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第六十四話 本人の声

##第六十四話 本人の声



 朝、美月は自分の記録を見ていた。


 紙は、机の上に置かれている。


 瑠衣の字だった。


 美月、一口摂取。


 追加一口、本人希望。


 本人発言確認。


 昨日の私は、食べた。


 その下に、昨日の日付と時刻がある。


 紙の上では、昨日は動かない。


 でも、美月の中では動いていた。


 口の中に残った甘さ。


 飲み込むまでの時間。


 蓮が顔をそらしたこと。


 千紘が少し笑ったこと。


 颯太が「甘い?」と聞いたこと。


 自分が、もう少しと言ったこと。


 全部、昨日のことだった。


 でも、今朝になると、少し怖くなった。


 昨日の私は、本当に言ったのか。


 誰かに言わされたことにされるのか。


 食べたことも、食べていないことにされるのか。


 美月は紙から目を離さなかった。


 健二が気づいた。


「美月」


 美月は顔を上げない。


「言ったのに」


 小さな声だった。


「違うって言われるの?」


 部屋が静かになった。


 瑠衣の手が止まる。


 蓮が床から顔を上げる。


 千紘は水差しの持ち手を握った。


 颯太は名札を触ったまま、美月を見ている。


 健二は少しだけ間を置いた。


 嘘をつかないためだった。


「言われるかもしれない」


 美月の指が紙の端を押さえた。


「じゃあ、言っても消える?」


「消えないように、昨日残した」


「紙に?」


「紙に」


「届いた?」


「届いた」


「でも」


 美月は言葉を探した。


「違うって言われる?」


「言われるかもしれない」


 健二は同じ言葉を、もう一度言った。


「でも、言われたことと、消えたことは違う」


 美月は、ゆっくり紙を見た。


 昨日の私は、食べた。


 字は消えていない。


 颯太が小さく聞いた。


「……声、紙にいる?」


 健二は颯太を見た。


「いる」


「……取られる?」


「取らせない」


「……黙ってても?」


「黙ってても、残る」


 颯太は名札を握った。


「……黙ってても」


「そうだ」


 健二は言った。


「声は、出した時だけが声じゃない」


   *


 封筒が届いたのは、午前の見回りが終わったあとだった。


 今度は白でも灰色でもなかった。


 薄い水色の封筒だった。


 校門に挟まってはいない。


 坂道の下で止まった車から、二人が降りてきた。


 一人は、紺色の上着を着た女。


 もう一人は、端末を持った若い男。


 腕章には、児童意思確認協議会と書かれていた。


 健二は校門の内側へ出た。


 瀬田ハルが横に立つ。


 瑠衣は記録板を持とうとしたが、健二が止めた。


「今日は中にいろ」


「記録は」


「瀬田さんが取る」


 瑠衣は少し悔しそうにした。


 健二は続けた。


「瑠衣の手を出す場じゃない」


 瑠衣は息を吸った。


「はい」


 健二は校門へ向かった。


 蓮が後ろから来ようとする。


「蓮」


「分かってるよ」


「分かってない顔だ」


「何だよ、それ」


「座れ」


 蓮は舌打ちした。


 それでも、校舎の入口で止まった。


 女は封筒を持っていた。


「児童意思確認協議会の久世です」


 健二は名乗った。


「真柴健二です。書類を確認します」


「本日は、児童本人の自由意思確認について伺いました」


「対象者は」


 久世は封筒の表を見た。


「宮原美月さん、佐伯千紘さん、小野寺颯太さんです」


 健二の目が少しだけ変わった。


 瀬田が記録板に書く。


 対象者名使用。


 取得経路未確認。


 健二は言った。


「その三名の氏名取得経路を提示してください」


「記録に基づいています」


「どの記録ですか」


「支援対象児童情報です」


「発行元は」


 久世は一瞬止まった。


「本日は、本人確認が主目的です」


「発行元を確認します」


「必要でしょうか」


「必要です」


 健二は短く答えた。


「本人の名前を使っています」


 若い男が端末を上げた。


「透明性のために、こちらでも記録を」


 瀬田が言った。


「児童区域が映るため、撮影は認めません」


「では、音声のみ」


 その時、坂道の下から車の音がした。


