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第六十三話 紙の道

##第六十三話 紙の道


 朝、健二は封筒を机の上に並べた。


 第三区受入班。


 EU共同監視枠。


 旧南第三保管。


 南岸経路確認用。


 四つの封筒は、同じ机の上にあった。


 だが、中身は同じではない。


 第三区とEUには、必要な部分だけ。


 旧南第三には、原記録。


 南岸には、道を確認するための紙だけ。


 子どもの名前は入れない。


 健二は、それを一つずつ指で示した。


「封筒は荷物だ」


 蓮が顔をしかめた。


「また荷物かよ」


「また荷物だ」


 健二は言った。


「荷物は、宛名、封、控え、受け取りで見る」


 陸がすぐに紙を取った。


「宛名、封、控え、受け取り」


「順番もだ」


「順番」


「途中で誰が触ったか分からない荷物は、事故る」


 蓮が腕を組んだ。


「盗まれるってことか」


「盗まれるだけじゃない」


 健二は封筒を持ち上げた。


「すり替えられる。折られる。中身を抜かれる。届いてないのに届いたと言われる。届いたのに届いてないと言われる」


 千紘が小さく言った。


「届いたのに」


「そうだ」


 健二は千紘を見た。


「届いたのに、届いてないことにされる」


 颯太は棚の前で名札を触った。


「……紙、迷う?」


「紙は迷わない」


 健二は言った。


「迷わせようとする大人がいる」


 颯太は少し考えた。


「……戻れる?」


「足跡を残せば戻れる」


 陸が顔を上げた。


「足跡?」


「封筒番号」


 健二は封筒の右下に、小さく番号を書いた。


 旧南第三、六十三、一。


 旧南第三、六十三、二。


 旧南第三、六十三、三。


 旧南第三、六十三、四。


「これは足跡だ」


 陸はじっと見る。


「一、二、三、四」


「番号が変わったら、別の封筒だ」


 健二は次に、封の場所を示した。


「封は、瑠衣が閉じる。でも瑠衣だけじゃない」


 瑠衣が鉛筆を持ったまま顔を上げた。


「私だけではない?」


「そうだ」


 健二は机の上を指した。


「瑠衣が閉じる。瀬田さんが非公開範囲を確認する。陸が順番を見る。蓮が折れてないか見る。千紘が並べた位置を見る。俺が最後に宛名を見る」


 蓮が少しだけ背筋を伸ばした。


「俺、折らない係じゃねえのか」


「今日は折れてないか見る係だ」


「昇格かよ」


「責任は重くなった」


「面倒くせえ」


「面倒な方がいい」


 蓮は口を尖らせたが、封筒に目を向けた。


 健二は瀬田ハルに小さな赤い糸を受け取った。


「これは」


 陸が聞いた。


「封の印だ」


「印鑑じゃない」


「印鑑は真似できる」


 健二は封筒の蓋に糸を置き、糊で押さえた。


 赤い糸は、封筒の端から端へ、細くまっすぐに通った。


「開けたら切れる」


 颯太が見ていた。


「……赤い」


「苺じゃない」


 蓮が言った。


 颯太は少しだけ口元を動かした。


「……違う赤」


「そうだな」


 健二はうなずいた。


「違う赤だ」


 花音はその横で、確認用紙に小さな赤い点を描いた。


 封筒には描かない。


 確認用紙にだけ描く。


 昨日と同じ決まりだった。


 瑠衣が言った。


「封筒番号と赤糸の位置を記録します」


「書け」


 健二は言った。


 瑠衣の右手はまだ少し赤かった。


 だが、鉛筆は握れている。


 文字は震えなかった。


 健二はその手を見てから、子どもたちを見た。


「いいか。声で確認するな」


 蓮が顔を上げる。


「は?」


「誰かが何か言っても、声で確認するな。控えで確認する」


 健二は封筒の横に控えの紙を置いた。


「届いたかどうかは、騒いだ声じゃなくて、道で見る」


 瑠衣がその言葉を書きかけて、止まった。


 健二は気づいた。


