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第六十七話 地図の線

##第六十七話 地図の線


 翌朝、旧南第三小学校の周りには、白い車両が増えていた。


 UNの文字が入った巡回車。


 相原の部下が乗ってきた小型車。


 南岸復旧組合の古いトラック。


 どれも、校門の中までは入ってこなかった。


 校門の外。


 給食搬入口の前。


 坂道の途中。


 昨夜、人が走った場所に、今度は人が立っていた。


 百葉箱は、まだ校庭の奥にあった。


 壊されたままだった。


 扉は歪み、白い板は泥で汚れている。


 割れたガラスは回収された。


 曲がったペンも、瀬田ハルが小さな箱に入れた。


 けれど、百葉箱そのものは動かさなかった。


 動かせば、そこが昨夜の場所ではなくなる。


 健二はそう言った。


 相原はうなずいた。


 瀬田ハルも、何も言わなかった。


 午前九時前、UNの民生班から正式な指導が入った。


 旧南第三小学校は、当面のあいだ、一時保護区域として再指定される。


 外部支援団体の接近は制限。


 児童への直接接触は禁止。


 放送や通信による児童名指し接触は禁止。


 物資搬入は、UN確認と相原側の記録を通す。


 旧南第三小天気予報に関する妨害、観測具の破壊、非常無線親機への接触は、児童保護区域内の妨害行為として扱う。


 相原は紙を読み上げたあと、健二に言った。


「少なくとも、今日明日で同じ手は来ません」


 健二は腕の包帯を見た。


「信用していいんですか」


「全部は信用しない方がいいです」


 相原は正直に言った。


「ですが、近づく足は見えやすくなりました」


「見えないものは」


「残ります」


 相原は校舎を見上げた。


「噂、放送、紙、誰かの記憶。そこまでは、車両では止められません」


 健二はうなずいた。


「なら、今日は学校にします」


「学校?」


「ここ、小学校なんで」


 相原は一瞬だけ黙った。


 それから、小さく笑った。


「そうでした」


   *


 久しぶりに、教室に机が並んだ。


 全部はそろっていない。


 足の短い机。


 天板に傷のある机。


 端が欠けた椅子。


 それでも、八人が座るには足りた。


 教科書はなかった。


 配られるはずの資料もなかった。


 あるのは、黒板と、欠けたチョークと、窓の外にある壊れた百葉箱だけだった。


 窓板は半分だけ開けている。


 外の雨は弱くなっていた。


 校庭の奥に、壊れた百葉箱が見える。


 そこだけ、授業の外にある傷のようだった。


 瀬田ハルは黒板の前に立った。


 眼鏡をかけ直し、チョークを持つ。


「今日は、今の日本がどう分かれているかを話します」


 蓮がすぐに言った。


「日本って、まだ一つじゃねえのかよ」


 教室が少し静かになった。


 瀬田ハルは、蓮を叱らなかった。


「地図の上では、一つです」


 黒板に、長い線が引かれる。


 細い日本列島の形。


 正確ではない。


 都道府県の境も、細かい海岸線もない。


 けれど、今ここで八人が覚えるには、それで十分だった。


「でも、人が安全に動ける場所、物資が通れる場所、声だけが届く場所は、同じではありません」


 陸が記録板を出した。


「地図と、通れる場所が違う」


「はい」


 瀬田ハルは黒板の端に、日付を書いた。


 二〇二二年七月。


「日本が分裂したのは、二〇二二年七月です」


 チョークの音が、教室に響いた。


「今は二〇二六年。分裂から、約四年が経っています」


 颯太が指を折った。


「四年」


「はい」


 瀬田ハルはうなずいた。


「四年のあいだに、国境、港、道路、学校、物流、医療、通行証、配給、生活支援が、それぞれ別の紙で動くようになりました」


 千紘が顔を上げた。


「別の紙?」


「はい。通るための紙。受け取るための紙。治療を受けるための紙。学校にいるための紙。支援を受けるための紙。それぞれが別になっています」


 蓮が顔をしかめた。


「めんどくせえな」


「面倒です」


 瀬田ハルは否定しなかった。


「でも、今はこれを覚えてください。どの紙を誰が持っているかで、人の動きが決まります」


 健二は後ろの壁にもたれていた。


 腕の包帯がまだ白い。


「紙が増えると、紙を持ってるやつが強くなる」


 瀬田ハルは、静かにうなずいた。


「そうです」


 美月が喉に手を当てた。


 颯太が名札を握る。


 瀬田ハルは黒板に、白羽、と書いた。


 その文字を見た瞬間、美月の指が少し強く喉を押さえた。


 颯太は名札を握ったまま、黒板を見た。


 蓮は目を細めた。


「白羽って、こっちに来てから聞いた名前だよな」


「はい」


 瀬田ハルはうなずいた。


「北側にいた時、私たちはその名前を聞いていませんでした」


 陸が記録板を持ち直す。


「旧第七とは別?」


「別の名前です」


 瀬田ハルは、白羽の横に小さく、旧第七、と書いた。


 旧第七教育管理施設。


 正式には、北側生活安定圏児童教育管理局第七教育管理施設。


 それを、今さら細かく説明する必要はなかった。


 八人は知っている。


 そこが何をする場所だったのかを。


 食事があったこと。


 寝床があったこと。


 授業があったこと。


 医療記録があったこと。


 心理安定、教育継続、生活支援、安全確保という言葉が、毎日のように使われていたこと。


 そして、その中で本名が少しずつ使われなくなっていったこと。


 瀬田ハルは、黒板の二つの名前を線でつないだ。


「白羽は、旧第七と関わりのあるフロント企業です」


 蓮が眉をひそめた。


「フロント?」


「表に出るための顔です」


 健二が低く補った。


「本体の名前を出さずに動くための会社や団体ってことだ」


 瀬田ハルはうなずいた。


「旧第七は北側の施設でした。けれど、国境を越えて西側に入れば、同じ名前のままでは動きにくい。だから、生活支援、医療物資、児童支援、仮設教育、通行証の管理、配給記録。そういう別の顔を使います」