 第三区受入班の車だった。


 相原が降りてきた。


 水色の腕章をつけたEU共同監視枠の連絡員も一人いる。


 相原は校門の外側、久世たちから少し離れた位置に立った。


「第三区受入班、相原です」


 久世の顔がわずかに硬くなった。


 相原は小型の録音機を取り出し、地面に置いた折りたたみ台の上へ置いた。


 子どもたちのいる校舎へは向けない。


 大人たちの間だけに向ける。


「本件は児童本人への接触要求を含みます。以後の大人側の発言は、双方の言質を正確に残すため、すべて記録します」


 若い男が端末を下げた。


「こちらの記録は」


「大人側のやり取りに限り、同時記録は認めます」


 相原は言った。


「ただし、児童の顔、声、位置情報は記録対象外です」


 久世は笑顔を作った。


「もちろん、私たちは子どもの声を尊重するために来ています」


 健二は言った。


「では、質問内容を出してください」


「質問内容?」


「本人に何を聞くのか。事前に紙で出してください」


「それでは自然な声が聞けません」


 健二は黙って久世を見た。


 瀬田が鞄から紙を一枚出した。


 表題には、児童面談実施条件確認票と書かれている。


 瀬田は淡々と言った。


「面談を希望される場合、最低条件を確認します」


 久世は紙を見た。


 瀬田は読み上げた。


「本人が拒否できること」


「途中で中止できること」


「同席者を本人が選べること」


「質問内容を事前提出すること」


「生活名確認を混ぜないこと」


「身体状態が悪い時は実施しないこと」


「面談後に休める場所を確保すること」


 若い男が顔をしかめた。


「そこまで条件を付けると、本人の自由な発言が制限されます」


 健二は言った。


「制限じゃありません。戻る道です」


「戻る道?」


「答えない道がない質問は、確認じゃありません」


 相原の録音機の小さなランプが点いている。


 久世は笑顔を保とうとした。


「私たちは、強制するつもりはありません。ただ、美月さん本人に直接確認したいだけです」


「何を」


「昨日の発言です」


 健二は少しだけ目を細めた。


「昨日の私は、食べた、という発言ですか」


「はい。それが本当に本人の自由意思によるものか、確認が必要です」


「なぜ必要ですか」


「閉鎖的な環境下で作成された記録ですので」


 蓮が校舎の入口で拳を握った。


 悠斗がその横に立った。


 蓮は前へ出なかった。


 健二は静かに聞いた。


「旧南第三が閉鎖的だという根拠は」


「外部面談を制限されています」


「外部面談を制限しているのではありません。条件を確認しています」


「しかし、本人の声を直接聞けなければ」


「本人の声は、提出物じゃありません」


 久世の笑顔が止まった。


 健二は続けた。


「聞くなら、黙る権利も一緒に持ってきてください」


   *


 久世は少し息を吸った。


「では、今ここで、美月さんに確認しましょう」


 健二の視線が動いた。


 校舎の入口では、美月の姿は見えない。


 見えないように、瀬田が朝から立つ位置を変えていた。


 久世は校舎の方へ声を向けた。


「美月さん。少しお話ししたいだけです。怖くないですよ」


 健二の声が低くなった。


「止めてください」


「本人に聞いているだけです」


「今ここで答えさせようとすること自体が圧力です」


「圧力ではありません」


「あなたが名前を呼んだ時点で、本人は答えるか黙るかを選ばされます」


 久世は言葉を返そうとした。


 健二は一歩も動かなかった。


「答えなければ拒否。答えれば同意。そう記録するつもりですか」


「そのようなことは」


「では、答えなかった場合の記録文言を先に出してください」


 久世は黙った。


 相原が言った。


「確認します。本人が返答しなかった場合、不利益記録は作成しないという理解でよろしいですか」


 久世は答えなかった。


 若い男が端末を操作しようとする。


 相原が見た。


「今の問いへの回答をお願いします」


 久世は口元を引き締めた。


「状況に応じて判断します」


 健二は言った。


「現場判断ですか」


 その言葉に、久世の表情が少しだけ崩れた。


 南岸で拾われた紙。


 現場判断不要。


 その言葉がまだ残っている。


 相原が静かに言った。