「それは書かなくていい」


「でも」


「今のは説明だ」


 瑠衣は少し考えてから、鉛筆を置いた。


「分かりました」


 健二はうなずいた。


「書くものと、書かなくていいものも分ける」


   *


 八坂辰蔵は、校門の中には入らなかった。


 二トン車を坂道の下に止め、腕を組んで立っている。


 灰色の作業服。


 厚い手。


 四角い肩。


 朝の霧がまだ残っているのに、そこだけ動かない石のようだった。


 健二は封筒を持って校門へ出た。


 瀬田ハルが横に立つ。


 瑠衣は中にいる。


 子どもの前には出さない。


 健二は校門の内側から言った。


「道はお願いします。でも、封はこっちで見ます」


 八坂は眉を動かした。


「分けるのか」


「荷物を出す側と運ぶ側を混ぜると、事故ります」


「面倒だな」


「面倒です」


「誰に習った」


「仕事です」


「何の」


「荷物が届かないと怒られる仕事です」


 八坂は、少しだけ口元を動かした。


「なら、分かってるな」


「はい」


「荷は、持ったやつの顔で信用するんじゃねえ」


 八坂は坂道の下を指した。


「どこで受けて、どこで渡したかで見る」


「控えは二枚です」


 健二は紙を見せた。


「一枚は南岸。もう一枚は旧南第三」


「南岸には中身を渡さない」


「はい。経路だけです」


「子どもの名前は」


「入れていません」


「なら見る」


 八坂は手を出した。


 健二は封筒ではなく、まず経路確認用の紙を渡した。


 八坂は紙を見た。


 時刻。


 封筒番号。


 受け渡し場所。


 受け渡し者。


 次の受領予定。


 子どもの名前はない。


 八坂は紙を二つ折りにした。


「こっちは預かる」


 次に、第三区行きとEU行きの封筒を瀬田が持った。


 八坂はそれには触れない。


 坂道の下で待つ南岸の若い組合員へ合図した。


「先導だけだ。持つな」


「はい」


「封筒には触るな」


「はい」


「触ったら、触ったと書け」


「はい」


 蓮が校舎の入口からそれを見ていた。


「あのじいさん、ほんとに触らねえんだな」


 陸が言った。


「触ったら、触ったことになる」


「当たり前だろ」


「大事」


 蓮は黙った。


 当たり前のことを残す。


 それが、最近は少し怖かった。


   *


 封筒は出た。


 第三区受入班へ一つ。


 EU共同監視枠へ一つ。


 南岸経路確認用が一つ。


 旧南第三保管分は、棚に残した。


 健二は封筒が見えなくなってから、部屋へ戻った。


 瑠衣は机の前で待っていた。


「出ましたか」


「出た」


「時刻は」


「八時四十二分」


 陸が言った。


「合ってる」


「道は」


 瑠衣が聞いた。


「南岸先導。持つのは瀬田さんと第三区の連絡員。南岸は触らない」


「触らないことも記録します」


「書け」


 瑠衣は鉛筆を握った。


 右手の赤みが少し濃くなっていた。


 健二は言った。


「痛いか」


「少しです」


「休みながら書け」


「はい」


 蓮が横から言った。


「俺が代わりに書くか」


 瑠衣は蓮を見た。


「字が違います」


「即答かよ」


「でも、封筒を見るのはお願いします」


「見る」


 蓮は机に置かれた旧南第三保管分を見た。


 折り目はない。


 赤い糸は切れていない。


 番号は右下。


 花音の赤い点は、確認用紙にだけある。


 千紘は、封筒を置いた位置をもう一度確認した。


 机の木目。


 端から指二本分。


 角をそろえる。


 揃えすぎない。


 手を離す。


 それだけだった。


 でも、千紘はその位置を覚えていた。


   *


 昼過ぎ、境界ラジオが鳴った。


 健二はすぐには切らなかった。


 悠太が少し肩を動かす。


 千紘がそちらを見る。


 でも、水差しには手を伸ばさなかった。


