第六十九話 引き潮
##第六十九話 引き潮
富士川の空で、無人機が旋回した。
その下で、壊れた部隊が動き始めた。
割れた器を、捨てないために。
*
「東海道側、未確認車両三。熱源複数。先導なし」
若い隊員の声は、硬かった。
久世一尉は、背中を壁につけないまま画面を切り替えた。
白く荒れた映像の中に、三つの影が映る。
車両はまっすぐ来ない。
少し進み、止まる。
また少し進み、止まる。
距離を詰めているというより、こちらの反応を測っている動きだった。
久世は無線に声を落とした。
「真壁」
「はい」
「前に出るな」
「了解」
楠本一曹は、コンテナの外へ出た。
風が強い。
河川敷の砂利が、足元で細かく鳴る。
「全員、遮蔽物から頭を出すな。見るだけでいい。撃つなとは言ってない。先に撃つなと言ってる」
若い隊員たちが低く返事をする。
ジンは、オペレーター室の入口に立ったまま、画面を見ていた。
端末。
白羽の紙。
山へ向かう足。
その全部が、机の上に残っている。
だが、画面の中の車両は、紙ではない。
鉄と人間だった。
久世が言った。
「一台目、止まる」
画面の中で、先頭の車両が斜めに停まった。
扉が開く。
人影が二つ。
武器を持っている。
だが、すぐには撃たない。
片方が、車体の後ろに半分だけ身を出した。
もう片方は、少し離れて立つ。
楠本一曹が低く言った。
「誘ってる」
久世はうなずかなかった。
だが、答えた。
「そうだ」
ジンは画面の端を見ていた。
出てきた二人ではない。
車両の後ろ。
さらに奥。
草の影。
そこに、小さな反射があった。
「撮ってる」
久世が聞く。
「どこだ」
「先頭車両の右後ろ。銃じゃない。レンズだ」
楠本一曹が舌打ちした。
「撃たせたいわけか」
「撃てば、映像になる」
久世は言った。
「撃たなくても、位置は取られる」
「面倒だね」
「戦争は、だいたい面倒だ」
その時、乾いた音が一つ鳴った。
銃声。
だが、狙いは甘かった。
富士川側の土嚢の手前に砂が跳ねる。
若い隊員が反射で身を乗り出しかけた。
楠本一曹が怒鳴る。
「頭を出すな!」
真壁三曹の声が無線に入る。
「牽制です。こちらを見ています」
久世はすぐに返した。
「撃ち返すな。位置を変えるな」
「了解」
もう一発。
今度はコンテナの外壁のかなり手前で砂利が跳ねた。
当てる気のある撃ち方ではない。
反応を取る撃ち方だった。
ジンは小さく言った。
「小さい」
久世が聞いた。
「何が」
「波じゃない」
画面の中で、先頭の二人はまだ大きく動かない。
撃つ。
止まる。
こちらを見る。
車両の影の奥で、レンズが光る。
ジンは続けた。
「引き潮だ」
楠本一曹が無線越しに聞いた。
「何だって」
「大きい波の前は、水が引く」
久世は、少しだけ目を細めた。
「本攻撃の前に、こちらの形を見ている」
「そうだ」
真壁三曹が言った。
「前へ出ますか」
久世の声がすぐに落ちた。
「出るな」
「了解」
「勇気はいらん。位置を間違えるな」
「了解」
先頭車両の影から出ていた二人が、ゆっくり後退した。
撃って、撮って、下がる。
何かを壊すには足りない。
誰かを殺すにも足りない。
だが、富士川の反応を見るには十分だった。
楠本一曹が言った。
「追わない」
若い隊員の一人が顔を上げた。
「でも」
「追わない」
楠本一曹の声は荒かった。
「出てこいって言われて、出るやつがあるか」
車両三台は、一定の距離を保ったまま止まった。
完全には去らない。
近づきもしない。
水が引いたあとの、濡れた砂のような静けさが残る。
久世は画面を見たまま言った。
「今の接触で、こちらの配置は半分見られた」
楠本一曹が答える。
「半分で済んだと思うべきかね」
「済ませた」
「嫌な慰め方だ」
「慰めてない」
ジンは、車両の奥の影を見続けていた。
今の二人は、前触れだった。
波ではない。
波が来る前に、浜から水が消えたようなものだ。
音が遠のく。
鳥の声が消える。
そして次に来るものは、さっきより大きい。
*
静けさは、十分も続かなかった。
富士川無人観測班の後方連絡路に、一台の古い商用車が入ってきた。
