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第七十五話 赤い手帳

## 第七十五話 赤い手帳


 夜明け前の富士川は、青かった。


 煙も、泥も、壊れた車両も、捕虜を運ぶ車列も、すべてが薄い青の中に沈んでいた。戦闘のあとに来る朝は、いつも無関係な顔をしている。


 ジンは車に乗る前に、一度だけ振り返った。


 真壁三曹の袋はもう見えなかった。


 だが、そこにあったことだけは、泥の上に残っている。


 足跡。


 押しつけられた膝の跡。


 担架を置いた跡。


 人が人を運んだ跡。


 富士川には、名前の痕が残っていた。


 黒瀬了が運転席のドアを開ける。


「乗れ」


 ジンは助手席に乗った。


 後部座席には、封筒、証拠品の複製記録、壊れた通信機の写真、捕虜の初期証言の写し、富士川で回収された装備リストが積まれていた。


 本物は富士川に残した。


 ラソアが後方部隊と役所と停戦監視団に付き合っている。


 あいつは今ごろ、嫌そうな顔で書類に囲まれているはずだった。


 黒瀬はエンジンをかけた。


 車はゆっくりと富士川を離れた。


 ジンは窓の外を見ていた。


 久世一尉は見送りに来なかった。


 来ない方がいい。


 来れば、また名前の話になる。


 楠本一曹も来なかった。


 彼女には、残った隊員を立たせる仕事がある。


 真壁が戻した二人を、次に動ける身体に戻す仕事がある。


 富士川は後ろへ遠ざかる。


 それでも、ジンの肩にはまだミニミの重さがあった。


 借りた重さ。


 返したはずの重さ。


 返せなかった重さ。


 しばらく、車内には音がなかった。


 タイヤが乾いた道路を拾う音だけが続いた。


 黒瀬が言った。


「眠れ」


 ジンは目を閉じない。


「眠くない」


「嘘をつくな」


「眠れない」


「そっちは本当だな」


 黒瀬はそれ以上言わなかった。


 朝の道路には、車が少なかった。


 停戦中だからではない。


 停戦中でも、物は動く。


 負傷者を運ぶ車。


 通信機材を積んだ車。


 水を運ぶ車。


 子どもを避難させる車。


 戦争は、撃っている時だけではない。


 動いているものの量で分かる。


 黒瀬は前を見たまま言った。


「富士川で見えたものは、まだ前面だけだ」


「本流は折った」


「本流の一部だ」


「まだ来るか」


「来る」


「どこへ」


「だから、岐阜へ行く」


 ジンは黒瀬を見た。


「岐阜に敵がいるのか」


「敵というほど分かりやすくない」


「調達屋か」


「調達屋にたどり着くための通路だ」


 黒瀬は、後部座席に置いた赤い封筒を顎で示した。


「アレクセイの手紙が使えるならな」


 ジンは振り返らなかった。


 封筒の存在だけを、背中で感じていた。


 アレクセイ・イリイチ・サボリン。


 元ソ連共産党系の人物。


 名簿、物流、収容、支援制度、名前の管理に詳しい男。


 赤い手帳を持つ男。


 人を番号にする仕組みを知っている男。


 その男が、番号から名前を戻すために手紙を残している。


 嫌な皮肉だった。


「信用できるのか」


 ジンが聞いた。


 黒瀬は即答した。


「できない」


「それは昨日聞いた」


「今日も同じだ」


「なら、なぜ行く」


「信用できる人間より、借りを返す人間の方が動く時がある」


「借りか」


「国家より長持ちする場合がある」


 ジンは窓の外に視線を戻した。


 朝の山が、遠くで薄く見えた。


 黒瀬は続けた。


「岐阜に米軍基地はない。今あるのは表の基地じゃない。だから、ここで使うのは軍の通路じゃない」


「人の通路か」


「そうだ」


「古い人脈」


「古い負債」


「古い名前」


「それもある」


 黒瀬は少しだけ速度を落とした。


 前方に検問があった。


 黒瀬は書類を出す。


 係員が確認し、何も言わずに通した。


 ジンはその様子を見ていた。


 銃より紙が強い場所がある。


 戦場では嫌なほど知っている。


 紙に名前があれば通る。


 紙に名前がなければ止められる。


 紙に番号しかなければ、人は扱われる。


 紙に名前があれば、まだ戻れる。


 富士川で死んだ真壁も、紙の上では階級と氏名になる。


 だが、久世は名前で呼んだ。


 楠本も名前で呼んだ。


 それだけが、まだ違いだった。


   *


 岐阜に入る頃には、空は完全に明るくなっていた。


 町は、戦場の顔をしていなかった。


 店は半分閉まり、道には警戒の車両が通る。それでも、窓の内側には洗濯物があり、自転車があり、畑があり、学校の塀があった。


