第五十九話 宛名のない支援
##第五十九話 宛名のない支援
校門に、白い封筒が挟まっていた。
朝の見回りに出た悠斗が、それを見つけた。
封筒は新しかった。
雨にも濡れていない。
折り目もない。
昨日の夜からそこにあったものには見えなかった。
悠斗は封筒に触らなかった。
校門の内側に立ったまま、振り返る。
「健二さん」
健二は坂道を見た。
誰もいない。
札もない。
端末を向ける大人もいない。
ただ、校門に白い封筒がある。
「悠斗、下がってろ」
悠斗は一歩下がった。
でも、目は封筒から離さなかった。
健二は封筒を取った。
表には、黒い文字が印刷されていた。
旧南第三小学校 管理責任者様。
児童権利第三者確認について。
差出人は、境界児童支援連絡会。
健二は封筒を裏返した。
封はされている。
住所はない。
電話番号もない。
担当者名もない。
団体名だけが、きれいに印刷されていた。
蓮が校門まで出てきた。
「何だよ、それ」
「支援の手紙らしい」
「またかよ」
「まだ読んでない」
健二は短く言った。
「中で開ける。悠斗、外を見るな。人を見る」
悠斗は、校門の外から子どもたちの方へ視線を戻した。
「蓮、窓に行くな」
「分かってるよ」
「分かってない顔だ」
「うるせえ」
蓮はそう言ったが、窓には行かなかった。
*
職員室だった部屋で、封筒を開けた。
瑠衣が隣に座る。
陸が紙の枚数を数える。
「三枚」
健二は一枚目を広げた。
児童権利第三者確認申入書。
数日前および昨日発生した旧南第三小学校周辺事案を受け、児童の意思確認および生活名使用の自由について、第三者による面談を求める。
面談対象。
第七〇五。
第七〇八。
生活名確認未了児童。
その文字を見た瞬間、千紘の手が止まった。
水差しを持っていた。
いつものように、誰かに水を配ろうとしていた。
でも、指が動かなくなった。
第七〇五。
補助。
紙の上から、昔の呼び名が戻ってきた。
颯太も、自分の名前札を触った。
小野寺颯太。
名札の文字を、指で確かめる。
健二は紙から目を離さなかった。
顔を上げれば、千紘も颯太もこちらを見る。
だから、先に言った。
「千紘」
千紘の肩が少し動いた。
「水は置いていい。配らなくていい」
千紘は、水差しを机に置いた。
音が小さく鳴った。
「颯太」
颯太は返事をしなかった。
健二は続けた。
「名札は、そのままでいい」
颯太の指が、名札の上で止まった。
「今は、触ってていい」
颯太は小さくうなずいた。
蓮が紙をのぞき込んだ。
「何だよ、七〇五って」
千紘は何も言わなかった。
健二は、紙を蓮の方へ向けなかった。
「昔の呼び方だ」
「まだ使ってんのかよ」
「使わせない」
健二は、二枚目を見た。
同意書だった。
生活名による面談および記録使用同意。
本人は生活名の使用を希望しています。
本人は第三者面談を希望しています。
本人は旧南第三小学校による情報非公開に不安を抱いています。
署名欄は空白だった。
日付だけが入っている。
昨日の日付。
午後二時十分。
EU共同監視枠が来るより前だった。
健二は、しばらくその時刻を見た。
瑠衣の鉛筆が止まった。
陸が言った。
「十五時二十分より前」
健二はうなずいた。
「そうだな」
「まだ、白い車、来てない」
「来てない」
陸は、紙の端を押さえた。
「じゃあ、先に作ってる」
健二は何も言わなかった。
言えることと、まだ言えないことは違う。
でも、紙はもう喋っていた。
*
午前十時前、坂道の下に車が来た。
白い装甲車ではない。
普通のワゴン車だった。
側面に、青い文字が貼ってある。
境界児童支援連絡会。
三人が降りた。
昨日の女ではない。
だが、持っている札の言葉は似ていた。
子どもの声を聞く。
生活名の自由を守る。
第三者確認。
一人は四十代くらいの女だった。
紺色のジャケット。
首から身分証のようなカードを下げている。
もう一人は若い男で、記録端末を持っていた。
最後の一人は、紙箱を抱えている。
箱には、支援物資、と書かれていた。
健二は校門の内側に立った。
瀬田が少し後ろに立つ。
瑠衣は、校門の横に小さな板を置いた。
記録用の紙がある。
相原へ無線を入れたあとだった。
健二は、女に頭を下げた。
「真柴健二です」
女も頭を下げた。
「境界児童支援連絡会の松浦です。昨日の件を受けて、子どもたちの意思確認に来ました」
「書類を見せてください」