 千紘が小さく言った。


「支援の名前で」


「はい」


 瀬田ハルは答えた。


「白羽は、こちら側で聞くようになった名前です。でも、やっていることの根は旧第七に近い」


 美月が喉を押さえたまま聞いた。


「名前を変える?」


「名前を変える。呼び方を変える。記録を変える。本人の言葉を、別の意味に書き換える」


 瀬田ハルは、かつて聞き慣れた言葉を黒板に書いた。


 生活安定。


 教育継続。


 心理安定。


 呼称支援。


 生活名。


 保護名。


 本人混乱。


 過去名刺激。


 帰属再整理。


 颯太の顔がこわばった。


 蓮が低く言った。


「やめろよ」


 瀬田ハルはチョークを止めた。


「すみません。でも、覚えておく必要があります」


 健二が黒板を見た。


「知らない言葉じゃないんだな」


「はい」


 瀬田ハルは答えた。


「この子たちは知っています。旧第七で、そういう言葉がどう使われていたかを知っています」


 陸が記録板に書いた。


 白羽。


 旧第七と関わり。


 西側で動くための顔。


 フロント企業。


 瀬田ハルは続けた。


「旧第七では、子どもたちの名前を急に奪うのではありませんでした。生活名、班名、保護名。便利な呼び方として少しずつ入ってくる。やがて本名より、その呼び方の方が優先される」


 颯太が名札を握った。


「本名を言ったら」


 瀬田ハルは静かに答えた。


「過去名刺激」


 美月が小さく言った。


「帰りたいって言ったら」


「生活適応未完了」


 陸が聞いた。


「黙ったら」


 瀬田ハルは少し間を置いた。


「安定」


 教室が静かになった。


 健二が低く言った。


「どんな反応をしても、紙に回収される」


「はい」


 瀬田ハルは答えた。


「白羽が怖いのは、そこです。暴力で連れてくるとは限らない。支援します、保護します、安定させます、教育を続けます。そう言いながら、紙の上で名前と帰る場所を遠ざけていく」


 蓮が言った。


「旧第七と同じじゃねえか」


「同じ構造です」


 瀬田ハルは否定しなかった。


「ただし、白羽は国境を越えて動くための名前です。北側の教育管理施設が、そのまま西側に入るのではなく、企業や支援団体の顔で入ってくる」


 千紘が言った。


「だから、食べ物とか薬とかで」


「はい」


「名前を集める」


「はい」


 健二が低く言った。


「食わせた相手の名前を持ってるやつは、強い」


 蓮が顔をしかめた。


「嫌な言い方すんなよ」


「嫌なことだからな」


 健二は答えた。


 瀬田ハルは、白羽と旧第七を結ぶ線をもう一度見た。


「今日覚えてほしいのは、白羽という名前そのものではありません。支援の顔をした誰かが来た時、その後ろにどの紙があるのかを見ることです」


 陸が記録板に書いた。


 支援の顔。


 後ろの紙。


 名前をどう書くか。


 健二は黒板を見たまま言った。


「飯をくれる人間を見るな。そのあと名前をどう扱うかを見ろ」


 瀬田ハルはうなずいた。


「はい。それが、ここで生き残るために必要な見方です」


 それは、教科書の授業ではなかった。


 青空教室に近かった。


 必要なことだけを、その場で拾って覚える授業だった。


   *


 瀬田ハルは、黒板の東京のあたりに丸をつけた。


「東京を境に、呼び名が変わります」


 そこから北へ線を引く。


「東京より北を管理している大きな勢力が、北日本再建評議会です」


 黒板に、北日本再建評議会、と書かれる。


「作中では、北側、評議会、と呼ばれることもあります」


 陸が記録板に書いた。


「北側。評議会」


 瀬田ハルは、東京より西へ伸びる線を指した。


「東京より西、九州方面までを含む勢力が、西日本暫定政府です」


 黒板に、西日本暫定政府、と書かれる。


「南側、西側、暫定政府、と呼ばれることもあります」


 蓮が言った。


「西なのに南側って呼ぶのかよ」


「はい」


「分かりにくいだろ」


「分かりにくいです」


 瀬田ハルは、また否定しなかった。


「でも、こういう呼び方は、正しい方角ではなく、管理する側が作った区分で決まることがあります」


「区分?」


「たとえば、大きな町の中で、実際には西にある場所でも、管理表では南区と呼ばれることがあります。人を分けて、通行証を分けて、配給を分けるための呼び名です」


 健二が言った。


「ゲットーの区分みたいなもんだろ」


 瀬田ハルは一瞬だけ健二を見た。


 それから、うなずいた。


「かなり近いです。地理の名前ではなく、管理の名前です」


 蓮は黒板をにらんだ。


「じゃあ、南側って言われても、本当に南って意味じゃねえのか」


「はい。東京から見て西日本暫定政府側へ入る道が、南側、西側、暫定政府側と呼ばれます。使う人によって呼び名が違います」


 悠斗が言った。


「数え方も変わる」


「そうです」


 瀬田ハルはうなずいた。


「だから、呼び名だけで判断してはいけません」


 瀬田ハルは、黒板の西の端に丸をつけた。


「山口は、西側の端です。九州方面へ入る玄関です」


 山口に白い丸がつく。


「西ブロックの門とも呼ばれます。九州保護圏に近く、西日本暫定政府の機能、企業、医療、富裕層、保護された資本が集まりやすい場所です」


 蓮が低く言った。


「逃げた連中の場所か」


「そう言う人もいます」


 瀬田ハルは否定しなかった。


「ただ、病院や工場、薬を作る人、物資を動かす人もいます。安全に近い場所には、逃げた人だけでなく、動かす人も集まります」


 千紘が聞いた。


「薬は、そこから来るんですか」


「一部は。ですが、すべてではありません」


 瀬田ハルは山口から東へ線を引いた。


「本州側には、管理回廊があります。山口から東へ伸びる、物流と管理のための帯です」


「道?」


 颯太が聞いた。


「道に近いです。でも、道だけではありません。検問、倉庫、燃料、病院、通信、物資の許可。そういうものも含みます」


 瀬田ハルは、黒板の東寄りに丸を描いた。


「そして、ここが中部ブロック。中部市場です」


 チョークが、熱海、箱根、小田原、御殿場、富士東麓あたりをまとめるように動いた。


「静岡東部、箱根周辺、旧街道、温泉街、港、水源、燃料線、医療物資。そういうものが重なる場所です」


 瀬田ハルは続けた。


「ただ、分裂から四年のあいだに、地域ごとに自警団のような組織が生まれています。町を守る人たち。物資を守る人たち。道を押さえる人たち。古い仕事のつながりを使って、今の生活を支えている人たち」


 健二が言った。


「法律の外にいるけど、生活の外にはいない人たちですね」


「はい」


 瀬田ハルは言った。


「だから単純に悪い、良いとは分けられません。何を守っているか、誰の名前を使っているかを見る必要があります」


 瀬田ハルは、中部市場から少し離れた山間に、小さな点を打った。


「ここが、旧南第三小学校です」


 八人が黒板を見る。


 点は小さかった。


 日本地図の中では、見落としそうなくらい小さい。


「旧南第三は、中部市場から山を挟んだ場所にあります。近すぎず、遠すぎない。普通の避難者が気軽に行き来するには遠い。でも、物資の線や、足の強い人間の線なら届いてしまう」