 戦争は、そこに直接落ちてはいない。


 だが、端はもう触れていた。


 黒瀬は市街地を抜け、古い教会のような建物の前で車を止めた。


 教会と言っても、十字架は目立たない。


 外壁は古く、入口には日本語と英語とロシア語の小さな案内が貼られていた。


 医療相談。


 翻訳支援。


 家族連絡。


 避難者記録。


 物資配布。


 どれも、武器とは関係ない言葉だった。


 だが、ジンはすぐに分かった。


 ここも戦場だった。


 人が名前をなくさないための戦場。


 黒瀬は赤い封筒を持って車を降りた。


「銃は見せるな」


「持ってきてない」


「見えないところに持ってるだろ」


「それは銃じゃない」


「何だ」


「習慣だ」


 黒瀬は嫌そうに息を吐いた。


「やめろ、その言い方」


 二人は建物に入った。


 中は静かだった。


 古い木の床。


 壁に貼られた地図。


 簡易ベッド。


 充電中の携帯電話。


 椅子に座って眠る男。


 泣いている子どもを抱いた女性。


 小さな机の上には、紙の名簿が広げられていた。


 紙。


 ここにも紙がある。


 ジンはその名簿を見た。


 氏名。


 年齢。


 出身。


 連絡先。


 同行者。


 負傷。


 必要物資。


 番号欄もある。


 だが、番号は名前の代わりではなかった。


 名前を失くさないために、一時的につける印だった。


 奥から、一人の女性が出てきた。


 髪は白に近い灰色。


 背筋は伸びている。


 年齢は六十を過ぎているように見えたが、目だけは若かった。


 薄い青のシャツに、古い銀の十字架。


 日本語で言った。


「黒瀬さん」


 黒瀬は軽く頭を下げた。


「エレーナ・グレイ」


 女性はジンを見た。


 視線は長くなかった。


 だが、何かを測った。


 敵か味方かではない。


 何を失っているかを測る目だった。


「そちらは」


「福岡仁」


 黒瀬が答えた。


 ジンは訂正しなかった。


 エレーナは一拍置いて、うなずいた。


「本名ではない顔ですね」


 黒瀬がわずかに眉を動かす。


「相変わらずだな」


「あなたも」


 エレーナは黒瀬の手の赤い封筒を見た。


 目が変わった。


「それは」


「アレクセイからだ」


 エレーナはすぐには受け取らなかった。


 封筒を見て、指を少しだけ引いた。


 古いものに触れる前の動きだった。


「まだ生きているのね」


「死に損ねている」


「昔からです」


 彼女は、ようやく封筒を受け取った。


 封を見た。


 署名を見た。


 キリル文字の曲がり方を、指でなぞる。


「赤い手帳の男」


 ジンはその言葉を聞いた。


 エレーナは封を切らずに言った。


「彼は、人の名前を覚えていませんでした」


 黒瀬が黙る。


「でも、名簿は忘れない人でした」


 エレーナは封筒を胸の前で持つ。


「人を名前ではなく、行、欄、移送先、食料配分、所属、危険度で見ていた」


 ジンは聞いていた。


 敵の番号を思い出す。


 二号、右。


 三、前。


 戻るな。


 エレーナは続ける。


「それでも、最後の方で少し変わりました。自分が作った表の中で、誰が消えたかを数えるようになった」


「消えた人間を戻せるか」


 ジンが聞いた。


 エレーナは初めて、まっすぐジンを見た。


「戻せません」


 答えは早かった。


「消えた人は戻らない。でも、消されたことを消させないことはできます」


 その言葉に、ジンは黙った。


 真壁は戻らない。


 だが、真壁が戻らなかったことを、ただの熱源にしないことはできる。


 敵兵は番号で呼ばれた。


 だが、その番号の後ろに名前があったことを、記録することはできる。


 エレーナは封筒を開けた。


 中には一枚の手紙と、小さな紙片が入っていた。


 紙片には、手書きの名前が並んでいる。


 英語。


 ロシア語。


 日本語の姓。


 古い住所。


 電話番号らしきもの。


 その横に、小さな印。


 赤い鉛筆の印だった。


 エレーナは手紙を読み、目を伏せた。


「彼らしい」


 黒瀬が聞く。


「何と」


「命令ではありません。お願いでもありません」


「では」


「返済表です」


 黒瀬は小さく笑った。


「やはりな」


 エレーナは手紙を机に置いた。


「ここにある名前の何人かは、もう亡くなっています。でも、子どもや孫は残っています。通訳、整備士、医療関係者、航空機材の業者、教会、退役者家族。今は、それぞれ違う仕事をしています」


