表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
68/227

第六十八話 見えない開戦

##第六十八話 見えない開戦


 富士川の風は、昼を過ぎても強かった。


 川幅の広い水面を渡り、河川敷の舗装を舐め、黒いコンテナの角を鳴らしていく。


 白羽系の車両二台は、河川敷の端に止められていた。


 荷台には医療物資の印がある。


 外から見れば、包帯、消毒液、簡易寝具、保温シート、栄養補助食品。


 どれも、人を助けるためのものに見えた。


 だが、楠本一曹は、その箱の積み方を見た時点で顔をしかめていた。


「軽い」


 ジンは横から見た。


「薬がか」


「箱の底が軽すぎる」


 楠本一曹は、隊員に顎で合図した。


「開けろ。上からじゃない。底を見る」


 隊員が箱を下ろす。


 真壁三曹は、少し離れた位置でミニミを持って立っていた。


 先頭ではない。


 下がりすぎてもいない。


 前に出る者を守れる位置。


 逃げようとする相手の足を止められる位置。


 銃を見せつけるわけではない。


 だが、そこにいるだけで、空気が変わる。


 ジンは、真壁の立ち位置を見た。


 そして、河川敷の奥にある黒いコンテナを見た。


 久世一尉は、その中にいる。


 現場にはいない。


 風の中にもいない。


 泥の上にも立っていない。


 だが、無人機の目と、無線の声で、外の人間を動かしていた。


 同じ富士川にいる。


 けれど、同じ場所ではない。


 外には、真壁がいる。


 中には、久世がいる。


 その間を、声だけが行き来していた。


   *


 コンテナの中は、外よりも少し暗かった。


 オペレーター室は奥にある。


 薄い鉄板の壁。


 古い無線機。


 熱を持った機材。


 机の上には、端末と紙束。


 床には、何度も巻き直されたケーブル。


 壁際には、折れたアンテナの予備部品。


 久世一尉は、三つの画面の前に座っていた。


 一つは無人機の映像。


 一つは熱源の粗い表示。


 一つは地上班の位置を示す簡易図。


 椅子に座っているのに、背中を壁につけていない。


 右脚には装具。


 左手の指は二本、動きが悪い。


 手元には、冷めた缶コーヒーと、開いたままの胃薬の袋があった。


 飲み忘れたのか、飲む気がないのかは分からない。


 ただ、目は乾いていた。


 乾ききっているのに、何も見逃していない目だった。


「楠本」


 久世が言った。


「三箱目だ」


 オペレーター室の入口にいた楠本一曹は、返事をしなかった。


 だが、無線を通して外の隊員へ指示を飛ばした。


「三箱目を開けろ。底だ。上じゃない」


 画面の中で、若い隊員が三箱目を動かした。


 真壁三曹は、その少し後ろに立っている。


 久世は画面から目を離さずに言った。


「真壁、立ち位置を変えるな。風で足が流れてる」


 画面の向こうで、真壁がわずかに姿勢を直した。


 無線から短く返る。


「了解」


 楠本一曹は、画面ではなく、外の気配を見ていた。


 完全に中へ入らない。


 完全に外へも出ない。


 いつでも現場へ走れる位置。


 いつでも久世の指示を拾える位置。


 それが楠本一曹の立ち位置だった。


「真壁、息が浅い。肩を落とせ」


 今度は楠本一曹が無線に割り込んだ。


 画面の中の真壁が、少しだけ肩を落とす。


「はい」


「死ぬんじゃないよ」


「戻ります」


「それでいい」


 久世は何も言わなかった。


 楠本一曹も、それ以上は言わなかった。


 優しい言葉ではない。


 だが、富士川ではそれで十分だった。


 死ぬな。


 戻れ。


 肩を落とせ。


 水を飲め。


 立ち位置を間違えるな。


 ここでは、そういう言葉だけが人を生かした。


   *


 外の隊員が、三箱目の底を開けた。


 箱の上には、衛生用品と書かれている。


 中には、確かに消毒液が入っていた。


 包帯もある。


 乾いた布もある。


 しかし、底板の合わせ目が不自然だった。


 楠本一曹は無線で短く言った。


「工具」


 若い隊員が、薄い金属板を差し込んだ。


