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第六十六話 壊された箱

##第六十六話 壊された箱


 その夜も、雨は降っていた。


 昼間の雨より細い。


 けれど、止まらない雨だった。


 窓板に当たる音が、部屋の中まで続いている。


 旧南第三小天気予報のあと、子どもたちは少しだけ眠った。


 深くはない。


 それでも、眠った。


 放送室の赤い送信ランプは消えていた。


 相原の可搬式非常無線親機は、放送盤の横ではなく、健二が一度外して、奥の棚へ移していた。


 兄ちゃんなら、たぶん言う。


 大事なものを出しっぱなしにするな。


 健二は、そう思って移した。


 蓮には「また直樹さんの顔色見てる」と言われた。


 それでよかった。


 百葉箱は校庭の奥に残した。


 中へは持ち込まなかった。


 土の上。


 北向きの扉。


 雨を受けた白い板。


 そこでなければ、天気は残らない。


 自記温湿度計の二本のペンは、夜の間もゆっくりと紙の上を進んでいるはずだった。


 最初に目を覚ましたのは、悠太だった。


 雨音の中に、別の音が混じった。


 かん。


 金属が木に当たる音。


 そのあと、短く。


 ぱき。


 何かが折れる音。


 悠太は布団の中で固まった。


 息が浅くなる。


 耳を塞ごうとして、途中で止めた。


 もう一度、音がした。


 今度はガラスだった。


 小さく割れる音。


 悠太は起き上がった。


「……ハルさん」


 声は小さかった。


 けれど、子どもたちと同じ部屋で眠っていた瀬田ハルは、すぐに目を開けた。


「どうしました」


 悠太は窓の方を見た。


「百葉箱」


 瀬田ハルの顔から眠気が消えた。


「音ですか」


 悠太はうなずいた。


「金属。ガラス。木」


 瀬田ハルはすぐに身を起こした。


 眼鏡をかけるより先に、子どもたちの前に身体を置いた。


「全員、奥の部屋へ。走らないでください。声は小さく」


 悠斗が起きた。


 美月の肩に手を置く。


 千紘は颯太の毛布を直そうとして、途中で止まる。


 花音は紙を胸に抱いた。


 颯太は名札を握った。


 蓮も起き上がった。


「何だよ」


 悠太が小さく言う。


「百葉箱」


 蓮の顔が変わった。


「健二さん呼んでくる」


 瀬田ハルが短く言った。


「一人で外へは出ないでください。廊下までです」


「分かってる」


「蓮くん」


 蓮が振り返る。


「走らないで。足音を増やさない」


 蓮は歯を噛んだ。


「……分かった」


 蓮は廊下へ出た。


 部室の方へ向かう。


 健二は、子どもたちとは別の部屋で寝ていた。


 完全には眠っていなかった。


 深夜の雨音の中で、金属の音が一つだけ混じった時点で、目は開いていた。


 蓮が部室の戸を叩くより先に、健二は中から戸を開けた。


「百葉箱か」


 蓮が息を呑む。


「何で分かんだよ」


「音が違った」


「悠太も言ってる」


「だろうな」


 健二はすぐに廊下へ出た。


「子どもたちは」


「ハルさんが奥へ下げてる」


「よし」


 健二は低い声で言った。


「蓮、戻る。追うな」


「でも、百葉箱が」


「外に出させるための音かもしれない」


 蓮は足を止めた。


 健二は続けた。


「俺たちは八人を減らさない。百葉箱より先に、八人だ」


 蓮は拳を握ったまま、うなずいた。


 二人が戻ると、瀬田ハルはすでに子どもたちを奥の部屋へ移していた。


 机と棚が、簡単な壁のように置かれている。


 窓から離れた場所。


 廊下から一直線に見えない場所。


 籠城できる形だった。


 悠斗がすぐに言った。


「八人」


 健二はうなずく。


「もう一回」


「八人」


「よし」


 千紘が床のものを片づけようとした。


 健二が言った。


「千紘、触るな」


 千紘の手が止まる。


「でも、危ないから」


「危ないから触らない。今は残す」


 颯太は名札を握っている。


 花音は紙を胸に抱いている。


 美月は喉に手を当てている。


 悠太は耳を押さえながら、廊下の方を見ていた。


「中にもいる」


 健二の目が廊下へ向く。


