第七十五話 赤い手帳
## 第七十五話 赤い手帳
夜明け前の富士川は、青かった。
煙も、泥も、壊れた車両も、捕虜を運ぶ車列も、すべてが薄い青の中に沈んでいた。戦闘のあとに来る朝は、いつも無関係な顔をしている。
ジンは車に乗る前に、一度だけ振り返った。
真壁三曹の袋はもう見えなかった。
だが、そこにあったことだけは、泥の上に残っている。
足跡。
押しつけられた膝の跡。
担架を置いた跡。
人が人を運んだ跡。
富士川には、名前の痕が残っていた。
黒瀬了が運転席のドアを開ける。
「乗れ」
ジンは助手席に乗った。
後部座席には、封筒、証拠品の複製記録、壊れた通信機の写真、捕虜の初期証言の写し、富士川で回収された装備リストが積まれていた。
本物は富士川に残した。
ラソアが後方部隊と役所と停戦監視団に付き合っている。
あいつは今ごろ、嫌そうな顔で書類に囲まれているはずだった。
黒瀬はエンジンをかけた。
車はゆっくりと富士川を離れた。
ジンは窓の外を見ていた。
久世一尉は見送りに来なかった。
来ない方がいい。
来れば、また名前の話になる。
楠本一曹も来なかった。
彼女には、残った隊員を立たせる仕事がある。
真壁が戻した二人を、次に動ける身体に戻す仕事がある。
富士川は後ろへ遠ざかる。
それでも、ジンの肩にはまだミニミの重さがあった。
借りた重さ。
返したはずの重さ。
返せなかった重さ。
しばらく、車内には音がなかった。
タイヤが乾いた道路を拾う音だけが続いた。
黒瀬が言った。
「眠れ」
ジンは目を閉じない。
「眠くない」
「嘘をつくな」
「眠れない」
「そっちは本当だな」
黒瀬はそれ以上言わなかった。
朝の道路には、車が少なかった。
停戦中だからではない。
停戦中でも、物は動く。
負傷者を運ぶ車。
通信機材を積んだ車。
水を運ぶ車。
子どもを避難させる車。
戦争は、撃っている時だけではない。
動いているものの量で分かる。
黒瀬は前を見たまま言った。
「富士川で見えたものは、まだ前面だけだ」
「本流は折った」
「本流の一部だ」
「まだ来るか」
「来る」
「どこへ」
「だから、岐阜へ行く」
ジンは黒瀬を見た。
「岐阜に敵がいるのか」
「敵というほど分かりやすくない」
「調達屋か」
「調達屋にたどり着くための通路だ」
黒瀬は、後部座席に置いた赤い封筒を顎で示した。
「アレクセイの手紙が使えるならな」
ジンは振り返らなかった。
封筒の存在だけを、背中で感じていた。
アレクセイ・イリイチ・サボリン。
元ソ連共産党系の人物。
名簿、物流、収容、支援制度、名前の管理に詳しい男。
赤い手帳を持つ男。
人を番号にする仕組みを知っている男。
その男が、番号から名前を戻すために手紙を残している。
嫌な皮肉だった。
「信用できるのか」
ジンが聞いた。
黒瀬は即答した。
「できない」
「それは昨日聞いた」
「今日も同じだ」
「なら、なぜ行く」
「信用できる人間より、借りを返す人間の方が動く時がある」
「借りか」
「国家より長持ちする場合がある」
ジンは窓の外に視線を戻した。
朝の山が、遠くで薄く見えた。
黒瀬は続けた。
「岐阜に米軍基地はない。今あるのは表の基地じゃない。だから、ここで使うのは軍の通路じゃない」
「人の通路か」
「そうだ」
「古い人脈」
「古い負債」
「古い名前」
「それもある」
黒瀬は少しだけ速度を落とした。
前方に検問があった。
黒瀬は書類を出す。
係員が確認し、何も言わずに通した。
ジンはその様子を見ていた。
銃より紙が強い場所がある。
戦場では嫌なほど知っている。
紙に名前があれば通る。
紙に名前がなければ止められる。
紙に番号しかなければ、人は扱われる。
紙に名前があれば、まだ戻れる。
富士川で死んだ真壁も、紙の上では階級と氏名になる。
だが、久世は名前で呼んだ。
楠本も名前で呼んだ。
それだけが、まだ違いだった。
*
岐阜に入る頃には、空は完全に明るくなっていた。