 蓮が眉をひそめた。


「つまり、見つかりにくいけど、絶対安全じゃねえってことか」


「はい」


 瀬田ハルは言った。


「隠れるには向いています。でも、道を知っている人には届きます」


 悠太が窓の外を見た。


「音は、すぐ届く」


「はい」


 瀬田ハルは静かに言った。


「だから音は便利です。でも、危ないです」


 美月が聞いた。


「ここは、どっちなんですか」


 瀬田ハルは黒板の小さな点を見た。


「旧南第三は、西日本暫定政府側です」


 美月が顔を上げる。


「西側?」


「はい。ただし、本当にぎりぎりです」


 瀬田ハルは、小さな点のすぐ近くにもう一本、線を引いた。


「国境というより、境界線に近い場所です。西側に入っている。でも、北側や中部の別の管理線、外部勢力の影響、支援団体の線が近くにあります」


 颯太が名札を握った。


「じゃあ、ここは西側なの?」


「はい。西側です」


 瀬田ハルは、はっきり言った。


「でも、ぎりぎり西側です。だから目立ちます」


「目立つ?」


「境界の近くにある学校だからです。誰の管理下にあるか、誰が保護しているか、誰が名簿を持つか。それを狙う人が出ます」


 美月は喉に手を当てた。


「だから、名前を呼ばれた?」


 健二が答えた。


「そうだと思う」


 瀬田ハルも、うなずいた。


「線の近くにいる人ほど、名前を使われやすくなります」


 悠斗がすぐに言った。


「八人」


 健二が答えた。


「八人いる」


 花音は、黒板の日本地図とは別に、自分の紙へ丸を描いた。


 大きな線ではなく、小さな丸を八つ。


 その横に、曲がった箱を一つ。


 壊れた百葉箱だった。


   *


 颯太が、ふと思い出したように聞いた。


「沖縄は?」


 瀬田ハルのチョークが止まった。


 教室の空気が少しだけ変わる。


 健二も、壁にもたれていた身体を少し起こした。


 瀬田ハルは、言葉を選んだ。


「沖縄は、昔も日本本土と違う扱いを受けた場所です」


 颯太は首をかしげた。


「昔?」


「第二次世界大戦の終わりごろ、アメリカ軍は日本本土を攻めるための足がかりとして沖縄に上陸しました。激しい地上戦のあと、沖縄はアメリカ軍に占領されました」


 教室は静かだった。


 難しい話だった。


 でも、瀬田ハルは、早く終わらせなかった。


「戦後、日本本土は主権を回復しました。でも沖縄は、すぐには戻りませんでした。アメリカの施政権の下に置かれました」


 陸が書く。


「施政権」


「一九四五年から、一九七二年まで。二十七年間です」


 颯太が指を折ろうとして、途中でやめた。


「長い」


「はい。長いです」


 瀬田ハルは黒板の沖縄のあたりに小さな丸をつけた。


「理由は一つではありません。沖縄戦で占領されたこと。サンフランシスコ平和条約で日本本土から切り離されたこと。そして、朝鮮戦争やベトナム戦争の時代に、沖縄が東アジアの軍事拠点として重要になったこと」


