れる。
楠本一曹が怒鳴る。
「揺れるな! 隣を見ろ!」
最初の銃声は、観測班側ではなかった。
敵の前列の一人が撃った。
狙いは甘い。
だが、砂利が跳ねた場所は、若い隊員の足元に近かった。
隊員が反射で腰を浮かせる。
真壁三曹の声が飛ぶ。
「伏せろ!」
その声と同時に、ミニミの短い音が河川敷を叩いた。
倒すためではない。
前へ出ようとした敵の足を止め、味方の頭を下げさせるための音だった。
若い隊員が、土嚢の後ろに落ちる。
息が詰まったような声が無線に入る。
「大丈夫です」
楠本一曹が怒鳴る。
「返事より呼吸! 肩を落とせ!」
ジンは、その間に白い箱の影へ入った。
医療支援物資と書かれた箱だった。
さっきまで紙を隠していた箱。
今は、弾除けにもならない薄い板に見える。
弾が近くを抜けた。
箱の角が裂け、中の包帯が風に飛んだ。
白い布が、河川敷を転がる。
その白さが腹立たしかった。
助けるためのものに、隠されていた紙。
助けるための箱の陰で、今は人が死のうとしている。
ジンは低く走った。
足元の砂利が滑る。
QBZ-191の重さが肩に遅れてついてくる。
馴染まない。
遅い。
だが、遅さが分かっていれば、まだ使える。
前方で敵の前列がばらけた。
一人が叫びながら横へ流れ、ジンの進む線をふさいだ。
その敵はジンを見ていなかった。
観測班側を見ている。
声に引っ張られ、自分の横に何がいるかを見ていない。
ジンは撃たなかった。
撃てば、音で後ろの男が引っ込む。
身体を低くし、壊れた車体の陰へ滑り込む。
膝が砂利に当たった。
痛みが熱として上がる。
戦術的なコスト。
止まるほどではない。
だが、身体のどこかが一つ遅くなる。
ラソアの声が後ろで低く聞こえた。
「右、来るぞ」
ジンは振り返らない。
右から、前列の一人が回り込んできた。
若い。
顔がこわばっている。
口だけが叫びの形をしている。
目はジンを見ていない。
ジンの持つ銃を見ている。
敵か味方か、判断が遅れている。
QBZ-191。
その一瞬の誤認が、ジンに残った余白だった。
ジンは身体をずらし、相手の進む線を外した。
敵の肩が車体にぶつかる。
鈍い音。
ラソアがその兵を後ろから押さえ込む。
「行け」
ジンは行った。
足を止めれば、前の若い兵を見てしまう。
見れば、迷う。
迷えば、真壁が動く。
だから進む。
敵前列の声がまた揃いかける。
「聴党指揮!」
現地指揮官の男が、車両の影から半歩だけ出た。
右手が上がる。
撮影役が膝をつく。
通信役が男を見る。
観測班側の若い隊員が、ほんの少しだけ前に出かける。
真壁がその動きを見た。
久世が言う。
「真壁、動くな」
その瞬間、ジンは理解した。
今だ。
現地指揮官は、前列を動かすために安全な場所から半歩だけ出た。
自分は死なないと思っている男が、他人を死ぬ場所へ送るために、ほんの半歩だけ自分の死ぬ場所へ出た。
ジンはQBZ-191を肩へ入れた。
馴染まない。
構えの最後で、銃がわずかに遅れる。
だから、無理に早くしない。
遅れる分だけ、呼吸を先に捨てる。
声が重なる。
「能打勝仗!」
その音の下で、ジンは撃った。
長い音ではなかった。
富士川の風が、一瞬だけ声を削った。
叫んでいない男が、声を出さないまま崩れた。
だが、終わらなかった。
現地指揮官の隣にいた通信役が、倒れた男へ手を伸ばしながら、もう一方の手で小さな機材を掴んだ。
次の合図を出そうとしている。
ジンは舌打ちもしなかった。
選択肢がまた一つ消える。
距離を詰めるしかない。
QBZ-191を構え直すには、車体の影が狭すぎた。
銃身が引っかかる。
身体が遅れる。
久世の声が無線に入る。
「残ってる」
「見えてる」
ジンは小銃を無理に使わなかった。
腰のQSZ-193を抜く。
安心のためではない。
最後の距離を間違えないために。
通信役が機材を持ち上げる。
撮影役がこちらを向く。
レンズがジンを捕まえかける。
ジンは前へ出た。
車体の影を抜ける。
風が顔に当たる。
距離が消える。
短い音が二つ鳴った。
通信役が倒れた。
撮影役のレンズが砂利に落ちた。
割れる音は小さかった。
だが、その音がジンには一番はっきり聞こえた。
声は続いていた。
前列の兵たちは、まだ叫んでいる。
だが、足が遅れた。
一拍。
