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第六十五話 今日の風

##第六十五話 今日の風


 朝、悠太は境界ラジオ用の小型受信端末を見ていた。


 黒い箱のような端末だった。


 丸いダイヤルと、小さな表示窓がある。


 旧南第三の外側で流れる放送を拾うためのものだ。


 近づきすぎてはいない。


 耳を塞いでもいない。


 ただ、少し離れたところに座っている。


 音から逃げる距離ではない。


 音を見るための距離だった。


 窓の外は、朝から重かった。


 空は白くない。


 灰色でもない。


 水を含んだ布を広げたような色だった。


 窓板の隙間から、湿った風が入ってくる。


 昨日より、床が少し冷たい。


 千紘は水差しを置いた。


 美月の近く。


 悠太の手が届くところ。


 颯太の名札が濡れないところ。


 配るのではない。


 置くだけにした。


 美月は毛布を膝にかけている。


 手は、喉の近くにあった。


 昨日、外から名前を呼ばれた。


 宮原美月さん。


 優しそうな声だった。


 でも、その声は、美月の胸の奥を冷やした。


 颯太は名札を触っている。


 小野寺颯太。


 指の腹で、何度も確かめている。


 花音は紙に丸を描いていた。


 八個の丸。


 その外側に、昨日引いた線がまだ残っている。


 蓮は境界ラジオ用の小型受信端末を睨んでいた。


「今日は何が来るんだよ」


 健二はすぐには答えなかった。


 昨日の夜、相原から短い連絡が来ていた。


 境界ラジオの一部で、妙な予告が流れていたらしい。


 旧南第三の児童本人と思われる声を、近日中に公開する。


 本人確認を拒む現場に対し、児童の本当の声を届ける。


 その言葉だけで十分だった。


 第六十四話で、相手は本人の声を取れなかった。


 個別面談も通らなかった。


 答えさせることもできなかった。


 なら、次は「本人に聞こえるもの」を外で用意する。


 健二は窓板の隙間から空を見た。


「声だ」


 蓮が顔を上げる。


「またかよ」


「たぶん、本人に似せた声だ」


 部屋が少しだけ静かになった。


 千紘の手が止まる。


 美月の指が喉に触れる。


 颯太が名札を強く握った。


 蓮が眉を寄せた。


「何で分かんだよ」


「昨日、本人の声は取れなかった」


「だから?」


「外で作る」


「作るって」


「年恰好の近い子どもに、名前だけ合わせた台本を読ませる。外の人間には、子どもの声に聞こえる」


 蓮の顔が歪んだ。


「最低じゃねえか」


「最低だ」


 健二は否定しなかった。


「でも、できる」


 瑠衣が鉛筆を持つ。


「記録しますか」


「まだいい」


 健二は端末を見た。


「聞いてからだ」


 蓮が言った。


「聞くのかよ」


「聞く」


「何でだよ。消せばいいだろ」


「何を言わせたか見る。あと、どこで崩せるか見る」


 悠太が小さく言った。


「音も」


 健二は悠太を見た。


「きつければ止める」


 悠太はうなずいた。


「聞けるところまで」


「それでいい」


   *


 境界ラジオが鳴ったのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。


 短い雑音。


 抑えた声。


『本日、旧南第三小学校内にいる児童本人と思われる音声を公開します』


 蓮の拳が固まった。


 悠斗がその横に立つ。


 蓮は立ち上がらなかった。


『当該音声は、本日午前十時四十分ごろ、旧南第三小学校周辺で記録されたものとされています』


 陸が顔を上げた。


「十時四十分?」


 健二は言った。


「書け」


 陸はすぐに紙へ書いた。


 敵側予告。


 本日午前十時四十分ごろ。


 旧南第三小学校周辺。


 児童本人と思われる音声。


 放送はそこで、いったん切れた。


 まだ音声そのものは流れなかった。


 蓮が言った。


「何だよ、今の」


「予告だ」


「十時四十分って、まだ先だろ」


「そうだ」


 健二は時計を見た。


 十時を少し過ぎている。


 空はさらに低くなっていた。


「時刻を出してきた」


 陸が紙を見る。


「十時四十分」


「なら、その時間を見る」


 蓮が顔をしかめる。


「何を見るんだよ」


「天気だ」


「は?」


 健二は、棚に残していた紙束を取り出した。


 相原が前に置いていったものだった。


 生存自活メニュー。


 食事。


 飲水。


 避難。