「動くか」


「動きます」


「理由は」


「借りがあるからではありません」


 エレーナは封筒を軽く叩いた。


「彼らは、自分たちの親や祖父母が、名前のない場所で助けられたことを知っています。だから、名前のない人を見ると放っておけない」


 黒瀬は少しだけ表情を変えた。


「助かる」


「助けるとは言っていません」


 エレーナの声は静かだった。


「通路を開けるだけです。通るかどうかは、あなたたちです」


   *


 奥の部屋に案内された。


 そこは小さな事務室だった。


 壁一面に地図が貼られている。


 岐阜周辺。


 東海道側。


 北陸側。


 京都へ抜ける道。


 山口方面への通行制限。


 医療搬送ルート。


 物資中継所。


 通信が生きている場所。


 通信が途切れる場所。


 紙の地図の上に、色の違うピンが刺されていた。


 赤は危険。


 青は医療。


 黄色は通れる可能性。


 白は名簿。


 ジンはその白いピンを見た。


「名簿?」


 エレーナが答える。


「人の流れです。避難者、捕虜、支援対象、身元不明者、保護児童。どこで名前が消えやすいか」


「名前が消えやすい場所」


「移送の途中。役所の境目。軍と民間の境目。外国語の書類に変わる時。死者と行方不明者を分ける時。子どもが一人で移された時」


 ジンは目を細めた。


 富士川で捕虜に名前を言わせた理由が、ここへつながっている。


 名前は、ただ聞けば残るものではない。


 通す場所ごとに消えそうになる。


 そのたびに、誰かが持ち上げなければならない。


 エレーナは机の上に、富士川からの装備リストを広げた。


 黒瀬が持ってきたものだ。


 AK。


 見慣れない弾倉。


 小型ドローン。


 撮影機材。


 市販無線。


 予備電池。


 安価なベルト。


 ばらばらな装備。


 エレーナはそれを一つずつ見た。


「これは軍の統一装備ではありません」


 黒瀬が言う。


「分かっている」


「でも、完全な寄せ集めでもありません」


「どう見る」


「流した人間がいます」


 ジンが聞く。


「調達屋か」


「調達屋という言葉は便利ですが、ひとりとは限りません」


 エレーナはリストの上に指を置いた。


「部品を買う人。運ぶ人。名義を貸す人。支援物資に混ぜる人。余剰品として流す人。壊れたものを直す人。偽の寄付に変える人。それぞれ違います」


「兵器商人じゃないのか」


「映画のような人は、あまり来ません」


 エレーナは静かに言った。


「前線に来るのは、銃を売る人より、電池を売る人です。通信を売る人です。水を売る人です。洗濯を売る人です。温かいスープを売る人です」


 ジンは黒瀬を見た。


 車の中で聞いた話と同じだった。


 戦場で一番高いものは銃ではない。


 体温。


 水。


 通信。


 名前。


 エレーナは続ける。


「それが悪いとは限りません。前線の人は、それで生きます。でも、その通路に武器や偽情報や人の名簿を混ぜる人がいる」


 黒瀬の声が低くなる。


「名簿?」


 エレーナは別のファイルを開いた。


「最近、国境を越えた子ども八人と、職員一人について、照会が出ています」


 ジンの視線が動いた。


「誰から」


「複数です。人道支援を名乗るもの。教育支援を名乗るもの。避難者登録を名乗るもの。身元確認を名乗るもの。正規の窓口もあります。でも、混じっています」


「何が」


「助けたいのではなく、探している者たちです」


 部屋の空気が、少し冷えた。


 ジンはファイルを見た。


 子ども八人。


 職員一人。


 越境記録。


 保護経路。


 仮登録。


 受け入れ先未定。


 そこへ、もう誰かが触れようとしている。


 黒瀬が言った。


「健二の線ではないな」


「違います」


 エレーナは首を振った。


「そこまでは触られていません。触られていたら、ここには持ってきません」


 ジンは黙った。


 黒瀬の声が低くなる。


「では、どこだ」


「依頼人です」


 エレーナは、もう一枚の紙を出した。


 そこには、古い記録の写しがあった。


 閉鎖された公民館。


 地下。


 町内会のお知らせが残った壁。


 夏祭り。


 子ども会の廃品回収。