白羽の車両ではない。
医療支援車両でもない。
軍用車でもない。
だが、検問に立った隊員が、運転席の男の身分証を見て困った顔をした。
「一曹」
楠本一曹が歩いていく。
「何」
「身分証が、古いです」
「どれくらい古い」
「組織名が、もうありません」
楠本一曹は、運転席の男を見た。
五十代半ば。
灰色の上着。
古い革靴。
疲れた顔をしているのに、目だけが疲れていない。
「名前」
男は答えた。
「黒瀬了」
「所属」
「今はない」
「帰れ」
「昔は公安外事」
楠本一曹の顔が、さらに険しくなった。
「もっと帰れ」
男は、少しだけ笑った。
「三分後に同じ紙を別の経路で受け取ることになる」
久世の声が無線から落ちた。
「楠本。入れろ」
「知り合いですか」
「嫌な方のな」
黒瀬は車を降りた。
荷台から、薄い封筒と細長いケースを一つ、それから小さな包みを下ろす。
楠本一曹がそれを見て、すぐに言った。
「持ち込み武器なら、ここで止める」
「富士川の武器じゃない」
「なお悪い」
黒瀬は、コンテナの中へ入った。
オペレーター室には、久世一尉が座っている。
右脚には装具。
左手の指は二本、動きが悪い。
黒瀬は、その姿を見ても何も言わなかった。
同情もしない。
昔話もしない。
それが、久世に対する最低限の礼儀だと知っているようだった。
黒瀬の目がジンに向いた。
「福岡仁」
ジンは答えなかった。
黒瀬は続けた。
「真柴直樹ではなく、福岡仁に用がある」
コンテナの空気が、少し重くなった。
楠本一曹は聞こえないふりをしなかった。
今回は、聞こえるように言われた名前だった。
久世が低く言った。
「その名をここで出すな」
「出したのは真柴じゃない」
黒瀬は封筒を机に置いた。
「外側の名だ」
封筒には、日本の公印はなかった。
自衛隊の印もない。
国連の書式でもない。
隅に、仏語と英語の短い記号がある。
多国籍臨時軍事連絡セル。
極東境界班。
ジンは封筒を見た。
「日本の命令じゃないな」
「日本国は、お前に命令できない」
黒瀬は言った。
「日本が命令するなら、真柴直樹を呼ぶ。元自衛官として、国内の線に戻す」
久世は画面を見たまま、何も言わなかった。
黒瀬は続ける。
「だが、それでは紙に乗る。自衛隊の線になる。国連も相原も見る。白羽も拾う」
「だから、福岡仁か」
ジンが言った。
「そうだ」
黒瀬は、薄い紙を一枚出した。
「命令の形をした依頼だ」
楠本一曹が吐き捨てた。
「公安の言いそうなことだね」
「元だ」
「もっと嫌いだ」
ジンは紙を読んだ。
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多国籍臨時軍事連絡セル
極東境界班
現地任務下達書
対象者
福岡仁
同行者
ラソア・ベルトラン
連絡伝達者
黒瀬了
旧公安外事系連絡員
任務目的
富士川境界帯に接近中の敵性代理戦力について、後方指揮中枢を特定し、無力化すること。
作戦概要
一、富士川無人観測班と現地接触。
二、久世一尉の観測情報を受領。
三、敵性徒歩部隊および車列の後方に存在する指揮ノードを特定。
四、敵指揮官、通信担当、誘導役、記録担当を優先識別。
五、可能であれば捕獲。不能時は無力化。
六、敵司令部へ接続する端末、通信記録、経路情報を確保。
七、富士川無人観測班の正面防衛行動を侵害しないこと。
制限事項
一、本任務は日本国および自衛隊の正式命令ではない。
二、対象者は自衛隊指揮系統に属さない。
三、富士川無人観測班の指揮権を侵害しないこと。
四、正規部隊員を不用意に巻き込まないこと。
五、児童保護区域、学校名、児童名を記録に残さないこと。
六、任務対象は前面兵力ではなく、後方指揮中枢とする。
補足
前に出てくる声ではなく、後ろで声を出させている者を見ろ。
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ジンは紙を折った。
「斬首か」
ラソアが言った。
黒瀬は答えた。
「紙の上では、指揮中枢無力化」
「同じだろ」