 火の扱い。


 道具の確認。


 その下に、小さな項目があった。


 天気を見る。


 気温を見る。


 湿度を見る。


 雨を予測する。


 自分たちのいる場所の空を、自分たちで確認する。


 さらに横に、相原の字があった。


 旧南第三小学校、校庭奥に百葉箱あり。使用可否確認。


 健二の指が、その一行で止まった。


 最初にこの紙を見た時、ただの生活訓練だと思っていた。


 雨の前に窓を閉める。


 湿度が高い日は毛布を干さない。


 寒くなる前に布を出す。


 そのためのものだと思っていた。


 だが今は違う。


 声は似せられる。


 年恰好の近い子どもを用意して、名前だけ合わせることもできる。


 でも、その時刻、その場所の天気までは簡単に合わせられない。


 健二はゆっくり顔を上げた。


「瀬田さん」


「はい」


「百葉箱、まだありますか」


 瀬田ハルは、すぐに意味を分かった顔をした。


「校庭の奥にあります。昔の理科観測用です」


「使えますか」


「完全ではありません。でも、自記温湿度計は昨日確認しました。ゼンマイを巻けば動きます」


「よし」


 健二は、そこで少しだけ笑った。


 さっきまでの硬い顔が、ふっと緩む。


 蓮が眉を寄せた。


「何だよ、その顔」


「勝ち筋の匂いがした」


「また変なこと言い出したぞ」


「変じゃねえよ。理科だ」


「理科で殴んのかよ」


「殴らねえよ」


 健二は校庭の方を指差した。


「天気予報で押し返す」


 蓮はしばらく黙った。


「……意味分かんねえ」


「俺も今、ちょっと楽しくなってきた」


「楽しむなよ」


「悪い。こういうの、兄ちゃんに見せたら絶対嫌な顔する」


 陸が紙を持って近づいた。


「天気で、声を見る?」


「そう」


 健二は陸を見た。


「向こうは“十時四十分の旧南第三の声”って言った。なら、その時間の天気と合うか見る」


 蓮が首をかしげた。


「天気?」


「雨が降っていたか。風はどっちから吹いていたか。窓板は鳴っていたか。水たまりの音はあったか。湿度は上がっていたか」


 健二は窓の外を指した。


「その時間に本当にここで録った声なら、今日の旧南第三の音が後ろに入る」


 悠太が小さく言った。


「雨の音」


「それ」


 健二は指を鳴らしそうになって、途中でやめた。


「悠太、今の百点」


 悠太は少し驚いた。


「百点?」


「いや、九十八点。兄ちゃんが百点は簡単に出すなって顔しそうだから」


 蓮が呆れた。


「ここにいない直樹さんの顔色まで見んな」


「癖だ」


 千紘が水差しの横で、小さく言った。


「天気なら、みんなで見られます」


「そう」


 健二は千紘を見る。


「誰か一人の声じゃない。八人で今日の天気を見る」


 美月が毛布を握ったまま聞いた。


「私は、声を出さなくていい?」


「出さなくていい」


 健二はすぐに答えた。


「違うって言うために出さなくていい」


 颯太が名札を触った。


「……天気は?」


「天気は、言っていい」


「……言っていい?」


「うん」


 健二は少しだけ笑った。


「今日から旧南第三小学校天気予報だ。名前確認じゃない。本人確認でもない。天気予報」


 蓮がぼそっと言った。


「何だよ、旧南第三小学校天気予報って」


「今決めた」


「雑すぎるだろ」


「仮タイトルだ。あとで瑠衣がちゃんと書く」


 瑠衣が鉛筆を持った。


「旧南第三地域天気記録、でどうですか」


「急にちゃんとしてきた」


「健二さんの仮タイトルが雑なので」


「瑠衣、今日ちょっと強くない?」


「記録係なので」


 蓮が笑いそうになって、口を曲げた。


 瀬田が静かに言った。


「でも、理屈は通ります」


 健二は瀬田を見た。


「ですよね」


「相手は時刻と場所を言いました。その時刻の環境記録が残れば、同時刻の旧南第三で録られた音声かどうかは確認できます」


「ほら」


 健二は蓮を見る。


「理科で殴れる」


「殴らねえって言っただろ」


「じゃあ、理科で押す」


「だいぶ弱くなったな」


 陸が真面目に言った。


「押せると思う」


 蓮は陸を見た。


「お前が言うと急に本当っぽいな」


 花音は紙に、雲と雨の線を描き始めていた。


 健二はそれを見て言った。


「花音、早いな」


 花音は少しだけ紙を隠した。


「隠さなくていい。今日の空だ」


 花音は、ゆっくり紙を戻した。


 灰色の雲。


 斜めの雨。


 八個の丸。


 健二はうなずいた。


「いい。これ、使える」


 颯太が小さく言った。