 底板が外れる。


 中から出てきたのは、薬ではなかった。


 薄い端末。


 防水袋に入った紙束。


 小さな記録媒体。


 古い形式の通行証の束。


 そして、教育支援用と書かれた冊子。


 ジンは、コンテナの入口近くに立ってそれを見ていた。


「弾薬じゃないな」


 久世は画面から目を離さずに答えた。


「弾より先に来るものだ」


「紙か」


「開戦前夜の紙だ」


 コンテナの中が、少しだけ静かになった。


 外では真壁三曹が、ミニミを持ち直している。


 画面の中の真壁は小さい。


 だが、銃の重さまでは消えない。


 銃床の欠け。


 被筒の焦げ跡。


 何度も貼り直された番号札の跡。


 それは新品ではなかった。


 だが、誰かが丁寧に使い続けている装備だった。


 楠本一曹は、外から運ばれてきた端末を受け取ると、久世の前へ滑らせた。


「はいよ」


 久世は動きの悪い左手ではなく、右手で端末を起動した。


 画面が一度ちらつく。


 それから、白い表が浮かんだ。


 地域別世論変化。


 防衛法案審議停滞。


 自治体別治安空白予測。


 若年層国家帰属意識調査。


 家庭観。


 性別役割。


 教育政策。


 防衛意識。


 移民政策。


 児童保護政策。


 どれも、戦場の言葉には見えなかった。


 だが、久世の顔は少しも緩まなかった。


「四年前のものだ」


 ジンが聞いた。


「日本が割れる前か」


「割れる前に、割る準備をしていた」


 楠本一曹が顔をしかめた。


「この手の紙は嫌いだ」


「好きなやつは危ない」


 久世は表を開いた。


 次のページには、もっと露骨な文字が並んでいた。


 伝統的家族観への不信拡大。


 男女対立の増幅。


 防衛忌避層への情報投入。


 反軍感情の強化。


 保守層への被害意識刺激。


 人権派団体への資金誘導。


 伝統派団体への偽情報投入。


 対話不能化。


 議会停滞。


 防衛予算審議遅延。


 地方自治体の分断。


 楠本一曹は、低く言った。


「右にも左にも、火をつけたってことか」


「そうだ」


 久世は答えた。


「どちらかを勝たせるためじゃない」


 ジンは画面を見ていた。


 そこには、正しそうな言葉が並んでいる。


 平等。


 多様性。


 伝統。


 家族。


 自由。


 人権。


 平和。


 防衛。


 単独なら、人が大切にしてもおかしくない言葉だった。


 誰かがそれを信じること自体は、敵ではない。


 けれど、白羽の資料の中では違った。


 それらは、信念ではなかった。


 燃料の分類だった。


 人が譲れないもの。


 人が怒りやすいもの。


 人が自分の居場所を確かめるために使うもの。


 そこに、敵は火をつけていた。


 ジンは言った。


「思想が国を割ったんじゃないな」


 久世はうなずいた。


「思想で割れる場所に、燃料を流し込まれた」


 楠本一曹が紙を一枚めくる。


「汚いな」


「きれいに割ったわけじゃない」


 久世は言った。


「汚く割ったんだ」


 外で、富士川の風が鳴った。


 コンテナの中の小さな画面には、車両列と熱源が映っている。


 その手前には、壊れた国の記録が並んでいた。


 ジンは端末の別の項目を開いた。


 認知領域浸透。


 社会結束低下。


 防衛意思決定遅延。


 保護名目介入準備。


 国境外部安定化作戦。


「超限戦、か」


 ジンが言った。


 久世は鼻で笑った。


「名前をつければ、新しい戦争に見える」


「違うのか」


「古い」


 久世は画面を指した。


「人を割る。家を割る。村を割る。国を割る。昔からある。ただ、今はそれを端末でやる」


 楠本一曹は腕を組んだ。


「で、割れなかったところには兵隊を送る」


「そういうことだ」


 久世は、次の資料を開いた。


 人道危機対応。


 保護対象者救済。


 治安維持支援。


 児童保護。


 平和維持。


 地域安定化。


 避難民支援。


 楠本一曹が吐き捨てるように言った。


「きれいな名前ばっかりだ」