「紙の上では違う」
楠本一曹が舌打ちした。
「その言い方、今日は二回目だ」
久世は画面を見たまま聞いた。
「敵は正規軍か」
「違う顔をしている」
「顔は聞いていない」
「正規軍ではない。だが、正規軍式の声と足を持っている」
ジンは、さきほどの小競り合いを思い出した。
撃って、撮って、下がる。
前に出た兵の動きは粗かった。
だが、その奥にいた者の足は、静かだった。
「思想教育された代理戦力」
ジンが言った。
黒瀬はうなずいた。
「叫ぶ連中は前に出る。前に出た連中は死ぬ。だが、本命はそいつらじゃない」
久世が続けた。
「後ろで出させているやつか」
「そうだ」
*
黒瀬は細長いケースを開けた。
中に入っていたのは、日本の小銃ではなかった。
見慣れない黒い外形。
短くまとまった銃身。
新品ではないが、富士川の泥にはまだ馴染んでいない。
久世は一瞥しただけで言った。
「中国製か」
「QBZ-191」
黒瀬が答えた。
「敵側の線に近い」
楠本一曹の目が険しくなる。
「何でそんなものを持ち込む」
「福岡仁は、自衛隊員じゃない」
黒瀬は淡々と言った。
「日本の小銃を持たせれば、紙の上で日本の戦闘行為になる」
「屁理屈だな」
「戦争は、だいたい屁理屈で始まる」
ジンはQBZ-191を持ち上げた。
手に馴染まない。
重心が違う。
構えた時、肩が少しだけ拒む。
外人部隊で身体に入れた癖とも、自衛隊時代の癖とも違う。
「使い慣れてない」
久世が聞いた。
「なら捨てるか」
「捨てるほど知らないわけでもない」
楠本一曹が眉を寄せた。
「どっちだよ」
ジンは短く答えた。
「嫌いな重さだ」
ラソアが笑った。
「お前、銃にも好き嫌いがあるのか」
「ある」
黒瀬は、もう一つ小さな包みを出した。
「副兵装だ」
楠本一曹が低く言う。
「まだあるのか」
「QSZ-193。九ミリ」
油紙の中から、黒い拳銃が出てきた。
日本の拳銃ではない。
自衛隊のものでもない。
ジンはそれを受け取った。
腰に落ちる重さ。
最後の距離で残る重さ。
選択肢が一つ増える。
同時に、間違える場所も一つ増える。
久世が言った。
「拳銃は、安心のために持つな」
「分かってる」
「最後の距離を間違える」
ジンは少しだけ口の端を動かした。
「教官みたいなことを言う」
「教官だった」
「嫌な教官だった」
「生きてるなら十分だ」
黒瀬はケースを閉じた。
「小銃はQBZ-191。副兵装はQSZ-193。どちらも日本側の線には乗せない」
楠本一曹が吐き捨てる。
「紙の上では、だろ」
「そうだ」
「本当に嫌いだよ、そういうの」
黒瀬は返事をしなかった。
その時、外の無線が鳴った。
若い隊員の声が、さっきより硬い。
「東海道側、追加熱源。歩兵多数。車列、再前進します」
久世は画面を切り替えた。
先ほどの三台が、また動き始めていた。
だが、今度は違う。
車両の後ろから、人影が増えている。
前に出る者たちの足が揃っている。
さっきの小さな波ではない。
引いた水が、戻ってくる。
遠くから、低い声が重なった。
「聴党指揮!」
若い隊員が息を呑む。
続けて、さらに大きな声。
「能打勝仗!」
楠本一曹がコンテナの入口へ向かった。
「全員、配置。前に出るな。戻る線だけは切るな」
久世は無線に声を落とす。
「真壁」
「はい」
「前に出るな」
「了解」
ジンはQBZ-191を手に取り、QSZ-193の重さを腰で確かめた。
どちらも馴染まない。
それでいい。
馴染ませるために持つのではない。
声の後ろへ行くために持つ。
三度目の声が、富士川の風を裂いた。
「作風優良!」
ジンは、声を聞かなかった。
声の前には、使われる者がいる。
声の後ろには、使う者がいる。
久世が画面を見たまま言った。
「福岡仁」
ジンはコンテナの入口で止まった。
「お前の任務は正面じゃない」
「分かってる」
「その銃に引っ張られるな」
「銃じゃない」
ジンは泥の上の線を見た。
「足を見る」
富士川の空で、無人機が大きく旋回した。
小さな波は終わった。
引き潮も終わった。
次に来るのは、本流だった。