「足音か」


 悠太はうなずいた。


「廊下。放送室の方」


 健二は放送室の入口へ向かった。


「瀬田さん、子どもたちの前をお願いします」


「はい」


 瀬田ハルは迷わず、八人の前に立った。


 健二は廊下側に出る。


「蓮、出るな」


 蓮は唇を噛んだ。


「逃げられるぞ」


「捕まえるのは外の役目だ」


「外って」


「相原さんと八坂さんがいる」


 健二は廊下の暗がりを見た。


「俺たちは八人を減らさない」


   *


 放送室の扉は、半分開いていた。


 昼間、子どもたちが立った場所。


 悠斗が最初に声を出した場所。


 陸が雨の時刻を読んだ場所。


 蓮が風を言った場所。


 悠太が雨音を伝えた場所。


 千紘が水差しの水の粒を言った場所。


 瑠衣が花音の絵を読んだ場所。


 颯太が重い空と言った場所。


 美月が、今日、雨です、と言った場所。


 その入口に、男が立っていた。


 顔の下半分を布で覆っている。


 手には工具があった。


 ペンチ。


 切断用の小さな工具。


 男は健二を見て、放送室の中を見た。


 放送盤。


 マイク。


 切られたら、もう同じようには使えない線。


 男の目が、棚の奥へ動いた。


 可搬式非常無線親機を探している。


 健二は入口を塞いだ。


「ここから先は通さない」


 男は答えなかった。


 肩で押し込もうとする。


 健二は押し返さない。


 ただ、横へずれない。


 背中の向こうに、瀬田ハルが立っている。


 瀬田は子どもたちの前で、両腕を少し広げていた。


「ここから先は児童区域です」


 男が舌打ちした。


 次の瞬間、男の腕が動いた。


 工具の先が、健二の肩をかすめる。


 蓮が叫びそうになる。


 健二は言った。


「蓮、動くな」


「でも!」


「動くな」


 健二は男の手首を押さえた。


 奪いにはいかない。


 倒しにもいかない。


 ただ、子どもたちの方へ向けない。


「子どもの前に来るな」


 男が力を入れる。


 健二の足が半歩下がる。


 それでも入口は空けなかった。


 瀬田の声が後ろから飛ぶ。


「颯太くん、名札を持って。花音さん、目を閉じていい。千紘さん、片づけない」


 千紘の手が止まる。


 颯太は名札を握った。


 花音は紙を胸に抱いた。


 悠太が耳を塞いだまま言った。


「もう一人、外」


 健二は男を見たまま言った。


「悠斗、相原さんへ」


 悠斗がすぐに動いた。


 走らない。


 でも、速い。


「外、もう一人。百葉箱」


 廊下の向こうで、相原の部下が動いた。


 無線の短い声が飛ぶ。


「校庭奥、百葉箱側。二名以上」


「給食搬入口側、警戒」


「坂道、UN巡回へ連絡」


 男が健二の手を振りほどいた。


 放送室の中へ足を入れようとする。


 健二は身体ごと扉に入った。


 肩がぶつかる。


 古い扉が軋む。


 蓮が一歩出た。


 健二は見ずに言った。


「蓮」


 それだけで、蓮は止まった。


「くそ」


 男が工具を振り上げた。


 健二は避けない。


 避ければ、後ろが空く。


 腕で受けた。


 鈍い痛みが走る。


 瀬田ハルが一歩前に出た。


「真柴さん」


「下がらないでください」


「分かっています」


 瀬田は子どもたちを背にしたまま、動かなかった。


 男の視線が子どもたちの方へ行った。


 健二の声が低くなった。


「見るな」


 男が止まる。


「子どもを見るな」


 廊下の外から、別の足音が遠ざかった。


 百葉箱側の人影が逃げた。


 放送室の男は舌打ちし、工具を引いた。


 それから、廊下へ飛び出した。


 蓮が追おうとする。


「逃げんぞ!」


「追うな」


「何でだよ!」


「お前が外に出たら、向こうの勝ちだ」


 蓮は止まった。


 拳だけが震えている。


 健二は息を吐いた。


「捕まえるのは外の役目だ」


 廊下の奥で、相原の部下の声が響いた。


「校舎内一名、給食搬入口方向へ逃走」


 雨の音が強くなった。


   *


 校庭の奥では、百葉箱の扉が壊されていた。


 北向きの扉が、無理に開けられている。


 蝶番が歪んでいる。


 白い板に泥がついている。