 蓮がラジオを睨む。


 声は、いつもの調子だった。


『旧南第三小学校の児童発言記録について、南岸復旧組合が関与した改ざん疑惑が浮上しています』


 蓮が立ち上がった。


「ふざけんな」


 健二が言った。


「座れ」


「でも」


「座れ」


 蓮は拳を握った。


 それでも座った。


『第三区受入班に届いた記録と、EU共同監視枠に送付された記録の内容に差異があるとの情報があり、児童の声が外部勢力によって加工された可能性があります』


 瑠衣の顔色が変わった。


「私の」


「違う」


 健二はすぐに言った。


「お前の紙が届くと困るやつがいる」


 瑠衣は口を閉じた。


 ラジオは続ける。


『また、旧南第三前には、本日も百二十名を超える市民が集まり、透明性の確保を求めたとされています』


 八坂の声ではない。


 相原の声でもない。


 誰かの作った声だった。


 健二は受信機を見た。


「陸」


「はい」


「今日、坂道に何人いた」


「朝は南岸の二トン車一台。八坂さん一人。若い人二人。第三区連絡員一人。瀬田さん」


「百二十人は」


「いない」


「坂に立てるか」


 陸は紙を取った。


 坂道の幅を描く。


 車一台。


 人。


 校門。


「無理」


 蓮が言った。


「無理ってだけじゃ弱いだろ」


 健二はうなずいた。


「だから道で見る」


「道?」


「百二十人いたら、UN表記のトラックは通れない」


 悠斗が顔を上げた。


「午前九時過ぎ、UN表記の白い補給トラックが坂道を通りました」


 瀬田がうなずいた。


「そのあと、巡回の装甲車も一台通っています。坂道は塞がれていませんでした」


 健二は言った。


「なら、百二十人はいない」


 蓮は少しだけ目を見開いた。


「そういう見方か」


「そういう見方だ」


 ラジオはさらに続いた。


『現地から送られた写真には、旧南第三の校門前に集まる市民の姿が確認できます』


 瀬田が受信機の横の小さな画面を見た。


 画像が荒い。


 校門。


 坂道。


 人影。


 札。


 子どもの権利。


 透明性。


 児童隔離反対。


 健二は画面に近づいた。


 そして、すぐに言った。


「これは今日じゃない」


 蓮が聞いた。


「何で分かんだよ」


「窓板がない」


 健二は画面の校舎を指した。


「昨日、ここに板を打った」


 陸がうなずいた。


「三枚」


「この写真にはない」


 健二は次に、校門横を指した。


「木箱の棚が窓から見えてる」


「見えるのか」


「前の位置だ」


 瑠衣が気づいた。


「木箱を棚の奥に移す前です」


「そうだ」


 健二は続けた。


「影も違う」


 悠斗が画面を見た。


「門の影が右に伸びています」


「今の昼なら、そこまで伸びない」


 陸が紙に書く。


 窓板なし。


 木箱旧位置。


 影の向き不一致。


 UN表記の補給トラック通行あり。


 巡回装甲車通行あり。


 百二十人不可。


 蓮はぽかんとしていた。


「これ、嘘じゃん」


「嘘かどうかは、まだ言わない」


 健二は言った。


「今日の写真ではない。それだけ言う」


「何でだよ。嘘だろ」


「嘘だと言うと、喧嘩になる。今日の写真ではないと言うと、確認になる」


 蓮は歯を食いしばった。


「面倒くせえ」


「面倒な方が勝てる」


「勝つためじゃねえんだろ」


「そうだ」


 健二は受信機を切った。


「戻すためだ」


   *


 すぐに、偽の受領控えが届いた。


 封筒ではない。


 坂道の下で拾われた紙だった。


 南岸の若い組合員が、触らずに板で挟んで持ってきた。


 校門の外で止まる。


 八坂もいた。


「触ってねえ」


 八坂は言った。


「板で挟んだ」


 健二は校門の内側から見た。


 紙にはこう書かれている。