 蓮が言った。


「今と似てるな」


「はい」


 瀬田ハルは否定しなかった。


「実際、今の日本の分裂も、朝鮮半島が分断された時のように、外の大きな力と国内の管理線が重なって起きています」


 健二が低く言った。


「日本の中に、いくつも線が引かれた」


「そうです」


 瀬田ハルは言った。


「そして、四年前に日本が分裂したあと、沖縄は再びアメリカの統治と軍事保護の下に置かれました」


 颯太が聞いた。


「じゃあ、沖縄はどこなの?」


 瀬田ハルは少し迷った。


 そして、今度は短く言った。


「今ここで覚えるなら、沖縄はアメリカの統治と軍事保護の下にある場所です」


 蓮が言った。


「第五十二番目の州ってやつか」


 瀬田ハルは、蓮を見た。


「そう呼ぶ人もいます。ただし、正確な説明ではありません」


「でも、そう覚えときゃいいのか」


「聞かれた時には、その言い方で通じることがあります」


 健二が言った。


「通じる言い方と、正しい言い方は違う」


 瀬田ハルはうなずいた。


「はい。今日覚えるのは、そこです。地図に残っている名前と、実際に誰が管理しているかは、同じとは限りません」


   *


 昼前、UNの車両が一台、校門前に止まった。


 白い車体。


 青い文字。


 降りてきたのは、UNの民生班の隊員だった。


 武器を前に出した兵士ではない。


 書類を持った男と、通訳役の女性。


 その後ろに、黒い雨合羽の小柄な白人女性がいた。


 ミーシャだった。


 さらに、その後ろにもう一人。


 黒い雨合羽。


 フードを深くかぶり、顔はよく見えない。


 痩せていて、動きは少し硬い。


 けれど、立ち方だけが異様に静かだった。


 蓮が低く言った。


「……何だ、あれ」


 颯太は名札を握った。


 美月は半歩だけ後ろへ下がった。


 悠太は足元を見ていた。


 雨合羽の足音は、少なかった。


 濡れた靴なのに、音が少ない。


 健二はミーシャを見た。


「ケーキの時の人か」


 ミーシャは少しだけ頭を下げた。


「はい」


「兄貴のことを知ってる人」


「少し」


「その“少し”が信用できねえんだよ」


 ミーシャは表情を変えなかった。


「全部知っている人より、安全です」


 蓮が横から言った。


「何だその理屈」


「本当の理屈」


 UN隊員が書類を出した。


 物資搬入の確認。


 百葉箱補修用の薄い板。


 代用の温湿度計。


 割れたガラスを片づけるための厚手の手袋。


 消毒液。


 乾いた布。


 それらは、一つずつ記録された。


 千紘は手袋を見て、すぐに手を伸ばそうとした。


 健二が言う。


「千紘」


 千紘は止まった。


「まだ触らない」


「でも」


「順番を決めてから」


 千紘は小さくうなずいた。


「はい」


 ミーシャは、そのやり取りを見ていた。


 何かを言いそうになって、言わなかった。


 それから、教室の隅に置かれていた木箱を見た。


 以前、いちごジャムと一緒に届いた木箱だった。


 その中には、まだ切っていないケーキが残されていた。


 ドライフルーツ入りのパウンドケーキ。


 すぐに食べるには、あの時は言葉が重すぎた。


 手紙が重すぎた。


 だから健二は、開けたあとも食べさせるタイミングを失っていた。


 今日は違った。


 UNの指導で、外からの足は止まっている。


 百葉箱は壊されたが、八人はいる。


 学校は、学校に戻ろうとしている。


 健二は木箱を見た。


「食うか」


 颯太が顔を上げた。


「いいの?」


「ああ」


 蓮が言った。


「今さらかよ」


「今さらだよ」


 健二は答えた。


 千紘が包丁を持った。


 健二が何か言う前に、蓮が口を開いた。


「八個じゃねえぞ」


 千紘の手が止まった。


「え?」


「十個だろ」


 蓮は指で数えた。


「八人分と、健二と、ハル先生」


 千紘は少しだけ驚いた顔をした。


 自分たちだけで食べるつもりだったのだろう。


 瀬田ハルが小さく言った。


「私は少しで大丈夫です」


「だめだろ」


 蓮がすぐに言った。


「先生もここにいるんだから」


 健二は蓮を見た。


 それから、短くうなずいた。


「そういうことだ」


 蓮が千紘を見る。


「先生だけ薄くすんなよ」


 千紘は少し困った顔をした。


「しません」


「今、やりそうな顔してた」


「してません」


「してた」


 健二が言った。


「千紘」


 千紘は小さくうなずいた。


「十個にします」


 木箱の蓋を開けると、甘い匂いが広がった。


 焼き色の濃いパウンドケーキ。


 中にはドライフルーツが入っている。


 レーズン。


 オレンジピール。


 赤い果実の小さな欠片。


 いちごジャムの瓶も、同じ木箱の横にあった。


 千紘は、ケーキを十個に切り分けた。


 きれいに同じ大きさにはならなかった。


 端の二つは少し形が崩れた。


 でも、千紘はそれを誰かに押しつけようとはしなかった。


 皿の上に、十個を並べた。


 八人分。


 健二の分。


 瀬田ハルの分。


 ミーシャはそれを見て、首を横に振った。


「私は、いいです」


 健二は言った。


「あんたの分はない」


「正しい判断です」


 蓮が吹き出しそうになった。


 颯太が一口食べた。


「甘い」


 花音がうなずいた。


 美月はゆっくり噛んだ。


 悠太はドライフルーツのところだけ少し見てから食べた。


 陸は紙に書いた。


 ドライフルーツ入りパウンドケーキ。


 いちごジャム。


 十個に切った。


 八人と、健二さんと、ハル先生で食べた。


 悠斗が数えた。


「八人」


 健二は答えた。


「八人いる」


 瀬田ハルは、自分の皿を見てから、小さく言った。


「先生もいます」


 健二はうなずいた。


「います」


 ミーシャはそれを見ていた。


 黒い雨合羽は、校門の外で一歩も動かなかった。


 UNの隊員は、書類に確認印を押した。


 外では、壊れた百葉箱が雨上がりの風に鳴っている。


 地図の線は、黒板に残っていた。


 でも、子どもたちの机の上には、切り分けられたケーキがあった。


 線で分けるためではなく、同じ場所で食べるために。


 名前を数えるためではなく、八人がここにいることを確かめるために。


   *


 健二は、木箱の底を見た。


 そこには、もう手紙はなかった。


 当然だった。


 あの紙は、前に読まれている。


 ミーシャの無表情な声で。


 真柴健二へ。


 まず、あしながおじさんからの解放を祝う。


 この国には、子どものためと言いながら、子どもの靴のサイズと名前を先に数える長い足の男たちが多い。


 足が長い者は、遠くからでも踏める。


 白羽は、支援者ではない。


 あれは、足の長い徴収係だ。


 子どもに靴を履かせる前に、その子が誰の管理下にあるかを数える。


 健二は、その言葉を覚えていた。


 忘れたくても、残っていた。


 あしながおじさん。


 昔なら、見えないところから子どもを助ける人の名前だった。


 でも、あの手紙の中では違った。