「現場判断の基準を紙で提示してください」


 久世は、封筒を握り直した。


   *


 健二は瀬田の持つ確認票を受け取り、校門の格子越しに久世へ見せた。


「面談を否定しているわけではありません」


 久世は健二を見た。


「では、認めるのですね」


「条件を満たせば、検討します」


「検討?」


「はい」


 健二は紙を指した。


「本人が拒否できる。途中でやめられる。同席者を選べる。質問内容を先に見る。生活名確認を混ぜない。体調が悪ければやらない。終わった後に休める」


「それでは、自由な確認になりません」


「自由の意味が違います」


「違う?」


「あなたたちの自由は、聞く側の自由です」


 健二は言った。


「ここで必要なのは、答える側の自由です」


 瀬田が静かに付け加えた。


「この条件を満たせない面談は、生活支援ではなく負荷です」


 久世は瀬田を見た。


「医療的判断ですか」


「生活上の安全確認です」


「面談でそこまで負荷がかかるとは限りません」


「限らないから、条件を置きます」


 瀬田の声は変わらない。


「宮原美月さんは、昨日、少量の食事を再開したところです。疲労、緊張、急な呼びかけは身体状態に影響します」


「では、佐伯千紘さんや小野寺颯太さんは」


「個別情報には答えません」


 瀬田は即答した。


「必要があれば、体調確認の範囲で相原一尉に提出します」


 若い男が言った。


「名前は? 普段、ここでは何と呼ばれているかだけでも確認できませんか」


 健二はすぐに止めた。


「名前を聞くふりをして、生活名を確定させるな」


「ただの日常確認です」


「雑談に見せた確認は、ここでは通しません」


「過剰反応では」


「用件があるなら、質問を紙で出してください」


 若い男は黙った。


 相原が記録を読み上げるように言った。


「生活名確認を含む雑談形式の質問。旧南第三側、拒否。理由、質問意図不明確、本人不利益記録化の可能性」


 若い男は端末を持つ手に力を入れた。


 久世が押し殺した声で言った。


「それでは、反応が取れません」


 その場の空気が止まった。


 相原が録音機を見た。


 赤いランプは点いている。


「今の発言、記録しました」


 久世の顔色が変わる。


 相原は続けた。


「目的は本人確認ではなく、反応取得という理解でよろしいですか」


「違います」


 久世はすぐに言った。


「言い間違いです」


「では、訂正内容を述べてください」


「本人の自由意思確認です」


「反応取得ではない」


「はい」


「では、質問内容を紙で出してください」


 久世は答えなかった。


 健二は追い打ちしなかった。


 ただ言った。


「出せないなら、今日は保留です」


「拒否ですね」


「保留です」


「本人確認を拒むということで」


「保留です」


 健二は同じ言葉を繰り返した。


「必要な条件が未提示です。拒否ではありません。戻せるように置いています」


 久世は封筒を下ろした。


「本部へ確認します」


「お願いします」


「後日、正式な手続きで改めます」


「質問内容、拒否時の記録文言、面談条件、生活名確認を含まないこと。その四点を紙で出してください」


 久世は返事をしなかった。


 若い男とともに車へ戻る。


 車が坂道を下っていく。


 健二は見送った。


 相原は録音機を止めた。


「よく止めました」


「止めただけです」


「今回は、止めることが大事です」


 健二は校舎を見た。


「中に戻ります」


   *


 美月は、職員室だった部屋で座っていた。


 外の声は少し聞こえていた。


 全部は聞こえない。


 でも、自分の名前が呼ばれたことは分かった。


 宮原美月さん。


 その声は、優しそうだった。


 でも、胸の奥が冷えた。


 昨日、甘いと言った時とは違う。


 食べる前の怖さとも違う。


 答えなければならない場所へ、引っ張られる感じだった。


 千紘は水差しを握っていた。


 水を配ろうとはしなかった。


 ただ、持ち手を握っている。


 颯太は名札を両手で持っていた。


 蓮は入口の方を睨んでいた。


 陸は紙に、外で聞こえた言葉を書いていた。


 本人確認。


 個別面談。


 外部立会い。


 生活名確認。


 同席不可。


 拒否時記録、不明。


 花音は、八個の丸の外側に線を描いた。