 防災訓練。


 小学校の運動会。


 そして、元教師の老人。


 細い身体。


 少し曲がった背中。


 右手に持った古い革の鞄。


 けれど目だけは、妙に若かった男。


 黒瀬が紙を見た。


「あの時の依頼主か」


 ジンは顔を上げた。


「老人を調べているのか」


「はい」


 エレーナは答えた。


「その老人が、どこから子どもたちの存在を知ったのか。誰に何を頼んだのか。誰へつないだのか。そこを追っている者がいます」


「俺の名前は」


「福岡仁は、まだ検索対象に上がっていません」


 エレーナはすぐに言った。


「ですが、真柴兄弟の経歴は洗われ始めています」


 ジンの目が、かすかに止まった。


 黒瀬は表情を変えなかった。


「いつからだ」


「旧南第三で活動が始まる前夜です」


 エレーナは、記録の時刻を指で示した。


「直樹さんは、その時点ではまだ知りません。表では、真柴直樹と真柴健二。その周辺経歴、過去の所属、関係者、居住履歴、接触先。薄く、広く、洗われ始めています」


 ジンは黙った。


 福岡仁ではない。


 ジンではない。


 だが、真柴直樹と真柴健二。


 捨てたはずの名前と、守ろうとしている弟の名前が、紙の上で掘り返されている。


 黒瀬の目だけが冷たくなった。


「つまり、まだ福岡仁には届いていない。だが、古い名前に触り始めている」


「はい」


 エレーナは装備リストと、依頼人への照会記録を並べた。


「富士川で使われた装備の流れと、この老人への調査依頼、そして真柴兄弟の経歴照会は、同じ時間帯に増えています」


 ジンは低く言った。


「富士川と同時か」


「はい」


 黒瀬は舌打ちしなかった。


 その代わり、目だけがさらに冷えた。


「敵は、富士川で反応を見た。火力支援までの時間。観測班の目。ジンの動き。楠本班の耐え方」


 エレーナが続ける。


「同時に、後方の入口も見ています。誰が依頼したのか。誰が子どもを越境させたのか。誰が受け入れたのか。どの窓口が開くのか。そして、真柴兄弟がどこでつながるのか」


 ジンは拳を握らなかった。


 握れば、動きたくなる。


 動けば、敵の思う通りになる。


 黒瀬がジンを見る。


「分かるな」


「ああ」


「ここからは、撃つ場所じゃない」


「分かってる」


「本当にか」


 ジンは少しだけ沈黙した。


 久世の声が思い出される。


 真柴直樹を殺すな。


 戻すなら、お前も戻れ。


 ジンは息を吐いた。


「分かってる」


   *


 エレーナは古い電話を取った。


 スマートフォンではない。


 黒い受話器の、重い電話だった。


 番号を押す指が、ゆっくりと動く。


 最初の相手には英語で話した。


 次はロシア語。


 その次は日本語。


 短く、余計な感情を入れず、必要なことだけを伝える。


 富士川。


 停戦違反。


 装備のリスト。


 越境した子ども八人と職員一人。


 依頼人の老人。


 真柴兄弟の経歴照会。


 照会経路の遮断。


 通行許可。


 医療と通信。


 名簿の保護。


 ジンはその横で聞いていた。


 銃声のない戦場だった。


 誰も撃たない。


 誰も叫ばない。


 だが、ひとつ間違えれば、子どもの名前が消える。


 ひとつ間違えれば、敵の装備の流れが切れずに次の場所へ届く。


 ひとつ間違えれば、停戦違反の責任がすり替わる。


 そして、ひとつ間違えれば、真柴という古い名前から、福岡仁へ線が伸びる。


 エレーナは受話器を置いた。


「三つ開きます」


 黒瀬が聞く。


「何が開く」


「通信。通行。それから、支援名目の組み替えです」


 ジンが見た。


「組み替え?」


「今回は、アレクセイの時とは違います」


 エレーナは淡々と言った。


「前回は、人を使って直接動かした。記録に残らないように、物と人を通した。けれど今回は、西側と日本政府側から出る報酬です。消せません。消すと、逆に怪しまれます」


 黒瀬が端末を出す。


「履歴は残す」


「はい」


 エレーナはうなずいた。


「ただし、見え方を変えます。個人への報酬ではなく、協力者保護、民間施設への臨時支援、保護児童の生活環境整備、移送補助、医療・通信・教育支援。そういう形に分けます」