たった一拍。
けれど、その一拍で声と足がずれた。
叫んでいるのに進めない者。
進んだが横を見る者。
倒れた男を見る者。
通信役へ視線を投げたあと、そこに誰もいないことに気づく者。
誰の合図を待てばいいのか分からない足が、観測班の前でばらけた。
ジンは倒れた男たちを長く見なかった。
見れば、殺した事実が身体に入ってくる。
身体に入れば、次の足が遅れる。
だから見ない。
ただ確認する。
声を出していなかった男は、もう合図を出さない。
通信役も、もう継げない。
撮影役も、もう切り取れない。
それだけでいい。
久世の声が無線に落ちた。
「落ちた」
楠本一曹が短く聞く。
「頭か」
「現地のな」
黒瀬が言った。
「上の頭は別にいる」
久世は答えた。
「分かってる」
楠本一曹が叫ぶ。
「今だ! 押し返せ! 追うな! 戻る線だけ開けろ!」
観測班側が動いた。
声はまだ残っている。
だが、もう揃っていない。
前列の兵たちは、熱狂を残したまま行き先を失っていた。
それは勝利ではなかった。
ただ、観測班が息を吸うために買った、数秒だった。
その数秒を、敵はすぐに奪い返しに来た。
声は乱れた。
だが、敵は止まらなかった。
三人。
二人。
四人。
小さな塊に分かれた敵が、河川敷の低い窪み、白い支援物資の箱、焼けた車両の陰を使って、観測班の線を裂きに来る。
大きな波ではない。
小さな波が、同時にいくつも来る。
右を見れば左が薄くなる。
左を押さえれば中央が空く。
中央を守れば、前に出た隊員が戻れなくなる。
久世は画面を見た。
敵の足だけが増えていく。
「分散投入」
黒瀬が画面を覗き込む。
「現地指揮官を落としても止まらないか」
「止めるための指揮官じゃなかった」
久世は答えた。
「点火役だ」
楠本一曹の声が無線に入る。
「どういう意味」
「最初から小分けにしてある。頭を落とされても、番号で動く」
その直後、敵側の無線が雑音混じりに割り込んだ。
「二号、右」
「三、前」
「戻るな」
人の名前はなかった。
番号。
方向。
命令。
それだけだった。
楠本一曹が低く吐いた。
「名前くらい呼べっての」
久世は返事をしなかった。
画面の端で、別の小集団が右側へ流れている。
その先には、若い隊員二人がいた。
さっきまで戻る線の内側にいたはずの二人が、ばらけた敵を避けるうちに、白い箱と壊れた車両の間に押し出されていた。
真壁三曹が気づいた。
「右、抜けます」
久世の声がすぐに落ちた。
「真壁、出るな」
「穴を塞ぎます」
「それは誘いだ」
「分かってます」
「なら出るな」
真壁は一拍だけ黙った。
その沈黙の間に、敵の小集団がさらに寄る。
若い隊員の一人が転び、もう一人がその襟を掴んだ。
戻る線が細くなる。
細くなりすぎる。
真壁の声が戻った。
「塞がないと、後ろが穴になります」
楠本一曹が無線に入った。
「真壁、死ぬんじゃないよ」
いつもなら、真壁はこう答える。
戻ります。
だが、その時だけ違った。
「戻します」
楠本一曹の顔が変わった。
久世の声が硬くなる。
「真壁」
「道を作ります」
「お前が戻れない」
「二人は戻れます」
真壁三曹が動いた。
派手ではなかった。
英雄のようでもなかった。
ただ、仲間が戻るための線に、自分の身体を入れた。
ミニミの音が河川敷を叩く。
敵を倒すためだけの音ではない。
前に出ようとする足を止める音。
若い隊員の頭を下げさせる音。
戻る線を、泥の上に一瞬だけ作る音だった。
「走れ!」
楠本一曹が叫んだ。
「止まるな! こっちまで来い!」
若い隊員二人が動いた。
一人は肩を押さえ、もう一人はその襟を掴んでいる。助け合っているというより、どちらかが手を離せば、二人ともその場に落ちてしまうような戻り方だった。
真壁はその後ろに残った。
敵の小集団が、真壁の位置へ寄る。
無人機の映像が、煙と砂で一瞬白くなる。
久世は画面から目を離さない。
離せなかった。
「真壁」
返事はない。
「真壁、応答しろ」
雑音。
風。
ばらけた敵の声。
返事はない。
「真壁」
久世の声は崩れなかった。
崩してはいけなかった。
崩れたら、画面の中の線も崩れる。
崩れた声は、すぐに味方へ伝染する。
だから久世は、真壁の名前を呼びながら、同時に敵の足を見ていた。
楠本一曹が、コンテナの外で前へ出ようとした。