健二は言った。
女は少しだけ笑った。
「先に、お子さんたちの安心を確認したいのですが」
「書類が先です」
「子どもの声を聞くのが、私たちの役目です」
「誰の声を聞くんですか」
女は手元の紙を見た。
「生活名確認未了のお子さんです」
「名前は」
「本人が望む名前で」
「本人に聞きましたか」
女の笑顔が、少し薄くなった。
「それを確認しに来ました」
「では、まだ聞いていませんね」
女は黙った。
健二は手を出した。
「書類を見せてください」
女は、しぶしぶファイルを渡した。
健二はその場で開いた。
署名欄。
空白。
委任欄。
空白。
通訳確認。
空白。
拒否時記録。
なし。
健二はファイルを閉じなかった。
「本人署名がありません」
「緊急性があります」
「通訳確認もありません」
「日本語は通じます」
「拒否した時の記録もありません」
「拒否を前提にするのは、子どもを疑うことになります」
健二は、女を見た。
「違います」
声は大きくなかった。
「拒否できる道を残すためです」
瑠衣が紙に書いた。
拒否時記録なし。
松浦は、瑠衣の手元を見た。
「また記録ですか」
「はい」
健二は答えた。
「記録します」
「子どもを紙で縛るつもりですか」
「紙で縛らないために、紙を残しています」
松浦の眉が動いた。
若い男が端末を少し上げた。
瀬田が一歩前に出る。
「録音、録画は停止してください」
男は笑った。
「透明性のためです」
健二は男を見た。
「透明にするのは、大人の行為だけです」
「子どもの声を隠すんですか」
「渡さないんです」
松浦が顔を上げた。
「渡さない?」
健二は言った。
「子どもの声は、あなたたちの荷物じゃない」
坂道に風が通った。
松浦は、少しだけ口を閉じた。
*
紙箱を抱えた男が、前へ出た。
「支援物資もあります」
箱を校門の前に置こうとする。
健二は手で止めた。
「置かないでください」
「なぜですか。子どもたちのためです」
「宛名を見せてください」
男は箱を持ち直した。
箱の側面に紙が貼ってあった。
支援物資。
生活名確認未了児童用。
第七〇五。
第七〇八。
補助児童一名。
健二は、その文字を見た。
後ろで、千紘が息を止めた。
音は小さかった。
でも、健二には聞こえた。
健二は、箱から目を離さないまま言った。
「千紘」
返事はない。
「後ろに下がらなくていい」
千紘は動かなかった。
「でも、受け取らなくていい」
千紘の指が、水差しから離れた。
健二は箱を指した。
「これは受け取れません」
松浦の声が硬くなった。
「支援を拒否するんですか」
「宛名が違います」
「管理上の分類です」
「ここでは使いません」
「あなたたちが勝手に決めることではありません」
健二は、松浦を見た。
「荷物でも、宛名を間違えたら届きません」
「これは荷物ではありません。支援です」
「なら、もっと正確にしてください」
松浦は一歩前に出た。
「支援物資を拒否した事実は記録します」
「してください」
健二は、瑠衣に目を向けた。
「こっちも記録」
瑠衣が書く。
受取保留。
理由、宛名不一致。
児童分類名使用。
本人確認未了。
松浦の顔が変わった。
「そういう書き方をするんですね」
「起きた通りに書きます」
「子どもたちが困ってもいいんですか」
蓮が前に出そうになった。
悠斗が、その腕を掴んだ。
健二は言った。
「困っている子に物を渡すなら、名前を間違えないでください」
「あなたは支援を妨害している」
「違います」
健二は箱を見た。
「宛名のない支援は、ここには入れません」
*
松浦は、今度は別の紙を出した。
「では、数日前に届いた木箱の確認をさせてください」
蓮の顔が変わった。
校舎の中で、颯太が名前札を触った。
木箱は棚の中にある。
校門の外からは見えない。
健二は、紙から目を上げた。
「どの木箱ですか」
「外部から届いた菓子類です」
健二は、すぐには返事をしなかった。
公開記録には、木箱としか書いていない。
未開封。
約束、継続。
保管場所変更。
理由、撮影・録音および外部利用防止。
差出人の名前も、中身も、保管場所も出していない。
「なぜ、菓子類だと知っているんですか」
松浦は一瞬だけ止まった。
「支援物資に関する情報として把握しています」
「どこからですか」
「子どもの権利確認に必要な情報です」
「どこからですか」
健二は、同じ言葉で聞いた。