町は、戦場の顔をしていなかった。
店は半分閉まり、道には警戒の車両が通る。それでも、窓の内側には洗濯物があり、自転車があり、畑があり、学校の塀があった。
戦争は、そこに直接落ちてはいない。
だが、端はもう触れていた。
黒瀬は市街地を抜け、古い教会のような建物の前で車を止めた。
教会と言っても、十字架は目立たない。
外壁は古く、入口には日本語と英語とロシア語の小さな案内が貼られていた。
医療相談。
翻訳支援。
家族連絡。
避難者記録。
物資配布。
どれも、武器とは関係ない言葉だった。
だが、ジンはすぐに分かった。
ここも戦場だった。
人が名前をなくさないための戦場。
黒瀬は赤い封筒を持って車を降りた。
「銃は見せるな」
「持ってきてない」
「見えないところに持ってるだろ」
「それは銃じゃない」
「何だ」
「習慣だ」
黒瀬は嫌そうに息を吐いた。
「やめろ、その言い方」
二人は建物に入った。
中は静かだった。
古い木の床。
壁に貼られた地図。
簡易ベッド。
充電中の携帯電話。
椅子に座って眠る男。
泣いている子どもを抱いた女性。
小さな机の上には、紙の名簿が広げられていた。
紙。
ここにも紙がある。
ジンはその名簿を見た。
氏名。
年齢。
出身。
連絡先。
同行者。
負傷。
必要物資。
番号欄もある。
だが、番号は名前の代わりではなかった。
名前を失くさないために、一時的につける印だった。
奥から、一人の女性が出てきた。
髪は白に近い灰色。
背筋は伸びている。
年齢は六十を過ぎているように見えたが、目だけは若かった。
薄い青のシャツに、古い銀の十字架。
日本語で言った。
「黒瀬さん」
黒瀬は軽く頭を下げた。
「エレーナ・グレイ」
女性はジンを見た。
視線は長くなかった。
だが、何かを測った。
敵か味方かではない。
何を失っているかを測る目だった。
「そちらは」
「福岡仁」
黒瀬が答えた。
ジンは訂正しなかった。
エレーナは一拍置いて、うなずいた。
「本名ではない顔ですね」
黒瀬がわずかに眉を動かす。
「相変わらずだな」
「あなたも」
エレーナは黒瀬の手の赤い封筒を見た。
目が変わった。
「それは」
「アレクセイからだ」
エレーナはすぐには受け取らなかった。
封筒を見て、指を少しだけ引いた。
古いものに触れる前の動きだった。
「まだ生きているのね」
「死に損ねている」
「昔からです」
彼女は、ようやく封筒を受け取った。
封を見た。
署名を見た。
キリル文字の曲がり方を、指でなぞる。
「赤い手帳の男」
ジンはその言葉を聞いた。
エレーナは封を切らずに言った。
「彼は、人の名前を覚えていませんでした」
黒瀬が黙る。
「でも、名簿は忘れない人でした」
エレーナは封筒を胸の前で持つ。
「人を名前ではなく、行、欄、移送先、食料配分、所属、危険度で見ていた」
ジンは聞いていた。
敵の番号を思い出す。
二号、右。
三、前。
戻るな。
エレーナは続ける。
「それでも、最後の方で少し変わりました。自分が作った表の中で、誰が消えたかを数えるようになった」
「消えた人間を戻せるか」
ジンが聞いた。
エレーナは初めて、まっすぐジンを見た。
「戻せません」
答えは早かった。
「消えた人は戻らない。でも、消されたことを消させないことはできます」
その言葉に、ジンは黙った。
真壁は戻らない。
だが、真壁が戻らなかったことを、ただの熱源にしないことはできる。
敵兵は番号で呼ばれた。
だが、その番号の後ろに名前があったことを、記録することはできる。
エレーナは封筒を開けた。
中には一枚の手紙と、小さな紙片が入っていた。
紙片には、手書きの名前が並んでいる。
英語。
ロシア語。
日本語の姓。
古い住所。
電話番号らしきもの。
その横に、小さな印。
赤い鉛筆の印だった。
エレーナは手紙を読み、目を伏せた。
「彼らしい」
黒瀬が聞く。
「何と」
「命令ではありません。お願いでもありません」
「では」
「返済表です」
黒瀬は小さく笑った。