 最高最低温度計のガラスが割れていた。


 乾湿計の片方が外れている。


 湿らせた布が、雨水と泥で汚れていた。


 ゼンマイ式自記温湿度計の透明カバーには、ひびが入っている。


 記録用紙を巻いた円筒は外されかけていた。


 二本のペンのうち一本は曲がっている。


 だが、完全には持ち去られていない。


 雨で濡れた記録紙の端に、まだ二本の線が残っていた。


 逃げた男たちは、給食搬入口の方へ走った。


 一人は工具袋を抱えている。


 もう一人は濡れた紙束を胸に入れていた。


 自記温湿度計から引き抜いた記録紙の一部だった。


 給食搬入口の前に、古い二トン車が斜めに止まっていた。


 雨に濡れた車体。


 南岸復旧組合の文字。


 その横に、八坂辰蔵が立っていた。


 灰色の雨具。


 四角い肩。


「道具壊して逃げるやつは、逃げ道を知らねえ」


 男たちは足を止めかけた。


 一人が叫ぶ。


「どけ!」


 八坂は動かなかった。


「どく道じゃねえ」


 男の一人が工具袋を投げた。


 八坂の足元で、中身が散らばる。


 ペンチ。


 切断した線。


 割れた計器の部品。


 八坂の視線が一瞬だけ下へ落ちた。


 その一瞬を、男たちは使った。


 二人が左右に割れる。


 一人は二トン車の前へ。


 もう一人は車体の横へ。


 八坂が片方の襟をつかんだ。


 雨具が破れる。


 男が泥に膝をつく。


 だが、もう一人がその背中を押した。


 八坂の腕が半歩だけ流れる。


 男たちは、二トン車の脇をすり抜けた。


「抜けたぞ!」


 相原の部下の声が飛んだ。


 校門側から二人が走ってくる。


 懐中灯の光が雨を切った。


「止まれ!」


 男たちは止まらない。


 給食搬入口の低い屋根をくぐり、校庭の端へ出る。


 泥に足を取られながら、坂道の方へ走った。


 相原の部下が横から回り込む。


 一人が男の腕をつかんだ。


 男は濡れた記録紙を抱えたまま、体ごとひねった。


 紙が半分見える。


 二本の線が、雨に濡れている。


「離せ!」


 相原の部下が押さえ込もうとする。


 もう一人の男が後ろから肩をぶつけた。


 相原の部下が転びかける。


 その間に、二人は坂道へ出た。


 そこへ、白い車両のライトが差し込んだ。


 UN表記の巡回車両だった。


 偶然そこを通ったのではない。


 だが、男たちには偶然に見えた。


 白い車体。


 雨に濡れた青い文字。


 車両が坂道の途中で止まる。


 扉が開いた。


「武器を置け!」


 英語混じりの声が響く。


 男たちは一瞬だけ止まった。


 相原の部下が後ろから迫る。


 八坂も給食搬入口側から戻ってくる。


 前にUN。


 後ろに相原の部下。


 横に八坂。


 逃げ場がないように見えた。


 だが、坂道の脇に、雨水の流れる細い溝があった。


 普段なら人が通る場所ではない。


 崩れた土と草の間。


 その先は、旧南第三の裏手の水路につながっている。


 男の一人がそこを見た。


「横だ!」


 二人は同時に動いた。


 UN車両の正面ではなく、横へ。


 ライトの外。


 濡れた草の中。


 相原の部下が追う。


 一人に飛びついた。


 泥の中で二人が転がる。


「一名確保!」


 声が上がる。


 別の男も、八坂の部下に足を払われた。


 工具袋が飛んだ。


 中身が泥に散った。


 だが、記録紙を抱えた二人は止まらなかった。


 UN車両の横をすり抜け、低い柵を越え、雨樋の陰へ消えた。


 相原の部下が無線をつかむ。


「二名、給食搬入口側から逃走。裏の水路へ出ました」


 八坂は泥を払わず、暗い水路の方を見た。


「……あっちは、道が悪いぞ」


 相原の部下が息を切らして言った。


「追いますか」


 八坂は首を振った。


「足を取られる。こっちが転ぶ」


 UN巡回のライトが水路の入口を照らした。


 雨はさらに強くなっている。


 相原の部下が無線で続けた。


「裏水路、二名逃走。南岸側、注意」


 返事は、すぐには来なかった。


 雨の音だけが返ってきた。


   *


 健二は動かなかった。


 動けなかった。


 背中の後ろに、八人がいる。