「……天気、行く?」


「行く」


「……声じゃなくて?」


「声じゃなくて、天気が行く」


 健二は百葉箱のある校庭の方を見た。


「偽物の声には、今日の雨が入ってなかった。だったら、こっちは今日の雨を出す」


 美月が窓の方を見た。


「私の声じゃなくて」


「うん」


「今日の雨」


「そう」


 健二は少しだけ明るい声で言った。


「声を取られそうになったら、空で返す。なかなか洒落てるだろ」


 蓮が言った。


「自分で言うとダサい」


「うるせえ。兄ちゃんにもたぶん言われる」


 瀬田が小さく笑った。


 それだけで、部屋の中の空気が少し戻った。


 勝ったわけではない。


 危険が消えたわけでもない。


 でも、次に何をすればいいかが見えた。


 健二は校庭を指差した。


「よし。今日の旧南第三は、天気予報を始めます」


 悠斗が人数を確認するように、静かに言った。


「八人で」


 健二はうなずいた。


「八人で」


   *


 百葉箱は、校庭の奥にあった。


 土の上に立っている。


 白い塗装はところどころ剥げているが、細い板を重ねた壁はまだ形を保っていた。


 校舎の影に入りすぎず、大きな木にも近すぎない。


 人が走ってぶつかる場所でもない。


 扉は北を向いていた。


 開けた時に直射日光が入って、温度が変わらないようにするためだと、瀬田が説明した。


 外に出たのは健二と瀬田だけだった。


 子どもたちは校舎の中から見る。


 窓板の隙間から。


 無理に外へは出さない。


 健二は百葉箱の前にしゃがんだ。


 昔、この学校で誰かが毎日ここまで来て、空を見ていたのだと思った。


 瀬田が扉を開ける。


 中には、古い測定器が残っていた。


 最高最低温度計。


 一日の最高気温と最低気温を記録できる温度計。


 乾湿計。


 乾いた温度計と、湿らせた布を巻いた温度計が並び、気温と湿度を見るためのもの。


 それから、金属製の古い機械。


 透明なカバーの中に、記録用紙を巻いた円筒がある。


 二本の細いペンが、紙に触れていた。


「ゼンマイ式の自記温湿度計です」


 瀬田が言った。


「時計みたいにネジを巻くと、円筒がゆっくり回ります。温度と湿度の変化を、二本のペンが線で残します」


 陸が窓の内側から身を乗り出す。


「ずっと書くの?」


「はい。二十四時間、または一週間かけて紙に残します」


「誰が動かすの」


「ゼンマイです」


 瀬田は機械の横を示した。


「温度は金属の曲がり方で、湿度は髪の毛の伸び縮みで測ります」


 蓮が顔をしかめた。


「髪の毛?」


「湿気を吸うと伸びて、乾くと縮むんです」


「気持ち悪いな」


 悠太が小さく言った。


「でも、音じゃない」


 健二はうなずいた。


「音じゃない。線だ」


 瑠衣が記録板を持つ。


「天気の線」


「そうだ」


 健二は自記温湿度計のゼンマイを巻いた。


 きり、きり、と小さな音がした。


 古い機械が、少し遅れて動き始める。


 円筒がゆっくり回る。


 二本のペンが、紙の上に細い線を残していく。


 声ではない。


 叫びでもない。


 だが、旧南第三の今日を残す線だった。


   *


 部屋に戻ると、瑠衣が紙に表題を書いた。


 旧南第三地域天気記録。


 その下に、健二が一行足す。


 生存自活メニュー、気象観測。


 蓮が言った。


「天気なんか見て、何になるんだよ」


 健二は答えた。


「生きるのに使う」


「は?」


「雨が来るなら、外に出ない。風が強いなら、窓板を見る。湿度が高いなら、身体が重くなる子がいる。寒くなるなら、毛布を先に出す」


 健二は境界ラジオ用の小型受信端末を指した。


「それと、もう一つ」


 蓮は黙った。


「向こうが、十時四十分に旧南第三周辺で録った声だと言った。なら、その時間の天気、雨音、窓板の音、湿度と合うかを見る」


 陸が紙に線を引いた。


「観測者」


「児童八名」


 瑠衣が書く。


 観測者、児童八名。


 補助、真柴健二、瀬田ハル。


 目的、生活再建のための気象観測。同時刻環境の確認。


 健二は八人を見る。


「悠斗。観測時刻と人数」


 悠斗がうなずく。


「はい」


「美月。空の色。見える範囲でいい」


「見るだけ?」


「見るだけ」


「なら、できる」


「蓮。風。窓板の鳴り方、木の葉、雨の向き」


「分からなかったら?」


「分からないと書く」


「……それでいいのかよ」


「それでいい」


「悠太。音。雨音、窓板、車、水たまり。きつければ止める」


 悠太は小さくうなずいた。