 遠くから踏む足。


 支援の顔をした影。


 本人の顔は見えない。


 けれど、名前を数える。


 靴のサイズを数える。


 誰の管理下にあるかを数える。


 生活支援の紙に、子どもの未来を縫いつける。


 その足を折る。


 手紙には、そういう比喩があった。


 物理的に足を折るという意味ではない。


 支援の顔をして、影だけを落としながら動く者たち。


 名簿。


 通行証。


 配給記録。


 医療の順番。


 学校にいるための紙。


 子どもを動かすための署名。


 その足場を見つけて、歩けなくする。


 影しか見せないやつの動きを、止めて回る。


 それが、JINという名前に与えられた役割だった。


 健二は、そこまで分かっていた。


 分かってしまっていた。


 ミーシャは、黒板の地図を見ていた。


 北日本再建評議会。


 西日本暫定政府。


 東京から南の共産主義国の影響が強い地域。


 本州管理回廊。


 中部市場。


 旧南第三小学校。


 健二は聞いた。


「ジンって、兄貴の知り合いか」


 ミーシャは少し考えた。


 考えたふりにも見えた。


「知り合い、という言い方は、便利すぎる」


「じゃあ何だよ」


「別の人」


「別の人?」


「直樹とは別の道を歩く人」


 蓮が横から言った。


「それ、説明になってねえだろ」


 ミーシャは蓮を見た。


「説明したくない時は、説明にならない言葉を使う」


「開き直んなよ」


 健二は笑わなかった。


 その言い方に、逃げ道があることは分かった。


 でも、逃げ道があるということは、隠したい何かがあるということでもあった。


 真柴直樹は、弟のところに置いてきた。


 福岡仁は、外で働き始めた。


 直樹。


 福岡仁。


 JIN。


 名前が違う。


 でも、線はつながっている。


 健二は、それに気づいていた。


 気づいていないふりをしていた。


 兄は兄だ。


 直樹は直樹だ。


 自分を叱り、顔色を見られ、嫌な顔をして、それでも戻ってくる人間だ。


 JINは違う。


 外で働く名前。


 支援の影を追い、足場を潰し、紙の裏にいる人間を見つける名前。


 そんなものと兄を同じ場所に置きたくなかった。


 認めたら、兄が戻る場所から遠くなる気がした。


 健二はミーシャを見た。


「直樹とは別の道、か」


「はい」


「同じ人間じゃないってことか」


 ミーシャは答えなかった。


 教室の外で、壊れた百葉箱の板が鳴った。


 蓮が言った。


「答えろよ」


 ミーシャは静かに言った。


「同じ人間でも、道が違えば、同じ名前では動けない」


 健二は黙った。


 それは肯定にも聞こえた。


 否定にも聞こえた。


 だから、余計に嫌だった。


 颯太が小さく聞いた。


「ジンは、あしながおじさんなの?」


 ミーシャは首を横に振った。


「違う」


「じゃあ、何?」


 ミーシャは黒板ではなく、床を見た。


 チョークの粉。


 子どもたちの椅子の跡。


 水差しを置いた時の小さな水の跡。


 百葉箱の板を運んだ時についた、薄い泥。


「ジンは、あしながおじさんの足を追う人」


 教室が静かになった。


「長い足は、遠くから踏む。顔を見せない。影だけが来る」


 ミーシャは続けた。


「だから、足を見る。どこから来たか。何に乗っているか。誰の紙で動いているか。誰の名前を使っているか」


 悠太が小さく言った。


「足音?」


「足音も。泥も。紙も。荷物の減り方も」


 陸が記録板を見た。


「地図じゃない」


「地図だけでは足りない」


 ミーシャは言った。


「地図の線は、上から引く。ジンは、下に残った線を見る」


 健二は、食べかけのケーキを見た。


 甘い匂いがする。


 いちごジャムの瓶がある。


 子どもたちは、同じ机で食べている。


 それなのに、胸の奥だけが冷えていた。


 兄とJINが同じ人物なのかもしれない。


 その考えは、もう健二の中にあった。


 でも、信じたくなかった。


 信じれば、直樹を兄として待つ場所が、少し壊れる。


 だから健二は、言葉を飲み込んだ。


 聞かなかったことにした。


 まだ、そうすることにした。


 悠斗が言った。


「八人」


 健二は少し遅れて答えた。


「八人いる」


 その声は、いつもより少しだけ低かった。


   *


 ジンは、車の中で目を開けた。


 市場の白い線は、もう見えなかった。


 代わりに、泥の上を人が歩いていた。


 名前を変えるためではなく、荷を運ぶために。


 誰かを消すためではなく、店を開けるために。


 その背中を置いて、ジンは次の道へ向かっていた。


 運転席にはラソアがいる。


 片手でハンドルを握り、もう片方の手で紙の地図を押さえていた。


 地図は古かった。


 今の線は、そこにはない。


 北日本再建評議会。


 西日本暫定政府。


 東京から南の共産主義国の影響が強い地域。


 本州管理回廊。


 中部市場。


 それらは、黒い手書きで書き足されている。


 山口には、太い丸がついていた。


 西の門。


 ラソアの字だった。


 そこから東へ、細い線が伸びている。


 管理回廊。


 そのさらに東寄りに、中部臨時物資市場と書かれていた。


 熱海。


 箱根。


 小田原。


 御殿場。


 富士東麓。


 そして、別の字で書き足された線があった。


 東海道境界回廊。


 その先に、さらに太い円。


 富士川・箱根境界帯。


 ジンは、その文字を見た。


「どこに向かってる」


 ラソアが前を見たまま答えた。


「東だ」


「場所を聞いてる」


「まず中部臨時物資市場」


 ラソアは、地図の東側を指で叩いた。


「そこで荷の流れを見る。次に東海道境界回廊を抜ける。最後に、富士川・箱根境界帯だ」


「富士川」


「そこに、空を見る連中がいる」


 ジンは黙った。


 窓の外に、壊れた道路標識が流れていく。


 昔の地名は残っている。


 だが、その地名が今も同じ意味で使われているとは限らない。


 ラソアが言った。


「富士川にはいろんなのがいる」


「自衛官か」


「自衛官だけじゃない」


「なら、何を見る」


「空だ」


 ジンは顔をしかめた。


「空は嫌いだ」


「お前はだいたい嫌いだろ」


「地面に残らないものは信用しない」


「だから、地面に残る空を見せる」


 ラソアは笑った。


「富士川に、そういう連中がいる」


 ジンは窓の外を見た。


 旧南第三の名は、ラソアの口からは出なかった。


 だが、ジンの頭の中にはあった。


 あの山の中の小さな学校。


 健二がいる場所。


 八人がいる場所。


 白羽の長い足が、いずれそこへ伸びるなら、その前にどの道を通るのかを見なければならない。


 だから、富士川へ行く。


 学校へ行くためではない。


 学校へ伸びる足を、途中で見つけるためだった。


   *


 中部臨時物資市場は、町ではなかった。


 町の残りだった。


 古い倉庫。


 仮設の屋根。


 錆びたコンテナ。


 冷蔵車の列。


 医療物資の箱。


 水のタンク。