声は荒げなかった。
松浦は答えなかった。
若い男が持っていた端末を、少し下げた。
健二は瑠衣を見た。
「記録」
瑠衣が書く。
木箱内容把握経路、未提示。
公開記録外情報の使用。
保管場所確認要求。
児童合意なし。
健二は、松浦に向き直った。
「その箱は、子どもたちとの約束です」
「だからこそ、第三者確認が必要です」
「子どもに聞きましたか」
「そのために来ています」
「聞いていないなら、先に使わないでください」
松浦は唇を結んだ。
健二は続けた。
「木箱の中身も、子どもの約束も、あなたたちの資料じゃありません」
*
坂道の下から、一台の車が上がってきた。
第三区受入班の車だった。
相原一尉が降りる。
隊員が一人。
少し遅れて、EU共同監視枠の連絡員も来た。
水色のヘルメットではない。
腕章だけだった。
相原は、校門の外に立ったまま言った。
「現場確認を引き継ぎます」
松浦は表情を整えた。
「私たちは第三者として」
「第三者確認の根拠書類を提示してください」
相原は遮らなかった。
ただ、同じ調子で言った。
「団体登録」
「活動許可」
「対象児童本人の同意」
「保護者または代理権限の確認」
「通訳確認」
「拒否時記録」
「撮影録音の同意」
松浦はファイルを握った。
「緊急性があります」
「緊急性の主張、記録」
相原の隊員が書いた。
「根拠書類は」
「子どもの声を聞くために来ています」
「根拠書類は」
松浦は答えなかった。
相原は、健二の方を見た。
「旧南第三側の対応は」
健二は答えた。
「入れません」
「理由は」
「宛名不一致。本人確認未了。児童分類名使用。録音録画同意なし。木箱情報の取得経路未提示」
相原はうなずいた。
「記録します」
松浦が強く言った。
「支援拒否です」
健二は松浦を見た。
「いいえ」
少し間を置く。
「受取保留です」
「言葉遊びです」
「違います」
健二は、紙箱を指した。
「正しい宛名で、本人に聞いて、拒否した時の記録も用意してください」
松浦は黙った。
「それなら確認します」
相原が続けた。
「現時点では、児童区域への入場は認めません」
EU連絡員が、英語で短く言った。
翻訳官はいなかった。
だが、相原は日本語でまとめた。
「児童区域保護のため、入場不可。録音録画停止。支援物資は受取保留。後日、根拠書類確認」
若い男が端末を上げようとした。
相原の隊員が一歩前に出る。
「撮影録音は停止してください」
男は動きを止めた。
松浦は、紙箱を抱え直した。
「この対応も、報告します」
健二は言った。
「してください」
それから、付け加えた。
「ただ、子どもの名前は使わないでください」
松浦は答えなかった。
*
車が坂道を下りていった。
紙箱も一緒に戻った。
支援物資は、校門を越えなかった。
蓮が言った。
「勝ったのか」
「違う」
健二はすぐに答えた。
「受け取らなかっただけだ」
「でも、追い返しただろ」
「入れなかった」
「同じじゃねえの」
「違う」
健二は、校門を閉めた。
「正しい宛名なら、確認する」
「また来たら?」
「また確認する」
「面倒くせえ」
「面倒くさい」
健二は言った。
「でも、宛名を見ないで受け取る方が危ない」
千紘は、少し離れたところに立っていた。
水差しは、もう持っていない。
健二は振り返った。
「千紘」
千紘の肩が動いた。
「はい」
声は小さかった。
でも、返事だった。
「さっきの箱は、千紘宛てじゃない」
千紘は、唇を結んだ。
「でも、七〇五って」
「違う」
健二は言った。
「ここでは、佐伯千紘だ」
千紘は何も言わなかった。
目を伏せたまま、指先だけを握った。
「補助でもない」
健二は続けた。
「水を配らなくても、ここにいていい」
千紘の息が、少し乱れた。
泣いたわけではない。
でも、息が一度だけつかえた。
悠太が、千紘の横にそっと布を置いた。
千紘がいつも自分にしてくれるように。
千紘は、その布を見た。
それから、小さく言った。
「ありがとう」
声は柔らかかった。
*
職員室だった部屋で、瑠衣が記録を書いた。
境界児童支援連絡会を名乗る三名来訪。
第三者確認申入。
団体登録確認、未了。
活動許可、未確認。
本人署名、なし。
通訳確認、なし。
拒否時記録、なし。
撮影録音同意、なし。
対象表記に児童分類名使用。
第七〇五。
第七〇八。
補助児童。
受取保留。
理由、宛名不一致。