「侵攻の前には、だいたいきれいな名前がつく」


 久世は言った。


 ジンは画面から目を離さなかった。


 白羽の資料は、戦車の進路を示しているわけではない。


 砲撃目標でもない。


 だが、そこには進路があった。


 人の考えを割り、政治を止め、予算を止め、命令を遅らせ、避難計画を曖昧にし、地域ごとの不信を増やす。


 そのあとで、外から入る。


 名目は、平和維持。


 人道保護。


 児童保護。


 治安安定。


 ジンは低く言った。


「マッチポンプだ」


 久世が答えた。


「その通りだ」


 楠本一曹は、コンテナの外を見た。


 真壁三曹が、風の中で立っている。


 その少し先には、押収された白羽系車両。


 医療物資の印。


 白い箱。


 支援団体の紙。


「こいつらは、日本を思想で壊せると思っていた」


 久世が言った。


 ジンは短く返した。


「壊れなかった」


 コンテナの中で、誰もすぐには言葉を出さなかった。


 壊れなかった。


 それは、勝ったという意味ではない。


 日本は割れた。


 北と南。


 東と西。


 道路も港も学校も通行証も、別々の紙で動くようになった。


 多くの町が壊れた。


 部隊も壊れた。


 家族も壊れた。


 名前を奪われた子どももいた。


 それでも、完全には折れなかった。


 市場は残った。


 道は残った。


 学校は残った。


 名札を握る子どもがいた。


 名前を数える大人がいた。


 壊れた部隊が、まだ富士川で空を見ていた。


 久世は言った。


「だから撃ってきた」


 その声は、乾いていた。


 怒りを消した声だった。


 怒りがないのではない。


 怒りをそのまま出せば、指揮が鈍るから出さないだけだった。


 楠本一曹が机を軽く叩いた。


「結局、撃つんだな」


「撃つ」


 久世は答えた。


「思想で手足を縛る。紙で命令を止める。燃料を流して国内を割る。それでも折れなければ、撃つ」


「分かりやすい」


 ジンが言った。


「最後だけな」


 久世は短く言った。


「撃たれたら、敵だと分かる。食わせられたら、敵かどうか分からなくなる」


 ジンは、その言葉を聞いて少しだけ目を細めた。


 白羽。


 食わせる者。


 薬を渡す者。


 寝床を用意する者。


 支援の顔で名前を集める者。


 敵かどうか分からないまま、子どもの紙を持っていく者。


 久世は画面を切り替えた。


 次に出てきたのは、児童保護関連の資料だった。


 年長児代表者。


 本人意思確認。


 保護者影響分離。


 生活支援補助。


 帰属再整理。


 旧教育管理対象との照合。


 ジンの指が、そこで止まった。


 楠本一曹も、すぐに気づいた。


「子どもの紙か」


 久世はうなずいた。


「国にやったことを、小さくして使う」


 ジンは画面を見ていた。


 年長児代表者。


 本人意思確認。


 他児童接触不要。


 一名のみ短時間面談。


 保護者影響分離。


 生活支援補助。


 どれも、きれいな言葉だった。


 だが、ジンには足音に聞こえた。


 山の方へ伸びる、長い足。


 白羽の足。


 楠本一曹が言った。


「国を割る時と、子どもを割る時で、同じやり方か」


 ジンは首を横に振った。


「逆だ」


「何が」


「子どもにやったことを、国にもやった」


 コンテナの中が静かになった。


 ジンは続けた。


「名前を変える。帰る場所を疑わせる。守る理由を古いものだと言う。怒ったやつには燃料を入れる。黙ったやつは安定と書く」


 旧第七。


 生活安定。


 教育継続。


 心理安定。


 呼称支援。


 生活名。


 保護名。


 本人混乱。


 過去名刺激。


 帰属再整理。


 それは、子どもから名前を急に奪う仕組みではなかった。


 名前を使わない時間を増やし、名前へ戻れない状態を作る仕組みだった。


 その構造を、白羽は国にも使った。


 右と左。


 男と女。


 親と子。


 伝統と進歩。


 防衛と平和。


 古いものと新しいもの。


 分ける。


 燃料を流す。


 怒らせる。