 一人だけ引き出されないように。


 悠太は耳を塞いでいなかった。


 ただ、机の下に足を入れていた。


 健二が戻ってきた。


 部屋の全員が見た。


 健二は扉を閉めた。


「今日は、誰も外に出ない」


 蓮が言った。


「追い返したのか」


「保留にした」


「また保留かよ」


「戻せるようにするためだ」


「戻す気あんのかよ」


「条件がそろえばな」


「そろうのか」


「そろわないかもしれない」


 蓮は黙った。


 健二は美月の前に座った。


 目線を合わせる。


「美月」


 美月は紙を見た。


「私、呼ばれた」


「聞こえたか」


「少し」


「答えなくていい」


 美月の指が毛布を握った。


「答えないと、違うって言われる?」


「言われるかもしれない」


「また」


「また」


 健二はごまかさなかった。


「でも、答えないことは、違うことじゃない」


 美月は顔を上げた。


「黙ってても?」


「黙ってても」


「残る?」


「残る」


 美月は紙を見た。


 昨日の私は、食べた。


 指で、その行の下をなぞりかけて、やめた。


「昨日の私は、食べた」


 健二はうなずいた。


「ああ」


 美月はゆっくり息を吸った。


「今日は、覚えてる」


 部屋の中で、誰もすぐには動かなかった。


 瑠衣は鉛筆に手を伸ばしかけた。


 そして、健二を見た。


 健二は美月を見た。


「残すか」


 美月は考えた。


 今度は、すぐには答えなかった。


 その間を、誰も急かさなかった。


「残す」


 瑠衣が鉛筆を取った。


 美月発言。


 昨日の私は、食べた。


 今日は、覚えてる。


 本人希望により記録。


 美月はその文字を見た。


「今日は、私が覚えてる」


 瑠衣がもう一度書こうとする。


 美月は首を振った。


「それは、いい」


 瑠衣は手を止めた。


 健二がうなずいた。


「一回でいい」


 美月は少しだけ笑った。


「うん」


   *


 午後、相原から確認票の写しが返ってきた。


 児童意思確認協議会を名乗る二名来訪。


 児童三名の氏名使用。


 取得経路未提示。


 本人発言の任意性確認を要求。


 個別面談要求。


 外部立会い要求。


 生活名確認を含む雑談形式の質問あり。


 拒否時記録文言、未提示。


 面談条件、未同意。


 「反応が取れません」と発言。


 相原記録済み。


 申入れ、保留。


 理由、本人の拒否権・中止権・同席者選択権・質問内容事前提示・生活名確認排除・体調配慮・面談後休息場所の条件未充足。


 健二はそれを読んだ。


「長いな」


 蓮が横からのぞいた。


「長すぎだろ」


「長い方がいい時もある」


「何で」


「短いと、こっちがただ拒否したみたいになる」


「実際、拒否したんじゃねえの」


「保留だ」


「違い、分かってきたけどよ」


 蓮は頭をかいた。


「面倒だな」


「面倒だ」


 健二は紙を置いた。


「でも、面談を全部悪者にしない。条件なしで子どもを一人にするのを止める」


「一人にしたら?」


「声を変えられる」


「変えるって」


「同じことを言っても、違う場所で言わせれば意味が変わる」


 蓮は黙った。


 健二は続けた。


「昨日、美月はここで食べた。みんながいた。水があった。残していいと言った。そこまで含めて、美月の声だ」


「外で一人で聞かれたら」


「声だけ抜かれる」


 蓮は低く言った。


「切り抜きか」


「そうだ」


   *


 夕方、瀬田ハルは美月の様子を見た。


 体温。


 呼吸。


 表情。


 食べた後の疲れ。


 急な呼びかけのあと、どれだけ身体に力が入ったか。


 瀬田は紙に短く書いた。


 急性の呼びかけにより緊張反応あり。


 面談実施は本日不可。


 休息優先。


 美月はその紙を見て、小さく言った。


「私、弱い?」


 瀬田はすぐには答えなかった。


 健二も黙っていた。


 瀬田は言った。


「弱いから不可ではありません」


「じゃあ」


「戻っている途中だからです」


 美月は紙を見た。


「途中」


「はい」


 健二が言った。


「途中の道を、わざと揺らすやつがいる」


 美月はうなずいた。


「じゃあ、今日は休む」


「そうだ」


「逃げた?」


「違う」