木箱内容把握経路、未提示。
公開記録外情報の使用。
児童区域入場不可。
報復不可。
勝利扱い不可。
蓮が最後の行を見た。
「また勝利扱い不可かよ」
「またです」
瑠衣は答えた。
「かっこ悪いな」
「必要です」
健二は、別の紙を出した。
木箱、未開封。
約束、継続。
保管場所、変更なし。
理由、撮影・録音および外部利用防止。
その下に、一行足した。
宛名不一致の支援物資、受取保留。
陸が読んだ。
「受取拒否じゃない」
「保留だ」
健二は言った。
「正しい宛名で来たら、また見る」
「正しい宛名って」
「名前だ」
陸はうなずいた。
「番号じゃない」
「そうだ」
颯太が、自分の名前札に触れた。
「……小野寺颯太」
健二は振り向いた。
颯太は、棚を見ていた。
「うん」
健二は答えた。
「小野寺颯太」
颯太はもう一度、名札を触った。
*
夕方、相原から短い連絡が入った。
『来訪団体について、受入班側で確認を継続します』
健二は受話器を持った。
「お願いします」
『同一文言の資料との関連は、まだ断定しません』
「分かっています」
『ただし、児童分類名を用いた支援物資の持ち込みは、記録対象です』
「こちらも記録しました」
『木箱の情報取得経路についても確認します』
「お願いします」
少しだけ間が空いた。
『真柴さん』
「はい」
『今日は、よく止めました』
健二は窓の外を見た。
坂道には誰もいない。
南岸復旧組合のトラックもない。
白い車両もない。
ただ、道がある。
「止めただけです」
『それで十分です』
無線は切れた。
健二は受話器を戻した。
蓮が横から言った。
「褒められてんじゃねえか」
「褒められてない」
「今のは褒めてた」
「確認だ」
「素直じゃねえな」
健二は少しだけ息を吐いた。
「兄ちゃんに言われそうなこと言うな」
蓮は鼻で笑った。
「直樹さんにも言われんのかよ」
「よく言われる」
「じゃあ、たぶん合ってるんだろ」
「うるさい」
健二は、すぐに表情を戻した。
「戸締まり確認。悠斗、人数」
悠斗がうなずいた。
「八人」
「陸、棚」
「木箱、ある」
「千紘」
千紘が顔を上げた。
「水は、必要な時でいい」
千紘は少し迷ってから、うなずいた。
「はい」
*
夜、境界ラジオの一部が今日のことを話していた。
『本日、旧南第三小学校に第三者確認を名乗る団体が来訪しましたが、本人署名、通訳確認、拒否時記録、撮影録音同意が確認できず、児童区域への入場は認められませんでした』
別の声が続く。
『支援物資には児童分類名が用いられていたとのことです』
蓮は床に座って聞いていた。
朝のようには怒らなかった。
『旧南第三側は、支援物資を拒否ではなく受取保留とし、正しい宛名および本人確認があれば再確認するとしています』
陸が小さく言った。
「正しい」
瑠衣が聞いた。
「何がですか」
「拒否じゃない。保留」
陸は続けた。
「戻せる」
健二はうなずいた。
「戻せるようにする」
ラジオは次の話題に移った。
明日の橋の通行。
水の配給。
古い病院の巡回日。
派手な勝利の声はなかった。
でも、旧南第三の中では、それでよかった。
*
木箱は棚の中にあった。
鍵はかけていない。
だが、見せ物にはしない。
颯太が棚の前に立った。
「……ある?」
「ある」
「……まだ?」
「まだ」
健二は答えた。
颯太は少し考えた。
「……宛名?」
健二は、一度だけ棚を見た。
木箱の紙には、受領者の名前がある。
差出人の名前がある。
誰に届いたものか、残っている。
「ある」
健二は言った。
「だから、まだ置いておける」
颯太はうなずいた。
千紘は、その横に立っていた。
今日は水差しを持っていない。
毛布も直していない。
ただ、そこに立っている。
健二は声をかけなかった。
声をかけなくても、そこにいていい時がある。
千紘は棚の横の紙を読んだ。
宛名不一致の支援物資、受取保留。
対象表記に児童分類名使用。
第七〇五。
第七〇八。
補助児童。
その下に、瑠衣が赤鉛筆で線を引いていた。
旧呼称。
使用不可。
千紘は、指でその線をなぞらなかった。
ただ見た。
それから、胸の中で小さく言った。
佐伯千紘。
声にはしなかった。
でも、消えなかった。
その日、旧南第三小学校では、まだ甘いものを食べなかった。
でも、宛名のない支援は中へ入らなかった。
名前は、番号に戻されなかった。
道も、声も、まだ残っていた。