 ジンは黙って聞いていた。


「金のまま送っても、人は眠れません」


 エレーナは続ける。


「発電機。燃料。水。温かい食事。医療搬送。心理ケア。洗濯。学用品。職員の人件費。施設の修繕費。通信回線。そういう形に変えます」


 黒瀬が端末を操作する。


「報酬の出どころは消さない。だが、福岡仁個人の懐へ入ったようには見せない」


「そうです」


 エレーナはジンを見た。


「あなたが直接送ったことにも、しません」


 ジンの目が少し動いた。


「なぜ」


「あなたの名前を守るためです」


 エレーナの声は静かだった。


「そして、受け取る側を守るためです。誰かが『福岡仁から金を受け取った施設』として見れば、それだけで線ができます」


 黒瀬が補足する。


「だから、国の手当てに見せる。制度上の支援に見せる。履歴は残すが、線は太くしない」


 ジンは低く言った。


「健二へ」


「正確には、健二さんのところへ届く形へ」


 エレーナが言う。


「あなたからの送金ではなく、国と支援機関からの手当てとして。子どもの名前が消えないように。職員が働き続けられるように。施設が閉じないように」


「俺の報酬だ」


「はい」


「使わない」


「使わないお金は、誰かに形を決められます」


 エレーナは端末に入力しながら言った。


「だから、あなたが決めてください。何に変えるか」


 ジンは少しだけ考えた。


 富士川で敵兵が番号で呼ばれていた。


 捕虜が名前を言えずに震えていた。


 健二の施設。


 子どもたち。


 そこに必要なもの。


「名前を書く紙」


 エレーナの指が、一瞬止まった。


 ジンは続けた。


「それと、飯。水。通信。眠れる場所」


「十分です」


 黒瀬が横で言った。


「全部送るな。お前の移動費は残す」


 ジンは答えた。


「水と弾と、帰る道があればいい」


 エレーナの目が、少しだけ変わった。


 この人は、帰る道という言葉を使う。


 でも、自分の帰る場所を言わない。


 そういう目だった。


 黒瀬は端末を閉じる。


「履歴は残る」


「構わない」


「だが、お前から送ったようには見えない」


「それでいい」


「礼は言われないぞ」


 ジンは窓の外を見た。


「いらない」


   *


 昼を過ぎる頃、最初の返答が来た。


 エレーナが紙を持って戻ってくる。


「装備の一部に、共通の中継があります」


 黒瀬が受け取る。


 紙には、業者名ではなく、倉庫名のようなものが書かれていた。


 山間の小さな集積所。


 表向きは農機具と通信部品の保管。


 実際には、いくつもの支援物資が一度そこを通っている。


 富士川で使われた小型ドローンの予備電池。


 撮影用カメラ。


 市販無線。


 そして、対ドローン弾の外箱と同じ記号。


 ジンはその紙を見た。


「調達屋か」


 エレーナは首を振る。


「そこに調達屋がいるとは限りません。通過点です」


「流したやつは」


「まだ奥です」


 黒瀬が言った。


「だが、最初の糸は掴んだ」


 エレーナはもう一枚の紙を出した。


「もう一つあります」


 黒瀬が目を細める。


「何だ」


「依頼人の老人への照会。そのうち一つが、その集積所と同じ通信環境を使っています」


 ジンの視線が鋭くなる。


「老人と装備が同じ通路か」


「同じ人間かどうかは分かりません」


「でも、同じ穴を使った」


「はい」


 部屋の中が静かになった。


 戦争は、富士川で撃たれた弾だけではなかった。


 閉鎖された公民館の地下にいた老人にも、誰かが手を伸ばしている。


 旧南第三で動き出す前夜から、真柴兄弟の古い経歴にも触れ始めている。


 ジンは立ち上がりかけた。


 黒瀬が言う。


「座れ」


 ジンは止まる。


「行く」


「どこへ」


「その集積所」


「行くが、今じゃない」


「なぜ」


「お前が立ったからだ」


 ジンの目が黒瀬を見る。


 黒瀬は言った。


「今のお前は、撃つ足だ」


 その言葉に、ジンは久世を思い出した。


 足を見る。


 敵の足だけではない。


 自分の足も見る。


 今、自分はどこへ向かおうとしたのか。


 老人を探る者を殺しに行こうとしたのか。


 それとも、止めに行こうとしたのか。