 瀬田ハルが、子どもたちの前に立っている。


 蓮が歯を食いしばった。


「逃げんぞ」


「追うな」


「でも」


「追うのは外の役目だ」


 健二は廊下の向こうを見た。


「俺たちは八人を減らさない」


   *


 旧南第三の裏手には、細い水路があった。


 雨水が濁って流れている。


 深夜の水路は、昼間よりも黒かった。


 草は濡れ、土は柔らかく、足を取られる。


 逃げた男たちは、そこを走っていた。


 一人は工具袋を抱えている。


 もう一人は、濡れた紙束を胸に入れていた。


 百葉箱から引き抜いた記録紙だった。


「抜けた」


 片方が言った。


「坂道は押さえられてる。水路から下りる」


「車は」


「下にある」


 その時、水路の先に人影が立った。


 小さい影だった。


 雨の中でも、背筋だけはまっすぐだった。


 黒い雨合羽のフードから、白人女性の顔が見える。


 ミーシャだった。


 男たちは足を止めた。


「何だ、お前」


 ミーシャは答えなかった。


 代わりに、少し横を見た。


 水路の脇。


 濡れた草の中から、もう一人が立ち上がった。


 もう一人の雨合羽。


 以前より痩せて見える。


 動きも、まだ少し硬い。


 それでも、立ち上がった足は震えていなかった。


 ミーシャが短く聞いた。


「動ける?」


 雨合羽は答えなかった。


 右手を一度握る。


 開く。


 泥の上で、足の位置を半歩だけ変える。


 それが返事だった。


 男の一人が後ずさった。


「お前ら、誰だ」


 ミーシャは雨合羽を見た。


 雨合羽はまだ黙っている。


 ミーシャが代わりに言った。


「アフターサービス」


「は?」


「До свидания」


 男が工具を構えた。


 ミーシャが一歩踏み出した。


 雨の音が強くなった。


 次の瞬間、水路の泥が跳ねた。


 叫びは短かった。


 長くは続かなかった。


 雨合羽は息を吐いた。


 右肩が少しだけ遅れて落ちる。


 完全ではない。


 それでも、倒れなかった。


 ミーシャは落ちた工具袋を拾った。


「動けた」


 雨合羽は答えない。


 ただ、濡れた袖口を引き直した。


 ミーシャは男の胸元から濡れた記録紙を抜き取った。


 二本の線が、まだ薄く残っている。


「これ、返す」


 雨合羽は水路の向こうを見た。


 ミーシャが言った。


「ここで二人が来ただけ」


 雨合羽は、ようやく小さくうなずいた。


 ミーシャは濡れた記録紙を筒に入れた。


「旧南第三へ戻す」


 雨合羽は倒れた影を見下ろした。


 何も言わなかった。


 雨はまだ降っていた。


 水路の音が、すべてを下へ運んでいった。


   *


 放送室の前で、健二はまだ立っていた。


 腕に鈍い痛みが残っている。


 肩に泥がついていた。


 蓮がそれを見た。


「血、出てんじゃねえの」


「出てない」


「嘘つけ」


「ちょっとだ」


「ちょっとは出てんじゃねえか」


 健二は息を吐いた。


「うるせえ。見るな」


「見るだろ」


 瀬田ハルが近づいた。


「見せてください」


「あとで」


「今です」


 瀬田の声は静かだったが、強かった。


 健二は諦めて腕を出した。


 工具の先がかすめたところに、赤い線ができている。


 深くはない。


 でも、痛みはある。


 蓮が顔をしかめた。


「ぶっ飛ばせばよかった」


「それをやったら、こっちがなぁ」


「まったくヨォ」


「昨日、俺たちは天気で返した。今日は事実で返す」


「意味分かんねえ」


「分かんなくていい。今は外に出るな」


 颯太が名札を握ったまま、小さく聞いた。


「……百葉箱、壊れた?」


 健二はすぐには答えなかった。


 外の雨を見る。


 百葉箱の方角を見る。


「壊された」


 颯太の指が止まった。


「……天気、もう見に行かない?」


「見に行く」


 健二は言った。


「箱が壊れても、空は残る」


 美月が毛布を握った。


「昨日の空、なくなった?」


「なくなってない」


 健二は瑠衣の記録板を見た。


「紙に残ってる」


 花音の絵を見る。


「絵にも残ってる」


 陸が持っていた記録を見る。


