表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
69/233

第六十九話 引き潮

##第六十九話 引き潮


 富士川の空で、無人機が旋回した。


 その下で、壊れた部隊が動き始めた。


 割れた器を、捨てないために。


   *


「東海道側、未確認車両三。熱源複数。先導なし」


 若い隊員の声は、硬かった。


 久世一尉は、背中を壁につけないまま画面を切り替えた。


 白く荒れた映像の中に、三つの影が映る。


 車両はまっすぐ来ない。


 少し進み、止まる。


 また少し進み、止まる。


 距離を詰めているというより、こちらの反応を測っている動きだった。


 久世は無線に声を落とした。


「真壁」


「はい」


「前に出るな」


「了解」


 楠本一曹は、コンテナの外へ出た。


 風が強い。


 河川敷の砂利が、足元で細かく鳴る。


「全員、遮蔽物から頭を出すな。見るだけでいい。撃つなとは言ってない。先に撃つなと言ってる」


 若い隊員たちが低く返事をする。


 ジンは、オペレーター室の入口に立ったまま、画面を見ていた。


 端末。


 白羽の紙。


 山へ向かう足。


 その全部が、机の上に残っている。


 だが、画面の中の車両は、紙ではない。


 鉄と人間だった。


 久世が言った。


「一台目、止まる」


 画面の中で、先頭の車両が斜めに停まった。


 扉が開く。


 人影が二つ。


 武器を持っている。


 だが、すぐには撃たない。


 片方が、車体の後ろに半分だけ身を出した。


 もう片方は、少し離れて立つ。


 楠本一曹が低く言った。


「誘ってる」


 久世はうなずかなかった。


 だが、答えた。


「そうだ」


 ジンは画面の端を見ていた。


 出てきた二人ではない。


 車両の後ろ。


 さらに奥。


 草の影。


 そこに、小さな反射があった。


「撮ってる」


 久世が聞く。


「どこだ」


「先頭車両の右後ろ。銃じゃない。レンズだ」


 楠本一曹が舌打ちした。


「撃たせたいわけか」


「撃てば、映像になる」


 久世は言った。


「撃たなくても、位置は取られる」


「面倒だね」


「戦争は、だいたい面倒だ」


 その時、乾いた音が一つ鳴った。


 銃声。


 だが、狙いは甘かった。


 富士川側の土嚢の手前に砂が跳ねる。


 若い隊員が反射で身を乗り出しかけた。


 楠本一曹が怒鳴る。


「頭を出すな!」


 真壁三曹の声が無線に入る。


「牽制です。こちらを見ています」


 久世はすぐに返した。


「撃ち返すな。位置を変えるな」


「了解」


 もう一発。


 今度はコンテナの外壁のかなり手前で砂利が跳ねた。


 当てる気のある撃ち方ではない。


 反応を取る撃ち方だった。


 ジンは小さく言った。


「小さい」


 久世が聞いた。


「何が」


「波じゃない」


 画面の中で、先頭の二人はまだ大きく動かない。


 撃つ。


 止まる。


 こちらを見る。


 車両の影の奥で、レンズが光る。


 ジンは続けた。


「引き潮だ」


 楠本一曹が無線越しに聞いた。


「何だって」


「大きい波の前は、水が引く」


 久世は、少しだけ目を細めた。


「本攻撃の前に、こちらの形を見ている」


「そうだ」


 真壁三曹が言った。


「前へ出ますか」


 久世の声がすぐに落ちた。


「出るな」


「了解」


「勇気はいらん。位置を間違えるな」


「了解」


 先頭車両の影から出ていた二人が、ゆっくり後退した。


 撃って、撮って、下がる。


 何かを壊すには足りない。


 誰かを殺すにも足りない。


 だが、富士川の反応を見るには十分だった。


 楠本一曹が言った。


「追わない」


 若い隊員の一人が顔を上げた。


「でも」


「追わない」


 楠本一曹の声は荒かった。


「出てこいって言われて、出るやつがあるか」


 車両三台は、一定の距離を保ったまま止まった。


 完全には去らない。


 近づきもしない。


 水が引いたあとの、濡れた砂のような静けさが残る。


 久世は画面を見たまま言った。


「今の接触で、こちらの配置は半分見られた」


 楠本一曹が答える。


「半分で済んだと思うべきかね」


「済ませた」


「嫌な慰め方だ」


「慰めてない」


 ジンは、車両の奥の影を見続けていた。


 今の二人は、前触れだった。


 波ではない。