「やはりな」
エレーナは手紙を机に置いた。
「ここにある名前の何人かは、もう亡くなっています。でも、子どもや孫は残っています。通訳、整備士、医療関係者、航空機材の業者、教会、退役者家族。今は、それぞれ違う仕事をしています」
「動くか」
「動きます」
「理由は」
「借りがあるからではありません」
エレーナは封筒を軽く叩いた。
「彼らは、自分たちの親や祖父母が、名前のない場所で助けられたことを知っています。だから、名前のない人を見ると放っておけない」
黒瀬は少しだけ表情を変えた。
「助かる」
「助けるとは言っていません」
エレーナの声は静かだった。
「通路を開けるだけです。通るかどうかは、あなたたちです」
*
奥の部屋に案内された。
そこは小さな事務室だった。
壁一面に地図が貼られている。
岐阜周辺。
東海道側。
北陸側。
京都へ抜ける道。
山口方面への通行制限。
医療搬送ルート。
物資中継所。
通信が生きている場所。
通信が途切れる場所。
紙の地図の上に、色の違うピンが刺されていた。
赤は危険。
青は医療。
黄色は通れる可能性。
白は名簿。
ジンはその白いピンを見た。
「名簿?」
エレーナが答える。
「人の流れです。避難者、捕虜、支援対象、身元不明者、保護児童。どこで名前が消えやすいか」
「名前が消えやすい場所」
「移送の途中。役所の境目。軍と民間の境目。外国語の書類に変わる時。死者と行方不明者を分ける時。子どもが一人で移された時」
ジンは目を細めた。
富士川で捕虜に名前を言わせた理由が、ここへつながっている。
名前は、ただ聞けば残るものではない。
通す場所ごとに消えそうになる。
そのたびに、誰かが持ち上げなければならない。
エレーナは机の上に、富士川からの装備リストを広げた。
黒瀬が持ってきたものだ。
AK。
見慣れない弾倉。
小型ドローン。
撮影機材。
市販無線。
予備電池。
安価なベルト。
ばらばらな装備。
エレーナはそれを一つずつ見た。
「これは軍の統一装備ではありません」
黒瀬が言う。
「分かっている」
「でも、完全な寄せ集めでもありません」
「どう見る」
「流した人間がいます」
ジンが聞く。
「調達屋か」
「調達屋という言葉は便利ですが、ひとりとは限りません」
エレーナはリストの上に指を置いた。
「部品を買う人。運ぶ人。名義を貸す人。支援物資に混ぜる人。余剰品として流す人。壊れたものを直す人。偽の寄付に変える人。それぞれ違います」
「兵器商人じゃないのか」
「映画のような人は、あまり来ません」
エレーナは静かに言った。
「前線に来るのは、銃を売る人より、電池を売る人です。通信を売る人です。水を売る人です。洗濯を売る人です。温かいスープを売る人です」
ジンは黒瀬を見た。
車の中で聞いた話と同じだった。
戦場で一番高いものは銃ではない。
体温。
水。
通信。
名前。
エレーナは続ける。
「それが悪いとは限りません。前線の人は、それで生きます。でも、その通路に武器や偽情報や人の名簿を混ぜる人がいる」
黒瀬の声が低くなる。
「名簿?」
エレーナは別のファイルを開いた。
「最近、国境を越えた子ども八人と、職員一人について、照会が出ています」
ジンの視線が動いた。
「誰から」
「複数です。人道支援を名乗るもの。教育支援を名乗るもの。避難者登録を名乗るもの。身元確認を名乗るもの。正規の窓口もあります。でも、混じっています」
「何が」
「助けたいのではなく、探している者たちです」
部屋の空気が、少し冷えた。
ジンはファイルを見た。
子ども八人。
職員一人。
越境記録。
保護経路。
仮登録。
受け入れ先未定。
そこへ、もう誰かが触れようとしている。
黒瀬が言った。
「健二の線ではないな」
「違います」
エレーナは首を振った。
「そこまでは触られていません。触られていたら、ここには持ってきません」
ジンは黙った。
黒瀬の声が低くなる。
「では、どこだ」
「依頼人です」