「楠本」
久世の声が刺さる。
「動くな」
「真壁が」
「お前が出たら現場が落ちる」
楠本一曹は止まった。
足が止まっただけで、身体の中は止まっていなかった。
拳が震えている。
奥歯が鳴るほど噛みしめている。
それでも止まった。
指揮官だから。
助けに行きたい人間だからこそ、行けなかった。
若い隊員二人が、泥の上を転がるようにして戻ってきた。
楠本一曹は、その胸ぐらを掴んで土嚢の内側へ押し込んだ。
「中へ入れ! 止まるな! 息してるなら動け!」
隊員の一人が何かを言おうとした。
声にならない。
「謝るな!」
楠本一曹が怒鳴った。
「まだ終わってない!」
謝らせたら、そこで足が止まる。
足が止まれば、次が死ぬ。
だから、怒鳴るしかなかった。
ジンは、その時にはもう走っていた。
「福岡仁、戻れ」
久世の声が飛ぶ。
ジンは答えない。
「戻れ」
ジンは泥の上を進む。
真壁のところまで、あと十数メートル。
近い。
だが、戦場の十数メートルは、廊下の十数メートルとは違う。
砂利が滑る。
泥が足を持っていく。
破れた包帯が風に飛び、視界の端で人影に見える。
銃声は遠いのか近いのか分からない。
右から来た音が、左の耳を叩く。
口の中に、鉄と砂の味がする。
ジンは走りながら、前列の残党を見た。
目が血走っている者。
叫びが途中で切れている者。
自分が何をしているのか、分からなくなっている者。
それでも足だけは前へ出ている。
人間が命令から遅れているのに、足だけが命令を覚えている。
嫌な光景だった。
ジンは真壁の横に膝をついた。
「真壁」
返事はない。
顔を見た。
長くは見なかった。
見ると止まる。
止まれば、真壁が戻した二人分の時間を捨てることになる。
ジンは、ミニミに手を伸ばした。
泥がついていた。
重かった。
QBZ-191とは違う重さだった。
敵の線に入るために渡された借り物ではない。
富士川の地上の足が、最後まで握っていた重さだった。
ジンは低く言った。
「借りるぞ」
その時、上から羽音が落ちてきた。
小さい。
蜂より低い。
玩具より重い。
だが、戦場に玩具は飛ばない。
ジンは顔を上げた。
煙の上。
電線のない空の低いところ。
小型ドローンが揺れていた。
腹に、何かを抱えている。
筒状のもの。
落とすためのもの。
久世の声が、一瞬で変わった。
「上だ」
楠本一曹が叫ぶ。
「伏せろ!」
ジンは動けなかった。
ミニミを掴んだまま、真壁の横にいる。
自分だけ伏せればいい場所ではない。
真壁の身体がそこにある。
持ち上げるには遅い。
捨てて逃げるには、もっと遅い。
あと少しだった。
あと少しで、真壁のミニミを持ち上げ、戻る線を作れる。
あと少しで、観測班は息を吸える。
だが、その少しが遠い。
ドローンが、腹の下で小さく揺れた。
落ちる。
そう思った瞬間、河川敷の横からエンジン音が割り込んだ。
古い商用車だった。
白い車体。
左側のドアがへこみ、フロントガラスには蜘蛛の巣みたいなひびが入っている。
それでも走っていた。
砂利を跳ね、泥を飛ばし、荷台から弾箱と何か長い筒を転がしながら、車は敵の小集団とジンの間へ突っ込んできた。
運転席で、ラソアが歯をむいていた。
「伏せろ、ジン!」
ジンは反射で真壁の横へ身体を落とした。
車が横滑りした。
敵の小集団が散る。
一人が車体の前に跳ね飛ばされ、もう一人が叫びながら後ろへ倒れた。
商用車は完全には止まらない。
半回転するように尻を振り、ジンと敵の間に斜めに刺さった。
即席の壁。
燃料の匂い。
焼けたゴム。
荷台から落ちた弾箱が、泥の上で口を開けた。
ラソアは運転席から転がり落ちるように出た。
手には、敵から拾ったAKがあった。
「上!」
久世の声が飛ぶ。
ラソアは空を見た。
小型ドローンが、車の上で揺れている。
近い。
近すぎる。
普通に狙って落とすには、もう遅い。
ラソアは舌打ちした。
「くそ」
それでも撃った。
一発目は外れた。
ドローンが横に逃げる。
二発目。
空中で、弾が一つの線ではない散り方をした。
ラソア自身が、撃った後に気づいた。
弾が割れた。
点ではなく、細かい破片のように広がった。
ドローンの片側が弾ける。
羽音が壊れる。
機体が傾く。
腹に抱えたものが、泥の上へ落ちかける。
「離れろ!」