 ジンは座った。


 エレーナは、その様子を黙って見ていた。


「あなたは、名前を守りたいのですね」


 ジンは答えない。


 エレーナは続ける。


「なら、急がないでください。急ぐ人は、名前より先に敵を見ます」


 ジンは小さく息を吐いた。


「嫌な場所だ」


 黒瀬が言った。


「全部嫌だ」


 ラソアの言葉を、黒瀬が使った。


 ジンは少しだけ目を伏せた。


   *


 夕方、エレーナは赤い封筒を返した。


「これは預かれません」


 黒瀬が聞く。


「なぜ」


「これは通路を開けるものです。ここに置くものではありません」


 エレーナはジンに封筒を差し出した。


「あなたが持ってください」


 ジンは受け取らなかった。


「黒瀬のものだ」


「いいえ」


 エレーナは静かに言った。


「アレクセイは、あなたに使わせるつもりだったと思います」


 ジンは眉を動かした。


「なぜ」


「あなたは名前を失くしている顔をしているからです」


 黒瀬が口を挟まなかった。


 エレーナは続ける。


「名前を失くしている人は、名簿の重さを知っています。紙一枚が、人を助けることも、殺すこともあると知っている」


 ジンは封筒を見た。


 赤い封筒。


 古い紙。


 アレクセイ・イリイチ・サボリンの署名。


 番号から名前を戻すための借り。


 ジンは、ようやくそれを受け取った。


 軽かった。


 だが、軽いものほど危ない。


 久世の木製ナイフのように。


「次は」


 ジンが聞いた。


 黒瀬が地図を見る。


「山間の集積所だ。表向きは農機具と通信部品の倉庫。そこから京都方面と山口方面へ流れる」


「京都にも通路があるのか」


「ある」


 黒瀬は短く答えた。


 エレーナが、地図の西側に指を置いた。


「京都側には、人を戻すための窓口があります」


 ジンはその言い方に引っかかった。


「人を戻す?」


「通信、水、医療、子どもの支援、保護施設との調整、職員の手配。そういうものを、実際に形にする人がいます」


 黒瀬の顔が、わずかに硬くなった。


「まだ会わせない」


 ジンが黒瀬を見る。


「誰だ」


「後方支援の調整役だ」


「名前は」


 黒瀬は答えなかった。


 エレーナも、一瞬だけ黙った。


 その沈黙で、ジンは分かった。


 ただの支援担当ではない。


 黒瀬が隠すなら、理由がある。


 エレーナは静かに言った。


「その人は、名前を消さない仕事をしています」


「それだけか」


「今は、それだけです」


 黒瀬が低く言う。


「余計なことを言うな」


「必要なことです」


 ジンは、それ以上聞かなかった。


 けれど、胸の奥に小さな引っかかりが残った。


 名前を消さない仕事をしている人。


 黒瀬が会わせたがらない人。


 久世の言葉が、夜の富士川から戻ってくる。


 呼ばれたら止まる名前を、持って戦場に立つな。


 ジンは、その意味をまだ知らなかった。


 だが、黒瀬の沈黙だけで分かった。


 京都には、銃より面倒なものが待っている。


 エレーナは窓の外を見た。


「名前は、戦争より長く残ることがあります」


 黒瀬は答えなかった。


 ジンも答えなかった。


 赤い封筒を胸の内側に入れる。


 紙の重さが、銃よりも静かに身体へ沈んだ。


 岐阜の夕方は、富士川よりも穏やかだった。


 だが、穏やかな場所ほど、何かが流れている。


 弾。


 金。


 名簿。


 証拠。


 そして、名前。


 ジンは地図の上の小さな倉庫名を見た。


 そこへ行けば、誰かがいる。


 撃った者ではない。


 流した者へ続く誰かが。


 黒瀬が言った。


「夜に動く」


 ジンは聞いた。


「撃つのか」


「まだ撃たない」


「なら何をする」


「見る。聞く。名前を拾う」


 エレーナが机の上の名簿を閉じた。


「そして、消される前に写す」


 ジンはうなずいた。


 戦いは、また形を変えた。


 富士川では、火を待った。


 岐阜では、名前を待つ。


 赤い手帳の男が残した通路の先で、誰かがまだ、人を番号に変えている。


 ジンは、その番号の奥にある名前を見に行く。


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