 第三区受入班、受領済。


 EU共同監視枠、受領済。


 内容差異あり。


 南岸経由時点で再封緘の疑い。


 健二は少しも慌てなかった。


「これはうちの控えじゃない」


 蓮が前に出る。


「早くねえか」


「早い」


「見ただけだろ」


「見たから分かる」


 健二は紙を指した。


「封筒番号の書き方が違う」


 陸が飛びつくように見た。


「旧南第三、六十三、一じゃない」


「ただの六十三一になってる」


 瑠衣が続けた。


「読点の位置が違います」


 千紘が小さく言った。


「角が違う」


 健二が見る。


「どこが」


「うちの封筒は、机の端から指二本分でそろえました。これは、折り目の向きが違うと思います」


 蓮が紙を見た。


「折れてる」


「そうだ」


 健二は言った。


「蓮が持った封筒には折り目がない」


 蓮は思わず言った。


「俺、折ってねえ」


「知ってる」


 蓮は少しだけ黙った。


 悠太が耳を押さえずに、紙の方を見た。


「音」


 健二が振り返る。


「何の音」


「さっきの紙、軽い」


 瀬田が紙を見た。


「紙質が違う?」


 悠太は小さくうなずいた。


「薄い。シャッて鳴った」


 瑠衣が旧南第三の控えを一枚持ち、軽く振った。


 音は低い。


 拾われた紙は、乾いた高い音がした。


 健二はうなずいた。


「違う紙だ」


 花音が確認用紙を見せた。


 赤い点がある。


 拾われた紙には、その控え番号がない。


 健二は言った。


「偽物は、紙だけ真似る」


 全員が健二を見た。


「手順までは真似られない」


 八坂が校門の外で低く笑った。


「言うじゃねえか」


 健二は八坂を見た。


「道は」


「うちの道じゃねえ」


 八坂は即答した。


「南岸の印も違う。印の場所も違う。そもそも、うちは中身に触ってねえ。再封緘なんざできるわけがねえ」


「記録します」


 瑠衣が言った。


 健二は止めなかった。


「書け」


 瑠衣は鉛筆を握った。


 拾得紙。


 南岸若年組合員、板にて保持。直接接触なし。


 旧南第三内控えと封筒番号表記不一致。


 折り目不一致。


 紙質不一致。


 確認用紙番号なし。


 南岸印位置不一致。


 内容差異主張、根拠未提示。


 健二は言った。


「最後に書け。声で確認せず、正式受領待ち」


 瑠衣はうなずいた。


 正式受領待ち。


   *


 正式な連絡は、夕方前に来た。


 まず第三区受入班。


『第三区受入班、受領確認』


 相原の声だった。


『封筒番号、旧南第三、六十三、一。赤糸封緘、切断なし。開封は受領記録後に実施。内容、旧南第三控えと一致』


 健二は瑠衣を見た。


 瑠衣は紙に書く。


 第三区受入班、正式受領確認。


 封筒番号一致。


 封緘切断なし。


 内容一致。


『偽の受領控えが出回っている可能性があります』


「こちらにも届きました」


『保管してください。触った者を記録してください』


「触っていません。南岸が板で持ってきました」


『適切です』


「EUは」


『確認中です』


 その数分後、EU共同監視枠から連絡が入った。


 短い日本語だった。


『EU共同監視枠、受領確認。封筒番号、旧南第三、六十三、二。赤糸封緘、異常なし。開封痕なし。第三区受領内容と一致』


 部屋の中で、誰も声を上げなかった。


 でも、息が少し戻った。


 蓮が床に座り込む。


「届いてんじゃねえか」


「届いた」


 健二は言った。


 瑠衣の手が少し震えた。


「届いた」


「そうだ」


「私の紙」


「瑠衣だけの紙じゃない」


 瑠衣は顔を上げた。


 健二は部屋を見た。


「陸が順番を見た。蓮が折らなかった。千紘が並べた。悠太が音を聞いた。花音が赤い点を描いた。瀬田さんが範囲を止めた。美月が残してと言った。颯太が名前を聞いた。俺が封を見た」