 黙らせる。


 そして最後に、保護という名前で入ってくる。


 久世は低く言った。


「思想が敵なんじゃない」


 ジンは画面を見たまま答えた。


「思想を使って人を割るやつが敵だ」


 久世は、ほんの少しだけ目を細めた。


「覚えていたか」


「今聞いた」


「なら、覚えろ」


 楠本一曹が短く笑った。


「教官だな」


 久世は笑わなかった。


 画面の中で、真壁三曹がわずかに首を動かした。


 無人機映像の端に、白羽系車両の荷台が映っている。


 久世は無線を入れた。


「真壁」


「はい」


「立ち位置を変えるな。風で足が流れてる」


「了解」


 楠本一曹がコンテナの入口まで歩き、外を見た。


「真壁、息が浅い。肩を落とせ」


「はい」


「死ぬんじゃないよ」


「戻ります」


「それでいい」


 その声は荒かった。


 だが、荒いだけではなかった。


 水を飲め、と言う声と同じだった。


 眠れる時に寝ろ、と言う声と同じだった。


 死ぬんじゃないよ。


 楠本一曹の優しさは、そういう形でしか出てこなかった。


 久世は端末の画面を見ていた。


「楠本」


「何だ」


「資料を全部写せ。紙も端末も、元の箱に戻すな」


「分かってる」


「箱より先に紙だ」


 楠本一曹は、少しだけ口の端を上げた。


「それ、私の台詞だろ」


「使えるものは使う」


「嫌な上官だな」


「今さらだ」


 ジンは、二人を見ていた。


 久世一尉。


 楠本一曹。


 似てはいない。


 久世は乾いている。


 楠本は荒い。


 久世は空から死なない線を見る。


 楠本は地面でその線を成立させる。


 久世は、戻れ、と言う。


 楠本は、戻ってこい、と言う。


 言い方は違う。


 だが、向いている場所は同じだった。


   *


 オペレーター室は、コンテナの奥にあった。


 外の風は直接入ってこない。


 ただ、薄い鉄板の壁を鳴らしている。


 机の上には、押収した端末と紙束。


 壁際には、古い無線機。


 久世の前には、三つの画面。


 一つは無人機の映像。


 一つは熱源の粗い表示。


 一つは地上班の位置を示す簡易図。


 画面の中では、真壁三曹が河川敷の端に立っていた。


 だが、それはあくまで画面の中だった。


 ここはコンテナの中。


 向こうは風の吹く河川敷。


 久世は椅子に座っている。


 真壁は、外で銃の重さを肩に受けている。


 同じ富士川にいても、同じ場所ではない。


 久世の声だけが、無線を通って向こうへ届く。


 ジンは、オペレーター室の空気を見ていた。


 乾いた缶コーヒーの匂い。


 熱を持った機材。


 折れたアンテナの予備部品。


 何度も巻き直されたケーブル。


 机の端に置かれた、誰かの古い階級章。


 剥がされたまま、戻されていない。


 ここには、新品の部隊らしいものはなかった。


 あるのは、残ったものだけだった。


 久世が、ふいに言った。


「昔、自衛官にこう言ったやつがいた」


 ジンは顔を上げた。


 楠本一曹も、久世を見た。


「国は、茶碗みたいなものだと」


 楠本一曹が眉を寄せた。


「茶碗?」


「落とせば割れる」


 久世は画面を見たまま言った。


「割れたら、元には戻らない。新品にもならない」


 無人機の映像の中で、白羽系の車両が止まっている。


 河川敷の砂利が、風に薄く動いていた。


「だが、日本人は昔から、割れた器をすぐには捨てなかった」


 久世は続けた。


「金で直すこともあった。漆で継ぐこともあった。だが、戦場にそんな上等なものはない」


 楠本一曹が短く言った。


「うちにあるのは、針金と泥だ」


「ああ」


 久世は答えた。


「鉄と泥と、まだ動く手だけだ」


 ジンは黙って聞いていた。


 久世の声は、演説ではなかった。


 誰かを奮い立たせるための声でもない。


 ただ、長く現場に残った人間が、手元の道具を数えるような声だった。


「馬蝗絆という茶碗がある」


 久世は言った。


「割れた茶碗を、でかい鎹で留めたものだ。傷は隠れていない。割れ目も見える。見栄えもよくない」