 燃料の匂い。


 市場という名前はついているが、そこに並んでいるのは商品だけではない。


 通行証。


 配給記録。


 搬入許可。


 団体名。


 番号。


 名前。


 紙が、人より多かった。


 ジンは車を降りなかった。


 窓の隙間から、市場の端を見ていた。


 人が荷物を運んでいる。


 白羽の印がついた箱もある。


 別の支援団体の箱もある。


 UN確認済みの紙が貼られたものもある。


 貼られていないものもある。


 同じ水。


 同じ薬。


 同じ毛布。


 けれど、箱についた紙で、通れる道が変わる。


「四年で、紙の国になったな」


 ジンが言った。


「二〇二二年七月から四年だ」


 ラソアは答えた。


「国境、港、道路、学校、物流、医療、通行証、配給、生活支援。全部、別の紙で動く」


「人間は」


「紙の後ろを歩く」


 ジンは、市場の端に立つ男たちを見た。


 荷を運んでいるふりをして、通行証を見ている。


 支援者の顔をして、名前を拾っている。


 遠くから踏む足。


 長い足。


 あしながおじさんの足を折る。


 それは、骨の話ではない。


 影の話だ。


 支援の顔をして、姿を見せずに人を動かす者たち。


 子どもの名前を先に数える者たち。


 靴を履かせる前に、誰の管理下にあるかを確認する者たち。


 その足場を見つける。


 使っている紙を見つける。


 通っている道を見つける。


 歩けなくする。


 ジンは、市場の奥を見た。


「白羽の箱が混じってる」


 ラソアはうなずいた。


「混じるのがうまい」


「混じるやつは、だいたい足が長い」


「だから、お前を呼んだ」


 ジンは答えなかった。


   *


 東海道境界回廊に入ると、空気が変わった。


 道路は残っている。


 だが、道路だけではなかった。


 古い東海道。


 高速の跡。


 鉄道沿いの道。


 港へ下りる道。


 山へ逃げる道。


 地図の上では一本に見えるものが、現地では何本にも分かれていた。


 検問がある。


 仮設の監視所がある。


 誰のものか分からない旗がある。


 UNの白い車両が一台。


 西日本暫定政府の腕章をつけた者が二人。


 その後ろに、地元の自警団がいる。


 誰が一番偉いのかは、見ただけでは分からなかった。


 ラソアが車を止めた。


 日本語の怒鳴り声が聞こえた。


 その後ろから、英語が飛んだ。


 さらに別の方向から、中国語らしい短い声が聞こえた。


 ジンは窓の外を見た。


「言葉が多いな」


「言っただろ。日本語だけじゃ済まない」


「英語か」


「英語も来る」


 ラソアはハンドルを切った。


「だが、最初に怒鳴るのは日本人だ」


 ジンは目を閉じた。


「最悪だな」


「だから俺が乗せてる」


 ラソアは笑った。


「悪友は、こういう時に使うもんだ」


 検問の男が近づいてくる。


 ラソアが窓を開けた。


 書類を出す。


 相手は怒鳴る。


 ラソアは笑って返す。


 UNの隊員が英語で割って入る。


 後ろの自警団が、黙って荷台を見ている。


 ジンは、誰の言葉も追わなかった。


 足元を見た。


 泥の付き方。


 荷を下ろした場所。


 待たされた人間の立ち位置。


 通された車と、止められた車。


 検問の横に、細い道がある。


 地図にはない。


 だが、誰かが何度も歩いている。


 草が倒れている。


 泥が固まっている。


 重い荷を持った人間が、休んだ跡がある。


 ジンは、その線を見た。


 黒板には書かれない線。


 報告書には出ない線。


 上から引かれたものではなく、下に残ったもの。


 検問が開いた。


 ラソアが車を出す。


「どうだった」


「地図より道が多い」


「いつものことだ」


「五里霧中だ」


「じゃあ何で行く」


 ジンは窓の外を見た。


 山の方に、低い雲がかかっている。


「足跡で行く」


 ラソアはそれ以上、行き先を聞かなかった。


 ジンも答えなかった。


 地図に書かれた目的地は、富士川・箱根境界帯。


 ジンの中にある目的地は、その先にある。


 けれど、その名前を今ここで出す必要はなかった。


 名前は、出した瞬間に紙に乗る。


 紙に乗れば、誰かが数える。


 だから、まだ出さない。


   *


 富士川に近づくと、風が広くなった。


 川幅がある。


 空が低い。


 河川敷には、昔の防災拠点の跡が残っていた。


 広い舗装面。


 消えかけた白線。


 古い格納庫。


 災害時の物資集積所だった場所。


 自衛隊が無人機の試験に使っていたと言われる空き地。


 そこに、今は別のものが並んでいた。


 黒いコンテナ。


 発電機。


 畳まれたアンテナ。


 防水シートに覆われた機材。


 羽を外された小型無人機。


 細い線を巻いたリール。


 そして、土のうの陰に立てかけられた軽機関銃。


 ジンは窓の外を見た。


「新設部隊か」


 ラソアが鼻で笑った。


「書類の上ではな」


「聞こえはいい」


「聞こえだけはな」


 ラソアは車を減速させた。


「実態は、第十二旅団の残りだ」


 ジンは黙った。


 河川敷にいる者たちは、勝った部隊の顔をしていなかった。


 負けた部隊の顔でもなかった。


 もっと面倒な顔だった。


 壊れて、残って、それでも自分の道具を手放さなかった者たちの顔。


 古い迷彩服の男が、無人機の羽を布で拭いている。


 若い隊員が、ケーブルの束を巻き直している。


 片膝をかばうように歩く男が、箱の番号を控えている。


 別の男は、古いミニミ軽機関銃を肩にかけたまま、空ではなく地面を見ていた。


 新しい部隊ではない。


 壊れた部隊が、まだ終わっていない仕事を続けている。


 そういう場所だった。


「富士川無人観測班」


 ラソアが言った。


「西日本暫定政府の紙では、自衛隊系の新設観測部隊。UN向けの説明でもそうなってる」


「実際は」


「第十二旅団の残党兵、通信員、整備員、補給係、無人機を触ってたやつ。散らばった連中が、富士川で固まっただけだ」


 ジンは河川敷を見た。


「なぜ富士川だ」


「広い。飛ばせる。隠せる。防災拠点の跡がある。昔の試験記録も残ってる」


 ラソアは地図を叩いた。


「それに、ここは境界を見るにはちょうどいい」


 ジンは地図を見た。


 中部臨時物資市場。


 東海道境界回廊。


 富士川・箱根境界帯。


 地図には、まだその先の小さな学校は書かれていなかった。


 ただ、山の中に空白がある。


 道の線が薄くなる場所。


 線を引いた者が、そこから先を知らないふりをした場所。


   *


 河川敷の端に、女が立っていた。


 短い髪。


 日焼けした顔。


 作業服の上に、防弾板の入ったベスト。


 腕には、富士川境界帯、と書かれた布が縫いつけられている。


 階級章はなかった。


 剥がした跡だけが残っていた。


 女の横には、二人の隊員がいた。


 一人は箱型の操作盤を抱えている。


 一人はミニミ軽機関銃を持っていた。


 軽機関銃という名前に反して、軽くは見えなかった。