 瑠衣は、ゆっくりうなずいた。


「はい」


「だから、届いた」


 颯太が棚の前で聞いた。


「……紙、迷わなかった?」


「迷わなかった」


「……戻った?」


「控えは戻った」


「……名前も?」


 健二は少しだけ間を置いた。


「名前も残った」


 颯太は名札を触った。


「……小野寺颯太」


「小野寺颯太」


 千紘が小さく言った。


「佐伯千紘」


 健二はうなずいた。


「佐伯千紘」


 美月は、毛布の上で手を握った。


「昨日の私は、食べた」


 瑠衣は鉛筆を持ちかけた。


 健二が言った。


「それはもう残ってる」


 瑠衣は手を止めた。


 美月が少しだけ笑った。


「うん」


   *


 境界生活情報局には、夜に短い訂正が出た。


 健二は全文を出さなかった。


 子どもの名前も出さない。


 顔も出さない。


 封筒の中身も出さない。


 出したのは、事実だけだった。


 旧南第三発出封筒二通。


 第三区受入班、正式受領確認。


 EU共同監視枠、正式受領確認。


 封筒番号一致。


 赤糸封緘異常なし。


 内容差異なし。


 本日流通した「内容差異あり」とする受領控えは、正規控えと番号形式、紙質、折り目、印位置が一致せず。


 本日流通した校門前写真は、窓板設置前の状態であり、本日撮影分とは確認できず。


 百二十名超の集会については、同時刻前後にUN表記の補給トラックおよび巡回装甲車が坂道を通行しており、現地記録と整合しない。


 以上。


 推測なし。


 罵倒なし。


 勝利宣言なし。


 健二は最後の行を見た。


「これでいい」


 蓮が物足りなさそうに言った。


「もっと言ってやればいいのに」


「言わない」


「嘘つきって」


「言わない」


「何でだよ」


「嘘つきと言うと、相手を見る。事実を置くと、紙を見る」


 蓮は黙った。


 健二は続けた。


「こっちは紙を見せたい。相手の顔じゃない」


 蓮はしばらくして、低く言った。


「……分かった」


   *


 夜、八坂から短い連絡が来た。


『道は潰せてねえ』


 それだけだった。


 健二は受話器を持った。


「ありがとうございます」


『礼を言うな。まだ終わってねえ』


「はい」


『次は中身を疑わせるぞ』


 健二は目を細めた。


「子どもの発言が誘導だ、と」


『たぶんな』


「でしょうね」


『分かってるなら準備しろ』


「します」


『子どもを前に出すな』


「出しません」


『でも、本人の道は残せ』


「はい」


 通信は切れた。


 健二は受話器を置いた。


 窓の外は暗い。


 坂道の下には、まだ南岸の車の影がある。


 校舎の中には、封筒の控えが残っている。


 机には、瑠衣の鉛筆が置かれている。


 今日は少し斜めだった。


 蓮がそれを見て、直そうとした。


 瑠衣が首を振った。


「今日は、そのままでいいです」


 蓮は手を止めた。


「いいのかよ」


「はい」


「転がるぞ」


「転がったら、拾います」


 蓮は少し笑った。


「そうかよ」


   *


 別の場所で、また紙が読まれていた。


 白い机。


 白い壁。


 窓のない部屋。


 机の上には、旧南第三の訂正が置かれている。


 封筒番号一致。


 封緘異常なし。


 内容差異なし。


 写真、当日撮影と確認できず。


 百二十名超、現地記録と整合せず。


 男は紙を見ていた。


 声は静かだった。


「道は崩れなかった」


 横の者が言った。


「次は、どうしますか」


 男は赤い線を引いた。


 美月、一口摂取。


 追加一口、本人希望。


 本人発言確認。


 昨日の私は、食べた。


 赤い線は、その一行の下で止まった。


「届いた紙を疑わせるのは難しい」


「では」


「中身を疑わせる」


 横の者は、紙を見た。


「児童発言の任意性ですか」


「そうだ」


 男は静かに言った。


「旧南第三の環境下で作られた発言は、本心ではない」


 紙が擦れた。


「本人確認が必要だ」


「個別面談」


「外部立会い」


「記録者交代」


「生活名確認」


 男は赤い線を、もう一度引いた。


「紙の道が潰せないなら、紙の中にいる本人を疑わせる」


   *


 旧南第三小学校では、夜の点呼が終わっていた。


 悠斗が人数を見た。


 美月が座っている。


 蓮が封筒を棚に戻す。


 悠太が紙の音を聞く。


 千紘が水差しを置く。


 陸が順番を確認する。


 花音が赤い点の紙をしまう。


 颯太が名札を触る。


 瑠衣は右手を膝の上に置いている。


 健二は窓板を確認した。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 外から覗くには邪魔になる。


 中から外を見るには、少し隙間がある。


 全部閉じない。


 全部開けない。


 見る順番を、こちらで決める。


 健二は電灯を落とす前に言った。


「今日は、紙は迷わなかった」


 誰も返事をしなかった。


 でも、聞いていた。


「明日は、中身を疑いに来る」


 蓮が顔を上げた。


「分かってて言うのかよ」


「分かってるから言う」


「怖がるだろ」


「怖がっていい」


 健二は言った。


「でも、先に知ってた方が戻れる」


 美月が毛布を握った。


「私のこと?」


 健二はうなずいた。


「たぶん、来る」


「昨日の私は、食べた」


「そうだ」


「それを、違うって言う?」


「言うかもしれない」


 美月は少し黙った。


 それから、小さく言った。


「でも、食べた」


 健二は短く答えた。


「ああ」


 瑠衣は鉛筆を持たなかった。


 もう書いてある。


 何度も紙に縛らなくていい言葉だった。


 颯太が聞いた。


「……紙、守った?」


「守った」


「……道も?」


「道も」


「……明日も?」


 健二は窓の外を見た。


 暗い坂道。


 南岸の車の影。


 遠くの第三区の灯り。


 その向こうに、まだ見えない中部の道。


「明日も見る」


 颯太はうなずいた。


 その夜、旧南第三小学校では、紙の道は切れなかった。


 偽物の声は、控えで止まった。


 古い写真は、窓板で止まった。


 水増しの人数は、坂道で止まった。


 そして健二は、次に来るものを見ていた。


 紙ではない。


 道でもない。


 紙の中に残った本人。


 その声を、今度は疑いに来る。


 だから、明日は声を守る。


 声を出させるためではなく。


 声を奪わせないために。


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