楠本一曹の声が割れた。
ジンは真壁のミニミを掴んだまま、身体を横へ投げた。
ラソアも車体の陰へ飛ぶ。
ドローンは、敵と観測班の間の何もない泥の上へ落ちた。
鈍い爆発。
大きくはない。
だが、近い。
泥と砂利が雨のように降った。
ジンの頬に熱いものが当たる。
耳が一瞬、何も聞こえなくなる。
音が消えた世界で、ラソアの口だけが動いていた。
次に、音が戻った。
「生きてるか!」
ラソアの声だった。
ジンは咳き込んだ。
口の中に泥と鉄の味がある。
「生きてる」
「その銃、持てるか」
ジンはミニミを抱え直した。
重い。
腕が沈む。
だが、持てる。
「借りてる」
「誰から」
ジンは答えなかった。
ラソアは真壁を見た。
一瞬だけ、冗談の顔が消えた。
すぐに戻した。
戻さなければ、ここでは動けない。
「遅れた」
ジンは短く言った。
「間に合った」
ラソアは首を振った。
「違う」
ジンも分かっていた。
真壁には間に合っていない。
間に合ったのは、その後だった。
真壁が作った数秒に、ラソアが滑り込んだ。
その数秒がなければ、ジンも、若い隊員たちも、観測班の線も、今ここで裂けていた。
無線から久世の声が戻った。
「ラソア」
「聞こえてる」
「お前が撃った弾、普通じゃない」
ラソアはAKの弾倉を見た。
弾の先端に、見慣れない処理がある。
撃つ前には気づかなかった。
気づく暇もなかった。
「敵のだ」
「対ドローン用だろうな」
「先に言え」
「拾ったのはお前だ」
ラソアは短く笑った。
「嫌な教官だ」
久世は答えなかった。
その代わり、画面を読む声に戻る。
空から地上を見る声。
「敵、分散継続。右に二、中央に三。後方にさらに熱源」
楠本一曹が怒鳴る。
「右を止めろ! 中央は下がるな! 真壁の線を閉じさせるな!」
ジンはミニミを構えた。
身体はまだ爆発の余波で揺れている。
耳の奥が鳴っている。
膝が痛い。
肩に、真壁の重さが乗っている。
ラソアが荷台から弾箱を蹴り寄せた。
「持ってきたぞ」
「多いな」
「お前はすぐ足りなくなる」
「俺のせいじゃない」
「だいたいお前のせいだ」
敵の小集団が、車体の向こうで立て直そうとしている。
さっきまでの声はもうない。
代わりに、短い符号のような叫びが飛んでいた。
番号。
方向。
前へ。
横へ。
戻るな。
人間の名前はない。
久世が低く言った。
「番号で動かしてる」
楠本一曹が返す。
「名前くらい呼べっての」
ジンは真壁のミニミを抱えた。
敵は番号で動く。
観測班は名前で呼ぶ。
それだけの違いが、今はひどく重かった。
久世の声が、全員に落ちる。
「観測班、総員」
無線の向こうで、誰も余計な返事をしなかった。
「真壁が作った道を閉じさせるな」
楠本一曹がすぐに引き継いだ。
「楠本班、戻る線を守れ。右を止めろ。中央は下がるな。負傷者を中へ入れろ」
ラソアは車体の陰でAKを握り直した。
ジンはミニミの重さを受けた。
真壁は戻らなかった。
だが、真壁が作った道は、まだ閉じていない。
あと少しで間に合わなかったものがある。
それでも、あと少しで間に合ったものもある。
久世は、そこで別系統の端末を開いた。
指は速くない。
左手の二本は、もう昔のようには動かない。
それでも、必要な場所だけは外さなかった。
無人機の映像。
熱源の塊。
東海道側の低地。
複数の車両。
通信中継。
短時間で組まれた遮蔽。
さらに後方から寄ってくる別の足。
久世は、そこに印を置いた。
一つ。
二つ。
三つ。
画面の中で、敵の本流が形を持ち始める。
今ここで観測班を裂いているのは、まだ前菜だった。
本隊は近い。
近すぎる。
久世は無線を切り替えた。
「富士川無人観測班より、後方火力調整」
遠い司令の声が返る。
雑音混じりの応答。
久世は続けた。
「敵、大規模集結地を確認。特科、空自、無人機群への同時打撃を要請。座標、送る」
楠本一曹が聞いた。
「どれくらいで来る」
久世は画面から目を離さない。
「長い」
「数字で言え」
「ここで耐えるには、長い」
楠本一曹は、一度だけ目を閉じた。
次に開いた時、もう真壁の方は見なかった。
「分かった」
ジンは、泥の向こうで動く敵の足を見た。
そして、低く言った。
「返すぞ、真壁」
ミニミが鳴った。
観測班の線は、まだ切れていなかった。