エレーナは、もう一枚の紙を出した。
そこには、古い記録の写しがあった。
閉鎖された公民館。
地下。
町内会のお知らせが残った壁。
夏祭り。
子ども会の廃品回収。
防災訓練。
小学校の運動会。
そして、元教師の老人。
細い身体。
少し曲がった背中。
右手に持った古い革の鞄。
けれど目だけは、妙に若かった男。
黒瀬が紙を見た。
「あの時の依頼主か」
ジンは顔を上げた。
「老人を調べているのか」
「はい」
エレーナは答えた。
「その老人が、どこから子どもたちの存在を知ったのか。誰に何を頼んだのか。誰へつないだのか。そこを追っている者がいます」
「俺の名前は」
「福岡仁は、まだ検索対象に上がっていません」
エレーナはすぐに言った。
「ですが、真柴兄弟の経歴は洗われ始めています」
ジンの目が、かすかに止まった。
黒瀬は表情を変えなかった。
「いつからだ」
「旧南第三で活動が始まる前夜です」
エレーナは、記録の時刻を指で示した。
「直樹さんは、その時点ではまだ知りません。表では、真柴直樹と真柴健二。その周辺経歴、過去の所属、関係者、居住履歴、接触先。薄く、広く、洗われ始めています」
ジンは黙った。
福岡仁ではない。
ジンではない。
だが、真柴直樹と真柴健二。
捨てたはずの名前と、守ろうとしている弟の名前が、紙の上で掘り返されている。
黒瀬の目だけが冷たくなった。
「つまり、まだ福岡仁には届いていない。だが、古い名前に触り始めている」
「はい」
エレーナは装備リストと、依頼人への照会記録を並べた。
「富士川で使われた装備の流れと、この老人への調査依頼、そして真柴兄弟の経歴照会は、同じ時間帯に増えています」
ジンは低く言った。
「富士川と同時か」
「はい」
黒瀬は舌打ちしなかった。
その代わり、目だけがさらに冷えた。
「敵は、富士川で反応を見た。火力支援までの時間。観測班の目。ジンの動き。楠本班の耐え方」
エレーナが続ける。
「同時に、後方の入口も見ています。誰が依頼したのか。誰が子どもを越境させたのか。誰が受け入れたのか。どの窓口が開くのか。そして、真柴兄弟がどこでつながるのか」
ジンは拳を握らなかった。
握れば、動きたくなる。
動けば、敵の思う通りになる。
黒瀬がジンを見る。
「分かるな」
「ああ」
「ここからは、撃つ場所じゃない」
「分かってる」
「本当にか」
ジンは少しだけ沈黙した。
久世の声が思い出される。
真柴直樹を殺すな。
戻すなら、お前も戻れ。
ジンは息を吐いた。
「分かってる」
*
エレーナは古い電話を取った。
スマートフォンではない。
黒い受話器の、重い電話だった。
番号を押す指が、ゆっくりと動く。
最初の相手には英語で話した。
次はロシア語。
その次は日本語。
短く、余計な感情を入れず、必要なことだけを伝える。
富士川。
停戦違反。
装備のリスト。
越境した子ども八人と職員一人。
依頼人の老人。
真柴兄弟の経歴照会。
照会経路の遮断。
通行許可。
医療と通信。
名簿の保護。
ジンはその横で聞いていた。
銃声のない戦場だった。
誰も撃たない。
誰も叫ばない。
だが、ひとつ間違えれば、子どもの名前が消える。
ひとつ間違えれば、敵の装備の流れが切れずに次の場所へ届く。
ひとつ間違えれば、停戦違反の責任がすり替わる。
そして、ひとつ間違えれば、真柴という古い名前から、福岡仁へ線が伸びる。
エレーナは受話器を置いた。
「三つ開きます」
黒瀬が聞く。
「何が開く」
「通信。通行。それから、支援名目の組み替えです」
ジンが見た。
「組み替え?」
「今回は、アレクセイの時とは違います」
エレーナは淡々と言った。
「前回は、人を使って直接動かした。記録に残らないように、物と人を通した。けれど今回は、西側と日本政府側から出る報酬です。消せません。消すと、逆に怪しまれます」
黒瀬が端末を出す。
「履歴は残す」
「はい」
エレーナはうなずいた。