 健二は短く言った。


「戻るために休む」


 美月は毛布を膝にかけ直した。


「うん」


   *


 夜、境界生活情報局には短い記録だけが出た。


 児童意思確認協議会を名乗る二名来訪。


 対象児童名を使用。


 氏名取得経路未提示。


 本人発言の任意性確認、個別面談、外部立会いを要求。


 旧南第三側は面談を拒否せず、実施条件の提示を求めた。


 条件。


 本人が拒否できること。


 途中で中止できること。


 同席者を本人が選べること。


 質問内容を事前提出すること。


 生活名確認を混ぜないこと。


 身体状態が悪い時は実施しないこと。


 面談後に休める場所を確保すること。


 条件未充足のため、本日面談は保留。


 児童本人の顔、声、氏名詳細は公開しない。


 以上。


 勝利とは書かない。


 追い返したとも書かない。


 敵の名前を罵倒しない。


 健二は最後に、もう一行だけ足した。


 本人の声は、提出物ではない。


 蓮がそれを見た。


「これは書くんだな」


「書く」


「説明じゃねえの」


「これは線だ」


「線?」


「ここから先は入るな、って線だ」


 蓮は少し考えた。


「じゃあ、太く書けよ」


 健二は首を振った。


「太く書くと、怒ってるように見える」


「怒ってねえのかよ」


「怒ってる」


「じゃあ太くしろよ」


「怒ってる時ほど、普通に書く」


 蓮は顔をしかめた。


「ほんと面倒くせえな」


「そうだ」


   *


 別の場所で、紙が読まれていた。


 白い机。


 白い壁。


 窓のない部屋。


 児童意思確認協議会の報告が置かれている。


 本人接触不可。


 個別面談、保留。


 質問内容事前提出要求。


 拒否権・中止権・同席者選択権要求。


 生活名確認排除。


 反応取得発言、記録済み。


 男は、その最後の行で指を止めた。


「言ったのか」


 横の者は答えなかった。


「反応が取れません、と」


「言い間違いとして処理しています」


「録られている」


 男は紙を置いた。


 声は静かだった。


 怒鳴らない。


 焦らない。


 教えるような声だった。


「本人の声は取れなかった」


「次は」


「外から作る」


 横の者が顔を上げた。


 男は別の紙を出した。


 境界ラジオ。


 過去音声。


 切り抜き。


 類似音声。


 児童発言再構成案。


「本人が言わないなら、本人の声に聞こえるものを出す」


「危険では」


「危険だから使う」


 男は赤い線を引いた。


 美月。


 千紘。


 颯太。


 その横に、こう書いた。


 似た声。


   *


 旧南第三小学校では、夜の点呼が終わっていた。


 悠斗が人数を見た。


 美月は座っている。


 蓮は入口の近くにいる。


 悠太は受信機から少し離れている。


 千紘は水差しを置いている。


 陸は確認票の順番を見ている。


 花音は八個の丸の外側に引いた線を消さずに置いた。


 颯太は名札を触っている。


 瑠衣は右手を休ませている。


 健二は窓板を確認した。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 今日は、外から声が入ってきた。


 明日は、外から似た声が来るかもしれない。


 健二はそれを、もう見ていた。


 颯太が聞いた。


「……声、取られなかった?」


「取られなかった」


「……黙ってても?」


「黙ってても」


「……残った?」


「残った」


 美月が紙を見た。


 昨日の私は、食べた。


 今日は、覚えてる。


 その行は、まだ新しかった。


 美月は小さく言った。


「覚えてる」


 健二は答えた。


「ああ」


 瑠衣は鉛筆を持たなかった。


 もう残っている。


 何度も紙に縛らなくていい言葉だった。


 その夜、旧南第三小学校では、誰の声も提出されなかった。


 誰も一人で連れていかれなかった。


 答えない道は、残った。


 黙る権利も、残った。


 そして健二は、次に来るものを待っていた。


 本人の声ではない。


 本人に似せた声。


 切られた声ではなく。


 作られた声だった。


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