「音を見る」


「千紘。床、布、水差しの湿り気」


「はい」


「陸。最高最低温度計と乾湿計。数字を見る」


「はい」


「花音。空と雲の絵」


 花音は紙を引き寄せた。


「颯太。今日の天気を一言で確認する」


 颯太は名札を触った。


「……一言」


「長く言わなくていい」


 颯太は窓の外を見た。


 重い雲。


 湿った風。


 雨の前の暗さ。


「……重い空」


 健二はうなずいた。


「それでいい」


 瑠衣が書いた。


 颯太確認、重い空。


 その時、百葉箱の中の自記温湿度計では、二本のペンがゆっくりと紙の上を進んでいた。


   *


 午前十時三十四分。


 雨が来た。


 最初は、窓板に小さな点が当たる音だった。


 ぽつ。


 少し置いて、ぽつ。


 それから、続いた。


 ぽつ、ぽつ、ぽつ。


 校庭の土の色が暗くなる。


 空気が、さらに重くなる。


 悠太が最初に言った。


「来た」


 蓮が聞く。


「何が」


「雨」


 窓板に、雨が当たり始めた。


 健二は時計を見る。


「十時三十四分」


 陸が書く。


 十時三十四分、降雨開始。


 美月は窓板の隙間から空を見た。


「濡れた灰色」


 蓮が横を見る。


「またそれかよ」


 美月は少しだけ眉を寄せた。


「そう見える」


 健二が言った。


「それでいい」


 瑠衣が書く。


 空、濡れた灰色。


 蓮は窓板を見る。


「さっきより鳴ってる」


「風は」


 健二が聞く。


「左から。木が右に揺れてる」


 陸が書く。


 北東の風。


 窓板音、増加。


 悠太は目を閉じていた。


「板の下に、水が当たってる」


「低い音か」


「はい」


 千紘は水差しを見た。


「水差しに水の粒があります。床も冷たいです」


 陸は百葉箱の記録を確認する。


「湿度、上がっています。八十を超えています」


 花音は紙に斜めの雨を描いた。


 八個の丸の上に、細い線を降らせる。


 颯太は名札を握りながら言った。


「……雨」


 瑠衣が書く。


 颯太確認、雨。


 その数分後。


 境界ラジオ用の小型受信端末が、再び鳴った。


 健二は音量を下げたまま、受けた。


『先ほど予告した児童本人と思われる音声は、本日午前十時四十分ごろ、旧南第三小学校周辺で記録されたものとされています』


 陸が紙を見る。


「十時四十分」


 雨は、もうはっきり降っている。


 窓板の音。


 校庭の水たまり。


 百葉箱の白い板につく水滴。


 水差しの結露。


 全部が、そこにあった。


『まず、宮原美月さんと思われる児童の声です』


 音声が流れた。


 子どもの声だった。


 高すぎず、低すぎない。


 少し震えるように作られた声だった。


『私は、ここにいたくありません。外の人と、少し話したいです』


 美月の肩が小さく動いた。


 だが、健二は美月を見なかった。


 見られることも、圧力になる。


『次に、佐伯千紘さんと思われる児童の声です』


 今度は、少し大人びた子どもの声だった。


『記録を変えてください。私は、みんなの世話をしたいだけです』


 千紘が水差しを見る。


 持ち上げない。


 ただ、見ている。


『次に、小野寺颯太さんと思われる児童の声です』


 幼い声。


 でも、颯太よりも言葉が滑らかだった。


『生活名を、みんなで確認したいです。僕は、ちゃんと答えられます』


 颯太が名札を握りしめる。


 蓮が立ち上がろうとした。


「違うだろ」


 健二が言った。


「座れ」


「でも、違うだろ!」


「座れ」


 蓮は歯を食いしばった。


 それでも座った。


 放送は続く。


『これらの音声は、旧南第三内の児童が外部確認を望んでいる可能性を示す重要な資料です』


 健二は音量を下げた。


 完全には切らない。


 言葉ではなく、後ろの音を見るためだった。


 悠太が小さく言った。


「違う」


 健二は聞いた。


「声か」


「声も違う」


 悠太は端末を見た。


「でも、後ろが違う」


「後ろ」


「雨がない」


 雨は、窓板を叩き続けていた。


 水たまりに落ちる音もある。


 廊下の床が湿気で鳴る音もある。


 だが、流れた音声の後ろは、乾いていた。


 近い部屋。


 静かすぎる部屋。


 悠太は続けた。


「美月は、あんなふうに一気に言わない」


 美月の手が少し止まる。


「千紘も違う。千紘の声は、もっと短い」


 千紘は水差しから目を離した。


「颯太は、僕はちゃんと答えられます、なんて言わない」