 楠本一曹が鼻で笑った。


「今の日本そのものだな」


「割れたのは事実だ」


 久世は言った。


 オペレーター室の中が、少しだけ静かになった。


 北と南。


 東と西。


 家族と個人。


 古い名前と新しい名前。


 通るための紙。


 受け取るための紙。


 学校にいるための紙。


 治療を受けるための紙。


 日本は割れた。


 それは否定できない。


 久世は、画面の中の真壁を見た。


 真壁は外にいる。


 風を受けている。


 重い銃を持ち、泥の上に立っている。


 その姿は、画面越しでも軽くは見えなかった。


「俺たちは、国を元通りにしてるんじゃない」


 久世が言った。


 ジンが聞いた。


「じゃあ何をしてる」


「割れた器を、まだ水が飲める形にしてる」


 富士川の風が、コンテナの壁を鳴らした。


 ジンは、その言葉を聞いていた。


 きれいな国を取り戻す。


 強い日本を復活させる。


 そんな言葉ではなかった。


 もっと壊れている。


 もっと泥臭い。


 割れたものを、割れたまま見ている。


 傷を隠さない。


 新品だとも言わない。


 それでも、捨てない。


 久世は、画面から目を離さずに続けた。


「敵は、割れたものは捨てると思っていた。割れた国は終わると思っていた。割れた家族は戻らないと思っていた。名前を変えれば、人は帰る場所を忘れると思っていた」


 ジンは低く言った。


「忘れなかった」


「ああ」


 久世は短く答えた。


「だから、まだ戦ってる」


 楠本一曹が、児童保護関連の紙を机に置いた。


 年長児代表者。


 本人意思確認。


 保護者影響分離。


 生活支援補助。


 帰属再整理。


 旧教育管理対象との照合。


 ジンの目が止まる。


 白羽は、割れ目から手を入れてくる。


 国にやったことを、今度は子どもにやろうとしている。


 割れた場所を広げる。


 片方の破片に、もう片方を憎ませる。


 そして最後に、保護という名前で拾い上げる。


 ジンは言った。


「子どもを鎹にする気か」


 久世は、そこで初めて画面から目を外した。


「違う」


「何が違う」


「子どもは鎹じゃない」


 久世の声が少しだけ硬くなった。


「鎹にされるのは、大人の方だ」


 ジンは黙った。


「子どもを使って、割れたものを留めるんじゃない。子どもが帰る場所を残すために、大人が割れ目に打ち込まれる」


 楠本一曹は、その言葉に何も言わなかった。


 ただ、机の上の紙を揃えた。


 きれいにではない。


 使えるように。


 見失わないように。


 順番を間違えないように。


 オペレーター室の画面では、真壁三曹がまだ立っていた。


 こちら側には、久世の声と紙がある。


 向こう側には、風と泥と重い銃がある。


 同じ戦いだが、同じ場所ではない。


 久世は、声で向こうを支えている。


 楠本一曹は、現場が崩れないように両側をつないでいる。


 ジンは、その二人を見ていた。


 久世は目。


 楠本は手。


 真壁は足。


 割れた器を留めるには、全部が要る。


 ジンは低く言った。


「なら、俺たちは鎹か」


 久世は答えた。


「そうだ」


 少し間を置いて、続ける。


「見栄えは悪いがな」


 楠本一曹が短く笑った。


「うちにぴったりだ」


 画面の向こうで、真壁がわずかに口元を動かしたように見えた。


 だが、それは映像越しだった。


 本当に笑ったのか、風で顔が動いただけなのかは分からない。


 ジンは笑わなかった。


 ただ、机の上の白羽の紙を見ていた。


 割れ目は分かった。


 足の向きも分かった。


 なら、次にやることは決まっている。


「鎹を打つ前に」


 ジンは言った。


「割れ目に入った虫を潰す」


 楠本一曹が顔をしかめた。


「言い方」


 久世は画面へ目を戻した。


「悪いが、正しい」


   *


 端末の中には、次の送信予定が残っていた。


 境界ラジオ。


 児童保護照会窓口。


 生活支援団体。


 年長児代表者面談。


 山間部一時保護区域。


 旧教育管理対象照合。