「ただし、見え方を変えます。個人への報酬ではなく、協力者保護、民間施設への臨時支援、保護児童の生活環境整備、移送補助、医療・通信・教育支援。そういう形に分けます」
ジンは黙って聞いていた。
「金のまま送っても、人は眠れません」
エレーナは続ける。
「発電機。燃料。水。温かい食事。医療搬送。心理ケア。洗濯。学用品。職員の人件費。施設の修繕費。通信回線。そういう形に変えます」
黒瀬が端末を操作する。
「報酬の出どころは消さない。だが、福岡仁個人の懐へ入ったようには見せない」
「そうです」
エレーナはジンを見た。
「あなたが直接送ったことにも、しません」
ジンの目が少し動いた。
「なぜ」
「あなたの名前を守るためです」
エレーナの声は静かだった。
「そして、受け取る側を守るためです。誰かが『福岡仁から金を受け取った施設』として見れば、それだけで線ができます」
黒瀬が補足する。
「だから、国の手当てに見せる。制度上の支援に見せる。履歴は残すが、線は太くしない」
ジンは低く言った。
「健二へ」
「正確には、健二さんのところへ届く形へ」
エレーナが言う。
「あなたからの送金ではなく、国と支援機関からの手当てとして。子どもの名前が消えないように。職員が働き続けられるように。施設が閉じないように」
「俺の報酬だ」
「はい」
「使わない」
「使わないお金は、誰かに形を決められます」
エレーナは端末に入力しながら言った。
「だから、あなたが決めてください。何に変えるか」
ジンは少しだけ考えた。
富士川で敵兵が番号で呼ばれていた。
捕虜が名前を言えずに震えていた。
健二の施設。
子どもたち。
そこに必要なもの。
「名前を書く紙」
エレーナの指が、一瞬止まった。
ジンは続けた。
「それと、飯。水。通信。眠れる場所」
「十分です」
黒瀬が横で言った。
「全部送るな。お前の移動費は残す」
ジンは答えた。
「水と弾と、帰る道があればいい」
エレーナの目が、少しだけ変わった。
この人は、帰る道という言葉を使う。
でも、自分の帰る場所を言わない。
そういう目だった。
黒瀬は端末を閉じる。
「履歴は残る」
「構わない」
「だが、お前から送ったようには見えない」
「それでいい」
「礼は言われないぞ」
ジンは窓の外を見た。
「いらない」
*
昼を過ぎる頃、最初の返答が来た。
エレーナが紙を持って戻ってくる。
「装備の一部に、共通の中継があります」
黒瀬が受け取る。
紙には、業者名ではなく、倉庫名のようなものが書かれていた。
山間の小さな集積所。
表向きは農機具と通信部品の保管。
実際には、いくつもの支援物資が一度そこを通っている。
富士川で使われた小型ドローンの予備電池。
撮影用カメラ。
市販無線。
そして、対ドローン弾の外箱と同じ記号。
ジンはその紙を見た。
「調達屋か」
エレーナは首を振る。
「そこに調達屋がいるとは限りません。通過点です」
「流したやつは」
「まだ奥です」
黒瀬が言った。
「だが、最初の糸は掴んだ」
エレーナはもう一枚の紙を出した。
「もう一つあります」
黒瀬が目を細める。
「何だ」
「依頼人の老人への照会。そのうち一つが、その集積所と同じ通信環境を使っています」
ジンの視線が鋭くなる。
「老人と装備が同じ通路か」
「同じ人間かどうかは分かりません」
「でも、同じ穴を使った」
「はい」
部屋の中が静かになった。
戦争は、富士川で撃たれた弾だけではなかった。
閉鎖された公民館の地下にいた老人にも、誰かが手を伸ばしている。
旧南第三で動き出す前夜から、真柴兄弟の古い経歴にも触れ始めている。
ジンは立ち上がりかけた。
黒瀬が言う。
「座れ」
ジンは止まる。
「行く」
「どこへ」
「その集積所」
「行くが、今じゃない」
「なぜ」
「お前が立ったからだ」
ジンの目が黒瀬を見る。
黒瀬は言った。
「今のお前は、撃つ足だ」
その言葉に、ジンは久世を思い出した。
足を見る。
敵の足だけではない。
自分の足も見る。
今、自分はどこへ向かおうとしたのか。