 颯太は名札を見た。


「……言わない」


「だろうな」


 蓮が低く言った。


「聞きゃ分かる」


 健二はうなずいた。


「ここにいる人間には分かる」


 蓮が顔を上げた。


「外には?」


「分からない」


 健二は短く言った。


「外には、子どもの声に聞こえる」


 部屋がまた静かになった。


 それが問題だった。


 旧南第三にいる者には違うと分かる。


 美月の間。


 千紘の短い返事。


 颯太の言葉の途切れ方。


 それは、一緒に暮らしている者には分かる。


 でも、外の人間には分からない。


 名前を言われる。


 子どもの声が流れる。


 それだけで、本物らしく聞こえてしまう。


 健二は端末を切った。


 美月が小さく言った。


「私じゃない」


「分かってる」


 健二はすぐに答えた。


「でも、外に向かって言わなくていい」


「言わないと」


「言わなくていい」


 千紘が聞いた。


「私もですか」


「千紘も」


 颯太を見る。


「颯太も」


 颯太は名札を握った。


「……違うって、言わない?」


「言わない」


「……でも」


「本人に否定させるな」


 健二は言った。


「二回奪われる」


 蓮が顔をしかめた。


「二回?」


「似た声を出される。違うと言わせるために、本人を出す。もう一回、声を取られる」


 蓮は黙った。


 健二は境界ラジオ用の小型受信端末を見た。


「こっちは本物の声を差し出して比べる話じゃない」


 瑠衣が鉛筆を握る。


 健二は続けた。


「そっちが本人の声だと言った。なら、そっちが声の道を出せ」


 蓮が眉を寄せた。


「声の道って何だよ」


「その声が、どこから来たかだ」


 健二は指を折った。


「いつ録った。どこで録った。誰が録った。誰が立ち会った。本人は録音していいと言ったのか。外に流していいと言ったのか」


 蓮は黙った。


「それが出せない声は、本人の声として扱わない」


 颯太が名札を握ったまま聞いた。


「……声にも、道?」


「ある」


 健二は短く答えた。


「道がない声は、迷子じゃない。誰かが置いた声だ」


   *


 午後一時前、相原が来た。


 雨はまだ降っていた。


 坂道の下には、UN表記の白い補給トラックが一台、ゆっくり通った。


 タイヤが水たまりを踏む音が、校舎まで届く。


 悠太が顔を上げた。


「今のも今日の音」


 陸が時刻を書く。


 十三時二分、UN表記補給トラック通行。水たまり音あり。


 相原は濡れた肩を払い、校門の外側で止まった。


 EU共同監視枠の連絡員も、坂道の下にいる。


 健二は紙を渡した。


 旧南第三地域天気記録。


 児童八名による観測。


 百葉箱使用。


 自記温湿度計稼働。


 相原は一枚目を見た。


「百葉箱を使ったんですね」


 健二は答えた。


「相原さんの生存自活メニューにありました」


「生活用のつもりでした」


「役に立ってます」


「別の方向でも」


「かなり」


 相原は紙を読み進める。


 十時三十四分、降雨開始。


 十時四十分、窓板雨音あり。


 校庭水たまりあり。


 百葉箱水滴あり。


 湿度上昇あり。


 児童八名観測。


 相原の目が少し鋭くなった。


「あちら側音声は十時四十分と主張」


「はい」


「音声には雨音がない」


「悠太が気づきました」


 相原は悠太の方を見ようとして、すぐに視線を戻した。


 本人に負担をかけない。


 健二の決めた線を、相原も守った。


「こちらでも確認します」


 相原は小型端末を開いた。


 境界ラジオの録音を短く確認する。


 子どもたちには聞かせない。


 大人側だけで音を拾う。


 相原は言った。


「背景音がほぼありません。乾いた室内音です」


 瀬田が聞く。


「旧南第三の同時刻としては」


「不自然です」


 相原は紙に書く。


 敵側音声、同時刻環境記録と不一致。


 降雨記録あり。


 窓板雨音あり。


 百葉箱水滴あり。


 湿度上昇あり。


 音声背景、乾いた室内音。


 旧南第三内録音として確認できず。


 健二は言った。


「もう一つあります」


「何ですか」


「順番です」


 陸が昨日の確認票を出した。


 第六十四話の記録。


 質問内容の事前提示要求。


 拒否権。


 中止権。


 同席者選択権。


 生活名確認を混ぜないこと。


 面談後の休息。


 健二は言った。


「昨日、こちらは質問内容を先に出せと言いました」


「はい」