 波が来る前に、浜から水が消えたようなものだ。


 音が遠のく。


 鳥の声が消える。


 そして次に来るものは、さっきより大きい。


   *


 静けさは、十分も続かなかった。


 富士川無人観測班の後方連絡路に、一台の古い商用車が入ってきた。


 白羽の車両ではない。


 医療支援車両でもない。


 軍用車でもない。


 だが、検問に立った隊員が、運転席の男の身分証を見て困った顔をした。


「一曹」


 楠本一曹が歩いていく。


「何」


「身分証が、古いです」


「どれくらい古い」


「組織名が、もうありません」


 楠本一曹は、運転席の男を見た。


 五十代半ば。


 灰色の上着。


 古い革靴。


 疲れた顔をしているのに、目だけが疲れていない。


「名前」


 男は答えた。


「黒瀬了」


「所属」


「今はない」


「帰れ」


「昔は公安外事」


 楠本一曹の顔が、さらに険しくなった。


「もっと帰れ」


 男は、少しだけ笑った。


「三分後に同じ紙を別の経路で受け取ることになる」


 久世の声が無線から落ちた。


「楠本。入れろ」


「知り合いですか」


「嫌な方のな」


 黒瀬は車を降りた。


 荷台から、薄い封筒と細長いケースを一つ、それから小さな包みを下ろす。


 楠本一曹がそれを見て、すぐに言った。


「持ち込み武器なら、ここで止める」


「富士川の武器じゃない」


「なお悪い」


 黒瀬は、コンテナの中へ入った。


 オペレーター室には、久世一尉が座っている。


 右脚には装具。


 左手の指は二本、動きが悪い。


 黒瀬は、その姿を見ても何も言わなかった。


 同情もしない。


 昔話もしない。


 それが、久世に対する最低限の礼儀だと知っているようだった。


 黒瀬の目がジンに向いた。


「福岡仁」


 ジンは答えなかった。


 黒瀬は続けた。


「真柴直樹ではなく、福岡仁に用がある」


 コンテナの空気が、少し重くなった。


 楠本一曹は聞こえないふりをしなかった。


 今回は、聞こえるように言われた名前だった。


 久世が低く言った。


「その名をここで出すな」


「出したのは真柴じゃない」


 黒瀬は封筒を机に置いた。


「外側の名だ」


 封筒には、日本の公印はなかった。


 自衛隊の印もない。


 国連の書式でもない。


 隅に、仏語と英語の短い記号がある。


 多国籍臨時軍事連絡セル。


 極東境界班。


 ジンは封筒を見た。


「日本の命令じゃないな」


「日本国は、お前に命令できない」


 黒瀬は言った。


「日本が命令するなら、真柴直樹を呼ぶ。元自衛官として、国内の線に戻す」


 久世は画面を見たまま、何も言わなかった。


 黒瀬は続ける。


「だが、それでは紙に乗る。自衛隊の線になる。国連も相原も見る。白羽も拾う」


「だから、福岡仁か」


 ジンが言った。


「そうだ」


 黒瀬は、薄い紙を一枚出した。


「命令の形をした依頼だ」


 楠本一曹が吐き捨てた。


「公安の言いそうなことだね」


「元だ」


「もっと嫌いだ」


 ジンは紙を読んだ。


---


多国籍臨時軍事連絡セル

極東境界班


現地任務下達書


対象者

福岡仁


同行者

ラソア・ベルトラン


連絡伝達者

黒瀬了

旧公安外事系連絡員


任務目的

富士川境界帯に接近中の敵性代理戦力について、後方指揮中枢を特定し、無力化すること。


作戦概要

一、富士川無人観測班と現地接触。

二、久世一尉の観測情報を受領。

三、敵性徒歩部隊および車列の後方に存在する指揮ノードを特定。

四、敵指揮官、通信担当、誘導役、記録担当を優先識別。

五、可能であれば捕獲。不能時は無力化。

六、敵司令部へ接続する端末、通信記録、経路情報を確保。

七、富士川無人観測班の正面防衛行動を侵害しないこと。


制限事項

一、本任務は日本国および自衛隊の正式命令ではない。

二、対象者は自衛隊指揮系統に属さない。

三、富士川無人観測班の指揮権を侵害しないこと。

四、正規部隊員を不用意に巻き込まないこと。

五、児童保護区域、学校名、児童名を記録に残さないこと。

六、任務対象は前面兵力ではなく、後方指揮中枢とする。


補足

前に出てくる声ではなく、後ろで声を出させている者を見ろ。


---


 ジンは紙を折った。


「斬首か」


 ラソアが言った。


 黒瀬は答えた。


「紙の上では、指揮中枢無力化」


「同じだろ」


「紙の上では違う」


 楠本一曹が舌打ちした。


「その言い方、今日は二回目だ」