 肩にかかる重さ。


 弾の箱。


 濡れた手袋。


 泥のついた靴。


 その男は、空を見る無人機班の中にいて、ただ一人、地面の匂いをまとっていた。


 女はラソアの車を見ると、片手を上げた。


「遅い」


 ラソアが笑った。


「道が多くてな」


「道が多いのは、こっちのせいじゃない」


 女の目が、助手席のジンへ移った。


「それが福岡仁?」


 ジンは車から降りた。


「名前を確認するな」


「確認しないと紙が通らない」


「なら、通さなくていい」


 女は一瞬だけ笑った。


「嫌なやつだな」


 ラソアが言った。


「だから連れてきた」


 女は名乗った。


「楠本。富士川無人観測班」


「階級は」


「捨てた」


 楠本は短く言った。


「というより、部隊ごと一度なくなった。今あるのは、名前だけだ」


 ジンは、河川敷に並ぶ機材を見た。


「第十二旅団の残りか」


 楠本の目が少しだけ細くなった。


「誰から聞いた」


「顔に書いてある」


「嫌な目だな」


「よく言われる」


 楠本は、コンテナの方へ歩き出した。


「新設部隊なんて言われてるが、そんな立派なものじゃない。残った人間が、残った道具で、残った空を見ているだけだ」


 ジンはその背中を見た。


「それで十分だ」


 楠本は振り返らなかった。


「十分だったら、仲間はもっと残ってる」


 ラソアが黙った。


 ジンも何も言わなかった。


   *


 コンテナの奥に、もう一人いた。


 椅子に座ったままの男だった。


 右脚は膝から下に装具がついている。


 左手の指は二本、動きが悪い。


 それでも、姿勢だけは崩れていなかった。


 背中が壁につかない。


 椅子に預けていない。


 片方の足が使えないのに、いつでも立てる位置に身体を置いている。


 男の前には、操作盤と小さな画面が三つ並んでいた。


 無人機の映像。


 熱源の粗い表示。


 境界回廊の車両列。


 男は顔を上げずに言った。


「客か」


 楠本が答えた。


「ラソアの連れだ」


「ろくな客じゃないな」


 ラソアが笑った。


「まだ顔も見てないだろ」


「足音で十分だ」


 ジンは、そこで男を見た。


 男も、画面から目を離した。


 視線が合った。


 一瞬だった。


 だが、ジンの目がわずかに細くなる。


 男の方も、表情を変えなかった。


 ただ、操作盤に置いていた手が止まった。


「……名前は」


 男が聞いた。


 ジンは答えなかった。


 ラソアが横から言った。


「福岡仁」


 男は、その名前を一度だけ口の中で転がすようにした。


「福岡仁」


 それから、ジンの足元を見た。


 靴。


 膝。


 重心。


 腕の落ち方。


 視線の置き方。


 男は笑わなかった。


「嘘が下手になったな」


 コンテナの中が静かになった。


 楠本が男を見る。


「知り合いか」


 男は答えなかった。


 ジンも答えなかった。


 ラソアだけが、面倒そうに息を吐いた。


「ここで始めるなよ」


 男は、ようやく椅子の背に少しだけ身体を沈めた。


「始めない」


 そう言って、画面へ目を戻した。


「今は空が先だ」


 ジンは男を見続けていた。


 男の顔には、昔のままの鋭さが残っていた。


 年を取った。


 傷も増えた。


 片脚も、指も、前のようには動かない。


 それでも、声の芯は変わっていなかった。


 中央即応連隊。


 訓練場の砂。


 汗の匂い。


 夜明け前の冷えた空気。


 投げられた背中。


 喉元に止まった刃。


 立て、と言われた声。


 まだ終わっていない、と言われた声。


 直樹より階級が上だった男。


 徒手格闘とナイフ格闘で、何度も地面を舐めさせられた上官。


 久世一尉。


 今は、富士川無人観測班のドローンオペレーターとして、椅子に座っていた。


 久世は画面を見たまま言った。


「楠本、東海道側の車列、二台目の荷台を見ろ」


 楠本が画面を見る。


「医療物資じゃないのか」


「箱の積み方が違う。医療なら揺れを嫌う。あれは中身を見せたくない積み方だ」


 操作盤の若い隊員が映像を切り替える。


 河川敷の上空から、車両の荷台が映る。


 久世は淡々と指示を出した。


「歩兵を前に出すな。まず右へ回せ。角の向こうに一人いる」


 ミニミを持った隊員が、無線を聞いて動いた。


 前に出すぎない。


 下がりすぎない。


 撃つためではなく、相手の足を止める位置へ入る。


 久世は続けた。


「二十メートル先。荷台の右。待ってるやつがいる。手元を見るな。足を見る」


 隊員が短く返事をした。


「了解」


 無人機は上から見る。


 歩兵は地面で動く。


 久世は、その二つをつないでいた。


 ジンは黙って見ていた。


 ドローンは目だ。


 だが、目だけでは終わらない。


 空から見つけたものを、現実に押さえる足がいる。


 紙を止める手がいる。


 箱を開ける身体がいる。


 久世は、前へ出られない身体になっていた。


 それでも、前へ出る人間を殺さないために、空から指示を落としていた。


 ジンは低く言った。


「まだ教官みたいなことをしてるんだな」


 久世の手が、ほんの少し止まった。


 楠本が振り返る。


 ラソアが、目だけでジンを止めた。


 久世は画面を見たまま言った。


「俺の教え子に、そんな口を利くやつがいた」


 ジンは答えなかった。


「そいつは、返事が悪かった」


 久世は続けた。


「目付きが悪く。人を見る時、顔じゃなく身体の起こりを見る」


 ジンは黙っていた。


「それから、ナイフを持つ時に、右肩が半分だけ沈む癖があった」


 ラソアが小さく舌打ちした。


 久世は、ようやくジンを見た。


「福岡仁」


 その名前を、今度ははっきり呼んだ。


「あとで話をする」


 ジンは少しだけ目を細めた。


「今じゃないのか」


「今は仕事中だ」


 久世は画面へ戻った。


「お前も、それくらいは覚えているだろ」


 ジンは返事をしなかった。


 返事をすれば、昔の呼び方が戻りそうだった。


 真柴。


 直樹。


 そのどちらかで呼ばれる前に、ジンは口を閉じた。


   *


 コンテナの壁には、古い弾箱が吊るされていた。


 その横に、泥のついた膝当てと、補修された防弾板が置かれている。


 ジンは、外に立つ隊員のミニミ軽機関銃を見た。


 銃そのものは手入れされている。


 だが、新しいものではなかった。


 銃床に欠けがある。


 被筒には薄い焦げ跡が残っている。


 弾箱の側面には、何度も貼り直された番号札の跡があった。


「よくそんなもんを持って歩くな」


 ジンが言った。


 ミニミを持った隊員は、こちらを見なかった。


 代わりに、久世が画面を見たまま答えた。


「持てるやつが少ない」


「重いからか」


「重いからだけじゃない」


 久世は、映像の中の車列を見ていた。


「空から見えても、地上が止められなければ意味がない。あれを持つやつは、前に出る人間を守る。逃げ道を潰す。撃つためだけじゃない。相手に、これ以上進めば音が変わると分からせる」