「今日、質問は来ていません」


「来ていません」


「でも、答えだけ流れました」


 相原の表情が硬くなる。


 健二は続けた。


「順番が逆です」


 陸が紙に書く。


 質問未提出。


 回答風音声のみ流通。


 本人確認手順より先に、回答が用意されている。


 健二は言った。


「確認したいなら、先に質問を出す。あいつらは質問を出す前に、答えを用意していた」


 相原は静かに言った。


「本人確認ではなく、本人確認をしたように見せるための音声」


「はい」


 瀬田が言った。


「別人の声を本人として扱う行為は、ただの誤報ではありません」


 雨の音が強くなる。


 瀬田は続けた。


「児童本人へのなりすましです。正式な違反案件として記録します」


 相原はうなずいた。


「第三区受入班としても、上位機関へ回します」


 それから、相原は車の荷台から銀色の小さな箱を下ろした。


 取っ手がついている。


 横に古い無線機のようなつまみがあり、前面には赤い送信ランプがある。


 蓮がそれを見た。


「何だよ、それ」


「可搬式の非常無線親機です」


 相原が言った。


「本来は、役場や避難所が壊れた時に、臨時で地域放送を出すための機材です」


「学校の放送室から、外に流せるのか」


 健二が聞いた。


「そのままでは無理です」


 相原は旧南第三の放送室を見た。


「学校の放送設備は、校内だけです。教室、廊下、校庭のスピーカーにしかつながっていません」


「じゃあ、これは?」


「放送室のマイクを、こちらの親機につなぎます。そこから短距離の防災受信機と、境界ラジオの空き帯域へ流します」


 瀬田が確認する。


「範囲は」


「広くありません。旧南第三周辺、南岸の一部、第三区の仮受信所までです」


「十分です」


 健二は言った。


「こっちは世論を全部ひっくり返したいわけじゃない。今、偽の声を聞いて揺れてる人間に、今日の天気を届けたい」


 相原はうなずいた。


「放送名は」


 瑠衣が紙を見た。


「正式記録名は、旧南第三地域天気記録です」


 健二が少し笑った。


「いや、放送ならもう少し軽くいこう」


 蓮が嫌な顔をした。


「また言う気か」


「旧南第三小天気予報」


「だっせえ」


「うるせえ。伝わればいい」


 相原が少しだけ笑った。


「正式記録名は旧南第三地域天気記録。放送名は旧南第三小天気予報。そう分けましょう」


 瑠衣が書いた。


 健二がうなずいた。


「よし。天気予報、始めるぞ」


   *


 旧南第三の放送室は、埃っぽかった。


 壁には、古い校内放送の操作盤が残っている。


 マイク。


 音量つまみ。


 チャイムボタン。


 校庭、廊下、教室と書かれた古い札。


 その横に、相原の持ってきた可搬式の非常無線親機が置かれた。


 赤い送信ランプはまだ消えている。


 健二はマイクの前に立たなかった。


「俺が読むと、俺の放送になる」


 蓮が言った。


「じゃあ誰が読むんだよ」


「八人で読む」


 美月の手が喉に触れた。


 健二はすぐに言った。


「違うって言うためじゃない」


 美月は顔を上げる。


「天気?」


「そう。天気だけ」


 颯太が名札を触った。


「……名前は?」


「外には出さない」


 瑠衣が紙を整えた。


「旧南第三の児童八名による天気予報、とします」


 健二はうなずいた。


「それでいい」


 相原が送信範囲を確認した。


「三分以内でお願いします。長く流すと、向こうに被せられます」


「三分で足ります」


 健二は八人を見た。


「否定のために声を出すな」


 全員が健二を見る。


「今日を伝えるために出せ」


 悠斗が最初にマイクの前に立った。


 その時、境界ラジオ用の小型受信端末がまた鳴った。


『宮原美月さんと思われる児童の声を、再度――』


 相原が送信つまみを見た。


「今です」


 健二はうなずいた。


「被せる。ただし、喧嘩はしない」


 相原が送信ランプを点ける。


 赤い光がついた。


 短い雑音の後、旧南第三の放送が重なった。


『こちら、旧南第三小天気予報』


 悠斗の声だった。


 少し硬い。


 でも、まっすぐだった。


『本日、旧南第三の児童八名、全員確認』


 偽音声は、数秒だけ重なった。


 だが、すぐに引いた。


 次に、陸が読む。


『午前十時三十四分、降雨開始。百葉箱の乾湿計で湿度上昇を確認。十時四十分時点で、雨は続いています』


 蓮がマイクの前に立った。


 少し嫌そうな顔をしている。


『北東の風。窓板が鳴っています。さっきより強いです』