 久世は画面を見たまま聞いた。


「敵は正規軍か」


「違う顔をしている」


「顔は聞いていない」


「正規軍ではない。だが、正規軍式の声と足を持っている」


 ジンは、さきほどの小競り合いを思い出した。


 撃って、撮って、下がる。


 前に出た兵の動きは粗かった。


 だが、その奥にいた者の足は、静かだった。


「思想教育された代理戦力」


 ジンが言った。


 黒瀬はうなずいた。


「叫ぶ連中は前に出る。前に出た連中は死ぬ。だが、本命はそいつらじゃない」


 久世が続けた。


「後ろで出させているやつか」


「そうだ」


   *


 黒瀬は細長いケースを開けた。


 中に入っていたのは、日本の小銃ではなかった。


 見慣れない黒い外形。


 短くまとまった銃身。


 新品ではないが、富士川の泥にはまだ馴染んでいない。


 久世は一瞥しただけで言った。


「中国製か」


「QBZ-191」


 黒瀬が答えた。


「敵側の線に近い」


 楠本一曹の目が険しくなる。


「何でそんなものを持ち込む」


「福岡仁は、自衛隊員じゃない」


 黒瀬は淡々と言った。


「日本の小銃を持たせれば、紙の上で日本の戦闘行為になる」


「屁理屈だな」


「戦争は、だいたい屁理屈で始まる」


 ジンはQBZ-191を持ち上げた。


 手に馴染まない。


 重心が違う。


 構えた時、肩が少しだけ拒む。


 外人部隊で身体に入れた癖とも、自衛隊時代の癖とも違う。


「使い慣れてない」


 久世が聞いた。


「なら捨てるか」


「捨てるほど知らないわけでもない」


 楠本一曹が眉を寄せた。


「どっちだよ」


 ジンは短く答えた。


「嫌いな重さだ」


 ラソアが笑った。


「お前、銃にも好き嫌いがあるのか」


「ある」


 黒瀬は、もう一つ小さな包みを出した。


「副兵装だ」


 楠本一曹が低く言う。


「まだあるのか」


「QSZ-193。九ミリ」


 油紙の中から、黒い拳銃が出てきた。


 日本の拳銃ではない。


 自衛隊のものでもない。


 ジンはそれを受け取った。


 腰に落ちる重さ。


 最後の距離で残る重さ。


 選択肢が一つ増える。


 同時に、間違える場所も一つ増える。


 久世が言った。


「拳銃は、安心のために持つな」


「分かってる」


「最後の距離を間違える」


 ジンは少しだけ口の端を動かした。


「教官みたいなことを言う」


「教官だった」


「嫌な教官だった」


「生きてるなら十分だ」


 黒瀬はケースを閉じた。


「小銃はQBZ-191。副兵装はQSZ-193。どちらも日本側の線には乗せない」


 楠本一曹が吐き捨てる。


「紙の上では、だろ」


「そうだ」


「本当に嫌いだよ、そういうの」


 黒瀬は返事をしなかった。


 その時、外の無線が鳴った。


 若い隊員の声が、さっきより硬い。


「東海道側、追加熱源。歩兵多数。車列、再前進します」


 久世は画面を切り替えた。


 先ほどの三台が、また動き始めていた。


 だが、今度は違う。


 車両の後ろから、人影が増えている。


 前に出る者たちの足が揃っている。


 さっきの小さな波ではない。


 引いた水が、戻ってくる。


 遠くから、低い声が重なった。


「聴党指揮!」


 若い隊員が息を呑む。


 続けて、さらに大きな声。


「能打勝仗!」


 楠本一曹がコンテナの入口へ向かった。


「全員、配置。前に出るな。戻る線だけは切るな」


 久世は無線に声を落とす。


「真壁」


「はい」


「前に出るな」


「了解」


 ジンはQBZ-191を手に取り、QSZ-193の重さを腰で確かめた。


 どちらも馴染まない。


 それでいい。


 馴染ませるために持つのではない。


 声の後ろへ行くために持つ。


 三度目の声が、富士川の風を裂いた。


「作風優良!」


 ジンは、声を聞かなかった。


 声の前には、使われる者がいる。


 声の後ろには、使う者がいる。


 久世が画面を見たまま言った。


「福岡仁」


 ジンはコンテナの入口で止まった。


「お前の任務は正面じゃない」


「分かってる」


「その銃に引っ張られるな」


「銃じゃない」


 ジンは泥の上の線を見た。


「足を見る」


 富士川の空で、無人機が大きく旋回した。


 小さな波は終わった。


 引き潮も終わった。


 次に来るのは、本流だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