「数字にも残ってる」


 悠太が小さく言った。


「音も」


「音もだ」


 千紘が床の破片を見た。


「片づけます」


「まだ触らない」


「でも、危ないです」


「危ないから、今は触らない」


 健二は繰り返した。


「片づける前に、残す」


 千紘は手を止めた。


 補助に戻りかけた手を、自分で下げた。


「……はい」


 瀬田ハルが子どもたちを見る。


「全員、ここにいます」


 悠斗がすぐに答えた。


「八人」


 健二もうなずいた。


「八人いる」


   *


 相原が押収物を並べたのは、深夜のうちだった。


 場所は、旧南第三の校門横。


 雨除けの張られた仮の机。


 切断用工具。


 濡れた手袋。


 百葉箱から引き抜かれかけた記録紙。


 割れた乾湿計の部品。


 放送室の配線図。


 旧南第三小天気予報の放送範囲メモ。


 そして、短い指示紙。


 再放送阻止。


 観測具破壊。


 親機優先。


 蓮がそれを見て言った。


「やっぱり、天気が効いてたんじゃねえか」


 健二は壊れた百葉箱の扉を見た。


「効いてた」


「今度は認めた」


「ここまで壊しに来たからな」


 相原は押収物の横に、透明な袋を置いた。


 水路側から戻された記録紙だった。


 筒に入っていた。


 誰が戻したのか、相原は聞かなかった。


 八坂も聞かなかった。


 健二も聞かなかった。


 濡れた紙には、二本の線が残っていた。


 途中で乱れている。


 だが、消えてはいない。


 相原は言った。


「実働犯三名を拘束。二名は、逃走経路上で死体の状態で発見。身柄確認後、暫定治安当局へ引き渡します」


 瀬田が確認する。


「所属は」


「一名は地域支援団体の外部協力者。二名は境界ラジオ側の搬送協力者として登録があります。残りは登録外です」


 八坂が低く言った。


「支援に来たやつは、箱を壊さねえ」


 相原はうなずいた。


「児童保護区域内での破壊行為です。支援団体としての立ち入り資格を一時停止します」


 瀬田が続けた。


「旧南第三周辺への接近禁止も求めます」


「はい」


 相原は紙をめくった。


「対象は、実働犯本人、所属団体、搬送協力名簿に載っていた関係者。境界ラジオの当該送信枠についても、調査終了まで旧南第三関連放送への介入を制限します」


 健二は言った。


「裁くのは、相原さんたちじゃない」


「はい」


 相原は静かに答えた。


「身柄は暫定治安当局へ引き渡します。UN巡回は周辺保全と逃走防止。こちらは証拠保全と児童保護区域からの排除です」


 健二はうなずいた。


「それでいいです」


 蓮が言った。


「全部捕まったのか」


 相原は少しだけ黙った。


「指示した者は、まだです」


 蓮の目が鋭くなる。


「じゃあ終わってねえじゃねえか」


「終わっていません」


 健二が言った。


「でも、一つ分かった」


「何が」


「壊した時点で、あいつらは認めた」


 健二は濡れた記録紙を見た。


「天気が効いたってことだ」


   *


 百葉箱の前に、八人は立たなかった。


 深夜だからではない。


 そこはまだ現場だった。


 足跡がある。


 泥の跡がある。


 割れたガラスがある。


 曲がったペンがある。


 だから、健二は近づかせなかった。


 子どもたちは窓板の隙間から見た。


 昼間と同じように。


 でも、同じではなかった。


 白い箱は壊れている。


 扉が歪んでいる。


 雨が中へ入っている。


 颯太が小さく言った。


「……かわいそう」


 誰も笑わなかった。


 蓮も何も言わなかった。


 美月が言った。


「昨日、天気を言ったから?」


 健二は短く答えた。


「そうだと思う」


「言わなかったら、壊されなかった?」


「たぶん、別のものを壊しに来た」


 美月は黙った。


 健二は続けた。


「美月のせいじゃない」


 美月は顔を上げる。


「八人のせいでもない」


 健二は、壊れた百葉箱を見た。


「壊したやつのせいだ」


 千紘が水差しを握っていた。


 でも、配りには行かない。


 颯太は名札を持っている。


 花音は紙を抱えている。


 悠太は耳を押さえながら、窓の外の雨音を聞いている。