 悠太が立つ。


 瀬田がすぐ横にいる。


 健二は一歩離れている。


 悠太は息を吸った。


『雨音があります。窓板に当たる音と、水たまりの音があります』


 千紘が続いた。


『床が冷たいです。水差しに水の粒があります』


 花音は声を出さなかった。


 代わりに、瑠衣が花音の紙を見て読む。


『花音の記録。低い灰色の雲。斜めの雨。校舎の中に八個の丸』


 颯太がマイクの前に立った。


 名札を触っている。


『今日の空は、重い空です』


 最後に、美月が立った。


 健二は止めなかった。


 美月は外へ向かって否定しに行くのではない。


 今日を伝えるために、そこに立っていた。


『今日、雨です』


 それだけだった。


 それだけで十分だった。


 健二はマイクの横に立ち、最後だけ読んだ。


『以上、旧南第三小天気予報。本日十時四十分の旧南第三の天気と環境音の記録です』


 相原が送信を切った。


 赤いランプが消える。


 放送室に、雨の音だけが戻った。


 蓮が小さく言った。


「……今の、ちょっと効いただろ」


 健二は肩をすくめた。


「理科だからな」


「それ、便利に使いすぎだろ」


   *


 午後、児童意思確認協議会から通信が入った。


 久世の声だった。


『音声について、旧南第三側が妨害放送を行ったと聞きました』


 健二は答えた。


「妨害ではありません。天気予報です」


『こちらの放送中に重ねましたね』


「そちらが、十時四十分の旧南第三周辺で記録された音声だと流したためです」


『それが何か』


「その時刻、旧南第三では雨が降っていました」


 久世は黙った。


「百葉箱で観測しています。児童八名が記録しました。窓板に雨音あり。校庭に水たまりあり。百葉箱に水滴あり。湿度上昇あり」


 相原が横で記録している。


 健二は続けた。


「でも、そちらの音声には雨がない。窓板の音もない。水の音もない。乾いた部屋で録った音です」


『技術的なことは確認中です』


「確認してください」


 健二は短く言った。


「その上で、声の主を出してください」


『児童保護のため、それは』


「児童保護と言うなら、別の子どもに本人のふりをさせるな」


 通信が止まった。


 健二の声は荒くない。


 だが、そこだけは硬かった。


「本人だと言うなら、声の道を出してください。出せないなら、旧南第三の児童本人の声として扱いません」


 相原が続けた。


「本通信は記録しています。当該音声について、本人確認資料としての利用を停止するよう求めます」


 瀬田が言った。


「児童本人へのなりすましとして、正式な違反記録にします」


 久世の声が小さくなった。


『本部に確認します』


 通信は切れた。


 蓮が奥から言った。


「勝ったのか」


 健二は首を振った。


「止めただけだ」


「またそれかよ」


「またそれだ」


 蓮は顔をしかめた。


「でも、今回はちょっと気持ちいいな」


「理科だからな」


「まだ言ってる」


   *


 夕方、雨は少し弱くなった。


 百葉箱は濡れていた。


 白い板に、水滴が残っている。


 健二はそれを拭かずに見た。


 今日の証拠だった。


 消す必要はない。


 部屋の中では、八人の紙が並んでいる。


 悠斗の時刻。


 美月の空。


 蓮の風。


 悠太の音。


 千紘の湿り気。


 陸の数字。


 花音の絵。


 颯太の一言。


 重い空。


 雨。


 窓板。


 水たまり。


 誰の声も、違うと叫ぶために外へ出していない。


 それでも、旧南第三の今日が外へ出た。


 美月は自分の紙を見ていた。


 濡れた灰色。


 その言葉の横に、花音の雲の絵がある。


 美月は健二に聞いた。


「私、違うって言わなくてよかった?」


「よかった」


「でも、声は出した」


「天気を言った」


「今日、雨ですって」


「それでいい」


 美月は少し黙った。


 それから、喉に手を当てた。


「私の記憶は」


 健二は待った。


 瑠衣も鉛筆を持たなかった。


 急かさない。


 書くために聞かない。


 美月は窓板の方を見た。


「ここにある」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 雨の音が少しだけ続いた。


 美月はもう一度言った。


「私の昨日は、ここにある」


 健二は短く答えた。


「ああ」


 颯太が名札を触りながら聞いた。


「……今日も?」


 美月は少し考えた。


「今日も」