 学校の正式名はなかった。


 地図にも出ていない。


 だが、ジンには分かった。


 名前を書かないのは、知らないからではない。


 まだ紙に乗せないためだ。


 紙に乗せる直前の足が、山の方へ向いている。


 久世が言った。


「どうした」


 ジンは答えなかった。


 答えれば、名前が出る。


 名前を出せば、紙に乗る。


 紙に乗れば、誰かが数える。


 だから、まだ言わなかった。


 楠本一曹が、ジンの横顔を見た。


「知ってる場所か」


 ジンは少しだけ間を置いた。


「足の向きは知ってる」


「場所は」


「まだ言わない」


 楠本一曹は目を細めた。


「嫌なやつだな」


「よく言われる」


「でも、今はそれでいい」


 楠本一曹は紙を押さえた。


「名前を出すと紙に乗る。そういう話だろ」


 ジンは答えなかった。


 久世が低く言った。


「少しは学習したな、真柴」


 ジンの目が動いた。


 楠本一曹は聞こえなかったふりをした。


 久世は端末の画面を見ていた。


 感情が死んでいるような顔だった。


 だが、声だけが少し重かった。


「逃げるなよ」


 ジンは何も言わなかった。


 久世は続けた。


「お前が名前から逃げている間に、弟の方へ足が伸びる」


 コンテナの中の空気が、ほんの少しだけ変わった。


 楠本一曹が紙を揃える手を止める。


 真壁三曹の無線が、短く鳴った。


 外の風が強くなる。


 ジンは、ゆっくりと久世を見た。


「今、その話をするのか」


「今は仕事中だ」


 久世は言った。


「だからしている」


 ジンは目を細めた。


 久世は、相変わらず乾いた声で言った。


「名前を変えても、間合いは変わらん。足音も、肩も、目の置き方も変わらん」


「人違いだ」


「嘘が下手になった」


 ジンは黙った。


 久世はそれ以上、追わなかった。


 代わりに、端末の画面を指した。


「この足は、山の方へ向いている」


「見れば分かる」


「なら、折れ」


 ジンは久世を見た。


 久世の目は、冷たかった。


 だが、そこにあるのは突き放す冷たさではない。


 生き残るルート以外を許さない冷たさだった。


「死にに行くな」


 久世は言った。


「死ぬな。命令だ」


 ジンは少しだけ口の端を動かした。


「まだ俺に命令するのか」


「お前が返事をしないからだ」


 楠本一曹が短く言った。


「返事しとけ。面倒だから」


 ジンは、富士川の外を見た。


 空には無人機が一機、低く旋回している。


 地上には真壁三曹が立っている。


 壊れた部隊。


 継ぎはぎの空。


 白羽の紙。


 山の方へ伸びる足。


 日本は割れた。


 だが、まだ器だった。


 まだ、水が飲める形にすることはできる。


 ジンは端末を閉じた。


「足なら折れる」


 久世が聞いた。


「踏まれる前にか」


「ああ」


 ジンは答えた。


「踏まれる前にだ」


 その時、外で短い警報が鳴った。


 一回。


 二回。


 長くはない。


 だが、富士川無人観測班の全員が動くには十分だった。


 楠本一曹が顔を上げる。


「今度は何だ」


 若い隊員が画面を見た。


「東海道側、未確認車両三。熱源複数。先導なし」


 久世は背中を壁につけないまま、画面を切り替えた。


「真壁」


 無線に声を落とす。


「前に出るな」


 画面の中で、真壁三曹が止まる。


 少し遅れて、無線が返った。


「了解」


 楠本一曹がコンテナを出ながら言った。


「真壁、死ぬんじゃないよ」


「戻ります」


「それでいい」


 ジンは、オペレーター室の中に残った端末を一度だけ見た。


 割れた国。


 白羽の紙。


 山へ向かう長い足。


 久世の声。


 楠本一曹の背中。


 画面の向こうで立つ真壁三曹。


 同じ場所にはいない。


 だが、同じ割れ目を見ていた。


 富士川の空で、無人機が旋回した。


 その下で、壊れた部隊が動き始めた。


 割れた器を、捨てないために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