老人を探る者を殺しに行こうとしたのか。
それとも、止めに行こうとしたのか。
ジンは座った。
エレーナは、その様子を黙って見ていた。
「あなたは、名前を守りたいのですね」
ジンは答えない。
エレーナは続ける。
「なら、急がないでください。急ぐ人は、名前より先に敵を見ます」
ジンは小さく息を吐いた。
「嫌な場所だ」
黒瀬が言った。
「全部嫌だ」
ラソアの言葉を、黒瀬が使った。
ジンは少しだけ目を伏せた。
*
夕方、エレーナは赤い封筒を返した。
「これは預かれません」
黒瀬が聞く。
「なぜ」
「これは通路を開けるものです。ここに置くものではありません」
エレーナはジンに封筒を差し出した。
「あなたが持ってください」
ジンは受け取らなかった。
「黒瀬のものだ」
「いいえ」
エレーナは静かに言った。
「アレクセイは、あなたに使わせるつもりだったと思います」
ジンは眉を動かした。
「なぜ」
「あなたは名前を失くしている顔をしているからです」
黒瀬が口を挟まなかった。
エレーナは続ける。
「名前を失くしている人は、名簿の重さを知っています。紙一枚が、人を助けることも、殺すこともあると知っている」
ジンは封筒を見た。
赤い封筒。
古い紙。
アレクセイ・イリイチ・サボリンの署名。
番号から名前を戻すための借り。
ジンは、ようやくそれを受け取った。
軽かった。
だが、軽いものほど危ない。
久世の木製ナイフのように。
「次は」
ジンが聞いた。
黒瀬が地図を見る。
「山間の集積所だ。表向きは農機具と通信部品の倉庫。そこから京都方面と山口方面へ流れる」
「京都にも通路があるのか」
「ある」
黒瀬は短く答えた。
エレーナが、地図の西側に指を置いた。
「京都側には、人を戻すための窓口があります」
ジンはその言い方に引っかかった。
「人を戻す?」
「通信、水、医療、子どもの支援、保護施設との調整、職員の手配。そういうものを、実際に形にする人がいます」
黒瀬の顔が、わずかに硬くなった。
「まだ会わせない」
ジンが黒瀬を見る。
「誰だ」
「後方支援の調整役だ」
「名前は」
黒瀬は答えなかった。
エレーナも、一瞬だけ黙った。
その沈黙で、ジンは分かった。
ただの支援担当ではない。
黒瀬が隠すなら、理由がある。
エレーナは静かに言った。
「その人は、名前を消さない仕事をしています」
「それだけか」
「今は、それだけです」
黒瀬が低く言う。
「余計なことを言うな」
「必要なことです」
ジンは、それ以上聞かなかった。
けれど、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
名前を消さない仕事をしている人。
黒瀬が会わせたがらない人。
久世の言葉が、夜の富士川から戻ってくる。
呼ばれたら止まる名前を、持って戦場に立つな。
ジンは、その意味をまだ知らなかった。
だが、黒瀬の沈黙だけで分かった。
京都には、銃より面倒なものが待っている。
エレーナは窓の外を見た。
「名前は、戦争より長く残ることがあります」
黒瀬は答えなかった。
ジンも答えなかった。
赤い封筒を胸の内側に入れる。
紙の重さが、銃よりも静かに身体へ沈んだ。
岐阜の夕方は、富士川よりも穏やかだった。
だが、穏やかな場所ほど、何かが流れている。
弾。
金。
名簿。
証拠。
そして、名前。
ジンは地図の上の小さな倉庫名を見た。
そこへ行けば、誰かがいる。
撃った者ではない。
流した者へ続く誰かが。
黒瀬が言った。
「夜に動く」
ジンは聞いた。
「撃つのか」
「まだ撃たない」
「なら何をする」
「見る。聞く。名前を拾う」
エレーナが机の上の名簿を閉じた。
「そして、消される前に写す」
ジンはうなずいた。
戦いは、また形を変えた。
富士川では、火を待った。
岐阜では、名前を待つ。
赤い手帳の男が残した通路の先で、誰かがまだ、人を番号に変えている。
ジンは、その番号の奥にある名前を見に行く。