 颯太は窓の方を見た。


「……今日、雨」


「雨」


 陸が言った。


「十時三十四分から」


 蓮が言った。


「北東の風」


 悠太が言った。


「窓板の音」


 千紘が言った。


「水差しの水の粒」


 花音は紙に、八個の丸の上から雨を描き足した。


 悠斗が人数を確認した。


「八人いる」


 健二はうなずいた。


「いる」


 それから少し笑って、言った。


「旧南第三小天気予報、初回放送としては上出来だな」


 蓮が言った。


「その名前、まだ使うのかよ」


 瑠衣が言った。


「正式名称は、旧南第三地域天気記録です」


「はい、記録係が強い」


 健二が両手を少し上げる。


 蓮が小さく笑った。


 ほんの少しだけ。


   *


 別の場所で、紙が読まれていた。


 白い机。


 白い壁。


 窓のない部屋。


 旧南第三の放送記録が置かれている。


 児童八名による地域天気記録。


 百葉箱使用。


 最高最低温度計。


 乾湿計。


 ゼンマイ式自記温湿度計。


 十時三十四分、降雨開始。


 十時四十分、窓板雨音、校庭水たまり、百葉箱水滴、湿度上昇。


 音声背景、当該環境音なし。


 旧南第三小天気予報、短距離放送。


 本人否定なし。


 比較音声なし。


 児童名公開なし。


 男は、その行で指を止めた。


「天気か」


 横の者は答えなかった。


「声ではなく、天気で返した」


「はい」


「本人は出したか」


「天気予報として、八人の声が出ました」


「否定は」


「させていません」


 男は紙を置いた。


 声は静かだった。


「場所が強い」


 横の者が顔を上げる。


「旧南第三という場所が、声を守っている」


「次は」


 男は別の紙を出した。


 一時保護環境再評価。


 分散面談。


 安全確認移送。


 校舎使用停止勧告。


「声が取れないなら、場所を動かす」


 男は赤い線を引いた。


「天気を見られる場所に置いておくな」


   *


 夜、旧南第三小学校では、百葉箱をそのままにした。


 中へ持ち込まない。


 校庭の奥、土の上。


 北向きの扉。


 雨を受けた白い板。


 そこでなければ、今日の空は残らない。


 自記温湿度計のゼンマイは、瀬田がもう一度確認した。


 二本のペンは、ゆっくり紙の上を進んでいる。


 声ではない。


 でも、まだ書いている。


 今日の紙は、棚に置いた。


 封筒ではない。


 でも、紙の道と同じように控えを作った。


 紙の道。


 健二は、颯太が首をかしげたのに気づいて言った。


「紙がどこから来て、どこへ行くかを残すって意味だ」


 颯太は小さくうなずいた。


「……紙の道」


「そう」


 一枚は旧南第三。


 一枚は相原。


 一枚は南岸経路確認用。


 子どもの名前は入れない。


 天気だけを入れる。


 颯太が紙を見た。


「……天気、行く?」


「行く」


 健二は言った。


「声じゃない。天気が行く」


「……名前は?」


「外には出さない」


「……八人は?」


「旧南第三の児童八名、で出す」


 颯太は少し考えた。


「……いる?」


「いる」


 美月が言った。


「空を見た」


 千紘が言った。


「床を触った」


 蓮が言った。


「風を見た」


 悠太が言った。


「音を聞いた」


 陸が言った。


「数字を見た」


 花音が紙を持ち上げた。


 雨の絵。


 八個の丸。


 颯太が言った。


「……重い空」


 悠斗が最後に言った。


「八人、確認」


 健二は部屋を見た。


 誰の声も、違うと叫ぶために差し出されなかった。


 それでも、今日の旧南第三は外へ出た。


 声は奪われなかった。


 でも、存在は消えなかった。


 その夜、旧南第三小学校では、偽の声は天気で止まった。


 子どもの声なら何でも本人の声になるわけではなかった。


 似せた声には、今日の雨が入っていなかった。


 用意された台本には、濡れた灰色の空がなかった。


 作られた音声には、窓板の音がなかった。


 八人の天気には、八人の今日があった。


 そして健二は、もう次を見ていた。


 声が取れないなら、場所を動かしに来る。


 天気を見せないために。


 八人を一つの空の下から、切り離すために。


 だから、明日は場所を守る。


 閉じ込めるためではなく。


 戻れる空を、奪わせないために。


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