 ジンは、ミニミを持った隊員を見た。


 まだ若い。


 だが、若さだけでは動いていなかった。


 肩にかかる銃の重さを、身体の一部として受け入れている。


 無駄に強がらない。


 無駄に軽く見せない。


 怖さを消した顔ではなく、怖さを数に入れた顔だった。


「名前は」


 ジンが聞いた。


 隊員が少しだけ顔を向けた。


「真壁です」


 久世が短く補足した。


「真壁三曹。地上班」


「普通科か」


「今は歩兵だ」


 久世は言った。


「ただ突っ込む兵士じゃない。空の目を聞いて、地面で現実に変える役だ」


 真壁は無線を確認し、ミニミを肩にかけ直した。


 その動きは狙撃手のものではなかった。


 遠くから一発で終わらせる静けさではない。


 もっと泥臭い。


 前へ出て、押さえ、守り、必要なら音で道を開く人間の動きだった。


 楠本が言った。


「うちは狙撃班じゃない」


 ジンは答えた。


「見れば分かる」


「ドローンが見つける。歩兵が近づく。紙を押さえる。箱を止める。閉じた場所があれば、開ける」


 楠本は画面を見た。


「空だけでは、何も終わらない」


 久世が続けた。


「昔の歩兵は、見えない場所へ進んだ。今は違う。見えていても死ぬ」


 真壁は何も言わなかった。


 ただ、久世の声を待っていた。


 久世は無線を入れた。


「真壁、前に出すぎるな。右じゃない。左の影を見る」


「了解」


 真壁は短く答えた。


 その声に、迷いはなかった。


 無人機が空で旋回する。


 真壁が地面で一歩進む。


 ジンは、その二つを見ていた。


 ドローンが目なら、歩兵は足だった。


 そして、必要なら手になる。


 目だけでは、白羽の足は折れない。


 地面に降りた誰かが、紙を押さえ、箱を止め、影の足場を踏み抜かなければならない。


 ジンは低く言った。


「空の目と、地上の足か」


 久世は画面を見たまま答えた。


「どちらかが遅れれば、どちらも死ぬ」


 その言葉に、真壁は反応しなかった。


 ただ、ミニミを持ち直した。


 まるで、その重さごと返事にしたようだった。


   *


 外で、短い警笛が鳴った。


 コンテナの中の隊員たちが一斉に動いた。


 叫び声はない。


 怒鳴り声もない。


 ただ、空気が変わった。


 操作盤を持った若い隊員が、画面を見て言う。


「東海道側から、白羽系の車両二台。先導車なし。箱は医療名目」


 楠本が聞いた。


「紙は」


「前回と同じ管理番号が混じっています」


「使い回しか」


「たぶん」


 真壁が、無言で弾箱を確認した。


 狙撃手の動きではなかった。


 遠くから一発で決める人間の静けさではない。


 もっと泥臭い。


 前へ出て、押さえ、音で相手の足を止める人間の動きだった。


 ジンは真壁を見た。


「撃つのか」


 楠本は短く答えた。


「撃たないで済めばいい」


「済まなければ」


「道を開ける」


 ラソアが低く言った。


「こいつらは狙撃班じゃない」


「見れば分かる」


 ジンは外を見た。


 河川敷の向こうで、小型無人機が一機、低く上がった。


 その下で、歩兵が動く。


 無人機が先に見る。


 歩兵が遅れて入る。


 だが、歩兵はただ指示を受けるだけではない。


 足元を見る。


 紙を押さえる。


 箱を止める。


 相手が隠したものを、現実の手で引きずり出す。


 ドローンが目なら、歩兵は足だった。


 そして、必要なら手になる。


 楠本はジンに言った。


「昔の歩兵は、見えない場所へ進んだ」


「今は違うのか」


「見えていても死ぬ」


 楠本は画面を見た。


「でも、見えないよりはましだ。二十メートル先に誰がいるか。角の向こうに何が置かれているか。箱を誰が持ち替えたか。それを空が見る。地上が聞く。聞いた通りに動けるやつだけが残る」


 ジンは、真壁を見た。


「残ったやつか」


 楠本は答えなかった。


 久世の声が無線に乗った。


「止まれ。右を見るな。左の影を見る」


 真壁が止まる。


 その瞬間、荷台の陰から一人が動いた。


 見えていた。


 空から。


 そして、地上で止めた。


 久世は短く言った。


「押さえろ」


 真壁が動いた。


 ジンは、その声を聞いていた。


 昔と同じだった。


 怒鳴らない。


 無駄に褒めない。


 ただ、死なない場所へ人を動かす声。


 その声が、ジンの背中に昔の砂を落とした。


 久世一尉は、もう前線を走れない。


 それでも、まだ戦場の霧を切っていた。


 そして、その目はもう、ジンの名前の奥まで届いていた。


   *


 河川敷の端で、白羽系の車両が止まった。


 荷台には医療物資の印がある。


 だが、印が正しいとは限らない。


 紙が正しいとは限らない。


 名前が正しいとは限らない。


 無人機が上で回る。


 映像を見る者がいる。


 地面を歩く者がいる。


 真壁は、先頭ではなく少し後ろに立った。


 前に出る者を守る位置。


 逃げ道を潰す位置。


 相手に、これ以上進めば音が変わると分からせる位置。


 爆発物を持った隊員が一人、腰の袋を押さえた。


 それは何かを壊すためというより、閉じられた場所を開けるための道具に見えた。


 ジンは、それ以上見なかった。


 使い方ではなく、持っている意味だけで十分だった。


 ここは、空の部隊ではない。


 空だけで終わると思っていない部隊だ。


 ドローンが見つける。


 歩兵が近づく。


 紙を押さえる。


 箱を止める。


 必要なら、音で道を開く。


 それが、富士川無人観測班のやり方だった。


 新設部隊という紙の名前の下に残っていた、第十二旅団の残り。


 無人機の目と、歩兵の足。


 その両方を持った、壊れた部隊だった。


 楠本が言った。


「白羽は、顔を出さない」


 ジンは答えた。


「足は出す」


「だから追える」


「だから折れる」


 楠本は、初めて少しだけ笑った。


「話が早い」


 ジンは白羽系の車両を見た。


 支援の顔。


 医療の紙。


 別の団体名。


 同じ番号。


 同じ足。


 あしながおじさんの足は、富士川の泥に残っていた。


 ジンは低く言った。


「見えた」


 ラソアが隣で聞いた。


「何が」


「長い足だ」


 無人機が、空で小さく旋回した。


 歩兵が、地面で一歩進んだ。


 その後ろで、久世が画面を見ていた。


 右脚を失い、指の動きを失い、それでも誰かを前へ出す声だけは失っていない男。


 そして、ジンの昔の名前を知っている男。


 久世は無線を切ったあと、静かに言った。


「福岡仁」


 ジンは振り返らなかった。


 久世は続けた。


「終わったら、残れ」


 ラソアが小さく息を吐いた。


 楠本は、聞こえなかったふりをした。


 ジンは、富士川の向こうを見た。


 箱根の山に、低い雲がかかっている。


 その先に、地図に書かれていない小さな場所がある。


 まだ遠い。


 けれど、白羽の長い足は、すでにそちらへ向かっていた。


 ジンは答えた。


「仕事が終わったらな」


 久世は短く言った。


「逃げるなよ、真柴」


 その名前は、小さかった。


 だが、ジンには聞こえた。


 富士川の風が、コンテナの入口を鳴らした。


 ジンは何も返さなかった。


 返さないことだけが、今できる返事だった。


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