 陸は記録紙を見ている。


 蓮は拳を握っている。


 悠斗は、数えている。


「八人」


 健二が答えた。


「八人いる」


 瀬田ハルが静かに言った。


「百葉箱は直せる部分を確認します」


 蓮が言った。


「直せんのかよ」


「全部は無理です」


 瀬田は言った。


「でも、残った部品を使います。記録紙も乾かします。乾湿計は、代用品を探します」


 陸が顔を上げた。


「また測れる?」


「精度は落ちます」


 瀬田は正直に言った。


「でも、見続けることはできます」


 健二はうなずいた。


「それでいい」


 蓮が言った。


「それでいいって、何でも言うな」


「何でもじゃねえよ」


 健二は少しだけ口元を上げた。


「壊れても続けられるなら、それはかなり強い」


 蓮は黙った。


 それから、小さく言った。


「……まあ、ちょっと強いな」


   *


 別の場所で、濡れた靴音が廊下に響いた。


 白い壁。


 窓のない部屋。


 机の上に報告書が置かれている。


 旧南第三小天気予報。


 百葉箱破壊。


 非常無線親機破壊未遂。


 実働犯拘束。


 所属団体一部判明。


 旧南第三周辺から一時除外。


 暫定治安当局へ引き渡し。


 男は、その行で指を止めた。


「失敗か」


 向かいの者は答えなかった。


「百葉箱は」


「完全破壊には至らず」


「親機は」


「未破壊。保管場所を変えられていました」


「逃走者は」


「二名、戻りません」


 男は目を上げた。


「戻らない?」


「水路側で途切れました」


 沈黙が落ちた。


 男は椅子に背を預けた。


「外から壊すと、足がつく」


 誰も答えない。


「実働を使うと、切られる」


 報告書の横に、別の紙が置かれていた。


 一名誘導。


 自発的退出。


 保護意思確認。


 男は、そこに赤い線を引いた。


「なら、中から動かす」


 雨の音は、その部屋には届かなかった。


   *


 夜明け前、旧南第三小学校では、まだ誰も深く眠っていなかった。


 百葉箱は壊された。


 放送室は守られた。


 非常無線親機は無事だった。


 記録紙は一部戻った。


 実働犯は拘束された。


 関係団体は、旧南第三周辺から外された。


 それでも、全部が終わったわけではなかった。


 健二は、濡れた記録紙を棚に置いた。


 封筒ではない。


 でも、控えを作る。


 一枚は旧南第三。


 一枚は相原。


 一枚は南岸経路確認用。


 颯太が眠そうな目で聞いた。


「……紙の道?」


 健二は少しだけ笑った。


「そう。紙がどこから来て、どこへ行くかを残すって意味だ」


「……道」


「道があれば、戻れる」


 颯太は名札を触った。


「……百葉箱も?」


「戻す」


「……壊れたのに?」


「壊れたところから戻す」


 美月が言った。


「昨日の雨は?」


「消えない」


 健二は答えた。


「百葉箱は壊れた。でも、昨日の雨は消えてない」


 悠太が小さく言った。


「音も」


「ああ。音も」


 花音は、壊れた百葉箱の絵を描いた。


 扉が曲がっている。


 雨が入っている。


 でも、その横に八個の丸があった。


 八個の丸は、箱の中ではなく、校舎の中にあった。


 蓮がそれを見て言った。


「箱、負けてねえな」


 健二は少しだけ笑った。


「箱、強いな」


「お前、何でも褒めるな」


「壊されても残ったやつは、褒めていい」


 蓮は何も言わなかった。


 ただ、窓の外を見た。


 雨は少しずつ弱くなっていた。


 その夜、旧南第三小学校では、天気を壊そうとした者が捕まった。


 壊された箱は、旧南第三を弱くしなかった。


 むしろ、誰が天気を恐れていたのかを、はっきりさせた。


 だが、次に来るものは、壊す手ではない。


 外から入る足音でもない。


 もっと静かなものだった。


 一人だけを外へ向かせる声。


 自分が出れば、みんなが助かると思わせる声。


 雨が止む前から、その声はもう、別の場所で準備されていた。


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